悪人正機-親鸞からの手紙 2-


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親鸞からの手紙を読み解く  
 
 
 前回は、「親鸞からの手紙」の中から、特に「善鸞事件」、つまり、息子

である善鸞の義絶に関わる手紙について紹介してきましたが、そのことの

発端を探ってゆくと、それは、親鸞が唱えた、「善人なをもて往生をとぐ、

いはんや悪人をや(善人ですら極楽浄土に行くことができる、まして悪人

は、極楽浄土へ行くのは当然ではないか)」という「悪人正機説」のもつ

逆説的な表現とそれに対する誤解、曲解から始まっているように思われ

ます。

 

よって、善鸞の義絶にいたるまで、いったい、どのような経緯があったの

かということが大変気になるところですので、今回は、そのあたりを追っ

てみたいと思います。

 

さて、親鸞が専修念仏の弾圧によって、京都から越後に流刑の身となった

のは、1207年、35歳の時とされます。それから5年を経て、赦免と

なり、しばらくして、親鸞は関東におもむいたのです。そして、今の茨城

県を中心に20年間、専修念仏を広めた後、京都に戻ったのですが、その

間において、関東における親鸞の信者(門徒)の数は、3千人余にのぼった

ということです。

 

その「門徒」の中心を形成していたのは、法然の場合と同じように、武士

階級に属する人々であったようですが、全体としては、農民、商人、猟師

や漁師など、直接生産に関わる人々が多かったとされます。

 

よって、これらの人々の中には、「悪」に対して親鸞の意図するところと

は異なる認識をしていた人が少なからずいたようなのです。

 

もっとも、<悪人こそが、阿弥陀仏の本願による救済の主正の根機である>

という「悪人正機説」は、親鸞の独創ではなく、親鸞の師である法然の教え

であるとされており、法然の時代から、仏の教えに背く「悪人」であっても、

いや、そのような「悪人」であるからこそ浄土に迎えて仏とするという阿弥陀

仏の約束(誓願)を逆手に取って、わざと悪行を重ねる人々がいたようです。

 

そういう人々のふるまいを、当時の人々は「造悪無碍(ぞうあくむげ)」

(どんなに悪いことを重ねても往生の障りとはならない、の意味)と呼んだ

のですが、そういう積極的に悪行を肯定する「造悪無碍」派が台頭すると、

その反動として、悪行をやめ、善いことを実践しないと浄土への往生は

難しい、という道徳を優先する「賢善精進(けんぜんしょうじん)」派が

生まれてきます。いずれにしても、誤った考えが蔓延してゆく結果になる

のですが、親鸞が教えを広めた関東においても、そういった兆候が顕著に

なってきたようなのです。

 

なお、親鸞と法然の「悪人正機」に対する考え方の違いについて、梅原猛

氏は、『歎異抄』の解説の中で次のように述べています。

 

法然も同じようなことを言っているとしながらも、<法然が「善人なを

もて」といっても、人はそこに悪人は見ない。しかし、親鸞の場合は違う。

親鸞が「善人なをもて」というとき、彼は悪人としての自分の救いのことを

いっているのであり、人もまた、親鸞が自分の救いのことをいっているのだ

と思う理由があるのである。親鸞は何よりも肉食妻帯の僧であった。肉食

妻帯ということは、釈迦以来最大の悪とされてきたことであった。その悪を

みずから進んで破ろうとする僧侶、そういう僧侶がどうして悪人でなかろう

かと、親鸞自身思ったに違いない。しかも、そのような悪人が救われる教え

こそ他力念仏の教え。親鸞は、おのれが悪人であるという自覚を深めれば深

めるほど、熱烈な他力念仏の教えの信者になっていったのである。それゆえ、

悪の自覚は、親鸞においては法然においてよりいっそう深まっている。>

 

また、戦乱の世の中、多くの殺生の体験を持つ東国(関東)の生活人は、

悪の現実的な体験において、親鸞よりいっそう深いものがあったに違い

ないとも述べています。

 

さて、まず、最初に紹介する手紙(常陸の同行宛?)には、次のように

記されています。

 

「煩悩をそなえた身だからといって、心のおもむくままに好きなように、

身にもしてはならないことを許し、口にもいってはならないことを許し、

心にも思ってはならないことを許し、心のままにどんなあり方でもよい

のだ、とたがいに言っておられることこそ、かえすがえす心が痛みます。

酔いも醒めぬ先に、なおも酒をすすめ、毒も消えやらないうちにますます

毒をすすめるようなものです。「毒があるから毒を好め」というのは、

あってはならないことだと思います。阿弥陀仏の御名を聞き、念仏を申して

久しくなっておられる人々は、この世の悪いことを避けるしるし、また、

わが身の悪事を避けて捨てようとお考えになるしるしもあるべきだと

思われます。」

 

「はじめて阿弥陀仏の誓いを聞き始められた人々が、わが身の悪く、心の

悪いことを思い知って、この身のようなことではどうして浄土に生まれる

ことができようか、という人こそ、煩悩から逃れることができない身で

あるから、心の善悪を問題とせず、阿弥陀仏は浄土に迎えてくださるのだ、

と説かれるのです。」「深く阿弥陀仏の誓いを信じ、阿弥陀仏の名を好んで

称える人は、以前こそ、心のままに悪いことを思い、悪いことを行ったり

してきたが、今は、そのような心を捨てようとたがいに思われるならば、

それこそ、世を厭うしるしになると申せましょう。」

 

この手紙では、親鸞は、煩悩を言い分けの口実にして、心を任せて悪行に

走るのは、あたかも阿弥陀仏の本願という薬があるからといって、毒を好む

に似る、として批判しています。もっとも、親鸞自らは、「造悪無碍」と

いう言葉は使用せず、「放逸無漸(ほういつむざん)」(好き勝手をしながら

他に恥じないこと)という言葉を使っているようです。

 

また、「世を厭うしるし」とは、厭世的なものではなく、世間的価値観から

解放された、積極的な仏教徒としての生き方の表れを指すようです。

 

「いずれにせよ、「造悪無碍」と「賢善精進」との相克こそ、親鸞からの

手紙が書かれねばならなかった、大きな動機なのである。この手紙は、

その序といえる」と『親鸞からの手紙』の著者阿満利麿氏は述べています。

 

さて、親鸞は、専修念仏がそのような自己流に陥らないように、関東の同朋

に対し、彼が法然門下のなかでもとりわけ尊敬をしていた聖覚の「唯信抄」

や降覚の「自力他力事」を書写して送っているのですが、事態は好転しな

かったようです。

 

そこで、次のような手紙(宛先不明)が出されることになります。

 

「経典や注釈書に説かれている教えをも知らず、また、浄土宗の教えの極み

も知らずに、考えられないような放縦と罪悪を恥じることもない人々のなか

に、「悪は思う存分に行うのがよい」と、なによりも強調しておっしゃって

いることこそ、ほんとうに言語道断のことです。」

 

「煩悩に狂わされて、思いもかけず、してはならないことをし、いっては

ならないことを口にし、思ってはならないことを想うものなのです。往生

に差し支えがないからといって、人に対して腹黒く、してはならないこと

をなし、いってはならないことを口にするのであれば、煩悩に狂わされた

のではなく、故意にしていることであり、それはけっしてあってはなら

ないことです。」

 

「鹿島や行方の人々の悪いことを注意して、そのあたりの人々の、とくに

間違ったことを制止してくださればこそ、私のもとからそちらへ出向いて

くださったしるしとなるのではないでしょうか。」

 

ここでも、親鸞は、悪行を積極的に行なうのがよいとする風潮を戒め、

「煩悩に狂わされて」する行為と、「故意」にする行為とを区別せよ、と

諭しています。しかし、この区別は、いうほど簡単ではなく、突きつめて

いくと、どちらも「宿業(しゅくごう)」のなせるところだということに

なり、難しい問題を孕んでいるようです。

 

