死生学と霊魂学


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前回は、難波絋二氏の『覚悟としての死生学』を取り上げ、そこにおける、

従来の死というものに対する常識や通説を覆すような鋭い論述をいくつか

紹介しましたが、今回は彼の死生学に対する考え方について触れるととも

に、死生学の限界を越える霊魂学について述べてみたいと思います。

 

まず、難波氏は、<近年における情報・バイオ革命の進展により価値判断

の多様化が生じ、これまでの宗教や哲学にもとづく倫理道徳に崩壊が生じ

てきている。そして、価値の多様化は、個人の死生観についても生じて

いて、これまでの不動と思われていた人間の誕生や死の基準までもが揺ら

いできている。そうなると、自分のなりの死生観をはっきり持っていない

人々は、ただ自分や他人の生物学的生を長引かすことに最大の価値を見い

だし、かえって充実した生を楽しむことから遠ざかってしまっているの

ではないか>というふうに、いわゆる生命至上主義に対する疑問を投げ

かけています。

 

また、<宇宙の誕生そして生命体の発生と進化の過程を述べたあと、宇宙

の時間の長さに比べれば、生まれる前の時間と死後の時間の方がはるかに

長いのであり、生は一瞬にすぎない>とし、さらに、DNAを根拠に「人類

」の新しい概念について、次のように述べています。

 

<最近になって遺伝子が詳しく調べられるようになると、人と他の大型霊長

類との間では、遺伝子の違いがほとんどないことが明らかになった。人と

チンパンジーのDNAの違いは1.6%で、ヒトとゴリラとの違いは2.3

%、ヒトとオランウータンの違いは3.6%であるが、DNAの違いが3%

以内である場合には、他の生物の場合には別科として扱わないのであり、

同じ基準にしたがうと、チンパンジーもゴリラもヒト科に属し、ただ種が

違うだけということになる。>

 

<このことは、キリスト教などの一神教が説くような、人間が自然界に占め

る特別な位置などなくて、少なくとも分類学上は、他の霊長類と並んで連続

的な位置を占めている。だから、未来の世界は大型霊長類を今とは違った目

でとらえるようになるだろう。こうして人間は自然の一員として位置づけら

れるようになり、その特権を放棄するようになるだろう。このような考え方

は、西洋のキリスト教的なそれよりも、古くからある東洋的な考え方に近い、

ということに注目しよう。>

 

そして、以上のようなことを踏まえて、難波氏は、<人生はその長さでは

なく、それが本人にとっていかに充実しているかが問題となるだろう。短命

で亡くなった人が必ずしも不幸だとは言えなし、長命がすべて幸福とも

言えない。単なる寿命の長短の比較ではなくて、もともと一瞬にすぎない

生を、どのように充実して生きるかということに重きを置くべきではない

だろうか。今夜の眠りが明朝目覚めるという保証は、蓋然性としてしか

存在しないのだから、一時的眠りと永遠の眠りとの差をあまり考えても

意味がない。それよりも、今日を力いっぱい充実して生きることが重要

なのだ>と彼の死生観を表明しています。

 

さて、難波氏の死生観は、それはそれで理解はできるとしても、彼が

付随して述べている霊魂や死後の世界の説明については、かなり疑問

が残ります。

 

彼は、<生きた人間にあるのは意識だけであり、霊魂は存在しない>と

して、<「霊魂の不滅」という説が生まれてきたのは、人間の意識のうち

で非常によく発達している「自分」という意識、別の言葉でいえば自我と

か自己意識にとっては、それが永遠に消滅するという認識は、非常に受け

入れがたいし、恐怖ですらあるから、霊魂が不死であってほしいという

願望を生み、さらに、それが宗教として発展したのだ>と述べています。

 

また、<現実の世の中は結果において不平等で、悪人が栄え善人が苦しむ

こともあり、一生医者知らずの健康に恵まれる人もいれば、終生を病苦に

悩む人もいる。生が一回きりしかないことはあまりにも不公平であり、

この世で苦しんだ代わりにあの世があって、敗者復活戦ができるとよいと

誰でも思う。この願望が生んだ妄想が「死後の世界」や「死後の審判」で

ある>と断言しているのです。

 

これは、前回、紹介したような難波氏の、生の側から見た死というものに

ついての鋭い指摘に比べて、とおりいっぺんの論述という印象を免れません

し、物足りないというか、肩透かしをくったような感じがします。

 

以上が、『覚悟としての死生学』の紹介ですが、これは多岐にわたる「死生

学」という学問的な試みの一つにすぎません。そのほかにも、様々な試みが

なされていて、なかには、死の壁を越えて生と死を包括にとらえようとし、

輪廻転生論のような伝統的な死生観を再検討しようとするものもあります。

しかし、生と死を遮断する壁は依然として崩されていないように思います。

 

さて、このように、現在の死生学は、期待を担って前進を続けながらも、

全体として死のこちら側のみに目を向ける形に止まっているようで、生を

全うすることによって人生を終え、納得した上で死を受容するということ

で完結しているように見えますが、そもそも、死とは、死の特異性とは何

なのでしょうか?また、死というものの向こう側を、また、生と死を俯瞰

的に見ることはできないのでしょうか?

 

評論家の芹沢俊介氏は、 「死に関して重要な事実がある。それは私が

実際に自分の死を経験することができないということだ。」「この経験

不能な主観的領域であるということが、自分の死について不安や恐怖、

嫌悪といった様々な感情を呼び込んだり、死後への想像力をかきたて

てくる理由と考えられる」と述べています。

 

また、思想家の吉本隆明氏は、『共同幻想論』のなかで、「人間にとって

<死>が特異さをもっているとすれば、生理的にはつねに個体の<死>と

してしかあらわれないのに、心的にはつねに関係についての幻想の死と

してしかあらわれない点にもとめられる。もちろんじぶんの<死>に

ついての怖れや不安といえども、じぶんのじぶんにたいする関係の幻想と

してあらわれるのだ。」

 

「人間は自己の<死>についても他者の<死>についてもとうてい、じぶん

のことのように切実に心的には構成することができないのだ。そして、おそ

らくこの不可能性の根源的な原因をたずねれば、<死に>おいて人間の自己

幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から<浸食>されるからだ

という点に求められる。」「人間の自己幻想(または対幻想)が極限の

かたちで共同幻想に<浸食>された状態を<死>と呼ぶ」としています。

 

つまり、死というものが自分で実際に経験することができないものであり、

死というものにまつわるあらゆる観念が共同幻想でしかないのだという

ことになり、「死」というものの真実、全体像を見極めることが現在の

地上の学問ではできないということになります。

 

さて、死という厚い壁を前に、どうしたらいいのかと途方に暮れてしまい

ますが、唯一の方法があるとすれば、この世の人間ではない存在、つまり、

死を経験した霊的存在、それも死後の世界とこの世を俯瞰的に見渡すこと

ができる高貴な存在に聞くこと以外にはないように思われます。

 

そこで、それが可能だとする学問、すなわち、人間の幻想ではない、頭脳

の産物ではない、実在の高貴な霊的存在よりもたらされたという「霊魂学」

という学問について紹介しておきたいと思います。

 

水波一郎氏は、今は絶版になった旧著『霊魂学を知るために』において、

霊魂学とは、まず、<それは、巨大な意識体による霊魂通信の体系である>

と述べられています。つまり、高貴な存在からの情報であり、人間の脳を

経由はするが、脳自体が考え出したものではないということです。

 

ただし、霊魂学は科学でないとされます。なぜなら、霊魂学は、霊魂から

の通信と、地上の霊媒の霊的知覚により成り立っていて、科学的に証明が

困難な、霊的存在との交流を前提とした理論であるため、宗教の範疇に

入るのだそうです。

 

いかなる学問も自説を強調し、それを相手に強要するとき、それは宗教的

独断といえる。科学においても、新しい説が出るたびに塗り変えられてゆく

が、それが進歩というものである。にもかかわらず、霊魂を頭から否定する

のはおかしい。<科学的にどちらも証明できないという立場が科学者として

正しい>としています。

 

なお、「霊魂学」の「霊魂」と何かというと、「霊魂」の定義は非常に複雑

で難しいため詳しい説明は割愛しますが、それは、本来、世間でいう死後の

世界の人間のことではない、死後の世界の人間は霊魂と呼ばす、「幽界の

人間」と呼ぶべきであるとされます。(ただし、霊魂という言葉を通俗的

な意味で使用される場合もあります。)

