「宮崎駿の「深み」へ」

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宮崎駿の深みへ

 以前、青井汎氏の「宮崎アニメの暗号」を紹介したことがありますが、そこでは、

宮崎アニメの背景には、四大元素の錬金術哲学、そして、万物を五つの原素に

分類する五行思想、さらにケルト神話をはじめとする古代神話があるとして、

宮崎アニメの詳細な謎解きがなされていました。

 

そして、そこでは、宮崎アニメの集大成が「もののけ姫」であり、この「もの

のけ姫」によって宮崎アニメのテーマである「自然と人との相克」は極限まで

達し、宮崎駿の引退声明と相まって一応の終止符が打たれたということでした。

 

のちに、宮崎駿は、「千と千尋の神隠し」でカムバックするわけですが、そこ

では宮崎アニメを支えていた「現実感」は崩壊し、残ったのは異界物語、何で

もありのファンタジーの世界に他ならないと述べていたと思います。

 

しかし、村瀬学氏は、本書で、青井氏とはかなり異なった視点から宮崎アニメ論

を展開しています。

 

その中で、最も違いが際立ったのが「風の谷のナウシカ」だと思いますので、

そこに重点を置いて紹介してみたいと思います。

 

本書の「風の谷のナウシカ」論において、村瀬氏は、この物語は、交わりにくい

異質な三つの物語、つまり、「腐海の物語」、「人間の物語」、「王蟲の物語」が

同時に進行しているとしています。

 

まず、腐海、腐海の森とは何か。

 

宮崎駿が最初に描きたかったのは、目に見えない小さい生き物の世界、微生物

の世界であり、それを巨大化して描いてみせたのが腐海の森だというのです。

村瀬氏は、「今までアニメで、こういう「菌」や「胞子」を「巨大な森」のよう

に描こうとした作家はいなかった、というのは確かです。本当なら目に見えない

そういうカビや胞子というような生き物をものすごく巨大な「ジャングル」の

ように見せてしまったこと、おそらくこれがこのアニメの切り開いた新しい

地平でした。」と述べています。

 

これは、青井氏が腐海の森を古代の神話の森、「ケルトの森」の流れの中に位置

付けていたのとはかなり異なっています。

 

次に「人間の物語」ですが、いうまでもなく、それは、人間と人間との争い、

「戦争」です。

 

ただし、コミック版の「風の谷のナウシカ」では、複雑な形で国同士の戦闘が

描かれているものの、アニメ版では、ほとんどそのような戦争の場面は描かれ

ていません。アニメ版では、戦争の悲惨さを描くというのではなく、わずかに

登場する空中戦の戦闘シーンは、戦闘のリアルさを描くよりも、「空中」という

不安定な状況での、上昇、下降の「ハラハラドキドキ」感を描こうとしたのでは

ないかということです。

 

もう一つの「王蟲の物語」については、興味深いことが述べられています。

 

まず村瀬氏は、「「王蟲」のイメージは強烈です。(・・・)「風の谷のナウシカ」

のストーリーはあまりわからなくても、この「王蟲」のイメージだけは、しっかり

と子どもたちの胸に焼きつけられます。(・・・)この「王蟲」のイメージを

じっと考えるだけで「風の谷のナウシカ」のいくつものテーマが見えてくること

になります。」と述べています。

 

宮崎駿は、「王蟲」の造形をセミやトンボやカブトムシやザリガニやクモなどの

昆虫や節足動物を混ぜ合わせた姿にしたんだ、そして観客をハッとさせ、驚かせ

るのが芸の本道だと思っているから、でっかい「王蟲」を作ったんだと言って

いるようです。

 

さて、この「王蟲」は、口がない、あるいは口がないというイメージを持って

おり、それが「王蟲」という幻獣を特徴づける大きな特徴となっているという

ことです。

 

その一方で、「王蟲」は黄色い触手のようなものを持っており、相手に触れて

調べたり、情報を伝えたり、触れることで傷を癒したりするものとして使われ

ています。

 

