シュタイナーと薔薇十字


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薔薇十字の神智学


前回は、ロラン・エディゴブルの「薔薇十字団」により、薔薇十字団の起源を

17世紀の始めとする仮説をもとに、その創造過程を「ファーマ・フラテルニ

タティス」、「コンフェッシオ・フラテルニタティス」、クリスチャン・ローゼン

クロイツの化学の結婚」の三つの文書を中心に見てきました。

 

しかし、その起源に関わる仮説は、歴史的起源、そして、神話的起源といわれ

るものを含めるとほかにも多数あるようです。

 

ロラン・エディゴブルは、ドイツの薔薇十字団がイギリスに起源をもつという

英国の歴史家フランセス・イエイツの仮説を紹介しています。

 

イエイツは、英国聖ジョージ騎士団(ガーター騎士団)の記章が薔薇と赤十字

であり、薔薇十字の象徴自体がここに由来するに違いないといい、薔薇十字

思想は「神聖文字の単子」の著者ジョン・ディーに始まるのであり、17世紀

前半の薔薇十字文書の出版は、ジョン・ディーが関わった社会的、政治的運動

にその起源があるというのです。

 

それゆえに、イギリス思想の浸透した薔薇十字宣言は、魔術的、ヘルメス主義

的、カバラ的な性格を持った大改革計画の神秘的なバックグラウンドになって

いるということです。

 

また、薔薇十字団の先祖とされる神話や思想運動というものもたくさんあり、

アダム、古代エジプト、エレウシスの秘儀、ピタゴラス派、インド思想、

グノーシス思想、アラビアとサービア教徒、などがあげられています。

 

さて、では、その後、薔薇十字団を取り巻く状況はどのようになっていった

のでしょうか?

 

ロラン・エディゴブルは、薔薇十字宣言と「化学の結婚」が流布した複雑で

豊富なメッセージのうち、崇拝者たちが心の留めたのは、二つの側面、奇蹟と

錬金術だけであったと述べています。

 

哲学者の金と霊的万能薬は、当時、過ぎ行く時間と死の恐怖を祓い去るための

絶好のシンボルだった、よって、これらの秘法(アルカナ)を所有する神秘的

なグループに、薔薇十字団という名は付せられ続けていったということです。

 

黄金薔薇十字団などという、後の世紀に幅をきかす黄金という形容詞は、薔薇

十字の神話が錬金術という要素に還元されてしまったことを示すものであると

しています。

 

そして、薔薇十字団は、テンプル騎士団の継承という伝説を付加するとともに、

フリーメイソンと交差、融合していくことになるようです。

 

ところで、一方では、薔薇十字団に関心を抱き、その評判に耳を傾けたり、

それを繰り返して人に伝えたりした哲学者、芸術家、作家などが、たとえば、

デカルト、コメニウス、ベーコン、ニュートン、ライプニッツ、ゲーテ、

等々、大勢いたようであり、また、19世紀以降、「黄金の夜明け団」、

「薔薇十字カバラ団」、「古代神秘薔薇十字団」、ルドルフ・シュタイナー

と人智学協会など、薔薇十字を名乗る団体は、幾つか出現したようです。

 

そこで、これらのうち、シュタイナーのいう薔薇十字会、そして、ゲーテ

と薔薇十字会に関わりについて紹介しておきたいと思います。

 

近代ヨーロッパにおける薔薇十字系の霊統を代表するとされるシュタイナー

によると、ある高次の霊的存在が受肉し、クリスチャン・ローゼンクロイツ

と名乗った。彼は小さな秘教的グループの師として姿を現し、1459年、

結束固い秘密の同胞団、薔薇十字会において黄金石の騎士(薔薇十字的秘教

の霊統における高次の秘儀に参入したもの)になったということです。

 

薔薇十字会の神智学はという叡智は、18世紀に至るまで、強固な規則に

よって外的、公教的社会から隔離されて、ごく少数の限定された同胞団の

中で守られてきたそうです。

 

しかし、この同胞団は、秘教的な霊統を中部ヨーロッパの文化の中に注ぎ

込むという使命を持ったというのです。よって、公的な文化の中で、確かに

外見上は公教的なものであるが、公教的な表現をまとった秘教的叡智が

さまざまな仕方で輝いているのを見ることができるとしています。

 

ただし、何世紀にもわたって、さまざまな人が薔薇十字の叡智を看破しよう

としたものの、たとえば、ライプニッツなども、その叡智を解明しようと

して果たせなかったといいます。

 

だが、そんな中で、薔薇十字の叡智がとりわけ雄大な形で反映しているのが、

18世紀の転回期におけるヨーロッパ文化、ひいては世界文化に大きな役割

を果たしたのがゲーテだとシュタイナーはいいます。

 

