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日本の竜-竜の起源3-


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 龍の棲む日本 




金属文化、文字文化、仏教文化と同様、竜に関しても日本は中国の

文化圏にあるとされます。よって、竜をはじめとして、麒麟、鳳凰、

迦楼羅(かるら)などの不可思議な生命体も中国から日本に持ち

込まれ、牛や馬の信仰も広く行われていました。

 

しかしながら、中国の竜も新石器時代の農耕文化までさかのぼれる蛇の

信仰に起源を持つものであるとすると、日本の竜の性格をさぐるには、

それだけにとどまらず、中国の竜が伝来する以前の蛇の信仰にも目を

向けなければなりません。とにかく、竜は、威厳と力のシンボルと

して別格の聖獣とされてきたのですから。

 

そこで、まず、蛇の信仰を語り伝えてくれる最古の文献である『古事記』

と『日本書紀』に目を向けておきたいと思います。

 

では、そのなかで特によく知られている、出雲を舞台とする八岐大蛇

(やまたのおろち)の説話を見てみましょう。

 

高天原を追放され地上に降りたスサノオが出雲の国の女性と結ばれる様が

大蛇退治の話を中心に語られているのですが、その大蛇は、<その目が

赤カガチ(赤いほおづき)のようで、一つの身体に、頭が八つ、尾が

八つある。その長さは八つの谷、八つの山峡を這い渡るほどで、その

腹はいつも血にただれている。>といった姿形をしています。

 

スサノオは強い酒を大蛇に飲ませて眠ったところを「十挙の剣(とつかの

つるぎ)」で切り殺してヒメを救い、結ばれるのですが、その際、大蛇の

尾から現れたのが「草薙の剣」あるいは「天叢雲剣(あめのむらくもの

つるぎ)」だとされ、アマテラスに献上されます。

 

神話の型としては、ギリシャのペルセウス=アンドロメダ型の一つ(ペル

セウスも金銅の鎌で蛇の髪をもつメドゥサの首を切り取り、海の怪物の

生贄に供されようとしていたアンドロメダを救い、自分の妻にした)で

あるとされますが、問題は、八岐大蛇が竜と言えるのかどうかです。

 

荒川紘氏は、『龍の起源』のなかで、<頭と尾が八つに分かれ、丘や谷を

這い渡る大蛇と表記されるが、ふつうの蛇と見ることはできない。角や足

は認められないから、中国の竜の仲間に含めることはできないが、蛇にも

分類しきれない。>しかし、<中国人が多頭の形態をとるナーガを竜と

訳していたこと、そして、ギリシャ人もまた、多頭の蛇をドラコーンと

呼んでいたことを思い起こせば、この眼光鋭い、八頭・八尾の巨蛇も

竜の仲間に入れることができるのではないだろうか>と述べています。

 

そして、頭と尾が八つに分かれ、丘や谷を這いまわる大蛇が「年毎に」

襲ってくるというのは、いかにも、いくつもの谷間を流れ下り、支流に

分岐する河川の氾濫をイメージさせるが、これは一種の洪水神話と読め

る。つまり、大河の濁流を象徴する破壊の蛇が日本にもいたのであり、

それを退治することで出雲世界に秩序をもたらしたと言えるとしています。

 

次に、大和の三輪山の蛇の伝承について見ておきたいと思います。

 

『日本書紀』の崇神紀に三輪山の神が「蛇」であるという記事が登場し

ます。それによると、<崇神天皇の大叔母にあたるヤマトトトビヒメは、

三輪山の神・大物主大神の妻となったが、大神がヒメを訪ねるのは夜だけ

なので、その美しい姿を見せてほしいと懇願する。そこで、大神は正体を

現すのであるが、それは美しい「小蛇(こおろち)」であった。それを見て

ヒメは驚き叫ぶと、大神は恥じて人の姿に戻り、怒って三輪山へ登って

しまった>ということです。

 

また、「書紀」の雄略紀には、雄略天皇が側近のなかで力持ちであった

スガルに、三輪山の神の姿を見たいので捉えてくるように命じると、

スガルは三輪山へ登り、「大蛇(おろち)」を捉えて天皇に示したという

記事があります。

 

ここから、「小蛇」にしても「大蛇」にしても、三輪山の神であるオオ

モノヌシが「蛇」であることが伺われますが、それは何を意味するので

しょうか?

 

三輪山の山麓は、縄文時代にまでさかのぼることができる、大和では最も

古くからひらけた土地であり、三輪山も、飛鳥・奈良時代には、神々の天

降る「神奈備(かむなび)の山」とされ、この山を祀る大神(おおみわ)

神社がつくられるなど、古くからの信仰の山であったということです。

よって、そこでは豊饒の儀式、そして、また、雨乞が行われていたことが

うかがわれるとされます。

 

よって、荒川紘氏は、<三輪山の「小蛇」と「大蛇」は、縄文土器にかた

どられていた雨と豊穣のシンボルとしての蛇に起源をもっていて、弥生

時代にも生きながらえた豊饒の蛇であると推察される>と述べています。

 

そして、記・紀において、蛇が雨を呼ぶ生命体であること、「大蛇」を雷

とみなしていることなどから、「大蛇」は竜に近いものとして意識されて

いたのではないかと言い、「小蛇」については、竜は伸縮自在であり、

竜と蛇は相互に変容可能であるとしています。

 

さて、このような、記・紀に登場する出雲の蛇と大和の蛇は、どちらも

竜と呼ぶことのできる蛇であるとして、二つの蛇は別のものであるのか、

それらを結ぶ糸があるのか、という疑問がわいてきます。

 

これに対しては、荒川紘氏は、『出雲の国風土記』にはスサノオは登場

するものの、八岐大蛇退治の話はどこにもないところから、出雲神話と

いうものは、大和を中心に起こった権力の交替劇の記憶を、出雲に舞台

を借りて表現した神話ではないかとしています。

 

つまり、高天原から下ったスサノオによって八岐大蛇が退治されるという

話は、一種の洪水神話であるとともに、大和に侵入した天の信仰を持つ

新勢力が蛇を信仰していた大和の三輪山を中心とする旧勢力を打ち倒した

という歴史を伝える神話であるとも読まれねばならないというのです。

 

よって、二つの蛇は同一のものであると言います。ただし、崇神紀では

雨をもたらしてくれる豊饒の「小蛇」と「大蛇」であったのに対して、

出雲神話では、洪水を引き起こす反豊饒の「大蛇」、高天原の神に敵対する

反体制の「大蛇」として登場するのだとしています。

 

以上のことから、記・紀に登場する日本の竜は、縄文以来の蛇がもとと

なった竜のようなもの、つまり、竜蛇ということになります。

 

では、弥生式土器や銅鏡に描かれていた中国伝来の竜はどうなったので

しょうか? そして、弥生時代以後も、日本には、様々な竜の造形が持ち

込まれましたし、飛鳥時代には仏教の竜も入ってきましたが、それらは

どうなったのでしょうか?

