陰陽・五行説


にほんブログ村
陰陽五行説




 

前回も触れましたが、『陰陽道』の著者鈴木一馨氏によると、陰陽道は

日本で生まれたものであり、「陰陽」とは、中国の「陰陽説」や「陰陽

五行説」をもとにしたものという意味ではなく、中国民間思想の総称と

して用いられているということでした。

 

さらにいうと、陰陽道の理論を「陰陽五行説」から説かれる場合が多い

が、「陰陽五行説」という観念は中国には存在しなかったのだそうです。

 

つまり、中国の思想家は、「陰陽家」「五行家」というグループに区別され

ており、「陰陽五行家」というグループは存在しないということです。

 

よって、さまざまなもので中国民間思想の代名詞として使われている

「陰陽五行説」に相当するのは、陰陽家が扱う「陰陽説」と五行家が

扱う「五行説」という二つの思想なのであり、それぞれが互いにもう

片方の思想を取り込んでいるのであるから、正しくは「陰陽・五行説」

としなければならないとしています。

 

実際、「陰陽寮」で行われていたのは、「陰陽・五行説」にもとづく技術

ばかりではなく、前回、律令制官庁の機構や職掌の紹介の際にも述べた

ように、さまざまな中国系の祭りをしたり、天文の様子をながめたり、

時刻を測ったりと、さまざまな行為や技術を行っていたのです。

 

ということで、鈴木一馨氏は、陰陽道への理解を深めるためとして、

「陰陽五行説」からではなく、「気」の思想から始めるほうがよいと

していますので、その流れに沿って見ていきたいと思います。

 

まず、中国思想上の主要概念として、「気」というものをながめたとき、

思想史的にはさまざまな概念が紀元前後までに出てきたということです。

 

最初の頃は、単に物質的存在を作っている基礎的存在が「気」であると

考えられていたようで、道家の『荘子』では、ものの生死というのは

「気」の集まり方に左右されているのだとしており、それはすべての

存在(万物)が「気」によって作られていることなのだと説いています。

そして、儒家の『荀子』では、植物、動物、人間のような存在は、水や

火のような存在と同様に「気」によってできているが、その違いは

生命を持っているか否かにあると説いています。

 

このような「気」が物質的存在を形成する元であるとする考え方が、

前漢の時期にはさらに拡大して、「道」や「太一(たいいつ)」と同一

の存在と見なされるようになり、「気」とは物質的存在・非物質的存在

に限らず、すべてのものごとの元だとされる思想が生まれたようです。

 

そのような思想において、すべてのものごとの元となる「道」や「太一」

と同一とされる「気」を特に「元気」と呼んだが、非物質的存在までを

も含めたすべての存在の元となれば、「気」を元素のような物体的な存在

とは扱うことができないため、この「元気」というものが出てきた時点で、

「気」とは力であると考えられるようになったということです。

 

そして、この「元気」の思想が出てきたころには、それまでゆるく関連付け

られていた「陰陽説」や「五行説」が世界の形成・変化の思想として強固に

結び付けられることになったのだそうです。つまり、「陰陽説」と「五行説」

との結び付きを果たす仲立ちになったのが元気の思想で、最初一つであった

「気」の性格が二つに分かれて「陰陽」となり、それがさらに五つに分かれ

て「五行」になったということで、この「陰陽」や「五行」がすべての存在

を決定しているということになります。

 

かくして、「陰陽」も「五行」も共に「元気」から形成された性格なので、

互いに変換することができるとされるようになったのです。

 

このように、中国において、すべての物事は「気」によって成立している

という思想が世界観として支配的になったが、それは以前に紹介した老子や

荘子などの道家によって主に展開されたため、その道家の思想が道教教団に

取り込まれるなかで民間に再び浸透し、人々の間で中国民間思想として

普及したということです。

 

そして、それが日本に伝わり、七世紀には日本の指導者層・知識層にしっかり

と定着したことが「気」によってつくられたさまざまな現象を解釈し、対処

するという陰陽道の成立につながっていったということです。

 

ということで、鈴木氏は、陰陽道の思想を探る第一歩を「陰陽五行説」に

求めるのではなく、それは「気」というものがその全体を包み込んで

いる思想だということを理解しなければならないとしているのですが、

では、そもそも「陰陽説」「五行説」とはどういうものかという疑問が

わいてきます。よって、次は、それらについて少し紹介しておきたいと

思います。

 

まず、「陰陽説」とはどのようなものかというと、この世界の物事は、「陰」

「陽」の二つの性格のどちらかに当てはまるというものです。それは、

人類のもっとも基本的な価値判断の理論であり、二分論や二元論の中国的

表現ということになります。

 

さて、「陰陽」と「気」との関係はどうなっているかというと、「陰」とは

「気」の消極的な性格であり、また、「気」の消極的な働きによってできた

物事、「陽」とは「気」の積極的な性格であり、また、「気」の積極的な

働きによってできた物事、ということになります。このように、「陰陽」と

は「気」の性格が消極性や積極性を帯びたりすることによって生まれるの

だとされます。

 

また、これを「気」の名称で見ると、消極的な性格の「気」や消極的な

作用をする「気」を「陰気」、積極的な性格の「気」や積極的な働きをする

「気」を「陽気」と呼びます。イメージとしては、人の性格を表す「陰気」

「陽気」と同じように考えてよいようで、人を形づくっているのは「元気」

だが、その精神を形づくっているのは「元気」から分かれ出た「陰気」

「陽気」ということになり、そもそも、人の性格である「陽気」「陰気」と

いうのは、その人の精神が陰気と陽気のどちらによってできているのか、

ということなのだそうです。

 

このように世界の物事が「陰」「陽」の二つの性格のどちらかに当てはまる

ことを言いかえると、「陰気」や「陽気」が世界の多くの物事をつくって

いることになります。たとえば、人の性別でいうならば、男性は「陽気」

によって姿形や性格がつくられており、「陽」の存在となり、女性は「陰気」

によってそれらのものがつくられているから「陰」の存在というこことに

なります。

 

また、正常と異常とを陰陽で分けるならば、正常は「陽」で異常は「陰」と

なり、そして、この世は「陽」、異界は「陰」と位置付けられ、異界の存在

である妖怪変化は「陰気」でできた存在であると見ることができます。

 

陰陽師が妖怪変化を「陰陽の力」で退治するとき、それは異界という「陰」

の世界の存在、すなわち「陰気」でつくられている存在である妖怪変化に

対して「陽」の力をぶつけることによって陰陽の気を中和させてしまう

のだそうです。そうすれば、みずからをつくっている気の性格が失われ、

妖怪変化は雲散霧消してしまうということになるようなのです。

 

なお、「易」が陰陽二気の変化の理論として成立してくると、陰陽説は陰・

陽とその中間の存在である「太極(太一)」の三種類の「気」の状態・

性格の理論を説くようになったということであり、このとき、「太極」と

「元気」と同じであったり、陰・陽どちらにも当てはまらない「気」の

状態や性格であったり、または、両方の「気」の状態や性格を帯びた

物事に当てはめたということです。

 

さて、では、「五行」の考え方とはどういったものなのでしょうか?

