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「キリスト」とは何か?


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「キリスト」というと、イエス・キリストを思い浮かべますが、果たして

キリストと呼ばれる存在は、イエス・キリストのみなのでしょうか? また、

そもそも、キリストとはどういう存在なのでしょうか? 

 

今回は、「キリスト」とは一体何なのか、について考えてみたいと思います。

 

さて、この「キリスト」という言葉から連想される言葉に「メシア」や、

「救世主」というものもありますから、先にこれらを整理しておきたい

と思います。

 

「メシア」とは、本来、「(油を)塗られた者」を意味する言葉で、後に、

それは理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な

救済者を指すようになったようです。

 

このメシアに対応するギリシャ語がクリストスで、その日本語的表記が

「キリスト」だということです。キリスト教徒とイスラム教徒は、ナザレ

のイエスがそのメシアであると考えていて、イエスをメシアとして認めた

場合の呼称がイエス・キリストだということになります。

 

ただし、メシアの捉え方は両者の間では異なっているようです。イスラム

でもユダヤ教、キリスト教からメシアの概念は継承されているが、イスラム

においてはイエス自身は預言者にして預言者ムハンマドに先行する神の使徒

とされていて、神が派遣したメシアであることも認識されているということ

です。

 

なお、ユダヤ教におけるメシアはダビデの子孫から生まれ、イスラエルを

再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている

が、まだ、到来していないとされます。

 

さて、キリスト教にはキリストの「再臨」、すなわち、天に昇ったとされる

イエス・キリストが世界の終りの日にキリスト教徒を天に導き入れるため、

また、世界を義をもって裁くために、再び地上に降りてくるという信仰が

ありますが、キリスト、あるいはメシアが地上に降りて来られるのは一度

のみとは限らないのです。

 

ゾロアスター教では、ザラスシュトラ(ゾロアスター)の登場から1千年

後に一人目の救世主が現れ、2千年後に二人目に救世主が現れ、3千年後

に最後の救世主が現れるとされます。

 

また、仏教においては、弥勒菩薩について説かれています。弥勒は、現在

仏であるゴーダマ。ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダになることが約束

された菩薩で、ゴーダマ・ブッダの入滅後56億7千万年後の未来にこの

世界に現れ悟りを開き、多くの人を救済するとされます。

 

ところで、ブラバッキーの神智学や、シュタイナーの人智学では、「キリ

スト」というものに対し、これらとは異なる考え方をしています。よって、

ここで神智学、とりわけ、シュタイナーの考え方を少し紹介しておきたい

と思います。

 

まず、その根幹となるのは、救済神と犠牲神(内なる神)という二つの概念

です。救済神とは、人類の前に神人(聖者)として現れ、霊的な教えを説く

神であり、犠牲神というのは、死んで物質の中に飛散し、人間の霊的本質に

なる神々だということです。

 

そして、「キリスト」とは、ロゴス(人智学の主神で、太陽に住む六柱の神々、

父・子・聖霊という三つの測面があるとされる)の「子」に相当する部分の

ことで、救済神と犠牲神が合体した存在とされます。

 

具体的には、ロゴスの一部で救済神として活動している部分が、イエスが

30歳のとき彼に宿った。つまり、十字架にかけられたとき、古い弥勒は

死んで、新しく再生した弥勒は人間の意識を地球意識に結びつけて完成

させるための教師となった。さらに、犠牲神、つまり、ロゴスの一部で、

地球意識の核となった部分(アフラ・マズダー、オシリス、デオニュー

ソス、ヴィシュヴァ・カルマンなどと呼ばれた)も、イエスが30歳の

とき、イエスに宿ったということです。

 

なお、シュタイナーは、ゾロアスター(ザラスシュトラ)について、彼が

パレスチナでイエスの身体に宿ってキリストの受肉を準備し、キリストが

イエスに宿ったときに抜け出て、マイスター・イエスになったとも述べて

います。

 

また、ソロモン系のイエスとナタン系のイエスという二人のイエスが登場

するのも、シュタイナーのイエス=キリスト論の特徴とされます。

 

さて、それでは最後に、水波一郎氏の霊魂学においては、キリストという

存在はどういうものかを紹介しておきたいと思います。

 

水波霊魂学によると、イエス師は、この物質の世界ではキリストと呼ばれ

ているが、霊的世界でもキリストと呼ばれているようです。

 

ただし、物質界ではキリストはイエス師だけであるが、高貴な霊魂の世界

では、キリストは6名おられるということです。つまり、キリストとは

称号であり、霊魂の世界のキリストとは、人類を霊的進歩に導いてくださる

偉大な魂だということです。

 

イエス師のほかは、我々が良く知るシャカ師、クリシュナ師、そして、

ホー師、ヨーイ師、ラ・ムー師と呼ばれる魂がおられるようです。

この6名は特別な魂であり、かつてそれぞれ特別な使命を持って地上に

降り、人として生きたとされます。

 

肉の身体をまとって地上に降りられたが、その正体は他の霊魂と大きく

異なっていたのです。つまり、霊魂としての価値が地上に生まれる前から

とても高かったのであり、そのために、彼らは自然な法則のままでは物質

の世界に誕生することはできず、6名が協力しあって物質の世界に生まれ

られたということです。

 

たとえば、イエス師が地上に降りられたときは、ラ・ムー師が高貴な霊的

世界で中心的な指導霊として活動をされていたようです。

 

この6名の高貴な魂は、実は、すぐにでも幽質の世界を飛び越えて、霊質

の世界へ参入すべき存在であったのであるが、それをされなかった。それは、

人類の霊的救済という、彼らの強い意思があったからだそうです。

 

