「対称性人類学」を読む2-仏教の可能性-

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対称性人類学2 

中沢氏は、仏教こそが、対称性の思考という原初の知性形態、つまり流動的知性


に磨きをかけて、それを完成形にまで発達させようと試みてきた、ほかに類例の


ない倫理思想であるとしてします。


 


よって、まず、対称性の論理の極限まで展開された思考の例として、「金剛般若


経」という大乗仏典を引用しながら、菩薩の布施(ほどこし)に焦点を当て


ています。


 


この経典の中でブッダが語ろうとしたのは、布施は純粋贈与の行為でなければ


ならない。そこに少しでも「私は何かをこの人に贈与している」といった思い


が混入すると非対称性の原理で動く経済行為である交換の環の内部に落ちて


しまう。布施は、純粋贈与として、そういう交換の環に落ちてはならない。


贈り物を通して「贈る者」と「贈られる者」の区別や分離がまったく発生


しない状況、つまり完全な対称性の状況の中でだけ、純粋贈与は可能になる。


菩薩はそのような対称性の思考の「理想」を体現するものでなければならない


のだということです。


 


中沢氏は、私たちのような「凡夫」に、ここでブッダが要求しているような


純粋贈与の行為を現実に行うことはまず不可能であるとしながらも、贈与の


「理想=イデアル」を現実世界の中に持ち込むことによって、人類に新しい


生きる指針を提出している点で、大乗仏教のおこなった思考と実践はまったく


画期的なことであると述べています。


 


また、仏教の無意識の捉え方について、「フロイトの見出だした無意識は、


自己と他者の区別を行いません。また、個体性の認識を行いません。個体は


それを包み込むより大きな実在の中に発生した、ささやかな「結び目」のような


ものにすぎない、と無意識は語るのです。興味深いことに、仏教が同じことを


主張するのです。いや、同じというのは正確な言い方ではありません。仏教は


無意識が「無意識的」に語っていることを、ひとつの哲学的真理であり、実践


のめざすべき認識と生き方の目標として、指し示そうとしています。」と述べて


います。


 


つまり、フロイトをはじめとする精神分析学が無意識に対して、無意識こそが


妄想の源泉であり、ふるさとであると考えてきたのに対して、仏教の思想的伝統


では、そこで言われている無意識こそが、自己への執着を捨てさえすれば、


正しい認識である「悟り」の湧き出す源泉であると教えているというのです。


 


そして、大国家がつぎつぎと地球上に出現することによって、野生の思考が


保ち続けてきた、対称性の思考と、非対称性の現実思考とのバイロジック


(複論理)的な結合体が破壊されてしまう、まさに、その時代に、仏教が


登場してきた意義について、「仏教が挑戦したのは、すでに国家というもの


が発生して、自然と人間との間にバランスをつくりだしていた対称性=


非対称性のバイロジックな均衡が破壊されてしまった後の世界に、失われた


ものよりもさらに高度な均衡を生みだすための道を探求することでした。


(・・・)人間の「心」の組成の中で、「無意識」として抑圧されている


その流動的知性を全面に引き出して、そこに内蔵されている可能性を思う


さま限界もなく発達させてみることの中から、現生人類である人間に新しい


道を開いてみせることこそ、仏教という巨大な思想運動のめざしたことの


ように、私には思われてしかたありません。」と述べています。


 


そして、さらに、禅仏教でいう無心は流動的知性と同じものあり、無意識に


対する原初的抑圧を重視する一神教の宗教とは異なり、仏教は、無意識の働き


を発達させようとするものであり、もう、それは宗教ではない、としたあと、


まだ、手つかずのまま残されている問題、流動的知性はそれ自身としてどんな


論理で作動しているのか、「空」の内部構造はどうなっているのかという問題に


ついて、「華厳経」を手がかりに踏み込んでゆきます。


 


中沢氏は、「華厳経」の一部を紹介しながら、「「華厳経」という書物には、


さかんに「無限」という表現が出てきます。このことは、対称性の論理で


作動する無意識が無限集合の特徴をそなえている、という現代の精神医学


の発見ともよく対応していますし、じっさいそこに語られていることの


内容を現代的に読み直してみると、仏教の思想家たちが「心」という


ものを無限集合として理解していたことがはっきりわかります。」と述べ


ています。


 