 

また、<霊魂学は人間と霊魂と神を結ぶ学である>とも述べられています。

つまり、人間の正体が霊魂であり、霊魂の究極の創始者が神である以上、

霊魂学はすべてを対象にするということです。

 

一方、<神学とは、誰もとらえられないものを学問とするゆえ、空想の学

である>とされます。<神など簡単に知りうるはずがないために、未熟な

幽体(死後使用する霊的な身体)をもった学者たちは、難しい理論をこね

回し、神を哲学の世界へ追いやってしまう>のだそうです。

 

また、<世の中には、高貴な世界を神界、天界、仏界、超越界などという

用語を用いる人がいるが、どの名称も、その世界を一度も見たことも聞いた

こともない人たちが好き勝手につけた名称であり、他の説と一致するわけ

もない。一部の霊学書を勝手に経典に祭り上げ、科学を名乗っている>に

すぎないとしています。よって、<神霊界通信など笑い話にもならない。

ましてや、神界通信など絶対にない。なぜなら、神霊もしくは神からの

メッセージは、抽象的な形でのみ可能であり、具体的な言葉にはならないし、

地上の言葉に神霊の想念はあてはまらず表現しようがない>からだそうです。

 

しかし、地上時代、神は人を創られたという教義を信じ、あるいは、様々な

神や教えを信じて死んでいった人々は、死後、自分の信仰が間違いであった

ことに気づくようです。なぜなら、死後の世界は、宗教教義の言うように

なっていなかったからです。それでも、指導霊が真実を示すとき、目覚める

人が出てくるようです。指導霊は、「あなたは神の前に霊魂を知るべきで

ある。しかし、そのうち、再び、神を求めるようにならねばならない」と

告げるのだそうです。人は神より、段階として、まず、高級な霊魂の言葉を

聞かねばならないということです。

 

また、水波氏の著書『神体』では、霊魂学について、次のように記されて

います。

 

<霊魂の学は、霊魂という「実質」を探究するものであり、本来、科学と

して登場しても不思議ではないのであるが、物質学の範囲でないために、

宗教的な分野でしか発見できていないのである。物質学では証明できなく

ても、有るものは有り、無いものはない。事実は一つなのである。もし、

多くの人が霊魂の学を体験を通じて学ぶならば、高級な霊魂達はより深く

人間に関わり、人々を真の幸福へと導けるであろう。>

 

<人間の心というものは非常に奥が深い。それは霊魂としての長い歴史を

刻んで行くからであり、肉体を捨てて、物質の脳を捨てても、生き残って

行くほど複雑だからである。霊魂の神秘は地上の人間には難しい。しかし、

それを無視しては、本当の自分は見えて来ない。いかに頭で考えても、霊魂

を無視した理論は人間を正しく把握しない。つまり、人間は自分の正体と

しての霊魂を探究すべきなのである。>

 

<死後、肉体を捨てれば、霊的世界で使用する身体を持つことになる。

人は、その身体を地上時代にあらかじめ持っている。つまり、人間の

肉体や心も、実は、霊的身体によって影響を受けているのである。霊魂

を無視して宗教はなく、霊魂を無視して学問は意味を持てない。よって、

霊魂の学は至上の学である。>

 

 

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『覚悟としての死生学』


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覚悟としての死生学 




ずっと前になりますが、「死生学」という学問について紹介したことが

あります。死生学とは、新しい学問であって、1960年代から欧米では

ホスピス運動が急速に 広がり、死に直面した患者や家族の要請に答える

ための教育、研究が進められるようになったところから始まったという

ことでした。

 

こういった学問が生まれた背景には、人が死を迎える場所は長年暮らして

いた自分の家であり、そこで家族や近隣の人々に看取られながら亡くなって

行くという伝統的な死のパターンが崩壊し、人々は、病院の中で見知らぬ

医者や看護師の人たちと延命装置に囲まれながらの死を余儀なくされる現代

特有の環境、そして、死について語ることはタブーとされ、その意味を問う

こともできないまま、孤独な死を迎えなければならないというような特異な

状況があったようです。

 

そして、それは、当初、デス・スタディーズと呼ばれ、死だけをテーマに

されていたが、日本や東アジアでは、儒教や仏教や道教の影響からか、

「死生学」とか、「生死学」というように、「死」と「生」をセットで

テーマにすべきだと考えられるようになったということでした。

 

近年においては、欧米では、今なお、死とその周辺において生起してきた

諸問題をデス・スタディーズの対象としている一方、日本では、範疇が

拡大され、死と生が表裏一体のものとしてあるような生の在り方、また、

死と隣り合わせとしての生の危機的な状況に関わる諸問題、また、

「いのちの尊厳」が問われるような諸問題をも死生学の対象とするように

なってきているようです。

 

さて、今回は、病理学者の難波絋二氏の『覚悟としての死生学』を紹介

してみたと思います。

 

難波氏は、生命倫理の具体的な問題を解くには、各自が己の死生観を確立

することが大切であるとして論を進めてゆくわけですが、死生観の確立の

前提として、いくつか大変興味深いことを述べておられますので、まず、

そのことについて触れておきたいと思います。

 

<<「死ぬ」と「殺す」は、同じ現象を、見る立場を変えて述べているに

すぎない。>>

 

<世の中は「殺す」という言葉を使うと物騒だし、いやな感じがするから

これを「死」という言葉で呼んでいるが、患者が自らの力で死ねないので

他人の補助を必要とする状態にあるとき、それを助けるのが良いか悪いか、

というのが尊厳死・安楽死問題の議論のポイントである>としています。

 

そして、<尊厳死というのは、基本的には死にゆく人自らが選ぶ死の形態

(自殺とその幇助)であり、安楽死には本人の意思がなく、慈悲の結果と

しての「殺し」といってよいだろう。つまり、本人に死にたいという希望が

あり、それを容れて苦痛のない死を与える場合は、安楽死でなく、尊厳死と

なる。本人の意思の有無が尊厳死と安楽死を分かつ重大な分岐点となるので

ある。本人の意思が明らかでない場合に行われる「安楽死」は、「慈悲殺」

という殺人の一種なのだということを理解する必要がある>と述べています。

(なお、難波氏は、後述するが、自殺及び自殺幇助は道徳的罪にならない

と考えている。)

 

もっとも、<現代における安楽死問題とは、人が事前に尊厳死について意思

表示をせず、「意識のない不治の病人」になった場合に、それにどう対処

するのが倫理的に正しいかという問題であるが、日本人には遺言を書くと

いう習慣はなかなか根づかない。しかし、徐々に日本人も自分の死に方に

ついて確固たる意見を持つことが、結局はもっとも幸せな人生を送ること

になるのだ、という考え方を持ち始めていると思われる>としています。

 

なお、<日本の倫理学者は、安楽死や尊厳死を倫理固有の問題として議論

しないで、すぐに「安楽死裁判」の判決を引きあいに出すが、欧米の倫理

学者は、倫理に反する法が存在する場合には、法を変える必要性を主張し

なければいけない、という常識を持っている。「法は最低の倫理である」

といわれているように、本来、法は倫理の枠内でなければいけない。法が

倫理を作り出すのは逆転現象なのだ>と述べています。

 

<<臓器移植と食人は類似している。>>

 

<もし食人を「人体成分を口から食事のかたちで体内に取り入れること」

と定義すれば、直接、血液を血管に入れる輸血は食人ではないのか?人体

製剤が医薬品の形で人体に投与されている例は枚挙にいとまがないが、

そうなると、我々が食人をタブーとするのは、肉食を好みながら、牛や

豚を殺すことには反感を抱くという偽善と同じものではないか>と述べ

ています。

 

よって、難波氏は、<臓器移植がカニバリズム、つまり人食いであり、

それは理想の医療ではありえない。しかし、それでも臓器移植をして

でも生き残りたいという患者の欲望を否定することができないとする

とき、やむをえず行うとしても、それほど見上げた行為をしているので

はないと考えるべきだ>としています。

 

<<なぜ、人が人を殺してはいけないのか。>>

 