それだけではなく、霊質の世界で成長したイエス師、そして他のキリスト

は全員、いつでも神霊の世界に住まうことも可能であったのです。しかし、

今でもそれをしておられないのだそうです。

 

なぜなら、霊魂として活動したほうが物質界の人間に関与しやすいからで、

神霊の世界に住むとは、名実ともに神霊になってしまうことであり、物質

の身体をまとった人間との接点をさらに遠くしてしまうからです。

 

霊魂は進歩して上の世界に入るのが自然であるが、彼らはあえてそれを拒否

しておられるのです。それ以外に人類に救いが見えないからだそうです。

 

このように、イエス師、シャカ師、そしてクリシュナ師、さらに、ラ・ムー

師、ホー師、ヨーイ師といった偉大な魂たちが地上を見つめておられるよう

です。しかしならが、彼らの魂は高貴すぎて地上の人間の霊的感知力では

理解し得ないのであり、そのためにこそ、その間をつなぐ霊魂たちが存在

しているとされます。

 

もっとも、人間は高貴な存在にただ依存するばかりではいけないという。

とかく、人間は誰かに助けてもらうことばかり考えているが、自分自身

が努力をせずに、すべてを他に任せるべきではないのです。

 

人間の社会にはそこまで要求しないのに、神や霊魂には過大な要求をする

が、それは明らかに法則の無視であるという。高級な霊魂たちは、人間の

自由意思を守るために、真に求める魂にしか力を流せないのだそうです。

 

人間は、直接、至上の神を求めようとするが、至上の神とは、全く捉えら

れないゆえ、人間には一偶像にすぎない存在であるとも言えるようです。

よって、人間はまずイエスやシャカ、つまり、かつて人間として物質界に

生きた過去のあるキリストをこそ知らねばならないのです。そして、その

ためには、まず自分たちの守護霊や指導霊を知らねばならないのです。

イエスやシャカもやはり遠い存在だからです。

 

そのままでは、人間の霊的身体はキリストの力を受け取ることができない

のです。キリストや高級な霊魂団の上位の方に思いが届くためには、霊的

な身体が相応に成長し、霊的な意識がそれにふさわしいまでに進歩を遂げ

ていなければならないということです。

 

とにかく、我々一般人は、まず、守護霊や指導霊といった霊魂たちとの

密接な交流を図るべきであり、そして、そのためには、霊的トレーニング

によって一刻も早く自分自身の霊的な状態を良くすることが必要だという

ことです。

 

霊的な身体の健全化と成長、これが、なによりもまず物質界に生きる人たち

が行うべきことであり、人生の目標とも言えることだとされます。

 

そうすれば、やがて、霊的な存在としてのイエス師が、キリスト方が本当

の姿を現すかもしれないのだそうです。

 





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霊的カルマ-「罪とカルマ」2-


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 前回は、キリスト教における「原罪」を取り上げ、仏教等における「罪」

については触れませんでした。

 

仏教における「罪」を語るとき、その根柢には、カルマ(業)、すなわち、

善または悪の業を作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の

報いが生じるとされる考え方があり、まず、このカルマとは何か、から

始めなければならないということでした。

 

今回は、この仏教をはじめとするインド宗教の思想に特有なカルマ(業)

という考え方を紹介しながら、併せて、水波霊魂学における「霊的カルマ」

と対比させてみたいと思います。

 

さて、カルマ(業)とは、本来、単に行為、所作、心身の活動を意味する

言葉であったようですが、それが仏教やジャイナ教など、インドの宗教に

おいて、過去(世)での行為は、善い行為であれ、悪い行為であれ、

いずれその報いが自分に返ってくるという因果の法則として体系化された

ようです。

 

また、インドでは、カルマの思想は輪廻転生とセットとして展開しました。

 

行為が行われたのち、何らかの結果がもたらされる。この結果は、行為の

終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果として

もまた現れる。行為は、行われたのちに、何らかの余力を残し、それが次の

生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の

行為に原因があり、行為(カルマ)は輪廻の原因とされるのです。

 

また、行為(カルマ)を超越する段階に達しないかぎり、永遠に生まれ

変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定され、天国で

の永遠の恩寵や地獄での永劫の懲罰といったこの世以外の世界は、輪廻の

サイクルに不均衡が生じるため、ありえないことと考えられたのです。

 

以上が、カルマ(行為)に基づく因果応報の法則であり、輪廻の思想と

結びついて高度に理論化されて、インド人の宗教観、世界観を形成して

きたということです。

 

なお、この輪廻転生と密着するカルマの思想は、決定論や宿命論として

理解されたため、人々の反発を招いたということですが、それが釈迦と

同時代の哲学者として知られた六師外道と仏教側に呼ばれた人々だった

のです。

 

さて、インド、あるいは東洋のみならず、近代における西洋のスピリチュ

アリズムにおいても、この「カルマ」の思想が取り入れられています。

 

スピリチュアリズムの興隆期においては、転生(再生、生まれ変わり)を

認めないという人たちがいる一方で、フランスのアラン・カルデックの

ように、転生(再生)を重要視する人たちがいました。

 

彼は、人は生まれ変わるとし、神から与えられた自由意思によって、転生

する間に過ちを犯してカルマを形成し、この負債であるカルマによって、

その人に災いが起こるとした。人間の苦しみの原因は自らが過去生で蓄積

した負債であり、地上の生は、この負債の返済のためにある。また、苦し

みは神の恩寵でもあり、苦しみを通じて負債が軽減されることは神の期待

に沿うことであり、苦しみを乗り越えることは大きな栄光であると主張

したということです。

 

とにかく、アラン・カルデックにおいては、自由意思は負債の原因である

と同時に、救いを可能にするものであり、個人が救済されるか否かは、

すべて個人の自由意思次第とされたようです

 

また、シルバー・バーチの場合もカルマと再生を重要視しています。

ただし、「カルマ」とは、行為とその結果という意味合いではなく、神の

摂理に違反することであり、再生とは償いや罰が問題ではなく、進化の

ためにあり、カルマという借金は教訓を学ぶための大切な手段であると

されます。

 

このようにスピリチュアリズムの場合、「カルマ」には懲罰的な意味合い

がほぼなくなっていますが、観念論的な側面が残っているように思われ

ます。

 

さて、では、水波霊魂学ではどのように「カルマ」というものが捉えられ

ているのでしょうか?

