「昔話と日本人の心」



昔話と日本人の心




 

前回は、グリム童話を素材に、昔話の心理学的基盤というものを見てきました。


 


ユングは、人間の無意識の深層は人類の共通の普遍性をもつとして、「元型」と


いうものを仮定しましたが、著者の河合隼雄氏は、昔話の発生の心理的な側面を、


ある個人がユングのいう元型的な体験をしたとき、その経験をできるだけ直接に


伝えようとしてできた話が昔話の始まりであると思われるとし、それが元型的で


あるということは、人間の心の普遍性につながるものとして、時代や文化の差を


超えて、多くの人に受け入れられてきたとしています。


 


しかし、一方で、先のグリム童話など、西洋の昔話と日本の昔話ではずいぶんと


異なっているところがあるのも事実だと思います。


 


よって、今度は、同じ河合隼雄氏の著書「昔話と日本人の心」によりながら、


日本の昔話の特徴を見てみたいと思います。


 


まず、著者の河合氏は、近代に確立された西洋人の自我は、その自立性や統合性


の高さなどにおいて他に比類を見ないものだといいます。そして、その特異な


自我の確立の過程を神話的イメージで表したエーリッヒ・ノイマンというユング


派の心理学者の説を紹介しています。


 


まず、多くの天地創造神話に示されるカオスの状態がある。つまり、意識と


無意識は分離されず混沌のままで、ウロボロス(自らの尾を呑み込んで円状を


なしている蛇)で象徴される。そして、このようなウロボロス的な未分化な


全体性のなかに、自我がその小さな萌芽を現すとき、世界は太母(グレート・


マザー)の姿をとって現れる。太母の像は全世界の神話な宗教のなかに重要な


位置を占めているが、そこには肯定面と否定面の両面をそなえた太母像がある。


さらに、このような太母のなかで育っていった自我は、次の段階として、天と地、


父と母、光と闇などの分離、つまり、意識と無意識の分離を体験する。これは


多くの創世神話における天と地の分離や、闇の中にはじめて光がもたらされる


物語として表されるが、ここで人間の意識の発達段階は、画期的な変化を迎える


ことになる。今まで創世神話によって表されていたのが、意識が無意識から分離


することによって自立性を獲得し、人格化されることにより英雄神話となる。


英雄の誕生であり、英雄による怪物退治、宝物の獲得である。怪物退治は、父親


殺し、母親殺しでもあり、これらの戦いを経て勝利し、英雄は女性を獲得する。


かくして、自らを世界から切り離すことによって自立性を獲得した自我が、一人


の女性を仲介として世界と再び関係を結ぶことになる。


 


以上のような神話的イメージの流れに沿って、西洋の昔話では、怪物退治、或は


魔女からの救済と求婚の成功という一連の冒険が語られることが多いが、日本の


昔話は、そのようなパターンでは解釈できないものが多く、ヨーロッパの民話の


ようなメリハリのきいた分析を許さない曖昧な性質をもっているとしています。


 


その原因を探ってゆくと、根本的には、母性原理の強さと、<自我>の確立の弱さ


というところに行きつくようで、母なるものとの分離のための激しい対立、父性


原理である厳しい試練の克服、そして結婚の成就といった明確なプロセスを欠く


ということになるようです。


 


たとえば、日本の昔話「飯くわぬ女」の物語を見ると、いつまでもひとり者で、


物を食わない嫁がいたらもらうと言っていた男が、「飯くわぬ女」を嫁にもらうと、


それが何でも食う女(人をも食う)だという話で、すべてを飲み込んで死に至ら


しめるような母性の否定的な側面である山姥(やまんば)が登場します。


 


これは世界中の神話や昔話に共通の太母、いわゆるグレートマザーの一面と同一


視することができるが、人は成長過程でこのような母なるものの否定的側面、


すなわち自立を阻む力を認識し、それと分離しなければならない。


 


そのとき、西洋では「ヘンゼルとグレーテル」の場合のように魔女退治、すな


わち内的な母親殺しというテーマになるが、東洋、あるいは日本では一刀両断


は難しいようで、「飯くわぬ女」の場合は死にますが、逃げ去って終わるという


類話が多いということです。つまり、山姥は退治されたわけではなく、そのまま


共存することになります。


 


また、昔話とは言えませんが、「山椒大夫」の安寿と厨子王のように、厨子王が


母から分離する、つまり、成人して出世してゆくことに対して、母は盲目となり、


子どもの自立を知る危険から身を引くことによって、共存が図られる形になって


いるとしています。


 


このように、太母からの分離は、ストレートには行かず、きわめて曖昧な形に


なるようですが、では、この固い結合を破るものがあるとすれば、何なんで
しょうか?