難波氏は、<この問いに対する答えは簡単だ。人間はそういう社会規範を

発達させてきたからである。というよりも、そういう社会規範を発達させ

えた社会だけが生き残ってきたのだ、というほうが正確だろう>と述べて

います。だから、<歴史的には殺人を許容したり、賛美する社会もあった。

特に、それが仇討ちとか、主君のためとか、神のため、あるいは敵を倒す

ためとか共同体のため、という大義名分で美化されると、人類はいくら

でも喜んで人を殺してきた。殺したり、殺されるのを見ることに、人間は

喜びを見いだす性質があるようだ。「高貴な野蛮人」仮説(類人猿や原始人、

未開人はむやみに殺害をしないという仮説)は誤りだ>といいます。

 

<<人間には他人を殺す権利がある。>>

 

難波氏は、<恐ろしいことだが、人間には人間を殺す「権利」がそなわって

いるのだ。それどころか人間を食う権利だってある。だからメデューサ号の

筏事件とか、アンデスの聖餐事件のように、生き延びるために死んだ人を

食った場合には罰せられないし、ローマ法王も許しを与えたのだ。人間には、

他の動物と同じように自己の生存をはかる「機構」がある。それを「権利」

と呼んでよいだろう。だから、人間には他人を殺す権利(自分の意志で自由

に行なったり他人に要求したりできる資格・能力)があると認めなければ

ならない。この権利があるから自分を殺そうとする人間を殺しても、「正当

防衛」として罰せられないのである>としています。

 

また、<私の考えは、世間の人たちとは逆になっているかもしれない。世間

では人間を殺してはいけないという倫理的原則があり、その例外として

正当防衛や死刑や戦争における殺人があると考えているようだ。私は

殺人権はもともと誰にもあるもので、社会や文化や国家がそれを個人から

取り上げ、必要に応じて個人(例えば死刑執行人とか戦時の兵士とか)に

返しているのだと考える。これが正義という名目での殺人の本質だ>と

いいます。

 

なお、難波氏は、<こういう非常に残酷な、実も蓋もないことを書くのは、

われわれは自分で思っているほど高尚な存在ではなく、南京虐殺やユダヤ人

虐殺をやった人たちやポルポド派の兵士たちと、同じ人間であるということ

をいいたいためだ>とも述べています。

 

さて、そうすると彼は死刑制度存続論者かと思いきや、そうではなく、死刑

制度反対論を展開しています。

 

死刑濫用の危険性、死刑執行人(誰が死刑を行うのか)の問題、誤審の

問題、死刑と犯罪抑止力の効果などを考慮すると、死刑は廃止すべき

だというのです。

 

死刑は殺人の一種であり、それは国家が行う合法的な殺人であると結論

づけています。また、戦場における殺人はなぜ許されるのかという問いに

対して、彼は長い間この疑問を抱えていたとしながら、<「法は最低の

倫理である」といわれる。法が定めているのは、もっとも広い倫理の一部

にしかすぎず、法に違反していなくても倫理的・道徳的には許されない行為

がある、という意味で用いられている。しかし、殺人に関してはどうも違う

のではないか。法が禁止することで、二次的にそういう倫理が成立したので

あろう。もしそうだとすると、戦争における殺人は、国家が禁止することで

二次的にそういう倫理が成立したのであろう。もしそうだとすると、戦争に

おける殺人は、国家が禁止せずに奨励するのであるから、誰も倫理的痛みを

感じない理由がうまく説明できるように思われる>と述べています。

 

つまり、<人間の持つ殺人権は、歴史的に、家族内、部族内、国家内の順

で法的に禁止され、それにともない殺人を否定する倫理が生まれてきた。

しかし、国民国家は国家内殺人については、死刑を除いて禁止したが、

国家間紛争を解決する手段としての戦争を禁止しなかった。だから、国家

殺人としての戦争における殺人は禁止されていないのだ>としています。

 

<<考え抜かれた自殺は倫理的である。>>

 

先に、難波氏は、自殺および自殺幇助は道徳的罪にならないと主張して

いる旨を紹介したが、その理由について次のように述べています。

 

<明治以前の日本の歴史を見ると、自殺禁止の倫理がなく、自殺を否定

したような論述はまったくない。明治国家が自殺禁止を導入した理由は、

近代法体系の整備(特に刑法)にともないキリスト教的倫理が導入された

こと、そして勝手に死ぬことを禁止する方が国家にとって都合がよかった

からである。>

 

<西洋においても、キリスト教以前の古代社会では自殺は認められていた。

自殺を罪と考えているのは、本来、一神教の世界のみであったが、その権威

が揺らぐことにより、現代ヨーロッパでは、急速にキリスト教の法倫理から

抜け出しつつある。よって、現代における自己決定権の承認と自殺について

のパラダイム変換を真摯に受けとめる必要がある。>

 

<現行刑法を読めば、自殺自体が違法という認識で構成されていることは

疑うべくもない。しかし、論点は違法か合法かではなく、倫理的か非倫理

的かである。自己決定権という観点から、人には自殺する権利と自由がある

と認めるべきである。それは、もう一つの基本倫理、「他人に迷惑をかけ

ない」と両立するかたちで行わなければならないが、自殺それ自体に非倫理

的なところはない。>

 

<尊厳死とはつまるところ自殺の一種なのである。だから自殺を非倫理的

であるとする立場からは、これは本来まったく認めらないはずのものなの

だ。日本の優れた文学者であり、文化的指導者であった人たちが自殺して

いるが、彼らが人格破綻した精神病者であったとは誰もいうまい。だとする

と彼らは、一貫した倫理的人格を持っていたのであり、そのなかに自殺を

悪とする価値観はなかったと考えるのが妥当だろう。>

 

以上、死というものにまつわる従来からの常識、あるいは通説をくつがえす

ような病理学者難波紘二氏の刺激的な論述をいくつか紹介してきましたが、

次回は、これらを踏まえた難波氏の死生観について、また、その限界とそれ

を越える考え方について述べて見たいと思います。







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ズルワン教・ミトラス教の神話-ペルシャ神話3-


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ミトラ像 



ズルワン教(ズルワン派)・ミトラス教(ミトラ(ミスラ)信仰)の神話

に入る前に、ゾロアスター教の終末論の特徴について触れておきたいと

思います。

 

さて、ゾロアスター教の終末論は、二部構成になっているとされます。

つまり、死に際しての個体の終末と、世界の終末があるのです。

 

まず、個体の終末から見て行きますと、死後の生、つまり、死後の魂として

の存続という考えは、早い時期からペルシャ思想において支配的であった

ようです。人間は死ではなく生のためにつくられたのであり、永遠は単に

約束された未来の応報ではなく、それは人間の真の居城であるとされるの

です。

 

後期のテキストによると、人は死後、次のようなプロセスをたどります。

 

<死後、魂は三夜の間、死体の周りをさまよう。この三夜は、死者の魂に

とって反省のときであり、肉体の死に際しての懺悔のときであり、肉体と

魂の再会を熱望するときだとされる。この間じゅう、悪魔は理由なく罰を

加えようとするため、死者の魂は規律の神スラオシャの守護を必要とし、

死者の親族が供物や祈りで守らなければならない。>

 

<三夜のあとの明け方、魂は裁判を受けるために進んでゆく。個人の生前

の善き行いと悪しき行いは、ガロードマーン(頌歌の家)に保存されて

いて、裁判官であるミスラ、スラオシャ、ラシュヌの目の前で秤にかけ

られる。各人は自分自身の生活にもとづいて公平、厳格に裁かれる。>

 

<もし、善き思い、善き言葉、善き行いが、悪しき思い、悪しき言葉、

悪しき行いよりも重ければ、魂は天に昇り、もし、悪が善より重ければ、

魂は地獄に送られる。>

 

<魂が裁きの場を離れると、一人の案内人に出会う。正信の徒は、芳香を

発する風と、今まで会ったこともない美しい娘に迎えられるが、邪悪な

魂は、裸のもっとも忌まわしい病気を患う老女に迎えられる。>

 

<魂はそれからチンワト橋に進む。この橋は、二つの面を示す。正信の徒

には、橋は広くて渡りやすい。しかし、邪念の徒には橋は剣の刃のように

なる。正信の徒の魂が橋を渡るとき、ヤサダたちを見る。勝利の火は暗黒を

追い払い、その間、魂は浄化されて天に導かれる。邪念の徒の魂も橋を渡る

ように強いられ、まっさかさまに地獄に墜ちてあらゆる苦しみを受ける。>

 

なお、一人の犠牲が多くの罪を償うというキリスト教の思想は、ゾロアスタ

ー教では受け入れられないし、地獄における永遠の刑罰という考えもない

ようです。ゾロアスター教の地獄は非常に厳しいが、その犯罪にふさわしい

矯正的な罰が行われるのであり、一時的なものであるとされるのです。

 

さて、では、世界の終末とは、どのようなことなのでしょうか?