 

前回、紹介した水波一郎氏の『神体』によると、人という霊的生命体が

地上(物質界)に降りて肉の身体をまとったため、食べなければ生きられ

ない存在となったのであり、そこからあらゆる不幸が始まったということ

でした。

 

そして、人間というものが地上に誕生するとき、それは新しい生命の誕生

のように見えるが、それは厳密にいうと正しくなく、人間の地上での生命

のもとは幽質界にあったでした。

 

つまり、人間は初めて地上に降りて以来、死亡しては故郷に帰り、非常に

複雑な原理によって何度もの過去世を背負っているということになります。

 

このように人間は、過去世からのカルマを背負ってきているということに

はなるのですが、それははなはだ複雑で、過去世で人を殺したから、現世

で自分が殺されるという単純なものではないようなのです

 

水波氏の旧著『霊魂学を知るために』では、次のように述べられています。

 

<それ(カルマ)が、今回の人生における幸、不幸作っている。しかし、

カルマとは、明確な因果律であるが、決して定められた運命といったもの

ではない。>

 

過去世で人を殺したから、今度は必ず殺されるとは限らないのであり、実際

のカルマはもっと流動的で複雑だということです。つまり、何回もの過去世

で一度も人を殺していないのに、今回の人生で人に殺される人もいるのです。

 

そして、<行為の結果は、新しい現象を起こす。しかし、カルマはそれのみ

で決まるのではない。カルマとは、幽体の個我だからである>とも述べられ

ています。

 

<この幽体の個我が今回の人生で修正され、あるいは教育され、それまでの

人生と違う判断を持つに至った場合、そのカルマはかなり解消されている

といえる。逆に、今回の人生で幽体を甘やかしてしまった結果、過去世に

ない不幸を作ることもある>ということです。

 

具体的な例として、たとえば、飛行機事故、列車事故等の場合、なかには

虫の知らせで、その飛行機に乗らなかった人もいます。これは、指導霊団

が働いた場合が多いようですが、厳密には、とても複雑な理由が絡んで

いるようで、逆に、己の意思で死んでゆく人もいるようです。

 

幽体の個我は、過去の罪を悔いて、事故の起きる飛行機にわざわざ乗せよう

とすることもあれば、逆に、死ぬのを嫌がって乗せないことのこともある

ようなのです。カルマの正体とは、かくも複雑だということです。

 

ともかく、事実はあまりにも複雑であるということですが、カルマは過去

世からの行為の集積であり、人間はいつも、過去の好みや経験による失敗を

無意識の衝動として浮かび上がらせて、それが新しい環境においての選択や、

判断の基準になってゆくようです。

 

しかし、過去世のカルマといっても、表面意識と、霊体の意識、そして、

守護霊、指導霊によって、相当に変化しうるのであり、単純に、人を殺せ

ば殺される的な因果律がめぐるとは限らないのです。

 

また、水波氏は、「大きな事故があると、因果(律)論者はよく、事故に

遭った人は全員、過去世でそれ相応の罪を犯しているため、その事故は

まさに必然的なものだと言う。しかし、それは間違いである」と述べて

おられます。事実は、そのうち何割かがそのような過去をもち、それを

知らなかった幽体の個我と指導霊団がその事故に巻き込まれたという

ことだそうです。

 

通常のカルマとは無関係な高貴な魂さえも、事故に遭うし、病気にかかる

こともあるが、それは、過去の罪なのではなく、肉体を持ち、カルマの

深い人と交わるからだそうです。

 

「カルマを知れば、未来はわかる。しかし、それは確定ではない。予定と

考えれば、より近い。過去世、それを知ることは大切である。それは幽体

の個我の本性だからである」ということだそうです。

 

なお、「霊魂学は人間の罪を霊的カルマで説明する」として、次のように

述べられています。

 

<人間は、憎しみを自分自身の本質としてもっている。それが、人間の

最初の不幸を作ったのである。それはもちろん、創世記にさかのぼる。

人間の歴史は罪の歴史であり、怒りと憎しみ、そして不幸と苦悩の歴史

である。地上の幸福は、かりそめの、非実質である。それは自己満足に

すぎない。しかし、苦しみはそうではない。それは人間のもつ、幽体の罪

だからである。過去の罪の集積である。人間はどこかでその罪を終わりに

しなければならない。>

 

<死後の世界では罪の清算は終わっていない。多くの「霊界もの」が過去

世を語っている。人間は、過去からのカルマにより、今病気であるとか、

不幸であるとか、明示した人もいる。もう一方では、人間は地上の行いに

より、死後の世界で罰を受けるという説がある。いくつもの「霊界本」が

地獄の光景を語っている。たしかに、地獄はあるし、下層幽界以下では

苦しみの連続である。しかし、それは罪の清算ではなく、その幽体が住む

にふさわしい世界というにすぎないのである。>

 

<つまり、罪で落ちるのではなく、意識の質と幽体の不健全さで落ちるの

である。それは法則であって、神の意志ではない。人は自分の犯した罪で

不幸になる。>

 

 
 