 

「五行」の「行」とは「行い」を意味する、つまり、「五行」とは世界の

五種類の働きという意味であり、「気」の説と合体して「気」の五つの状態

とそれによる働きを意味するようになったということです。

 

五行は列挙していうとき、「木火土金水(もっかどこんすい)と称されるが、

このうち、「木(もく)」「火(か)」(土(ど))「水(すい)」は字のごとく

樹木・火・土・水であるが、「金(こん)」は貴金属の金ではなく金属を

意味しています。

 

この五行は、陰陽のような単純な対比ではないので、何がどの五行に当て

はまるか、つまり、何がどのような気の性格を持ち、そして働きを持つ

のかは、単純化して言えないものであるばかりではなく、時代によって

該当する物事や順序が違うようであり、とりわけ、医療に関する物事は、

いくつもの流派があって、それぞれの成立時代の状況を背負っているため

多種多様であるということです。

 

しかし、いずれにしても、すべての物事を五行に当てはめるという姿勢には

変わりなく、「気」でつくられている世界では陰陽からはずれる物事がない

のと同様に、五行からはずれる物事もないということになります。

 

さて、五行の変化について見ると、陰陽の変化は二種類しかなく、変化の

仕組みは単純であるが、「気」の性格が五つに分かれているぶんだけ複雑に

なります。そこでは二種類の変化の仕組みがつくられていて、それは

「相生説」と「相克説」というものです。

 

「相生説」とは、AがBを生み出すという関係によって五行の変化を説いて

いくもので、①木生火木(木気)は火(火気)を生む。②火生土

(火気)は土(土気)を生む。③土生金土(土気)は金(金気)を生む。

④金生水→金(金気)は水(水気)を生む。⑤水生木→水(水気)は木

(木気)を生む、とされます。

 

そして、その変化の順序は、木→火→土→金→水→木の順序になります。

 

また、「相克説」とは、AがBに打ち勝つという関係によって五行の変化を

説いていくもので、①木剋土→木(木気)は土(土気)に打ち勝つ。②土剋水

→土(土気)は水(水気)に打ち勝つ。③水剋火→水(水気)は火(火気)

に打ち勝つ。④火剋金→火(火気)は金(金気)に打ち勝つ。⑤金剋木→

金(金気)は木(木気)に打ち勝つ、とされます。

 

これによる五行の変化の順序は、土→木→金→火→水→土となります。

(ただし、打ち勝っていく順序は、木→土→水→火→金→木となる)

 

このように、「相生」「相克」の関係は、変化の関係であるから、「変化させる

五行」と「変化させられる五行」の二種類の五行の関係として見ることも

できるということです。

 

また、五行を単体で見ると強弱の関係を生じているが、総体で見ると強弱が

相殺されて、結局は五行の関係は対等であるということになるようです。

 

なお、五行を時間や空間、つまり、一日や一年の季節の変化に当てはめると、

また、異なった五行の変化になるようです。

 

最後に、陰陽論(説)と五行説の結合について簡単に触れておきますと、その

統一の萌芽は、斉の陰陽家鄒衍(すうえん)の陰陽主運説にみることが

できるということです。そこでは木火を陽、金水を陰に配当していて、

そのきっかけとなったのは四時(四季)の変化と『易経』の影響が

大きかったとされています。

 

その後、戦国時代末の秦の呂不韋(りょふい)が、『呂氏春秋』の中で、

干支(かんし)の十干(じつかん)に陰陽論(説)と五行説を導入した

あたりから、陰陽論(説)と五行説の結合が一般化していったようです。

(現在では、干支を「えと」と読んでいるが、本来、「えと」とは十干の

総称であって、十二支とは関係がなかったということです)

 

つまり、中国の戦国時代末から前漢初期の頃より、陰陽論(説)と五行説

は結合して、相互に深め合い、陰陽・五行説として統一され、展開される

ようになったということになります。

 

以上、「陰陽・五行説」について大雑把な紹介をしてきましたが、『陰陽

五行説』の著者によると、現代においても、決してこれは過去の遺物では

なく、現代においても漢方医学においては、陰陽五行説をもってしか理解

できないことがあるのであり、また、その心身不可分の考え方、すべてを

有機的結合の中で考えるという陰陽・五行説の方法論は今の時代にも有用な

ものであると述べています。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

スポンサーサイト

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

陰陽道とは何か?


にほんブログ村
陰陽道 





 
 
我々が陰陽道(おんみょうどう、おんようどう)という言葉を聞くとき、

まず、思い浮かべるのが小説やコミック・アニメなどに描かれた「陰陽師

安倍晴明」ではないかと思います。そこでは、陰陽師が式神(識神)を操

って妖怪変化と戦う霊能力者、超能力者として描かれていますが、真実の

姿はどうだったのでしょうか? また、そもそも、陰陽道とはどういう

ものだったのでしょうか? 今回は、そのあたりを探ってみたいと思い

ます。

 

鈴木一馨氏の著書『陰陽道』によると、陰陽師、陰陽道に対して我々が

イメージすることと、事実とは大きく異なっているようです。まず、

「中国で生まれた陰陽道は云々」とか、「古代中国の自然観・宇宙観で

ある陰陽道は云々」ということからして誤っているようなのです。

 

近年における研究の成果によって、「陰陽道は中国で成立した」という

ことが否定されてしまったのです。中国には「陰陽道」という言葉が

存在せず、十世紀頃に日本で「陰陽の道」という言葉が出てきたのが

「陰陽道」に変化していったというのです。

 

では、陰陽師や陰陽道そのものの説明に入る前に、「陰陽寮(おんよう

りょう)」という公的機関、官庁について触れておきたいと思います。

 