ゲーテは若い頃に、ある程度まで薔薇十字の源泉に達し、最高の秘儀の幾つ

かを伝授されたというのです。ただ、ゲーテの秘儀参入については誤解が

あるとしています。

 

ゲーテがライプツィヒ時代の終わりに死に瀕したという外面的な事実として

知られていることですが、彼の魂はある体験に深くとらえられます。重症の

床の中で、ゲーテは重大な体験、一種の秘儀を体験したというのです。彼は、

最初、この秘儀体験に気がつかなかったが、この体験は一種の詩的な潮流と

してゲーテの魂の中で活動し、この潮流が彼のさまざまな作品の中で見事な

形で流れ込んでいったのです。そのような秘儀の光が彼の周囲がゲーテの作品

のうちで最も深いものと呼んだ未完の長篇詩「秘密」の中に見出すことが

できるとしています。

 

しかし、当時の文化の潮流は、この詩の中に脈打つ生命の非常な深みに外的

な形を与えるだけの力をまだ有しておらず、ゲーテはこの作品を完成させる

ことができなかったということです。

 

その後、ゲーテはこの秘儀を意識化し、ついに偉大な散文詩「百合姫と緑蛇

の童話」を書くのですが、シュタイナーは、この散文詩は世界文学の中でも

最も意味深い作品の一つであり、この作品を正しく解釈できれば、薔薇十字

的叡智について多くを知ることができると述べています。

 

しかしながら、当時、薔薇十字の叡智が一般的な文化の中に流れ込んだと

いうことは、薔薇十字的な叡智に対するある種の裏切りが行われたという

ことにもなるとシュタイナーはいいます。

 

この秘密の叡智の公教的な形での公開という裏切りと、西洋文化が19世紀

には物質界において秘教の影響を受けてはならないという必要性があった

結果、薔薇十字の源泉、とりわけ薔薇十字会の創設以来、常に物質界に

存在し続けてきたクリスチャン・ローゼンクロイツは外面的には姿を隠す

ことになり、今日(20世紀)になって再び薔薇十字の叡智の源泉を解明

することが可能になったのだと述べています。

 

さて、シュタイナーは、薔薇十字的叡智の特徴とその社会的使命をよく表し

ている二つの重要な事柄があると言っています。

 

一つは、薔薇十字の叡智のさまざまな立場の人々に対する関わり方で、それ

はキリスト教的グノーシスの霊智の秘教的形態とは異なるものであるとして

います。

 

まず、高次の霊的能力、つまり、霊視霊聴能力を発達させることなしに、

高次の世界の霊的真実を直接見出すことはできないという意味で、霊的真実

の発見には霊視力という前提が不可欠であるが、霊的真実の概念としての

薔薇十字の叡智は通常一般の論理的悟性によって理解できるといいます。

 

また、薔薇十字的な師と弟子の関係は、東洋における弟子と「師(グル)」

の関係とは本質的に異なるもので、権威に対する信仰とは異なるとして

います。師は霊的体験の範を示し、弟子をそのような体験を導く友であり、

助言者であると述べています。

 

もう一つは、霊的叡智の一般的な精神生活に関する関係で、薔薇十字の叡智

は、単に理論的に価値ある体系を打ち建てるのではなく、現代の知の根底を

認識しようとし、霊的真理を日常生活に流入させようするときに必要なもの

を提供するとしています。

 

つまり、脚を折った人が道に倒れているところを通りかかったとして、多数

の人々が骨折した人を取り囲んで温かい感情と同情を抱いたとしても、その

中の一人も骨折を治療する術を知らなかったら、この多くの人々は、感情

豊かでなくとも骨折を治療できる一人の人に本質的に劣る、というのが、

薔薇十字会員の精神なのだと述べています。

 

ところで、シュタイナーは、最後まで、自分の導師(マイスター)の名を

明かさなかったようですが、導師たちは、40歳になるまで、オカルト的

領域で指導的立場に立たぬよう忠告をしていたということです。

 

シュタイナーは、著書「神智学」の付録1の中で、導師たちについて、

わずかですが次のように触れています。

 

「導師との出会いは即座に生じたものではなく、最初は或る人物が彼から

送られてきた。この人は、一切の植物に薬効に詳しく、植物だけでなく、

自然界全般と人間との関連の神秘にも通じていた。彼にとって、自然霊と

交わるのは自明なことであり、それを当然のことのように話題にしたので、

ますます私の驚嘆を呼び起こした。」

 

