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死生学と霊魂学


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前回は、難波絋二氏の『覚悟としての死生学』を取り上げ、そこにおける、

従来の死というものに対する常識や通説を覆すような鋭い論述をいくつか

紹介しましたが、今回は彼の死生学に対する考え方について触れるととも

に、死生学の限界を越える霊魂学について述べてみたいと思います。

 

まず、難波氏は、<近年における情報・バイオ革命の進展により価値判断

の多様化が生じ、これまでの宗教や哲学にもとづく倫理道徳に崩壊が生じ

てきている。そして、価値の多様化は、個人の死生観についても生じて

いて、これまでの不動と思われていた人間の誕生や死の基準までもが揺ら

いできている。そうなると、自分のなりの死生観をはっきり持っていない

人々は、ただ自分や他人の生物学的生を長引かすことに最大の価値を見い

だし、かえって充実した生を楽しむことから遠ざかってしまっているの

ではないか>というふうに、いわゆる生命至上主義に対する疑問を投げ

かけています。

 

また、<宇宙の誕生そして生命体の発生と進化の過程を述べたあと、宇宙

の時間の長さに比べれば、生まれる前の時間と死後の時間の方がはるかに

長いのであり、生は一瞬にすぎない>とし、さらに、DNAを根拠に「人類

」の新しい概念について、次のように述べています。

 

<最近になって遺伝子が詳しく調べられるようになると、人と他の大型霊長

類との間では、遺伝子の違いがほとんどないことが明らかになった。人と

チンパンジーのDNAの違いは1.6%で、ヒトとゴリラとの違いは2.3

%、ヒトとオランウータンの違いは3.6%であるが、DNAの違いが3%

以内である場合には、他の生物の場合には別科として扱わないのであり、

同じ基準にしたがうと、チンパンジーもゴリラもヒト科に属し、ただ種が

違うだけということになる。>

 

<このことは、キリスト教などの一神教が説くような、人間が自然界に占め

る特別な位置などなくて、少なくとも分類学上は、他の霊長類と並んで連続

的な位置を占めている。だから、未来の世界は大型霊長類を今とは違った目

でとらえるようになるだろう。こうして人間は自然の一員として位置づけら

れるようになり、その特権を放棄するようになるだろう。このような考え方

は、西洋のキリスト教的なそれよりも、古くからある東洋的な考え方に近い、

ということに注目しよう。>

 

そして、以上のようなことを踏まえて、難波氏は、<人生はその長さでは

なく、それが本人にとっていかに充実しているかが問題となるだろう。短命

で亡くなった人が必ずしも不幸だとは言えなし、長命がすべて幸福とも

言えない。単なる寿命の長短の比較ではなくて、もともと一瞬にすぎない

生を、どのように充実して生きるかということに重きを置くべきではない

だろうか。今夜の眠りが明朝目覚めるという保証は、蓋然性としてしか

存在しないのだから、一時的眠りと永遠の眠りとの差をあまり考えても

意味がない。それよりも、今日を力いっぱい充実して生きることが重要

なのだ>と彼の死生観を表明しています。

 

さて、難波氏の死生観は、それはそれで理解はできるとしても、彼が

付随して述べている霊魂や死後の世界の説明については、かなり疑問

が残ります。

 

彼は、<生きた人間にあるのは意識だけであり、霊魂は存在しない>と

して、<「霊魂の不滅」という説が生まれてきたのは、人間の意識のうち

で非常によく発達している「自分」という意識、別の言葉でいえば自我と

か自己意識にとっては、それが永遠に消滅するという認識は、非常に受け

入れがたいし、恐怖ですらあるから、霊魂が不死であってほしいという

願望を生み、さらに、それが宗教として発展したのだ>と述べています。

 

また、<現実の世の中は結果において不平等で、悪人が栄え善人が苦しむ

こともあり、一生医者知らずの健康に恵まれる人もいれば、終生を病苦に

悩む人もいる。生が一回きりしかないことはあまりにも不公平であり、

この世で苦しんだ代わりにあの世があって、敗者復活戦ができるとよいと

誰でも思う。この願望が生んだ妄想が「死後の世界」や「死後の審判」で

ある>と断言しているのです。

 

これは、前回、紹介したような難波氏の、生の側から見た死というものに

ついての鋭い指摘に比べて、とおりいっぺんの論述という印象を免れません

し、物足りないというか、肩透かしをくったような感じがします。

 

以上が、『覚悟としての死生学』の紹介ですが、これは多岐にわたる「死生

学」という学問的な試みの一つにすぎません。そのほかにも、様々な試みが

なされていて、なかには、死の壁を越えて生と死を包括にとらえようとし、

輪廻転生論のような伝統的な死生観を再検討しようとするものもあります。

しかし、生と死を遮断する壁は依然として崩されていないように思います。

 

さて、このように、現在の死生学は、期待を担って前進を続けながらも、

全体として死のこちら側のみに目を向ける形に止まっているようで、生を

全うすることによって人生を終え、納得した上で死を受容するということ

で完結しているように見えますが、そもそも、死とは、死の特異性とは何

なのでしょうか?また、死というものの向こう側を、また、生と死を俯瞰

的に見ることはできないのでしょうか?