阿満氏は、この区別について、「この私は阿弥陀仏の誓願によって救われ

ようとしているのか、あるいは、私の行為を正当化するために阿弥陀仏の

誓願をもちだしているのか、という違いに気づくかどうか、だ」と述べて

います。

 

とにかく、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉を

親鸞の意図どおりに理解することは大変難しいことであったということ

は確かなようです。

 

なお、この手紙には、「私のもとからそちらへ出向いてくださったしるし」

とありますが、それが親鸞の息子・善鸞を指すかどうかは断言できないもの

の、「造悪無碍」の風潮を正すために京都の親鸞から派遣された、あるいは

そのメッセージを託された人がいたということを表しています。

 

さて、善鸞が関東の念仏者の誤った風潮を正し、幕府との軋轢を解決する

ために京都か派遣されて3年ほどたった頃から、徐々に親鸞の善鸞に対する

不審の念が頭をもたげてきます。

 

次のような手紙(善信房善鸞宛)があります。

 

「信願房がいうには、凡夫のならいで、悪が本当の姿なのだから、思って

はならないことを好み、身にもしてはならないことをし、口にも言っては

ならないことを言ってもよいのだ、と申しているそうですが、それこそ、

信願房の言いようとは思えません。往生に支障がないからといって、間違

ったことを好んでよいとは、お話したこともありません。何度考えても、

理解できません。」

 

「入信坊、真浄坊、法信坊にも、この手紙を読み聞かせてください。本当

にお気の毒なことです。性信坊には、春、上京されたときによくよく話し

ました。久下(?)殿にも、十分礼を申しのべてください。この人々が

間違ったことを互いに言っておられるとしても、道理まで見失っておら

れるのではないと思います。世間にもそういうことがあります。荘園の

所有者や幕府の役人たち、名主たちが間違ったことをするかといって、

農民たちが動揺することは絶対にないのです。」

 

「仏法を破る人はいません。仏法者が仏法を破る譬えとしてあるのは、

「獅子の身中の虫の獅子を食らうがごとし」ですから、念仏を仏法者

(旧来の仏教徒)が破り、妨げるのです。十分にご理解ください。」

 

この手紙では、親鸞の信頼の厚かった信願房について、信じられないよう

なことを善鸞が伝えてきたことに対して、親鸞の不審の念がいっそう募っ

てきたことがわかります。

 

善鸞は、信願房が「凡夫の本性は悪にあるのだから、何をしてもよいのだ」

という趣旨のことを言いふらしている、と親鸞に告げてきたようですが、

それに対して、親鸞は、そうした言動は信願房のものとはとても考えられ

ないとし、たとえ、間違ったことを言っているとしても、道理まで失って

いるとはとても思えない、と擁護しています。

 

そして、百姓への深い信頼感を示す一方で、念仏者の名を騙る似非念仏者

がいるのではないか、と案じています。

 

もっとも、この段階では、その「獅子身中の虫」が、まさか自身の息子で

あるとは知らなかったのです。

 

一方、善鸞の方は、父を裏切り、裏で自分の思うように関東の同胞たちを

組織しようとしていったようで、その結果、従来の教えから離れ、善鸞に

同調する人々が現れたという手紙を親鸞に送っていますが、それに対する

返事の手紙は次のようなものです。

 

「田舎の人々が、みな多年、念仏したことは無駄なことであったといって、

あちらでもこちらでも、人々がいろいろに申す事こそ、何度考えても、気持

ちの痛むことですが、耳に入ってきます。(この人々は)さまざまな書物を

写してもっているのに、それをどのように読んでいるのでしょうか。本当に、

様子がはっきり分かりません。」

 

「慈信坊(善鸞)が関東に下り、自分が父・親鸞から聞いた教えこそが

まことであり、今までの念仏はみな無意味なことだというので、大部の

中太郎のところに集まる人々は、90人とか聞きますが、みな慈信坊の

同調者となって、中太郎入道を捨てたとか聞いています。どういうわけで、

そのようなことになっているのですか。」

 

「(そうした評判につけても、慈信坊よ)どのように念仏の教えを説いて

おられるのですか。想像もできないことを耳にしますことこそ、気の毒に

思います。十分に事情を通知してください。」

 

ここでは、まだ、裏切られたとは思っていないようですが、善鸞に対する

不審感は頂点に達しているように思われます。しかし、親鸞から教えられて

きた念仏の教えは間違いだったという人も少なくない、さらに親鸞が書写し

て送った聖典類を放棄する人もいる、ということを聞くことになった親鸞に

とっては、人のことをとやかくいう段階ではなく、親鸞自身が今までどの

ような念仏を広めてきたのか、を省みざるをえない状況にいたっており、

落胆と悲痛の思いの方が強いように思われます。

 

しかし、しばらくして、とうとう善鸞の策謀を知る時がきます。一ヵ月ほど

後の手紙(真淨房宛)は、次のように記されています。

 

「念仏が理由になって、住みにくくなっておられると聞いています。本当に、

お気の毒です。」「慈信坊(善鸞)がさまざまに申すことによって、人々も、

御心がさまざまにおなりになった由、うけたまわりました。本当に気持ち

の痛むことです。ともかくも、仏の御はからいにおまかせすべきことです。」

 

「慈信坊が申しましたことを信頼しておられるようですが、私からは、念仏

者以外の人(領家・地主・名主)を強力な頼りとして念仏を広めよ、とは

決して申したことはありません。大変まちがったことであります。」

 

「この世によくあることですが、念仏を妨げようとすることは、かねて仏が

説き聞かせておられることですから、驚かれることはありません。慈信坊が

さまざまに申すことを、わたしから申していることだと理解されることは、

絶対にありませんように。教えのことも、思いもよらないふうに申しており

ます。お耳にお聞きいれなりませんように。ひどく間違ったことどもが伝わ

っています。いたましいことです。」

 

「奥郡の人々が、慈信坊にだまされて、信心もみな互いに動揺しておられる

こと、本当に、しみじみ悲しく思われます。私も人々をだましたように聞こ

えてくること、本当に、なさけなく思われます。それも、日ごろ、人々の

信心が定まっていなかったことがあらわれて聞こえてきたのです。本当に、

気の毒なことです。」

 

この手紙の内容から、親鸞は、はじめて関東の同朋の動揺が、善鸞による

ものであることを知ったということがわかります。善鸞が時の権力者と

手を握っていることや、善鸞が「奥郡」の人々をだましていることも

知ったと思われます。

 

それは、大変な驚きであったと思われますが、それよりも、善鸞の説教に

よって、今まで親鸞が説いてきた信心がひとたまりもなく動揺し、崩壊した

という事実に遭遇したことが大きなショックであったようです。

梅原猛氏は、「私はこのわが子善鸞への義絶状を読みながら、九十近い
親鸞に訪れた深い悲しみを思うのである。これは見方によれば、親鸞の
甘さが丸出しになった事件であるともいえる。肉食妻帯の罪は意外な所

で晩年の親鸞を苦しめたのである。わが子への愛があわや彼の積年の
努力を一挙に粉砕しようとさえしていたのである。」と述べています。


しかし、親鸞は、前回で紹介したように、深い悲しみのなか、はっきりと

善鸞との親子の縁を断絶します。そして親鸞はやがてこの絶望状態から脱し、

自らの信心を問い直し、現実の暮らしのなかで、念仏がまぎれもなく暮らし

の立脚点となる道筋を明らかにしてゆくのです。

 

 
 
 
 
 
 
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善鸞義絶-親鸞からの手紙 1-


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親鸞からの手紙 




吉本隆明氏は、『最後の親鸞』の中で、「親鸞自身の著述よりも、親鸞が

弟子に告げた言葉に一種の思い入れみたいにこめられた思想から、最後

の親鸞が見つかるはずなのだ。すると、やはりだれもがよいとみなす

『歎異鈔』や『末燈鈔』(親鸞の手紙を編さんしたもの)などを入念に

たどるほかはない。」と記しています。

 

