「生命学に何ができるか」

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生命学


以前に取り上げた「生命観を問いなおす」の中で、森岡正博氏が、『
「生命」

とは、「調和」とか「共生」などの美しい言葉だけで捉えきれるような、

単純なものではありません。「生命」を捉え、考えてゆくとは、「生命」の

奥底にあるその本質にまでさかのぼり、そこに内在する様々な矛盾や、

葛藤や、妥協や、悪や、愛などをつかみとってゆく作業なのです。』

たちはいったん生命の奥底まで降りていって、そこにひそむ生命の本質を

あらゆる角度から解明しなければなりません。そのうえで、「どうして

生命は、他の生命を犠牲にしようとするのだろか」「それにもかかわらず

どうして生命は、他の生命や自然と調和したいと願うのだろうか」という

疑問を、ひとつひとつ考えぬいてゆく必要があるのです。』『これが、今の

私が考えている「生命学」のスタート地点です。と述べましたが、その後、

森岡氏の「生命学」は、いかに展開されていったのでしょうか。

 

それから10年以上たってから出版された本書では、はじめに、森岡氏は

次のように述べています。生と死の問題を、まったく新しい角度から

見たい。この本は、そういう角度から生まれた。脳死移植、中絶、遺伝子

操作などを、いままでになかったやり方で考えることができたら、面白い

のではないか。生命倫理というと、「善いか悪いか」にばかり目がゆく。

だが、それ以前に、これらの問いにもっと違った角度から光を当てることが

できるんじゃないか。』と。

 

まず、脳死の再考、そして、ウーマンリブから妊娠中絶、さらには、障害者

と優生思想の問題にまで考察を深めてゆきます。

 

そして、取り扱う内容の広大さと、重さに打ちひしがれて、吐きそうになった

こともたびたびあったという状況のなかで、10年にも渡って、それらの難問

と格闘した結果、たどり着いた地点について、「生命学とは、生命世界を現代

文明との関わりにおいて探り、みずからの生き方を模索する知の運動のこと

である。すなわち、生命学とは、(1)現代文明に繰り込まれた生命世界の

仕組を、自分なりの仕方で把握し、表現してゆく知の運動であると同時に、

(2)私が、限りあるかけがいのないこの人生を、悔いなく生き切るための

知の運動である。」と表現しています。

 

また、「生命の姿を明らかにするために、私は、科学でも宗教でもない第三の

道を選択する。宗教とは別の道を歩みながら、私は「宗教性」の問いを救い

あげてゆくことになるだろう。生命学のひとつの目標は、「宗教なき時代の

宗教性」の姿を明確にすることである。」とも述べています。

 

さらに、先の生命学の二つの営みについて、より具体的に整理しています。

 

まず、「私が、限りあるかけがいのないこの人生を、悔いなく生き切るための

知の運動」という側面については、「欲望や、悪や、死などの限界性を背負った

われわれが、現代文明のなかで悔いのない人生を生きるとは、いったい何を

することなのかを探求してゆくことである。そして、その探求を原動力にして、

実際に、悔いのない人生を生きてゆくことである。」と述べながら、「悔いのない

人生を生き切るとは、(社会からの洗脳や無力化による自己否定ではなく)いま

の私の存在をつねに自己肯定できるように生きることでもあると私は思う。」と

主張しています。しかし、その自己肯定は、みずからのアイデンティティの問い

直しと密接に関わっており、「私の存在そのもののかけがえのなさの実感の上に

構築される自己肯定でなくてはならない。」とし、それを可能にする方法を、

生命学は考える必要があるとしています。

 

また、生命学は、自分の実人生における問いの明確化と、それへの決着を優先

させるとして、みずからの人生に決着を付けることを最優先しなければならない

が、それが自分の行ってきた「悪」に対して決着を付けることでもあるとする

なら、自分が行った「悪が」が大きな問題になってくる。「悪」を行ってしま

った私が、いかにすれば自己肯定に向かえるかというのもまた生命学の問いで

あるとしています。

 