日本で朝廷という中国的な政府機構が作られ始めた七世紀以降、その

朝廷の機関の中に「神祇官(じんぎかん)」と呼ばれる神々への祀りを

担当する官庁が設置されたが、他方で、「天意」を問う官庁として朝廷

の機関の中に設置されたのが「陰陽寮」だということです。

 

鈴木一馨氏は、陰陽寮の設置時期を、天武天皇が即位した後に、その在位

期間中に設置されたのではないかとしています。

 

さて、律令制官庁の組織は、「養老職員令」によると、基本的に事務・

統括部門と実務・専門部門に分かれていて、正規職員は基本的に常勤の

「長上官」と、非常勤(交代制)の「番上」に分かれていたということ

です。そのうち長上官には事務系官僚の「四等官」と、実務・技術系

官僚の「品官」との二種類があり、四等官は事務・統括部門の、品官は

実務・専門部門の中心業務を担ったということです。

 

そして、事務・統括部門の説明は省くとして、実務・専門部門を見ると、

それは「陰陽」の部門、「暦」の部門、「天文」の部門、そして「漏刻」の

部門に分かれていたようです。

 

 

そのうちの、「陰陽」の部門は、陰陽師、陰陽博士、陰陽生で構成され、

陰陽師(品官)は定員六名で、職務は式占(ちょくせん)と易占(えき

せん)を行い、また相地(風水)を行うとあり、陰陽博士(品官)は定員

一名で、陰陽生らに陰陽の思想や技術を教えるとされるが、陰陽生は陰陽

博士について陰陽の技術を学ぶのが務めであり、いわば、専門官僚となる

ための学生官僚といったものであったようです。

 

なお、他の部門、「暦」の部門は暦を造るところであり、「天文」の部門は、

星々や気象の異常を観測するところであり、「漏刻」の部門は、水時計に

より時刻の管理をするところです。

 

以上のことから、陰陽師とは、まず、陰陽寮という官庁の技術官僚の職を

指すことになります。

 

ところが、よく安部晴明は「稀代の陰陽師」というような言い方をされ、

また、彼の若い頃に、あるいは藤原道長が政権の中枢に座った時期に陰陽師

として活躍したとされます。

 

しかし、鈴木一馨氏によると、安部晴明は確かに「陰陽寮の陰陽師」の官職

を得ていた時期があるが、それは中年になってからであるし、道長の政権の

時は、すでに「天文」の部門の天文博士に昇進していたのであり、最終的に

は、平安京の左京の予備長官の地位に至り、陰陽寮の枠を外れたところに

いたというのです。

 

ということは、一般に言われる安部晴明の「陰陽師」というのは、陰陽寮の

技術官僚の職である陰陽師と、「陰陽道」が成立した平安中期以降にその

術者に対して陰陽寮の官職名をとって「陰陽師」と呼んだことが、まぜこぜ

に理解されているということになります。

 

安部晴明は、確かに陰陽寮の陰陽師であったが、道長に重用されたときには

すでに陰陽寮にはいなかったのです。

 

さて、陰陽寮、陰陽師の「陰陽」という言葉にも誤解があるようです。この

語からは中国の「陰陽説」または「陰陽五行説」を連想してしまいますが、

実はそうではないようなのです。

 

「陰陽」というのは、中国民間思想の総称として使われているのであり、

それ

に基づく技術を「方術」と呼んだり、「陰陽の術」と言ったのだそうです。

つまり、「陰陽寮」というのは、中国民間思想、つまり、「陰陽」の思想と、

それに基づく諸技術、すなわち「方術」、「陰陽の術」を扱う官庁だったと

いうことです。

 

ただし、方術や陰陽の術というのは広く医術までも含んでしまうのですが、

それは陰陽寮では扱わず、医療的な技術については、「典薬寮」という役所

が中心になっていたようです。

 

「陰陽の術」のうち呪文や呪符については、陰陽寮だけではなく、「典薬寮」

に設けられた「呪禁(じゅごん)」という邪気を祓う治療の部門でも行われた

ようで、典薬寮は、官人の病気を治療するための役所で、呪禁の部門には、

呪禁博士一名、呪禁生十名が配置されたということです。

 

陰陽寮における呪文や呪符は、主として陰陽道祭のときに、神々への呼び

かけや、邪気を祓うため、つまり、国家や都に侵入しようとする邪気を祓う

ために用いられていたが、典薬寮の方は、個人にとりつく邪気を祓うため

に使われたのです。

 

つまり、一般にイメージされるような陰陽師の呪符や呪文の「私」に対する

激しい使い方は、陰陽寮での使い方ではなく、典薬寮での使い方であったと

いうことになります。

 

さて、それでは、呪符や呪文を駆使し、もののけや怨霊を祓うという、「陰陽

道の安倍晴明」というイメージは完全な虚構だったのでしょうか?

 

鈴木一馨氏によると、そうでもないということです。安倍晴明は、十一世紀

前後の人のようですが、それから百年後に書かれた「今昔物語」や「宇治拾遺

物語」によると、晴明は、呪符を使って悪霊や妖怪を退治するということは

記されていないが、呪文の類を唱えて災厄を未然に防いだり、式神という精霊

を操ったりしたという情景は描かれているようです。

 

つまり、古典で表現されている安倍晴明は、陰陽寮の陰陽師の職務である式占

・易占や相地(風水)をしていなくても「陰陽師」と呼ばれているのです。

そして、それも、どちらかといえば、「陰陽寮の陰陽師」というよりは典薬寮

の呪禁博士に近い働きをしているのです。

 

では、なぜ「呪禁師」というような名称を使わずに、「陰陽師」という名称を

つかったのでしょうか?