 

どうも、記・紀のなかには、「竜」と名のつく神は登場せず、「竜」が主題

となることもなかったようなのです。八岐大蛇も三輪山の蛇も、竜的な

蛇と解釈されるのであるが、「竜」とは記されず、「竜」という語が使われ

ること自体が少なかったということです。

 

ただし、「竜」の名は登場しないが、そのかわり、竜に近い神であった

オカミの神、ミツハの神が、記・紀の神統譜のなかに並んであらわれて

いるとされます。

 

本来、中国では、オカミは雨を呼ぶ竜を意味し、ミツハは水の棲む竜と

考えられていたが、日本においても、それが竜とは述べていないものの、

オカミを雨乞いの神と考え、ミツハを水の神とみていたことは確かな

ようです。

 

また、オカミについては、それはオオカミの転訛であり、「大神」だと

いう解釈があるようです。中国では、人間の魂をさす鬼(き)に対して、

「神」は自然の霊力を意味していたようですが、日本人はそれを蛇に当て

ていた、つまり、大神は大蛇だということになります。

 

なお、記・紀の時代に、オカミ、ミツハとは別に、「タツ」と呼ばれる竜

の観念が流布していたようです。タツは、オカミ、ミツハが水棲の竜であ

ったのに対して、天空を飛翔する竜として認識されていたということです。

 

しかし、なぜ、記・紀の神々のなかにストレートに中国では王権のシンボル

であった竜がそのまま取り入れなれなかったのでしょうか? 荒川紘氏は、

むずかしい問題だとしながらも、日本の皇室の悠久性、独自性を主張する

書であったためではないかとしています。

 

以上の観点から記・紀の「蛇」をみると、八岐大蛇も三輪山の蛇も、それ

は天を飛翔する竜ではなく水に棲む竜蛇ということになりますが、中国や

インド、つまり、東方の竜の仲間に入れることが可能です。

 

その後、平安時代以降、仏教が興隆するとともに、仏教の竜が目立つよう

になるのですが、その性格も一様ではなく、竜と蛇の区別も曖昧なままで

あったようです。したがって、民話や伝説に登場する竜の姿はまちまちで、

竜を大蛇として語ることも多く、竜・蛇の棲むという池や淵は全国に数え

きれないほど存在するのですが、蛇ヶ池、蛇ヶ淵という名の池がある一方

で、竜ヶ池、竜ヶ淵という名の池や淵が混在することになったのです。

 

『道成寺縁起絵巻』には胴体は足のない蛇でありながら、頭は竜であると

いう絵がありますが、荒川紘氏は、<日本の竜がこのような複雑な性格と

形態を示すのは、縄文時代以来、豊穣の蛇の信仰が広く浸透していた日本

の地に中国の竜が持ち込まれたからであり、日本の蛇は外来の竜に駆逐

されなかったからだ>と述べています。

 

ところで、今まで三回にわたり竜の起源について紹介してきましたが、

これはすべて架空の存在としての竜、あるいは寓意としての竜でした。

しかし、「龍」という霊的生命体が実在するとしたらどうでしょうか?

 

そのような、霊的世界に実在する龍、今まで知られていなかった、人類を

指導する高貴な霊的存在としての龍ついては、以前(2016/12/26)、水波

一郎氏の『龍-霊魂の世界から舞い降りた霊力-』を紹介しております

ので、是非読んでいただきたいと思います。

 

 

 
 
 
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西方の竜-竜の起源2-


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 エヌマエリシュ
 
 
  ヨーロッパに広く分布するというドラゴンという生命体をわが国では

あまり躊躇することなく竜と訳していますが、ドラゴンとはどのような

存在なのでしょうか?

 

ヨーロッパの絵や彫像、そして紋章などによると、ドラゴンは有翼、した

がって四足でなくて二足であり、また、中国の竜が細身の体形であるのに

対して、ドラゴンの胴体は太いようです。

 

そして、何よりも、聖獣であった中国の竜と違って、ヨーロッパにドラゴン

は嫌われもので、神々や英雄に退治される悪魔的存在という正反対の性質を

持っているという大きな違いがあったのです。

 

しかし、前回、「東洋の竜」で紹介したインドの竜であるナーガと比べる

と、ヨーロッパのドラゴンは、ナーガよりも姿形において中国の竜に近い

とも言えます。

 

では、その類似性には、どういった理由があるのでしょうか? どういう

背景があるのでしょうか?

 

そこで、まず、ヨーロッパの竜のイメージは、どのように形成されたのか

を、西方の太古の文明であるメソポタミア文明にまでさかのぼって見て

みたいと思います。

 

紀元前四千年紀の後半、シュメール人は、メソポタミアの南部、つまり、

チグリス・ユーフラテス川の下流域に、インダス文明よりも、黄河文明

よりも早く、人類最初の都市国家を築いたとされます。

 

そこでは、青銅器、牛・馬車、文字、暦法が使われはじめ、これらの都市

文明は、西方世界全域、そして東方世界にも伝播ないし影響を及ぼしたと

考えられていますが、このシュメール人が開発した印章には宗教的な主題を

表す図も刻印されていて、神と推測される図像、牛や馬などの動物像、麦

その他の植物像などに加えて、蛇の像や竜と思われる図像が認められると

いうことです。

 

竜と思われる存在は、大蛇の胴体に角と足をつけたものとして描かれて

いて、翼を持つものもいるようですが、ここからヨーロッパのドラゴンの

原型がすでにシュメールに生まれていたといえるのではないかと言われ

ています。

 

その形姿は、蛇を基体とするという点で中国の竜に近いが、楔形文字で

書かれた粘土板文書には、原初の海に棲み、洪水の原因ともなる怪獣クル

の名が読み取れ、水との関係でも中国の竜との共通点が認められると

いうことです。

 

しかし、相違点もあります。中国の竜にも洪水の原因となる河伯(かはく)

のようなものがいたが、干ばつのときには慈雨をもたらしてくれる竜でも

あったのです。それに対して、シュメール人の竜は、耕地も家畜も家屋も

呑み込んでしまう大河の濁流と結び付けられるのみでありました。

 

よって、シュメールの竜は英雄に退治されねばならなかったのですが、

この竜退治の神話は、紀元前2千年紀に南メソポタミアの覇者となった

バビロニアに引き継がれます。

 

バビロニアの創世神話である『エヌマ・エリシュ』によると、天と地は、

バビロニアの英雄神マルドゥクが竜のティアマトを殺すことによって

創られたとされます。

 

<マルドゥクは干し魚のようにティアマトを二つに裂き、その半分を固定

し、天として張り巡らした。><かれは(それに閂(かんぬき)を通し、

番人たちをおき、かれにその水分を流出させてはならないと命じた。>

<マルドゥクは(ティアマトの骸(むくろ)の半分を張り巡らし、地を

堅箇に固めた。>

 

さらに、マルドゥクはティアマトの屍の残った部分から、山や泉や川を

つくり、また、神々からきつい夫役を除いてやるために、ティアマトの

手下キングを処刑し、その血から人間を創造したとされます。

 

退治されるティアマトというのは、神話のなかで「大洪水を起こす龍」と

呼ばれる、シュメールの竜を引き継いだ水の神であり、このように、水に

満たされたティアマトの体から水の天と水の地がつくられたとされるのです。

 