『歎異鈔』については、以前に紹介しましたので、今回は、阿満利麿氏

の『親鸞からの手紙』を取り上げ、親鸞の奥深い思いのひだのような

ものに触れてみたいと思います。

 

さて、親鸞の手紙は、現在、42通残されているということです。その

うち真筆は11通で、ほかは書写されたものです。なお、形式的には、

手紙の原型を保っているものと、「消息集」として編さんされたものが

あります。

 

「消息集」というのは、『末灯抄(末燈鈔)』、『御消息(広本、略本)』、

『血脈文集』、『御消息集(善性本)』、『御書』であり、それぞれに

編さんの意図があり、また、編さんの時期も異なるということです。

 

手紙のなかで、年号が分かるもののうち、早いものは、1243(寛元

元)年12月21日で、親鸞71歳(数え年)のもの、最後の手紙は

1260年(文応元)年11月13日で、親鸞88歳のものです。

 

親鸞の年齢でいうと、手紙の大部分は80歳代のもので、手紙の宛先の

多くは、関東の門弟であり、個人宛もあれば、集団に宛てたものもあり、

回覧を希望しているものも少なくないということです。

 

このように、残された手紙は晩年に集中しているが、その理由の一つは、

いわゆる「善鸞事件」というものが関わっているようです。この事件とは、

親鸞の息子である慈信房善鸞が、関東の門弟たちの間で生じていた、専修

念仏の教えとは異なる風潮を教戒するために、親鸞の命を受けて関東に下

るが、かえって、親鸞の教えと反する言動をとり、さらに、関東の門弟

たちを新たに支配しようとする意図さえあらわにして、有力な門弟を時の

幕府に訴えたりし、念仏者の間に混乱と相互離反を招くことになったと

いうものです。

 

では、まず、このことに関して、親鸞から慈信房善鸞へ宛てた絶縁の手紙

から紹介したいと思います。

 

「仰せになったこと、くわしく聞きました。なによりも、哀愍房(あいみん

ぼう)とかいう人が、私からの手紙を入手したとかいっていること、まこと

に不思議に思います。今までに一度も姿を見たこともなく、手紙を一度も

もらったことがありません。私からその人に申すべきこともないのに、

私から手紙を得たといっているのは、あきれたことです。」

 

「また、慈信房(善鸞のこと)が教えている内容は、教義の上でもその名

を聞いたこともなく、知らないことです。それを慈信一人に、夜中(ひそ

かに)、親鸞が教えたのだと、慈信房が人々に言いふらしたために、親鸞

に対しても、常陸(ひたち)や下野(しもつけ)の人々はみな、親鸞が

嘘をついた、と言い合っておられるので、今となれば、父と子の関係を

断ちます。」

 

「また、母の尼に対しても、考えられないような嘘を言いふらし、言葉も

ありません。もってのほかのことです。その手紙(慈信から壬生の女房へ

手紙のこと)には、…継母に言い惑わされたと書かれているのは、とり

わけ情けない嘘です。そのときは(慈信と母が)一緒に暮らしていたにも

かかわらず、「継母」の尼が言い惑わしたのだ、というのは、驚きあきれる

嘘です。」「このような嘘どもを言って、六波羅の探題あたり、また、鎌倉

幕府などに申告したことは、悲しいことです。」

 

「これらの嘘は、俗世にかかわることですからどうでもいいことです。

それでも、嘘を言うことは不快なことです。ましてや、極楽へ往生する

という大切なことを言い惑わして、常陸や下野の念仏者を惑わせ、親に

も嘘を言いつけたことは悲しいことです。第十八願を、萎(しぼ)んだ

花にたとえて、人ごとに捨てさせたと聞こえてくること、まことに仏法を

謗(そし)る咎(とが)であり、また、五逆の罪を好んで犯し、人を損

ない惑わされたこと、悲しいことです。ことに、信心の仲間の和を破る

ことは、五逆の罪の一つです。親鸞に嘘を言いつけたことは、父を殺す

ことです。五逆のなかのひとつです。」

 

「このようなことどもを伝え聞くことは、嘆かわしいこと、言葉もあり

ませんので、今は、親ということはありませんし、子と思うこと、思い

切ってしまいました。(このことを)仏・法・僧の三宝と仏法擁護の神々

に、はっきりと申し切りました。悲しいことです。」

 

以上の内容ですが、さて、まず、親鸞が息子の善鸞との親子の縁を切る

とまで記した理由に何かということです。

 

手紙からは、善鸞がいろいろな嘘をついていたということが伺われますが、

親鸞は、「俗世にかかわることですからどうでもいいことです」と記して

います。

 

それよりも、「第十八願を萎んだ花」にたとえるとか、教えを夜中にひそか

に善鸞唯一人に伝授したとか、関東の念仏者を誹謗したことは、明らかに

法然によって伝えられた仏教を歪曲、誹謗、否定しているということであり、

このことは、真実の教えのために生涯をかけてきた親鸞にとって、耐え

難いことであったようです。

 

阿満利麿氏は、「手紙の文面に即するかぎり、法然によって開示された本願

念仏の真実が否定された、という一点が最大の理由ではないだろうか」と

述べています。

 

なお、この手紙は弟子の顕智という人の筆写であり、親鸞の真筆ではない

ため、偽作であるという説も一部あったようですが、阿満氏は、偽作では

ないとしています。

 

また、手紙のなかに「継母に言い惑わされた」ありますが、この文面から、

善鸞は恵信尼の実子ではなかったのではないかという推測がなされたり

しているようです。

 

恵信尼の残した書簡を除いて、親鸞の結婚に関する資料はない以上、すべて

が推測の域を出ないが、現在の研究では善鸞は親鸞と恵信尼の間に生まれた

子であり、「継母」は善鸞の虚言と見るのが妥当のようです。

 

いったい善鸞は何を手にいれようとしていたのかは分かりませんが、「この

ようなことどもを伝え聞くことは、嘆かわしいこと、言葉もありません」

とあるように、84歳になってわが子を義絶しなければならなかった親鸞

の深い悲しみが伝わってくるように思います。

 

しかし、親鸞は、この悲しみを内省への深まりに転化し、さらに、『正像

末和讃』や「唯信抄文意」、「一念他念文意」などのあらたな著述に励む

ことになるようです。

 

「この悲劇を契機として、親鸞の思索はまた展開するのであり、最後の

光芒を放つことになる。その意味では、義絶は個人的には深い悲しみを

もたらしたが、本願念仏思想の発展の上からは、貴重な深まりをもたらす

ことになった。」と阿満利麿氏は、述べています。

 

さて、善鸞義絶の手紙は、もう一通あって、それは性信房宛てになって

います。性信房は、親鸞が最も信頼を置いていた門弟ですが、「慈信(善

鸞)に関しては、親鸞の子どもであるという関係をきっぱりとあきらめ

ます」と善鸞義絶の意思を記すとともに、善鸞の画策にやすやすと

乗って信心を捨て、離反していった常陸・下野の同胞に対する嘆きと

悲しみが綴られています。

 

また、先の手紙にも登場した哀愍房について激しく批判していて、彼が

書いたという「唯信抄」の内容があまりにもひどいので「焼き捨てよ」

とまで記しています。

 

なお、善鸞の画策と時期を同じくして、この哀愍房というような人物が

登場したのは、<関東の同胞の組織が、その支配をめぐる争いを引き起

こすほどに、一種の魅力をそなえるまでに成長していたということでは

ないか>と阿満氏は述べています。

 

しかし、問題はそれだけにとどまらなかったと阿満氏は言います。善鸞も

哀愍房も、親鸞の権威によって同胞たちの新たな支配をたくらんだので

あり、このような親鸞の権威の利用の背後にある「人師」崇拝(専修念仏

の教えより親鸞そのものが崇敬されること)の悪弊、これこそが、親鸞の

もっとも恐れていた同朋集団の陥穽(落とし穴)ではなかったのかと言う

のです。

 

