プラトンの宇宙論2-デミウルゴスとは何か?-



デミウルゴス

 

デミウルゴスとは、本来、ギリシャ語で「職人」や「匠」という意味だった

ということですが、プラトンによって宇宙の造り主、製作者たる神という特別

な意味を賦与されたということです。

 

しかし、語り手ティマイオスは、「万有の作り主であり父である存在を見出す

ことは、困難な仕事でもあり、また、見出したとしても、これを皆の人に語る

のは不可能なことです。」と述べ、その内実について深く追及することは断念

されているように思われます。

 

そこでのちに、デミウルゴスを文字通りの造り主として受け取るのか、それ

とも自然学的原因を神話的枠組みで描いた象徴的表現と見なすのか、さらに、

ティマイオス』で語られる宇宙の生成を字義通り受けとめるのか、それとも

神話的表現と見なすのかについて、活発な論争が巻き起こったようです。

 

さて、ティマイオスは、宇宙の生成の原因、原理について、次のように語って

います。「それでは、生成する事物すべてと、この宇宙万有との構築者が、

いったいどのような原因によって、これを構築したかということを話し

ましょう。構築者はすぐれた善きものでした。ところが、およそ善きもの

には、何事についても、どんな場合にも、物惜しみする嫉妬心は少しも起こら

ないものです。そこで、このような嫉妬心とは無縁でしたから、構築者は、

すべてのものができるだけ構築者自身に似たものになることを望んだのでした。

まさに、これこそ、生成界と宇宙との最も決定的な始めだとすることを、賢者

たちから受け入れるなら、それが一番正当な受け入れ方でしょう。」

 

つまり、神は善であり、ただ善いことのみの原因であるとして、「神は妬む

もの」という当時の一般的な神観を否定しています。ここで、宇宙の構築者が

善きものであり、宇宙をできるだけ善きものになるように制作したということ

が生成と宇宙の原理として立てられます。

 

ここから、プラトンの語る神、デミウルゴスは、ユダヤ・キリスト教のような

万物を無から創造する全能の神ではないことが導かれます。無形のものに形を

与える神、無秩序のであったものに秩序を与える神であり、感覚世界の「必然」

の抵抗にあうが、「必然」を説得してできるかぎりより良い世界にする神的存在

であるということです。

 

また、宇宙の根本的性格について、「理性(ヌース)は魂(プシュケ)を離れ

て何ものにも宿ることはできない。(・・・)この宇宙は、神々が先々への配慮

によって、真実、魂(プシュケ)を備え理性(ヌース)を備えた生きものと

して生まれたのである」と述べていますが、プラトンは、物質を第一の原理と

する物質主義的機械論は明確に否定し、魂(プシュケ)を自然世界の第一の

原理に据えているようです。

 

そして、また、デミウルゴスが、「神々よ、私がその造り主となった神々、私が

その父となった作物は、私によって生じたものであるから、私の意志なしには

解体されえない。まことに、結ばれたものはすべてまた解かれる。(・・・)

しかし、あなた方は、解体を受けることも、死の定めに会うことも決してない

であろう。」と宣言した言葉には、デミウルゴスの位相と宇宙の誕生後も、

宇宙や世界霊魂とは異なる何らかの仕方で宇宙の秩序に関わることが暗示され

ているように思われます。

 

しかしながら、デミウルゴスが生成するものの唯一の原因ではなく、また、「場

」やイデアをつくったわけではなく、崇拝の対象ともなっていないことから、

それを神ではなく神話的シンボルだとみなす考えがあるようです。

 

さらに、近代以降、宇宙の根本である理性(ヌース)や魂(プシュケ)の原理は

排除され、「神」の観念は次第に放棄されて、偶然によって自然世界が成立した

とする機械論的自然観が支配してきたように思いますが、果たしてプラトンの

宇宙論の復権はあるのでしょうか。魂は、神は、復活するのでしょうか。

 