 

評論家の芹沢俊介氏は、 「死に関して重要な事実がある。それは私が

実際に自分の死を経験することができないということだ。」「この経験

不能な主観的領域であるということが、自分の死について不安や恐怖、

嫌悪といった様々な感情を呼び込んだり、死後への想像力をかきたて

てくる理由と考えられる」と述べています。

 

また、思想家の吉本隆明氏は、『共同幻想論』のなかで、「人間にとって

<死>が特異さをもっているとすれば、生理的にはつねに個体の<死>と

してしかあらわれないのに、心的にはつねに関係についての幻想の死と

してしかあらわれない点にもとめられる。もちろんじぶんの<死>に

ついての怖れや不安といえども、じぶんのじぶんにたいする関係の幻想と

してあらわれるのだ。」

 

「人間は自己の<死>についても他者の<死>についてもとうてい、じぶん

のことのように切実に心的には構成することができないのだ。そして、おそ

らくこの不可能性の根源的な原因をたずねれば、<死に>おいて人間の自己

幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から<浸食>されるからだ

という点に求められる。」「人間の自己幻想(または対幻想)が極限の

かたちで共同幻想に<浸食>された状態を<死>と呼ぶ」としています。

 

つまり、死というものが自分で実際に経験することができないものであり、

死というものにまつわるあらゆる観念が共同幻想でしかないのだという

ことになり、「死」というものの真実、全体像を見極めることが現在の

地上の学問ではできないということになります。

 

さて、死という厚い壁を前に、どうしたらいいのかと途方に暮れてしまい

ますが、唯一の方法があるとすれば、この世の人間ではない存在、つまり、

死を経験した霊的存在、それも死後の世界とこの世を俯瞰的に見渡すこと

ができる高貴な存在に聞くこと以外にはないように思われます。

 

そこで、それが可能だとする学問、すなわち、人間の幻想ではない、頭脳

の産物ではない、実在の高貴な霊的存在よりもたらされたという「霊魂学」

という学問について紹介しておきたいと思います。

 

水波一郎氏は、今は絶版になった旧著『霊魂学を知るために』において、

霊魂学とは、まず、<それは、巨大な意識体による霊魂通信の体系である>

と述べられています。つまり、高貴な存在からの情報であり、人間の脳を

経由はするが、脳自体が考え出したものではないということです。

 

ただし、霊魂学は科学でないとされます。なぜなら、霊魂学は、霊魂から

の通信と、地上の霊媒の霊的知覚により成り立っていて、科学的に証明が

困難な、霊的存在との交流を前提とした理論であるため、宗教の範疇に

入るのだそうです。

 

いかなる学問も自説を強調し、それを相手に強要するとき、それは宗教的

独断といえる。科学においても、新しい説が出るたびに塗り変えられてゆく

が、それが進歩というものである。にもかかわらず、霊魂を頭から否定する

のはおかしい。<科学的にどちらも証明できないという立場が科学者として

正しい>としています。

 

なお、「霊魂学」の「霊魂」と何かというと、「霊魂」の定義は非常に複雑

で難しいため詳しい説明は割愛しますが、それは、本来、世間でいう死後の

世界の人間のことではない、死後の世界の人間は霊魂と呼ばす、「幽界の

人間」と呼ぶべきであるとされます。(ただし、霊魂という言葉を通俗的

な意味で使用される場合もあります。)

 

また、<霊魂学は人間と霊魂と神を結ぶ学である>とも述べられています。

つまり、人間の正体が霊魂であり、霊魂の究極の創始者が神である以上、

霊魂学はすべてを対象にするということです。

 

一方、<神学とは、誰もとらえられないものを学問とするゆえ、空想の学

である>とされます。<神など簡単に知りうるはずがないために、未熟な

幽体(死後使用する霊的な身体)をもった学者たちは、難しい理論をこね

回し、神を哲学の世界へ追いやってしまう>のだそうです。

 

また、<世の中には、高貴な世界を神界、天界、仏界、超越界などという

用語を用いる人がいるが、どの名称も、その世界を一度も見たことも聞いた

こともない人たちが好き勝手につけた名称であり、他の説と一致するわけ

もない。一部の霊学書を勝手に経典に祭り上げ、科学を名乗っている>に

すぎないとしています。よって、<神霊界通信など笑い話にもならない。

ましてや、神界通信など絶対にない。なぜなら、神霊もしくは神からの

メッセージは、抽象的な形でのみ可能であり、具体的な言葉にはならないし、

地上の言葉に神霊の想念はあてはまらず表現しようがない>からだそうです。

 

しかし、地上時代、神は人を創られたという教義を信じ、あるいは、様々な

神や教えを信じて死んでいった人々は、死後、自分の信仰が間違いであった

ことに気づくようです。なぜなら、死後の世界は、宗教教義の言うように

なっていなかったからです。それでも、指導霊が真実を示すとき、目覚める

人が出てくるようです。指導霊は、「あなたは神の前に霊魂を知るべきで

ある。しかし、そのうち、再び、神を求めるようにならねばならない」と

告げるのだそうです。人は神より、段階として、まず、高級な霊魂の言葉を

聞かねばならないということです。

 

また、水波氏の著書『神体』では、霊魂学について、次のように記されて

います。

 

<霊魂の学は、霊魂という「実質」を探究するものであり、本来、科学と

して登場しても不思議ではないのであるが、物質学の範囲でないために、

宗教的な分野でしか発見できていないのである。物質学では証明できなく

ても、有るものは有り、無いものはない。事実は一つなのである。もし、

多くの人が霊魂の学を体験を通じて学ぶならば、高級な霊魂達はより深く

人間に関わり、人々を真の幸福へと導けるであろう。>

 

<人間の心というものは非常に奥が深い。それは霊魂としての長い歴史を

刻んで行くからであり、肉体を捨てて、物質の脳を捨てても、生き残って

行くほど複雑だからである。霊魂の神秘は地上の人間には難しい。しかし、

それを無視しては、本当の自分は見えて来ない。いかに頭で考えても、霊魂

を無視した理論は人間を正しく把握しない。つまり、人間は自分の正体と

しての霊魂を探究すべきなのである。>

 

<死後、肉体を捨てれば、霊的世界で使用する身体を持つことになる。

人は、その身体を地上時代にあらかじめ持っている。つまり、人間の

肉体や心も、実は、霊的身体によって影響を受けているのである。霊魂

を無視して宗教はなく、霊魂を無視して学問は意味を持てない。よって、

霊魂の学は至上の学である。>

 