<宗教において、もっとも恐るべきは、このような「人師」崇拝であり、

本願念仏は、そうした「人師」崇拝から自由になる数少ない教えである

にもかかわらず、そのなかから、のちには親鸞の血統を法主とする教団が

生まれてくる。皮肉といえば、これほどの皮肉はないであろう>と阿満氏

は述べています。

 

なお、悲痛な文章が綴られている中で、受け取り手である性信が書いた

「真宗聞書」という一書について、それは「私が申していることと違い

ません」と述べ、親鸞の喜びが表現されています。

 

性信は、先にも述べたように親鸞がもっとも信頼していた門弟で、下総

横曽根門徒のリーダーであり、親鸞のもっとも早い時期の門弟であると

言われています。よって、現存する手紙の宛先は、この性信宛がもっとも

多いようで、のちに、それらを集めて「血脈文集」という消息集が編さん

されます。

 

「血脈」とは血統ではなく「法脈」のことで、法の正統な伝承を示す言葉

ですが、そのような消息集が編まれたということは、親鸞滅後、専修寺や

本願寺が教団として勢力をもつようになってくることに対抗して、性信を

開祖とする坂東法恩寺に結集した同胞が、法然・親鸞・性信という法脈

こそがもっとも正統であることを示すためであったと推測されている

ようです。

 

「それにしても、善鸞の策動以来、同朋たちの離反を目の前にして悲嘆に

陥っていた親鸞にとって、性信の存在は勇気を与えてくれたにちがいない」

と阿満氏は述べています。

 

 

 
 
 
 
 
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神秘体験・神秘主義-「宗教的経験の諸相」3-


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ウィリアムジェイムズ1 
 (ウィリアム・ジェイムズ)



ウィリアム・ジェイムズは、宗教的生活というものは、見えない秩序が

存在しているという信仰、および、私たちの最高善はこの秩序に私たちが

調和し順応することにあるという信仰から成り立つといえるとし、そして、

個人的な宗教経験というものは、意識の神秘的状態にその根をもっている

と考えられると述べています。

 

前回、紹介した回心、とりわけ、瞬間的な回心というものは、一つの神秘

体験、見神体験という側面がありました。

 

今回は、神秘体験および神秘主義に焦点を当て、ジェイムズがこのことに

ついてどのように考えているかを見てみたいと思います。

 

彼は、まず、「意識の神秘状態」という表現は何を意味するのか?私たち

は、神秘的状態をほかの状態からどう区別するのか?を問わねばならない

としています。

 

その際、「神秘主義」および「神秘的」という語は、しばしば、私たちが

はっきりしない、茫漠とした、感傷的な、事実的にも論理的にも根拠が

ない、というような考えに投げかけられる非難のための用語として使われ

たりするため、この語に制限を加える必要があるとして、神秘的状態と

いうものの四つの標識を掲げています。

 

1.言い表しようがないこと

この状態を経験した人は、すぐに、それは表現できない、その内容にふさ

わしい報告を言葉であらわすことはできないとされる。そうすると、当然、

その性質がどんなものであるかは直接経験しなければわからないことに

なる。それは他人に伝えたり感応させたりできないということになる。

この特性から見ると、神秘的状態は知的な状態よりもむしろ感情の状態に

似ている。

 

2.認識的性質

神秘的状態は、感情の状態に大変よく似ているけれども、それを経験した

人にとっては、また、知識の状態でもあるように思われる。神秘的な状態

は比量的な知性では量り知ることのできない真理の深みを洞察する状態で

ある。それは照明であり、啓示であり、どこまでも明瞭に言い表され得ない

ながらも、意義と重要さに満ちている。

 

3.暫時性

神秘的状態は長い時間続くことはできない。まれな例は別として、半時間、

あるいはせいぜい一時間か二時間が限度であるらしく、それ以上になると、

その状態は薄れて、日常の状態に帰してしまう。消えてしまえば、その状態

は、たいてい不完全にしか記憶によびもどすことができない。しかし、その

状態が再び起これば、それと認められる。そして、再発また再発と、絶えず

発展してゆくことがあるが、その再発のたびごとに、内面的な豊かさと重大

さとがますます強く感じられてくる。

 

4.受動性

神秘的な状態の出現は、たとえば、意識を集中するとか、何らかの肉体的な

動作をおこなうとか、その他、神秘主義の手引きなどに定めてあるいろいろ

な方法とか、そういう自発的な準備操作によって容易にすることができるが、

この特殊な性質の意識状態が一度あらわれると、その神秘家は、まるで自分

自身の意志が働くことをやめてしまったかのように、ときにはまた、まるで

自分が、ある高い力によって掴まれ、担われているように感じる。

 

以上の四つの特徴は、特別の名称を付して慎重な研究を要求するに足るほど

特殊な一群の意識状態をなしているとして、ジェイムズは、これを神秘的な

群と呼んでいます。

 

さて、次に、ジェイムズは、偶発的、散発的に現れる神秘的意識について、

いくつかの例を掲げています。それも、神秘的経験の範囲は極めて広いため、

限られた時間内で結論を出すためには、同類のものを並べて研究する必要が

あるとして、特別に宗教的意義を要求しない現象から、極端に宗教的である

と見られる現象へと考察を進めています。

 

ある格言とか文章とかのもっている深い意味が、何かのはずみでいっそう

深い意味を帯びて突然にパッとひらめく、といった、もっとも単純な神秘的

経験の階梯、また、いつか、遠い、遠い昔、ちょうどこの同じ場所で、この

同じ人々と一緒に、まったく同じことを話したことがあるというような、階

梯がもう少し進んだ段階、さらに、アルコールによる酩酊時や、麻酔時の

啓示的体験を紹介してゆきます。

 

そして、次に、宗教的生活の一要素としての宇宙的、神秘的意識が方法的に

養成される場合について論究しています。

 

ヒンズー教徒、仏教徒、イスラム教徒、キリスト教徒と、これらすべてが

方法的に養成をしているというのです。

 

もっとも、ジェイムズは、インドにおけるヒンズー教、とりわけ、ヨーガの

修練、そして、仏教の禅における修行について手短に触れたあと、あまり

なじみのないイスラム世界におけるスーフィ教派、そして、どちらかという

と内部から猜疑の目で見られているキリスト教の神秘家の告白の例示に多く

を費やしています。

 

ペルシャの哲学者で神学者であるアル・ガザリーの告白とは次のようなもの

です。

 

「スーフィ教徒たるための第一の条件は、神ならざる一切のものを心から

追放することである。観想的生活のための第二の鍵は、燃えるような魂から

発する謙虚な祈りであり、神の瞑想に心をまったく呑まれてしまうことで

ある。しかし実はこれはスーフィ教的生活の初歩に過ぎないのであって、

スーフィ教の究極は神のなかにまったく吸収されてしまうことである。」

 

「初歩からして、スーフィ教の啓示は、目醒めたままで天使たちや預言者の

魂を目の前に見るほど鮮やかな形をとってあらわれる。…それから法悦は

形や姿の知覚から、あらゆる表現を絶する程度にまで上昇し、それを説明

しようとすると、その説明の言葉が罪を含まざるをえないまでに至る。」

 

「この法悦の状態を経験したことのない者は、預言という名を知っている

だけで、預言の真の本質について何も知らない。」

 

よって、<法悦状態が伝達できないということが、すべての神秘主義の

基調である、神秘的真理は法悦の経験をもつ者に対してのみ存在し、それ

以外の者に対して存在しない>とジェイムズは述べています。

 

さて、キリスト教会に目を移と、多くは猜疑の目で見られたが、そこにも

神秘主義者は存在したということです。これらの人々の経験が先例となり、

主にカトリックにおいて、それを土台としてその上に神秘神学の体系が

集成されたようですが、この体系の基礎をなしているのは「祈り」

もしくは瞑想です。

 