 

鈴木氏は、そこには次のような陰陽寮と陰陽道との関係があるとしています。

 

つまり、怪異などが起きたとき、それがすべてもののけの仕業とは限らない

のであり、怨霊が起こしたものもあり、呪咀によって起こされたものも

あったとすると、呪禁の術を使う前提として、その怪異の原因を探らなければ

ならない。それこそが陰陽寮の陰陽の部門で扱われた様々な占いであった。

そして、原因が分かったとして、直ちに対処しなければならないとするとき、

邪気を祓う呪文や呪符を知っている陰陽師が、本来は、「公」のために使われ

るはずであったものを「私」に災いする邪気を祓うためにも使うようになった

のではないかと述べています。

 

要するに、本来、「私」にかかる邪気を祓うはずの「呪禁博士」の役割を、

必要に迫られて、或いは、求めに応じて、陰陽師が奪ってしまった。

そして、民間にあって邪気を祓うようなことをした者の中で、特に呪文や

呪符を使えたものまでをも「陰陽師」と呼んだということのようです。

 

つまり、陰陽道とは、陰陽寮の知識、諸技術を「公」のためではなく、

「私」のために使い始めたところに成立したということになります。

 

それでは、最後に、小説やコミック・アニメで安部清明が活躍するとき

に使われる式神(識神)について少し触れておきたいと思います。

 

この式神は非常に便利な存在として描かれていて、安部清明の命令のもと、

妖怪変化に対して獣や鳥の姿で攻撃したり、敵を惑わすために清明の

姿をしたり、ひそかに他者の動向を探ったりと、どのような働きでもする

とされます。そして、清明や彼と対峙する他の術者の能力は、この式神を

使いこなす能力として描かれているといっても過言ではありません。

 

これをそのまま信じるわけにはいきませんが、そのモデルとなる古典の

説話には、呪詛、呪いの技として使われたという例があることを考えると、

あながち荒唐無稽な話として切り捨てるわけにはいかないように思います。

 

「今昔物語」、「宇治拾遺物語」の中で、清明に式神を使って人を殺せるか

と尋ねたところ、「簡単に殺せるが、蘇生させる方法を知らなければ罪を

得てしまうから、容易にはしない」と答えたという話がありますし、水波

霊魂学の水波一郎氏の旧著「大霊力」のなかにも、今も残存する殺人の

技術としての呪法に絶対近寄ってはならないとして、空海に技くらべを

挑む修験者の呪法の恐ろしさが語られていますが、当時の陰陽師たちの間、

さらに、修験者や密教僧をも含めて、その表の顔とは別に、裏で己の意志、

あるいは依頼により、政敵、ライバルに対する呪詛、呪いの技の行使が
行われていたのではないかと推察されます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

荘子-老荘思想2-


にほんブログ村
荘子 
( 荘子 )


前回、取り上げた老子の思想は、最初は、文明の中毒に犯された社会に、

自然の健康を取り戻させようとする政治的な関心から出発したが、それに

とどまらず、その無為自然の立場を掘り下げることによって、先人未踏の

無の世界を発見したとされます。

 

しかし、老子はせっかく人間存在の深奥にある無の世界を突き止めながら、

半ば、いわゆる政治的人間であったためか、そこからさらに人間の生死の

運命を解明しようとはしなかったようです。

 

そこで、このような政治の重い鎖を断ち切って、思うがままに永遠の世界に

遊んだのが、今回、取り上げる荘子という人です。

 

老子の書には、天下や国家といった語が現れるが『荘子』にはほとんど

これが見えず、まれに言及することはあっても、全面的に否定されるための

ものです。荘子には老子のような村落共同体の自然の生活に対する憧れも、

もはやなく、個人主義に徹底していて、いわば、宗教的人間の立場に立って

いるようなのです。

 

なお、荘子の場合は、司馬遷の『史記』では、老子と違って、明確に梁(魏)

の恵王や斉の宣王と同時代の人といい、具体的にその活動時期が明らかに

されており、他の資料からも、前3百年前半の人であることが明らかな

ようです。

 

さて、では、荘子の思想を紹介していきたいと思います。

 

無為自然を根本の立場とすることでは、老子と荘子とでは変わりがないが、

何を道とし、何を無為自然とするかという点で、両者の間には微妙な違い

があり、その相違は次第に幅を広げていったということです。

 

まず、荘子が最初に取り上げるのは、ありのままの真理は、いかにして

得られるかという問題です。

 

なぜ、ありのままの真理の求め方を問題にするかというと、常識が真理の

求め方を誤っているからだというのです。人間は混沌とした一つのものを、

そのまま知識の対象とすることができないので、それを二つに分断して

理解しようとするが、このように分断という人為を加えることは、人為に

よって真理を曲げることではないかというのです。

 

そして、このような思考法からは、前後・左右、是非や善悪、美と醜の

対立差別が生まれるが、いずれも相対的なものである。人間が実在する

ものと信じている二元の対立差別は、もし人間という局限された立場を

離れて、人間以外、もしくは人間以上の立場に立つならば、一挙に霧消

してしまうに違いない。あとに残る世界は、二元の対立がないから一つ

であり、差別がないから斉(ひと)しく同じであるといいます。

 

これが「万物斉同」の説ですが、この立場に達するためには、逆に、もの

を二つに分けて差別する人為をなくすこと、つまり、「無為」ということ

が必要であり、無為になれば、そこにありのままの真実、「自然」の世界

が現れるとしています。

 

さて、前回述べたように、老子は、「無」の世界に足を一歩踏み入れた

ものの、その解明は不十分、不徹底であるということでしたが、荘子は、

この点をさらに深く究めようとしたようです。

 

荘子は、万物の始め、万物の根本となるものは、「固定した無」ではなく、

「無限」そのものでなくてはならないといいます。固定した無とは、

一定の限界を持った無であり、有との間に一線を画し、そのうちに閉じ

こもった無である。ところが、無限とは、まさにそういった区画を持た

ないものであり、有と無との区別なく包容するものであるというのです。

 

森三樹三郎氏は、すべてを斉(ひと)しいと見て、万物の差別を認めない

万物斉同の立場というのは、実は、この無限のうちに身をおくことに

ほかならない。荘子のいう万物斉同の境地とは、あらゆるものを無差別

に包容する無限の境地の別名であるといえようと述べています。

 

荘子は、このような無限の性格を鏡にたとえて次のように述べています。

 

「無限なるものと完全に一体になり、形なき世界に遊べ。天から授け

られたものを、そのまま受け取り、それ以上のものを得ようとするな。

ひたすら虚心になるようにせよ。最高の人間の心のはたらきは、あた

かも鏡のようである。去る者は去るにまかせ、来たる者は来るままに

まかせる。相手の形に応じて姿を写すが、しかもこれを引きとめよう

とはしない。だからこそあらゆる物に応じながら、しかもその身を傷つ

けることがないのである。」

 

このようにして、荘子の根本思想である万物斉同の説は、あらゆる対立と

差別を越えて、一切をそのまま包容し、肯定する無限者たれと主張する

のであるが、この立場を人生の現実に密着させた場合には、人間の運命

をそのまま肯定する立場になります。

 