 

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『覚悟としての死生学』


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覚悟としての死生学 




ずっと前になりますが、「死生学」という学問について紹介したことが

あります。死生学とは、新しい学問であって、1960年代から欧米では

ホスピス運動が急速に 広がり、死に直面した患者や家族の要請に答える

ための教育、研究が進められるようになったところから始まったという

ことでした。

 

こういった学問が生まれた背景には、人が死を迎える場所は長年暮らして

いた自分の家であり、そこで家族や近隣の人々に看取られながら亡くなって

行くという伝統的な死のパターンが崩壊し、人々は、病院の中で見知らぬ

医者や看護師の人たちと延命装置に囲まれながらの死を余儀なくされる現代

特有の環境、そして、死について語ることはタブーとされ、その意味を問う

こともできないまま、孤独な死を迎えなければならないというような特異な

状況があったようです。

 

そして、それは、当初、デス・スタディーズと呼ばれ、死だけをテーマに

されていたが、日本や東アジアでは、儒教や仏教や道教の影響からか、

「死生学」とか、「生死学」というように、「死」と「生」をセットで

テーマにすべきだと考えられるようになったということでした。

 

近年においては、欧米では、今なお、死とその周辺において生起してきた

諸問題をデス・スタディーズの対象としている一方、日本では、範疇が

拡大され、死と生が表裏一体のものとしてあるような生の在り方、また、

死と隣り合わせとしての生の危機的な状況に関わる諸問題、また、

「いのちの尊厳」が問われるような諸問題をも死生学の対象とするように

なってきているようです。

 

さて、今回は、病理学者の難波絋二氏の『覚悟としての死生学』を紹介

してみたと思います。

 

難波氏は、生命倫理の具体的な問題を解くには、各自が己の死生観を確立

することが大切であるとして論を進めてゆくわけですが、死生観の確立の

前提として、いくつか大変興味深いことを述べておられますので、まず、

そのことについて触れておきたいと思います。

 

<<「死ぬ」と「殺す」は、同じ現象を、見る立場を変えて述べているに

すぎない。>>

 

<世の中は「殺す」という言葉を使うと物騒だし、いやな感じがするから

これを「死」という言葉で呼んでいるが、患者が自らの力で死ねないので

他人の補助を必要とする状態にあるとき、それを助けるのが良いか悪いか、

というのが尊厳死・安楽死問題の議論のポイントである>としています。

 

そして、<尊厳死というのは、基本的には死にゆく人自らが選ぶ死の形態

(自殺とその幇助)であり、安楽死には本人の意思がなく、慈悲の結果と

しての「殺し」といってよいだろう。つまり、本人に死にたいという希望が

あり、それを容れて苦痛のない死を与える場合は、安楽死でなく、尊厳死と

なる。本人の意思の有無が尊厳死と安楽死を分かつ重大な分岐点となるので

ある。本人の意思が明らかでない場合に行われる「安楽死」は、「慈悲殺」

という殺人の一種なのだということを理解する必要がある>と述べています。

(なお、難波氏は、後述するが、自殺及び自殺幇助は道徳的罪にならない

と考えている。)

 

もっとも、<現代における安楽死問題とは、人が事前に尊厳死について意思

表示をせず、「意識のない不治の病人」になった場合に、それにどう対処

するのが倫理的に正しいかという問題であるが、日本人には遺言を書くと

いう習慣はなかなか根づかない。しかし、徐々に日本人も自分の死に方に

ついて確固たる意見を持つことが、結局はもっとも幸せな人生を送ること

になるのだ、という考え方を持ち始めていると思われる>としています。

 

なお、<日本の倫理学者は、安楽死や尊厳死を倫理固有の問題として議論

しないで、すぐに「安楽死裁判」の判決を引きあいに出すが、欧米の倫理

学者は、倫理に反する法が存在する場合には、法を変える必要性を主張し

なければいけない、という常識を持っている。「法は最低の倫理である」

といわれているように、本来、法は倫理の枠内でなければいけない。法が

倫理を作り出すのは逆転現象なのだ>と述べています。

 

<<臓器移植と食人は類似している。>>

 

<もし食人を「人体成分を口から食事のかたちで体内に取り入れること」

と定義すれば、直接、血液を血管に入れる輸血は食人ではないのか?人体

製剤が医薬品の形で人体に投与されている例は枚挙にいとまがないが、

そうなると、我々が食人をタブーとするのは、肉食を好みながら、牛や

豚を殺すことには反感を抱くという偽善と同じものではないか>と述べ

ています。

 

よって、難波氏は、<臓器移植がカニバリズム、つまり人食いであり、

それは理想の医療ではありえない。しかし、それでも臓器移植をして

でも生き残りたいという患者の欲望を否定することができないとする

とき、やむをえず行うとしても、それほど見上げた行為をしているので

はないと考えるべきだ>としています。

 

<<なぜ、人が人を殺してはいけないのか。>>

 

難波氏は、<この問いに対する答えは簡単だ。人間はそういう社会規範を

発達させてきたからである。というよりも、そういう社会規範を発達させ

えた社会だけが生き残ってきたのだ、というほうが正確だろう>と述べて

います。だから、<歴史的には殺人を許容したり、賛美する社会もあった。

特に、それが仇討ちとか、主君のためとか、神のため、あるいは敵を倒す

ためとか共同体のため、という大義名分で美化されると、人類はいくら

でも喜んで人を殺してきた。殺したり、殺されるのを見ることに、人間は

喜びを見いだす性質があるようだ。「高貴な野蛮人」仮説(類人猿や原始人、

未開人はむやみに殺害をしないという仮説)は誤りだ>といいます。

 

<<人間には他人を殺す権利がある。>>

 