 
 
  
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原罪-「罪とカルマ」1-


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神体 


 
 罪というとき、法律用語における罪の概念や、歴史的な用語としての罪
ありますが、ここでは、宗教的な意味における罪というものを考えて

みたいと思います。

 

さて、宗教における罪といっても、仏教における罪とキリスト教などで用い

られる罪の観念は異なりますし、神道における罪も、また、異なります。

 

仏教における罪とは、戒律に反する行為や道理に反して禁断を犯したため

に苦の報いを招く悪行を指すようですが、その罪の根源には、身・口・意

の三業があるゆえ「罪業(ざいごう)」とも言われています。

 

つまり、仏教の罪の根柢には、業(カルマ)、すなわち、善または悪の業を

作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報いが生じるとされる

考え方があり、仏教の場合は、まず、このカルマとは何か、から始めなけ

ればなりません。よって、今回はそれに触れず、次の機会としたいと思い

ます。

 

今回は、キリスト教における罪、とりわけ、キリスト教の教理の一つとして

有名な原罪について紹介しながら、それに対する水波一郎氏の霊魂学の見解

を対置してみたいと思います。

 

さて、キリスト教は、ユダヤ教の影響のもとに、人類の始祖アダムの堕落

物語(創世記3章)を典拠として、すべての人間はアダムの罪を負い、

生まれながらにして罪のなかにあり、それから脱出する自由を自分では

持たないと説きます。

 

これがいわゆる原罪と言われるものですが、この原罪の観念はパウロや

アウグスチヌスなどによって強調され、そこからの救いは神の恩恵にのみ

によるとされたのです。

 

創世記には、次のように記されています。

 

<主なる神はその人(アダムのこと)に命じて言われた、「あなたは園の

どの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木から

は取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

>(創世記2章16-17)

 

<さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。

へびは女(のちにエバと名づけられる)に言った、「園にあるどの木からも

取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、

「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央

にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んで

はいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは

決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、

神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。>

(創世記3章1-5)

 

<女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには

好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えた

ので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることが

わかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。>(創世記

3章6-7)

 

<神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べる

なと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。人は答えた、

「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、

わたしは食べたのです」。そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、

なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだました

のです。それでわたしは食べました」。>(創世記3章11-13)>

 

<つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。

あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなた

を治めるであろう」。更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べ

るなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろ

われ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、

いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に

汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。

あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。>(創世記3章16-19)

 

このような神話、すなわち、神は楽園に人を住まわせ、そこにあるあらゆる

ものを食べてもよいとされたが、善悪を知る知識の木の実だけは食べては

いけないと言われた。しかし、蛇にそそのかされた女が善悪の知識の木の

実を食べ、女に勧められたアダムもその実を食べたため、神は怒り、アダム

とエバを楽園から追放した。その後、女は産みの苦しみを、男は労働の苦し

みを受けることになった、といった物語が、キリスト教における原罪の源泉

とされるのですが、我々は、この神話のストーリーをそのまま事実として

受け取ってよいのでしょうか?もし、そうでないとしたら、そこには、どの

ような寓意が込められているのでしょうか?

 

水波霊魂学を提唱される水波一郎氏は、神話とは、多くの物語と、一部の
霊感に
よる真実が混ざり合い、変形されて成立したものとされますが、
ここで、水波氏の著書
『神体』に依拠しながら、この神話が何を意味する
のかを考えてみたいと思います。

 

さて、『神体』によると、人類は、この地球が、いや、この物質世界が、

本当の故郷ではないということであり、本来は物質の肉体をまとった存在

ではなかったということです。

 

「至上の神は、先に人間を造られたのではなく、神々(神霊)を誕生させ

られた、そして、神々は上級の霊魂を誕生させられた。上級の霊魂は自分達

の生活する場所を与えられた。それが上級霊魂の住む世界である」とある

ように、最初に神々とその世界が生まれ、その次に上級の霊魂と上級霊魂の

世界が誕生したのであり、この頃は、人類はまだ影も形もなかったようなの

です。

 

「そして、(上級の)霊魂達は成長した。成長した霊魂達は、様々な組み

合わせが、それぞれの合意により誕生し、次々に新しい霊魂となって増えて

いった。やがて、霊魂としての成長は、まったく新しい生命体としての霊魂

を生むことを欲した。」「上級の霊魂達は新しい生命を誕生させたのである。」

 

「上級霊魂達が神霊に願うことによって、新しい世界が創造された。それが

新しい霊魂達が主として生活する世界となった幽質世界である。そして、

この世界こそは、今の人間が死後生活している、広範囲な霊魂の世界なの

である。」

 

ここでやっと、我々人間の真の故郷である「幽質世界」が誕生しますが、

この世界の生活は実に気ままであり、地上と異なり、食べる必要がない

ゆえ、働く必要もない、何もしなくても生きられる世界だったのです。

 

しかし、人間とは身勝手なもので、この新しい世界は自由すぎたために

飽きてしまったようなのです。

 

「この時、幽質という世界の霊魂達は、もっと新しい世界を求めた。彼ら

は物質を求めたのである。幽質界の霊魂達にとって物質は憧れであった。

物質は差別を生む。物質は一定の容姿を作り、生命を維持するための努力

が必要となる。彼らは物資を支配してみたいと考えたのである。」

 

つまり、人類の祖先である幽質の世界の霊魂達は、物質界に降りて、物質

の身体をまとうことを望んだのです。

 

しかし、上級の霊魂達はその考えを支持しなかったようです。上級霊魂達は

個性が大きかったため、彼ら(幽質界の霊魂達)の欲求が不幸を生むことを

察知していたのからです。

 