「その頃、私は自分の背後のオカルト的諸存在の要求と一致して、自分に

対して次のようにいえるようになった。― お前は世界観に哲学的基礎づけ

を与えた。・・・このオカルティストは時代の哲学的、自然科学的成果も

知らないで、霊界のことをこのように語るのだ、とはもう誰もいえない

筈だ。・・・私はすでに40歳に達していた。」

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
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いま仏陀は何をしているのか-シュタイナーの仏教論2­-




ルカ福音書講義
神体霊魂イエス下 




シュタイナーによると、紀元前6世紀、肉体をまとい地上に降りた仏陀は、

その目的を達し、「これが最後の受肉だ。もう受肉することはない」と言う


ことができたという。


 


しかし、それは仏陀のような存在が地球から完全に手を引くということでは


なく、物質体に受肉することはないが、アストラル体やエーテル体をまとって、


世界に働きかけるのだそうです。


 


仏陀は、以前の何度もの受肉において、菩薩という非常に高い進化段階に達し


ていた。身体に受肉してはいるが、神的-霊的存在たちと交流し、高次の世界


から人間に伝えるべきものを受け取る存在が菩薩である。釈迦は、仏陀になる


前は菩薩であった。菩薩のような存在は、地球進化のはるかな過去に、ある


決った使命を高次の世界から受け取り、その任務を果たしていくとシュタイ


ナーは述べています。


 


菩薩は、ただ一度完全に人間のなかに受肉する。そして、そのあと、菩薩は


再び霊的な世界に退く。仏陀になったあと、菩薩存在は、地球から霊的な高み


へと退き、そこに滞在して人類を導くのだそうです。


 


シュタイナーによると、仏陀になった存在は、三つに体を区別できると


いうことです。


 


まず、仏陀になる前、菩薩として高みから働きかけているときの身体で、仏陀


の働きに必要なものすべてを含んでいない身体である。仏陀がこのような身体


の中にいるあいだ、この身体を「法身」という。つぎに、仏陀が受肉して形成


し、まとっている身体で、この身体の中で、仏陀がみずからの内に有するすべて


が物質体において表現されている。この身体を「成就体・報身」という。さらに、


仏陀が涅槃を通過したのちにまとった身体で、この身体が「応身」といい、地上


に働きかけることができるとしています。


 


「ルカ福音書」にあるように、仏陀の応身は、野宿をしていた羊飼いたちに、


イエスの誕生を告げる天使群の姿で現れた。仏陀は応身のなかで輝き、羊飼い


たちに、みずから開示したという。


 


そして、仏陀の応身のなかに存在するものが、霊感として洗礼者ヨハネの個我


のなかで働いた。羊飼いたちにイエスの誕生を告げ、ナタン系のイエスの上に


あって輝いていた仏陀の応身が、洗礼者ヨハネに力を与えた。洗礼者ヨハネ


の説教は最初、仏陀の説法の再現であったという。


 


さらに、イエスが12歳のとき、ソロモン系のイエスのなかに受肉したゾロ


アスターは、新たなる任務のためにソロモン系のイエスを離れ、ナタン系の


イエスのなかに移行した。ゾロアスターの個我がナタン系のイエスと結び


ついたとき、仏陀の応身は、分離したアストラル的な母胎と結合する。ゾロ


アスターの成熟した個我-心魂は、仏陀の応身がナタン系イエスの脱ぎ捨て


たアストラル的な「母胎」を受け取ることによって得たものと合一できた。


ナザレのイエスのなかに、仏陀の若々しい応身によって輝かされ、霊化され


たゾロアスターの個我を見ることができる。仏教とゾロアスター教は合流し、


ナザレのイエスのなかに生きたのであるとシュタイナーは述べています。


 


このように、地上の肉体のなかに受肉する必要のなくなった仏陀は、地球


から離れていき、精神界(霊的世界)から地上に作用を及ぼすことになるが、


それに代わる新しい菩薩がやってきて地上で活動するという。それが弥勒


菩薩である。仏陀の後継者の弥勒が仏になる時期は正確に決められている


という。仏陀が菩提樹の下で悟りを開いてから5千年後、現在から3千年


後に、世界は弥勒仏の受肉を体験することになるということです。


 


なお、宇宙と地球に関係する菩薩は12人いて共同体を形成している。


釈迦もそのひとりであった。そして、その中心にいて、12人の菩薩に


叡智を流し込む13番目の存在をキリストと呼ぶというのだそうです。


 


さて、精神界(霊的世界)における仏陀の任務はどのようなものでしょう


か?高い叡智の力を永久に人々の心のなかに燃え立たせるという任務だ


そうです。世界を貫くこの流れが仏陀の流れであり、それは概念化された


形で現代にも流れているようです。


 


それでは、仏陀は、具体的に、いまどこで何をしているのでしょうか?