そして、悔いのない人生を生き切るとは、自分がやりたいことをすべてやると

いうこと意味せず、禁欲でもない開き直りでもない新たな欲望の形を模索する

ことや、暴力と悪を自覚的に行使し、みずからの可能性を最大限に切り開いて

ゆくことをも視野に入れて、「自分にとって何が悔いのない人生なのか」を

全力で考える必要があるとしています。

 

なお、私が悔いのない人生を生き切るためには、社会全体が、それを許す

ような状況になっていなければならないとして、生命学は、人々が「悔いの

ない人生の追求」を保障されることをもって、生命倫理のルールの達成目標

と考えるとも述べています。

 

次に、生命学のもうひとつの営み、「現代文明に組み込まれた生命世界の仕組

を、自分なりの見方で把握し、表現してゆく知の運動」という側面について、

いくつか着目すべき点を挙げています。

 

まず、生命というものを、つねに「かかわりあい」と「かけがえのなさ」の

二つの側面について考えてゆくとしています。この両面から見てゆくことが

生命を考えるうえでの基本であり、「かかわりあい」と「かけがえのなさ」

の関係を、具体的な事例に即して究明することは、生命学の大きな課題で

あると述べています。そして、生命学は、死んでしまった人や、生まれる

ことのなかった人や、未生のひとの到来を具体的な生と死の現場に探し求め、

ともすれば忘れられがちになるそれらの声の重要性を繰り返し確認してゆく

作業になるだろうとし、「すでにいないはずの存在者」の力によって突き

動かされた「生命の問い直しの連鎖」こそが生命学のひとつのあり方であり、

その連鎖の運動を解明しなければならないと主張しています。

 

また、生命世界は、想像を絶するほどの暴力と殺戮のネットワークが張り

巡らされ、そのなかに私たちひとりひとりが埋め込まれているが、このなか

で人間がどのような役割を担っているのかを冷徹に把握する必要があると

して、生命存在があるかぎり、われわれは暴力と殺戮の行使から逃れられない

のかと問い、著者自身のかつて主張した、地球圏に組み込まれた人間の生命は、

「循環と共生」の方向に進もうとする本性と、「暴力と殺戮」の方向に進もうと

する本性の二つの方向に引き裂かれているという仮説は正しいのかどうか再考

しなければならないと述べています。

 

さらに、現代文明は、個々人の欲望追求を最大限に認めようとするが、何か大切

なものが失われていくのではないか、我々の生命の力を枯渇させる危険性がある

のではないかとして、「欲望から降りる知恵」を開発しなければならないと主張

しています。欲望追求によっても、苦行・禁欲によっても、われわれは豊かな人生

には至れない。かと言って、ほどほどの欲望の満足というかけ声だけでは、何も

言ってないのと同じである。その間を縫って、悩み、ゆらぎ、おろおろしながら

進む「知恵」をわれわれは創造しなければならないとしています。

 

もうひとつ、エコロジー思想では、人間が手をつけてはならない自然環境を

「聖なる保護区域(サンクチュアリ)」として保存することを提唱してきたが、

今後、科学技術がいま以上に進展するとき、われわれに突きつけられるのは、

「人間の生命には、これ以上介入してはならない不可侵域(サンクチュアリ)

があるのではないか」という問いである。われわれは、宗教ドグマによること

なく、民主主義的合意によって、ある種の不可侵域を創作する必要に迫られる

であろう。また、そのような不可侵域の具体的な設置場所についても、生命学は

提案しなければならないであろうと述べています。

 

かくして、生命学は、著者自身、どれくらい広い学問領域を横断できるものなの

か分からないとしながらも、単に生命倫理だけにとどまらず、環境哲学、臨床

心理学、宗教学、生物学、看護学などの、専門領域の知の枠組みを横断して、

生命世界の仕組を解明する「総合研究」の様相を帯びることになると主張して

います。

 

最後に、生命学に対する様々な疑問、つまり、生命学が「主観的」にとどまる

のではないか、自然科学のような「客観性」にかけるのではないかという疑問に

対し、生命学は、自然科学のパラダイムに乗らない学問を目指しているとしな

がら、生命学は、自分自身の人生における実験と検証によって独断を廃そうと

する、一種の「実験学」なのである。また、自然科学の特徴である「客観性」

と「実証」は、生命学において「豊かさへの寄与」と「人生における検証」に

よって果たされるとも言えると述べています。

 

