太陽神から先祖神へ-アマテラスの誕生2-


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朝日


前回、伊勢皇大神宮の神、アマテラスは、もとは、天つカミ、つまり、

日のカミであり、風のカミであり、雷のカミであったということ、そして、

天つ神が地上に降りるときは、まず、山の頂上に来たりて、樹木(御陰木)

を経て、いったん、川の流れの中に潜り、巫女により流れの中からすくい

あげられ、地上に御生(みあれ)、つまり、再生するというプロセスを

たどるということ、などを見てきました。

 

今回は、では、いつアマテラスという自然神からアマテラスオオカミ

という天皇家の祖先神が形成されたのか、また、いつ、そのような

天皇家のアマテラスオオカミがまつられはじめたのか、という疑問に

ついて考えていきたいと思います。

 

さて、『アマテラスの誕生』の著者、筑紫申真氏は、まず、この問題を

論ずるためには、どうしても壬申の乱という七世紀半ばの内乱と、天武・

持統という二人の天皇の活躍を中心にすえなければ、本当のことは

わかってこないのではないかと述べています。

 

それまで、まだ地盤の固まっていなかった天皇政権を絶対的なものに築き

あげたのは、天武・持統両帝の七世紀後半における活躍によるが、その

政権を永遠のものにするために、自分たちの権力の美化に熱心であった

のは当然であった、よって、アマテラスオオカミは、天武・持統両帝が

つくったカミであり、皇大神宮は、天武・持統両帝が築きあげた神社

だというのです。

 

そうすると、天皇家の祖先神としてのアマテラスオオカミが、天武の即位

以前にはなかったということになりますが、どうして、そう言えるので

しょうか?

 

筑紫氏は、天武天皇即位の前年の壬申の乱のさなかに、陣中で天武天皇が

「天照大神を望拝みたまう」と『日本書記』にあるのが誤って理解されて

いたのだといいます。

 

つまり、そのころは、皇大神宮はなく、仮にあったとしても、天照大神を

拝んだまでであって、皇大神宮を遥拝したとは書いていないというのです。

 

この場合の天照大神は、天皇家の祖先神アマテラスオオカミではなくて、

天つカミの一表現としてのアマテルオオカミであったと見なければなら

ないとしています。

 

よって、望拝の動機は、雷雨に悩まされたからで、天空気象の害をまぬがれ

るために太陽を拝礼して、その霊に祈ったにすぎないと理解すべきであった

ということです。

 

もう一つの根拠として、今谷文雄氏によって、『日本書記』の敏達(びたつ)

天皇六年(577)に「詔して日祀部(ひまつりべ)を置いた」とある、

その記事の意味が明らかにされた、つまり、従来、天皇家は太陽そのもの

を礼拝し、日まつりを行っていたという重大な事実が明らかにされた、言い

かえると、まだ、天皇家の祖先神としてのアマテラスオオカミはできて

いなかったということが明らかにされた、と筑紫氏は述べています。

 

とにかく、天照大神の読み方には、アマテラスオオカミとアマテルオオカミ

の両方があって、皇祖神以外のアマテラスは、アマテルと呼ばれていたよう

で、太陽神=自然神のままであったということです。

 

そのほか、オオヒルメノムチとか、アマテラスオオヒルメノミコトという

呼び名もあったようですが、それらは太陽を人格化し、そして、祖先神に

進化させる途中の段階を示すカミの名です。

 

よって、その後も、天皇家は、大化の改新に至るまで、アマテラスを

いっこうにまつった形跡がなく、大化の改新後も、孝徳・斉明・天智と

続く天皇家は、そのあいだ、ただの一度もアマテラスをまつったり、

伊勢神宮をまつったりしたという事実が、『日本書記』の記事のなかには

出てこないとしています。

 

しかし、天武・持統両帝以降、アマテラスや伊勢神宮に対して異常なまで

の関心の高まりが天皇家に見られて、その結果として、それらの記事が

『日本書記』や『続日本記』にさかんに出てくるようになるというのです。

 

では、先の紹介したように、即位前の壬申の乱における天武天皇の祈りは、

日のカミ=太陽神であったということになるが、祖先神としてのアマテラス

への変化の兆しは、いつ、どのようなかたちで起こったのでしょうか?

 

それは、『扶桑略記』の天武天皇二年(673)の条に「大来皇子(おお

くにひめみこ)を以て、伊勢神宮に献じ、始めて斎王(いつきのみこ)と

なす。合戦の願に依てなり」とあるが、この文章こそが、その<とき>と

<わけ>をはっきり物語っていると筑紫氏は述べています。

 

つまり、このとき、天武天皇が、壬申の乱のときに必死の思いで通過した

思い出ふかい伊勢地方の、目立ったカミであるイセの大神に敬意を表して

令嬢を差し上げた、言いかえると、初瀬=長谷で天皇家の氏神(その氏を

特別に守ってくれる守護神で、まだ、祖先神である氏神ではない)である

アマテルをまつっていた大来皇子を、伊勢の漁民(海人(あま))の信仰

するイセの大神に乗り換えさせたとしています。

 