 


「鬼が笑う」の話は、嫁入りにゆく途中、鬼にさらわれた娘を父親ではなく母親


が探しにゆき、庵女(尼さん)という母を超えた太母的な存在の助けによって、


娘を助け出すというものですが、この母と娘の関係というものは、原初的関係と


言われることがあるように、「関係性」というより「一体性」というべき緊密な


ものであるということです。


 


しかし、根源的な母=娘結合の支配する社会に置いては、事象の変化は永遠に


繰り返され、そこには本質的な変化は生じないため、このような永遠に続く反復


を打ち壊すためには、母=娘の結合を破る男性の侵入を必要とするが、この場合


はそれが鬼だということになります。


 


もっとも、著者は、この鬼というものはウロボロス的父性の体現者ではないかと


しています。それは父性ではあるが、輝きをもたず、暗く凄まじい。強くはあるが


威厳に乏しく、ときに滑稽に陥ることすらあり、父性というものの背後に母性を


感じさせるものがあるとしています。


 


しかし、これなくしては母=娘結合は永遠に破れないのであり、このような


ウロボロス的父性が作用し、女性がそのような父性存在を受けとめたとき、


その女性は母=娘結合の段階から、父=娘結合の段階へ変化し、そして、


さらに新たなる男性像の侵入によって、その結合をも破れねばならない。


そうでないと異性との結婚にまで至らないのです。


 


よって、日本の昔話では、女の世界に侵入してきた怪物は、西洋のように


男性に変身して結婚に至るではなく、女性の力によって消滅させられてしまう


ことが多く、結婚というテーマが欠落してしまう場合が多いとしています。


 


そして、原初の血による関係である母=娘結合の次に来るのがきょうだい、


それも異性のきょうだいの関係だという。(父と子の関係は、原初の時代には


血の関係として意識されなかったようです。)


 


この場合も、日本の昔話は、姉妹の場合に、姉の活躍するものが多いが、


それは、やはり、母性の力が強いので姉の働きを示すものが多く存在するの


ではないかとしています。


 


また、先に少し触れた「山椒大夫」では、姉は弟の犠牲になり、ただ弟の幸福


のみを願って死んでゆくのであるが、その姿は、わが国の母性優位の文化に適合


する女性像を与えていると述べています。


 


もう一つ、最後に「浦島太郎」についての論述を紹介しておきたいと思います。


 


誰もが知っている有名な昔話であり、今まで様々な角度からの研究、論述が


なされていますが、著者は深層心理学の立場から次のような考察しています。


 


まず、先の母なるものからの自立というテーマに沿って見ると、父親はおらず、


母一人子一人の家族、それも母親は80歳、息子は40歳にもなっていながら


嫁を貰う気がないという、興味深い状態が浮かび上がります。


 


これは、とりもなおさず、息子が母親から分離していない状態、自我が無意識


から自立性を獲得していない状態を表しており、父親の不在は、主人公がその


男性性を確立すべきモデルを欠いていることを示しています。


 


よって、著者は、浦島を童子と述べている類話もあり、母親との結びつきから、


「永遠の少年」の元型が想起されると述べています。永遠の少年は、「母」と


の強い結びつきゆえ、母なる女神を求めて、さまよい続けるというのです。


 


また、浦島は、竜宮、つまり、他界に3年間滞在したつもりが、現世では


3百年に相当して困り果ててしまうのであるが、これを著者は、心理療法家


として、無意識内における無時間性として解釈しています。そして、無意識界


に入って行きながら、外界とのつながりを失わないようにすることは重要な


ことであり、この困難さを克服しないと浦島と同様の失敗を犯すことになる


と述べています。


 


しかし、外界と内界、意識界と無意識界との区別が明白でないことも、日本人


の特性の一つではないかと言い、外界と内界、他界の現実界の障壁が薄いことは、


日本人の自我の在り方を反映しているものではないかとしています。


 


西洋流の母親殺しを達成して確立された自我は、意識と無意識の区別が明白で


あり、物事を対象化して把握する力を持つが、日本的な意識の在り方は、非常に


境界を曖昧にすることによって、全体を未分化なままで把握しようとすると


言明しています。


 


もっとも、著書は、<自我>の確立の弱さといっても、<自己>の存在を知る


ことにおいて優っていると考えれば、<自我>と<自己>の関係は日本における


人間と自然の関係と同じく、対立することなく共存するものとしてあり、曖昧な


中に存在する統合感のようなものによって保たれていると見ることができると


言っています。


 