難波氏は、<恐ろしいことだが、人間には人間を殺す「権利」がそなわって

いるのだ。それどころか人間を食う権利だってある。だからメデューサ号の

筏事件とか、アンデスの聖餐事件のように、生き延びるために死んだ人を

食った場合には罰せられないし、ローマ法王も許しを与えたのだ。人間には、

他の動物と同じように自己の生存をはかる「機構」がある。それを「権利」

と呼んでよいだろう。だから、人間には他人を殺す権利(自分の意志で自由

に行なったり他人に要求したりできる資格・能力)があると認めなければ

ならない。この権利があるから自分を殺そうとする人間を殺しても、「正当

防衛」として罰せられないのである>としています。

 

また、<私の考えは、世間の人たちとは逆になっているかもしれない。世間

では人間を殺してはいけないという倫理的原則があり、その例外として

正当防衛や死刑や戦争における殺人があると考えているようだ。私は

殺人権はもともと誰にもあるもので、社会や文化や国家がそれを個人から

取り上げ、必要に応じて個人(例えば死刑執行人とか戦時の兵士とか)に

返しているのだと考える。これが正義という名目での殺人の本質だ>と

いいます。

 

なお、難波氏は、<こういう非常に残酷な、実も蓋もないことを書くのは、

われわれは自分で思っているほど高尚な存在ではなく、南京虐殺やユダヤ人

虐殺をやった人たちやポルポド派の兵士たちと、同じ人間であるということ

をいいたいためだ>とも述べています。

 

さて、そうすると彼は死刑制度存続論者かと思いきや、そうではなく、死刑

制度反対論を展開しています。

 

死刑濫用の危険性、死刑執行人(誰が死刑を行うのか)の問題、誤審の

問題、死刑と犯罪抑止力の効果などを考慮すると、死刑は廃止すべき

だというのです。

 

死刑は殺人の一種であり、それは国家が行う合法的な殺人であると結論

づけています。また、戦場における殺人はなぜ許されるのかという問いに

対して、彼は長い間この疑問を抱えていたとしながら、<「法は最低の

倫理である」といわれる。法が定めているのは、もっとも広い倫理の一部

にしかすぎず、法に違反していなくても倫理的・道徳的には許されない行為

がある、という意味で用いられている。しかし、殺人に関してはどうも違う

のではないか。法が禁止することで、二次的にそういう倫理が成立したので

あろう。もしそうだとすると、戦争における殺人は、国家が禁止することで

二次的にそういう倫理が成立したのであろう。もしそうだとすると、戦争に

おける殺人は、国家が禁止せずに奨励するのであるから、誰も倫理的痛みを

感じない理由がうまく説明できるように思われる>と述べています。

 

つまり、<人間の持つ殺人権は、歴史的に、家族内、部族内、国家内の順

で法的に禁止され、それにともない殺人を否定する倫理が生まれてきた。

しかし、国民国家は国家内殺人については、死刑を除いて禁止したが、

国家間紛争を解決する手段としての戦争を禁止しなかった。だから、国家

殺人としての戦争における殺人は禁止されていないのだ>としています。

 

<<考え抜かれた自殺は倫理的である。>>

 

先に、難波氏は、自殺および自殺幇助は道徳的罪にならないと主張して

いる旨を紹介したが、その理由について次のように述べています。

 

<明治以前の日本の歴史を見ると、自殺禁止の倫理がなく、自殺を否定

したような論述はまったくない。明治国家が自殺禁止を導入した理由は、

近代法体系の整備(特に刑法)にともないキリスト教的倫理が導入された

こと、そして勝手に死ぬことを禁止する方が国家にとって都合がよかった

からである。>

 

<西洋においても、キリスト教以前の古代社会では自殺は認められていた。

自殺を罪と考えているのは、本来、一神教の世界のみであったが、その権威

が揺らぐことにより、現代ヨーロッパでは、急速にキリスト教の法倫理から

抜け出しつつある。よって、現代における自己決定権の承認と自殺について

のパラダイム変換を真摯に受けとめる必要がある。>

 

<現行刑法を読めば、自殺自体が違法という認識で構成されていることは

疑うべくもない。しかし、論点は違法か合法かではなく、倫理的か非倫理

的かである。自己決定権という観点から、人には自殺する権利と自由がある

と認めるべきである。それは、もう一つの基本倫理、「他人に迷惑をかけ

ない」と両立するかたちで行わなければならないが、自殺それ自体に非倫理

的なところはない。>

 

<尊厳死とはつまるところ自殺の一種なのである。だから自殺を非倫理的

であるとする立場からは、これは本来まったく認めらないはずのものなの

だ。日本の優れた文学者であり、文化的指導者であった人たちが自殺して

いるが、彼らが人格破綻した精神病者であったとは誰もいうまい。だとする

と彼らは、一貫した倫理的人格を持っていたのであり、そのなかに自殺を

悪とする価値観はなかったと考えるのが妥当だろう。>

 

以上、死というものにまつわる従来からの常識、あるいは通説をくつがえす

ような病理学者難波紘二氏の刺激的な論述をいくつか紹介してきましたが、

次回は、これらを踏まえた難波氏の死生観について、また、その限界とそれ

を越える考え方について述べて見たいと思います。







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私はなぜ今ここにいるのか?-「輪廻転生を考える」2-



輪廻転生を考える魂とは何か




著者の渡辺恒夫氏は、遍在転生観という氏の考えを述べる前に、精神医学者

イアン・ステーヴンソンの、いわゆる生まれ変わりの科学的研究について

触れています。

 

そして、このような経験科学的研究は、私は霊魂であって、誰かとして生まれ

る前には他の誰かの身体に宿り、死んだ後には、また未来の誰かの体に宿ると

いう、いわゆる、素朴な心身二元論的世界観に基づいているが、それは科学的

方法と二元論を組み合わせたオカルト的パラダイムであり、それでは、「なぜ

私はこの霊魂であってあの霊魂ではないのか」という謎を解くことができない

として、否定的な評価をしています。

 