ただし、それはただの運命随順の思想とは違って、幸福と不幸と呼ばれて

いる差別の姿は、すべて人為によって構成された虚妄にすぎないとして、

あらかじめ運命に付随する牙は抜き取られているのです。

 

したがって、荘子は、「人力ではどうすることもできないと悟ったとき、

運命のままに従うことこそ、至上の徳であるといえよう」「すべての物事

を成り行きにまかせ、心をゆうゆうと自由の境地に遊ばせて、やむに

やまれぬ必然のままに身をゆだね、心の中におのずから中正の状態を

養うがよい。しいて、よい結果を求めようとするな。ひたすら天命の

ままに従え」というのです。

 

ところで、およそ人間の背負う運命のうちで、死ほど強力で無慈悲なもの

はありませんが、運命の肯定を説く荘子は、死の問題に対しても深い関心を

寄せています。死の運命があまりにも強力なものであるだけに、荘子も

さすがに万物斉同の原則論だけですますことができず、さまざまな角度から

死の問題に接近しようとしています。

 

そもそも生とは何か、死とは何かについて、荘子は、「人間が生きている

というのは、生命を構成する気が集合しているということである。気が集合

すると生になり、離散すると死になる。もし、このように生死が一気の集散

にすぎないとすれば、生死について何を憂える必要があろうか」といいます。

 

ここでは、生死が一気の集散として説明されています。ありのままの自然

においては、ただ一つの気が集散しているにすぎないのです。万物斉同の

理、絶対無差別に立場がここでも表れているようです。

 

また、荘子は生死が等しいものであることを自然現象の循環になぞらえて

説明しようとします。自然現象には、昼と夜、春夏秋冬の四季の後退と

循環が見られるが、人間の生死も、この自然の法則にほかならないと

いいます。

 

荘子は、万物は機と呼ばれる幽微なものから生まれ、それが水辺に落ちると

水草になり、それがいろいろな植物や虫類に転生し、次第に鳥や獣となり、

最後は人間となる。その人間が死ぬと、再びもとの機に帰り、そこから

また水草が生まれるというように、無限の循環を繰り返すという一種の

転生説をも説いているようです。

 

このように、荘子は死の世界の楽しみを説き、これをしきりに賛美したと

いうことであり、中国の思想家のなかで、死を正面から論じた最初の

人だといえるようです。

 

ただ、荘子が運命主義者であったとしても、それは古代ギリシャのように、

運命の主宰者、運命の女神が存在したかというと、そうではないようです。

人間がこの地上に生まれたのは、造物主といった他者の力によるものでは

なくて、自然・必然の運命によるものだとしています。

 

以上のことから、荘子は老子と同じく無為自然を根本としながらも、そこ

から万物斉同の説を構成し、無限者である運命のうちに包容されることを

説く、独特の運命肯定論者に到達したということです。

 

なお、以上の思想は『荘子』の内編・外編・雑編の内の内編の思想になり

ます。しかし、外編・雑編は、荘子思想の後継者たちが書き継いでいったと

思わるふしが多く、内編とはかなり異質なものが含まれているようです。

 

外編・雑編には、神仙説の萌芽、つまり、健康を願い、長生を積極的に

肯定する養生説が見られたり、儒教道徳への接近、享楽主義の発生などが

見られるということですが、森三樹三郎氏は、内編との一番の違いは、

人間のうちにある自然、すなわち、人間の「性」、人間の「本性」を取り

上げようとするところにあると述べています。

 

つまり、内編では自然を人間の外におき、これを運命としてとらえ、

外なる自然必然である運命と合一することをめざしたが、そこには絶対

無差別ということが一貫している。しかし、荘子の後継者たちは、

人間性のうちにある自然を発見し、その説を展開していったが、

そのため、知らず知らずのうちに荘子本来の絶対無差別の立場を

忘れ、内と外、我と物との相対差別に陥ったのだと述べています。

 

さて、前回と今回、老荘思想というものについて、ざっとみてき

ましたが。前回の冒頭に述べた疑問、老荘思想は道教と本質的な

関係は有るか否か、という問題の結論はどうなるのでしょうか?

 

老子の神秘主義的な傾向と長生の思想が道教の神仙説との結びつきと

混同されたようですが、老子の神秘的な色彩は、道教のもつ密儀的な

信仰とは異質であり、また、老子は道教的な長生術を人為的なものと

して否定しているようです。そして、荘子に至っては、死と生を等しい

ものとし、死の賛美者とされるほどであり、不老不死の神仙説とは

全く相容れません。

 

よって、宗教ではあるものの、現世否定の契機のない、現世執着の思想

が色濃い道教と老荘思想は全く別個のものということになりそうです。

 

 









 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

老子-老荘思想1-


にほんブログ村
老子・荘子  




以前、道教を取り上げたことがありますが、どうして、老子が道教の神に

なってしまったか、また、なぜ、神仙道というものと交わったのかが未だに

しっくり来ないという側面がありますので、今回は、老子と荘子、老荘思想

そのものに触れてみたいと思います。

 

さて、老子という人物については、分からないことが多いようです。

 

いつの時代の時代の人か? そもそも老子という人物が実在したのか? 

「老子」という書物は老子が一人で書いたものではなく、複数の著者に

よって書かれたものではないか? 等々

 

それはともかく、通常、老子が生まれたとされるのは、紀元前4世紀頃で、

それは春秋時代の末期、戦国時代と呼ばれる乱世の世です。

 

このような時代、前6世紀に生まれたのが、我々がよく知る孔子という人

ですが、孔子の念願は、目前の無政府状態を克服して、かつて、長く続いた

周という国の初期の頃のように秩序ある社会を回復することであり、その

ために、何よりも力の政治を排して、道徳による政治を実現しなければなら

ないと考えたようです。

 

しかし、老子は、これとは全く逆の見方をしたというのです。老子は、道徳

や礼儀といった人為こそ現在に退廃を招いた原因なのであるから、そういう

人為を助長することは社会をいっそう混乱に陥れるものであるとし、道は

ただひとつ、いっさいに人為を退け、個人や社会を自然な状態に復帰させる

べきだと主張したということです。

 

司馬遷の「史記」には、孔子と老子の立場の相違を示すエピソード、孔子が

老子のもとを訪問したとき、「お前さんのありがたがっているのは昔に死人

ばかりで、残っているのはその言葉だけではないか。・・・」と老子に

ののしられるという話がありますが、それは、生きた時代が異なるのであり、

史実ではなく、後世に作られた伝説であるとしても、老子の思想の一面が

よく現れているエピソードだと言われています。

 

さて、まず、老子の根本の立場は、いっさいの人為をなくして自然のままに

生きるということ、無為自然という言葉で表されます。

 

それでは、自然に反する人為とは何をさすのかというと、具体的には、知識、

学問、欲望、技術、道徳、法律など、いわゆる文明や文化と呼ばれるもの

すべてを含むとされます。

 

なぜ、知識までも不自然なものとするのでしょうか?