瀬口昌久氏は、宇宙の造り手とは何かで、「現代宇宙論のなかから、宇宙の

解明には人間の存在自体を本質的な属性と考える「人間原理」のような方法論

や思想が登場してきたことは、(・・・)プラトンがヌースとプシューケーを基

礎とした自然観を対峙させた思想とその意義が、現代の科学社会に再びリアリ

ティをもってよみがえってきている証とも言えるのではないだろうか。」と

述べています。

 

そして、瀬口氏は、「法律では、星や月の運行や年月や季節の移ろい

について、魂がそれらの原因であることが明らかになったことを受けて

「しかも、それらはあらゆる徳をそなえた善い魂なのであるから、これら

の魂は神であると、私たちは言うことになるでしょう」と宣言されている。

ティマイオス』において宇宙と世界霊魂を造った卓越したヌースをもつ

もの(プシューケー)が、「神」と呼ばれるのはこのような意味と文脈の

延長線においてであろう。それゆえに、デーミウールゴスは、単なる神話的

表現ではなく、プラトンの宇宙とコスモロジーのなかに神々として存在する。」

と結論づけています。


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「ティマイオス」-プラトンの宇宙論-



プラトン彫像 




この書は、この宇宙が造り主、製作者たる、デミウルゴスによって、秩序ある

善きものとして製作された、そのプロセスを描いた作品ということになります。

 

西洋において、プラトンのものとしては、古代から中世にかけて最も影響力の

あった作品であったようであり、当時の新しい自然観形成の大きな原動力と

なったということです。

 

プラトン晩年の作品のようで本書と「クリティアス」、「ヘルモクラテス」の

3部作として構想されたようですが、この構想は「クリティアス」の途中で

未完に終わりました。

 

本書の宇宙論の語り手ティマイオスは、作中のソクラテスの言葉によると、

ロクリスの人で、財産、家柄でも第一級、政治面でも重鎮、学問の上でも

「全体の頂上をきわめた人」と言われ、特に天文学に通じていて、宇宙、

自然の研究に携わってきた人といわれていますが、その宇宙論は、種山恭子

(「ティマイオス解説」)によると、「パルメニデスと同様の立場を大原則と

しながら、自然の事物を構成するものとして、火・空気・水・土の四種の

物体を想定している点や、粒子説のよる医学・生理学においては、エンペ

ドクレスの影響が明らかなように思われ、しかしまた、エンペドクレスと

は異なり、火・空気など四種の物体の粒子に幾何学的な正多面体の形を与え

ている点や、その他自然の事物のあらゆるところに数的比率に従った秩序を

見ようとする点は、ピュタゴラス派の伝統に立つもののように思われるので

ある。」と述べています。

 

さて、語り手ティマイオスは、「わたしの考えでは、まず第一に次のような

区別を立てなければなりません。つまり、常にあるもの、生成ということを

しないものは何なのか。また、常に生成していて、あるということの決して

ないものとは何のか、ということです。」と述べ、「常にあるもの、生成しな

いもの」=「理性の対象」と「常に生成していて、あるということのない

もの」=「感覚の対象」の区別から始めます。

 

そして、「もしこの宇宙が立派なものであり、製作者(デミウルゴス)が

すぐれた善きものであるなら、この製作者が永遠のものに注目したのは明ら

かです。(・・・)というのは、宇宙は、およそ生成した事物のうちの最も

立派なものであり、宇宙は、言論と知性(理性)によって把握され同一を

保つところのものに倣って、製作されたわけなのです。ところで、以上の

ような事情があるとすれば、この宇宙が何らかのものの似像であることも、

これまた大いに必然的なことです。」と述べています。

 

つまりは、デミウルゴスは、一方で永遠なるイデアの世界(理性の対象)

を眺め、他方にたえず流動し続ける「形なきもの」(感覚の対象)を見て、

イデアを手本に「形なきもの」に形を与え、この宇宙を造ったということ

になります。

 