聖テレサは、神秘的経験における最高のものと見なされる「合一の祈り」

について次のように述べています。

 

「合一の祈りにおいて、魂は神に関しては十分に醒めているが、この世の

事物と魂自身とに関してはまったく眠っている。合一の続く時間は短いが、

その間、魂はまるで一切の感覚を失ってしまったかのようである。そして

何か一つの事を考えようと思っても、考えることはできないだろう。…

要するに、魂はこの世の事物に対してまったく死んだも同然、ただ神の

なかでのみ生きているのである。」

 

「魂がわれに帰ったとき、自分が神の中にあり神が自分のなかにいました

ことを疑うことがまったく不可能なようなふうに、神は魂の奥深くに身を

置き給うのである。」

 

「しかし、見えないものに関してどうしてそのような確信をもつことが

できるのか、と反問されるであろう。この質問に対して私は答える資格が

ない。それは神の全能の秘密であって、私が立ち入るべき筋合いのものでは

ない。私が知っているすべては、私が真理を語っているということだけで

ある。そして、この確信をもっていない魂が真に神と合一したことがあろう

とは、私は決して信じないであろう。」

 

しかしながら、以上のような恍惚状態は、医学的な見地から見ると、迷信と

いう知的な基盤と、変質およびヒステリーという肉体的な基盤の上に立つ

暗示的、模倣的な催眠状態以外の何ものでもないとされます。

 

ジエイムズは、それが事実であるにしても、こういう状態が惹起する意識に

ついての価値に関しては、何一つ私たちには語ってくれないのであるから、

この状態について精神的な判断を下すには、表面的な医学談で満足しない

で、その状態が生活に対していかなる果実を結ぶかを検討しなければ

ならないとしています。

 

そして、<生まれつき受動的な性格で知性の弱い神秘家たちは、実際生活

からの過剰な脱俗に陥りやすいが、生まれつき精神と性格の強い人々の

場合は、それとは正反対の果実が見出される。恍惚状態の習慣をしばしば

極度にまで押し進めたスペインの偉大な神秘家たちは、その大部分が、

明らかに不屈の精神とエネルギーを示したが、それはかえって彼らが恍惚

の状態に耽ったればこそのことであった>と述べています。

 

また、神秘状態においては、個は絶対者と一つになり、同時にまた一体で

あることを意識するというが、このように、個人と絶対者との間にある一切

の障壁を克服することは、神秘主義の最大の功績であるとも述べています。

 

ともかく、神秘的な状態は、その状態の霊感が促す方向に向かって、魂を

ますます精力的にすることができるが、もし霊感が間違ったものであったら、

それに注がれるエネルギーがいっそう間違ったもの、不正なものになると

いうことです。

 

これらのことから、神秘的な意識の一般的な特徴としては、「それは全体的

に見て汎神論的で、楽観的である。あるいは悲観論の反対である。それは

反自然主義的であり、二度生まれ、あるいは、いわゆる別世界的な精神状態

ともっともよく調和する」とジェイムズは述べています。

 

さらに、神秘主義は二度生まれと超自然性と汎神論にくみするとして、何ら

か、それが真理であるという保証を提供するのかという疑問に対して、次の

ように論述しています。

 

1.神秘状態は、十分に発達した場合には、普通、その状態になった個人に

対しては絶対的な権威をもち、そして権威をもつ権利がある。(私たちの感覚

は事実の或る状態を私たちに確信させるが、神秘的体験をした人々にとって、

それがある事実の直接知覚であるのは、私たちにとって感覚がつねに事実の

直接知覚であったのと同じことなのである。…要するに神秘家は不死身なの

であって、私たちが好もうと好むまいと、そっとその信条を享受させておく

ほかない。)

 

2.神秘的状態の啓示を、その局外者に対して、無批判的に受け容れること

を義務づけるような権威は、そこからは決して出てこない。(神秘家たちに

しても、私たちが局外者であって個人的にその召命を感じないかぎり、彼ら

がその独特な経験について伝えるところを受け容れよと私たちに要求する

権利などもっていないということを付言する。)

 

3.神秘状態は、悟性と感覚とだけに立脚する非神秘的あるいは合理主義的

な意識の権威を打破する。神秘状態は、そのような意識が意識の一種類に

すぎないことを証明している。神秘的状態は、私たちのうちにそれに活発に

呼応するものがあるかぎり、私たちが安んじて信じ続けていい別の秩序の

真理が可能であることを教える。

 

ところで、ここに至って、ジェイムズは、先に紹介したような神秘的な状態

の特徴について、つまり、汎神論的、楽観論的などとしたことに対して、

真理を単純化しすぎたのではないか、と恐れると述べています。

 

というのも、説明上の理由から、神秘主義の古典的伝統に依拠したからだと

しています。そういう古典的な宗教的神秘主義は一つの「特権的な場合」に

しか過ぎず、それは一つの抜粋であって、もっとも適した標本を選び出し、

これを「学派」として保存することによって、類型に固定されたものであり、

厳密に取り上げるならば、一致と見なされているものは、大部分、そうで

なくなってしまうと述べています。

 

つまり、深く掘り下げると、ジェームズが先に論述したほどの一致を示して

いないのであり、汎神論や楽観論でひとくくりにできないということです。

 

それと、宗教的神秘主義というものは、神秘主義の半分にすぎないと言い

ます。あとの半分には、積み重ねられた伝承というものをもっていない、

妄想的な精神病状態をも含む、低い神秘主義、あるいは倒錯的、悪魔的な

神秘主義が含まれている領域というものがある。いずれも、「天使と蛇」が

併存していると言える潜在意識、超意識の広大な領域から生ずるものである

が、それには、絶対に確実な信任状はなく、そこから出て来るものも、外に

感覚世界から来るものとまったく同じように、ふるい分けられ、吟味され、

経験全体との対決をいう試練を経なければならない、と述べています。

そして、「私たち自身が神秘家でないかぎり、神秘主義の価値は、経験的

方法によって確かめなければならないのである。それゆえ、私はもう一度

くり返して言う。非神秘主義者が、神秘的状態を、優越した権威を本質的に

授与されていると認めるべき義務はないのである」と言明しています。

 

しかし、そう言いつつも、ジェイムズは、「かかる神秘的状態が現に存在

しているという事実は、非神秘的状態こそ私たちが信ずることができる唯一

にして究極的な指令者であるとする非神秘的状態の主張を、絶対的に打破

するものである」と繰り返し言います。

 

一般に、神秘的状態は、普通の外的な意識事実に、超感覚的な意味を付与

するにすぎないとしても、神秘的な状態は恋愛や野心の感情のように、興奮

であり、私たちの霊に与えられた賜物であって、この賜物によって、すでに

客観的な私たちの目の前にある事実が、新しい表現を与えられ、私たちの

活動的生活との新しい関係を作り出すというのです。

 

高級な神秘的状態は至上の理想を、広大さを、合一を、安全を、そして至上

の休息を教えている。その状態は私たちに仮説を与えてくれる。その仮説を

私たちが無視するのは自由であるが、思考者としての私たちにはそれを覆す

ことはできない。それが私たちに信じさせようとする超自然主義の楽観論

とは、どう解釈されるにせよ、結局、この人生の意味をもっとも真実に

洞察したものであろう、というのです。


 






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回心-「宗教的経験と諸相」2-


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宗教的経験の諸相2 




「回心」というと、パウロの回心、すなわち、それまでユダヤ教徒として

キリスト教徒を迫害していたパウロが、ダマスコ(ダマスカス)への途上に

おいて、「サウロ、サウロ(パウロのユダヤ名)、なぜ、わたしを迫害する

のか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いたその後、目が

見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロ

のために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目に見えるように

なった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった、という瞬間的、

劇的な意識の転換の出来事がよく知られています。

 

今回は、この回心ということについて、紹介して見たいと思います。

 