なお、ティアマトがどんな形態の竜であるかは何も語られていないが、

ティアマトを描いたと思われる印章の図像などによれば、このバビロニア

の竜は、蛇の胴体にライオンと鷲のような鳥が混成された姿であると想像

されていたようです。

 

かくして、メソポタミアの竜は、水の神であり、その形態は蛇を基体にして

他の動物を混成したものということになりますが、その点では中国の竜に

共通しながらも、社会秩序の敵対者として立ち現れる点で、性格的には中国

の竜とは対照的な存在と言えます。

 

さて、それでは、メソポタミアとほぼ同じ時期に誕生したエジプト文明に

おいてはどうだったのかを見ておきたいと思います。

 

残念ながら、エジプトには中国やメソポタミアのような竜らしい竜を見出す

ことはできないようです。エジプトでは「ウラエウス」が中国の竜と同じ

ように王権のシンボルとなったが、それは蛇そのもので、頭をもたげ、S

字型の形をとるコプラの神であったのです。

 

ナイル川が育むデルタの豊饒力を象徴する神であったコプラの神ウラエウス

は、竜に変容することはなく、コプラのままで全エジプトに君臨する王を

庇護し、国家に恩恵をもたらすという政治的な性格の強い神として崇拝され

続けたということです。

 

このように水と豊穣のシンボルとして生まれ、コプラのままで信仰され続け

たウラエウスは、起源と形態と性格などから見て、インドのナーガに近い

存在と言えるようです。ただし、インドでは背後からナーガが仏を庇護する

形の仏像が見られる一方で、ウラエウスの像は王や神の額につけられる

ことが多いようです。

 

なお、エジプトではウラエウスとは別に蛇の神であるアペプというのも存在

したようです。ナイル川の神話化である深淵ヌンに棲む悪蛇で、太陽神ラー

や豊饒の神オシリスの敵とされ、死者も冥界への途中でアペプに道中を妨害

されると言われています。

 

この話はインドでいえば、ヴェーダにおける天神インドラと悪蛇アヒとの

関係に対応するといえますが、地理的に近いのは、バビロニアのマルドゥク

とティアマトの神話だと思われます。ティアマトは水の悪神であり、マル

ドゥクは太陽神と見られていたとすると、悪蛇アペプはティアマトを含む

メソポタミアの竜と系譜的につながりそうです。

 

そうすると、メソポタミアとエジプトの文化的交流のなかで、エジプト人

がメソポタミアから英雄に敵対する竜に神話を学んだ可能性は小さくない

と言えます。

 

さて、旧約聖書の物語にもバビロニアの影響が認められるようです。ノア

の方舟にそっくりの神話がバビロニアの叙事詩「ギルガメッシュ」に見い

だされるとともに、聖書それ自身がイスラエルとバビロニアの間の文化的

な交流を示していると言われています。

 

竜についてはどうでしょうか?『エヌマ・エリシュ』では竜の神ティアマト

を殺害し世界秩序を確立するのですが、旧約聖書にも、たとえば、「詩編」

74章には、レヴィアタンと呼ばれる竜が世界の秩序の創造に際して退治

されるなど、それによく似たストーリーがいくつか認められるようです。

 

特に、ユダヤ人が宇宙の生成を明確な形で提示する「創世記」第1章には、

<はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく、闇がおもて

にあり、神の霊が水のおもてをおおっていた>からはじまり、そして神は

第1日には昼と夜をつくり、第2日目には、<神はまた言われた。「水の

間に大空があって、水と水を分けよ」。そのようになった。神は大空を

造って、大空の下の水と大空の上の水を分けられた。神はその大空を天と

なづけられた。>とあるが、この章と、水の神ティアマトを二つに切り裂い

て天と地を形成したと語る「エヌマ・エリシュ」との類似性は明らかです。

 

ここから、竜の宇宙論はメソポタミアからイスラエルへ伝わったと言え

そうですが、「創世記」第1章には竜は姿を見せないところから、「創世記」

第1章よりも早く成立したとされる「詩編」第74章のレヴィアタンなどの

竜については、ユダヤ人がイスラエルの地に定住する以前、その地に王国を

築いていたカナン人に抱かれていた竜のイメージを受け継いだのではないか

と言われています。

 

というのは、近代になって発見されたシリアのウガリット遺跡の粘土版文書

には、カナン人に崇拝されていた神バールとバールに敵対して退治される

竜ロタンについての神話が記されていたのです。それによると、バールと

いうのは、「雲に乗る者」とも呼ばれる大気と雨の神で、ロタンは河川の

水を支配する七頭の竜とされ、バールとロタンは大地の覇権をめぐって

争うが、最後にはバールがロタンに勝利するとされます。

 

カナン語のロタンとは、ヘブライ語のレヴィアタンに相当する語ですが、

カナン人の町ウガリットは、紀元前2千年代のオリエント世界における

交易の中心地であり、メソポタミアに生まれた竜の神話も、このルートに

よってカナンに運ばれ、その後カナンの地を支配するユダヤ人にも伝えら

れたと考えられるのです。

 

さて、ここでギリシャにおける竜的な存在についても触れておきたいと

思います。

 

ギリシャ人は、様々な竜的な怪物をドラコーンと呼んでいたようです。

そうなると、ドラコーンの定義は容易ではありませんが、ギリシャ人は、

自然の動物にはない霊力を持つ、爬虫類的な空想の怪物はすべてドラ

コーンの仲間と考えていたということになります。

 

もっとも、ギリシャでは、蛇的なドラコーンが一般的であって、カドモス

の竜は大蛇であり、ピュトーンもそうです。リンゴの樹を守るラドンは

100の頭を持つが、その一つ一つは蛇であったし、ラドンの両親である

テュポーンとエキドナも蛇的な竜とされます。

 

では、このドラコーンはどのような起源を持つのでしょうか?

 

これらドラコーンの祖先についても、オリエントの竜退治の神話が陸の

回廊、海の回廊によってギリシャまで運ばれた可能性が高いとされます。

 

しかし、ギリシャのドラコーンの起源を考えるには、ギリシャの先住民族

の信仰も無視できないようです。アテナやヘラなどの、もとは先住民族の

神々と蛇との深い関係を考えると、ギリシャ人が南下する以前、そこでは

蛇の信仰をもつ民族がいたと推測されるからです。

 

つまり、ギリシャの半島には、蛇を守護神として崇拝していた人々がいた。

そこに、紀元前2000年ごろからギリシャ人が内陸部から侵入する。

侵入者によって奉じられていたのは、ゼウスに代表される天の神々。

そのため、半島の先住民に崇拝されていた蛇は敵役を担わされる一方

で、オリエントからは竜退治の神話が伝播、土着の蛇と外来の竜とが

混淆してドラコーンが生まれたということになります。

 

そして、その後の展開は省略しますが、古代から中世におけるキリスト

教社会のヨーロッパでは、形態は変化してもドラゴンは神の敵であると

いう考えが踏襲されてゆきます。

 