 

ゾロアスター教の伝統によると、世界の歴史は1万2千年にわたるとされ

ます。最初の3千年は原初の創造時代で、つぎの3千年はオフルマズドの

意思のまま過ぎる。第三の3千年期は、善と悪の意思の混合した時代となる。

そして、第四の3千年期にアフリマンは滅亡するのです。

 

今は、悪が敗北する最後の時代で、それはゾロアスターの誕生で始まるが、

さらに四つの小時代に分割される。それは金属で象徴され、善き宗教が

ゾロアスターにより啓示された黄金時代、彼の保護者の王が彼の宗教を

受け入れた銀時代、ササン王朝の鋼時代、この宗教が衰退しつつある現代

の鉄時代、となります。

 

悪が滅びるのは今の時代とされるのですが、悪との闘争は振り子の運動の

ようなもので、最初は善が、続いて悪が勝利者となります。この3千年の

最後の時代、ゾロアスター教徒は千年ごとに3人の救世主が出現するのを

期待しています。

 

ある文献によると、ゾロアスターは紀元前6百年頃に存在したとされる

ので、現在までに第一と第二の救世主が出現したことになるようです。

 

ともかく、各種のテキストは、救世主の出現と悪の最終的敗北について述べ

ているようですが、それはキリスト教などの黙示や預言とは異なり、儀式的、

呪術的なニュアンスを持った表現だということです。

 

また、これらを終末の出来事と呼ぶのは正確ではないようです。それを

ゾロアスター教徒は更新と呼ぶようです。世界は、アフリマンに攻撃

される前の、完全な状態、いや、それ以上のものに復元されるのです。

 

さて、すこし長くなりましたが、次にズルワン教(ズルワン派)とその

神話に移りたいと思います。

 

ズルワン教とは、オフルマズドではなく、無限時間を意味するズルワン

(ズルヴァーン)を最高神とするもので、それはゾロアスター教以前の

伝承であるとする説もあるが、通常、アケメネス朝時代、バビロニアや

ギリシャの宗教思想の影響を受けて発展したと考えられています。

 

そして、パルティア王朝時代を経て、ササン王朝時代には、ズルワン教は

ペルシャ人の宗教生活の前面に現れ、イスラム時代まで持続したという

ことです。それは別個の分派というよりは、ゾロアスター教会内部の知的

運動として栄えたようです。

 

ズルワンは、善悪両方の究極的根源で、オフルマズドとアフリマン兄弟の

父であるとされます。つまり、絶対者はその存在のなかに、善悪の矛盾を

内包しているのです。ズルワン教徒は、(正統派)ゾロアスター教の二元論

の向こうに統一性を求めたということです。

 

さて、ズルワン教の神話は、再構成するのが難しいとされます。という

のは、純粋にズルワン教的なテキストは存在せず、教会外部の観察者の

記述や、(正統派)ゾロアスター教徒と時々行った論争しか残っていない

ようなのです。

 

そんな中で、外国人、つまりアルメニア人の記録によると、宇宙論の創成

は次のようになります。

 

<大地と天空が成立する以前、偉大な究極的存在であるズルワンだけが存在

した。彼は男の子が欲しいと思い、千年間、供犠し続けた。供犠は、ズル

ワンが誰か他の存在に祈りをささげるという意味ではなかった。ペルシャ人

の信仰では供犠はそれ自体で功徳があり、力を持つとされたからである。>

 

<しかし、千年たって、彼は自分の願望の成就に疑問を持ち始めた。彼は、

天空と大地を創造することになる息子、オフルマズドをもうけるという供犠

の力に疑問を持った。疑念を持った瞬間、彼は双子を身ごもった。という

のは、まだ男女未分化の状態であったズルワンは、両性具有であったから。

双子は、彼の願望の成就であるオフルマズドと、彼の疑念の化身であるアフ

リマンであった。>

 

<ズルワンは、どちらの息子であれ、子宮から最初に出てきた者に、王権

の贈り物を与えると誓った。全知という偉大な能力をすでに発揮していた

オフルマズドは、このことを知り、兄弟のアフリマンに知らせた。そこで、

アフリマンは、子宮を裂いて父の前に現れ、自分がオフルマズドだと名乗る

が、ズルワンは、彼が暗く、悪臭を発するとして難色を示す。>

 

<次に、オフルマズドが出てくると、彼は自分の願望の成就と認めて、彼に

祭司の象徴であるバルソムの小枝の束を渡した。アフリマンは、大いに

嘆いたが、最初に生まれた息子に王権を渡すという誓いを破らないために、

ズルワンはアフリマンに9千年間の世界の統治権を与えた。オフルマズドに

は、彼はそれ以上の統治権を与えたので、オフルマズドは、天空と大地を

創造した。>

 

その後は、二元論的(正統的)ゾロアスター教におけるのと同じように、

オフルマズドは、ズルワンのなかのあらゆる善きものを、アフリマンは、

あらゆる悪しきものを代表して闘争を開始することになるのですが、世界

の歴史が1万2千年とされるのは同じとして、最初の9千年期は悪の支配

する時代で、最後の3千年期は悪が支配する時代とされるのです。

 

そして、仔細に見ると、同じような善と悪の闘争といっても、次のような

相違点が出てきます。

 

二元論的ゾロアスター教では、オフルマズドとアフリマンは、メーノーグ

(不可視的、霊的)界とゲーティーグ(可視的、物質的)界の両世界で

それぞれ軍団を保持し、対等に渡り合っているとされるが、ズルワン教

では、オフルマズドはメーノーグ界とゲーティーグ界の両世界での軍団を

そろえているものの、アフリマンはメーノーグ的軍団を持たず、ゲーティ

ーグ的軍団のみで戦うとされます。これでは最初から優劣は明らかで、

アフリマンはゲーティーグ的軍団を駆使してオフルマズドのゲーティーグ

的軍団を物質的に汚染するのが精一杯ということになります。

 

また、二元論的ゾロアスター教では、対等の軍団を指揮するオフルマズド

とアフリマンは延々と光と闇の闘争を繰り返し、終末の日にいたるまでその

決着はつかないのであり、善悪の闘争こそが宇宙の本質とされる。しかし、

ズルワン教では、退却したアフリマンはそのままオフルマズドのメーノーグ

的軍団によって捕囚されてしまい、大天使の監視のもとで幽閉されてしまう

のです。

 

このように最初期の段階で善神が悪神にかなりあっけなく勝利を収めて

しまい、重点が「闘争」より「約束」、「周期」の方にあるズルワン教は、

宇宙の本質が善と悪の闘争にあるとする完全な二元論とは異なったものに

なっているのです。

 

さて、それではミトラス(ミトラ)教とその神話とはいかなるもので

しょうか?

 

ミスラ(ミトラ)は、様々な時代の、多くの異なった国々の歴史のなかで、

重要な位置を占める神であるとされ、その信仰は、一時、西方ではイング

ランドの北部、東方ではインドまで広がったようです。

 

古代インドでは、ミトラ(友情、契約)として現れ、もう一柱の神、ヴァ

ルナ(真実の言葉)とともに、ミトラ・ヴァルナという形で勧請されます。

これら二神は、ともに人間的な表現で描写され、地上の馬車と同じ飾りを

つけた輝ける馬車に乗る。二神は、千の柱、千の扉のある館に住むとされ

ます。ただし、二神についての物語や神話というものはなく、これらの

描写は、ただこれら二神の特徴を引き出すためだけに用いられています。

 

ペルシャ(古代イラン)のものとしてはミスラ讃歌なるものがあります。

インドの場合と同じように、ミスラ(ミトラ)は創造主によって建てられ

た壮大な宮殿に住んでいて、そこには悪しき神々によってつくり出された

夜も暗黒もなく、寒風も熱風もなく、死にいたる病気もなく、穢れもない、

とされます。

 

そして、ミスラは、金と銀の蹄鉄を打った、四頭の不死の白馬に曳かれた

馬車に乗って駆ける。彼は、ハラー山(アルブルズ山の異名)を越えて

やってきた最初の神、黄金色の美しい山頂を捉えた最初の神、この山頂

からこの全能の神は、イラン人が住む全国土を見渡す、と讃えられます。

 