また、エーリッヒ・ノイマンは、父権的意識は、母権的意識よりも発達したものと


考えているものの、母権的意識の意義についても指摘しているところから、著者は


唯一の自我とそれによる統合というイメージは、西洋におけるキリスト教文化に


よって生み出されてものであるゆえ、我々は、可変性を内包している「女性の


意識」や、多重の自我の存在ということを考えてもいいのではないか、そして、


そのほうがこれからの多様化する世界に対応しやすいのではないかと述べて


います。


 


なお、著者は、以上のような考察をしながらも、物事に解釈を与えるという


ことは、重要な原体験を失わすだけの事かも知れないとして、いかなる昔話の


解釈もその昔話以上を出ることはできないということを読者とともに常に心に


とめておきたいとも言っています。


 


 





















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グリム童話と心理学―「昔話の深層」2―



グリム童話集



一般に昔話の主人公は一人であるが、先の「ヘンゼルとグレーテル」の物語は、

主人公が二人いることになり、それは非常に珍しいことだそうです。

 

しかし、ここで紹介されている「二人兄弟」という話は題名から見て主人公が

二人いるように思われるが、そうとは言い切れないところがあるという。つまり、

一人の人間の対照的ともいえる二つの側面を表しているというのです。

 

たとえば、気が弱く自己主張のできない人が、酒に酔ったときだけ急に思い

がけない強いことを言ったりすることがあるが、これは、その人の無意識内に

形成されていた意識に反する傾向が、飲酒によって自我の統制が弱くなり、

表面に浮かび出てきたものと考えられます。

 

このような現象を説明するため、分析心理学者ユングは、人間の心に働く相補性

の原理の存在を唱え、相反するものがお互いに補いあって一つの全体性をつくり

あげる傾向が人間の心のなかに存在すると主張したということです。

 

そして、ユングは、ある個人の自我が否定し、受け入れが難いとする傾向の

すべてを、その人の「影」と名づけたという。すべての人はそれ自身の影、

黒い半面を持っているというのです。

 

そうなると、この「二人兄弟」の物語の場合、兄が弟にとって何らかの意味で

分身的存在であることは明らかであると述べています。

 

しかし、影は必ずしも悪とはかぎらないということです。内向的な人にとって

外向的な生き方は、その人の影となるであろうが、外向的なことは悪ではない。

むしろ、その人が外向的な面をあわせもつように努力するほうが、人間として

は豊かな人となると言えます。

 

また、ユングは、影にも個人的な影と普遍的な影があると考えていたようで、

ある個人にとって、その性格と反対にあるような傾向として個人的な影が存在

するが、普遍的な影は万人に共通なものとして、すべての人の受け入れ難い悪

と同義のことになってくるのであり、昔話においては普遍的な影は悪魔などの

姿をとって現れてくるということです。

 

しかし、著者は、この「二人兄弟」の物語は判断の難しい困難な問題を投げ

かけていると言います。

 

つまり、弟は、兄の行為を誤解して兄の首を一度は切ってしまうのであるが、

その兄に救い出されることになるということはどう解釈したらよいのかと

いうことです。

 

因みに、ユングは、「私」というものはひとつのまとまり、主体性をもって

いるが、そのような統合および主体性の中心を<自我>と呼び、その背後に、

もうひとつ、意識と無意識をも含めた全体性の中心としての<自己>の存在

を仮定していています。

 

もしそうだとすると、兄が弟のもうひとつの側面であるとするとしても、

その「もう一人の私」が、私を転落に誘う影の像なのか、自己実現への歩み

を促進する<自己>の像なのかを見分けることがほとんど不可能なのです。

 

著者は、この困難な問題について、確かにわれわれは、兄のような暗い

同伴者が、われわれの克服すべき欠点を象徴しているのか、受け入れる

べき意味のある生き方の一つを象徴しているのかを前もって区別する

ことはほぼ不可能としながらも、弟が悪いと感じた兄を切り、深い悲しみ

を体験し、また、後に兄の隠れた立派さを知ることによって、影という

ものの自覚と救済を遂げたことは示唆深いことであり、体験こそが我々に

物事の区別を教えてくれるのである、と述べています。

 

なお、この「二人兄弟」は、かなり長い物語で、まず、先に述べたように

性悪の兄と貧乏で善人の弟が登場するのですが、この二人は、話の出発点で、

弟の双子の兄弟を中心にストーリーが展開してゆきます。そして、上記の

ほかにも、父性原理の果たす役割や、怪物退治などの自己実現のための試練、

再生のための死、などといったテーマもそこには埋め込まれています。

 

ところで、「ヘンゼルとグレーテル」は、母なるものからの心理的自立の物語

であったが、著者は、父なるもの、父性原理を描いたものとして「黄金の鳥」

という話をとり上げています。

 