そして、著者が述べたことは生命学の探求の一例であり、考えがまとまらずに

書くのを控えたテーマもたくさんあるとしながらも、「本書を読んで、生命学に

ひかれた者は、まず、みずからの自己を問い直し、ゆっくりと時間をかけて、

自分自身の悔いのない人生と、この生命世界に思考をめぐらせてみてほしい。

科学技術と資本主義を原動力とする現代文明のなかで、これから自分がどのよう

な人生を送るつもりなのか、そして、われわれの欲望や暴力をどのようにして

ゆけばよいのかについて、考えてみてほしい。」と訴えて結んでいます。

 

さて、森岡氏の長きにわたる生命学探求の軌跡をたどるとき、その真摯な姿勢と
苦闘の様子が
ひしひしと伝わってきますが、氏の主張する「科学でも宗教でも
ない第三の道」
は、究極的に、どこに至るのでしょうか。果たして、「宗教なき
時代の宗教性」の姿を
明確にすることができるのでしょうか。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「生命観を問いなおす-エコロジーから脳死まで-」

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生命観を問いなおす 

 

森岡正博氏は、80年代になると、アメリカを中心としてディープエコロジーの


思想が興隆し、これと並行して、日本では生命主義とでも呼ぶべき思想が独特の


展開をしてきたのだと述べています。


 


行き詰まった現代の文明を打開するために、「自然」や「生命」を、もう一度


深く考え直さなければならないという流れがアメリカと日本で同時に起きた』


というのです。


 


まず、ディープエコロジーとは、アメリカの伝統的な自然保護思想を背景として


1960年代~70年代のエコロジー運動や反体制運動の影響を強く受けて


成立した独特の環境思想です。


 


ディープエコロジーの思想家たちは、地球と「私」とを連続したものとして考え、


地球の危機を救うためには私たち自身が変わらなければならないという発想を


しています。だから、従来の、「環境危機が大変な問題になっている。これ以上、


汚染が進み、資源が枯渇すると、先進国に住む人々の生活は大変なことになる。


だから、なんとしてもこれらを解決しなければならない。」というような発想を


するエコロジーは、浅いエコロジーだと言います。


 


最初にディープエコロジーという言葉を提唱したのは、ノルウェーの哲学者、


アルネ・ネスだと言われていますが、彼は浅いエコロジーにとどまっていては


ならない、環境問題を生みだした根本原因にまでさかのぼって事態に対処する


「深いエコロジー」必要だとして、管理ではなく、脱中心化、人間中心主義で


はなく、生命圏平等主義を掲げ、実践的な環境哲学として現代文明の批判を


行っていきます。


 


80年代に入ると、ディープエコロジーは、次第に大きな流れに形成して


ゆきます。まずは、自己の探求や瞑想などを行い、誤った近代的な世界観を


捨て去ること。そのかわり、有機的な生命世界のなかに織り込まれて存在して


いる真の自己あり方に目覚めること。そして、生活をエコロジカルなものに


改め、調和のとれた世界を実現してゆくための直接行動を訴えます。つまり、


「自己実現」と「生命中心主義的平等」が、ディープエコロジーの二大目標と


いうことになります。


 


次に、生命主義の思潮とは何かというと、「生命」をキーワードにして、


人間社会や宇宙を見てゆこうとする考え方です。


 


我が国において、生命を深く問い直すことで、現代社会の諸問題を解決する


糸口が見つかる。生命を再評価することで、近代文明のパラダイムを脱出する


ことができるという考え方がまとまってあらわれてきたというのです。


 


森岡氏によると、それは、欧米で流行した文化や思想の単なる輸入では説明し


きれないものをはらんでいたということです。


 


80年代の「生命」に関する言説の主なものをピックアップすると、まず、


「生命倫理」があります。森岡氏は、「生命倫理は、80年代日本の文化史


の重大事件でした」と述べていますが、どうも、生命倫理というパラダイム


は、医療や科学研究の現場をもっと近代市民社会化してゆこうとするもので、


近代のパラダイムを超えてゆこうとする「生命主義」が育たなかったよう


です。(ただし、例外的に脳死論の中に、生命主義的な考え方の萌芽あった


ようですが。)