シュタイナーによると、仏陀の活動の場は、今日の天文学が火星と呼んで


いる惑星に見出されるという。仏陀は、1604年に火星におもむき、


キリストが地球上でゴルゴダの秘儀を成就したように、火星上で特別の


秘儀を成就することになったのだそうです。


 


仏陀の教えは死者たちに特別の価値をもっており、火星を浄化するために、


仏陀のおしえをもたらすことが必要だったという。17世紀に、平和の王子


である仏陀は戦争と闘争の星である火星におもむき、火星上の好戦的で凶暴な


死者たちに、解脱の教えを浸透させることになったということです。


 


もし、仏陀が地球領域で活動を続けていたら、仏教的もしくはフランシスコ


会的な僧を作り出すことしかできず、ほかの魂は物質文化に没頭することに


なったであろうと、シュタイナーは述べています。


 


かくして、シュタイナーによると、平和と愛の最大の君主、地上における慈悲の


担い手が火星に移されて、火星進化全体の頂点に働きかけている。心魂的、精神的


(霊的)な性質のものであるが、好戦的な力の渦巻く火星上で、仏陀は「磔刑」に


なった。涅槃の師、再受肉への衝動から魂を解放する偉大な師は、神々の計画に


したがって、地上ではなく、生死のかなたで活動を続けているということです。


 


ところで、前回も紹介した水波一郎氏は、シャカ、すなわち仏陀について、シュタ


イナーとは異なる見解を、その著書「神体」および「霊魂イエス」(下巻)のなかで


次のように述べています。


 


「キリストとは、物質の世界にいながらも、神霊としての身体である「神体」を


持った偉大な魂である。」(キリストとは称号であり、シャカもイエスもその


キリストの一人である。)かつて、「人類が救い主を求めた時、神々は決意された。


物質の世界において自由を奪われ、不幸の中で泣き叫ぶ哀れな人類のために、


6名の神霊を上級霊界へ落とされたのである。この6名は神々であられた。


しかし、それを放棄された。人間の自由と幸福のために、いつか必ず救いを


得られるようにと、6名の神霊は自分自身を退化させられたのであった。


この6名こそが、高級霊魂が言うキリストなのである。」


 


「その神霊が霊的生命体進化の法則を無視して、霊魂として退化することは、


不変の神の法則を打ち破る事であった。したがって、キリストとは、不幸に


苦しみ人間のために、至上の神に反抗し、自らを低下させ、苦悩を背負い、


結局、人間に無視された神霊なのである。」「彼らはある時はルシファーと


呼ばれ、ある時は「シバー」と呼ばれ、また、ある時は「スサノオ」と


呼ばれた。」「キリストはいつか、神々の世界へ戻る存在である。しかし、


キリストはまだ霊魂として活動している。」と。


 


そして、また、次のようにも述べています。


 


「シャカもイエスと同様、霊質界における霊魂としての最終段階ともいえる


修行を行っていたのである。その時、シャカは霊質界の最上部へと足を進めた。


そこには、真に高貴な霊魂達がいらっしゃる。そこへ上ったシャカは、一人座り、


神霊に祈った。」「少し時が流れた。」「神霊の光がシャカに直接流れ入った。


これにより、彼は今まで以上に高貴な魂となった。」


 


「シャカもイエスと同じように、死後、上層幽界を経て、上級霊界へと上がり、


そこでの様々な修行を終え、やはり、下層幽界の霊魂の指導、物質界の人間の


指導を終えて、仏教系霊魂団の長となるに至ったのである。当初は、仏教と、


仏教国中心の指導であった。しかし、彼も神霊より指示があり、イエス同様、


世界全体を指導する霊魂団の組織に加わっていた。彼もイエスと同様の使命を


持っていたのである。」と。












 



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シュタイナーの仏教論-真実の仏陀-


シュタイナー仏教論集


シュタイナーによると、「ルカ福音書」には、仏教的な世界観が、それも独特な

形で、つまり、素朴で簡素な感情に理解できる形で流れ込んでいるという。

 

本来、偉大な仏陀の教えとして現れたものは、ある程度まで理念の高み、霊の

純粋なエーテルの高みにまで上昇した者にのみ理解可能な世界観であり、その

理解には本格的な準備、修行が必要であるが、「ルカ福音書」には、霊的実質

が感情に特定の方法で作用できるように含まれていて、仏教の霊的結晶が、

紀元前6世紀にインドで人類に贈られたときよりも、もっと高められたかたち

で流れて出てくるというのです。

 