この物語は、王と3人の息子(王子)が登場する王権継承の話ですが、父なる

ものとしての王のはたらきが描き出されているとしています。

 

父なるものは、母なるものがすべてを包み込み、養い育てる機能をもって

いるのに対し、父なるものは切断の機能をもっているという。

 

つまり、物事を分割し、分離する。善と悪、光と闇、親と子、などに世界を

分化し、そこに秩序をもたらす。父性はそのような秩序と規範性の遂行者

としての権威をもち、子どもたちが規範を守ることができるように訓練を

ほどこすものだというのです。

 

しかし、父なるものも両面性をもっていて、例外を許さぬ厳しさは過酷な

ものとなるとき、命あるものを切り捨てる否定性につながっていくことが

あるのです。

 

よって、母なるもの、すべてを区別することなく包み込む機能と、父なる

ものの善悪を区別する機能との間に適切なバランスが保たれてこそ、人間

の生活は円滑に行われることになるということです。

 

さて、王の命を受けて息子たちは旅立ちをすることになりますが、著者は、

旅を無意識への旅ととらえています。そして、援助者として登場する狐

に注目しています。

 

最終的に、狐の援助を獲得したのろまな王子(三男)が、忠告を聞かなかった

りして窮地に立たされながらも、王位を継承することになるのですが、その

恩返しとして狐は、「あたしを打ち殺して、首と手足をちょんぎってほしい

んです」という奇妙な要求をします。

 

何度も断ったあげく、狐の言うとおりにすると、狐はぱっと人間の姿になり、

彼は美しい姫の兄で、魔法をかけられていたことを告げるのですが、このこと

から、狐(兄)とは先に述べた<自我>を超えた全体性としての<自己>の

高次な側面を表しているものと見るほうが妥当ではないかと述べています。

だから、それは手足をちょん切るような救済を要求するような人間の常識を

はるかに超えた存在なのだというのです。

 

かくして、<自我>と<自己>との望ましい相互関係が確立されていてこそ、

自己実現の過程を進んでゆくことができるのであり、この物語は、主人公が

狐の忠告に従うときと、自分の判断に従うときと、言うなれば、<自我>と

<自己>の対決を通じてのバランスのあり方が見事に示されていると述べ

ています。

 

ユングは、自己実現の道を<個性化>の過程としてとらえているようですが、

著者は、意識と無意識の相互作用のなかで、「個人」がいかにつくられてゆく

かという過程を各段階のごとに明らかにしたのが本書であるという。ある

主人公は危険にあえて挑戦して成功し、ある者はそれを避けることによって

事無きを得た。あるいは、一見不幸に見えることが、あとでかえって幸福の

種となることさえあった。このような一般化を許さぬことにこそ人生の特徴

があり、それゆえにこそ「個性化」と呼ぶべきなのであろうとしています。

 

昔話はすべて結末をもち、主人公の願いは成就されるのであるが、それは

あくまで自己実現の一コマとしての意味をもつものであって、一つの段階の

成就の次には、また次の段階が待っているものであると述べています。

 

なお、そのほかにも、男性の心のなかの女性、女性の心のなかの男性、

トリックスター(いたずらもの)のはたらきなど、興味深い論述が

なされていますが、またの機会にしたいと思います。

 

 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「昔話の深層」



昔話の深層


 

昔話がどうして発生してきたかは、いろいろな観点から考察することができる

ようです。

 

現在では、民族学、民俗学、文芸学、心理学など、多面的な研究対象となって

いるが、本書では、河合隼雄氏がユング派の心理学者として、昔話の心理的な

基盤について論じています。

 

著者の心のなかでは、一見、隔たったように見える昔話の内容と現代人の心性と

が深く結びついていると考えられ、昔話に関心を持たざるを得ないのだとして

います。

 

よって、心理学的な観点、とりわけ、ユングの普遍的無意識や元型の考えによって

昔話を見てゆくのであるが、その前提として神話、伝説と昔話の関係、区別を次の

ように述べています。

 

伝説は昔話と比較すると、元型的な体験が特定の人物や場所と結びつけて語られる

が、昔話は、「昔々、あるところに・・・」というふうに特定の場所と時間からの

思いきった分離があり、内的現実への接近を容易にする。また、神話の場合、その

素材が元型的なものであることに変わりはないが、それは一民族、一国家のアイ

デンティティの確立に関係するものとして、より意識的、文化的な彫琢が加え

られている。

 

つまり、神話・伝説のほうが意識的な統制を受けているものと考える必要があり、

昔話は異なった時代や文化の波に洗われて、その中核部分のみを残したものと

いえるとしています。

 