以上のことから、繰り返しになりますが、西方の竜の主な性格は、東方

の竜とは対照的に、常に神々に敵対する悪魔的存在であったと言える

でしょう。ただし、ギリシャ神話において、リンゴの樹や宝物を見張ると

いう役割も担わされていたというところからすると、西方の竜にも両義的

な性格を認めなければならないようです。

 

また、形態的には、ヨーロッパのドラゴンのみならず、シュメールまで

さかのぼっても、その多くが有翼であり、西方の竜は空を飛ぶのに翼を

必要としたのです。

 

もう一つ、東方の竜との違いで際立つのは、雨との関係です。たしかに、

西方の竜もまた水との関係が深い生命体であると見られていましたが、

東方の竜とは違って、雨をもたらすとは考えられていませんでした。

西方の人々は、反社会的な竜に雨を降らせる権能を認めず、慈雨を

もたらしてくれるのは、竜を退治した神々のほうだったのです。

 

以上、前回は、東洋の竜とその起源、今回は、西方の竜とその起源に

ついて見てきましたが、その類似点、相違点についてはかなり明確に

なったと思います。

 

よって、最後に、それぞれの起源とされるシュメール・メソポタミアの

竜と中国の竜の類似性について少し触れておきたいと思います。

 

つまり、中国の竜はシュメールにさかのぼれるか、ということですが、

『龍の起源』で荒川紘氏は、<中国に竜のあらわれる殷代の後期は、

甲骨文をはじめ、青銅器、馬車、天文・暦法が出現した時代であったが、

これらの、政治権力と深く関係する都市文明は、メソポタミアに起源し、

中国に伝えられたと考えられる。しかし、竜もシュメールに始まると

いってよいかというと、問題はそう簡単ではない。シュメールに起源する

西方の影響があったとしても、中国にはみずから竜を生み出すための十分

な条件が存在していた>と述べています。

 

さて、次回は、いよいよ、日本の竜について触れてみたいと思います。






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「霊の真柱」-魂のゆくえ-平田篤胤3-


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平田篤胤肖像



『鬼神新論』を書いた7年後、篤胤にとって生涯の主著とされる

『霊(たま)の真柱(みはしら)』を著します。このとき、彼は37歳

で、ちょうど江戸でひらいた塾には次第に門人や聴講者が集まるよう

になり、篤胤を師とあおぐ者たちが増えてきた頃だということです。

 

この書が論じているテーマは二つあるとされます。一つは、「世界の創世

記と日本の誕生」であり、もう一つは、「死後の霊魂のゆくえ」について

です。篤胤は、この壮大なテーマを神々の歴史に沿って段階的に説明して

ゆくのです。

 

より具体的にいうと、世界中で日本にのみ残されている歴史的資料の断片

(彼は日本神話をそう捉えている)をまず独自に精査して、そして、

古代に存在したであろう正しい伝説をもう一度復元し直したあと、その

展開に沿うようにして、太陽、地球、月、そして日本と諸外国の国土が

生成してゆく過程を、図を掲げながら解説します。

 

その図は第一図から第十図まであり、何もなかった無の状態から、天体の

もととなる物質が生まれ、次第に神と人間の息づくこの世界がはっきり

と形を成してゆく様子が詳しく描かれているのです。

 

また、その結果として、実は我々の目に見えない死後の世界も同時に生成

し、これまで永続的に存在していたとされます。

 

ただし、この図は、篤胤のオリジナルではなく、服部中庸(はっとり・

なかつね)という人の『三大考』という著作の中で論じられたもので、

篤胤が補足修正したものです。

 

そこには、<いにしえの伝えにいわく、大虚空(おおぞら、宇宙)の中に

一つの物が生まれたが、そのかたちは言葉では言い難いもので、根っこが

かかるところのないような様子で、クラゲのようにフワフワと漂える>、

また、<ここに生まれた一つの物は、のちに太陽(天)・地球(地)・月

(泉)の三つに分かれることとなるものである。><この一つの物が虚空

(おおぞら)に生まれたのも、それが分かれて太陽・地球・月となって、

第十図のように完成することも、ことごとく、かの二神の産霊(むすび)

の大神の産霊によってそうなったのである。>などと記されています。

 

そして、このように形をあらわした地球の上に、今度は日本の国土が

いちばん初めに現れてくるといいます。

 

つまり、イザナギとイザナミが結婚して子供(国土)を産むとされるが、

それは物語ではなく、現実に存在する日本の島々なのです。まず、夫婦

神は、淡路島を胎盤とし、本州を産んだ。その後、四国、九州、壱岐、

佐渡が産まれ、全部で八島となった。だから日本は大八島の国だと

いいます。

 

ちなみに、外国の国土は神が産んだのではなく、潮の沫(あわ)が集ま

って成立したとされます。そして、日本は地球上で天(太陽)に最も

近い位置にあったとされるのです。

 

このように、篤胤は日本神話を単なる物語と見ず、あくまでも自分たちが

生きている現実の世界が歴史的にどのように成立したか、また自分の目に

映っている天体や国土の全体がどうなっているのか、ということを具体的

に解き明かす資料として扱ったということです。

 

ところで、このような「世界の創世記」「日本の誕生」という『霊の真柱』

のテーマは、前回、紹介した『鬼神新論』と比較すると、<時間も空間も

飛び越えた宇宙の外側から、大きく自分たちの存在をつかみ取ろうという

新しく壮大な視点によって打ち立てられているように見える。あるいは

世界規模で自分たちの国を改めて位置づけ直そうという強い欲求が働い

ているようにも感じられる>と『平田篤胤』の著者吉田麻子氏は述べて

います。

 

吉田氏は、篤胤は、ただ単に「神は間違いなくいる」と主張するだけでは

満足できなくなり、神々と自分たち人間を含めた具体的な世界の全体像を

描かなければどうしても済まなくなったのではないかとしながら、この

ような篤胤の問題意識の深まりと飛躍の背景には、いったい何があったの

であろうか、と問うています。

 

そして、その背景とは、篤胤が以前より抱いていた「天地の存在」や「こ

の世ならぬ不可思議なものたち」に対する哲学的な問いや実感にからみ

つくようにして、「西洋」(ロシア)の接近という差し迫った時代状況が

すぐそばに立ち現れていたということではないかとしています。

 

その根拠として、吉田氏は歴史学者の宮地正人氏の<篤胤は外からやって

くるロシアという異国の存在をまざまざと実感したことによって、日本と

いう島国を、それまでにない強烈なリアリティをもって意識し、日本人と

してのアイデンティティを、この国土に棲む神々とその歴史の中に求めた

>のだという新資料にもとづいた言説を引用しています。

 

さて、篤胤は、『霊の真柱』の冒頭で、魂の「柱」、つまり日本人として

のアイデンティティを心の中に構築し、それぞれの人生を生きるための

揺るぎない軸としなければならない、そうしなければもろもろの禍(わざ

わい)が起こってくるとしています。

 

その禍とは、日本の国土はもちろん、日本人の精神や文明までもが、外

からやってくる異国に荒らされ、見る影もなくなってしまうということだ

と思われますが、吉田麻子氏は、<篤胤は、名もなき民の尊き生活の中に

こそある、先祖から脈々と続いてきた日本人の精神的な風土の危機を感じ

ていた。>よって、彼は、<「死後の世界の行方」についても、キリスト

教の天国・地獄や、仏教の輪廻転生や、儒教(朱子学)の魂魄二気への

消散ではだめだ>というのであり、<「死後の世界」は、私たちが生きる

世界と地続きであり、一体であり、まさに脈々と続く日本人の精神風土

そのものであるがゆえに、私たちは日本の山や川や空を背景とした生活

の中にある「死後の世界」から切り離されては生きられないし、何より

生きている者同士がつながることもできない>と考えたのだとしています。

 

では、日本の精神的風土を守り、死後の世界を意識しながら生きるために

建てるべき魂の「柱」を篤胤はどう描いたのでしょうか?