なお、これだけでは動機が単純すぎるということで天武天皇が幼少のころ、

摂津(兵庫県)の大海人(おおあま)氏に養い育てられたというところ

から、天武天皇の身についている摂津の海部(あまべ)の持つ信仰に、伊勢

の海部(磯部)たちの信仰を結びつけることができ、天武天皇が伊勢に

おいて太陽神から受けた恩恵への報謝は、イセの国の有力な海部の信ずる

太陽神への報謝へと固定されていったのだという説を付加しています。

 

これがアマテラスの「懐胎」の時期ということになるようですが、アマテ

ラスの「誕生」までには、もう少し時間を要することになります。

 

大来皇子が初代の伊勢神宮の初代の斎王(いつきのみこ)として南伊勢に

在住するようになったあとも、イセのカミは、しばらくは、地方神のまま、

川のカミのままであったとされます。

 

つまり、天智天皇以後、持統天皇の治世になっても、朝廷の支配に服属

しながらも、神国、神郡と呼ばれ、独立国のごとしであったイセの国に

対して、内政干渉めいたことはしていなかったということです。

 

神宮司がつくられて、神郡の民政や徴税を直接に天皇政府が現地に特設

した役所で行うようになるのは、これよりもおそらく後のことであろうと

されています。

 

また、持統天皇は、持統六年(692)に伊勢・志摩を訪れていますが、

伊勢参宮をした形跡がないようなのです。確かにイセの大神はいたはず

ですが、特設の社殿もなく、カミは常住しているわけでもなくて、名山

大川に時を定めて天降ってくるようなイセの大神であっては、持統天皇も

参詣のしようもなかったということでしょうか?

 

ともかく、斎宮(いつきのみや)とは、我々が考えるような、大きな建物

である皇大神宮を意味するものではなく、斎王、つまり、巫女がカミがかり

してカミをまつるために臨時に特設した家屋であるということであり、カミ

のための豪華な常住家屋などはなかったということです。

 

そうすると、天武天皇が没し、持統天皇の治世なっても、まだ、イセの大神

=地方神のままであり、皇大神宮は成立していなかった、アマテラスは誕生

していなかったということになります。

 

しかし、文武二年(692)十二月に多気大神宮を度会郡に移したとき、

つまり、皇大神宮の成立のときですが、事情が一変したということです。

それ以後は、それまでと違って、『続日本記』には、伊勢神宮を、はっきり

と他の神社と違った特別の祖廟であると意識して書かれているということ

です。

 

よって、筑紫氏は、文武二年には、天皇家の祖先神、天照大神はすでに

誕生していたとみなければならいと述べています。

 

そして、多気大神宮は、多分に皇大神宮的であり、おそらく天皇家の氏の

カミまたは祖先神の意識をもってまつられていたと考えられることから、

多気大神宮の設立の時期を考慮すると、アマテラスの誕生は、そこから

さらに数年はさかのぼる頃になるだろうとしています。

 

以上のことから、女性神としてのアマテラスオオカミが出現するまでには、

アマテル(日神)→オオヒルメムチ→アマテラスヒルメノミコト→アマ

テラスオオヒルメノミコト→アマテラスオオカミという成長の順序を

踏んできたことがわかりますが、筑紫氏は、アマテラスオオカミは、

アマテルが成長・発展せしめられた最終段階で創出された非常に特殊な

宮廷神であると述べています。










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アマテラスの誕生


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アマテラスの誕生2 


天照大神というと、現在では天皇家の祖先神であり、それも女性的な

神格であるとされていますが、驚いたことに、かつては、男性神で、

それも蛇であるとされていた時代があったということです。

 

今回は、筑紫申真氏の著書『アマテラスの誕生』によりながら、その

神格の変遷をたどってみたいと思います。

 

さて、伊勢神宮には古来より、皇大神宮の神様、つまりアマテラスは蛇で、

毎晩、その后である斎宮(いつきのみや)のところへ通ってくるという

言い伝えがあり、本書の著者の筑紫申真氏も、皇大神宮の別宮である伊雑宮

(いざわぐう)を訪れたときに、この宮の神官の子孫にあたる人から、村の

人などは、伊雑宮のカミは蛇だったといっている、ということを聞いて大変

驚いたと述べています。

 

また、一方で、アマテラスは、織姫だったとも言われています。つまり、

アマテラスは、七夕まつりの織姫=棚機つ女(たなばたつめ)だという

のです。

 

七夕まつりは、一年に一度だけ男女がゆきあうことや、機女=棚機つ女と

いう名前が似かよっていることなどが、中国から伝えられた星祭りの風俗

をわが国固有のカミまつりの風俗に結びつけて同化させたもののようです

が、このカミの着物を織るひとがカミまつりをする巫女(みこ)、つまり、

女司祭者であり、アマテラスの本当の姿であったとするのです。

 

『日本書紀』によると、アマテラスが神衣(かんみそ)を服殿(はたとの)

で織っているとき、スサノオが馬の皮をはいで服殿のなかに投げ込んだ

ので、驚いたアマテラスは杼(ひ)でけがをしてしまい、そこで怒って

天の岩戸にかくれたとされていますが、この話は、アマテラスがもともと

本当は、迎えられる貴いカミでではなくて、過去には迎える側の女司祭者

であったことを示しているのではないかといわれています。

 