これに対して、幽質界の霊魂達は、至上の神の名において自由を主張する

権利があるとして、執拗に抗議したようです。

 

「ついに上級霊魂達に戦いを挑んだのである。これは霊魂の世界における

最初の戦いであり、自由のための戦いであった。」

 

もっとも、この戦いは地上の戦いとは異なり、それぞれの霊魂達が特に

組織を組むこともなく、自由に議論するといったものであったようです。

 

「両者はどこまでも並行線のままであった。しかし、霊魂の自由はいつも

強かった。そこで、神々は物質の世界を造られた。それまでの物質はただ

の物質といったものであり、とても霊魂の住みうる場所ではなかった。神々

の力により、物質界はついに生命の住みうる環境へと動き出したのである。」

 

要するに、幽質界の生活に飽きて、物資を支配したいと思った幽質界の霊魂

は至上の神が与えた「自由」という権限を楯に上級の霊魂達に議論による

戦いを挑んだのだが、その自由意思を無視できないために、神々は物質の

世界に、霊魂の住みうる環境を発生させられたということです。

 

なお、物質の世界には時間というものがあるが、最初の幽質の世界には物質

の世界でいうような時間というものはなかったようなのです。そのため、

幽質の世界では、多数の霊魂がまだ議論している程度の間に、物質の世界

では計るのが大変なほど長い時間が経過していたのであり、天体の誕生

から人類の誕生までは、地上の感覚では単位に困るほど長い時間であって

も、霊魂の世界は全く別の次元で働いていたということです。

 

かくして、「人間が物質を支配したいと欲し、物質の世界に降下した時、

人間は時間に縛られる存在となった。時間は物質界において力を持っていた

からである。地上に下りた人間は物質の身体をまとい、物質の食物を食べ、

労働し、睡眠する存在となった」ということです。

 

また、「実は、数万年、あるいは、それ以上前から存在したと言われる人類

と、今の人間とは、霊魂という次元において別の生命体である。過去に

おいて古い人類と呼ばれた生命体は、人類と呼ぶのかもしれないが、今の

魂の先祖ではない」とも述べられています。

 

こうして、人間はついに不自由という言葉を知ったのですが、最初は神々

を讃美したものの、しばらくすると不自由が嫌になり、再び自由を欲し、

もとの世界への移転を神々に真剣に祈ったということです。

 

しかし、神々は答えなかった、というより、物質の肉体を持った人間は、

もはや、もとの霊魂でなくなっていたのであり、その願いが神々には、

いや上級霊魂にすら届かなかったのです。

 

以上のことから、人類の始祖アダムとエバは、蛇にだまされて神から禁じ

られていた木の実を食べて楽園を追放された、そして苦しみを背負うよう

になった、という神話の意味するところは、蛇にだまされてではなく、

上級の霊魂の忠告を聞かず、自らの意思で幽質の世界という、食べなく

ても、働かなくてもよい楽園から出て、地上に降りた、つまり、物質の

世界に入り、肉の身体をまとったため、他の生命体の命を奪って食べなく

ては生きられない世界で生きることになり、労働の苦しみ、出産の苦しみを

背負うことになった、そして、追放されたのでなく、自ら神霊から離れて

しまうことになったということです。

 

なお、『神体』では、「人類は本当の意味で自由になれない。魂の奥の傷と、

大きな罪が消えていないからである。人間は罪人である。それは生まれた

時から決まっている。だからこそ、『罪を悔い改めよ』という宗教が誕生

するのである。禁断の木の実を食べて、楽園から出た魂の再生の結果が、

今、地上に生きる人達だからである」と述べられている箇所がありますが、

ここで言われている「罪」は、キリスト教でいう、いわゆる「原罪」とは

異なっているように思われます。

 

つまり、「罪」といっても、キリスト教などのように、「罰」や「裁き」

による苦しみといったものが想定されているのではなくて、「カルマ」、

「再生」といったものと関わっていて、自らの自由意思による過ちが招い

た苦悩という関係になっていると思われます。よって、「罪」というより

も「根源的な過ち」といった印象であり、単に悔い改めるのみならず、神々

の助力を願い、自らがその霊的カルマを克服し、霊的な進歩向上への道を

歩まなければならないということを意味しているように思われます。

 




 
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『死後まで続く幸福のために』


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死後幸福  
 (水波一郎 著 アマゾン 発売)
 
書の<はじめに>において、水波一郎氏は、次のように述べておられ
ます。

<霊魂の実在や死後の
世界を信じている人たちは、大抵、「悪い霊魂に
憑かれた」という話を
を聞いたことがあると思われる。しかし、「憑か
れた」というような人はごく少数で、
多くの人は自分には関係のない
他人事だと思っておられる節がある。
確かに「憑かれた」という人は、
そう多くはないかもしれないが、霊魂と
「接触している人」、つまり、
不道徳な霊魂の影響を受けている人は、
昔よりずっと増えている。>

 

不道徳な霊魂は穢れた「幽気」、つまり汚い霊的な「気」を放っていて、

人は知らないうちにそれと接触し、人生の様々な面において悪影響を

受けているということです。

 

よって、私たちは何とかしてこの穢れた幽気の悪影響から身を守らなけ

ればならないのであるが、どうしたら不道徳な霊魂や穢れた幽気などの

悪影響から身を守れるのか、について説明したいと述べておられます。

 

この書で記されていることは、それだけではありません。このことがさら

に死後の幸福というものに大きく関わっているということを明らかにし、

警告を発することも本書が意図するところであろうと思います。

 

ところで、ひと昔前までは、死後の世界というと、罪と罰、つまり、地獄

における裁きと刑罰に対する恐怖というものがまずイメージされたように

思いますが、昨今では、様子が大きく異なってきているようです。

 

日頃、死後の世界を信じない人でも、葬儀に際して、死者が「天国へ旅立た

れました」などと言い、「地獄」などは眼中にありません。

 

また、死後の世界があると信じている人も、「スピリチュアル」や「臨死

体験」本の影響もあってか、きわめて楽観的で、死後は明るい世界が

待っていると言い、死後、不幸が、地獄が待っているとは言いません。

 

しかし、事実はどうなのでしょうか? 人は皆、死後、天国のような幸せ

な世界へ行けるのでしょうか?