ミスラは死後の魂を裁き、悪魔たちが罪人に必要以上の罰を科さないように

する神で、銀の矛を持ち、金の甲冑を身につけ、百のこぶと刃のついた棍棒

を持ち、悪しき神々や人間の頭を打ち砕く強力な肩を持つ。よって彼の前

では、アンラ・マンユも、悪意にみちたアエーシュマも、すべての悪神たち

は、恐れてひるむのだそうです。

 

このように、ミスラ(ミトラ)は、インドとイランがまだ未分化だった時代

から、古代インド、イラン人の間では大変な崇拝を受けた神格であったのです

が、ザラスシュトラの宗教改革の結果、一時、ゾロアスター教のなかでは六大

天使のなかにも入らない、単なるヤサダ神族の一柱にまで落とされてしまうと

いう状態に至るのです。

 

しかし、ミトラ崇拝そのものは廃れることはありませんでした。その後、

なぜかローマにおいてミトラス教の主神として復活することになるのです。

 

なぜそうなったかについては、よくわかっていません。ペルシャ王たちの

よる征服以来、ペルシャの伝統の孤立地帯を形成してきたポントス、カッパ

ドキア、コマゲネなどの衛星国に住むペルシャ人たちが、ローマ軍により

徴兵され、ローマ帝国全土に、このペルシャの神の信仰を普及させたのでは

ないかと言われています。

 

ミトラス教は、当時のローマの人たちには「ペルシャの秘儀」と考えられて

いたようです。ミトラス自身が「ペルシャの神」と言われていたようですし、

ミトラス教の教義をゾロアスターに帰する人もいたということですが、ミト

ラス教の秘儀については、よくわかっていないのが現状です。

 

そんななか、ミトラス神の神殿には、雄牛を殺すミトラスを表すレリーフや

図像が描かれていて、それが秘儀の中心的神話を構成しているとされますが、

多くの研究者たちは、ずっとこの神話の場面を、ゾロアスター教の創世神話

に関連して解釈してきた、つまり、善悪の観念によって解釈しようとして

きたようです。

 

しかし、その後の学術的研究により、かなり変化を遂げてきたようで、ミト

ラスの祭儀や神話を占星術的な意味合いを持つものとして解釈されるよう

になってきたということです。

 

なお、このようなミトラス神話の解釈の根拠とされるのが3世紀の新プラ

トン学派の哲学者ポルピュリオスの記述などですが、それによると、秘儀

の加入者が連れてこられる場所は神殿であるが、ミトラス教徒は、彼らの

神殿を、万物の創造者であり、父であるミトラスが創造した世界洞窟の

「表象のなかにある」神殿と考えた。このために、ミトラス教徒は神殿には

できるかぎり洞窟を使用した。あるいは、少なくとも神殿に洞窟の外観を

与えた。そして、階段を降りて入口に入るようにして、地下の感覚をつくり

出した。世界洞窟は、ミトラスが雄牛を殺す舞台装置とされた。

 

また、ミトラス教のイニシエーション(秘儀参入)には七つの段階があり、

それぞれが七つの星(水星、金星、火星、木星、月、太陽、土星)の一つ

一つによって保護されている。魂の天上への旅にとって、図像は、地図で

あると同時に暦でもあり、時と季節は天上の空間と同時に現されている。

ミトラスは太陽であり、儀式では、彼は不敗の太陽と呼ばれ、雄牛は月と

される。太陽と月は、魂が物質世界に下降し、最終的に開放され、再び

天上に上昇するときの、魂の出発と帰還の作為者であり、場所であると

見なされた、ということです。

 

とにかく、近年の研究では、ミトラス教の信仰者たちは、人間が誕生する

とき、魂がこの世に降りてくると信じ、宗教的探究の目的は、魂が再びこの

世から上昇を成し遂げるところにあったということです。儀式における

階段の上昇は、魂の天上への旅に相当するとされ、魂は加入者がイニシ

エーションの階段を上昇して行くように、天の七つの門を通って上昇する、

と考えていたようです。

 

よって、洞窟で雄牛を殺害するレリーフは、救済の手段とその時点を表す

ものであったのみならず、この世に生まれ、再び天上へ帰還するとき、

救済が実現する力を描いたものであったとされます。

 

それはともかく、ローマのミトラス神話の真の意味がいかなるものであれ、

ミトラは、その信仰が何世紀もの間、いくつかの大陸に広がった神である

ことは確かだろうと思われます。そして、古代インド、ペルシャのみならず、

現代のインド、現代のゾロアスター教においても崇拝され続けています。

 

ミトラは、真実と秩序の神、虚言の敵、虚偽の破壊者、あらゆるものの創造

者であり父、人間を救済するものとして、およそ4千年の間、豊かで変化に

富んだ神話の中心的存在となってきたのです。







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善と悪のあくなき闘争-ペルシャ神話2-


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宇宙において、二つの根本的に相反する力が働くという信念、つまり、

二元論は、ゾロアスター教特有の教義です。古代アーリア(イラン)

人は、真実あるいは秩序と虚偽あるいは混沌という二つの相反する力

を信じていたとされますが、この思想がゾロアスター教に継承され、

発展していったのです。正信の徒は真実の信奉者アシャワンと呼ばれ、

邪念の徒はドルグワンと呼ばれ、後期になると、この二つの力が対立

するという観念はさらに発展してゆきます。

 

ゾロアスター教徒にとって、善を悪と関連づけること、つまり、善の世界

がアンラ・マンユ(悪魔)の創造であるというような考えを持ち出すこと

以上に大きな罪はないとされます。神と悪を合同させる以上に大きな罪は

ないのであり、善と悪は、一つの実在の違った両面ではなく、対立する

実体なのです。悪は単に善が欠けたものではなく、実体であり力であり、

両者は共存することができないのです。

 

このように善と悪、あるいは神と悪魔の対立は、ゾロアスター教のすべて

の神話、神学、哲学の基本とされますが、神の勢力と悪の勢力の観念と関係

は、具体的にはどのようになっているのでしょうか?

 

善の勢力のトップには、創造主、賢明なる主であるアフラ・マズダー(

オフルマズド)が君臨します。彼はすべてのものの父、太陽と星々の道を

定めた聖なる者、大地と天空を支える者、光明と闇黒の創造者、始原の

とき、意思によって人間と創造物を造り出した者なのです。

 

ゾロアスター教徒にとって、オフルマズドはあらゆる善性に勝り、いかなる

悪とも関わりがない。善き創造を台無しにする苦難も悪であり、神の子に

苦難をもたらしたキリスト教徒の神をも悪として非難するのです。

 

ともかく、神はあらゆる善きものの源泉であり、悪は神が統御できない

ものであるが、最終的には征服するはずのものとされるのです。

 

さて、アフラ・マズダーには、六柱の神の息子たちや娘たちがいます。

これらの神は、ウフ・マナフ(善き心)、アシャ・ワヒシュタ(最高

の天則)、スプンター・アールマティ(聖なる敬虔さ)、フシャスラ・

ワルヤ(望ましい統治)、ハルワタート(健全)、アムルタート(不死)

と称されています。これらにアフラ・マズダーを加えた七柱の神格は

独特の神族を形成し、アムシャ・スプンタ(聖なる不死者)と言われ、

ゾロアスター教の神話と儀礼において中心的な役割を果たしているのです。

 

七種の創造物のうち、人類はアフラ・マズダー自身によって守護されるが、

その他の創造物(家畜、火、大地、天空、水、植物)は上記の神々に

よって守護されるとされます。

 

それぞれのアムシャ(不死者)は、神の性質の一面を表し、人が共有できる、

あるいは共有すべき性質の一面を表します。人が共有することができない

のは、アフラ・マズダー自身の創造的で、神聖で、豊かな心がけだとされ

ます。ゾロアスター教は、人間を高く評価するけれども、ヒンドゥー教に

見られるような神と人間との究極的な合一という観念はないのです。

 

アフラ・マズダーは、アムシャ・スプンタのそれぞれを通じて祈願と称賛

を受けるが、同時に、彼らを通じて応報と罰を与えるのです。アムシャ・

スプンタは、神が人間に近づき、人間が神に近づく媒介者ということに

なります。

 

アムシャ・スプンタの詳しい説明は割愛しますが、神の第一子として生まれ

たのが、ウフ・マナフで、アフラ・マズダーの右手に座り、あたかも助言

者にように行動する存在で、世界にいる有益な動物を守護するとともに、

人間とも深く関わるとされます。

 