このように、天照大神は、そのカミの観念を変化させていくのですが、

それは『日本書記』によってもわかるように三回に及んでいるのです。

 

はじめは、″太陽そのもの″であり、次に″太陽神をまつる女″であり、

それから″天皇家の祖先神″へと転変して完成していくのですが、『日本

書記』には、日神→オオヒルメノムチ→アタテラスという、三つの段階

のカミの名がごっちゃにされて区別のつかない一つの神格のように表現

されています。

 

日の神とは、太陽神、つまり、一種の自然神であり、オオヒルメとは太陽神

をまつる女、つまり、棚機つ女であり、天照大神になってはじめて、天皇家

の祖先神としての人格が完成するのであり、人格神としての固有名詞ができ

あがったということです。

 

かくして、アマテラスは男の蛇であったし、織姫でもあったわけですが、

筑紫氏は、それは、「特定のひとりの人間をモデルにして創作したとか、

太陽を女とみなしたとかという単純なものではなく、少しばかり混乱した、

信仰の移り変わりの合成品」なのだと述べています。

 

さて、では、いつ頃、どのようにしてアマテラスという神がつくりあげられ

たのかについて、もう少し詳しく見ていく必要がありますが、その前に、

筑紫氏は、その前提となる伊勢神宮の誕生について触れていますので、

それをまず紹介しておきたいと思います。

 

伊勢神宮は、皇大神宮を内宮と呼んでアマテラスをまつっており、三重県

伊勢市の宇治というところにありますが(なお、外宮は同市の山田にあり、

豊受神(とようけのかみ)をまつっています)、もとは多気(たけの)大

神宮と呼ばれ、今の三重県度会郡大宮町の滝原というところにあったと

いうことです。

 

現在は、皇大神宮の別宮の滝原宮が置かれていますが、この滝原宮が伊勢市

の宇治に引っ越していった多気大神宮のなごりであると見なされています。

 

この滝原宮のカミは、正式にはアマテラスだとされていますが、このカミは、

水戸(みなと)神、つまり、雨水をつかさどる川のカミであるという古く

からの伝えがあるということです。

 

それでは、多気大神宮がなぜ五十鈴川の川上の宇治に引っ越して皇大神宮に

ならねばならなかったのかということですが、それは、大和朝廷の政策で

あったという理由と共に、宇治という場所が、多気大神宮の引っ越して

くるのに大変ふさわしい場所であったからだと筑紫氏は述べています。

 

つまり、宇治は、もともと川のカミをまつる祭場だったところで、

そこでは、土地の豪族が、毎年、定期的に川のカミまつり、滝祭を

やっていたのだそうです。

 

滝原宮のカミも川のカミであり、どちらも川のカミをまつる聖地だった

だったということにより、同じ神の性格ということで、滝原の神を宇治に

移して、両方のカミを合併させることができたということです。          

 

よって、皇大神宮は、五十鈴川の川のカミと、多気大神宮という宮川の川

のカミとが一緒にされてできあがったものだということになります。

 

ところで、五十鈴川の川のカミは、滝祭りのカミと呼ばれて、昔は

もちろんのこと、現在でも皇大神宮では大変丁寧なまつりがされている

ということですが、このような大事な滝祭のカミであるにもかかわらず、

このカミには社殿もなければ、ほかに特別な施設もなかったというのです。

もともとは、姿なき神社であり、あるのはただまつりの場所だけだった

のです。

 

つまり、滝祭りのカミは竜、すなわち蛇の姿であらわれるカミと考えられ、

五十鈴川の流れの中にいて、川そのものが礼拝対象であったということです。

 

では、そのような川のカミがなぜ皇大神宮のもとの姿で、アマテラスだと

いうことになるのでしょうか?

 

皇大神宮のカミは、もともとは単に″天つカミ″と呼ばれる神であったと

されます。天つカミといっても、特別なカミではなく、昔から、日本中、

どこの村でもそれぞれにまつっていたありふれたカミであり、それを五十鈴

川の川上の宇治においてもまつっていたということです

 

天つカミは、天空に住んでいると信じられていたカミで、大空の自然現象

そのもののたましいですから、日のカミとも、月のカミとも、風のカミ

とも、雷のカミとも、雲のカミなどとも考えられていたようです。

 

よって、皇大神宮は、天つカミ、つまり、日のカミでもあり、風のカミでも

あり、雷のカミでもあったのが、日だけを取り上げて人格化していく、つまり、

アマテラスとして完成していくなかで、その他の側面がかなぐり捨てられ、

忘れられていったということになります。

 

さて、天つカミが天から地上に降りてくると、滝祭のカミになるということ

ですが、その順序、つまり、天つカミが地上に天降(あまくだ)ってくる

順序と手続きというものは、なかなか面倒なことであったということです。

 

一般論として、天つカミの天降(あも)りの仕方を述べると次のようになる

ようです。

 

まず、カミは大空を船に乗って駆け降りて、目立った山の頂上に到達します。

それから山頂を出発して、中腹をへて山麓に降りてきます。そこで、人々が

前もって用意しておいた樹木(御陰木(みあれぎ))に、天つカミの霊魂が

よりつきます(憑依)。

 