そして、「華厳経」では、現実世界で、われわれのまわりに無限に広がって


いる宇宙、そういう無限の広がりを持つ宇宙をまるごと包み込んで、そこに


荘厳な輝きを与えているものを「法界」と呼んでいますが、この「法界」を


「完成された無意識」というふうに理解すると流動的知性である無意識は、


現実の宇宙の無限の広がりよりも、ずっと広く、深く、きめ細かな、一ランク


上の無限集合であるとしているということです。


 


また、仏教では、知性の働きには「粗大知性」と「微細知性」の働きが


あると言いますが、流動的知性は、このうち微細知性をあらわし、言語と


一体となって意識の働きを生み出す知性のほうを粗大知性に分類すると、


粗大知性はしばしば自分のことを全体的真理であるという、思い上がった


慢心を抱きがちであるが、「華厳経」は微細知性の生み出す微細権力を


もって、粗大知性のつくりだした粗大権力を粉々に打ち砕くことができる


と述べているとしています。


 


さらに、もう一つ、重要なこととして、仏教の個体というものについての

徹底的な
思考の展開をあげています。


 


精神分析学が夢や分裂症の中に見出した対象性の論理では、個体というものは


存在していませんが、仏教は、私たちひとりひとりが宇宙の中でかけがえのない


たったひとつの個体であることの認識から出発しながら、反転して、この個体と


いうものを対称性の思考の中に投げ込むことによって非対称性と対称性の共存


として発達してきた野生の思考の知恵をできるだけ完全なかたちまで発達させ


ようと試みてきたとしています。


 


そして、そのことを最初に意識的に表現してみせたのが「華厳経」であると


しながら、その巧みな解説として、次の井筒俊彦の文章を引用しています。


 


「すべてのものが無「自性(そのものとしての本質)」で、それら相互の間に


は「自性」的差異がないのに、しかもそれらが個々別々であるということは、


すべてのものが全体的関連においてのみ存在しているということ。つまり、


存在は相互関連そのものなのです。根源的に無「自性」である一切の事物の


存在は、相互関連的でしかあり得ない。関連あるいは関係といっても、たんに


AとBとの関係というような個物間の関係のことではありません。すべてと


すべてが関連し合う、そういう全体的関連性の網が先ずあって、その関係的


全体構造のなかで、はじめてAはAであり、BはBであり、AとBとは個別


に関係し合うということが起こるのです。」


 


中沢氏は、「ここから自由についての新しい思想が生まれてきます。ものに


は自性がない、というあり方によって、全体的な関連の中で初めて個体性は


発生可能なのです。そのとき、すべてのものが、流動的知性だけが「見る」


ことのできるエネルギーの渦巻く「空」のなかで、個体としての存在を輝かす


ことになります。」と述べています。


 


かくして、仏教は、無意識という「心」の原初的基体を、ひとつの完成体に


まで発達させて、その無意識を動かしている「別の論理」を全体的真理の認識


まで高めようとしているのではないかと主張しています。


 


さて、すべてをモノとして扱い、夢やビジョン、そして神話や宗教さえも商品


(交換価値)としてしまう、この究極の資本主義社会において、仏教は、そこに


大きな風穴をあけることができるのでしょうか。また、「無意識」というものの


真実を究極まで明らかにすることができるのでしょうか。そして、そこに潜む


自己への執着というようなネガティブなものを捨て去るということが果たして


可能なのでしょうか。






 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「対称性人類学」を読む-神話、無意識、仏教-

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対称性人類学

以前、中沢新一氏の「神の発明」を紹介しましたが、そこでは、今から

3~4万年前に出現した現生人類の脳に革命的な変化が起こり、脳内部の

違う領域の知識を横につないでいく新しい通路が作られ、そこをそれまで

見たこともなかった「流動的知性」が高速度で流れだし、そこから、比喩的

な思考が可能となり、神話的、宗教的思考が発生できる条件が脳の中で

整ったということが述べられていました。

 

本書では、その「流動的知性」を受けて、いわゆる神話的思考というものは、

部分と全体、自己と他者、人と動物、死者と生者、この世とあの世等の区別が

なく、過去-現在-未来という時系列にとらわれていませんが、それは、

脱領域性、高次元性、対称性などの特徴を持っている「流動的知性」が、

「心」の基体として作動したことによるものであり、それは「流動的知性」

の持つ対称性の論理に従ったものであったとしています。

 

そして、神話的思考、すなわち「野生の思考」は、消滅することなく、今なお、

私たち「心」に作動し続けていると言うのです。

 

それは、近代以降、「無意識」と呼ばれるものとして、不変の構造を保ち続け

ており、かつて、神話的思考を生み出してきたものは、芸術、哲学、科学的

創造、経済生活などにおいて、いぜんとして大きな働きをおこなっている

と言います。

 