そして、アフラ・マズダーの左手に座るのは娘アールマティで、彼女は大地

を統括するので、家畜に牧場を与える存在とされます。しかし、彼女の真の

性格はその名のとおり「敬虔」にあります。

 

さて、ゾロアスター教では、アムシャ(不死者)だけが天上的な存在では

ありません。その他に「ヤサダ」、つまり、尊敬されるもの、祭られるもの

がいます。ヤサダは、アフラ・マズダー、そしてアムシャ(不死者)に

次いで、三番目に重視されます。ヤサダに属する神々はたくさん存在し

ますが、ゾロアスター教の暦で、月の日々が割り当てられたヤサダが当然

のことながら上位にいることになります。そして、彼らのうちでもっとも

重要なミスラやアナーヒターは、彼ら自身の讃歌を持っています。

 

主たるヤサダであるワユ、アナーヒター、ハオマ、アータル、ウルスラグナ

などは前回少し紹介しましたが、ミスラについては、別途、取り上げたいと

思います。

 

ともかく、全体的に見て、ヤサダは太陽、月、星の守護聖霊であるか、祝福、

真理、平和というような抽象的な観念の化身であるようです。

 

なお、ヤサダを多神教の神々の一柱、つまり、古代ギリシャ神話の神々の

ようなパンテオンの住人と見なすのは正しくないようです。

 

ゾロアスター教徒は、人間が取るに足りない嘆願や懺悔や供物で、偉大で

崇高なオフルマズド(アフラ・マズダー)を煩わすことができないと考え、

その代わりとして、これらの自分たちが近づきうる、彼ら自身の個人的

守護者を選択したということのようです。

 

つまり、ヤサダは、異教のパンテオンの神々ではなく、どちらかというと、

キリスト教の聖者あるいは天使に類似する存在です。

 

以上が善の勢力ということになりますが、悪の勢力についても触れて

おきたいと思います。

 

さて、悪魔の世界が恐ろしく、堕落した性質を帯びたものであることは

疑いないことだとしても、ペルシャの文献では、天上の世界のようには、

明白な言葉で描写されていないようなのです。大悪魔は、大天使のように

ぴったりとした組織のなかに組み込まれておらず、彼らは終末のとき、

天上の存在と対になって登場するので、その階級制度を再構成できる

にすぎないのです。

 

それはともかく、アンラ・マンユ(パハラヴィー語ではアフリマン)が

悪魔の集団のリーダーです。

 

後期の神話テキストでは、<アンラ・マンユ(アフリマン)は、悪魔の

なかの悪魔で、伝統的な悪魔の住居である、北方の無限の暗黒の深淵の

なかに住む。無知、有害、無秩序はアフリマンの特性である。彼は自分

の姿を変え、トカゲ、ヘビ、あるいは若者として登場できる。>

 

<彼の目的は、オフルマズドの創造を常に破壊することであり、この目的

のために彼は創造主の仕事をだめにしようと、そのあとをつけ回る。

オフルマズドが生命を創造したように、アフリマンは死を創造した。彼は

健康に代わって病気を作り出し、美に代わって醜悪を作りだした。>

 

<ゾロアスターの誕生は、悪霊にとって大打撃であった。彼はゾロアスター

を誘惑したが成功しなかった。世界の終末のとき、アフリマンはいかに

もがいても、征服され、その悪の創造は撲滅される。>とされます。

 

なお、アフリマンは実体をもたないとされます。彼は寄生虫のように、

人間や動物の体内に住むだけで、本当の実体的存在とは言えないのです。

 

また、アエーシュマという憤怒と激怒の悪魔がいます。彼は常に争いを

かきたてようとします。善の創造に対して悪を作り出すことに失敗すると、

悪魔たちの野営地の中で争いをかきたてるのです。邪悪な者の言葉に憤怒

と激怒をかきたてられ、アエーシュマは人間を攻撃するのです。

 

しかし、彼が世界を分裂させようとする仕業は、従順と献身の化身である

スラオシャ(ヤサダ神群の一柱)によって阻止される、スラオシャは最後

には、世界から怒りを取り除く、とされます。

 

その他に、悪名高いのが、三頭、六眼、三口のアジ・ダハーカという悪魔

です。彼は他の多くの悪魔よりは、よりはっきりと神話的な色彩をもって

描かれていて、その体内には無数のトカゲ、サソリその他の害虫が詰まって

いるとされ、彼を引き裂くと世界中がこのような害虫でいっぱいになると

されます。

 

とにかく、彼も色々と悪事を働くのですが、最後には、復活したクルサー

スパ(古代ペルシャの英雄神の一柱)に殺されます。

 

これら三体が、明白に記述できる悪魔の特徴ですが、他の悪魔は、名前

以外はほとんど知られていないということです。ただし、悪魔とされる

ものに、嫉妬、傲慢、昏睡、不正があります。また、しばしば言及される

悪魔に、死体の悪魔でナスと呼ばれるもの、腐敗、分解、伝染、汚穢の

魂の化身であるドルジュがいます。

 

他に悪の力として、堕落の悪魔的な女性の化身であるジャヒーがいます。

また、魔法使い、あるいは妖術師であるヤートゥは、悪の破壊力の顕現

とされます。

 

さて、多くの文化や宗教、ことに民衆文化のレベルで、清浄と汚穢の観念

と結びついた確固とした伝統がありますが、ゾロアスター教では、この

ような習慣は、善と悪についての神話的教義のなかに集成されています。

 

不浄とは、悪と接触したときの状態とされるが、その最たるものが死であり、

死体であるとされます。よって、葬式に関する浄化の法則は厳密に規定され

ていますが、その要点は、信徒の日常生活や家庭に、善と悪の宇宙的闘争を

持ち込むことにあります。なぜなら、悪の腐敗的影響が見られるところでは

どこでも、あらゆる形で悪と戦うのがゾロアスター教徒の最高の任務と

されるからです。

 

なお、ゾロアスター教徒は、一神教の多くが苦闘しなければならない課題

「神はなぜ人間に苦しむことをするにまかせるのか」という、世界の悪の

神学的問題をもたないようです。なぜなら、ゾロアスター教徒は、<神は

人間を苦しむにまかせない。悪とは、神が今は統御できないが、いつか

それに打ち勝つものである>と考えるからです。

 

さて、それでは、ゾロアスター教の創造神話を紹介しておきたいと思い

ます。

 

<無限の光明の高みに住むオフルマズドと、虚空を隔てて、暗黒の最深部

にいる悪魔アフリマンとは、直接の接触はなく、最初、両者は争いを始め

ることなく存在した。アフリマンはオフルマズドと光明を見るや、彼の

破壊的本能がオフルマズドを攻撃し、破滅させようとした。>

 

<アフリマンが破壊的性格を変えることがないのを知って、オフルマズド

は創造を開始した。彼は光明の本体から創造物のメーノーグ、すなわち

不可視的形姿を作り出した。彼は最初、アムシャ・スプンタをつくった。

それからヤサダをつくり、最後に宇宙の創造を開始した。最初は天空、

つぎに水、大地、植物、動物をつくり、最後に人間をつくった。>

 

<創造物はみな、神オフルマズドに属する。彼は母として霊的(不可視的)

世界をみごもり、父として物的(可視的)形態をとった世界を生んだと

される。アフリマンは、オオカミ、カエル、つむじ風、砂あらし、癩病など、

あらゆる悪しきものを産み出した。>

 

<物的創造は、最初つくり出されたときは、理想的な状態であった。樹木は

樹皮もトゲもなく、雄牛は月のように白く輝き、原人ガヨーマルトは、太陽

のように輝いた。しかし、この理想的な状態はアフリマンの攻撃によって

破壊される。一度は地獄に落ちたアフリマンであったが、全悪魔を率いて再び

反撃に出て、雄牛と原人ガヨーマルトを最後には殺してしまうのである。>

 

<しかし、それは善の終焉ではなかった。天空の精霊たちと人間のフラワシ

(守護霊、祖霊)の活躍により、アフリマンは投獄され世界の生命が再び花

開き始める。アフリマンの見かけ上の勝利の影に、彼の敗北の種子がひそん

でいたのである。雄牛が死ぬと、五十五種類の穀物と十二種類の薬草が牛

の四肢から成長し、牛の精液は月に行き、そこで浄化されて様々な動物を

生んだ。同じように原人が死ぬと、その精液を大地に流し込んだ。かくて、

金属でできた彼の体から大地は各種の金属を受け取った。彼の精液からは

最初の一組の人間、マシュイーとマシュヤーナクが生まれた。>

 