人々は天つカミのよりついたその常緑樹を、川のそばまで引っ張っていき

ます(御陰引き)。川のほとりに御陰木が到着すると、カミは木から離れ

て川の流れの中にもぐり、姿を現します(幽現)が、これがカミの誕生

とされます。このようにして、カミは地上に再生するのですが、この

ような状態を、カミの御陰(御生(みあれ))と呼んだということです。

 

そして、カミが河中に出現するとき、カミをまつる巫女(みこ)、すなわち

棚機つ女(たなばたつめ)は、川の流れの中に身を潜らせ、御生(みあ)

れするカミを流れの中からすくい上げます。そして、そのカミの一夜妻と

なるというのです。

 

以上が、昔、日本の各地で、毎年一度ずつ定期的に、もっとも普通に行われ

ていたカミの出現の手続きであり、このやり方が、伊鈴川の滝祭りの場合

においてもとられていたということです。

 

これで、最初に出てきた戸惑いを感じさせるような表現、つまり、アマ

テラスは、もとは、男のカミで蛇の姿をしている川のカミであったと

いうことの意味が理解できるのではないかと思います。

 

しかし、人格神としてのアマテラス、天皇家の祖先神としてのアマテラス

の完成に至るには、もう少しプロセスを辿らなければなりません。よって、

それは次回としたいと思います。










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いけにえの祭り-アステカの人身供犠2―


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アステカ2  



アステカ文明は、16世紀にスペイン人によって滅ぼされました。

 

しかし、被征服民の文化として蔑視されていたマヤ、アステカといった

古代も文明も、20世紀に入ってから、その偉大さや重要性が徐々に

認識されて、現在ではメキシコ人にとり、それが誇りと自信の源泉に

なっているとさえ言われています。

 

ただし、人身供犠に関しては、祖先が行った信じられない風習として、

素直の受け入れ難いようであり、エウラリア・グスマンという歴史家の

ように、人身供犠そのものを否定するナショナリストの学者もいると

いうことです。

 

しかしながら、アステカの宗教や世界観を冷静に観察すれば、ベルナル

ディーノ・デ・サアグンなどのスペイン人記録者の記述には誇張もある

かもしれないが、生贄が行われていたという事実は否定することはでき

ないとされています。

 

さて、前回、アステカの人身供犠の動機は、そこに伝わる神話、それも、

従来から言われるような、「太陽や大地の神々に血液を捧げる」という

主題の神話ではなく、「太陽や大地の神々から血液を頂く」という主題

の神話にあるのではないか、という主張を紹介してきましたが、それと

は異なる見解を紹介してみたいと思います。

 

たしかに、メソアメリカでは、いや、それこそ世界各地で生贄、人身供犠

というものが行われてきたようですが、アステカの場合は、規模や恒常性

において極めて突出しているように思われます。

 

よって、そこには神話以外のモジベーションがあったのではないかという

疑問が湧いてくるのですが、それを考えるべく、今回は、別府大学アジア

歴史文化研究所報第16号所収の佐藤孝裕氏の論文『アステカの人身供犠

への一試論』を取り上げてみたいと思います。

 

まず、佐藤氏は、兵士および彼らに伴って布教活動のために新大陸を訪れた

宣教師たちの報告に見られる人身供犠の描写は極めて生々しく、その報告の

すべてが単なる捏造だとは考えられないし、人身供犠が実際に行われたこと

を示す図像や彫像の資料も多いため、かつて、彼らが人身供犠を行っていた

ことはほぼ間違いないだろうと述べています。

 

そして、従来、創造神話に由来する彼らに独自の世界観の中に人身供犠を

位置づけ、必然性・必要性に基づいて長年に渡って人身供犠が行われ続けた、

と解釈されてきたが、その儀式は、その大規模さと組織性の点で他を圧倒

しており、単に宗教的必然性を理由にするだけでは、到底、説明が困難で

あるとしています。

 

さて、メソアメリカにおける人身供犠の起源は、少なくとも、古典期

(紀元後から紀元1000年頃まで)にさかのぼるとされます。そして、

マヤ地域などでも、数々の図像学的証拠から見て、古典期には行われて

いた可能性が高いと考えられています。

 

しかしながら、古典期マヤの人身供犠の性格は、都市国家の王が自分の

王としての正統性を神々に認めてもらうために戦争で捕らえた捕虜などを

人身供犠に供し、神々の好む血を捧げたものだろうと考えられており、

それは個人的で、アステカ人が行ったような大々的なものではなかった

ということです。

 

一方、アステカでは、1年間で18回の宗教行事や周期や時節とは関わり

ない特別な行事において、ことごとく多くの生贄が捧げられたようであり、

とりわけ、1487年における首都テノチティトランのテンプロ・マヨール

神殿の落成式において数千人の生贄が捧げられたとされています。

 

では、なぜ、このような極端な状況を生んだのでしょうか?