 

どうも、かつての「地獄の審判」は誤っているとしても、この世が、お花畑

ではないように、死後の世界もそんな生やさしい世界ではないようです。

 

普通の人が普通に生きて、そのまま死後の世界に入ったとしても、苦しみに

満ちた下層の世界に入らざるを得ない時代になったということです。

 

霊的世界の法則、実態は、この世(物質世界)の法則、倫理、道徳や思想、

哲学とは大きく異なっていて、このことへの無知、誤解が死後の世界での

不幸や苦悩を増大させているようなのです。

 

たとえば、死後行く世界は、いかに心を成長させたか、いかに美しい愛の

心を育てたかによってではなく、死後使用する霊的身体である幽体の状態、

つまり、幽体の質とその健全度によって決まるようなのです。(もちろん、

心を成長させることは良いことですが、肉体の心の成長は、幽体と幽体

の意識の進歩向上とは無関係だということです。)

 

また、この世も激しく変化するように霊的世界も刻々と変化をしています。

もう、50年も100年も昔の、古く、そして未熟な「霊界通信」では、

対応できない時代になってきているということです。

 

これらのことを想うと、愛に満ちた美しい花園のイメージに心の安らぎ

や慰めを求めることも時には必要かもしれませんが、それが死後の大き

な苦しみに対して無力だとしたら、そこに安住しているわけにはゆき
ません。

 

現在の状況、つまり、普通に生きた多くの人たちが苦しみに満ちた下層

に入るという現実を見つめ、単なる慰めではなく、不幸や苦しみの根本

原因を取り除くために、今、具体的に何をすればいいのかを考え、それを

実践する時期に来ているのではないかと思います。

 

本書は、最優先課題、つまり、霊的な身体である幽体、そして念、霊的な

気である幽気、間気というものの問題と、その改善法に焦点を絞りながら、

どうすれば死後まで続く真の幸福を得ることができるのかを、初心の方にも

分かるように平易に記されています。また、こうした基本的な事ばかりでは

なく、今まで明らかにされなかった重要な事柄についても触れられています。

 

是非、多くの、一時の慰めに飽き足らない、真実を求めようとする方々に

読んでいただきたいと思います。

 

詳しい内容については、本書を読んでいただくとして、少しでも知って

いただくために目次を紹介しておきたいと思います。

 

 

はじめに

 

第1章 霊的な事で知らないうちに不幸になっている

1 霊的な不幸は誰にでも起きる

2 霊魂だけが問題なのではない

3 念の問題

4 幽気の問題

5 間気の問題

6 不道徳な霊魂との遭遇

 

第2章 不道徳な霊魂の事情

1 霊媒体質とは?

2 この世にいる霊魂の実際

3 霊魂もつらい

4 霊魂に狙われやすい人

5 普通の人の霊的状態

 

第3章  念の悪影響

1 念の力

2 幽体の傷

3 幽体の病院

 

第4章   幽体の状態は死後をも不幸にする

1 苦悩は続く

2 下の世界に入った人

3 中間的な世界に入った人

4 上の世界に入った人

5 更に上に登って行く霊魂

 

第5章   良好な幽気を吸収するために

1 幽体を健全にするためにはどうすれば良いか

2 幽体を健全にする技法

3 低い幽気を取り除くには

4 高級な幽気を浴びる

5 高級な幽気を集める

 

第6章   間気の改善

1 間気の実際

2 間気の性質

3 間気の対策

 

第7章   幽気の改善

1 幽気の流れを良くする

2 幽気の性質を良くする

3 幽気を吸収するには

 

第8章   幽気、間気、幽体改善の為の方法

1 幽気の流動を促進する方法

2 幽気の性質を良くする方法

3 幽気を強くする方法

4 間気の流出防止法

5 間気の流動

6 間気の増加

7 間気の強化

8 幽体の不調の改善法

 

第9章   幽体の霊的調査

1 ある霊的調査

2 別の霊的調査

3 霊的調査の限界

 

第10章  幽体を観察してみると

1 幽体のズレ

2 死の準備

3 幽体と信仰

4 動物の幽体

5 幽体の病気

 

第11章  上の世界の霊魂を想う

1 上の世界の幽気

2 高貴な気

3 日本の現状

4 指導霊の影響

5 指導霊の登場

 

第12章  幽体の嘆きを知る

1 人間の幽体

2 幽体の病気の予防

3 幽体の傷もさまざま

4 人生を好きに生きる

5 最後の時

6 いろいろな生き方

 

おわりに 

 

以上ですが、「おわりに」は、次のように締めくくられています。

 

「どうにもならないほど辛い時、人は信じてもいない神に祈ります。願い

が叶わないと知っていても、それでも神に祈らずにいられないのです。

それは人の本性なのかもしれません。」

 

「人が真剣に涙を流し、神に祈る時、その幽体からは強い念が出ます。

ですが、守護霊、指導霊はその念の意味がわかりません。人の涙がどんな

に重くても、それは決して届かないのです。それでも、必死に祈っている、

という事だけは、守護霊や指導霊に理解できる事があるようです。(どう

しても意味がわからない。…)守護霊、指導霊も、同じように涙を流して

います。」

 