そして、いよいよ、著者の主張する遍在転生観なるものへと入って行きますが、

まず、著者が子どもの頃に体験した独我論的な体験というものを語っています。

 

それは、「もしかしたら、自分だけが意識を持つのであって、他人という他人は

意識なき機械人形にすぎないのではないか」という不思議な思いなのですが、

そんなことを考えるのは、世界で自分ひとりだと思っていた。

 

しかし、後に、あるマイナーな雑誌の小説の中に同じような感性を発見し、

大学入学後に、「自分にだけ意識があり、他人の意識は存在しない」という

学説が、「独我論」の名ですでに存在していたことを知った。

 

よって、社会的成熟に先立って、尖鋭な自己意識を発達させてしまう現代の

ような社会では、そのようなことを、意外と少なくない人々が一度は経験して

いる可能性があるのではないかという認識に達し、独我論そのものには関心を

失っていったという。

 

なぜなら、独我論が論理的に真理であるならば、すべての人間が独我論者

になることが期待されてよいが、他人というロボットが主張する独我論とは、

また、意味不明のしろものではないかと著者は言います。つまり、他人の

独我論を認めず、「独我論者は私ひとりでたくさんよ!」ということに

なるというのです。

 

ただし、この独我的体験と著者の関心事である「私は今なぜここに」と

いう問いは関係があるのではないかと言います。

 

つまり、どちらも、その奥により根源的な体験、「私の唯一性」という

直観を潜ませており、この根源的な直観のヴァリエーションとみなす

ことができるとしています。

 

かくして、著者は、独我論的な疑問を抱きつつも、独我論者にはなら

なかったのであり、自分の心の秘密を胸にしまい黙って墓場まで持って

ゆくつもりであったが、示唆的な、あるいは驚異的な体験をしたことが

きっかけで、それを理論化し世に出すことになったと述べています。

 

「なぜ、私は、今ここにいる自分であって、他の時間、他の場所にいる

誰かではないのか」という問いに対し、「私はあらゆる今ここにいるすべて

の人間だし、あらゆる今ここにいるすべての人間になるだろう」と、そして、

「他人という他人は心なき自動人形にすぎないのではないのか」という問い

に対し、「すべての他人は私の過去か未来のどちらかである」という考えに

至ったということであり、さらに、それを合理的に説明する論理、すなわち、

唯一の<私>が転生を重ねることによって同時にいたるところに存在すると

いう「遍在転生観」というものの想定に至ったとしています。

 

なお、皆が納得しがたい「同時代の誰かに転生する」ということを何とか

合理的に説明するために、著者は、客観的物理的時間ではない、今という

特異点のない、時間の第二元というものを想定しています。

 

それによると、「<私>は、時間の第二次元軸上を無限に転変を重ねる宇宙

唯一の自己意識である。宇宙に生きとし生けるあらゆる人間、あらゆる自己

意識的生命個体は、この唯一の<私>の、時間の第一次元軸上への投影に

ほかならない」としています。

 

そして、独我論と遍在転生観の背後には、「私の唯一性」という隠れた直観が

存在するとし、死生観としては独我論も「独我転生観」という一種の転生観の

特殊なケースであり、さらに独我転生観もまた、「穴だらけの遍在転生観」

と著者が名づけた死生観の特殊なケースであると述べています。

 

「遍在転生観」は、「独我転生観」から時間概念を拡張し、私がこの人間と

して生まれたという「偶然」を「必然」に転化し、神秘を少なくするために

登場したと言い、「穴だらけの遍在転生観」とは、多数の同時代人の中で、

ある人間は<唯一者(わたし)>の転生であり、他の人間はそうではないと

いう可能性を考えたものだとしているが、断絶があるとすれば、それは

「穴だらけの遍在転生観」の眷族と「遍在転生観」の間にあり、<<唯一者

(わたし)>が、ある特定の知的生命体である、という状態を、偶然と見るか

必然であると見るかの違いであると述べています。

 

よって、著者は、もちろん必然を選ぶが、その理由は、現在のところ、なるべく

多くを理解可能とし、なるべく「神秘」を減らしたいからだと答えるしかない

と述べています。

 

つまり、遍在転生観は、宗教に関心を持たない著者がいっさいの謎と偶然性を

可知化し説明し去り、神秘を追放せんとする、合理的主義的な意志のもとに

生み出されたものだということです。

 

かくして、自我の自覚の深まりにともなって、「今とここの謎」、つまり、

「私は今なぜここにいるのか」という謎が、最も深い意味で理解された自己

意識の唯一性の不思議が、若い世代の間で感知されつつある現代においては、

もう、従来の死生観の論争、すなわち唯物論的虚無主義 霊魂不滅の二元論

の対立に幕を下すころではないかと訴えています。

 

ところで、以前に紹介したことがある池田晶子さんが、「魂とは何か」の中で、

本書について、刺激的な書であったとしながら、次のような興味深い指摘を

しています。

 

「「唯一者(わたし)」は、なぜ、「いま・ここ」に居るかと氏は問う。この問い

を私は共有する。また、「梵我一如(ブラフマン=アートマン)」の自己意識が

<私>であるという事実も、私においても思考の原点となっている。けれども、

氏は、これに続く転生の考察において、<私>の唯一性にこだわるあまり、

論理が抽象に滑ってはいないだろうか。」

 