さて、シュタイナーによると、紀元前6世紀ごろ、東洋には、まなざしを

あまり外的、感覚的なものに向けない人々がとどまったため、仏教のような

教えが必要となり、仏陀は宇宙進化のこの時点に出現しなければならなかった

という。仏陀は人々の魂のなかに、前時代の霊的世界への憧憬を目覚めさせる

ために、人々が物質界へ下ることになった原因である渇望について教えを説いた。

つまり、魂が霊的世界への傾向を持ちながらも、もはや霊的世界に参入する能力

を失った時代に、仏陀は教えを説いたということです。

 

仏陀は、「生まれた人間を見よ。人間は微細身(エーテル体)とともに、前世

から蓄えてきたものをもたらす。微細身のなかに、前世から蓄えてきたものが

書き込まれている」と言ったという。それは、生命への欲望、存在への渇き、

存在への欲望として、人間を現世に引き入れる力を持っている。それは、

前世から、ひとつの傾向、力として人間のなかに存在するもので、この力を

仏陀の弟子たちは「行」と名づけたということです。

 

そして、その「行」から一個の内的思考器官を形成し、そこから発生した

思考実質は、いまの人間から、いまの個体、すなわち<名色>を形成する

というのです。

 

つまりは、「人間が霊視力を持ち、物質存在の背後の世界を見ていた太古の

時代、人間たちはその世界をすべて同じものと見た。しかし、無知が世界

の上に闇として広がったとき、他者と区別される個々の性向がもたらされた。

そして人間を、心魂の様々な形態ともなった存在にした。個々人は、他者と

自分を区別する決った名称、<我慢>をもったのである」ということです。

 

さらに、人間の内面で、前世からたずさえてきた、個体性を形成する名称

と形態の働きの下に作られるものが、人間のなかで内面からマナス(意)

と5つの感覚器官、いわゆる六根を形成する。六根が形成されたことに

よって、下界との接触が生じ、接触によって感受が生じ、そして、感受

によって下界への付着が生じた。下界への付着を求めることによって、

苦痛・苦悩・心痛・憂慮が発生したということです。

 

現在の人間存在の核を体験した仏陀は、その体験のすべてをベナレスに

おける説法でまとめ、この説法から、仏陀としての活動が始まります。

 

シュタイナーによると、仏陀は、「太古の知は消え去った。人間はもはや、

エーテル体の器官を使用できない。しかし、新しい知を有することができる。

外的な器官が外的な物質界のなかで観察するものを助けとして、アストラル

体が最も深い力をとおして人間に与えることのできるもののなかに沈潜する

ことによって、その知を人間は自分のものにできる。」「人間の知らないものが

前世から残されていることが、世界における苦の原因である。人間が前世から

有していたものが、世界についての無知の原因になっている。それが人間に

とって苦悩、苦痛、憂慮の原因である。しかし、アストラル体のなかにある

力を知り、そのなかに進入すると、以前あったものとは関係ない、固有の知を

自分のものにすることができる」とし、このような「知」というものを、かの

「八正道」をとおして人々に伝えようとしたということです。

 

八正道とは、いうまでもなく、正見(しょうけん)、正思惟(しょうしゆい)、

正語(しょうご)、正行(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進

(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう)の八つ

の徳を言いますが、仏陀は、この八正道を考慮することによって、次第に

存在への渇きが消え、過ぎ去った人生からやってきて心魂を奴隷にするもの

すべてから自由になると信奉者に語ったというのです。

 

かくして、シュタイナーは、「菩提樹の下で、かたよった苦行を捨てた29歳

の仏陀は、7日間の考察ののちに偉大な真理を見出す。その真理は、人間が

静かで内的な沈潜のなかで、いまの人間の能力が与えうるものを見出そうと

努めたときに現れるものである。四諦という偉大な教え、八正道という

慈悲と愛の教えが現れた。その教えが、インドの菩薩が菩提樹の下で仏陀

となったときに現れた。そのとき、慈悲と愛の教えが人間自身の能力として

人類のなかに現れたのである。そのとき以来、人間はみずから慈悲と愛の

教えを発展させることができるようになったと述べています。

 

ところで、仏陀は、「我(霊魂)および世界は常住であるか、あるいは無常で

あるか? 我および世界は有限であるか、あるいは実無限であるか?身体と

霊魂とは一つであるか、あるいは別にものであるか?完全な人格者は死後に

生存するか、あるいは生存しないか?」という問いを発せられたとき、答え

なかったということから、霊魂の存在、あるいは、死後の世界、霊的な世界

を認めなかったかのように言われています。

 

それからみると、シュタイナーのいう仏陀論は非常に突飛なもののように

思われるかもしれません。

 

そこで、水波霊魂学を主張する水波一郎氏の真実の仏陀に対する見解を

紹介しておきたいと思います。

 