 

人間がものを知るというのは、判断・分析・理解という語が示すように、一つ

の物を二つに分断し、分解することによって「わかる」ものとすること、

つまり、相対差別することにほかならない。しかし、これは、物の自然の

あり方、ありのままの物の形をゆがめ、破壊することではないのかというの

です。

 

たとえば、人間の身体を、頭、胴、手足に分解したあとで、もう一度よせ

集めてみても、それは死んだ人間を造るだけで、生きた人間にはならない

といいます。

 

このように、知識は真理を捕らえる力をもたないばかりか、かえってこれを

破壊しまうというのです。よって、「学を絶てば憂いなし」なのです。

 

そして、知識がもたらす弊害はそれだけではないという。知識の増加は、

たえず新しい欲望の開発をもたらすという結果を招くといいます。人間が

欲求不満を持つのは、物が足らないことよりも、たえず新しい欲望に駆り

立てられることによる。したがって、老子は「無知」とともに「無欲」

ないし「寡欲」ということを強調するのです。

 

ただし、老子にいう「無欲」は、キリスト教や仏教などが説く「禁欲」とは

関係がないようです。それは身体と精神という二元論から生まれる「禁欲」

ではなく、赤子や農民を自然人のモデルにした「無欲」だということです。

赤子や農民は、文化人と比べるとはるかに無知であり、無欲であるが、

それは意識的に努力した結果ではなくて、自然にそうなっているのです。

つまり、それは「足るを知る者は富む」ということの結果だといいます。

 

このように知識や欲望を否定する老子は、また、道徳をも否定します。

孔子を始めとする儒家がいう仁義は、自然の大道が失われたとき、これを

埋め合わせるために作られた人為的な手段にすぎず、忠孝は国家が混乱した

ときに現れる病的な道徳にすぎないというのです。

 

病める社会に再び健康を取り戻させるためには、その原因でもある仁義忠孝

の道徳を捨て去る以外にない。道徳は、善と悪、仁と不仁、義と不義と人為

的に二分して人々の間に争いを生じさせる。それは知識の人為性から生まれ

たものであり、ありのままの自然に反する。善といい悪といっても、その差

は相対的であり、絶対的なものではない。要は、自然の道、善悪の差別以前

の一なる立場に立つことである、道は善悪の彼岸にあるといいます。

 

さて、では、きわめて現実的で、政治的な中国思想の中において、どうして、

このような自然主義が生まれてきたのかということになります。

 

「老子・荘子」の著者である森三樹三郎氏は、中国の農村という、無知無欲

道徳、徹底した自然状態に近い社会が実在し、それが老子のイメージの

原型になったのではないかと述べています。

 

中国では昔から大帝国の統一が持続されることが多かったにもかかわらず、

地域があまりにも広大なためか、地方の農村は太古以来の生活形態を保持

していたようなのです。老子が「自然に帰れ」といったとき、このような

中国の農村の自然の生活が念頭に置かれていたのであり、これが老子の

自然思想の出発点になったといえるとしています。

 

ただし、それは中央政府を否定するような無政府主義ではないようです。

老子は大国の存在理由を否定しないばかりか、時には大国となるための

心得を説くことさえあったようです。

 

もっとも、その国家は農村の素朴さを破壊することなく、これを保護し、

育ててゆくような、自然国家であり、老子の理想とする政治は、民衆の

教育や訓練もなく、いっさいの干渉をしない自由放任を原理とするもの

です。

 

しかし、無為の政治は、自由放任の政治であり、無為無策の政治ですから、

まことに無責任であり、民衆に対して冷酷であるように見えますが、

どうなのでしょうか?

 

老子は「無為にして為さざるはなし」、無為でありながら、万能の働きを

するというのです。無為の主体は人間であるが、万能の働きをするのは

自然の力であり、このような自然の万能の働きに守られているのである

から、無為無策でありながら、いささかの不安もないというのです。

 

森三樹三郎氏は、老子には神の信仰はない、当時の知識人はすでに人格神

の信仰を失っていた。しかし、天の道、すなわち自然の摂理に対する絶大な

信頼があった。それは信頼というよりも、むしろ信仰に近いものであった。

自然の摂理への信頼、これは老子ばかりでなく、あらゆる道家思想の根底

にあるものであると述べています。

 

そのほか、老子の人生哲学、処世の態度として、「赤子に帰れ」という柔弱

の徳、「弱は強に勝ち、柔は剛に勝つ」という女性原理の哲学、「水は低き

に向かって流れる」という水の哲学、「他と争わない」という不争の哲学、

「功成りて身退くは天の道なり」という保身処世の道、名声欲の否定など

興味深いものがありますが、今回は長くなるので触れずに、最も特徴的

な老子の道と無の形而上学について触れてみたいと思います。

 

老子の思想が同時代の諸子百家のそれと著しく異なっている点は、無為自然

を唱えるとともに、これに形而上学的な根拠を与えたことにあるとされて

います。もともと現実主義的な傾向の強い中国において、哲学的、形而上

学的な方向へ進んだのは老子が最初であり、それは中国の思想としては異例

のことだということです。ただし、それは論理的な体系ではなく、詩的で

あり、象徴的な表現の形態をとっているのです。

 

さて、老子の哲学の根本は、「名」すなわち言葉、概念が、真理を伝えるには

不十分なものだとしていることです。

 

それでは、ありのままの真理は何によって伝えることができるのかというと、

体験的な直観によるしかないというのです。ただし、直観は本人だけが体験

しうるものであるから、他人に伝えることは非常に困難であり、それをあえて

伝えようとするため、言葉でない言葉、象徴による暗示が用いられることに

なります。

 

また、あらゆるものの根源となるものを、老子は「道」と呼びます。この道

の基本的な性格は何かというと、「無限者」であるようです。道とは無限者に

与えられた仮の呼び名で、道はこのように「限りなきもの」という否定的、

消極的な規定によってとらえるほかはないようです。

 