 

佐藤氏は、その要因を創造神話にもとづく宇宙観による解釈のほかに、

いくつかの解釈を紹介しています。

 

一つは、強化儀礼としての解釈です。

 

それによると、創造神話では、毎月の祭祀と供犠の意味を説明することが

できない。しかし、月毎に行われた祭祀を見ると、それらは、雨の神、水

の神、風の神等々、多くは農耕にかかわる神々のためのものである。した

がって、人身供犠を含む儀礼は、豊穣を願う農耕儀礼的な性格をもつ強化

儀礼の一種であるということになる。すなわち、人身供犠を行うことに

よって、規則的に雨が降り、作物が実り、土地の生産性が保たれることを

願ったというものです。

 

次は、人口統計学的解釈というものです。

 

これは、アステカ人による統一以前は、メキシコ中央高原一帯は慢性的

な戦争状態にあった。そして、戦争が「花戦争」という形で恒久的な

制度になると共に、それにつきものの人身供犠を価値づけ、イデオロ

ギー的に正当化する手段になったというものです。

 

また、即位儀礼としての解釈というものもあります。

 

これによると、どんな王でも即位するためには、どこかの地方を攻略し、

生贄にするための多数の捕虜を捕えねばならなかった。よって、そう

することにより、王がこの世界を維持し、治めるだけの力を持っている

こと、すなわち、自分が正統な王位の継承者であることを顕示するため

ではなかったかというものです。

 

さらに、佐藤氏は、政治・経済・軍事的解釈というものを掲げています。

そして、それは佐藤氏自身の主張でもあります。

 

彼は、人身供犠を大々的に行ったアステカ人の意図の解明には、アステカ人

の国が膨張していく中での政治的意図が込められた宗教改革が鍵であると

して、次のように述べています。

 

<第四代イツコアトル王は、1428年にアスカポツルコのテパネカ人を

壊滅させ、アステカ王国はメキシコ中央高原最大の国家にのし上がるが、

この当時、実質的にアステカを支え、大きな権力を握っていたのが、王の

最高顧問トラカエレルであった。彼は、シワコアトルという特別な称号を

与えられ、イツコアトル王とその後の二代の王に仕え、死ぬまで改革を

実行し続けた。>

 

<トラカエレルの業績の一つに歴史の改竄がある。彼は、アステカ人のこと

が重視されていなかった被征服民の絵文字をすべて焼き捨てさせたという。

そして、絵文字に書かれていた内容を書き換え、アステカこそかつて中央

高原に覇を唱えたトルテカの伝統の承継者だとした。>

 

<これにより、彼はアステカ人に誇りを持たせるような意識改革を行い、

新たな征服活動を容易ならしめようとしたのであり、こうしてアステカ人

は近隣諸国を手始めに遠隔地への征服活動に乗り出していったのである。>

 

<そして、トラカエレルが行った業績にはもう一つある。それは「花戦争」

の導入である。「花戦争」とは、生贄に捧げるための捕虜を手に入れるため

にのみ始められた戦争である。つまり、常に太陽神ウロポチトリに

心臓と血を捧げるための生贄に事欠かないようにし、そうすることで現世

である第5番目の太陽が滅びないようにするためにトラカエレルはこの

ような制度を考え出したのである。>

 

<なお、このアステカ人独自の宇宙観に背後にも戦略的な意図が潜んでいる

と思われる。つまり、アステカ人がウロポチトリ神に仕える使徒と

しての使命を果たす特別な部族であり、ウロポチトリ神に捧げる生贄

を求めるために戦争を行うということは、彼らの征服活動を正当化すること

につながる。独自の宗教軍事観を導入したトラカエレルの本当の意図は、

まさにこの点にあったと考えられる。>

 

<いずれにせよ、アステカ人は、トラカエレルによって持ち込まれた宗教

軍事観を受け入れるなかで、アスカポツルコの属国的存在から抜け出し、

それを滅ぼし、それ以後、スペイン人が現れて彼らに滅ぼされるまで、

ほとんどの征服戦争に勝利し、勢力を拡大していったのである。>

 

以上が、佐藤孝裕氏の主張の要旨ですが、たしかに15、6世紀というと、

神政的な古代文明が滅び、後古典期文化と呼ばれる、戦国の世、軍事的な

社会の、そのまた末期ということになり、人身供犠の根拠を神話の共認

のみとすることは難しいようにも思われます。

 

また、<アステカ人にとって、最もふさわしく、羨望に値する運命とは

戦死、ないしは人身供犠に供されることであったとされるが、事実、その

とおりであったのだろうか。生贄に捧げられる捕虜は喜んでわが身を捧げた

と言われるが、逆に力づくで運ばれ、死とその苦しみを強烈に味わされた

という報告も少なくないのである。そのために麻薬が用いられもした。>

と佐藤氏がいうような側面もあったかもしれません。

 

しかしながら、現実的な策略ばかりが強調されると違和感が残ります。

たとえば、アステカの文明がスペインによって壊滅させられたとき、

アステカの主だった者たちは、フランシスコ会の修道士たちに対して

次のように語ったと言われています。

 