「<私>の背後に何らかの霊魂的なものを想定しない「記憶なき転生」が可能

にならなければならないと氏は言う。「遍在転生観」とは、<無意識的な妄念

とかコンプレックスとか性格傾向といった水準の連続性さえもなしに、成り

立つのでなければならないのである>と。・・・転生する主体が、もとより

それら社会的心理的水準と断絶しているところの「形而上的<私>」である限り、

当然そうでなければならないだろう。しかし、・・・この奇抜な転生観を、

勇を奮って発表した著者・渡辺氏の、「いま・ここ」での行為、その行為自体

は、それらもろもろの連続性なしの成り立つものだろうか、説明できるもの

だろうか。・・・こう言ってしまえるなら、「転生」とは、それ自体、「唯一者

(わたし)」によって為される宇宙大の行為の謂ではなかろうか。そして、

行為とは、他でもない「記憶」の謂ではなかろうか。「いまここに居る」と

いうこのことが「<私>が唯一である」というまさにその意味なのだ。だから、

「転生」を語ろうとするなら、<私>の唯一性を放棄せざるを得ないのでは

ないか、両者は同時に語れないのではないか。もしも両者を同時に語れたと

したなら、それは「<私>の転生」ではなくて、何か別のことを語っている

のだ。」

 

「真実を知る」ということと、「論理が成り立つ」ということとは別のこと

なのだ。もしも、真実を知ることのほうを選ぶなら、それは「記憶」を証拠と

する以外にはあり得ないだろう。なぜなら、記憶のない転生の論理とは、それ

自体、<私>によって考えられた論理だからである。しかし、問題は、その

<私>とは何か、これのはずではなかったか。氏の論理に欠けているのは、

たぶん、観察者としての<私>の視点、「<私>の転生」について考えている

これは誰か、この問いなのだ。」

 

「<私>とは、宇宙におけるその何がしかの一形式もしくは一位相にすぎない

のではないか。<私>という形式でないものにおける、たまたま<私>という

形式、そんな感じがする。この形式それ自体は、「人」でも「もの」でもない

ものである」と。

 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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ジャンル : 心と身体

「輪廻転生を考える-死生学のかなたへ-」



輪廻転生を考える 





本書は、もう20年ほど前に出版されたものですが、冒頭で、著者の渡辺恒夫氏

は、当時、社会を騒がせたオウム真理教の元信者がテレビで「私がここにいる

のはなぜ、どこから来てどこへ行こうとしているのか」といった発言をしている

のを聞いて、ついに時代はここまで来たか、という驚きと感慨を禁じ得なかった

と述べています。

 

というのも、著者もまた、他の人はこんなことは考えないだろうと思い、誰にも

話さなかったが、子どものころから「私はなぜ、今、ここにいるのか」という

問いを抱いてきたのだそうです。

 

そして、著者は心理学者なのであるが、全国の大学生を調査したところ、驚いた

ことに、この種の問いがおよそ10人にひとりに近い確率で学生の間で生じて

いることを見出したというのです。また、その問いへの解決として、輪廻転生

を述べる学生が少なからずいたということです。

 

しかし、著者は、日本人の死生観は輪廻転生観ではなかったはずだといいます。

カルマと輪廻転生を教義とするのはインドを発祥の地とする宗教に共通である

が、仏教が中国へ、さらに日本に渡来して定着するためには、転生輪廻の教義

を棚上げし、東アジア固有の祖先崇拝、祖霊信仰を取り入れざるを得なかった

のだとしています。

 

なぜなら、家族を基本とし、地縁と血縁を重視する価値観の中で育まれた日本人

は、自己を「個」として意識するよりも、むしろ、家や一族、村、さらに国家と

いった共同体の一部として自己を意識するという精神構造を身につけてきたが、

輪廻転生説によれば、来世は必ずしも、同じ家系や同じ村や、同じ国に生まれ

変わるわけでななく、輪廻転生説の本来の姿は、民族や国の枠を越えたもので

あり、そのような死生観は偏狭な共同体意識を壊してしまうことになるからです。

 

にもかかわらず、先に述べたような「私はなぜ、今、ここにいるのか」という

ような大宇宙と向き合う孤独な自己意識が顕在化してきたことは、日本人の伝統

的な精神構造と自己意識の構造が、ここ数十年で急速に変容しつつあることを

表しているのではないかと述べています。

 

「私は私を閉じこめている宇宙の恐ろしい空間を見る。そして自分がこの広大

な広がりの中の一隅につながれているのを見るが、なぜほかの処ではなく、

この処に置かれているのか、また私が生きるべき与えられたこのわずかな時

が、なぜ私よりも前にあった永遠と私よりも後に来る永遠のほかの点でなく、

この点に割り当てられたのであるかということを知らない」と言ったのは、

17世紀の最高の科学者であり哲学者でもあったパスカルですが、著者が

行った調査のなかで、「小学校の高学年くらいのとき、自分はどうしてここ

にいるのかな。この広い宇宙の中の銀河系の地球という惑星のこの日本の

国の中で、どうして生きているのだろうか、と漠然と考えた」と述べたという

19歳の女性の言葉を引用し、現代の少年少女は、自分が何ものであるかの

実感に乏しい、アイデンティティの確立が難しい時代に生まれたことにより、

パスカルが問いかけたような謎に年端もいかぬうちに直面せざるを得なく

なったのではないかと言っています。

 

よって、また、著者のものとは異なる調査においても大学生の52パーセント

が輪廻転生があるということに肯定的であるという驚くべき結果が出ている

のだとしています。

 

そこで、著者は、多くの若者たちが「私はなぜ、今、ここにいるのか」という

問いの解答を与えると感じられるがために輪廻転生観に引きつけられることも

十分想像できるとして、まず、伝統的な輪廻転生の歴史を振り返り、その起源を

探っています。

 

まず、著者は、紀元前1000年ごろ、輪廻転生説を説き、また、史上初めて

「自己とは何か」を体系的に探究したインドのヤージナヴァルキャという哲学者

に注目しています。

 