しかし、現実の今の社会では、とりわけ科学の分野では、徹底して非対称性の

論理を使ってすべてが進行しており、ものごとをきちんと分離したうえで論理

の文法にしたがって結びつけるというやり方で、間違いのない推論や証明が

行われています。

 

したがって、人間の心は、対称性の原理と非対称性の原理という二つの原理で

動いているということです。

 

つまり、自己と非自己を区別しない、自己と他のあらゆる人間は同じ一つの

ものであるというような対称性や部分と全体の一致といった無意識レベルの

ふるまいと密接に結びついた心の存在様式と、物事を諸部分に分割し、全体を

不均質なものとするほうにばかり関心がいくという非対称性の論理と堅く

結びあった心の存在様式とが同時作用を行う「バイロジック(複論理)」と

して成立しており、そのために、ものごとを分割し不均質にする現実的な

非対称的思考が働いているときも、その底にはいつも対称的思考が通奏低音

のように流れながら相互に影響を及ぼし合っていると述べています。

 

ところで、宗教史の分野に目を向けると、流動的知性=対称性無意識の発生

と同時に、精霊はヒトの心の中で活動を始めたとされていますが、精霊の仲間

たちの中から他を圧する一神教の神が出現することによって、つまり、人間と

の間に圧倒的な非対称の関係を打ち立てる神を持つ、新しい宗教が生まれ

ることによって、対称的無意識は抑圧されてしまったということです。

 

流動的知性を無意識として抑圧したうえで、その上に記号的表現でできた世界が

つくられるというのが一神教的な西欧社会であり、文化だということになります。

 

しかし、一神教の出現は、現生人類の「心」の構造に何の変化も起こさなかった

し、ましてや、「心」の進化などまったく起こっていないと断言しながら、中沢氏

は、「たしかに近代に入ってからは一神教の一形態であるキリスト教の影響力が、
惑星的な規模で圧倒的になってしまいましたので、一神教こそが人類の霊性の発達
の最終的なまた最高の形態であるというような間違った考えがのさばってきました。
しかし、強いものが正義であるとは限りません。ましてや強いからといってそれが
霊性の最高形態であることなどは、まずありえないことです。(・・・)一神教や、
一神教と結合した資本主義にたいして、私たちは今日、精霊の主張する対称性の
思考の側に立った、誇り高い立場から批判的解明を試みるべきです。」と主張して
います。

 

そして、その手だてを、「ここまで伝統が破壊されてしまった社会に生きている私

たちには、もうそれほど有効な精神的資産は残されていないと覚悟していなければ

ならないでしょう。仏教はそういう私たちに残された、数少ない精神的資産なの

です。」と仏教(大乗仏教)に求めていきます。

 

もう、「野生の思考」だけではこの事態には対処できず、対称性の思考がはらんで

いる思想的な可能性をとことんまで展開し、それをちょっとやそっとでは壊されない

堅固な哲学の体系にまで鍛え上げておいてくれた仏教の力を借りなければならない

としています。

 

神話的思考と仏教との同質性について、中沢氏は、山羊の屠殺を目の前にして

瞑想するという自分の体験をもとに「自ら動物を殺すことを否定する仏教が、

狩猟民とは違うやり方で、対称性の論理を発動させている様子を、はっきりと

見届けたのです。神話の時間の中では、人間と動物を区別している隔たりが消滅

するために、そこでは動物がしゃべり、人間が動物と結婚することも自在です。

仏教では、それと同じタイプの思考を「時間」の軸に投影して、展開しようと

しています。こんどは不変の「心連続体」が、人間と動物をつなぐ同質性になり

ます。この「心連続体」が輪廻転生をくりかえすうちに、ありとあらゆる生命の

姿をとって現象することになるわけですから、遠い過去のどこかの地点で、いま

目の前にいる動物が自分の母親や姉妹であったことがあっても、少しの不思議で

はないでしょう。仏教はこのようにして、神話的思考が空間軸で展開している

思想を、時間軸に投影して展開しているのだ、と考えることができます。」と

述べています。

 

ここから、動物たちに対して、自然に対して、人間の「倫理的」なふるまいが

生まれてくることになりますが、それは対称性の論理、つまり、「ふつうでは

ない論理」から倫理の思考が生まれてくるとも言えます。

 