さて、著者は、グリム童話を素材にしてその深層を探ってゆきますが、「トル

ーデさん」という恐ろしい話から始めています。

 

普通、我々は昔話というと、勧善懲悪的な教訓とハッピー・エンドをイメージ

しますが、この物語は、主人公が棒切れに変えられて火で焼かれるという残酷

な結末になっているのに驚かされます。

 

で、なぜ著者がこの話を最初に選んだのかというと、昔話のすさまじさを知って

ほしいと思ったからだというのです。

 

死を忘れてしまいたいとする私たちに、「「トルーデさん」の物語は、人生の

戦慄をあらためて体験させるという。なぜなら、現代人がつとめて忘れ去ろう

としている、死の戦慄は、未開人にとって真に重要なものであったのであり、

彼らは、子供が成人になるためのイニシエーション(通過儀礼)において、

それを大切な要素として組み入れていたからだと言います。

 

ところで、神話や昔話などに登場する女性像には、このトルーデさんのように

恐ろしい魔女の姿をとるものと、一方で、慈悲深くやさしい母親像という二つの

傾向があるようです。

 

この極端な両面性を追求してゆくと、「母」という生命の源泉、そして、死と

再生の場となる土の神秘を反映した地母神に至るという。

 

つまり、産み育てる肯定的な側面と、すべてを呑み込んで死に至らしめる否定的

な面を持つが、さらにいうと、否定的な面は、子どもを抱きしめる力が強すぎる

あまり、子どもの自立をさまたげ、結局は子どもを精神的な死に追いやっている

状態として認めることができるとしています。

 

日本神話におけるイザナミは、日本の国をすべて産みだした偉大なる母の神で

あるが、黄泉の国を統治する死の神でもあることが思い起こされます。

 

かくして、著者は、「トルーデさん」のような人間離れした恐ろしい母親像は、

わが国における山姥(やまんば)の例があるように世界中の神話や昔話に見出

されるが、ユングは、人間の心の深層にこのような表象を産出する可能性が

存在すると仮定し、それを母なるものの元型と名づけ、個々の母親とは異なる

人類に普遍的なイメージの源泉として太母(グレートマザー)と呼んだとして

います。

 

さて、次に、われわれにも大変なじみ深い「ヘンゼルとグレーテル」の物語を

とり上げています。

 

先の「トルーデさん」は、母なるものの元型があまりにもすさまじく、超人間的

で抗しがたい感じを与えるものであったが、ここでは、それがもう少し人間的な

レベルで語られ、それにいかに対処してゆくべきか、つまり、飢饉というもの

を契機として顕在化した母なるものの否定的な側面と、それに対抗する子どもの

自我、そして母親からの自立を描いているものと言うことができるとしています。

 

また、昔話を人間の心の内界の表現として見るとき、その主人公は、人間の自我、

あるいは新しい自我として確立される可能性を示していると考えられるが、この

「ヘンゼルとグレーテル」の場合、主人公が幼い兄妹の二人であるということは、

男性とも女性とも未だに分離して確立される以前の自我の状態を示すものと

考えられると述べています。

 

なお、この話の原話では、母は実母であったが、のちの継母に変更されたのだ

ということです。無意識のレベルでは、「母」の否定的な側面は当然のことで

あるが、意識的なレベルでは、それはあまりにも非人間的で残酷だということ

で受け入れ難いため、継母という名によって、母性の否定的な側面をすべて

背負いこまされてしまったということです。

 

ともかく、無意識への退行が開始され、それがある程度を超えると、われわれは

無意識のより深い層に至るという。この物語でも、はじめに語られる継母のイメ

ージは否定的であっても、まだ人間的な感じを残しているが、次に現れる女性は、

人を食う魔法使いのお婆さん、すなわち、より普遍的な否定的母性像を示すこと

になってゆきます。

 

いずれにせよ、子どもは生まれてから母の全面的な保護を受けて育ってくると

しても、成長にともなって、その母なるものの否定的側面、すなわち自立を阻む

力を認識し、それとの分離を図らねばなりませんが、そこに、成長の一段階と

しての母親殺し、この「ヘンゼルとグレーテル」では、魔女退治のテーマが

生じてくる理由があるとしています。

 

ただし、著者は、自我の確立過程に不可欠な母親殺しの主題は西洋に特徴的な

ものであり、これが東洋において適用できるかというと、非常に難しいものが

あると述べています。

 

「安寿と厨子王」の例を引きながら、盲目になって、我が子のことをしのびつつ

雀を追っている老母のあわれさは、われわれの心を打つとしながら、盲目の母

には母親殺しの主題は生じないと言います。

 