 

「柱」という言葉は、単なる比喩であるだけではなかったのです。イザ

ナギ・イザナミの夫婦神が、天の神から与えられた「アメノヌボコ」と

いう矛(ほこ)をまだ固まっていない大地のもとに差し入れて、かき回し

引き上げる。すると、そこから滴った潮が固まってオノゴロ島となった。

イザナギ・イザナミはそこに「アメノヌボコ」を突き立てて「国の御柱」

とし、その柱を中心に御殿をつくる、これが篤胤による世界のはじまり

とされるのです。

 

かくして、地球上の全世界の成立は、日本の神々よって突き立てられた

「柱」によって幕をあけるのであるが、それは世界のはじまりの象徴で

あると同時に、それにならって人間が家の中に建てる「柱」、つまり、

大黒柱がなければ大きな世界だけでなく小さい世界も始まらず、動き出さ

ないのであるから、『霊の真柱』の「柱」とは、神々から恵みをたまわり

ながら日々を生きるための、個々人にとっての中心軸だとするのです。

 

なお、以上のような言説からすると、篤胤とは、異国の説とあらば徹底的

に排除する独善的な排外主義者のように思われるかもしれませんが、そう

ではないようです。たとえば、太陽・地球・月の成立を神話の中に求めな

がら、西洋の天文測量術をもって、その大きさや距離を測ったり、蘭方医

のもとで解剖に参加したりしているようなのです。

 

では、篤胤はなぜ、日本人としてのアイデンティティを確立せよと主張し

ながら、西洋の学問を臆面もなく取り入れ、活用するのかということです

が、それは、彼が世界中のすべての伝承や文明の基礎に、日本の神がある

と考えているからのようです。たとえば、アダムとエバの伝説は、イザ

ナギとイザナミの伝説が誤って伝わったものだと捉えているのです。

 

つまり、西洋文明とは日本の神によってもたらされた種が遠くで育った

結果であり、始原は間違いなく日本で、万物は日本の神々の霊力によって

いるということなのです。このスタンスに立てば諸外国の文化は決して

否定すべきものではなく、中にはとるべき側面もあり、一応は知って

おくべきものであるということになるのです。

 

しかし、この視点は現代人からみれば、自己中心的でご都合主義のように

感じるところがあるかもしれませんが、これに対して、吉田麻子氏は、

次のように擁護しています。

 

<宗教心というものは、篤胤にかぎらずとも自分を産み育んだ土地に根ざ

して生まれるのではないだろうか。あるいは、自分たちの共同体に中心軸

を置くのではないか。そして、その尊さや畏怖の実感を拠点として世界を

見るのではないだろうか。>

 

<特に創世記神話は、どんな宗教であろうとも、みな自分たちの神が世界

を生み出すのである。篤胤の宗教心だけが特別に客観性に欠けていて独善

的だということはできまい。><篤胤は日本における庶民の生活、それを

取り囲み恵みをあたえる自然への強い畏怖から日本神話の正しさを確信

しているのである。>

 

さて、太陽・地球・月という実体としての天体と、いま世界をつかさどる

神々がおられるところ、そして我々が死んだ後におもむく世界はどう関連

しているというのでしょうか。

 

篤胤によると、太陽はいわゆる「天つ国」、神話の中の「高天原(たかま

がはら)」であり、天照大御神を中心として八百万の神がいる。月は神話

に登場する「夜見(よみ)の国」であり、神話の中で夜見の国におもむ

いたイザナミやスサノオノミコトがいる。そして、地球では、神話の

とおり、ニニギノミコトが降臨して以来、天皇が人間の世界を治めて

いるとされます。

 

では、人間の魂は、死後、この三つの世界のうち、どこへおもむくのかと

いうと、「幽冥界」へゆくというのですが、この「幽冥界」こそが篤胤の

思想において最も独創的かつ有名なものとされるのです。

 

篤胤は、<幽冥界というのは、人間の世界から遠く離れたところにはない。

この地球上の、我々の日常に隣り合わせるように、また重なるように存在

して、目には見えないが、いわば地球上のどこにも満ちている。そして

大国主神が治める幽冥界から死者は生者を常に見守っている>というの

ですが、吉田麻子氏は、このようの篤胤が「幽冥界」の存在を唱えたこと

には、歴史的に大変大きな意義があったと言います。

 

その意義とは、まず、「死」という人間にとって最も恐ろしい出来事の

あとの待っているのが、私たちに親しみのあるこの国土上の別世界で

あると明言したことであるとしています。このようなおだやかで身近な

安心できる死後の世界は、死ねばみんな汚く穢れた夜見の国に行くと

した師と仰ぐ本居宣長とは決定的に異なる主張であったからです。

 

また、そのようなすぐそばにある死者の世界に包み込まれる、あるいは

死者や神々と一体となって、我々生者は生き続けている、という、いわ

ば目に見えない世界と連続する人の生のイメージをはっきり言葉にした

ことも重要であるとしています。

 

かくして、『霊の真柱』に書かれた一見、あまり関係がないように

見える「世界の創世記」と「死後の魂の行方」という二つのテーマは、

西洋文明の接近と危機に直面した篤胤の、「どう生きるか」という、

みずからの問いに対する答えとして密接に関連性を有していたという

ことになります。

 

吉田麻子氏は、<篤胤の言いたかったことは、世界が始まってからという

もの、人間は神々と死者に囲まれ、その恵みを受けながら暮らしている

のだ、ということである。そして、何気ない生活や日常はそれなしには

成立しえないという紛れもない真実である。このことを軸としなければ、

自分は、日本人は、決して生きられない。『霊の真柱』は、そのような

篤胤の心身の叫びでもあった。>と記しています。

 

ともかく、篤胤は、今まで流布されていたような、偏狭な排外主義者では

なかったのです。彼固有の霊的感性、そして、生活者としての庶民性と

知識人として知性との微妙な緊張感の中で、観念化された神ではなく、

生き生きとした実在の神々を再認識させようとしたこと、死後の世界を

穢れた世界、遠い断絶した世界ではなく、この世界と隣り合わせにある

親しい世界であるとしたことなど、彼特有の傾聴に値する世界観が

生まれたのではないかと思います。

 