さて、ウイリアム・ジェイムズは、回心について、まず、ある人の次の

ような体験を例示しています。

 

「私は信仰によって、救い主が、人の姿をして、およそ一秒間、部屋の中に

あらわれ給い、両手をひろげて、来たれ、と私に言い給うのを見たと思った。

翌日、私はおののきながら喜んだ。すぐそのあとで、私は死にたいと言った

ほど、私の幸福は大きかった。私の知るかぎり、私の感情のなかのどこにも

この世の入る場所がなかった。そして毎日、毎日が私にはまるで安息日の

ように荘厳に思われた。私は全人類が私と同じように感じてくれればよいと

熱望した。私は、彼らがみな神をこの上なく愛することを望んだ。このとき

まで私は非常に利己的で独善的であったが、いまや私は全人類の福祉を願い、

私の最悪の敵をも温かい心で赦すことができた。そして、もし私が神の御手

のなかにある手段、誰かの魂の回心の手段たりうるなら、私は喜んで、いか

なる人の嘲笑や冷笑にも耐えられるし、神のためになにごとも我慢できる

ように感じた。」

 

そして、ジェイムズは、次のように述べています。

 

「回心する、(精神的に)再生する、恩恵を受ける、宗教を体験する、安心

を得る、というような言葉は、それまで分裂していて、自分は間違っていて

下等であり不幸であると意識していた自己が宗教的な実在者をしっかりと

つかまえた結果、統一されて、自分は正しく優れており幸福であると意識

するようになる、緩急さまざまな過程を、それぞれあらわすものである。」

 

「少なくともこの過程が、一般に回心と言われるものであって、そのような

精神的な変化を引き起こすのに、直接の神の働きかけが必要であると考える

か否かは別問題である。」

 

ところで、この「回心」は宗教固有の現象なのでしょうか? 回心の心理的

メカニズムというものは一般化できるのでしょうか?

 

ジェイムズは、カリフォルニア大学のスターバックという学者の、キリスト

教福音主義派の団体の中で育った若人たちに起こる「回心」が、あらゆる

階級の人間の青春期にごく普通に見られる豊かな霊的生命の成長と、その

あらわれ方がとてもよく似ているという主張を紹介しています。

 

それは、普通、14歳から17歳ぐらいまでの間に起き、自分は未完成で

あり不完全であるという感じ、思案、意気沮喪、病的な内省、罪悪感、来世

に対する不安、懐疑の悲しみなどに囚われるが、次第に自分のもついろいろ

な能力をいっそう広い視野に適応させるにいたるために自信が強められて、

幸福な安心感と客観性を得るにいたるというものです。

 

ジェイムズも、青年期におけるこのような回心は、小児が小さな世界から

成年の広い知的および精神的な生活に移行するときに付随しておこる現象

だとして、スターバックの結論に同意しています。

 

ただし、スターバックがここで念頭においているのは、主として教導や訴え

や範例によって昔から決まっている一定の模範型にはめ込まれてしまうよう

なごく平凡な人々の回心のことであり、このような模倣的な現象ではない、

できるかぎり直接の、本源的な形式の経験について考察する必要があると

しています。

 

さて、ジェイムズは、人間存在における精神的事象には二つの型があって、

それが回心という過程にも著しい差異となってあらわれると述べています。

 

回心の歴史においても、この二つの方法が実際に見いだされ、回心の二つの

型を私たちは与えられているのであるが、それを先のスターバックは、それ

ぞれ意志的な型および自己放棄による型と呼んでいます。

 

ただし、意志的な型とは、再生的な変化が、普通、漸次的であって、道徳的

および精神的習性の新しい組織が少しずつ組み立てられてくるものを指すが、

潜在意識的な影響がいっそう豊富で突発してしばしば人を驚かせる自己放棄

型のものとの差異は見かけ上のもので、根本的なものではないようです。

 

もっとも意志的、随意的におこなわれる種類の(精神的)再生のなかにさえ、

部分的な自己放棄の何節かがさしはさまれているということであり、最後の

一歩そのものは、意志以外の力にゆだねられねばならないということです。

 

では、最後の瞬間になって自己放棄がなぜそれほど不可欠なのでしょうか?

 

ジェイムズは、スターバックの説明を、興味深い、そして図式的な考えで

あるが真実に近いと思われるとして、次のように紹介しています。

 

<まず、回心しかかっている人のなかには二つのものがある。第一は、

現在の状態が不完全であり、間違っているという考え、逃れようと熱望

される「罪」の意識であり、そして第二は、到達したいとあこがれられる

積極的な理想である。>

 

<しかるに、私たち、大抵の人間にあって、私たちの現在の状態が間違って

いるという感じは、私たちが目ざすことのできるいかなる積極的な理想の

観念よりも、はるかにはっきりした意識であり、大多数の場合において、

「罪」がほとんど独占的な注意を奪ってしまう。したがって、回心とは

「義に向かって努力する過程というよりは、むしろ罪から脱出しようと

苦闘する過程」である。>

 

<よって、そのとき、人がしなければならないこととは、緊張をゆるめ

なければならない。すなわち、彼自身の存在のなかに湧き出てきつつある、

義を助成してくれる、より大いなる力に頼らなければならない。そして、

その力が始めた業(わざ)をその力に独特な方法で完遂させねばならない。

この見地からすると、身をゆだねるという行為は、人間の自己を新しい生命

に引き渡すことであり、新しい生命を新しく生まれた人格の中心にすること

であり、それまで客観的に眺めていた新しい生命の真理を内面から生きる

ことである。>

卑近な例えでいえば、いかに努力しても分からなかったことが、その努力を

放棄した瞬間に、その答えがわかってくる、といった感じでしょうか?


ジェイムズは、「「人間が窮地に陥るときこそ、神の働き給う機会(とき)で

ある」といわれるのは、自己放棄が必要であるというこの事実を神学的に

言いあらわしたものである」と述べています。

 

そして、以上のことから、なぜ自己放棄が宗教的生活の重大な転機と見なさ

れたか、つねにそう見なされなければならないかが理解できるるだろう

 

さて、ジェイムズは、このように回心の心理学的なメカニズムについて

触れたあと、やはり、注目すべきは、冒頭のパウロのような、神の恩寵と

結びついたような、著しい瞬間的な回心の場合であるとして、それを追求

しています。

 

このような回心は、しばしば、意識の恐ろしい感情的な興奮ないし混乱の

ただなかに、古い生活と新しい生活とが瞬く間に分離されてしまうもので

あり、特に、プロテスタント神学において演じた役割のゆえに、宗教的経験

の重要な様相となっており、この型の回心を良心的に研究しなければなら

ないとしています。

 

そして、ジェイムズは、瞬時に起こった劇的な回心の例をいくつか示した

あと、「以上の例だけで、突然の回心というものが、回心を体験する人に

とって、どれほど真実で、決定的で、忘れがたい出来事であるかを、十分

に諸君に示したであろう。回心の最中、回心者には自分が、上から自分の

上に行われる驚くべき変化の傍観者ないし経験者であるように思われるに

違いない。このことは、ありあまるほどの証拠があって疑う余地がない」

と述べています。

 

もっとも、回心が瞬間的なものでなければならにと主張するのは、プロテ

スタント全体ではなく、モラヴィア派に始まり、メソジスト派に引き継が

れているとされます。

 

プロテスタンティズムの普通の諸派は、カトリック教会と同じように瞬間的

な回心を重要視せず、自己絶望と自己放棄との激しい危機に続いて救いが経験

されるということがなくとも、キリストの血と典礼と個々人の普通の宗教上

の義務行為とだけで実際には救いを得るに十分だと考えられているようです。

 

さて、メソジスト派の人たちが重視する瞬間的な回心において、その経験は

自然的な過程であるよりは、しばしば声が聞こえたり、光りが見えたり、

幻をみたり、自動的な運動現象が起こったりし、また、ある高い力が外

から流れ込んできて、それにとり憑かれてしまったような感じがし、

その上、自分の本性が根本的に新しく生まれ変わったと信じさせるに足る

ほど不思議な歓びを与えるため、むしろ、一つの奇跡であるという感じを

抱くことになるようです。

 

しかし、この特定の宗派が重要視する瞬間的な回心は、特別視すべきもの

なのでしょうか? また、それほど突発的でない心の変化の場合と違って、

まさに神が現前し給う奇跡だと言えるのでしょうか?