 


次の登場するのは、「ニューサイエンス」です。アメリカ西海岸に端を発した


ニューエイジ運動の波は日本にも及び、「ニューサイエンス」と翻訳されて定着


し、我が国の知識人や学生たちに大きな影響を与えたと言われています。


 


「ニューサイエンス」とは何だったのかという問いに対し、森岡氏は、無理を


承知でと前置きしたうえで、<近代科学の機械論、還元主義、主客二元論を


捨て、ものごとの関係性を重視した、ホリスティックな世界観へとパラダイム


シフトし、東洋の知恵に従って意識を変革し、地球と調和してエコロジカルな


生を送ることで、我々は新しい次元へと至ることができる。>これが、ニュー


サイエンスのメッセージだったと思います。』と述べています。


 


しかし、ニューサイエンス80年代後半から90年代に到ると下火になって


いったようです。そして、日本のニューサイエンスは、ひとつは、気というもの


を探求してゆく流れと、もうひとつは、エコロジー思想、運動への流れに分派


していったということです。


 


以上が、森岡氏の言う、80年代のディープエコロジーとその日本版である生命


主義の大雑把な展開過程ですが、では、あとから振り返ってみると、これらは、


いったい何だったのかが問われなければなりません。


 


森岡氏は、80年代に再発見された生命主義は、ニューサイエンスなどと結び


ついて、「反近代」や「脱近代科学」のキーワードにもなりました。「生命」に


こだわってゆくことで、この矛盾にみちた「近代文明」をのりこえることが


できる。この不完全な「近代科学」のパラダイムをのりこえることができる。


そういう夢を、私たちに与えてくれました。』と一定の評価をしながらも、


そこには、大きな問題点が潜んでいたと述べています。


 


森岡氏は、ほとんどのディープエコロジーや生命主義の思想において、『生命」


「自然」というと、すぐに「調和」とか「共生」とか言って、そこで思考を


ストップさせているものがいかに多いことか。』『そういうロマン主義は、私


たちの知性をにぶらせます。』ロマン主義は、「生命」や「自然」こそが、


大いなる悪の根源であることを見つめようとしません。』だから、ディープ


エコロジーや生命主義が、本当の意味での文明批判の思想として開花する


ためには、それがもっているロマン主義に、一度、はっきり死んでもら


わなければならないと思うのです。と断言しています。


 


しかし、森岡氏は、80年代生命主義のいくつかは、単なるロマン主義を超え


た地平へとしっかりと根をおろしていたとも述べ、鳥山敏子氏の「いのち」の


教育の例をあげています。「生きるということは、生きているものを食べる


ことです!食べるということは、生きているものを殺すということです!殺し


て自分のいのちにしてしまうことです!」と言う鳥山氏のいのち論は、生命論


にこういう境地を切り開いた点で、高く評価されるべきであり、80年代生命


主義の最高の成果のひとつだと賞賛しています。


 


エピローグで、森岡氏は、『『私は、ロマン主義的な傾向のある言説を、あまり


にも執拗に批判しすぎたかもしれません。しかし、これは、私自身が経験して


きた過ちに対する、苦い経験でもあるのです。』という自戒の上に立って、


「生命」とは、「調和」とか「共生」などの美しい言葉だけで捉えきれるよう


な、単純なものではありません。「生命」を捉え、考えてゆくとは、「生命」の


奥底にあるその本質にまでさかのぼり、そこに内在する様々な矛盾や、葛藤や、


妥協や、悪や、愛などをつかみとってゆく作業なのです。』「私たちはいったん


生命の奥底まで降りていって、そこにひそむ生命の本質をあらゆる角度から


解明しなければなりません。そのうえで、「どうして生命は、他の生命を犠牲


にしようとするのだろうか」「それにもかかわらずどうして生命は、他の生命


や自然と調和したいと願うのだろうか」という疑問を、ひとつひとつ考え


ぬいてゆく必要があるのです。』『これが、今の私が考えている「生命学」


のスタート地点です。と結んでいます。


 


ところで、それからもう20年ほど経過しています。森岡氏の生命学は、


その後、いかに展開されていったかについては、後日、触れてみたいと


思います。




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ジャンル : 心と身体