老子は、この無限者を「一」という語で表現する場合があるということです。

森氏は、おそらく一という無形の道が有形の万物に変化しようとする寸前の

姿を形容したもので、一は道の性格を保持しているものの、無形から有形へ

と移ろうとする契機をはらんだ状態にあるということになるとしています。

 

ところで、道には「為すなくして為さざるはなし」という「自然」の働き

がある。つまり、みずからは心意の働きを持たないにもかかわらず、限り

なく物を生み出し、また再び帰ってくる物を受け入れる。この無限の生産

力と包容力こそが無限者である道の属性であるとしています。

 

一方、老子の実践哲学は、無知無欲、無道徳というように、すべて否定の

上に立てられていますが、その全面的な否定の極にあらわれるのが「無為」、

そして「無」ということであるとしているようです。つまり、老子は、道の

本質は「無」であるとも言っているようです。

 

では、無限と無はどのような関係になるのでしょうか? 森三樹三郎氏は、

無と呼ばれるものには、二つの種類があることが看過されるといいます。

 

一つは、常識でいう無で、有を排除するところに生まれもので、有とは対立

関係にあるゆえ、有に対する無、つまり、相対無といえるものです。これに

対して無限の無というものがあり、鏡のように、それ自身は無であるが、

無であるために無限のものを写し、あらゆる有をそのうちに包容することが

できる。常識の無が有を排除するのに反して、この無限の無は有を排除する

どころか、万有を包容する絶対無であるとしています。

 

もっとも、老子は、東洋における無の哲学の先駆者として、絶対無の世界に

足を踏み入れながらも、まだ不徹底なところを残しているようで、その徹底

と完成は荘子を待たなければならなかったようです。

 

 








  霊魂に聞く
   (水波一郎 著 アマゾン 発売)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「薔薇十字団」


にほんブログ村
薔薇十字団 




本書の著者、ロラン・エデゴフェルは、「十字架に薔薇を絡ませたのは

誰か?」という、かつてゲーテが発した疑問を引用しながら、この疑問は、

今日でもなお有効であると述べています。

 

なぜなら、薔薇十字団の謎は相変わらず謎のままであり、研究者だけで

なく、幸福と叡智を探求するすべての人々を惑わし続けているからだと

しています。

 

さて、著者は、本書において、薔薇十字団の謎を三つの謎として探究して

います。一つは、ゲーテが疑問を呈した、薔薇十字団の起源の謎について

であり、もう一つの謎は、薔薇十字団が追求する目的とは何であったのか

というものであり、第三の大きな謎は、薔薇十字団は本当に実在したのか、

のちに薔薇十字団を名乗ったいくつものグループや結社は、その共同体を

本当に代表していたのかという疑問であるとしています。

 

薔薇十字団の三つの文書

 

歴史的存在として確認できる最初の薔薇十字団は、17世紀の初めに現れた

ということです。しかし、それは具体的な組織としてではなく、三つの文書

というかたちで現れました。

 

最初に出版された薔薇十字文書は、「ファーマ・フラテルニタテス(薔薇

十字兄弟団の声明)」(1614年)です。

 

この文書は、薔薇十字兄弟団と名乗る者(著者は、薔薇十字団の創設から

百十数年後の第三世代にあたるという)が、「ヨーロッパの首長、諸身分

階層、学者たちに宛てた」文書で、時代の短い分析に続き、薔薇十字団の

創立者ローゼンクロイツの伝記、創立期の兄弟団の様子と信条、ローゼン

クロイツの墓について述べ、「普遍的改革」の志を同じくする人々に対して、

文書などによって応答してほしいと呼びかけたものです。

 

ローゼンクロイツはドイツの没落貴族出身で、アラビア、エジプトなどへ

修行の旅に出てカバラーやヘルメス学などの東方の神秘学を学んだのち、

ドイツにもどり、真理を探究するために修道会に似た協会を創設したと

いいます。

 

薔薇十字団の信条は、(1)無料で病人を治すことを職業とすること(2)

特別な姿をするのではなくそれぞれの国の服装を身につけること(3)

毎年集まること(4)自分の後継者を選ぶこと(5)印章、合言葉は

「薔薇十字」とすること(6)兄弟団の存在を百年間秘密にすること、

としています。

 

「ファーマ」における薔薇十字の思想は、哲学と神学を同列に扱う楽観的

なものであり、その哲学は、古代の様々な思想に共通の叡智をみる「古代

神学」の立場、そして、様々な宗教や哲学のあいだに究極的には調和を

見出そうとする「哲学の平和」の考え方を引き継いでいるということです。

 

また、ユダヤ神秘主義「カバラー」や医師であり錬金術師であったとされ

るパラケルスス(パラケルススは薔薇十字団のメンバーではなかったと

いう)の影響も大きいということですが、「ファーマ」は、同時代に

流行した単なる黄金製造としての錬金術や魔術、そして巷にあふれる

錬金術書にははっきりと批判的な態度をとっているようです。

 

「ファーマ」における薔薇十字団は、真理を探究するための、少人数の知的

エリート集団である。よって、その哲学はふさわしくない人々には知られる

必要はない。しかし、知識は閉鎖的なものではあってはならず、探究者たちが

情報交換を行って学術を改良・進歩させていく必要があると訴えたという

ことです。

 

「ファーマ」に次いで出版されたのが「コンフェッシオ・フラテルニタティス

(薔薇十字団員の信条告白)」(1615年)です。本書は、「ファーマ」の

補足であると自称するもので、終末論的なトーンが強い点や反カトリックと

いう立場を鮮明に主張している点で「ファーマ」とは趣を異にしているよう

です。

 

「コンフェッシオ」は、キリストを奉じ、教皇に反対し、真の哲学に心を寄せ、

キリスト教的生活を営んでいる、神の光に照らされた人々を招いている薔薇

十字団に加わったならば、きっと自然が世界の至るところに散りばめておいた

富が分かち与えられるだろうと約束しているとのことです。

 

著者エデゴフェルは、「コンフェッシオ」が「ファーマ」と本質的に異な

っている点は、聖書の重要性を認めていることであると述べています。

そして、「コンフェッシオ」が「ファーマ」で表明された思想の解説だと

いうことになっているのに、「ファーマ」では楽観的な様相のもとに提示

された哲学がここでは欠陥だらけの終焉間近なものとして登場していると

しています。

 