<生が勝ちアフリマンの創造物である死は敗北した。死からは生がより豊か

に生まれた。アフリマンは、個人を何人か殺すかもしれないが、また、誘惑

にさらされるかもしれないが、人類は全体として増え続ける。>

 

かくして、人間の住む世界は、悪の攻撃によって汚染されているものの、

基本的に善とされる。これを否定することは、ゾロアスター教の基本的罪の

一つとされるのです。ギリシャの宗教と異なって、ゾロアスター教では、

物質を不当に霊魂と比較することはなかったのであり、彼らの考えでは、

理想的な存在のためには両者が完全に調和していなければならなかった

のです。

 

なお、上記のような善と悪の闘争、つまり善悪二元論とともに、世界の

最後についての教理、すなわち終末論がゾロアスター教の中心的な要素と

言われます。

 

また、ゾロアスター教と一口でいっても、一枚岩ではなく、そこには、

オフルマズドではなく、ズルワンを最高神格とするズルワン教(ズルワン

派)やヤサダ神族の一柱であるミトラを崇拝するミトラ教(ミトラ信仰)

といった異端的な信仰を包含しています。よって、次回はそれらについて

触れてみたいと思います。

 

 
 
 
 
 
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古代イラン(アーリア人)の神話-ペルシャ神話1-


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少し前、インドの神話について紹介しましたが、インド神話のなかでも、

古い層に属するのが、いわゆるヴェーダの神話と称されるものでした。

 

「ヴェーダ」とは、元来、知識、特に宗教的知識を意味するものですが、

なかでも『リグ・ヴェーダ』(神々に対する讃歌の集成の意味)は、

ヴェーダ文献の中でも最古のものであり、それは最初期のインド・

アーリア人の宗教・神話を伝える最も基本的な資料となるものと

いわれています。

 

アーリア民族が西北インドに侵入した時期は、一般に紀元前1500頃と

されていますが、紀元前1200年前後には、インド・アーリア人の有する

最古の文献である、『リグ・ヴェーダ』が成立したと言われています。

 

そこには、インド系民族とイラン(ペルシャ)系民族が一つだった時代の

文化の痕跡を強くとどめていて、インド、イラン共通の神々が登場するのです。

 

たとえば、『リグ・ヴェーダ』では神々は「デーヴァ」と呼ばれそして、

神々に敵対する悪魔が「アスラ(阿修羅)」と呼ばれていますが、それが

イランでは、ダエーウ、そしてアフラと称されます。

 

しかし、大変興味深いことに、イランのゾロアスター教において、アスラ

に対応するアフラが最高神アフラ・マズダーとなり、デーヴァに対応する

ダエーウが悪魔の地位に落ちるなど、インドにおける経過とは逆になって

ゆくのです。

 

そこで、今回は、イラン(ペルシャ)に焦点をあて、その神話を紹介して

みたいと思います。

 

さて、ペルシャ神話の資料としてもっとも重要なものは、ゾロアスター教の

聖典である『アヴェスター』であるとされます。もっとも、現在は儀式に

用いられる『アヴェスター』の部分しか伝わっておらず、それは原『アヴェ

スター』のおおよそ四分の一にすぎないのです。

 

『アヴェスター』は、ササン朝ペルシャにいたって初めて現在の形に書き

記されたが、その内容はそれよりもずっと古く、ゾロアスター教以前に

さかのぼる太古の神話の反映および残留が見られるとされます。

 

資料の集合体である『アヴェスター』でもっとも重要なものは、ゾロアス

ター教の説教である17編の詩編(ガーサー)とされ、そのもっとも重要

な部分の一つが、種々の神々に奉げた讃歌集(ヤシュト)だと言われます。

(インドの『リグ・ヴェーダ』も神々への讃歌集であった。)

 

ヤシュトはすべてゾロアスター教の礼拝で用いられてきたが、讃歌の多く

は、基本的にはゾロアスター教以前の時代にさかのぼるのです。『アヴェ

スター』は、アヴェスター語という教会言語によって伝えられてきたが、

死語になったのちも、言霊をもつ神聖な言葉として長期間保存されてきた

ために、古い伝承が残存しているのです。

 

なお、パハラヴィー語(中期ペルシャ語)文献にも資料となるものがある

ということです。たとえば、『ブンダヒシュン(創世記)』は、天地創造の

行為、性質、目的に関する『アヴェスター』の翻訳の集成とされます。

 

さて、それでは、古代ペルシャの宇宙観、世界観から見て行きたいと思い

ます。

 

<古代のペルシャ人は、宇宙というものを円盤のような、円くて平たいもの

と考えていたようです。彼らにとっては、空は無限の空間ではなく、水晶

のような堅い物質で、貝殻のように世界をおおっていたとされます。原初

の完全な状態では、大地は平坦で、谷も山もなく、太陽や月や星々は、

正午の位置のまま大地の上方に固定していた。>

 

<しかし、この平静な状態も、宇宙に悪が侵入したために粉砕された。悪は

空から突入し、海洋のなかに飛び込んだ。そして、大地の真ん中から飛び

出し、大地を揺さぶり、山を成長させた。代表的な山はアルプルズ山で、

成長するのに8百年かかった。アルプルズは宇宙全体に広まり、山の本体

は天空に達し、大地を取り囲んでいる。この宇宙山の基底は大地の下に

広がり、大地を支え、この基底から他のすべての山々が成長する。大地の

中心にタエーラ山、つまりアルプルズの山頂がそびえ、山頂から天にかけ

てチンワト橋が架かっていて、死者の魂は天国または地獄に旅する。>

 

<なお、悪が宇宙に侵入したために揺さぶられたのは大地だけではなかっ

た。太陽、月、星々もその固定した位置から揺さぶり出された。これらの

天体は、宇宙の更新まで冠のように大地の周りをぐるぐると回っている。

そして毎日、アルプルズ山の東にある180の穴のひとつから出て、西に

ある180の穴のひとつに入る。>

 

<そして、ティシュトリヤ神(後述)によってつくられた雨は風によって

吹き集められ、宇宙の大洋、ウォルカシャ海を形成した。この海は巨大で、

そこにはアナーヒター女神(後述)の泉である千の湖水が湧き出していた。

この海には二本の木が立っていた。一本はガオクルナ樹で、人は宇宙の更新

のとき、この木から不死の霊薬を飲むことになっている。もう一本は百種樹

で、この木の種子からあらゆる樹木が生えた。>

 

<そのあと、3つの大海と20の小海がつくられた。2つの川が北側から

流れ、ひとつは北から西へ、ひとつは北から東へ流れ、両方の川とも最終的

には大地の果てを越えて宇宙の大洋に合流する。>

 

<雨が初めて降ったとき、大地は7つの部分に分裂した。中央部のフワニ

ラサは、全陸地の半分の大きさであった。周辺の6つの部分はキシュワルと

呼ばれる。ひとつの部分から他の部分へ大洋を渡って行くには、天の雄牛

スリソークの背に乗らなければなかなかった。>

 

なお、ここに登場する特徴的な動物として、すべての人間が不死となる復活

の日、生贄として供犠されるこのフリソーク牛のほかに、三脚、六眼、九口、

二耳、一角の奇怪なロバがいます。

 

さて、ペルシャ人は、ギリシャ人のように神が人間と同じ性質のものである

とは考えなかったようです。自然の神格化であり、観念の神格化であったり

しました。よって、彼らの祭壇は神殿のなかではなく、山の頂に置かれ、

また、王たちの大きなレリーフや碑文は文明の中心地にあるのではなく、

山の磨崖に刻まれているのです。また、神々はしばしば神話的な比喩で記述

されるものの、神々のことを述べた神話はきわめて少ないのです。

 

ともかく、古代ペルシャの神話にはおびただしい数の神々が登場しますが、

ここで、古代インドとイランに共通する主要な神々と、そのペルシャ的思想

を紹介しておきたいと思います。

 

<風神 ワユ>

雨雲のなかに生命を運び、暴風のなかに死を運ぶ風は、古代インド・イラン

人のもっとも神秘的な神の一柱でした。インドではヴァーユと呼ばれ、世界

がその体から生まれたとされる世界巨人の息に由来するとされ、彼は百頭、

さらには千頭の馬にひかれた快速の馬車に乗っているとされます。

 