水波一郎氏は、著書「神体-偉大なる魂の生涯-」の中で、仏陀について

次のように述べています。

 

歴史はインドに、あるキリスト(固有名詞ではなく、偉大な神人の称号)を

誕生させた。その魂は今、高級霊界で『シャカ』と呼ばれる仏陀である。

シャカは真理を説くために自らを犠牲にした。自己を落とすことにより

世界を照らそうとしたのである。それは仏教ではなく真実の道であった。

 

シャカが十五歳の時、一人の女性が彼を見て言った。「私が前に信じた先生

に似ている。」そして、彼が三十歳になった時、その女性はこう言った。

「貴方はなぜ神を知らないと言うのです。貴方の教えは間違っています。

貴方は嘘をついています。私は貴方を知っています。ある時、貴方が私の

夢の中で確かにおっしゃいました。『私は神である。』と。

 

そして、こうも言われました。『私はあなた方に本当の神を教えるために

降りて来た。しかし、人々は受け入れない。私は真実を説くことはない

だろう。しかし、貴方にだけは教える。別の神が地上に降りた時、私は

別の世界から人々を導こうとするだろう。』こう言われて貴方は消えました。

私にだけは話してください。貴方の本当の教えを。」

 

その時、シャカは答えた。「それは私ではない。私は人間だ。私は人間と

して真実の道を説いている。私は神を知らない。私は人間であるから

奇跡を知らない。神を求めるなら自分で見つけなさい。私は神を示すため

ではなく、人間を示すために来たのである。

 

この国は貧しい人が多い。飢えた人達にとって、本当の道は神を知ること

ではない。それはただ依存者を増やすだけである。およそ人間は神を

知ることなどできない。至上の存在は、魂にとって、法則そのものとも

言い得るからだ。人間は神より先に法則を知らねばならない。より大切で、

より身近な法則、それを知ることがこの国における人間の道である。私は

神を知らない。だから神を説かない。そして神に祈らない。私は人間を語る

のみである。貴方に伝える。人間にとって神は私ではなく、『法』である。

 

彼女は不満げに立ち去った。しかし、シャカは彼女に満足であった。彼女が

シャカに神を見たからである。」

 

我々には、仏陀の本当の姿は分かりません。しかし、仏陀が我々の想像を

はるかに越えた偉大な存在だったということだけは確かだと思います。


 
 
 
 
 

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「悪について」2 -ルツィフェルとアーリマン-







ルシファー







シュタイナーによると、悪とは、個人という生命体にとっても、社会という

生命体にとっても、そこに秩序と調和が支配しているとき、その秩序と調和を

否定し破壊する力、もしくは衝動なのだということです。

 

しかし、もし秩序と調和だけが支配していたら、存在が生命体として生きて

いる限り、停滞し、自己満足に陥り、さらなる進化を遂げることができないし、

生命存在にとって、そのような停滞は腐敗に通じるということになります。

 

よって、破壊する力もしくは衝動がなければならないのですが、シュタイナーは、

この破壊する力もしくは衝動が両極的な在り方をしていると考え、その一方を

ルツィフェル的、もう一方をアーリマン的と呼んでいます。

 

この宇宙的作用力をもっぱら否定的にみるのではなく、その作用力をふまえて、

人生の秤の均衡を保つこと、つまり均衡を保つ力を自分で用意して、悪に対し

てバランスをとることが大切であり、悪そのものを否定しようとすると、

自分の中の大切な力そのものを否定することになってしまうと述べています。

 

そこで、まず、アーリマンについて、アーリマンとは、物質界にとって必要な

破壊の力、死の力だとしています。死は、物質界の中では必要な、必然的な在り

ようをしており、もしも「死と消滅」が物質界になかったら、生きものは地上に

充ちあふれて収拾がつかなくなってしまうのであり、死を霊界から合法則的に

コントロールする使命をアーリマンが果たしているというのです。

 

つまり、アーリマンの本来の領域は、鉱物界で、鉱物界は死の世界ですが、その

鉱物界の法則は、鉱物界だけでなく、植物界、動物界、人間界まで及んでおり、

地上に存在しているものすべて鉱物界の死の法則の下にあるということであり、

鉱物界のアーリマンは、悪ではないということになります。

 

しかし、アーリマンは、その本来の領分を越えて、人間の思考に作用を及ぼす

ことがあるとしています。

 

アーリマンが自分の分野を踏み越えてしまう時とは、思考をいつかは消滅せざる

を得ない脳から引きはがして、思考を独立させようとするときであり、感覚世界

に向けられている思考を身体の一部分である脳から引き離そうとするそうです。

感覚世界と結びついた人間は、もちろん、霊的本性たちの作用をただかすかに

感じとることしかできませんから、アーリマンに胸ぐらをつかまえられている

人間たちは、偉大な宇宙秩序に組み入れられている状態から思考を引き離したい

という衝動を感じ、唯物主義的な気分を生みだすのだと述べています。

 