製作者は善きものであったから、すべてのものができるだけ製作者自身に

よく似たものになることを望んでということですが、では、その善いと

いう宇宙の秩序は、どういう形で実現されているのでしょうか。

 

ごく簡単に記すと次のようになります。

 

<宇宙は「理性」を賦与されるが、「理性」は魂を離れては何ものにも

宿りえないので、魂が宇宙に与えられた。>

 

<宇宙は完結した統一体である。つまり、宇宙は一つである。>

 

<物体的な宇宙を構成する四種の物体、火・空気・水・土は、数学的な

比例を通じて結合される。>

 

<宇宙の形体は球形である。>

 

<宇宙の魂は、「有」(存在)と「同」(同一性)と「異」(差異性)から

構成され、比率に従って区分されている。>

 

<生成物としての宇宙は永遠存在ではないが、一のうちに静止している

永遠を写して、数に即して動きながら永遠らしさを保つ。その似像と

して「時間」が作られた。>

 

<宇宙は、天の種族、空中を飛翔する鳥の種族、水棲族、陸棲の歩行する

種族という四種の生きもので満たさなければならない。>

 

<永遠存在ではない神々(天体)も神(製作者)によって不死を約束される

が、四種の生きもののうち、天の種族以外の「死すべき定めの種族」の製作

は、その神々に委ねられる。しかし、人間の魂のうちで理性の部分は、不死

なる部分として、まさしく神によって製作され、宇宙の魂と同種のものと

して製作された。>

 

<神(製作者)は魂のうちの不死なる部分を構成したのち、まず、それらを

星(恒星)と同じ数に分割し、それぞれの魂を星に乗せる。どんな人間の

魂も、その本性は神によって製作された神聖なものであり、星を故郷とする

ものであるが、地上での身体的な生に伴って必然的に生じる、感覚的な激動

や、快楽を伴う情欲などを克服するかどうかによって、死後、天上の生が

約束されるか、他の劣った生きものに生まれ変わって再び地上に縛りつけ

られるかが決まる。>

 

<不死なる魂が身体(頭)に結びつけられる。人間の魂は、宇宙の魂と同様、

「同」の円と「異」の円から構成されているが、身体に植えつけられて間も

ない頃は、それらの円は捩じ曲げられ、「同じ」ものを「異なる」と呼ん

だり、「異なる」ものを「同じ」と呼んだりするという愚かなものになる。

しかし、やがて成長とともに、魂の循環運動は正され、正しい判断をする

ようになる。>

 

このように、この宇宙論は、できるだけ「理性の対象」に注目しながら、

この宇宙の構造を探るという形で進められていきますが、これがどのように

視覚的・映像的な感覚界へ投射されているのかという問題が生じてきます。

 

そこで、それを説明するために、「生成するもの」と「生成するものの

モデル」を関係づける根源的な素材のようなもの、すべてを受け入れる

「受容器」のようなもの、つまり、「場」というものが登場します。

 

この「場」というものは、プラトンによると、それが延長体であるかぎり、

言論(ロゴス)によって把握される非延長的な理性の対象とは区別され、

「まがいの推理」によってしか捉えられないものだとしています。ただし、

ここに、「延長体」たる場が母胎となって、すべての感覚対象も、その場

の一部分を占めているかぎり、三次元的なひろがりを持つという点で共通

したものであると捉えられています。

 

そして、感覚的諸性質・力が「場」を満たしているという図式で、感覚界が分析

されたのち、延長体としての共通性を持ち、同じ一つの母胎たる「場」にあら

われる点で共通しているところの感覚的事物は、さらに幾何学的形体の粒子の

形を与えられることによって処理されていきます。

 