 

ジェイムズは、その問いに客観的に答えるために、当時の心理学的な発見

について触れています。

 

この発見は、通常の中心と周辺とをもった普通の意識ばかりでなく、さらの

周辺の外に意識があり、それは一群の記憶、思想、感情の形で付加的に存在

しているというもので、特に、場を超えて存在する意識、あるいは識閾下に

存在するという意識の発見は、宗教的伝記の多くの現象の上に光を投げかけ

てくれると述べています。

 

この種の意識の超周辺的な生命が著しく発達している場合のもっとも重要な

結果は、人間の普通の意識の場が、そういう周辺からの侵略をうけやすいと

いうことであり、この侵略は、当人にとっては、説明しがたい行動衝動や、

妄想の形とか、幻視や幻聴の形さえとってあらわれ得るし、自動的に話した

り書いたりする方向をとることもあるとしています。

 

これらは「自動現象」と名づけられるものですが、自動現象のもっとも単純

な例は、いわゆる催眠術後の暗示現象だとされます。

 

そうだとすると、<そういう出来事が、個人の将来の霊的生活にどういう

価値をもっているかという問題をまったく除外して、心理学的な面だけを

とって見た場合、そこに見られる多くの特徴が回心以外のものに見いだされ

るということを私たちに思い出させ、そのために、私たちはそういう出来事

を他の自動現象と同じ部類に入れたくなり、そして、突然の回心と漸次的な

回心との間の差異をなすものは、単純な心理的特性であると考えたくなる>

とジェイムズは述べています。

 

つまり、瞬間的に恩寵を受けやすいという人というのは、ある広い領域を

所有していて、その領域で心的な働きが識閾下で行われることができ、その

領域から、第一次的意識の均衡状態を突然くつがえしてしまうような侵略的

な経験が生じてくるような人だということです。

 

これに対して、瞬間的な回心を特別視するメソジスト派の人たちから異論が

唱えられたようですが、それに対してジェイムズは次のように答えています。

 

「私たちの精神的判断、つまり、人間的な出来事あるいは状態の意義および

価値に関する私たちの意見というものは、もっぱら、経験的な根拠に基づい

て決定されなければならない。回心の状態の生活に対する果実が善いもので

あれば、たといその回心が一片の自然的心理であろうとも、私たちはそれを

理想化し尊重すべきある。また、もしそれが善き果実を結ばぬものならば、

よしそれが超自然的な存在によって与えられたものであろうとも、そんな

ものは躊躇なく片付けてしまうべきである。」

 

ここに、ジェイムズの回心というものに対する考え方がよく表れているよう

に思います。

 

彼が瞬間的な回心というものを重視するのは、それが、神が現前し給う奇跡

だからではなくて、それが宗教的生活において良き果実を結ぶのかどうかと

いう点であったということです。

 

瞬間的な回心が特別なもの、その力がただ超越的であるということだけでは、

その力が悪魔的ではなくて神的であるという推定を立証することはできない

のであり、その価値はそれが及ぼした影響によって決定されねばならない

とも述べています。

 

では、その果実として結実するものは何でしょうか?

 

果実、すなわち、達成されるものとは、「しばしば、精神的活力のまったく

新しい水準であり、比較的英雄的な水準であって、この水準に達すると、

不可能なことも可能になり、新しいエネルギーと忍耐力があらわれるので

ある。人格が変化するのである、人間が新しく生まれるのである」とジェイ

ムズは述べています。

 

そして、回心の経験の時を直接満たした特別な感情とは、まず、第一に、

高い力の支配という感じであり、そして、それは必ずしも常に現前する

とは限らないが、非常にしばしば、高い力(神)の現前であり、第二の特徴

は、今まで知らなった真理を悟ったという感じ、つまり、人生の秘儀が明ら

かになることであり、第三の特徴は、世界が客観的な変化を受けるように

見える、つまり、あらゆるものが新しく見え美化されるのだと述べています。

 

最後に、ジェイムズは、回心の締め括りとして、突然の回心の一時性、恒久

性の問題(再び堕落したり、逆もどりしたりすること)について、「生活に

する態度が変わり、たとえ感情は動揺するにしても、その態度は明らかに

不変で永続的なものとなる点にある。…言いかえれば、回心を経験して、

ひとたび宗教生活に対する一定の立場をとった人は、その宗教的感激が

どれほど衰えることがあろうとも、あくまで宗教生活を自己の生活と感ずる

傾向がある」というスターバックの結論を引用しています。

 

そして、ジェイムズ自身も、この問題の「要点は性格がこのように高い水準

へ高まってゆくその持続時間にあるよりは、むしろその高まりの本性と仕方

にあるのである。人間はどの高さからでも堕落する。」「回心の経験は、人間

にその精神的能力の高水位がどれだけであるかを示すものであって、これが

回心の経験の重要性をなすのである。― この重要な意義は、その経験の

長期の持続によって増大されはするが、後戻りして堕落したからといって

減少するものではない。事実として、すべてかなり顕著な回心の例は、たと

えば、私が引用した諸例は、みな永続的なものであった」と述べています。

 

以上のことから、瞬間的な回心というものは、一時的であれ、永続的であれ、
その人に強烈
な宗教的感激と不動の信仰心というものをもたらすことは確かな

ようです。そのため、宗教生活に大変重要な役割を果たしてきたと思います。

 

しかし、自動現象としてその心理的なメカニズムが解明されたため、逆に、
それが悪用されたとき、
その影響力の大きさゆえに、恐ろしい弊害をもた
らすことがあるということも考慮しなければなら
ないのではないかと思い
ます。







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「宗教的経験の諸相」


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宗教的経験の諸相1 



本書の著者、ウイリアム・ジェイムズというと、「プラグマティズム」の

代表的な思想家とされますが、「プラグマティズム」が実用主義、道具

主義、実際主義などと翻訳されているために、一見、宗教に否定的な書物

ではないかという先入観を抱くかもしれません。

 

しかし、「プラグマティズム」とは、経験不可能な事柄の真理を考えること

はできないという経験論を継承し、概念や認識をそれがもたらす客観的な

結果によって科学的に記述しようとする志向を持つ考え方を指すようで

あり、本書は、その観点から、逆に、徹底して宗教的経験、宗教的感情の

価値と意義を擁護するものになっています。

 

さて、W・ジェイムズが本書を執筆した直接の動機は、彼がイギリスの

エディンバラ大学から招聘されて行ったギフォード講義という自然宗教に

関する講義にあるようです。彼が友人あての手紙の中で、「宗教は私の生活

の最大の関心ではありますが、私はどちらかといえばどうにもならないほど

非福音主義的で、万事をあまりに非人格的に見すぎるようです。…心理学は

だんだん他の人にゆずっています。…今年が過ぎましたら、得られるだけの

きれぎれの時間を宗教的な伝記と哲学に費やすつもりです。…」と記して

いるように、そのころ、研究が心理学から哲学に移りつつあること、そして、

その移行のいわば媒介として宗教が大きな役割を演じていること、さらに

また、宗教が彼の生活の最大の関心であったことを明らかにしていると、

本書の翻訳者である桝田啓三郎氏は述べています。

 

つまり、ギフォード講義は、ジェイムズが早くから抱いていた宗教に対する

関心を結実させる機会を与えたのであって、宗教はもともと彼の本質をなし

ていて、生涯を通じて、その思索の基底をなし、原動力となっていたもの

だとしています。

 