神伝禊法2 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
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宗教と霊魂学


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たましいの救い 
  (水波一郎 著 アマゾン 発売)


これまで、三回にわたってウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』

を取り上げ、彼の宗教に対する見解を紹介してきました。

 

ジェイムズによれば、宗教とは、次のような信念を含んでいると言います。

 

1.目に見える世界は、より霊的な宇宙の部分であって、この宇宙から世界

はその主要な意義を得る。

 

2.このより高い宇宙との合一あるいは調和的関係が私たちの真の目的で

ある。

 

3.祈り、あるいは、より高い宇宙の霊―それが「神」であろうと「法則」

であろうと―との内的な交わりは、現実的に業(わざ)が行われる方法で

あり、それによって霊的エネルギーが現象の世界へ流れ込み、現象世界に

心理的あるいは物質的な効果が生み出される。

 

このように<私たちの知る唯一の絶対的実在と常に接触している宗教は、

必然的に人間の歴史のなかで永久的な役割を演ぜざるをえないということ

に同意しなければならない。>

 

<宗教は単なる時代錯誤や遺物でありえず、むしろ、知的内容をもって

いるといないとにかかわりなく、またそれをもっているなら、その内容が

真であろうと偽であろうと、永久に重要な役割を果たすものでなければなら

ないように思われる。>

 

<およそ一個の人間の宗教は、その人間の生命にもっとも深く、もっとも

叡智的なものである>ということです。

 

今回は、宗教というものを水波霊魂学はどう見ているか、そして、それが

意義や価値、また逆に、限界や問題点をはらんでいるとしたら、それは

どういうものか、を記してみたいと思います。

 

水波一郎氏の旧著、『霊魂学を知るために』においては、次のように述べ

られています。

 

「神は、ある巨大な意識体であるが、完全とも限らず、無限とも限らない。

そして、絶対とも限らない。善かもしれないし、悪かもしれなない。」

 

しかし、「私はやはり、読者に、神を知るべし、と呼び掛ける。地上の人間

よりもはるかに巨大な意識としての神霊、そして、その意見を伝える上級

霊魂が、それを真理というからである。これは一種の信仰である。つまり、

心の中で確信するものではあっても、それを証明できないからである。」

 

「人は、信仰ぬきには生きてない。神や仏でなくても、人は何かを信じて

生きている。…人は錯覚の上に立って、実は何かを、事実上信仰して生き

ている。それに気づかない人たちが、宗教者を笑うのである。」

 

「私の霊魂学も、とうてい全ての真理たりえない。神霊から見れば、それ

は子どもにサンタクロースの物語を教えているようなものに違いないから

である。」

 

「私の霊魂学は、宗教こそが最高の道である、と宣言する。宗教はアヘン

以上の麻薬である。人々の理性を神に従属させる。しかし、それが、理性

では得られない真実を知る第一歩なのである。」

 

「理性は、もとより大切である。しかし、それ以上に人間を向上させる

のは、巨大な力と愛と個性への憧れ、つまり、神または神霊に対する

信仰である。」

 

また、『霊魂に聞くⅡ』の第一章で、「高級霊魂にとっての宗教とは何で

すか?」という問いに対して、「この世の人達を真の意味で救う為の道標

です。宗教の分野しか、神霊や霊魂を示してくれるものがないからです」

と記されています。

 

ここに霊魂学における宗教というものの位置づけが端的に述べられている

と思いますが、これだけでは、抽象的で、誤解を生む可能性がありますので、

個別のテーマに沿って説明してみたいと思います。

 

そこで、まず、キリスト教をはじめ多くの宗教において重要視されている

と思われる「祈り」というものを取り上げます。

 

以下、水波氏の近著『たましいの救い』に主に依拠しながら紹介してみたい

と思います。

 

上記のウィリアム・ジェイムズの主張の中にも取り上げられているのですが、

水波霊魂学においても、真剣な「祈り」は、大切な(宗教的)行為だとされ

ます。

 

しかし、真剣に祈ればそれでよいというわけには行かないようなのです。

祈りで大切なことは、それが対象者に届くということですが、問題は、祈り

が届かない、或いは、届くべきところに届いていないということなのです。

 

人が、人生の重大な局面や、遭遇する困難や苦悩に際して、真剣な祈りを

発することはもっともなことなのですが、現代のよう霊的環境が著しく

悪化した状況では、神はおろか高級な霊魂(霊的存在)に届く祈りはほと

んどないようなのです。

 

そして、届かないだけならまだしも、逆に、高級でない霊的存在、未発達

な霊魂や邪霊と呼ばれるような霊魂に届いてしまい、一時、祈りが成就した

ように見えても、後に、様々な障害や不幸をもたらすことが起こり得るのだ

そうです。

 

つまり、祈りを発する人の想念に近い性質の幽体(死後も使用する霊的

身体)を持つ霊魂にしか届かないということです。

 

さて、このように、普通の人の祈りは高級な霊魂には届かず、祈りが良い

結果をもたらすことがほとんどないとすると、祈りという行為は、全く無

意味な行為になってしまったのでしょうか?

