「最後の親鸞」(3)-<信>の行方-

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親鸞
 


今回は、一つのしめくくりとして、親鸞の<信>のあり方そのものについて

考えてみたいと思います。

 

さて、「最後の親鸞」は、1976年に初版が出ていますが、「最後の親鸞」、

「和讃」、「ある親鸞」、「親鸞伝説」の四つの章から構成されていましたが、

1982年に出た増補版には、「教理上の親鸞」という章が付け加えられて

います。

 

高橋順一氏は、「吉本隆明と親鸞」の中で、その間に吉本隆明の中で親鸞の

捉え方をめぐって大きな転換が生じたというのです。

 

非僧非俗の立場であらゆる宗教上の教理、教説、それによってそれによって

支えられている宗派性が最終的に解体してゆく場を追い求めていたのが「最後

の親鸞」である。ようするに「宗教」が最終的に解体され止揚されてゆく

プロセスを、親鸞という一人の宗教者を通して浮かび上がらせようとしたい

というのが「最後の親鸞」の基本的なモチーフだったとして、高橋氏は次の

ように述べています。

 

「端的にいって、「最後の親鸞」における吉本さんの親鸞観の中では、教理上

の親鸞という視点はなかったはずだと思うんですね。(・・・)「教行信証」

における親鸞というのは親鸞の余計な部分である。そこには本当の意味で

の親鸞の思想はない。そういう視点に立って書かれたのが「最後の親鸞」で

あったと思うのです。」と。

 

ところが、増補版の中で、今度は「教行信証」に展開されている、「教義」

という側面から見られた親鸞に光を当てようとしたというのです。

 

いったいなぜなのでしょうか。

 

まず、「教行信証」とはどういう書物なのかについて、それは、過去の教典

を抜き書きして、これを整理し祖述し、そして、そこに注釈を加えるという

形で展開されているものであり、教理上の主張や理論づけを積極的に行うため

に書かれているのではないとしながら、高橋氏は、「吉本さんは、親鸞の教理

というのは具合的にどういうものだったのかということを解きほぐすという

意味で教理上の親鸞、「教行信証」の親鸞を論じたわけではないということ

です。(・・・)一番重要な点というのは、いっさいのオリジナリティである

とか、ポジティヴな主張であるとか、立場性であるとか、そうしたものを否定

しようとしたところで際立っている、また、そうでありつつ逆説的に極めて堅固

な論理によって貫かれているこの「教行信証」という本の性格というものを、

「最後の親鸞」によってつかみ取った親鸞像と付き合わせてみて、そこから何が

見えてくるかというのが、この「教理上の親鸞」という論文で吉本さんがやりた

かったことだろうというふうに思うんです。」と述べています。

 

さて、「念仏を唱えれば、あなたたちは浄土へいけますよ」、「善根を積めば功徳

が待ってますよ」というような「効用の論理」、「因果律の論理」を根本から否定

し、「何のために念仏を唱えるのか」という問い自体をも否定するとき、ありの

ままに生きている、自然過程をありのままに生きてるという事実しか残りません。

 

しかし、そうであればこそ、「まさに何が宗教なのかという問題を含めて、浄土

信仰が、称名念仏が宗教という形を取ることの意味は何か。あるいは別な言い方

をすれば、そこになお宗教といえる契機というものがあり得るとすればそれは

いったい何なのかという問題が当然出てこなければいけない。もし親鸞のなかに

教理上の問題があったとすれば、それはこの問いの中にしかなかったろうと

思います。」と高橋氏は言います。

 

さらに、高橋氏は、「なんらかの因果、目的、効用によってこの世を超出しよう

とする普通の意味での宗教性が全部解体してしまっているわけですから、凡俗の

身が自然過程の中でありのままに生きながら、なおかつありのままに生きている

なかにおいて宗教性というものが成立し得るというふうにならなければならない。

(・・・)この悪の世界のなかでありのままに生きている人間存在そのものの

内部に、自然過程をはみ出す形で出てくるような宗教性の契機というものが存在

しなければならないはずだということです。(・・・)無理やりでもなんでも、

この自然過程の内部そのものに距離をつくり出す、自然過程の内部に宗教性と

自然過程のあいだの空隙をつくり出すようなやり方が必要になるということ

です。」と続け、

 