一方、科学を支える合理的な思考から「道徳」が発生してくるとすると、どの

ような道徳も、狩猟民たちが何万年ものあいだ続けてきた「ふつうでない論理」

から生まれた倫理を支持することはないと言えます

 

中沢氏は、「対称性の思考にもとづく新しい「倫理学」を、私たちは創造しな

ければならないのでしょうか。」と問いかけつつ、「私たちの先祖は、かつて

そのような倫理をよく知り、それにしたがって自然の一部である自分たちの

ささやかな領分を守って、生きる努力を重ねてきました。自分だけの利益を

図ったり、功利的な目的を追求しようとするたびに、対称性の思考による倫理が

ストップをかけてきました。(・・・)倫理による命令は、つねに「部分と全体

が一致する」という対称性の論理にしたがおうとします。そのために、こうした

倫理は合理化することができません。しかし、合理化不能な倫理によって、地球

上の生態系のバランスは保たれてきたのです。私たちが今日、人類の知性して

つくりださなければならないものは、このような倫理なのではないでしょうか。」

と主張しています。

 

まだ、もう少し続くのですが、冗長になりますので、いったん中断し、次回と

したいと思います。

 


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森のバロック-三つのエコロジー-

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森のバロック 
 



博物学や植物学、民俗学では近代日本の先駆的存在といわれる異才南方熊楠が、

長い海外生活の後、日本に帰って、孤独な森の隠遁生活に入り、市井生活に

戻って社会と対面したときに遭遇したのが、神社を一町村一社にするという

神社合祀令であったが、熊楠は、それに対して敢然と論陣を張り、反対運動

を展開していったとされています。

 

このことによって、熊楠は、現代の自然保護運動の先駆者のようにも言われ

ていますが、その内実は一体どのようなものだったのでしょうか。

 

中沢新一氏は、彼はほんとうにエコロジストだったのだろうか。エコロジー

には、「よいエコロジー」と「わるいエコロジー」がある。私たちは、ひょっと

して、「よいエコロジー」としての熊楠の思想と行動を、誤って「悪いエコロ

ジー」につながる道に導くような、口あたりのいい理解に閉じ込めてしまおう

としてきたのではないか。私たちは、もう一度、神社合祀に反対する熊楠の

思想の、奥底にまでたどりつく努力をおこなってみる必要があるのだ。

述べています。

 

さて、熊楠は「神社合併反対意見」のなかで、敬神思想を損なう、人民の

融和を妨げ、自治機関の運用を妨げる 地方を衰微させる、庶民の慰安を

奪い、人情を薄くし、風俗を乱す 愛郷心、愛国心を損じる 土地の

治安と利益に大害あり 景勝史跡と古伝を隠滅する ⑧天然風景と天然

記念物を滅亡する、の8項目をあげて議論を展開しています。

 

結果的には、彼の必死の運動はある程度の実りはあったようで、のちの神社

合祀令は廃令に追い込まれますが、その過程でも、神社の合祀は進み、廃社

された神社の森は伐採され、一方、残った神社も人工的な施設と化し、森

そのものが神社であったはずが、神社のまわりに生命力を衰弱させた森が

残るだけという有り様になったということです。

 

元来、自然の森が、日本人の自然感覚と宗教思想の形成にとって、きわめて

重要な働きをしてきたといわれています。とくにそれは、神社の聖域に守ら

れた鬱蒼たる森の存在をとおして、日本人の宗教的な意識に絶大な影響を

及ぼしてきたようです。

 

中沢氏は、次のように述べています。「神社というものが、古い日本語では、

神のヤシロとか、神のモリと呼ばれていた」「ヤシロというのは、儀礼を執り

おこなうために、仮にしつらえたられた設備のことをさしている。つまり、

それはいま見るような社殿ではなく、祭りにあたって神を迎えるための聖所

だったのである」「もっといえば、神社自体がもともとは、神の鎮まる森その

ものを、さしていたのである」「だから、神社に社殿をつくる必要がなかった」

「日本人の宗教感覚のこういう側面を、ここでは仮に原神道と名づけること

にしよう。原神道は森の宗教だった」と。

 

もっとも、熊楠が反対運動に立ち上がった動機は、神社合祀令によって、

彼が大切にしていた貴重な森の動植物の生態がとりかえしのつかない破壊を

こうむろうとしていたからだということです。

 

それは「ナチュラリストの自然への偏愛に発する、エゴイスティックな動機

から出発したといえるかもしれない。しかし、彼は、運動の展開の中で、

反対運動の論理を成長させ、ナチュラリストの狭い視野をはるかにのりこえ

て、前代未聞の深まりをもったエコロジー思想を展開させることに成功した

のである。」と中沢氏は述べています。

 