そして、さらに、本書の目的が、「人間の本性」を自然世界の中に位置づける

ためであったということですから、どのようにして合目的的な身体が構成された

かについて語られていくわけですが、結論として、身体と魂との均衡が重要で

あるとして、魂の訓練と、身体の訓練の両方の必要性を説き、これらを教導する

主体である「魂」に養分と動きを与えることが大事であるとしています。

 

最後に、人間以外の生きものの誕生が語られ、これで天体から水棲動物にいたる

までのあらゆる生きもので宇宙は満たされることになるとして、この宇宙論は終

わっています。

 

では、デミウルゴスとは、いったい何なのか、文字どおり、造り主の神なのか、

それとも、自然的原因を神話的な枠組みで描いたものなのか、等々については、

次回に述べたいと思います。

 



 

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アトランティス物語2-史実か?虚構か?-





アトランティス1


 


プラトンがアトランティスをどのような位相で語ったのかについての解釈は、


大きく分けると、史実説と虚構説に分けられるようです。


 


まず、史実説についてですが、大西洋上にあって海底に沈んだとすると、何か


残存物が残っていなければなりません。大西洋には、今日のアイスランドから


南大西洋にかけての中央海嶺に隆起した山脈が確認されているようですが、


地殻変動のよる土地の隆起や沈降は、その速度がきわめて遅いため、かつて


大西洋にアトランティスのような陸地があって、それが沈んだことの証明には


ならないということです。


 


そこで、1960年代に、大西洋ではなく、地中海域に生じた同様な文明崩壊


と重ね合わせることができないかということで、クレタ島のミノア文明崩壊が


クローズアップされたことがあるようです。


 


紀元前15世紀に火山の噴火によってクレタのテラ島の古代都市が沈没し、


それを期にクレタ文明が消失したようですが、クレタの海洋王国には、いくつ


かの宮殿が分散したかたちで建設されていて、島が管区に分けられ、王の家族


によって統治されていたようで、これは、アトランティスの王国も島全体が


10に分割され、ポセイドンの神の子孫らに領地として与えられたという


記述とよく似ているということです。


 


したがって、このアトランティスはクレタ島にあったという仮説を支持する


者は少なからずいるようですが、ソロンがギリシャ本土から近いクレタ島に


栄えたミノア文明について知らず、これをアトランティス物語として語った


というのはとても信じ難く、結局、決定的な証拠を示すことができなかった


ようです。


 


そうだとすると、これは史実ではなく虚構ではないかという解釈が出て


きます。


 


どうも、アトランティスをめぐる資料は、古代にいくつかあるが、それらは


いずれもプラトンに遡り、プラトン以前に古代の史家による言及がまったく


ないようで、この話が唯一の源とすると、虚構の可能性が出てきます。


 


プラトンの対話編について最初の注釈を書いたクラントルは、純然たる歴史


と見なしたが、アリストテレスは、むしろこの話を虚偽のものと考えていたと


されており、プラトン以後の著作家の言及を見ると、これを史実とするものと、


虚構だとするものが相半ばしているということです。


 


もし虚構だとしても、単なる荒唐無稽な話ではないとすると、それは、どの


ようなアレゴリー(寓意)として読まれるべきものなのでしょうか。


 


ちなみに、新プラトン派の解釈は、そのほとんどが、古アテナイとアトラン


ティスの戦いを、魂と悪しきダイモン等、宇宙において対峙する二つの勢力


の争いとして説明がなされたということです。


 


現代においては、まず、比較的以前の解釈者たちは、アテナイとアトラン


ティスの戦いを、アテナイを中心とするギリシャ軍とペルシャとの戦争を


物語風に翻案したものだと考えていたようです。


 


言葉だけについていうと、「アトランティス」という名称はすでにヘロドトス


に出ており、プラトンがヘロドトスからいくつかのヒントを得て、ここから


架空の物語を創作したというのです。


 


しかし、これにはいくつかの難点があるようです。


 


まず、物語では、古アテナイには港がなく、むしろ、戦闘では陸上戦に秀で


ていたとされるのに対して、ペルシャ戦争当時のアテナイはすでに海軍大国


であったということです。


 