しかしながら、厨子王の成長の影には安寿の死が存在しており、個人の成長は

常に死と再世の繰り返しであることを考えると、その過程に何らかの死が

生じることは避けられないのかもしれないと述べています。

 

次回は、母なるものに対する父なるもの、父性原理などについて触れて

みたいと思います。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「生と死の接点」2-イニシエーション、老いの神話-



生と死の接点02 

 
 
ライフサイクルという考えにおいて、そのプロセスのどこかのところで、

今までの段階から異なる段階へと生き切るためには、重要な境界線を

突き切ることが重要である、つまり、イニシエーションということが

極めて重要なこととしています。

 

このイニシエーションには、宗教学者エリアーデによると、未開社会以来、

三つの型があったということです。

 

ひとつは、少年から成人に移行させるものであり、成人式、部族加入礼など

があり、特定社会の全成員に義務づけられていて、集団儀礼として行われた

という。

 

次は、特定の秘儀集団、講集団に加入するためのものであり、もうひとつ

は、神秘的召命によって、呪医やシャーマンになるためのものであったと

いうことです。

 

とにかく、イニシエーションによって、ある個人はまったくの「別人」に

なると考えられていたということです。

 

しかし、この、未開社会において重要視されたイニシエーションという、

ある個人がひとつの段階から他の段階へ移行するとき、それを可能にする

ための集団的な儀式は、近代社会になって消失、あるいは、まったく形骸化

してしまったようです。

 

なぜなら、近代社会は、社会の進歩ということを信じ、しかもそれに価値を

おいているので、既存の固定した伝承の世界へ加入するための儀式など

わざわざ行う必要がないからだというのです。

 

ところが、それでことが済めばいいのですが、そうはいかないところが

大きな問題なのだそうです。

 

近代人は、社会的な儀式としてのイニシエーションを捨て去ったが、その

無意識内には、イニシエーションの元型的なパターンが存在し、われわれに

今なお作用を与えているというのです。

 

著者によると、現代人の夢分析を行うと、そのなかにイニシエーションの

元型パターンが生じ、それはその人に大きな意味を持っているという。

つまり、集団的なイニシエーション儀礼を失った代わりに、個々人が自分

なりのイニシエーションを体験し、それをクリアーしてゆかねければなら

ないということになります。

 

また、多くのイニシエーションの儀礼の研究をおこなったエリアーデは、

そこに「死と再生」のプロセスが象徴的に認められるとしていて、夢など

でイニシエーションの元型が作用するとき、実際、死の原型もそこに作用

していると見なされることが多いという。

 

このとき、夢などによってそれを象徴的に体験してゆける人はいいが、

そうでないときは、イニシエーションの必要な時期に、死の危険がつき

まとい、イニシエーションに伴う死の体験を昇華し切れずに、実際的な

死に身を任せてしまうことがあるということです。

 

また、いわゆる非行少年たちが、バイクで暴走をしたり、流血の闘争を

引き起こしたりすることの背景には、イニシエーション元型が存在して

いると考えられるとしています。

 

かくして、人生へのイニシエーションが、何らかに事故や事件によって

引き起こされることがあるが、さらに、それは未開社会においては集団で

行われていたことをまったく個人の責任において行わなければならないため、

そこには強い孤独感が存在することも忘れてはならないと述べています。

 

いずれにしろ、死の元型がそこにはたらいているのであり、死の孤独に

耐える力をもってこそ、イニシエーションは成功するとしています。

 

ところで、河合隼雄は、近年において、老人と言えば「ぼけ」を連想させる

ような傾向があるとし、このような傾向に対し、根本的に老いの意味を問い

直し、老い=ぼけと対極をなすような老人観を示し、老いの意味を考察

しています。

 

まず、ユングがアメリカへ旅行したとき、プエブロ-インデアンの老人

たちが威厳に満ち、悠然として暮らしている、その秘密について述べて

いる興味深い文章を紹介しています。

 

ヨーロッパの孤独のなかに暮らす老人の姿と比べて、あまりにも異なる

その立派さはどこから来るのか。

 

ユングが彼らと親しくなるなかで、「われらの宗教によって、我々は、

われわれは毎日、われらの父(太陽)が天空を横切る手伝いをしている。

それはわれわれのためばかりでなく、全世界のためなんだ。もしも、

われわれが宗教行事を守らなかったら、十年やそこらで、太陽はもう

昇らなくなるだろう。そうすると、もう永久に夜が続くに違いない。」

と、その威厳の秘密を教えてくれたということです。

 

つまり、輝かしい老いの秘密は、彼らに宗教、あるいはその神話の

中にあったということです。

 