このことを村瀬氏は、次のように解釈しています。「「口」は相手を食べて消化

するものですが、「触手」は相手に触れ、包み、逆に生き続けてさせるものです。

そういう意味では「口」と「触手」は正反対の存在です。ですから、それは同時

には存在しえないものなのです。「治癒する触手」を持つものは、それ故に

同時に「口」を持つことができなかったのです。」と。

 

もっとも、村瀬氏は、「王蟲」を腐海の「王」だとして、皆を守っているよう

なイメージを持つのは誤りであるとしています。

 

とにかく、最後の最後、ナウシカが「王蟲」の「触手」で触れられ包まれる

シーンで終わるのは良い終わり方だとし、「触れる」というテーマを伝える

ために、わざわざこの、「王蟲」という「口」の見えない、触手を持つ幻獣を

創り出したのだということを改めて見直すべきだとしています。

 

さて、まだ主人公であるはずのナウシカが出てきませんが、どういう役割を

担っていたのでしょうか。

 

村瀬氏によると、交わらないで進行している三つの物語の「橋渡し」として、

その間を行き来できる唯一の人物として登場してきたということです。とに

かく、ナウシカは複数の、複合的な性格を持たされており、火を使う兵士、

技術者であるナウシカが、同時に風を使い、空を飛ぶ「使者」として、

『媒介者』として働くように設定されているところがすぐれているところだ

としています。

 

このようなナウシカ像も、青井氏のナウシカ像のように、救国の士であり

ながら、魔女扱いをされて処刑された男装のジャンヌ・ダルクをイメージ

するものとは大きく異なっています。

 

最後に、村瀬氏と青井氏との間で最も見解が分かれているように思われる

「千と千尋の神隠し」について少し触れておきたいと思います。

 

青井氏は、「千と千尋の神隠し」は、異界物語、ファンタジーであるとして、

「現実とリンクしなくてもいいからこそ、その空間では何が起こっても

おかしくないのです。(・・・)「仕掛け」によって「真情」が引き起される

かどうかも分からないのです。(・・・)宮崎はこれまで、現実的な世界の

裏側に神話的な空間を生み出すことに力を注いできました。しかし千尋

が迷い込んだ異界は、そもそも夢にも似たファンタジー空間なのです。

(・・・)ファンタジー空間の中では、神話的存在は現実的存在へと転化

されるのです。だから、それ以前の作品のように背景に神話(隠された

意味?)を潜ませる必要はもうないのです。」と言い切っています。

 

一方、村瀬氏は、千尋一家が迷い込んだ世界を異界のように考えては

いけないと述べています。「千と千尋」の舞台となる湯屋は、湯=喩、

メタファーの世界であり、表向きの姿だけで判断することはできない

と主張しています。

 

つまり、ファンタジーの背後にある、元の意味、元の姿、その隠された

意味を読み取るべきだということだと思います。

 

とは言っても、アニメ、つまり、エンターテインメントですから、どの

ような受け取り方をしようと自由なはずです。

 

さて、皆さんは、一体、どのように受け取り方をされたでしょうか。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「宮崎アニメの暗号」を読む

 

もののけ姫2



「風立ちぬ」を最後に宮崎駿は引退を表明しましたが、「風の谷のナウシカ」

や「となりのトトロ」を始め、数々のアニメ作品の衝撃が今も強く心に残って
います。

 

新作が公開されるたびに映画の興行記録を塗り替えてきた宮崎アニメは、一般

的には、万人向けの明快なるエンターテインメントの天才、まさにエンターテ

インメントの匠であると考えられているようです。

 

しかし、ただ、感動した、面白かった、で終わるのではく、私自身がそうで

あったように、少なからぬ人が、面白かったけど・・・と何かしらわだかまり

を抱きながら帰途についたのではないかと思います。

 