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「鬼神新論」-平田篤胤2-


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平田篤胤2 




『鬼神新論』は、篤胤が江戸に出て私塾を開き、思想家としての第一歩を

あゆみ始めたときの著述ですが、彼が、最初に「鬼神論」を取り上げたと

いうことは、自身の思想を構築するために、まず、突破しなければなら

なかった議論が「鬼神」に関わる問題であったということを伺わせます。

 

「鬼神論」とは、「鬼神とは何か」、「鬼神は存在するか否か」、「鬼神の

祭祀はどうあるべきか」といったことについて、これまで多くの儒家の

間で交わされてきた議論でしたが、儒教では、いわゆる「鬼神(広義の

神と霊の意)」の捉え方やその有無さえもが、学派や個人によって様々で

一様ではなかったのです。

 

『鬼神新論』という書のタイトルは、従来の儒家の「鬼神論」に対して、

篤胤みずからが打ち立てた新説という意味を持つのですが、一門を立ち

上げた篤胤は、まず、このような儒学者たちの歴史ある土俵に立ち入って、

日本の神こそが儒教でいうところの「鬼神」であること、そして、「鬼神」

であるところの日本の神は、間違いなくこの世に実在し、今なお世界を

包み込んでいる、ということをはっきり主張しようとしたということです。

 

自身の信じる宗教・思想を正しいと言うために、他の宗教・思想を外側

から全否定するのではなく、わざわざその諸説の内側に分け入ってゆき、

同じ儒教の中でも、この説は間違っているが、この説はここまで正しい、

と逐一、批評を加えるという方法をとったのです。

 

ここでは、古来の儒者が鬼神に対して抱いてきたであろう霊的な感覚に

ついては正しいとしながら、その正しい感受性の先に、篤胤の考える

「日本の神」の世界が広がっているという風に、自説を展開していった

ということです。

 

儒教であろうと、仏教であろうと、キリスト教であろうと、おそらく世界

中のすべての宗教感覚そのものは否定しないし、彼らが何らかの霊的な

ものを感じ取ったこと自体は、決して間違いではないと考えているのです。

ただし、それをどう解釈するのか、あるいは、その感覚を突き詰めたところ

にある真実は何なのか、という点については、唯一、日本においてのみ、

正しい伝えが残されている、と考えるのであり、それが『古事記』、『日本

書紀』といった神話であり、祝詞(のりと)であり、各地に伝わる風土記

や伝承だというのです。

 

吉田麻子氏は、『平田篤胤』のなかで、「世界中で唯一、日本にだけ、霊

的存在についての決定的事実を知りうる材料が残されている。このこと

こそが、平田篤胤が本居宣長に出会うことで自ら手にした、宇宙全体を

知るための、大きな手掛かりであり、土台となるものであったのだ」と

述べています。

 

しかし、そうはいっても、儒教や仏教は、日本において長い精神的な歴史

がある。特に儒教については、篤胤も故郷において初めて学んだのは儒教

であったし、知識人の社会は儒学を中心に展開している。よって、儒学は、

篤胤自身にとっても他の学者たちにとっても、その内面からは完全に取り

除くことのできない素地のごときものとしてあった。だからこそ、篤胤は、

その中に含まれている優れた側面と誤った側面を自分の力で分析し、真っ

向からきちんと見据えることなしに、学者としての第一歩を踏み出すこと

ができなかったということです。

 

篤胤のよると、儒者が行った様々な「鬼神」の捉え方で、最も間違って

いるのは朱子学のそれであると言います。

 

古代の中国人は大いなる神の存在をちゃんと意識していたというのです。

神とは、人間がその中で社会を作って生活している天地の一切合切を動か

しつかさどる、恐るべき意志を持った存在のはずであったのだと。

 

ところが、とりわけ、朱子をはじめとする宋の時代以降の儒者たちは、

古来、語られてきたそのような神(天神)の行いを、宇宙全体を動か自然

のエネルギーや秩序(陰陽二気・理)のありようとして捉えた。よって、

朱子たちの捉える「天」や「鬼神」は意志や人格を持たないというのです。

 

ではなぜ「鬼神」などという言葉があるのかといえば、「気」や「理」と

いった合理的な言葉を持たなかった時代のなごりであり、分かりやすい

説明の手段として、「鬼神」などという言葉を用いただけであると。

 

このように、朱子学の言説を人格神や霊魂の否定と捉えた篤胤にとっては、

朱子学的合理主義こそが、人間が拙い頭で考えた狭く小さな理屈であり、

愚かな知ったかぶりにすぎないというわけです。

 

では、近年になって、後世の儒学である朱子学を批判し、古代に立ち返って

儒学の祖である孔子のいわんとするところをもう一度捉え直そうとする

伊藤仁斎や荻生徂徠らの古学派については、どのように考えていたので

しょうか?

 

篤胤は、古学派の頂点に立つ荻生徂徠について、心が広く才能が秀でて

いて、普通の漢学者と比較できないほどだと絶賛するのですが、そんな

優れた儒学者であっても、鬼神については、やはり、朱子学の唱える域を

出ることができず、「古学」といいながら、鬼神の実在を信じていた古代人

の正しい感覚や意識をくみ取れていないと批判しているのです。

 

このように、間違った鬼神論が日本の学者に間に浸透しきっていて、その

根はとても深いという状況のなかで、篤胤は、「孔子の霊」は幽界にある。

つまり、孔子は死後の世界は間違いなく存在し、しかも神や霊魂が実有で

あることを分かっていない何世代も後の弟子たちを情けなく思っていると

いうのです。

 

そして、さらに篤胤は、あたかも古学派の儒者の不足を補うかのように、

孔子は確かに天の神や鬼神の実在を信じていたはずであると、『論語』と

『中庸』を引用しながらそれを論証しようとしています。

 

さて、篤胤にとって孔子は大変非凡で優れた人物だと映ったようです。

なぜなら、正しいいにしえの伝説がなく、さかしら(かしこぶること)

ばかりはびこっている中国に生まれたにもかかわらず、自分の存在が

天地の畏(おそ)るべき鬼神に包まれて成立していることを感じ取り、

悟ることができた、大変珍しい人物であると考えたからです。

 

もっとも、それほど優れた孔子であっても、やはり、古伝説(神話)の

ない状態では、神々のことを具体的に知るには限界があった。篤胤は、

神がどのようにこの世の中を取り巻いているのかまでは、孔子は理解する

ことができなったとして、神の実在そのものから、神と人との関係性に

ついての議論へと進めてゆきます。

 

孔子は、この世をつかさどる超越的で人格を備えた存在を「天」と呼んで

いたが、それが後代になると、人が良いことをすれば天から幸福が与え

られ、悪いことをすれば禍(わざわい)が下されるといった「人の行い」

と「天から与えられる禍福吉凶」との対応関係が語られるようになって

いった。しかし、篤胤が実感している「天」とは、孔子や儒教のそれとは

違う、もっと計り知れない複雑さを孕んだものであったのです。「天」は、

いわば、様々な役割を負った神たちがいる尊い場所であるというのです。

 