著者は、現在では、神話という言葉は「事実とは異なる馬鹿げた思い込み」

というような否定的な意味で用いられることが多いが、神話というものは

決してそのようなものではないのであり、神話の価値を人間が認めなく

なったことと、老人の評価が下落したことは、案外、軌を一にしている

のではないかと述べています。

 

科学の知の強力さは疑いのないことではあるが、それをそのまま自分の

世界観としてしまうところに問題があるのではないか。科学の知は、自分

以外のものを対象化してみることによって成立しているので、それに

よって他を見るとき、自分と他のつながりは失われがちとなる。自分を

世界のなかに位置づけ、世界と自分とのかかわりのなかで、ものを見る

ためには、我々は神話の知を必要としているのだとしています。

 

ただし、にわかにプエブロ-インデアンのように自分の生が太陽の

運行を支えていると信じることはできません。では、どうすべきか。

 

著者は、老いの神話学のなかで、重要なイメージの一つは、老賢者の

イメージであるとしています。そして、代表的なものとして「老子」の

老賢者像をあげています。

 

つまりは、中間に何も媒介者も必要としない、「個」が直接的に、「普遍」

と結びつく、このようなイメージは、老賢者の知を示すのにぴったりで

あり、科学の知とも共存する、あるいは、科学の知を補償するものとして

必要なもの、というべきではなかろうかと述べています。

 

さらに、著者は、ライフサイクルの考え方として、あるいは、老いの神話学の

延長線にあるものとして、死の向こう側、死後の生命についても触れています。

 

死を絶対的な終りとしてではなく、それに続く異なる生への入口として受け

止める方が、はるかに老いや死を受容しやすく感じられるとしています。

そして、「瀕死体験」について研究を行った精神科医レイモンド・ムーデ

不治の病で死んでゆく人たちを看とる仕事のなかで、死後生の存在を確信

するようになり、「私は、死後生を信じているのではなく、科学者として

わかっているのです」と主張したというホスピス運動の先駆者キュブラー

・ロスなどを紹介し、キワモノとしてではなく、誠実で性格な研究を積み

重ねてゆくことによって、われわれは多くのことを得られるであろうと

述べています。

 

著者自身は、死後生そのものの存在につては判断を留保しているようです

が、死後生について、自分なりの神話の知を持つことは、自分が老いや死を

どう受け入れるか、ということにおいて、有用であることを認めなければ

ならないと主張しています。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「生と死の接点」-ライフサイクル-



生と死の接点01

ライフサイクルについては、以前、何度か死生学に関する論文を紹介したこと

があり、その中で、幾つかのライフサイクル論について触れたことがあります。

 

今回は、そもそもライフサイクルとは何なのか、こういった捉え方というもの

がどうしてクローズアップされるようになってきたのか、そして、今後の課題

は何なのかを、心理学者河合隼雄がユング派の心理学を土台にして述べている

ところを紹介してみたいと思います。

 

従来、人間がこの世に生まれたときから、だんだん成長して成人となり、その

後は年をとり老人となって死に至る、そのような変化を追求する学として、

心理学に発達心理学というものがありました。

 

これによって、人間の発達の様を相当に明らかにすることができたようですが、

それは自然科学的な方法によるものであるために、外的な観察可能な事象に

重きを置くことになりがちであったようです。

 

しかし、一方で、フロイトが深層心理学の立場から、発達段階に関する独自の

理論を作り上げましたが、このようなフロイトの理論を踏まえ、アメリカの

エリク・エリクソンという精神分析学者が、それを拡張した形で、人間の全

生涯にわたる発達段階の図式をライフサイクルとして提唱したことにより、

彼のアイデンテの考え方と共に、ライフサイクルの考えは、広く一般に

知られるようになり、今日のように、わが国においても一般化するように

なったということです。

 

エリクソンは、フロイトによる発達段階の理論、つまり、青年期に人間の自我

が確立するまでの段階を、性衝動の顕れに注目して設定する考えに、社会的

観点などを加え、それに後の段階をつけ加えましたが、そこには、なお、

西洋文明特有の「自我の確立」という観点が強力に働いていることは

否定できないようです。

 

ただし、フロイトの場合、それは壮年の男性をイメージすることによって考え

出された発達段階であり、より強くなり、より高く昇ることに目標が置かれて

おり、その発展段階が壮年をもって終わりとするものであったが、エリクソン

の場合は、相当の発想の転換があり、そこにはユングの影響があったのでは

ないかとしています。

 

著者によると、ユングにとっては、人生前半の強い自我を確立してゆく過程

よりも、人生の後半の問題が重要であったようです。

 

つまり、ユングは、人間が自我を確立するということは、その自我にとって

受け入れ難いことを排除することであるが、中年以降になって、ある個人が

社会的地位や名声などを築きあげたとき、自分が今まで無視してきた半面に

気づき、それを取り入れようとすることから危機が始まるという。しかし、

評価されないものを取り入れることは困難であり、破滅的な状況を迎える

かもしれないが、このような人生の後半の問題に直面して生きることに

よってこそ社会的な一般的な評価とかかわりのない真の個性を見出して

ゆけるとしています。

 

では、なぜ、ライフサイクルの問題が、多くの人に関心をもたれるように

なったのでしょうか?