そして、「では、距離とは何なのか。これが「教理上の親鸞」のなかで吉本さん

のいう<信>という言葉で表わされているものだと思います。この<信>は、

外部にある弥陀を「南無阿弥陀仏」と拝むことではありません。ただあるが

ままの自然過程のうちにある存在者として、ぶつぶつだか何だかしらないけど、

とにかくひたすら念仏を唱えるということです。そうした中からしか生じて

こない自然過程内部における宗教性の契機が、ここでいう<信>の本質に

なります。そうした契機だけがこの<信>に残されるのです。だとすれば

念仏はまさに個人のあるがままの自然過程の深部から漏れ出てくる<信>

への呼びかけの「声」、より端的にいえば息づかいのようなものといえる

でしょう。」と解き明かしています。

 

そしてさらに、高橋氏は、「教行信証」は、やたら難しいだけである意味

たいへん空無な本であると前置きしながら、「親鸞という、無名の非僧

非俗、愚禿であり、何だかよく訳の分からないことをいっている、自分で

坊さんと言っていないから何と呼んだらいいんだろうというふうな存在が、

自分自身の<信>をどう立てるかという問題を考えぬくために書いた本と

いうことになります。」と述べたあと、「そのことがそのまま、浄土門に

おける<信>のあり方というものがどういうものであるかへの一つの答え、

証になる。だからまさに「教行信証」なわけですよね。信の証しなわけ

です。こうして非僧非俗、愚禿の最終的な意味が浮かび上がってきます。

あるがままの自然過程にありつつ、それがそのまま<信>の現れである

ような二重化された自然存在、自らのうちに<信>というかたちで隙間を

抱え込んだ自然存在、それが非僧非俗、愚禿の最終的な意味になるわけ

です。」と述べています。

 

かくして、高橋氏は、吉本隆明が「「最後の親鸞」を書いた段階でも

<信>という言葉は使われているんだけれども、今言ったような意味で

の<信>の意味というところにまではおそらく至っていなかっただろう

と思います。(・・・)でも、「教理上の親鸞」となると、さらにそこ

(「知」と「非知」の問題)を突き抜けて一挙に、<信>の極限、極北の

場へと到達する。「知」と「非知」という普遍化された問題の枠組みさえ

も消えていく極限的な場です。極端にいえば「教行信証」という本は、

親鸞以外の誰にとっても無意味な本であるというふうにもいえるかもしれ

ない。親鸞という一人の存在の内部における<信>の実践、「教行」です

よね、まさに。「教行信証」は親鸞一人の「教行」と結びつくことにおいて

のみ、つまり親鸞という<信>の証としてのみ意味を持ち得る本なのかも

しれない。」と結論づけています。

 

ところで、吉本隆明は、みずからを一貫して「無神論者」と規定してきた

ということですが、吉本がみずからの思想形成の重要な段階においてマタイ

福音書や歎異抄のような宗教書によって大きな影響を与えられてきたという

ことを考えるとき、このような親鸞への深い愛着と執拗なこだわりとは

いったい何だったのだろうという疑問を拭い去ることができません。

 

もし、吉本隆明が現代のような悪しき唯物論の時代ではなく、イエスや

親鸞の時代の人であったら、きっと、間違いなく偉大な宗教者になって

いたのではないだろうかと考えるのは私の勝手な願望でしょうか。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「最後の親鸞」(2)-非僧非俗-

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吉本隆明と親鸞


以前に吉本隆明の「最後の親鸞」を紹介したことがありますが、親鸞の

思想そのものの難しさに加えて吉本の主張にかかる独特の思考様式と

用語は、容易に理解しがたいところがあります。

 

そこで、少し補足しておきたいと思いますが、今回は、高橋順一氏の

「吉本隆明と親鸞」に依拠しながら、「非僧非俗」の問題について触れて

おきたいと思います。

 

さて、出家し比叡山で修行していた親鸞は、あるとき、お告げを受けた

として、法然のもとに入門し、専修念仏の立場へ移行していきますが、

その数年後、後鳥羽上皇により専修念仏が禁止され、法然は土佐へ、

親鸞は越後へと配流になるという事態が生じます。

 

そして、そのことによって島流しにされたというだけでなく、還俗させ

られ俗人に戻ることまで強制させられたということです。

 

よって、当時の日本の中心であり文化的にも最先端に位置にあった京

から草深い田舎である越後へは配流されたということは、親鸞の信仰

の基盤や論理にとっても大変な試練であり、ほとんど文字も解さない

ような人々の中に投げ出されて、なお自らの信仰というものを支える

根拠というものがあるとすればそれは何なのか、そして、さらにこう

した人々に布教という形で信仰を広めてゆくことが可能だとすれば、

それは何によってなのか、という問題に突き当たったと思われると

高橋氏は述べています。

 