さて、「宮崎アニメの暗号」で青井汎氏は、そのようなわだかまりの原因として

宮崎アニメの背後の隠れているモノは何か? 宮崎駿の「真情」生み出す「仕掛

け」とは? と問い、本書の意図をそうした不可視の「仕掛け」を明確な意図

へと変化させ、そこから宮崎駿の本当の世界観を導き出すことであるとして

います。

 

まず、一見すると、「ルパン三世 カリオストロの城」、「風の谷のナウシカ」、

「天空の城ラピュタ」、「魔女の宅急便」、「紅の豚」などの作品は、欧州もし

くはそれを基にした平行世界を描いているように見えます。また、「風の谷の

ナウシカ」の巨大なホムンクルス(人造人間)である巨神兵の製造シーンを

見ても、そこには四大元素を操る錬金術師たちの影を見ることができます。

として、宮崎アニメと要素との関係を理解するには、やはり西洋的な考え方

を導入しなければならないのでしょうか。と問いかけ、西洋の四大元素には

「木」がないところから「風の谷のナウシカ」においてすでに陰陽五行の思想

が駆使されているのではないか、そして、五行思想をはじめとする重層的な

「仕掛け」の集大成が「もののけ姫」ではないかと述べています。

 

ともかく、青井汎氏は、宮崎駿の思想は、「もののけ姫」において頂点に達し

として、多くのページを費やしています。

 

「もののけ姫」の基本的構図を人と自然の対立、つまり、「エボシ御前」と

「シシ神」の対立であるとし、

 

エボシ御前=金気=土神(産鉄の神)・金屋子神(製鉄の神)=ケルトの女神

ブリギット

 

シシ神=木気=森=五色の鹿=麒麟=動物の王=ケルトの有角神ケルヌンノス

=原インド・インダス文明の有角神パシュパティ=メソポタミア・ギルガメシュ

叙事詩の森の神フンババ=旧石器時代洞窟壁画・トロワ・フレールの呪術師

 

と、どんどん隠された暗号を解いてゆき、そこには、東西の古代思想、神話が

幾重にも埋め込まれており、石器時代以降の長大な人と自然の相剋の歴史が

浮かび上がってくるとしています。

 

そして、シシ神の池の辺で、人間を代表するエボシ御前が石火矢で放った金属は、

自然を代表するシシ神の首を貫きました。その瞬間、宮崎アニメの畢生の主題とも

いえる「自然と人との相剋」は極限まで達し、それをこの頂点にこの主題は一応の

終止符が打たれたのではないでしょうか。』『そして、同時に、それは宮崎アニメを

支えていた「現実感」をも崩壊させる渾身一撃だったのです。』『崩壊した現実の先

に広がるのは、何でもありのファンタジーの世界に他なりません。』『その空間に生

まれた世界こそが「千と千尋の神隠し」の異界なのです。と結論づけています。

 

たしかに、「もののけ姫」以降、宮崎駿は、引退をほのめかすようになったよう

です。それ以降、一作ごとに引退を口にするようになったようですが、引退を

表明しては、次作をひっさげて復活するということを繰り返す、その真意は一体

どこにあるのでしょうか。

 

どうも、「もののけ姫」は、興行的には大成功したものの、難解という評価が多く

あったようであり、また、登場人物の影が薄い、個人が描けていない、感情移入

ができないという辛口の評価もあったようですが、啓示的、象徴的な世界構造を

具体的、現実的に表現しようとして、詰め込みすぎた「真情」が溢れ出し、エンタ

ーテインメントの枠組みそのものを壊す寸前まできてしまったのかもしれません。

 

「真情」の表現のあくなき追求とエンターテインメントとしての興行的成功との間

にある大きな矛盾、その壁を突破しようとして復活を繰り返したのでしょうか?

そうではなく、その限界を感じ取って引退を表明したものの、エンターテインメント

の天才である彼の引退をまわりが許さなかったために復帰せざるを得なかったので
しょうか?

 

今現在、彼は引退を表明したままですが、ひょっとすると、4度目(?)の復活
をひそかに目論んでいるのかもしれません。

 
 
 
 


 
 
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