また、篤胤にとっての神は、天だけでなく、夜見(よみ)の国や幽冥界、

地上のいたるところにもいて、私たちを取り囲んでいる。そして、人に

禍が起きたり、幸福が与えられたりするのは、そのようなたくさんの神

たちの中でも、とりわけ、「善悪の神」である大禍津日神(オオマガツヒ

ノカミ)・大直毘神(オオナオビノカミ)・枉神(マガカミ)の所業による

ところが大きいというのです。

 

通常、人間に起こる禍事(まがごと)というのは、大禍津日神や枉神の仕業

によって人の世に降り注いでくるのであり、幸福は、善神である大直毘神に

よって与えられるとされるのですが、そうとばかりは言えないようなのです。

一応、荒っぽいとか、おだやかといった特徴的な傾向はあるものの、その

性質はもっと多様な側面を備えているというのです。

 

よって、善神の機嫌が悪くて禍が降ってくることもあれば、何らかの理由

で悪神が幸福をもたらすこともあるのであり、人に幸・不幸が起こる理由は、

機嫌がよかったり、荒ぶったりする神々の、その時々の事情によって容易に

計り知れないものだとしています。

 

このように、篤胤は、神々は人間の善悪の行動に直接に反応して幸福や禍

を下すわけではないというのですが、だからといって、神と人とは断絶

していると主張しているわけでは決してなく、また、人間の行いと、神

から下される禍福吉凶には関係がないから、それぞれが好き勝手に生き

ればよいということではないのです。

 

のちにこの問題は、『古史伝』という篤胤の主著の中で深められ、独自の

理論として形成されてゆくようですが、『鬼神新論』を著したこの時点

では、ただ、人間の行為が倫理に適っているかどうかだけで、飢饉や

災害が起きたり、幸せが降ってくるわけではない、ということを論じる

にとどまったということです。

 

ともかく、この頃の篤胤が、まず主張したかったのは、あくまでも宇宙を

つかさどる神々の多様性と不可思議な霊異の力であったのです。

 

さて、神々の意志や行いは計り知れないとすると、人間はどうやって神の

もとで生きればいいのだろうということになりますが、篤胤は、天神地祇

や死者の霊を含む鬼神全般に向かって人間ができる唯一のこと、それは

「祭祀」だというのです。

 

そして、篤胤にとっての祭祀は、基本的に、神が荒ぶったり怒ったり機嫌

を損ねないように慰めるものであったようです。つまり、神々に向けて

美味しいものをたくさん献上し、人々が親しく集い、歌い舞い、色々と

楽しいことのかぎりをなすことであったのです。

 

よって、そこには祭祀としての形式や礼式、それゆえの荘厳さ、難しさは

いっさい語られていないのです。神というものは幼児のような素直な存在

としてイメージされていて、それは、成熟した社会の中での人と人との

関係性や規範性、その中で育まれる理性や教養などから最も遠いところに

あるものと考えられていたようです。

 

とにかく、神とは、善にも悪にも転びうる強い生命力そのもので、善い神

であっても、いったん荒ぶれば、誰にも止められないような強烈なエネル

ギーを発揮するという、社会が成熟発展する以前の原始根源的なイメージが

込められているようです。

 

なお、天神・地祇とともに鬼神に含まれる死者の霊についても、篤胤は

基本的に同じような捉え方をしていて、突然、祟りや幸福という大きな

霊威をあらわす存在であり、不可測な両義性をはらむ一方で、大変素直な

心情を持っているとしています。

 

ところで、本来、「鬼神」という語は、吉田真樹氏の『平田篤胤』による

と、広義の意味としては、「天地の神」を指すが、狭義では、死者の霊魂、

つまり人鬼を意味する語であったということであり、天神(てんじん)・

地祇(ちぎ)と人鬼(じんき)とは区別されていたようです。

 

しかし、篤胤によって、天神・地祇、特に天神・地祇と人鬼とが連続する

ものとして結び合わされ、天神・地祇を含みながらも、死者の霊魂を中心

とする神についての方法概念が形成されることになったとしています。

 

よって、篤胤の『新鬼神論』の核心は、<人は神から御霊(みたま)を

賜って生まれる存在である> それゆえに <人は神を祀るべき存在で

ある> また <人は死ねば肉体を離れ御霊そのもの、すなわち「神」と

なる> それゆえ <死後の霊魂は「神」として人に祀られるべき存在で

ある>というふうに図式化できるのではないかと述べています。

 

かくして、近世の知識人の世界において、『鬼神』、すなわち神という

ものが観念化、抽象化してゆく方向にあったなかで、死後の世界は間違い

なくあるとし、人格(神格)をもった生々しい存在であるところの実有の
神を再び甦らせようとしたところに、篤胤の類いまれな知識人としての
存在
価値があるのではないかと思います。






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「交響する死者・生者・神々」-平田篤胤1-


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平田篤胤1 



『平田篤胤-交響する死者・生者・神々-』の著者吉田麻子氏は、

平田篤胤というと、戦後においては皇国史観の元祖であり、国粋主義の

思想家であるとして、否定的に評されてきたが、平田家に伝わる未公開

資料の整理・研究にたずさわるなかで、残された膨大な書簡や草稿類が、

このような単純な裁断を許さない迫力を有していることを発見したと

述べています。よって、篤胤の戦前の「国家主義」や「国粋主義」と

いった言葉には到底収まりきれない、豊かな感性と思想を知らしめたい

としています。

 

今回は、この吉田麻子氏の『平田篤胤-交響する死者・生者・神々-』と、

吉田真樹氏の『平田篤胤-霊魂のゆくえ-』をベースにしながら、平田

篤胤の思想の根柢にあるものを追ってみたと思います。

 

さて、平田篤胤は、安永五年(1776)、秋田藩士大和田清兵衛の四男

として秋田城下に生を受けたとされます。二十歳で脱藩し江戸に出るの

ですが、篤胤の秋田における幼少期は決して穏やかとは言えないもので

あったようです。

 

自身の覚書には、里子にやられ、貧乏足軽の家で六歳まで養われたこと、

さらに、八歳から十一歳までは金持ちの鍼医のところへ養子に出され、

その家に実子ができると、また、実家に帰されたが、そこには、それまで

とは劣らぬ、大変厳しい状況が待っていたということが記されています。

 

特に、生家に戻ったときには、使用人のように「憎み使われ」、他人に

可愛がられればいっそう憎まれ、顔のあざを「兄弟を殺して家をうばふ

相」として嫌がられるなどの虐待を受けたということですが、吉田正樹氏

は、<これらの言語同断の苦しみは、生涯にわたって続いてゆく篤胤の

苦難の原イメージを形作るものとなり、重要である。なぜなら、「この私

はなぜ生まれてきたのか」という問いが、ここではっきりとした輪郭を

もって現れてきたからである>と述べています。

 

そして、<篤胤の原初の問いは、近代の言葉でいえば、「宗教」的な問い、

すなわち、超越者との関わりにおける自己を問う問いであった。因果

(仏教)や天命(儒学)という既成の超越的存在との関わりにおいて

自己を捉えることを避けつつ、なお、既成の問いの構造を継承し、因果・

天命に代わる超越者(神)を追い求めることになる>としています。

 