そして、霊界の存在を認めようとしない人たちは、アーリマンに憑依されている

ということであり、このようにして人はどうしようもなく唯物論者になって

しまい、霊界のことなど何も知ろうとしなくなるだとしています。

 

アーリマンからすれば、人間の思考を脳という思考の肉体上の土台から切り離す

ことに成功することによって、この思考を通して、物質界の中に唯物主義という

影と図式を持ち込み、その影と図式を使って、アーリマンの特別の領域を確保し

ようとするようです。

 

しかし、ここで、ただ単純に自分の魂からアーリマン的な衝動を排除しようと

すると、難しい問題が生じてくるようです。つまり、アーリマン的な力に従うのを

恐れるあまり、感覚世界に依存することがないように、感覚世界に関心をもつこと

を一切否定しようとするなら、今度はルツィフェル的衝動に陥ることになるという

のです。

 

それは間違った禁欲であり、そういう間違った禁欲こそが不当なルツィフェル的

衝動から逃れられなくしてしまうとしています。

 

シュタイナーは、外界に認める感覚的なものの働きを霊的であると呼び、人間の

内面に働く主観的な働きを魂的と呼んでいますが、アーリマンは、この意味では、

より霊的な存在であり、ルツィフェルは、より魂的な存在だと述べています。

 

さて、その、ルツィフェルにも、人間を、そしてこの世の一切の魂を感覚的、

物質的な営みから切り離すという、正当な使命があるとしています。

 

ルツィフェルは、魂を高揚させて、感覚世界の提供するものとは別の何かを

魂が体験し、実感し、そしてそのことを喜べるようにしてくれているという

ことです。

 

つまり、芸術活動、哲学上の営為など、感覚世界を超えた一切の創造行為は、

ルツィフェルの正当な行為、正当な働きのおかげだということです。

 

しかし、ルツィフェルもまたみずからの領分を逸脱することがあり、感情を、

つまり、激情、情熱、衝動、欲望を汚染してしまうというのです。

 

ルツィフェルは、物質的、感覚的な世界の中の魂の感情の働きを取り上げ、

それを特別のルツィフェルの領分に持ち込み、この領分をみずからの本性に

似た孤立した国として建設するとしています。

 

かくして、ルツィフェルは、あらゆる機会に魂の働き、感情の働きを感覚的な

世界から切り離して独立させ、自己中心的な働きにしようとしていますから、

魂の働き、感情の働きの中には、わがまま、頑固さのような要素が現れて

くるということです。

 

シュタイナーは、霊界のために愛を働かせるためには、特に自分自身の内的な力、

自己実現の衝動を強くしなければならないとしていますが、この霊界において

自分を崇高なところへ導いてくれる衝動を否定、或いは無視すると、それが境界

の反対側に移行し、感覚世界の中で倒錯した衝動、官能的な衝動となって現れる

と述べています。

 

シュタイナーによると、霊的に人類の歴史生活を考察すると、ルツィフェル的、

アーリマン的という二つの力による二つの対立方向に影響されており、この二つ

の間の均衡をとろうと努力してきたが、その後、二つの衝動は交代で優位を占め、

近世の初頭からは、アーリマン的な時代が支配しているようです。

 

とにもかくにも、絶対的な悪など存在しないのであり、人間は、ルツィフェル的、

アーリマン的という二種類の力の間に可能な限りの均衡状態を生じさせること

によって、より高次な存在段階へ進化していく可能性が与えられているとして

しています。

 

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ジャンル : 心と身体

シュタイナー 「悪について」

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悪について
 

本書で、ルドルフ・シュタイナーは、「人類のもっとも古い問いの一つである

悪の問題」をとり上げています。

 

まず、人類の歴史をひもとくとき、悪の問題がいつも深い思索家にとって大切な

問題であったとして、悪に対する思索の例をいくつか提示しています。

 

その中で、とりわけ、目につくのは、西洋で主流であるキリスト教的な悪に対する

考え方で、「本来の悪はまったく存在しない。悪は否定であるにすぎない。善は

積極的なものである。しかし、人間は弱さゆえに、善を実行することができない。」

という古代のキリスト教の神学者アウグスティヌスの思想をあげ、現在でも依然と

して同じ答えがなされているとしています。シュタイナーは、これでは、悪に

対して、何も語ったことにはならないと述べています。

 