また、本書が、ある意味で、「病的心理学の研究」だとジェイムズ自身が

見なしていたとされるように、当時、彼は精神病理学ないし異常心理学の

研究に強い関心を示したようです。

 

ジェイムズは宗教というものを、異常な精神現象のうち最高のものと見なし、

そういう見地からそれまでの研究の成果をこの書に注ぎこんだとも言えます。

 

さて、この書の成立には、さらに大きな動機があったようです。

 

それは、ジェイムズ自身が「宗教的憂鬱」と呼んでいる、彼の個人的な

体験、1869年から70年にわたる精神的不安の体験です。

 

当時のジェイムズの精神状態については、詳しいことは明らかではあり

ませんが、彼が肉体的な不健康のほかに、恐ろしい精神的危機の状態に

あったようです。

 

本書に例としてあげられているフランスの一憂鬱病患者の手記は、ジェイ

ムズ自身の当時の精神状態を述べたものだということです。

 

そこには、「この憂鬱症の経験には宗教的な意味がある、と私はいつも

思っている。…『永久にいます神は、わが避難所なり』『すべて労する者、

重荷を負う者、われに来たれ』『われは復活なり、命なり』などという

聖書の言葉にすがらなかったならば、私はほんとうに気が狂ったに違い

ない」と説明されているのですが、この体験によって宗教的神秘主義と

病的心理状態の深い理解を得られたとされます。

 

一方、弟ヘンリーへの手紙で「人間がこの世において頼りにしなければ

ならぬすべては、結局、ただ野性的な抵抗力でしかないように私は思う。

悪を見て見ぬふりをし、悪をていさいよく取り繕うことは、多くの人々に

はできるらしいが、私にはどうしてもできない。…悪は認容され、憎まれ、

われわれの身体の内に息のあるかぎり、抵抗されなくてはならない」とも

述べているように、彼の陥った精神的危機は、宗教的憂鬱であったと同時に、

生きる支えとなるような哲学を欠いているところから生じた、生きようと

する意志の衰弱によるものであったとしています。

 

彼の道徳は、悪に打ち勝つ希望という形をとるか、悪と戦って勇敢に死ぬ

決意という形をとるか、しかなかったが、それに必要な意志の力が当時の

ジェイムズには衰えていたというのです。

 

よって、<この精神的な不安からの救いは、ジェイムズにとっては、至高

なる者の恩寵を感ずるという宗教的な信仰によってもたらされるよりも、

自己信頼と道徳的自由の観念によってもたらされるものであった。しかし、

それと同時に、ジェイムズがこの経験において、病める魂をもつ二度生まれ

る者、つまり、救いを得るためには新しく生まれかわることを必要とする

人間の持つ気持に似た新生の感じを経験したということも疑うことはでき

ない>そして、<ジェイムズの善を求めて悪と戦う道徳的意志は、人間の

強さから生ずる「戦う信仰」とならざるをえなかった。すなわち、ジェイ

ムズにおいて、意志を刺激し動かすものは、戦う信仰ないし信念の形を

とった宗教だったのである。しかし、同時に、より以上に深くジェイムズ

の魂の底に潜んでいたものは、人間の弱さから生まれる「慰めとなる信仰」

であって、これこそギフォード講義全体の基調をなすものであり、そして

この信仰こそ、ジェイムズがかの精神的危機の体験を通して学び知ったもの

にほかならなかったのである」と桝田啓三郎氏は述べています。

 

さて、それでは、この講義において、何を語り、訴えようとしたのでしょう

か?

 

ジエイムズは、ある手紙の中で次のように述べているようです。

 

「私が課した問題は困難な問題です。第一には、「哲学」に反対し「経験」

を弁護し、それが世界の宗教的生活の真の背骨であることを論ずること、

第二に、聴衆あるいは読者に、私自身が信じざるをえないことを、すな

わち、たとえすべての宗教の特殊なあらわれ(つまりその教条や理論)は

不条理であったにしても、しかし全体としての宗教の生活は、もっとも

重要ないとなみであることを信じさせることです。ほとんど不可能に近い

課題で、私には果たせないかもしれません。けれども、やってみるのが私

の宗教的行為なのです。」

 

また、これとは異なる手紙では、「この講義で私のとった立場は次のとおり

です。すべての宗教の母なる海と水源は、神秘的という言葉をごく広い意味

に解して、個人の神秘的経験のうちにあります。すべての神学やすべての

教会主義は、上積みされた第二義的な産物です。そういう経験は、その経験

をする当人の知的な先入観と容易に結びついてしまうので、それ自身の固有

な知的表現をもたないと言ってもよいくらいですが、知性の住むところより

もより深い、より肝要で実践的な領域に属しています。そのために、神秘的

経験は知的な論証や批評によって論破されることもできないのです。」

 

「私は神秘的あるいは宗教的意識を、神託が侵入してくる薄い隔膜をもった

広い識閾下の自己というものをもっていることに結びつけて考えます。

私たちは、私たちの通常の意識よりもいっそう大きくていっそう力強い、

それにもかかわらず私たちの意識が連続している、ひとつの生命圏の

現前を知らされずにはいられません。」

 

「そこから私たちが受けとる印象や刺激や情緒や興奮は、私たちが生きて

いくのに力を貸してくれます。感覚の彼方にひとつの世界があることを、

いやおうなく確信せしめます。私たちの心を動かし、あらゆるものに意義

と価値を与え、私たちを幸福にしてくれます。みずからそれを経験した

個人はそうなり、他の者はそれに従うのです。」

 

「宗教はこうして不滅なものです。哲学や神学は、この経験的な生命の

解釈を供するばかりです。識閾下の領域の周辺は、まだ知られてはいま

せんが、それは、先験的観念論によっては、私たちがその一部分と一つに

結び合っている絶対精神として扱われ、キリスト教神学によっては、私たち

に働きかける独特な神として扱われることができます。私たちの直接的な

自己でない何ものかが、私たちの生命に働きかけるのです。」と述べて

います。

 

では、この書は、当時の識者に、或いは世の中にどのように受け取られた

でしょうか?

 

フランスの哲学者ベルグソンは賛意を込めて次のように述べています。

 

「あなたは宗教的情緒の神髄を摘出することに成功されたように思います。

宗教的情緒が一種独特の喜びであるとともに、より高い力との合一の意識

でもあるということは、おそらく私たちがすでに感じてはいたことでしょう

が、しかし、この喜びとこの合一の本性は、分析することも表現することも

できないものと思われておりました。にもかかわらず、読者に一連の全体的

印象を次々と与えて、― 読者の心の中でその印象を相交わらせ、同時に

互いに融合させるという斬新は方法をとられたお蔭で、あなたにはそれを

分析し表現することができたのです。」

 

そして、また、「『宗教的経験』に関する彼の書物が出たとき、多くの人は

これを宗教的感情のきわめて生き生きとした描写ときわめて鋭い分析と

してしか見なかった。― つまり、宗教的感情の心理学にすぎない、と

言われた。これは著者の思想を甚だしく誤解してものであった。」

 

「実をいえば、ジエイムズはちょうどわれわれが、春の日に、柔らかい

そよ風を肌に触れて感じようとして窓からのり出したり、海辺で、風が

どちらから吹いてくるのかを知ろうとして船の行き来や帆の膨らみを

見まもるのと同じように、身をのり出して神秘的な世界を見まもって

いるのである。」

 

「宗教的な感激に満たされた魂は、ほんとうに高く持ち上げられ、われ

を忘れている。そのような魂は、われを忘れさせ高く持ち上げる力を、

科学的実験と同じように、われわれに生き生きと理解させるものでは

ないだろうか。」と高く評価しています。

 

ジェイムズにとって、「およそ一個の人間の宗教は、その人間の生命の

もっとも深く、もっとも叡智的なものである」と彼自身が述べている

ように、宗教は第二次的な産物ではなく、人間のもっとも根本的な

経験の事実であったのです。







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