なぜなら、熊楠のエコロジー思想には、単なる「生態のエコロジー」に

とどまらず、そこに「社会のエコロジー」と、「精神のエコロジー」の側面

が結合されているからであると言うのです。

 

まず、「社会のエコロジー」ともいうべき側面として、熊楠は、私たちが空

にむかって伸び、花を咲かせ、身を結ぶためには、どこかに根をはって土の

中から生い立つ草木のようでなければならないと考えていたようです。

 

そして、かつて「家郷」と言われた民俗的な共同社会に、落ちつきと相互の

思いやりと倫理観や謙虚さや、さらに奥ゆかしさをもった、人間にとっての

望ましい世界の、ひとつの姿を見出そうとしていたというのです。

 

もっとも、このことから、熊楠を土着主義者のように考えてはならないとして、

中沢氏は、「熊楠が、探究していたのは、このような古い土着性が失われて

いったとしても、人間が希望を失ってしまう必要のない、実存のテリトリー

の条件そのものだったように、私には思われるのだ」と述べています。

 

さらに、中沢氏は、そのような「来るべき土着性」をもつ空間は、それぞれの

個人が、マンダラ的ないしオートポイエーシス的な構造に、みずからの主観性

をつくりかえることができたとき、そのような新しい共同性に土台をすえる

ことができるはずだとして、「社会のエコロジー」のためには、個人の主観性の

構造深くまでおよんでいくような「精神のエコロジー」が必要なのだとしています。

 

そして、このふたつのエコロジーとのつながりが実現されることによって、従来

の、生命を常に観察者の立場からみる客観科学の矛盾を越えて、動植物の生存

条件と自然環境の状態をめぐる「生態のエコロジー」がはじめて本当の意味で

可能になっていくのだと主張しています。

 

最後に、中沢氏は、「神社合祀反対の運動をとおして表明された、南方熊楠の

エコロジー思想においては、これら三つのエコロジーが、ひとつに結合され

ようとしていた。ナチュラリストとしての熊楠は、生態のエコロジーに対する

危機感から立ち上がったが、同時に民俗学者としての熊楠は、それが社会の

エコロジーの問題に深くリンクしていることを理解していた。そして、森の

秘密儀に通じたマンダラの思想家としての熊楠は、その問題が精神のエコロ

ジーと結びつかないかぎりは、けっして豊かな未来を開くものではないと

見抜いた。・・・南方熊楠は、いまだに、私たちの前方を歩んでいる。」と

結んでいます。

 

ところで、熊楠は、科学者でありながら、幽霊の存在を信じていたということ

です。なんと、幽霊は、熊楠にさまざまな植物学上の発見の手がかりを与えて

くれたというのですが、このようなことが、のちに、西洋の客観科学にあきたら

なくさせ、華厳や真言密教を背景とした、熊楠独特の「南方マンダラ」の思想

の誕生へとつながっていったのでしょうか。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 神伝禊法
   (水波一郎 著 アマゾ ン 発売)
 
 
















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神道の可能性


古代から来た未来人


折口信夫は、神道学者でもありました。独自の「神」観を展開してきた彼は、

中沢新一氏によると、太平洋戦争の敗北をきっかけにして、日本の神道が歴史

の中でたどってきた発達の道は、果たして正しいものだったのだろうか?

日本人の土着的な信仰から成長してきた神道は、ことによると自分の中に潜在

している可能性を抑圧することによって、のびのびとした自生的展開をとげて

こなかったのではないだろうか?このような大きな問いを自分に課すことに

なったというのです。

 

そこで、折口信夫は私は思ふ。神道は宗教である。だが極めて茫漠たる

未成立の宗教だと思ふ。宗教体系を待つこと久しい、神話であったと思ふ。

だから美しい詩であった。其詩の暗示してゐた象徴をとりあげて、具体化

しようとした人が、今までなかったのである。として、「神道の宗教化」

を主張します。

 

しかし、宗教の組織化というのは、どこの世界でも国家の成立というもの

と一緒に起こっているものであり、中沢新一氏によると、それは民族の

自然智の茫漠たる集合体に、深刻な改造を加えることになる。もっと

はっきり言えば、民族の自然智の茫漠たる集合体である折口的な「神道」

は、宗教となった瞬間に、死んでしまう性質を持つものなのだ。』という

ことであり、一体、折口は、何を言おうとしていていたのかということ

になります。

 