<あなた方は、我らの神は真実のものでないとおっしゃいました。だが、

あなた方が語るのは、異様なことであります。それで我々は混乱して

います。なぜならば、我らの父、我らの祖父、かつてこの地上に生きた者

たちは、決してそういわなかったからです。彼らは我々に生活の規範を

与えました。彼らは、それを真実なものと見なして信じ、神々を敬い

ました。彼らは我々にすべての形の信仰と、神々を崇めるすべての方法を

教えてくれました。・・・だが、もし我々の神々がもう死んでしまったの

なら、我々も死なせてください。我々は滅びます。なぜなら、我らの神々

がすでに死んでしまったのだから・・・>

 

ここからは、アステカの人々が、我々、現代人が推し量ることができない、

というか、我々が失ってしまったような、神話と信仰の世界に生きる、

ピュアな心性を抱いていた人々であったことが伺われるように思います。

 

残虐性と神聖さの併存という、この絶対的な矛盾に前にして、そう簡単に

結論は出せないように思われます。










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アステカの人身供犠


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アステカ1




かなり前になりますが、フランス人作家ル・クレジオの『メキシコの夢』

を手がかりに「神話-血の供犠-」という文章を書いたことがあります。

 

ル・クレジオは、『メキシコの夢』の中で次のように述べていました。

 

「人間の歴史のなかで、おそらくインディオほど血の虜になった民族は

いないであろう。アステカ族はまるで魔術的な魅力にかかったように血に

取り憑かれ、つきまとわれた。他の大部分のスペイン人記録者と同じく

ベルナルディーノ・デ・サアグンから見て、この血への妄執は魔力、つまり

悪魔との契約を示すものだった。これほど血なまぐさい供犠-動物、特に

皮を剥がれ、心臓を捥(も)ぎとられ、身体を寸断され、焼かれる人間たち

-に関心を示した民族は他にいない。」

 

「多くの点でスペイン人の征服者の文明よりもすぐれた文明水準に達し、

開花し、洗練された民族、芸術、科学、詩を培ったこの民族は、祭儀の

折に、前代未聞の残酷さを示すことができる民族でもあったのだ。」

 

「そして、この残酷さの悪評は、それがなくなった後も、しばらくは

その文明に結びつけられ、堕落の証拠、道徳的劣勢にしるしとして、

今日までも、インディオの国ぐにの最後に生き残った人々に暗く

のしかかり続けている。」と。

 

もっとも、一方で、ル・クレジオは、アステカの「王は神の代理者として

誠に謙虚であり、民衆は、徳が高く、神々に対してとても敬虔であり、国

に対して愛着が強く、互いに親切であったし、仲間に対してはきびしいが

人間味があった人々であった」また、「メキシコの民は、ローマ人が闘技場

の格闘に見せた残酷さのような例は決してつくらなかった。インディオの

残忍さは無償のものではない。神々だけに気にいられる宿命づけられた

神聖かつ神秘的な残忍さである。」とアステカの文明を弁護するのですが、

それでも、私は、その極端な血の供犠というものへの嫌悪感と、そこまで

する血へのこだわりの理由が理解できないという思いが消えないまま、

今日まできてしまいました。

 

よって、その矛盾した文明というものの背景には何があったのか、なぜ残酷

さと神聖さが同居することができたのかを、主に、岩崎賢氏の著書『アス

テカ王国の生贄の祭祀』に依りながら、探ってみたいと思います。

 

岩崎氏は、「人身御供は我々にとって恐るべき行為である。それは解釈者に

強い精神的緊張を強いるものであり、そのリアリティに接近することは容易

ではない。しかしながら、人身御供はアステカのみならず広くメソアメリカ、

さらには世界中の古代的宗教伝統において、規模の大小こそあれ、もっとも

重要な儀礼行為の一つとして遂行されてきた行為である。また、それは、

深い神学的・哲学的思索-たとえば古代インドの『ヴェーダ』における人身

御供や、『旧約聖書』におけるイサクの供犠をめぐる神学的思索など-を

促してきた主題なのである。そうである以上、人身御供は真摯に解釈され、

理解されなければならない。」と述べています。

 

さて、アステカの供犠についての研究は数多く存在するが、最も強い影響力

を及ぼしてきたものは、メキシコの考古学者A・カソの著作『太陽の民』

で示された議論であったということです。A・カソは、ウロポチトリ

誕生神話などに基づいて、アステカ人の神話と儀礼の中心的主題は月・星の

神々に対する太陽神の戦いであったとし、アステカ人の使命は、戦場での

闘いによって戦士の血を流し、神に「生命を表現するこの魔術的な食べ物を

捧げ、神の戦いを応援する」ことであったと主張したといわれています。

 

これに対して、岩崎氏は、たしかにアステカには「血を欲する神々」という

テーマを示す神話がいくつかあるようであり、これらの神話にもとづき、

アステカの人身供犠は血液によって神々(大地や太陽)を養うために行われ

たという説がほぼ定説として確立しているようであるが、それは、アステカ

の供犠を<機械のアナロジー>によって説明しており、それがこの儀礼の

リアリティから研究者を遠ざける結果になっていると批判しています。

 

<機械のアナロジー>による説明とは、要するに、アステカ人にとって宇宙

は一種の巨大機械であり、太陽や大地やその他の事物は、その内部を動く

部品であり、人間の血液はその動力源である、とする説明のことであるが、

その説明では、解釈対象と解釈者の疎隔という問題は未解決のままではない

かとしています。

 