 

決してそうではないのです。真面目で真剣な祈りは大きな意味があると

されるのです。

 

確かに、祈りが高級な霊魂に届くことはありませんが、その霊魂に仕えて

いる補助的な霊魂には届き得るようなのです。

 

補助的な霊魂というのは、人間の幽体により近い存在で、霊的な進歩と

いう面では未熟でも、本気で神に仕えたいと思っている霊魂、あるいは

人間を助けたいという霊魂だということですが、そうした霊魂には届き

得るということです。

 

そして、何よりも価値があるのは、その行為が霊的に高級な存在に対して、

自分の意思を明確に伝えることになるということなのだそうです。

 

高級な霊魂は人間の意思を尊重するために、まず、求めるということが

大事であり、神、仏、その祈りの対象の名称がどうであれ、単なる目先

の利益ではなく、高級な霊的存在の指導を賜りたいという祈りが必要だ

ということです。

 

ただし、その祈りの場というものも無視できない状況になってきており、

邪霊が多数いるようなところではリスクが伴うようです。

 

ともかく、祈りの価値とは、高級霊魂に仕える霊的存在との接点を増大

させることであるが、祈りのときとは、肉体(と重なっている幽体)が

動いていない、つまり、自由な意思が高貴な霊魂に向かっていて、なお

かつ、動きが制止している交流しやすい瞬間であるのです。

 

なお、そうなると、瞑想も同じような意味があるように見えますが、そこ

に祈りが伴わないと成果は小さいようです。瞑想の心理的な効果は別にして、

霊的な効果だけを言うと、宗教的な祈りが伴わないものは、成果がほとんど

ないということです。

 

もっとも、祈りと瞑想が組み合わされていると、霊魂にとってはより交流

しやすくなるようですが、瞑想は祈りよりもさらに霊的な危険が高くなる

ため、その危険性を考えた指導システムのもとで行う必要があるようです。

 

ところで、祈りとは、様々な願いを発することですが、一言でいうと、

「救い」を得るためということであり、それは宗教の主要な目的であろう

かと思います。

 

そこで、次に、この「救い」というものを取り上げてみたいと思います。

 

一般的に「救い」というと、現世的な救い、つまり、貧困や病気からの救い

を思い浮かべますし、また、人生における様々な心の悩み苦しみからの救い、

癒しや安らぎを得ることなどが想起されます。

 

しかし、貧困や病気といったものは、政治的手段や医学の発達といったもの

にとって代わられ得るため、宗教固有の領域としては、「心の救い」という

ことになろうかと思われます。

 

もっとも、心の問題の解決も、心理カウンセリングや、精神医療といった

ものが、それに代替してきており、宗教教義、つまり、「教え」による

「心の救い」は、心の修養あるいは成長、癒し、安らぎといったものに

狭められつつあります。

 

(なお、キリスト教などにおける原罪、つまり、宗教的な罪からの救いの

問題は、大変重要なことですが、長くなりますので、別途、取り上げたい

と思います。)

 

とにかく、宗教の果たす役割は、「心の救い」、とりわけ「心の修養」だ

ということになりそうですが、そこに大きな問題があるようなのです。

今まで宗教の重要性を言いつつも、ここに至って宗教の持つ弱点に目を

向けなければならないことになります。

 

心の修養、成長だけでは、あまり価値がないようなのです。表面の心は、

人という巨大な魂のほんの一部に過ぎないからです。(先述のウィリアム

・ジェイムズも表層の意識のみならず、深層意識というものに着目して

いたように思います。)

 

宗教の教えによって表面の心がどれだけ立派になったとしても、癒された

としても、魂全体としての進歩ではないため、死後、上層の世界に入れる

わけではなく、長い目で見れば、真の幸福には至れないし、苦悩から救わ

れないようなのです。

 

さて、以上のことから、祈りや宗教の価値とその問題点を認識したとして、

それでは、本当の「救い」とはなんでしょうか? どうすればそれが得ら

れるのでしょうか?

 

この問いに対して霊魂学は、「たましいの救い」を主張しています。

 

人とは、魂という巨大な意識体で、肉体とその心(意識)、幽体とその心

(意識)、そして、霊体とその心(意識)があり、それら全体の進歩、

向上を図ることが、たましいの救いにつながるとされます。

 

人は、肉体の心のほか、幽体や霊体の心の影響をも受けて生きており、

また、霊魂の影響を受け、幽気という霊的な気の影響も受けているので

あり、霊的な生命体としての救いを求めないと真の幸せは得られない

ということです。

 

とりわけ、死後、行くこととなる世界との関係で、幽体の不調の改善、

強化は喫緊の課題となります。

 

どうも、死後の世界の下層は、言語を絶するほどの恐ろしい世界のよう

で、一度落ちたら容易に抜け出せないところなのだそうです。

 

よって、とにかく、死後、苦しみに満ちた下層の世界に入らないことが最

優先だということです。そのために、生前、肉体と重なっていて、死後、

使用する幽体という霊的身体の健全化と幽体の意識の成長を図っておく

ことが大切であり、それが何よりの救いとなるのだということです。

 

(なお、霊的身体の健全化、幽体等の意識の成長のためのトレーニング法

については、少し前、「神伝の法と信仰」の中で紹介したところです。)

 

最後に、『霊魂学を知るために』の一節を紹介しておきたいと思います。

 

「心の修養は、高級霊魂にいわせると、無価値である。何も変わらない

からである。人間は幽体の未熟さに気がつかない。そして、下層に落ち

てゆく。」

 

「私に言わせれば、心を修養すれば、天国とか、仏のそばとかへ行ける

と考える人は偽善者である。…それはご利益以外の何物でもない。」

 

「真理を目指し、たとえ地獄へ落ちても、仏を信じるというなら、それは

強い信仰である。それで、彼はやはり下層に落ちるかもしれない。しかし、

それが彼の信じる道であるならば、彼はやがて上層へ登ってゆく。幽体の

不健全を解消すれば、必然的に上に登るからである。そして、魂を進化

させ、いつか霊界(幽質界の最上級)の人となる。それが、真の信仰者で

あり、真の修養者である。」

 

以上のことから、我々は、宗教の持つその大きな価値と共に問題点、限界

を明確に見極めることが大切ではないかと思います。









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