また、それとは異なる立場として、3世紀の新プラトン派のプロティノスの思想

を紹介していますが、プロティノスは、人間は霊と物質体とから合成された存在

であり、物質の特質とも結びついており、その物質の特性ははじめから霊の活動を

妨害している。さらに、人生における悪の起源は、まさに霊が物質の中に沈潜する

ことの中にあると主張したということです。

 

ところで、興味深いことですが、ここでシュタイナーは、日本の陽明学者中江藤樹

の思想に触れて、「17世紀の前半に生きた東洋のこの思想家の立場は、プロティノス

以来の、新プラトン派の悪の起源についての思想、つまり、物質にとらわれた人間の

状態が悪の始まりである、という思想にとても近いのです。」と述べています。

 

このほかにも、いくつかの例をあげていますが、以上のような答え方では、十分

納得できないとして、シュタイナー自身の主張を展開してゆきます。

 

シュタイナーは、今、新しい認識段階を目の前にしているとして、単なる感覚的、

物質的な世界とは異なる、超感覚的世界を認識する能力の存在を主張しています。

霊的探求の道を歩むことによって、「悪」というものの本質がわかるとして

います。

 

なぜなら、「私たちは、身体から抜け出た霊的、魂的なもと共に霊界に参入する

瞬間に、自分の人生の不完全さをいやというほど思い知らされるのですから。

自分の不完全な人生を、まるですい星が尾を引きずっているように、引きずって

いかなければならないのだ、と悟るのです。」と述べています。

 

霊界参入の出発点は、自分の不完全さと悪とを経験し、認識し苦悩することだ

として、そこから見えてくる人間悪の根本原因は、人間の自己主義にあるのだと

主張しています。

 

「悪の本当の意味は、人間の自己主義と結びつけて考えるとき、はじめて見えて

きます。そして、自分の中の悪と、不完全さと戦い、それを克服する可能性は、

自分の中の自己主義をどう克服するかの一点にかかっているのです。」と述べて

います。

 

しかし、これが結論かというと、シュタイナーは、その背後に非常に難しい問題、

大きな矛盾が横たわっていると言います。

 

なぜなら、霊界における魂は、逆に、自分の中に内在している能力のすべてを

自己の中から取り出して活用しなければならないため、私たちの自我を強化し、

力強いあり方をしなければならないと言うのです。

 

このような物質界と霊界との矛盾についてシュタイナーは「本当に気が重くなって

しまいます。」としながらも、「霊的に進歩するということは、自分の中で何かを

禁止することではなく、むしろそれを生かさなければならないのです。・・・霊的

な義務とは、・・人間にとっては進化することです。しかし、霊的進化にとって

義務であるべき事柄が直接物質生活に適用されると悪になってしまうのです。」

と述べ、また、「霊的な存在とし必要としていたもの、霊的に大切だったものが、

物質界に持ち込まれると、その高貴な、すぐれた霊的性質が、この世の物質界に

おいては、もっとも深刻な仕方で道を踏み誤らせてしまうことさえあるのです。」

と述べ、そして、「物質世界の中でお前を悪人にする能力を、物質生活の中で

働かせてはならない。なぜなら、そういう能力を働かせれば働かせるほど、お前は

魂に霊的な力を与える機会をのがすことになるのだから。」という叡智を持た

なければならないと主張しています。

 

かくして、「悪の起源をこういう仕方で語ることは、たぶん、多くの人には通用

しないだろう」と思うとしながらも、古今の思想家が悪の起源の前で立ち止まって

しまったのは、悪そのものが、物質界だけでなく霊界の存在をも想定する必要性を

示唆しているにもかかわらず、彼らの認識能力が霊界の存在を認めようとしない

ところにあるからであると結論づけています。

 

最後に、19世紀においては、唯物主義は、もっともすぐれた魂を途方もなく

強力な力でとりこにしたとして、ペシミスト(厭世主義者)として現れざるを

えなかった思想家フィリップ・マインレンダーの苦悩を紹介ながら、20世紀は、

唯物主義の時代と霊性の時代の境目であり、未来の霊的な時代に向かって生きて

いかなければならないとして、ゲーテの「ファウスト」の「感覚の光の中に留ま

るかぎり 魂の謎は解明できない 人生の秘密を知ろうとするなら 霊の高みに

向かって努力しなければならない」という言葉を引用して結んでいます。

 

以上、なかなか理解しがたいところもありますが、この物質界と霊的世界の大き

な矛盾、法則の違いということについては、大いに考えさせられるところです。

また、唯物主義に押しつぶされて、感覚と悟性の示すものしか認めることが

できないという状況は、そのまま現代の状況でもあり、何としても霊性の回復、

向上に向かっていきたいものだと思います。


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