「解脱」とは、悟りをひらくことによって二度と生まれ変わらずにすむように

なることをいうのであるが、ヤージナヴァルキャは、それは宇宙精神ともいえる

ブラフマン(梵)との合一、すなわち梵我一如によらなければならない。そして、

その合一は、「真の自己」(アートマン)、つまり、「本当の私」を知ることに

よって成し遂げられると主張したとしています。

 

ただし、真の自己(アートマン)は、純粋の認識主体であるある以上、「自我

(アートマン)は・・・・・ではない」としか表現できないという。

 

つまり、私は自分の性格や感覚や感情や記憶や知識や思考について、意識でき、

認識できるから、それは私の認識対象であって、私という主体そのものではない

ということです。

 

日頃、「これが私だ」と思い込んでいるものに意識を向けては、「これは私では

ない」と否定を重ねてゆくと、もはや何ものにも意識が向かうことがなくなり、

自分が空っぽになったという瞬間がくる。そのとき、意識は特定の何かに向かう

ことがないため、かえって全宇宙に拡散して感じられるだろう。自分が空っぽ

になったため、自己と宇宙が一体として感じられる、この境地こそ、ブラフマン

とアートマンの合一の境地だというのです。

 

著者は、今から3000年近く前、インドの哲人によって説かれたこの教え

こそ、人類史上はじめて、絶対に認識の対象とはならない主体としての自我に

目覚め、自己いうものをと本格的に探究した記念碑ともいえるものだろうと

述べています。

 

ただ、このような梵我一如の境地は肉体をもつかぎり長続きはしないし、その

境地に達しなかった自我は、肉体が滅んだときも、感覚やら感情やら思考やらを

引き連れて、別の肉体に移って行く。感覚やら感情やら思考やらを「これが私だ」

と思い込んだがために、本当にそれらは私の一部となって霊魂というかたまりを

形成し、別に肉体の中で新しい生を始めることになるのだということです。

 

一方、輪廻転生については、秘密の教えであって、公開すべきものではないと

いうことを述べているところから、ヤージナヴァルキャの独創ではなく、以前

から伝えられてきたものであり、彼の教えの核心は、輪廻とカルマではなく、

アートマンの自覚にあるのではないかとしています。

 

かくして、著者は、輪廻転生観の体験的根源は、闇に没してつかまえられな

かったことになるが、私は死後どうなるかという死後の問いより、真の自己

とは何か、「私」とは何かという問いの方を優先させるべきあること、そして、

「私とは何か」がわかれば、死後についての問いも、おのずと明らかになる

かもしれないこと、これが仏陀以前の最大の哲人ヤージナヴァルキャから

私たちが学ぶべきことなのではないかと述べています。

 

そして、さらに仏教の輪廻転生観にも触れています。

 

仏教には無我説というものがあり、それは一言で言うと自我は存在しないと

いうことであるが、それでは輪廻の主体というものがなくなり、輪廻転生観と

いうものと矛盾することになる。そこで、唯識学派と呼ばれる仏教哲学の一派は、

心の根底にアラヤ識という無意識を想定し、アラヤ識の果てしなき流れが輪廻

の主体だとしたのだという。

 

よって、「自我」と思われているものは、無意識の流れにポッカリ浮かんでは

消える泡であって、この泡が消えるまでの短い時間が私たちの一生であり、

次の泡が流れに浮かんで現れるのが、転生、つまり、生まれ変わりだと

いうのです。

 

なお、仏陀自身は無我の説を説いたのではなく、非我の説、つまり、何かを

私であると思い込んでも、それは私ではない、ということを説いたのだと

いうことです。

 

そして、この無意識の考え方は、フロイトやユングの深層心理学の中に受け

継がれているが、梵我一如の不二一元論は、オーストリアの物理学者シュレ

ディンガーによって継承発展させられているという。

 

シュレディンガーは、自我の多様性はみかけだけであり、本当は唯一の自我が、

宇宙唯一であるがゆえに、宇宙精神(ブラフマン)というにふさわしい自我が、

あるだけである」という結論に達したということです。

 

しかし、著者は、それは素晴らしく壮大で魅惑的だが、やはり納得できない

部分がいくつかあるとしています。

 

最大の問題は、「時」の問いには答えても、「場所」の問いには答えていない

のではないか、つまり、なぜ私はここにいるこの人間であって、あそこにいる

あの人間ではないのかという問いにどう答えるのかと言います。

 

自分は神秘家ではないので、自分が同時に他のあらゆる人間でもあるという

事態を体験できないゆえに、この「同時」ということを考え直す必要がると

して、新たなる死生観を展開するのですが、それは次回としたいと思います。

 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「魂のライフサイクル-ユング・ウィルバー・シュタイナー-」を読む

魂のライフサイクル



 

著者は、まず、最初に、発達研究に「死後の世界」が出てきたら、本当にル
ール
「違反(カテゴリー・ミステイク)」だろうか。<発達を問うこと>と
<死後の
発達を問うこと>は、本当は全く関連がないか。関連がないというのは、

それ自体ひとつのものの見方ではないか。ひとつのパラダイムなのではないか。

ひとつの人生観・世界観・生と死のコスモロジーに過ぎないのではないか。

という問いを発しています。

 

輪廻・転生・再生・生まれ変わり・復活などの多様なイメージが含まれる「円

環的ライフサイクルにおける発達のパラダイム」をテーマとして取り上げ、

その意味と構造を、理論モデルとして描き出してみようというわけです。

 

そこで、ユング、ウイルバー、シュタイナー三つの思想と理論を「円環的ライ

フサイクル」というただ一点に絞って、横並びにして、そのズレを際立たせる

ことによって、それぞれの理論地平の位置関係を明らかにしようとします。

 

そして、まず、ユングのから見たライフサイクルから検討を始めます。

 