さて、篤胤は、このような決して居心地のいいとはいえぬ生育環境の中で、

書物を読むことを覚え、八歳から儒者中山青莪(せいが)について漢学を、

また十一歳にして叔父で大和田柳元のもとで医術を学び、二十歳になる

頃、学問への志を胸に故郷を出奔し江戸に向かいます。

 

学問に大志を抱き故郷を捨てさせたものとして、先に触れたように、暗く

奥深い生命への根源的な問いがあったほか、篤胤の中には、天地への問い

が芽生えていたであろうことは、『荘子』天地を読み、自身の号を「大壑

(だいかく)」(広大な海の意)としていることからも窺い知れます。

 

なお、篤胤の中には、これらとともに、おそらくかなり早い段階から、

「この世ならぬ霊妙なもの」に対する非凡で鋭敏な感性が備わっていた

と言われています。

 

たとえば、篤胤が江戸に向かうときも、霊妙不可思議なる体験をしている

のです。その日に国を出た者は決して帰れないと言い伝えられる1月8日

を選んで江戸に向かったとき、大雪の院内峠で遭難し、茫然と途方に

暮れるなかで、神と出会い、助けられたというのです。

 

このことについて、吉田真樹氏は、次のように述べています。

 

<篤胤のここでの「茫然」は、並大抵のものではなく、二十年の人生に

おける苦難・不遇の経験、そしてすべてを捨てての出奔、その果てに、

人生で初めて、自分の力ではどうしようもない窮地に陥ったのである。

このまま死ねば人生は無意味に終わる。「この私はなぜ生まれてきたのか」

という問いは、吹雪のなかで立ちすくむ間にこそ鋭く、問われ続けていた

に違いない。ところが、次の瞬間に、篤胤はすんなりと神に助けられ守ら

れているのである。祈るよりも前に助けられたとみるべきだろう。篤胤

における神は、助ける神として現われてきたのである。このことは、篤胤

の神観念にきわめて深い影響を及ぼしていると考えられ、重要である。>

 

<しかし、そもそも、日本における神は、その意思の捉え難いものであり、

容易に人を助けるものではない。この場面でいえば、大雪を降らせ、命を

奪おうとする恐るべき山の神こそが、通常の意味での神、つまり、祀りに

おいて接する神であると考えられる。祀りを経てなだめられてこそ力を分け

与えてくれることもあるというのが神による加護の本来のあり方である。>

 

<だが、ここでは、篤胤は無条件に助け守られていると考えるほかない。

無条件に助ける神とは、助け守られる側の存在とすでに何らかの意味で

近しい、あるいは親しい関係であるのでなければならない。この「助け守る

神」とは何者だろうか。少なくとも、助けたのは神以外の何ものでもなく、

「助け守る神」こそが神の本来の姿であるとする、篤胤の神観念の原イメ

ージが、ここに獲得されていることは疑えない。後に定式化される篤胤の

神は常に感謝の対象となる。篤胤の、感謝しつつ「助け守られる私」に

よって「助け守る神」のイメージが構築されてゆくのである。>

 

吉田真樹氏は、こうした神体験を経て、最初の問いの問われ方が大きく

変化してゆく、つまり、「この私がなぜ生まれてきたのか」という問いが、

「私はなぜこのように神に助け守られる私として生まれてきたのか」に

変換され、そこでの問いは、新たな神に向かう問いとして明確化された、

としています。そして、問いの変換に伴って、その答えも予想されるもの、

すなわち、「私の生は神によって根拠づけられている」という方向に導か

れていったとしています。

 

さて、このような篤胤の、霊妙不可思議な天地への問いと、そこに連なる

卑近で漠然とした霊的感覚は、のちに篤胤独自の大きな世界像となって

姿を現すことになるのですが、その基礎を形づくったのが、さまざまな

人々との新しい出会い、とりわけ、次の三人の人たちとの出会いであった

のです。

 

まず第一は、国学の師である本居宣長との出会いです。ただし、「宣長に

出会った」というのは正確な表現ではなく、宣長が死んでのち、生前に

会うことの叶わなかった篤胤は、夢の中で宣長に対面し、入門を許され

たというのです。

 

つまり、篤胤は、今は亡き宣長の霊魂と出会い、弟子として認められた

という夢を見るほどに、宣長の思想と自分の抱える実感との間に強く

共振するものを感じ取ったということです。

 

宣長は、この世界は、人知では計り知れない尊い日本古来の神々に包まれ

ていると主張し、人、鳥獣、木草、海山そのほか霊妙不可思議なものを

すべて「迦微(かみ)」として定義づけています。カミは神話に登場する

ような尊い神々から、怪事を起こす狐や狛(こま)などの卑しい獣まで

千差万別である。そのように大きく下方から「不思議」をすくい上げ、

天地の大きな営みの中に包摂するような宣長の古道説は、それまで篤胤が

漠然と、しかし、強烈に得ていた卑近な場面での霊的な感覚と、天地自然

への根源的な疑問を架橋し、その道を拓きうる唯一の学問として彼の目に

映ったのではないかとされます。

 

ただし、吉田真樹氏は、篤胤の最初の著書である『呵妄書(かもうしょ)』

においても、宣長の思想をそのまま踏襲しているわけではなく、「篤胤節」、

つまり、篤胤の独自性の萌芽が見られるとしています。

 

たとえば、「神」の定義にあたって、篤胤は、宣長の著作において、「道」

という概念が重視されていないと考えていて、「道」については、むしろ

宣長の著作を参照すべきでないと考えていたのではないかとされます。

 

つまり、篤胤の学問にとっては、「道」の存在を大前提としたうえで、

「道」を制作した「神」について宣長の著作を参照し学んでゆくことが

重要であったということです。篤胤の最重要の問いはどこまでも自己

にあり、自己を問うためには、自己と神とを包含する「道」が必要で

ある。だが、宣長は自己を問う姿勢が弱く、他者たる「神」の方に重点

が偏ってしまっている。そこが宣長の不足な点である、と篤胤は捉えて

いたのではないかということです。

 

それはともかく、その後、篤胤は、宣長の「古道学」に学びながら、

日本の神を中心とした独自の世界観を築き上げてゆくこととなるのです。

 

人との出会いに話を戻すと、第二の出会いは、備中松山藩士平田藤兵衛

との出会いで、第三の出会いは、妻・織瀬との出会いであるとされます。

篤胤は藤兵衛の養子となることにより、腰を据えて学問に打ち込むこと

ができるようになったのであり、また、織瀬との結婚により、妻子を持ち、

家庭生活を営むようになったことは、平田国学の思想構築には欠かせない

出来事であったとされます。

 

とりわけ、篤胤が得た実生活での出来事、すなわち、子供が生まれてくる

という尊くも不可思議な「生命」のありよう、また、彼らとともに生きる

日常としての「生」、さらに早くして妻と息子が亡くなってしまうという

切実な「死」の実体験は、篤胤の世界像の中核をなす、「幽冥界」や「産霊

(むすび)」といった観念を大きく支えるものとなったということです。

 

なお、次回からは、いよいよ篤胤の幽冥観、霊魂観に入って行きたいと

思います。







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