一方、ペルシャにおいては、ワユは偉大であるが、謎に満ちた神であると

されます。創造主アフラ・マズダーも、悪魔アンラ・マンユも彼に生贄を

捧げたからです。アフラ・マズダーは、生贄を捧げ、ワユの悪しき創造を

打ち砕き、善き創造が持続するように願う。ワユは甲冑を身につけ、黄金

の鋭い槍と武器を手にして敵を追い、悪霊を打ち砕き、アフラ・マズダー

の善き創造を守るのです。よって彼は、もっとも勇敢な者、もっとも強力な

者などと呼ばれます。

 

なお、アフラ・マズダーが、光り輝く天上を支配し、アンラ・マンユが闇黒

の地下を支配するのに対し、ワユは中間の虚空を支配するとされます。

これは、風というものが中間性という性質を持つ、つまり、2つの世界、

つまり善霊の世界と悪霊の世界の間を動くものであり、本来、温情あふれる

力と不吉な力の二元性を包含するひとつの神格であったというところから

きているということです。

 

したがって、彼は善の創り手であり、破壊者であり、統合者であり、分離者

であると言われるのです。

 

<雨の神 ティシュトリヤ>

ティシュトリヤは、自然現象である雨と関連のある神格ですが、この神の

性質にはワユのような二元性の観念はありません。彼は生命を破壊する

干ばつの悪魔アパオシャに対する宇宙的闘争に巻き込まれるときは温情

溢れる力となります。ティシュトリヤは、けんらんと光り輝く星であり、

水の種子であり、雨と豊穣の源泉とされます。

 

『ブンダヒシュン』によると、創造のはじめ、水をつくったのはティシュ

トリヤであり、彼がつくった雨の一滴一滴は、鉢いっぱいの量になった

ので、大地は人の背の高さまで水でおおわれることになった。そして、

有害な動物は大地の穴のなかに追いやられ、風の精霊は水を大地のへり

まで吹きやったので、水は宇宙の大洋を形成したとあります。

 

また、ティシュトリヤに捧げられた讃歌では、神と干ばつの悪魔アパオシャ

との戦いがうたわれていて、最初、アパオシャの方が優勢であった戦いが、

創造主自身の祈りと供儀によって、ティシュトリヤの勝利となり、水は

何ものにもさえぎられることなく、畑地と牧草地に流れることができた。

そうして宇宙の大洋から立ち上る雨雲は、風に駆り立てられ、生命を付与

する雨は、大地の7つの地域に降り注いだということです。

 

つまり、ティシュトリヤが供犠に際して祈られたときには、干ばつは打ち

負かされ、雨が世界に生命を与えるのであり、生の勢力と死の勢力の宇宙

的闘争の結果は、人が儀礼の義務を信心深く守るかどうかにかかっている

とされるのです。

 

<川の女神 アナーヒター>

多くの宗教が生命と豊穣の源を女性の姿に描いています。ペルシャでは、

アルドウィ―・スーラー・アナーヒター(強力な汚れなき川)は、地上の

あらゆる川の源泉とされます。彼女はあらゆる豊穣の源で、あらゆる

男性の種子を浄化し、あらゆる女性の子宮を聖化し、母親の胸の乳を

浄化するのです。

 

彼女は、天の源泉から流れ出て、宇宙の大洋に流れ込みます。風、雨、

雲、みぞれも彼女に管理下にあり、生命の源として、作物と家畜を育てる

と言われています。彼女は生命の付与者であるので、戦士は戦場で彼女

に勝利を祈願します。彼女は四頭立ての馬車を駆け、強くて輝き、背が

高く美しく、純潔で高貴な生まれであると描写されます。

 

そして、彼女は高貴な生まれにふさわしく、八方に光芒を放ち、百の星を

ちりばめた黄金の冠をかぶり、黄金色のマントをはおり、首には黄金の

首飾りをつけていると描写されるのです。

 

ちなみに、インドでは、河川の女神として、サラスヴァティーがもっとも

讃えられています。

 

<勝利の神 ウルスラグナ>

ワユとティシュトリヤは、自然現象と関連し、アナーヒターは人格的、

性愛的関係で考えられるが、ウルスラグナは、抽象観念、あるいは観念

の擬人化と考えられます。つまり、彼は、勝利の攻撃的で圧倒的な力を

表したものとされます。

 

彼に捧げられた讃歌である「ヤシュト」では、ウルスラグナは、風、雄牛、

白馬、ラクダ、雄猪、十五歳の青年、鳥、雄羊、雄鹿、勇士、と十回の

変身をするとされますが、それぞれの形は、この神の活動的な力を表すと

言われています。このようにペルシャの思想では、神々は色々な形に変身

するが、その理由として、ゾロアスター教徒は、不可視(メーノーグ)の

世界のあらゆるものは可視(ゲーティーグ)の世界で形をとることができる

という信仰があったことによるとされます。

 

つまり、世界は不可視世界がもとにあって、可視世界の姿をとったとされる

のです。

 

なお、このウルスラグナに対応する神がインドではインドラですが、イン

ドラのように竜を退治する神話はありません。そのかわり、彼は人間と

悪魔の悪意を打ち負かし、虚偽者と邪悪者に罰を加えます。

 

もし彼がふさわしい供犠を受けると、彼は戦場においても勝利を与え、もし

彼がふさわしく崇拝されると、敵軍もアーリア人の国土に侵入することは

ないという。ウルスラグナは戦士の神なのです。

 

このように古代の神々の多くはインド・イラン人の伝承に属する神々で

あるが、自然現象を表すもの、また、抽象観念を表すもの、宇宙的闘争を

想起させるものなど、実に幅広い多様性があるのです。

 

そのほかに、正午の暑熱の主、あるいは始原のときの主、さらには復活の

ときの主でもあるとされるラピスヴィナという神などがあげられますが、

割愛したいと思います。

 

とはいうものの、祭式の神とされる、火の神アタール、植物の神ハオマに

ついて少しだけ触れておきますと、まず、火の神ですが、それを信仰の

中心に据えるということが、ゾロアスター教のもっともよく知られた特徴

の一つです。よって、「拝火教」という烙印がおされてきのですが、実は、

彼らはそう呼ばれるのを非常に不愉快に思っていたということです。火は、

伝統的に多面的な理解がなされてきたのです。

 

火は、インドにおいても、アグニという名で尊敬されてきました、それは

世俗的であり、同時に神聖であったのです。火は神と人間の世界を結合

する仲介者と考えられていて、アグニは、火として供物を受け、祭司と

してそれを神々に捧げる神であるとされたのです。

 

もっとも、ペルシャにおいて、アタールに関する神話は、ほとんど伝わって

いないということです。

 

さて、ハオマはゾロアスター教と、ソーマとしてヒンドゥー教の両方で伝え

られたインド・イランの神格です。ソーマは古代インドの『ヴェーダ』の

儀礼における主たる神格のひとつとされ、そこでは植物として、また神と

して登場するのです。

 

ペルシャでは、ハオマをしぼって強い興奮剤を採ったとされるが、この

植物が本来何であったかは不明のようです。ですが、この植物は、幻覚性

をもち、戦士や詩人を鼓舞すると考えられたのみならず、儀式ではその

液汁は聖化され、宗教的洞察力を与え、祭司たちを神の命令に対してより

素直になると考えられたということです。

 

また、ハオマ草は薬効をもっていたので、ハオマ神は健康と力を付与する

もの、さらには、豊かな作物と子孫の供給者と考えられたようです。

 

このように、ペルシャ人の信仰では、神々は遠くの存在ではなく、儀式の

最中、直接に出会う力のようです。神は壁に囲われた神殿ではなく、山頂

で祭られるものであったし、神々は宇宙に遍満していたのです。

 

また、アタールとハオマの性格については、神話と擬人法的比喩が用いら

れているが、ギリシャ人がゼウスを考え、ユダヤ人がヤハウェを描き、

イスラム教徒がアッラーを記述するような仕方では擬人化されていない

のです。擬人化という手法を使っても、それはまったく異なった世界だと

ということです。

 

古代ペルシャの世界像では、平坦で平和な大地があり、そこには本来、

いかなる悪も存在しなかった。しかし、この平穏な状態は悪の侵入に

より揺るがされ、宇宙的生命と同様、地上的生命をも揺るがすことに

なったとされますが、この善と悪の戦いはゾロアスター教の神話

に継承されてゆきます。

 

次回は、ゾロアスター教の神話について述べてみたいと思います。






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