また、プラトンが古アテナイの栄光を語るのに、なぜアトランティスだけで


なく古アテナイをも破滅させたのかという問題にうまく答えられていないと


いうのです。


 


よって、現代では、フランスの構造主義者の中でも影響力のあるヴィダル=ナケ


という学者の次のような解釈が有力視されているようです。


 


彼によると、この物語は古アテナイとアトランティスとをアテナ(およびパイス


トス)とポセイドンの間の争いを表現するものとし、この二神の戦いは、神話の


伝統形式に沿ったものであるが、さらに、それはまた「土」=アテナイと「水」


=アトランティスの対立によっても表されているというのです。


 


このことについて、国方栄二氏はプラトンのミュートス』の中で、「このよう


に二つの対立的な構造を見るヴィダル=ナケの解釈は、プラトンの記述の細部に


象徴的な意味を読み込もうとする大胆な、しかも非常に興味深い試みである。


これによれば、アテナイとアトランティスは、結局プラトンが理想とする陸上


国家と彼が非難してはばからない海洋国家とを、ミュートス風に体現したもの


となるだろう。そうすると、重すぎる富の蓄財に耐えかねてアトランティスの


王たちが堕落していくあり様はペルシャではなく、むしろプラトンが幼少の頃


からいやが上でも体験していた、当時のアテナイの国情に似ていると考えること


ができる。(・・・)つまり、アテナイとアトランティスとの「二都物語」は、


プラトンがかつて国家』においてもっとも理想的な国家として構想したものが、


実際に歴史上存在したとされる「古アテナイ」と、蓄財され富によって膨張し


破滅の道をたどった海洋国家「現アテナイ」とを象徴的に描いたものである-


これがヴィダル=ナケの解釈で、現在のところ古典学者の間でもっとも支持され


ているものであるということができるだろう。」と述べています。


 


ただし、この解釈にも難点があるということです。


 


国方氏は、いくつかの不満点を述べたあと、「もともとこの物語は、ソクラテス


が前日に離した「思想国家論」が、話(ミュートス)だけのものでなく、現実に


動くところを見たいという要請を受けて語られたものである。もしもその話が


虚構、すなわち現実に何らの対応をもたない架空の話だとすると、それはソクラ


テスの期待を裏切ることになるのではないかという疑問が生じる。」として、


虚構説そのものに対する疑問を展開しています。


 


そして、クリティアスが、この話が作り事ではなく真実の出来事を語るものだ


と断言していることなども示して、「もしもアトランティス物語について回答を


求められるならば、われわれは一応これをリテラルに、つまり史実として読む


べきだと思う。つまり、古アテナイとアトランティスとの戦争を、作者プラ


トンが語るままに、そのまま受け入れるのが基本的に正しい読み方であると


考える。」と述べています。


 


もっとも、プラトンの関心はアトランティスではなく、ひとえにアテナイ史に


あり、現アテナイが歩むべき道と将来の指針を明らかにすることがプラトンの


意図であったということです。


 


さて、皆さんは、どうお考えになるでしょうか。






 
 

 

指導霊
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魂の不死について-パイドン-

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パイドン 


「パイドン」は、プラトンの対話編のひとつで、死刑宣告を受けたソクラテスが

刑に服し、毒をあおって死ぬ、まさにその日に行われたソクラテスと弟子たちの

魂の不死をめぐる対話、問答の有り様をプラトンの視点で描いたものです。

 

対話編の名前となったパイドンとは、ソクラテスに最後まで付き従った弟子の

名前です。その他、この対話編に登場するのは、エケクラテスというピタゴラス

派の哲学者、シミアスとケベスというピタゴラス派の影響を受けたとされる

も、のちにソクラテスの弟子となった者等ですが、このシミアスとケベスと

ソクラテスの問答が中心になります。

 