長くなるので、ごく要点だけをピックアップすると、ユングにとって、人生と

は、無意識的なエネルギーが、夢見る人の夢を舞台にして、勝手に作りだす揺ら

めく影絵でありその無意識的なエネルギーが、勝手に自己を実現してゆく

ことを、人生と呼んでいるのである。』『無意識の存在するであろうその場所を、

ユングは「心(ゼーレ、もしくはプシュケー)」と呼ぶ。』『<わたし>が「心

(ゼーレ)」を持つのではない。むしろ、「心(ゼーレ)が、<わたし>に現れ

る。』『その「心(ゼーレ)が、この<わたし>を場として、自己を実現する。

それが、ユングの地平から見た人生の姿ということになる。』としています。

 

よって、個人の魂が生と死を貫いて連続するとは、まるで次元が違って、むし

ろ、ライフサイクルという出来事それ自体がゼーレの中で生じる。つまり、

「魂(ゼーレ)の自己展開」として、理解されるということになるようです。

 

次に、ケン・ウイルバー場合はどうかというと、ユングがついぞ名前をつける

ことをしなかった、その「心<ゼーレ>」の究極の統一状態を、一言「梵我

一如」と言ってのけ、古代インド思想とつないで見せたところに、ウイルバー

の理論的地平が成立するとし、人は、究極のアートマンに至ろうと、次々に

新しいプロジェクトを企て続ける。企てては失敗し、次の段階に進んでも満足

できず、繰り返し繰り返し、究極のアートマンに至るまで新しい企てを続けて

ゆく。』『そして、ウイルバーの理論モデルで言えば、求めても求めても至り

着けなかったその境地に、人は、死の直後にたどりつく。アートマン即ブラフ

マンの境地。』『にもかかわらず、せっかくたどりついたその境地に、意識は耐

えきれない。もし、そこにとどまることができたら「解脱」である。しかし、

大概は、そこから降りてしまう。再び収縮し始め、新たな肉体に宿ってゆく。

そして、誕生とともにあらためて「あの」究極のアートマンを回復すべく

「アートマン・プロジェクト」を企て続ける。それが、ウイルバーの説く

人生の姿ということになる。としています。

 

さらに、シュタイナーの場合となると、シュタイナーは、死後に「霊的

(精神的」実在を主張する。肉体や魂(心)は失われても、霊的(精神的)

次元の個体性は保たれる。物質的な肉体は死んでも、「エーテル体・アス

トラル体・自我」は、ひとまとまりに残っていて、順にエーテル体が離れ、

アストラル体が離れ、しかし、最後に「自我」だけは、その個体としての

実在性を失うことなく、一貫し、連続してゆく』と考えており、『その

「自我」が、今世の<わたし>に宿っている。この<わたし>として生き

ている。』『そして、その「自我」が、わざわざ、この<わたし>に現れた

ことには意味がある。目的がある。なぜ、この<わたし>として生きる

のか。なぜ、この<わたし>として一生を送るのか。長い長いタイム

スパンをもった「自我」の霊的(精神的)成長プロセスから見る時、

その意味が解き明かされることになる。』『「自我」を見る目こそ、シュ

タイナーという人の、人生を見る目なのである。』と述べています。

 

そして、最後に、先人の残した「魂」をめぐる解釈。それもひとつの

立場から見た解釈に過ぎない。しかし、それは、それは、その思想家が、

自分の人生をかけて紡ぎ出した「魂」の解釈である。そして、本物の

思想は、ひとつの立場から見た解釈として、理論的な整合性を持ち、

体系的な広がりを持ち、歴史的な吟味に耐え得る力を持っている。

と述べたあと、円環的ライフサイクルの問いも、まさにそのため

(永遠の問いのため)に在る。答えはない。何が正解なのか、結局

わからない。大切なのは、この答えの出ない問いとどう付き合うか。

それとどう対応するか、逆にこちらが問われている。』『そして、その

問いを引き受けない限り、実は、私たちは、常識的なライフサイクル

に囚われたままである。』『それに囚われたままの、科学的発達研究を、

私は好まない。同様に、生まれ変わりの信念の囚われたままの人生も、

私は好まない。そうではなく、その異なるパラダイム相互の隙間に

入り込んだ一瞬、問いが生まれてくる。そして、その問いの前に立つ

時のみ、事の真相に触れるチャンスがある。』と結んでいます。

 

ところで、本書をめぐって、当然、共感と反発があったようですが、

とりわけ、反発の振幅が大きかったようです。一方で、「魂」という

言葉が思考停止をもたらす、必要以上に神秘化をもたらし、知的探究

をマヒさせてしまうという意見があり、他方で、知的操作に傾きすぎ

ている、内的な体験の裏付けを持たない空虚な概念だけが空回りして

いるという意見がありというふうに。

 

しかし、この本は三つ理論を「言葉」の位相で検討した。とある

ように、それは止むを得ないことなのかもしれません。「行」のレベル

まで期待することはないものねだりではないでしょうか。

 

ただし、著者は、増補版では、「魂」の解釈から、「魂」の学びへと

進め、魂を学ぶとは、魂を捕えることではない。・・・むしろ、私

たちが魂の中にいる。私たちの方が、魂の一部である。私たちの方が、

魂という織物の一部をなしている。』とし、『「魂」をいかに理解する

か、そう問うた瞬間、「頭」で考えている。・・・そうではなく、その

「私」から離れることを願っていたのではないか。と問い、「魂の

学び」とは、もしかすると、その両方向(溶け込んでゆく方向と考え

続ける方向)に引き裂かれてゆくことなのかもしれない。あるいは、

振り子のように、その方向を何度も往復し続けること。・・・その

とき、魂の学びとは、祈りと、別の出来事ではないだろう。』という

新たな思いを付加しています。

 

死の向こう側は、誰もわからないとはいえ、切り捨ててしまうことが

できない直感のようなものが我々を苛むとしたら、どこまでも魂の

真実を追い求めてゆかなければならないのではないかと思います。

 
 
 
 
 

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