つまり、A・カソと彼の同調者は、このような<機械のアナロジー>を使用

することによって、そのままでは理解しがたい奇異な文化的・宗教的現象を、

理解可能な身近な現象として捉え直すことに成功していないというのです。

 

そして、A・カソが、みずからの文化的ルーツについて、「アステカ人の

人身御供は・・・人類史において宗教的感情が有している多くの逸脱の一つ

である。誤った前提から出発し、それが自明のものとなり、最もひどい結果

が論理的に導かれることはある。」と述べ、これは「異常」なこととして、

中世ヨーロッパの魔女狩りやナチズムと比べていることは不幸なことである

としています。

 

岩崎氏は、宗教的・文化的現象の解釈におけるアナロジー、つまり、比喩

表現の必要性を否定するわけではないとしながらも、それは<機械>とは

異なる別のアナロジーを探す必要があると述べています。

 

そのアナロジーは、解釈者と解釈対象の間の疎隔や断絶を固定するものでは

なく、両者の間に確固とした連続性があることを実感させるものでなければ

ならないとしています。

 

そして、それに当てはまる方法論は、宗教学者のC・H・ロングが提唱し、

M・エリアーデが「創造的解釈学」と呼んだもので、それによると、歴史的

・文化的他者は、研究者自身の人間性と無縁のものとして切り離されること

はなく、むしろ、研究者は、解釈行為を通して、解釈対象の中に自己の根源

的(アルカイック)な在り方を探究しようとするものであると述べています。

 

これが適切に遂行されたとき、解釈者と解釈対象との疎隔は大きく克服され

ているであろうというのです。

 

さて、岩崎氏は、これらを踏まえると、従来、アステカの供犠を考察する

のに、「太陽や大地の神々に血液を捧げる」という主題に沿って諸々の

神話・儀礼・図像が取り上げられてきたが、それとは反対の主題、すな

わち、人間が「太陽や大地の神々から血液を頂く」という主題が重要で

あり、この「神々から血液を頂く」という主題はアステカの人身供犠を

理解するための鍵となるものであると主張しています。

 

そして、なぜ、「神々から血液を頂く」という主題がアステカの人身供犠

を理解するための鍵なのかについて、その根拠となる人類創造神話を

あげています。

 

それは、最初の人間は<死者世界ミクトランの骨>と<創造神ケツルコア

トル神の血>が<高貴な容器>の中で混ぜ合わされることによって創造

されたというものです。

 

この神話は、従来、供犠を説明する物語としてより、いかにして人間が創造

されたかを説明する起源神話として取り上げられてきたが、この神話を重要

視すべきであるとしています。

 

これが強調されて来なかったのは、「太陽や大地が人間の血液を欲しがる」

という神話の方が、アステカ人が人身供犠を行った理由を示す上で、

より直接的で分かりやすかったためであろうと述べています。

 

しかしながら、「神々から血液を頂く」という主題を示す神話や儀礼は、

比較的乏しいとしても、神話や儀礼と並びもう一つの重要な宗教的表現で

あった図像表現において、雄弁に表現されていると主張しています。

 

そして、太陽が血を流す、すなわち、太陽から血を頂く、という主題の

図像を幾つか紹介し、また、月(星)・大地が血を流す、つまり、月(星)

・大地から血を頂く、という主題の図像を示しながら、それらは、人間

が太陽・月(星)・大地に血液を捧げるのと同じように、太陽・月(星)

・大地も人間に血液(体液)を捧げている、ということを示しているので

あると述べています。

 

このことは、アステカ人にとって、自分たち人間の体内を流れる血液に

含まれる生命力は、太陽・月・大地がその体内に宿し、日々、地上の

人間に送りこむ生命力と、そのかけがえのなさや貴さにおいて、同じ

ものであったということであるとしています。

 

さらに、これらの図像が示すことは、地上に生きる人間・動物・植物と、

天地を動く太陽・月・星、そして大地は、同じ血液を分け合う一つの

巨大な生命体の一部だということではないかというのです。

 

そして、このことから、宇宙は決して無機質な部品が組み合わされた

<機械>ではなく、この巨大な生命体は、自らの体内に血液を循環させる

ことで、新しい細胞と器官-地上の諸々の生命体-を作り出すのであり、

もし、人間が自分たちは大宇宙から生命を頂くだけでなく、それに生命を

捧げる存在でもあるということを忘れて、その聖なる赤い液体を自らの

身体内に滞留させるなら、この大生命体は衰弱し、やがて死ぬことになる

だろうと考えたとしています。

 

よって、岩崎氏は、こうした切実な感覚なくしては、アステカの「血を

頂く・捧げる」という図像的表現が生み出されることも、数々の血の儀礼

が行われることもなかったであろうと結論づけています。

 

ところで、アステカの人身供犠に対するこのような見解とは異なる主張も

当然、存在します。

 

次回は、そういった異論を少し取り上げてみたいと思います。









霊魂に聞くⅡ

(水波一郎 著 アマゾン 発売)







 

 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「死者との対話」-死者がひらく、生者の生き方-



死者との対話




 