最初、ソクラテスは、死に対する態度について次のように語ります。

 

「死とは、魂の肉体からの分離に他ならないのではないか。すなわち、一方では、

肉体が魂から分離されてそれ自身となり、他方では、魂が肉体から分離されて、

それ自身単独に存在していること、これが死んでいるということではないか。」

 

「哲学者は他の人とは際立って異なり、できるだけ魂を肉体との交わりから解放

する者であることは、明らかだね。」

 

「もしわれわれがそもそも何かを純粋に知ろうとするならば、肉体から離れて、

魂そのものによって事柄そのものを見なければならない、ということである。

その時こそ、思うに、われわれが熱望しているもの、われわれそれの求愛者で

あると自称しているもの、すなわち知恵がわれわれのものになるだろう。」

 

「魂の解放をつねに望んでいるのは、特に、いや、ただ、正しくは哲学している

人々だけなのである。そして、哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離する

ことである。そうではないか。」「それなら、本当に、シミアス、正しく哲学して

いる人々は死ぬことの練習をしているのだ。」

 

「節制も正義も勇気も、これらすべての情念からのある種の浄化(カタルシス)

なのであり、知恵そのものはこの浄化を遂行するある種の秘儀ではなかろうか。

そして、われわれに浄めの儀式を定めてくれたかの人々も、恐らくは、つまら

ぬ人々ではないようだ。じっさい、かれら大昔から謎めいた言い方でこういって

いるらしい。秘儀も受けず浄よめられもせずにハデスの国に到る者は、泥のなか

に横たわるだろう。」と。

 

ここには、「正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。」

というようなピタゴラス派的な、極端に禁欲的なソクラテス像が描かれて

いますが、ソクラテスが単なる禁欲主義者ではなかったことは、心にとめて

おかなければならないと思います。

 

さて、これに対して、魂は肉体から離れると煙のように飛散消滅するのでは

ないかというケベスが反論しますが、ここから霊魂不滅の証明が始まります。

 

そこで、ソクラテスは、霊魂不滅の証明を試みるわけですが、まず、最初に、

なにか反対のものがあるかぎりのものにおいては、その一方は反対である

他方からしか生じないという生成の循環的構造による証明法によって、生

から死へ、死から生へ循環の必然性を証明しようとします。

 

次に、ものごとを想起するには、人々のうちにあらかじめ知識や正しい説明

が内在していなかったら、それは不可能である、さらに、もしわれわれの魂が

この人間の形の中に入る前に、どこかで存在しており、すでに学んでしまって

いなかったら不可能であるという、想起説による証明を試み、最終証明として、

「イデア論」による証明で締めくくります。

 

「イデア」とは、「まさに正義であって、それ以外のなにものでもないもの」だ

ということです。美についても、善についても、等しさについても同様で、この

世界に存在する個々の具体的な正しいことや美しいことは、いずれも不正や醜さ

やの入り混じった不完全な正義や美であるのだが、これらの不完全な正義や美が

ともかくも正義や美であるのは、正義のイデアや美のイデアを分有することに

よってであるということになります。

 

ただし、プラトンは、このような仮説を立てる根拠については説明していません。

「イデア」が実在するという思想は、議論の余地のない前提としてソクラテスの

グループによって受け入れられていたようです。

 

ともかく、ソクラテス(プラトン)は、イデア論を展開するなか、ある性格(イデ

ア、形相)は、それと反対の性格を受け入れない、むしろ、反対の性格が近づいて

くると、それは滅びるか退却するという論理を導き出し、「不死なるものについて

また次のように言うのが必然ではないか。もし、不死なるものが不滅でもあるなら

ば、死が魂に近づくとき、魂が滅びることは不可能である。なぜなら、すでに

述べられたところからして、魂が死を受け入れたり死んでしまったりすることは

ないだろうからだ。」述べ、最後に、「神とか、生の形相そのものとか、その他

何か不死なものがあるとすれば、それが決して滅亡しないことは、万人の同意

するところだろう。」「では、不死なるものは不滅でもあるかあらには、魂は不死

であるならば、不滅でもあるのではないか」「すると、ケベスよ」「魂が不死で

あり不滅であることは疑問の余地がなく、われわれの魂は本当にハデス(冥界)