どうも、折口は、『つまり神によって体の中に結合せられた魂が、だんだん

発育して来る、その聖なる技術を行う神が、つまり高皇産霊神・神皇産霊

神、即ちむすびの神であります。つまり、霊魂を与えるとともに、肉体と

霊魂との間に、生命を生じさせる、そういう力を持った神の信仰を神道教

の出発点に持っております。』と述べ、来るべき神道は、「むすび」の概念

によって新しく組織化されなければならないと考えていたようです。

 

むすびの神とは、存在の奥底で、たえまない働きをおこないながら、宇宙

と生命をつくりなしている。それなのに、存在のいちばん深い仕組みを

作り出した後は、隠れて見えなくなってしまうという不思議な神です。

 

中沢新一氏は、折口信夫は宗教としての神道は、このようなムスビの神を

おおもとの場所にすえて、もう一度つくりなおさねばならないと考えた。

これはまったく天才的な着想だと、私は思う。なぜなら、このような内部

構造をもつムスビの神は、そこから経済や道徳や社会の領域へと腕を伸ばし

ていき、宗教を超えた大きな働きをおこなうようになるからである。・・・

もしそれができるようになれば、日本人の自然智である神道は、たんなる

宗教としてのありかたを超えて、つぎの時代の知性の導き手となることが

できるかもしれないのである。」とその未来への可能性を非常に高く評価
しています。



 
 
 
 
 
 

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折口信夫と「まれびと」-「神」をめぐる視点-



まれびと 



 

日本人の抱く神の観念は、今、私たちが知っているものよりもずっと古い、

原型的なものがあったはずだという点では、折口信夫と柳田国男の見解は

一致していたようですが、その原型がどういうものであったかというこことに

なると、両者の考えは大きく異なっていたようです。

 

柳田国男は共同体の同質性や一体感を支えるものこそ神だと考えていたという

ことです。そうなると、神と共同体は、同じ性質を共有している必要があります。

柳田の考えでは、先祖の霊こそがそれにふさわしい存在でした。祖霊になるべき

霊は、共同体の内に発生するから、共同体と深い同質感や一体感を持っているはず

だと。その祖霊が神の観念に発展していけば、当然、その神と共同体は一体のもの

となります。このように、柳田は祖霊こそが日本人の神観念の元型だと考えたよう

です。

 

一方、折口信夫は、そうではなく、それと逆のことを考えていたようです。折口は

神観念の大元にあるのは、共同体の外からやってきて、共同体に何か強烈に異質の

体験をもたらす精霊の活動であるに違いないと考えていたというのです。つまり、

柳田国男が共同体に同質の一体感をもたらす霊を求めていたのに対して、折口信夫は

共同体に異質な体験を持ち込む精霊を探し出そうとしていたようであり、そこから、

折口の「まれびと」の思想が生まれたということです。

 

ところで、この「まれびと」の思想とはどういうものなのでしょうか。

 

折口の「まれびと」の思想には、二つの意味が込められているということです。

 

一つは、日本や日本文化のルーツ、つまり、「魂のふるさと」である南の海洋

世界からの訪問者のイメージであり、もう一つは、これは、重要なことだと

思われますが、「あの世」、「他界」からの来訪者のイメージです。

 

中沢新一氏は、このことに触れ、人間の知覚も思想も想像も及ばない、徹底的に

異質な領域があることを、「古代人」は知っていた。・・・この他界と現実の世界を

つなぐ通路が発見されなければならない。・・・「この世」に生きている時間などは

ほんのわずかにすぎないけれど、それでも「この世」を包み込んでいる「あの世」

があり、あらゆる生命が死ぬとそこへ戻っていき、また、いつか新しい生命とな

って戻ってくることをあると知ることができれば、わたしたちはいつも満ち足りて

落ち着いた人生を送ることができる。「あの世」と「この世」をつなぐ通路こそ、

折口信夫の発見(再発見)した「まれびと」なのであった。』と述べています。

 

折口は、その後、日本列島の南の島々へ調査に出向き、「まれびと」は、単なる

詩人的な幻想などではなく、今なお実在している事実であることを確認すること

になります。

 

中沢新一氏によると、『「まれびと」はこうして、日本人の神概念の原型を示して

いるばかりではなく、(さらに、日本の文学と芸能の発生にまで及び)折口信夫

の学問と思想の全体を表現する、たぐいまれな独創性をもつ概念となって成長

していった。』ということです。

 
 
 
 
 
 
 

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