著者の若松英輔氏は、批評家であり、また、一方で有機栽培の薬草を販売する

会社を経営されている方だということです。

 

また、生後40日でカトリックの洗礼を受けたキリスト教の信仰者であるという

ことです。

 

しかし、現代の宗教、あるいは宗教者の在り方を厳しく批判しています。

 

著者は、死者を語ることを暗黙のうちに封印された近代で、個別の経験を超え、

無条件に公然と死者の実在を語れるのは、いや、語らねばならなかったのは、

宗教者もしくは文学者を含む芸術家たちであったが、それを実践した者は

極めて少なかったといいます。

 

そして、「過度に乱暴な言い方をすまいと思いますが、死者を語らない宗教

など、すでに宗教の名に値しないと私は思います。宗教は、教義に道徳でも、

倫理道徳でもありません。どう生きるのが「正しい」のかを説く思想でもあり

ません。宗教とは、生者と死者がともに超越と不可分の関係にあることを示す

契機であり、伝統であり、生きる道です。」と述べています。

 

とにかく、本来なら生者と死者の間をいっそう強く結びつけるはずの宗教が、

かえってニ者の間を分断してしまうのなら不要である。生者を超える世界が

あり、私たちには知り得ない世界があって、死者はそこと私たちが暮らす

この世界とを縦横無尽に行き来しながら生きているという、元来、宗教が

持っている「常識」を説くことをやめてしまうなら、存在する意味はない

というのです。

 

また、病気の治癒など、宗教的な奇蹟について次のように述べています。

 

「宗教的な奇蹟は確かにあります。難病などが治ったりすることがあります。

・・・そういったことを信じますか、と尋ねられれば信じると答えますが、

どう思いますかと聞かれれば、そこを何か特別なことのように切り取って、

格別な意味を認めるようなことは絶対にしないと、申し上げると思います。」

 

つまり、病が癒えたということは「奇蹟」であると同時に、病む以前の状態

もまた「奇蹟」だった、日常生活そのもの、今日生きていることが「奇蹟」で

あるとしています。

 

このような著者の主張は、大いに心を動かされますが、果たして、「死者」、
著者のいう
「死者」とはどういう存在なのでしょうか。

 

読んでいくと、著者の「死者論」の重要な契機の一つとして、著者の妻の死と

いうものがあるようです。

 

著者は、自分が妻の亡骸を前に泣き叫んでいるとき、横に彼女がいて、「大丈夫、

大丈夫だよ。私はここにいる。心配いらないよ。」と声を掛け、しっかり私を

抱きしめてくれているという光景(ビジョン)を「見」たというのです。

 

そこいったことから、死者とは抽象的な概念ではなく、実在である。それは、

人間が安易に解釈することを拒むものであり、汲めども尽きぬ、何かであると

認識に至っていると思います。

 

そして、「死者は実在する、だが、死を経験した生者はいない、ということが

私の死者論の基点です。臨死は死ではありません。こちらの岸の彼方に、「彼岸」

の世界がある、そのことだけで十分ではありませんか。そこがどうなっている

かは、私たち自身が死の彼方に赴いたときに、自分で経験すればよいのですし、

そちらでどう生きるべきかは、またその場で考えるべきことだろうと思うのです。

私のいう「死者論」とは生者と死者の関係、あるいは交わりを考えることです。」

としています。

 

また、一方で、「近年、盛んな、いわゆる「スピリチュアル」な視点-死者が

存在するかいなか、死者はどこにいるのか、死者の国は、どうなっているのか

という問題とは関係ないものです。」とも述べています。

 

このような視点から、著者は、「死」はこれからも悲惨な出来事であり続ける

かもしれないが、亡骸とは異なる死者を「見る」ということをすれば、その

姿は逞しく、輝いており、死者はすでにその惨めさのなかにはいない、と言い

ます。

 

そして、「私は、死者とは何かという話をしなくてもすむ日が来るとよいと

願っています。死者が現代人の日常において、否定しがたい事実として

「生きている」のであれば、改めて論じる必要はなくなります。私はそういう

日が来ることを心から望んでいます。」と主張しています。

 

死者が決して消滅してはおらず、まさに「生きている」ということについては、

異論はありませんが、疑問に思うことがないわけではありません。

 

著者がいう死者の実在とは、個性を持った実体が存続するということでもない

ように思われます。あるいは、それはいったん不問に付そうということかもしれ

ませんが、それは一つの立場、思想としてあるとしても、死者はみじめではなく、

逞しく、輝いているというのはどういうことなのでしょうか。

 

生者は、様々な苦しみや悲しみ、そして、怒りや恨みを抱えて生きていますが、

その罪業や苦悩を抱えたまま死んでいったとしたらどうしましょうか。そして、

死後、さらに生者以上に苦しんでいるとしたら・・・。

 

あえて申すならば、そういった状況に対する解決の道筋を示すのが、本来の宗教、

つまりは、信仰や霊的な修行の果たす使命ではないかと思います。

 

私が申すまでもなく、著者も信仰者ですから、そのようなことは心のなかに

しっかりと秘めておられると思いますし、実際、異なる局面において述べて

おられるだろうと思いますが・・・。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体