において存在することになるだろう」と結論づけています。

 

以上の証明の方法は、現代人にはなかなか納得しにくいところがありますが、

ソクラテスは、良い神々のもとへ赴くという良い希望をもって死んでいったの

であり、プラトンは、その希望をイデア論による霊魂不滅の証明により何とか

理論化しようとしたのではないかと思われます。(ソクラテス自身は、死後の

生について、ピタゴラス派の信仰に希望を抱いていたことが伺われますが、

理論的には、不可知論の立場をとっていたようです。)

 

しかし、イデア論はなお根拠づけを必要とする仮説として提出されているところ

から、プラトンがこの証明に絶対の確信を持っていなかったとされています。

 

シミアスも、霊魂不滅の証明のあとも、「しかし、言論がかかわってきた事柄の

大きさのために、また、人間の弱さを低く評価せざるをえないために、僕として

は語られたことについてなお不安を抱かざるをえないのだ」と疑問を投げかけて

います。

 

そこで、論証ではなく、死後の裁きとあの世の物語というミュートス(神話)で

さらに補完しようとします。ミュートスは、問答法的な議論にある論理的な強制

力はありませんが、代わりにそれは人々を心から心服させることができるから

です。

 

プラトンのミュートスは、多くの非事実と若干の真実を含むが、純然たるフィク

ションではなく、別の高次な真理に一致すべきものとして、つねに代替可能な

物語だとされています。

 

かくして、生きている間のわれわれ自身にそっくりであるが、影のような、煙の

ような、実在性の希薄な亡霊で、ものを見分ける力さえない無力な存在にすぎ

ないという従来のホメロス的な霊魂観を否定して、プラトンは、何としても、

肉体との分離後、生き延びた魂が存在を持続し、生前以上の力と知力と自己

同一性を保持し続けることを示そうとしたのだと思います。


霊魂不滅の証明は、不可能のように思われますが、霊魂不存在の証明も

不可能だと思います。プラトンは、今なお、我々にこの難問に立ち向か

うことを促しているように思います。




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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ソクラテスと神託-神(ダイモン)の声-

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ソクラテスの弁明 

プラトンの「ソクラテスの弁明」は、「ソクラテスは罪を犯すものである、

彼は青年を腐敗せしめかつ国家の信ずる神々を信じずして他の新しき神霊

(ダイモニア)を信ずるが故に。」 つまり、ソクラテスは、自らつくった

新しい神を信仰し、国家の神々を冒涜し、また、若者たちに悪しきことを教

えて、堕落させたとして告発されますが、それに対して、それは全く不当で

あること、ソクラテスが実際は深く神を敬愛する真に宗教的な人であり、また、

青年を向上せしめたことを示すとともに、彼が法廷においていかなる精神を

もって、また、いかなる態度でもって自ら弁明したかを描いたものです。

 

さて、自らつくった新しい神を信仰し、国家の神々を冒涜したとはどういうこと

でしょうか? そして、それは果たして事実だったのでしょうか?