また、天・地・人を究めた「哲学」を多くの人に知らせるべく「言葉の時代」

を宣言するが、自分たちの仲間になる者に対して沈黙を強制し、自分たちの

哲学を告白するが、すぐにそれは神の恩寵に恵まれた者でなくては到達でき

ないと付け加えるというパラドックスをはらんでいると言います。

 

とにかく、「コンフェッシオ」の精神は「ファーマ」のそれとは著しく異な

っているものだと言えるようです。

 

17世紀の薔薇十字団に関する第三の文書は、「クリスチャン・ローゼン

クロイツの化学の結婚」(1616年)という書です。錬金術の象徴を

ふんだんに用いた物語であり、全二作の作者は不明ですが、薔薇十字団の

創設者とされていたローゼンクロイツがこの物語の作者であるとされ、

一人称の語り手となっているというものです。

 

この物語は、ローゼンクロイツが、様々な試練に遭遇したのちに、選ばれて

結婚式に出席し、最後に「黄金の石の騎士」となる、その7日間の出来事を

描いた物語です。その結婚式は、錬金術の作業のように見えるが、結婚式

そのものよりも、結婚式に出席するにふさわしい者はいかなる者か、が中心

的なテーマになっていて、この中心的なテーマは、ローゼンクロイツの歩み

を語る物語の波乱万丈な筋書きによって追求されているということです。

 

ここで錬金術は、象徴的な機能を果していて、物語のなかに散りばめられた

夢、芝居、エピグラム、暗号、記号、音楽、小話などが象徴となって、「秘密

をほのめかしつつ隠し」「隠しつつ顕す」雰囲気をかもし出しているとの

ことです。

 

ところで、「ファーマ」に描かれているローゼンクロイツは、東方で秘教的

な知を学び、秘密結社の指導者になった賢者であり、その生涯は、師を尊敬

する弟子の視点から描かれていました。

 

これに対して、「化学の結婚」のローゼンクロイツは、みじめな、過ちを

犯す存在であり、絶えず迷い、挫折しめげてしまう。しかし、そのような

とき、ローゼンクロイツは、おのれの無価値を謙虚に認めて神にのみ依り、

頼むことを知っています。だからこそ、「神の恩寵」により特別な騎士団

のメンバーに選ばれます。

 

このように、「化学の結婚」はローゼンクロイツの歩みをたどることに

よっていかなる者が自然の神秘を知るにふさわしいかを描いています。

また、そこには、錬金術や秘密結社をめぐる騒動に対する批判や風刺が

あるということです。

 

なお、ローゼンクロイツの歩みが「化学の結婚」というテキストの縦糸

だとすると、その横糸をなしているのが、記号や場面や物語の構造に

おける象徴性、つまりアレゴリー性だとされます。

 

かくして、上記の薔薇十字文書の出現は、世の中に熱狂を巻き起こし、

これに刺激されて賛同、もしくは反対する文書が次から次へと現れ、

数年の間に2百以上の文書を数え、18世紀初頭までにはおよそ9百

にも達したということです。

 

ところが、のちに「化学の結婚」の作者は、実は、ヨハン・バレン

ティン・アンドレーエという人物であることが発覚するのです。

それも、晩年の自伝の中で、17歳の時に書いた、奇想天外な場面を

ちりばめた「遊び」であって、好奇心のむなしい労苦を描いたものだ

と述懐しているのです。

 

アンドレーエは、1586年に南西ドイツのヴェルテンベルク公国に

生まれた、ルター派の重要な一族に属す神学生で、その家紋は、ルター

にならって「薔薇と十字」であったということです。

 

では、「化学の結婚」の著者はアンドレーエだとして、他の二つの文書も

彼によるものだったのでしょうか?

 

アンドレーエが「ファーマ」と「コンフェッシオ」両文書の執筆に関与

 していたとする研究者、「ファーマ」のみに関わっていたとする研究者、

いずれにも関わっていないとする研究者など、意見が分かれている

ようです。

 

ただし、いずれにしても、両文書が若きアンドレーエの周辺で成立したこと

はほぼ間違いないとされています。

 

では、上記の文書が遊び、戯れのようなものであったとしても、これらの

文書が世に出た背景には何があったのでしょうか?

 

著者エデゴフェルによると、反抗的な学生であったアンドレーエは、30年

戦争に至るその当時の危機的な社会状況と、そこから派生する諸問題の重大さ

を認識し、ある主要な人物を批判したため、神学の勉強を中断しなければなら

なくなり、亡命を余儀なくされたこと、そして、そのことによる傷心と、トビ

アス・ヘスという、カバラーに傾倒し、法律家であり、医者であり、神学者で

ある変奇な人物との出会いが、第一の宣言、つまり「ファーマ」を誕生させた

のだろうとしています。

 

つまり、これらのことから全能の伝説的な人物、過ちを正し、新時代を告げる

人物を考えだしたのであり、その名前は彼の一家の紋章とルターの紋章から

思いついたに違いないと述べています。

 

しかし、事態は勝手に進展していき、大騒ぎになってしまいました。

 

それに対して、アンドレーエは、本来は、一生の間の様々な著作と行動に

より、ルター派の世界ではキリスト教徒の真の友愛団を推進しようと努めた

人であったようですから、いくつかの書の中で、薔薇十字団騒動への鎮静化を

始めます。

 

「ファーマ」に対して「化学の結婚」が、「コンフェシオ」を修正するものと

して「精神の剣の鞘」という書が著されたということです。

 

ただし、それは全面的に否定するわけではなく、肯定するにも否定するにも、

あまり明確でないデリケートな方法を用いたことになります。

 

 

著者は、これによって、アンドレーエは、学生時代の失敗を教訓に、直接、

下手な論争に首を突っ込むことを避け、秘密裏に、ローゼンクロイツを秘密

結社の指導者となった賢者という存在から、神の恩寵によってのみ救われる

迷える存在へと巧妙な修正を行おうとし、また、薔薇十字宣言から驚異という

偽りの魅力を排除し、宣言に含まれているメッセージの聖書的解釈を提唱し

ようとした、つまり、十字架の採用と薔薇十字の放棄へと導こうとしたと

述べています。

 

しかしながら、それに耳を傾ける者はなく、その後、薔薇十字神話は、

いやおうなしに、その作者の手を離れ、時間と空間を超えていたるところ

に出現することになって行ったようです。








 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体