 

どうも、多くの人々に関心をもたれるようになった背景として、平均寿命が

急激に伸びたことが見逃せない要因になっているようです。人生50年と

言われた頃と比べると、80歳近くまで生きる人が増えて来る中で、より

強く、より高くと思って努力を続け、ある程度目標を達成して死んでゆく

というパターンは少なくなり、多くの人が老いてゆくことについて真剣に

考えざる得なくなっているということです。

 

また、著者は、ベトナム戦争後のアメリカなどを見ると、欧米中心主義が

崩壊してゆくことと、ライフサイクルの考えが一般に受け容れられてゆく

ことは、案外、深いところで結びついているのではないかと述べています。

 

そもそも、人生の後半の意味を強調するユングが、東洋思想の影響を強く

受けていたのであり、現代における東洋の考え方に関心を持つ人の増加と、

人生の後半の意味を考えることによって、人生全体を見ようとする態度

とは大いに関連があるとしています。

 

そこで、古代、とりわけ、いにしえの東洋に目を向けてみますと、古人に

とって、人生を全体として把握するということは、むしろ、当然のことで

あったことが分かります。

 

まず、中国の孔子の「論語」にある、「吾れ十有五にして学に志す」から「七十

にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」までの有名な言葉が想起されますが、

著者は、「三十にして立つ」「四十にして惑わず」という、西洋的な自我を確立

するような表現の後で、「五十にして天命を知る」というところから、それまで

とは方向が変化することに東洋的な知恵が感じられる。人生後半におけるこの

ような態度の変更が、七十歳に向かって完成してゆくための要因としてはたら

いていると思われると述べています。

 

そして、それは老化という自然の生理的な流れに逆らうのではなく、うまく

身をまかせて完成に至る道であるとしています。

 

もう一つ、インドのヒンドー教の「四住期」というライフサイクルの考え方

も注目されます。

 

これは、上位のカーストに属する人々が、人生の理想的な過ごし方だとして

いたもので、人間の一生を、学生期、家住期、林住期、遁世期の四つに

分けて考えるものです。

 

学生期には、厳格に禁欲を守り、師の言うことにひたすら耳を傾け、心を

こめて学ぶこと、家住期には、親の選択に従って妻帯し、職業について

きちっと生計を営むこと、林住期には、結婚生活によって得たもの、財産や

家族などすべて棄て、社会的義務も棄て、人里離れたところで暮らすこと、

最後の遁世期には、この世への一切の執着を捨て去って、家もなく、財産も

なく、乞食となって巡礼して歩く生活を送ることが求められるということ

です。

 

このようなインドの四住期説に見るライフサイクルの考え方は、我々に

とっても共感を呼ぶものであり、多々教えられるところがあります。

 

しかしながら、それを実際に実行するとなると、我々現代人が大切と考えて

いる、人格とか自我ということを無視してしまわなければならないことに

なります。

 

西洋近代の自我形成とは異なるにしても、我々日本人にとっても自我の

位置づけ、扱いの問題はないがしろにできないものと思われます。

 

この自我の確立と自我の放棄という真っ向から対立する課題を解決

する方法はあるのでしょうか?

 

著者によると、ユングは、東洋の考えの影響を受ける中で、自我が意識の

統合の中心であるのに対して、人間の心全体、つまり、意識も無意識も

含めた全体の中心として、「自己」というものが存在すると仮定し、人生

の前半は、まず、自我の確立が必要であり、その確立された自我の一面性、

部分性を何らかの意味で補う無意識内の心的内容が、「自己」のはたらきに

よって自我に送り届けられてくるのに対峙し、それを意識化しようと試みる

ことを「個性化」、または自己実現の過程と考え、それが人生の後半のテーマ

であると考えることによって解決しようとしたということです。

 

つまり、現代人は、古来のインドのように個性を捨てることは不可能なので、

まず、自我を確立した上で、あくまで「自己」との対決と相互作用によって、

個性的な自己実現を行ってゆくべきと考えたようです。

 

さて、次回は、イニシエーション(通過儀礼)、老いと神話などについて

触れてみたいと思います。

 

 




 
 
 
 
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