 

ソクラテスは次のようなことを言っています。私の身の上に、実に不思議なこと

が起こったのである。すなわち私の聴き慣れた(神の声の)予言的警告は、私の

生涯を通じて今に至るまで常に幾度も幾度も聞こえて来て、特に私が何か曲がった

ことをしようする時には、それがきわめて些細な事柄であっても、いつも私を諌止

する』と。

 

どうも、ソクラテスは、幼少の頃から、特異な能力を持ち、不可思議な体験をして

きたようです。重大な局面で、神的かつ超自然的な存在、つまり、神霊(ダイモン)

から天啓を受けてきたと主張しているわけですが、それは、ソクラテス自身が神託

を神から直接受けるということであり、一般のアテナイ人の慣習、掟からは認めら

れないことのため、このことが、まず、人々の敵意と憎悪を募らせることになった

のではないかと思われます。

 

もっとも、ソクラテスは、決して国家の神々、たとえば、デルフォイの神託を軽

んじてきたわけではなく、むしろ、重んじてきたとさえ言えます。(ただし、民衆

の伝統的信仰に対しては、それが道徳的に不純なものは容赦なく批判したようで

すが。)

 

たとえば、『私は充分信頼すべき一人の証人の言葉を諸君に伝えようとしている

のである。すなわち、私の知恵に関する-もしそれが実際知恵といえるものなら

ば-またその性質に関する証人として私はデルフォイの神を立てる。』と述べて

います。

 

しかしながら、そのデルフォイの神託の内容そのものが、一方で、ソクラテスの

賢者としての評判を高めたものの、他方で、かえって多くの敵を作ることになり

激しい誹謗を受けることになったようなのです。

 

あるとき、デルフォイの神に、ソクラテスの弟子で友人のカイレフォンが、ソク

ラテス以上の賢者が存在するかという伺いを立てたところ、デルフォイの巫女から

「ソフォクレスは賢い、エウリピデスはさらに賢い、しかし、ソクラテスは万人の

中で最も賢い。」との託宣があったというのです。

 

ソクラテスは、そこで、その神託を聞いたとき、私は自問したのであった。神は

一体、何を意味し、また何事を暗示するのであろうか、と。私が大事においても

小事おいても賢明でないことは、よく自覚しているところであるから。して見ると、

一体どういう意味なのであろうか、神が私を至賢であるというのは。けだし、神に

はもちろん虚言のはずがない、それは神の本質に反するからである。』と思い悩み

ます。

 

そこで、ソクラテスは、神託そのものが間違っているのではないかを確認するため

に、つまり、己が至賢でないことを示すために、彼をしのぐと思わる賢者の世評

ある人々を訪ね歩き、対話・問答を重ねるわけですが、結局、何も知らないのに

「知っていると思っている」人ばかりがいることを見出し、真の知者はいないが

「知らないということを知っている」、いわゆる「無知の知」という点でわずか

に自分がそれらの人々より賢いと結論に到ります。

 

しかし、それが、また、周囲のえせ賢者やその信奉者たちの恨みを買う原因に

なってしまうことになってしまったようです。

 

かくして、ソクラテスは、保守主義者・復古主義者とも、民主主義者とも異なる

孤高の存在であるために、双方からうとまれる結果になり、あげくは、ソフィスト

まがいの不信心者、無神論者、危険思想の教師として裁かれることになってしま

いました。

 

裁判において、告発の不当性を正々堂々と主張したソクラテスですが、最終的に

不当にも死刑の判決を受けことになります。しかし、今回の裁判に対する己の立

ち振る舞いに対して神からの予言的警告は一切なかったとして、よって、死は

一種の幸福であるとの希望を胸に、全く死を恐れることなく、平然として死後の

世界へ赴いたようです。

 

以上のことから考えますと、ここから浮かび上がるソクラテス像とは、通常、

世に言われているような理性(ロゴス)の権化のようなイメージとはかなり

異なります。真理の探究者であることは間違いないにしても、単なる理性の

人ではなく、熱烈なる理性信奉者であると同時に宗教的神秘家であったという

ことになります。

 

はたして、ソクラテスとは、宗教学者の鎌田東二氏がいうような、シャーマン

であり、かつ審神者であり、同時に、脱シャーマン・脱審神者の道を歩むよう

な存在、つまり、超感覚的・直観的知と悟性的理性的知との統合をめざす偉大

な求道者であったのでしょうか?



 
 
 
 
 
 
 
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