そこから、親鸞の「非僧非俗」という立場が生まれてくるということ

なのですが、その思いは、越後に5年ぐらい留まったあと常陸へと移る

過程でより強まっていったということです。

 

そのことについて、吉本隆明は、「ある親鸞」の中で、「親鸞の思想は、

外貌は法然の徒であっても支える内的根拠はすでに変貌していた。かれ

が、京洛の法然の死に背を向けて、常陸への路をさしていったとき、心の

なかは孤独だったろう。かれの外貌は遁世の僧体とはならず、独自な思想

を秘めた在家の念仏者のものであった。このとき親鸞の胸中に、幾度も

去来したのは法然の姿ではなく、賀古の教信沙弥の姿であったろうことは

疑われない。親鸞が「我は是れ賀古の教信沙弥の定なり」といつも云い

つづけていたとは、「改邪鈔」だけが記している。」と述べています。

 

 

この賀古の教信沙弥という人はどういう人だったのでしょうか。

 

教信は、興福寺の偉い学僧であったが、あるとき、その立場を全部捨てて、

西海をめざし播州賀古郡西の口まで来て、そこに草庵をつくって、妻帯

し子供ももうけた。日常は、髪も剃らず爪も切らず、衣も着ず、袈裟も

かけず、ただただ念仏を唱えるだけだったと。そして、教信は勧進もせず、

喜捨も乞わず、農家に雇われて田畑を耕して工銭をもらい、旅人の荷を担ぐ

手伝いをして食べ物をもらい生計を立てていた。最後は、そのまま死んで、

死体は鳥獣が食うにまかせた、ということです。

 

この賀古の教信の生き様は、表面的に見れば、すでに平安時代から存在した、

出家遁世の志を抱き、世を捨てて山中などに草庵を建てて念仏三昧にふけった

「捨て聖」の一人のように見えながら、一点において異なっていたという

ことです。

 

それは、教信が喜捨に頼ることなく労働によって収入を得て生活を維持し、

俗との接点を放棄しなかったという点です。

 

高橋順一氏は、このことについて、「逆説的な言い方になりますが、簡単に

世を捨ててしまうのではなく、汚濁、蒙昧、煩悩にあふれた俗世とのつな

がりのなかにとどまり続けることによってはじめて、つまり俗世という

悪の権化と繋がり続けるという覚悟を引き受けるところまでいって初めて

<信>のもっとも根源的な層が見えてくるからです。」と述べています。

 

これは、一遍を中心とする時宗、遊行念仏の徒とは正反対の方向だという

のです。一遍もある意味では<非僧非俗>であるが、それは、徹底した現世

否定、この世の有形無形の様々な諸関係を完全に切断することのなかにしか

救済の可能性は存在しないことになります。

 

高橋氏は、続けて述べています。「一遍が徹底した現世否定によって<信>の

根拠づけをやろうとしたとすれば、親鸞の場合は、とりあえずいうなら現世肯定

の立場になります。その現世肯定をシンボリックに現わしているのが、賀古の

教信が喜捨を否定して自らの労働によって生活を営み、妻帯し子どもをもうける、

つまり、ある有形の生活を形づくっていったという事実です。もちろん、それは

単純な現世肯定ではありません。やや矛盾した言い方になりますが、教信の場合、

この世にとどまり続けることそのものの中にこの世を捨てる志向が埋め込まれて

いる、つまり、現世にとどまり続けることがそのまま現世を捨てることである、

というところに<信>の根拠があったのだと思います。それはそのまま教信に

傾倒した親鸞の立場にもなります。」と。

 

このあたりについて吉本隆明は、「賀古の教信が規範として蘇ったときの親鸞の

姿は、きわめてラジカルであった。かれは僧体を拒否し、出家遁世者とみられる

ことを拒否し、善人づらをして勧進して歩く「人師」の姿をも拒否する。(・・・)

牛盗人と呼ばれてもかまわないが、異形の風体や思想をもつ者のように振舞うな

というとき、<同化>や<教化>や<布教>の概念はまったく否定されている。

ただ還相の眼をもった一介の念仏者が、そのままの姿で<衆生>のなかに潜り

込んで、かれの内心に火をつけて歩く像だけがみえてくる。」と述べています。

 

このように、妻帯してもよし、子どもをつくってもよし、魚鳥獣の肉を食らって

もよし、そのために殺生してもかまわない、という一見するとあるがままに現世

を肯定するかのように見える親鸞の立場は、すなわち、出家遁世を否定し、布教

を放棄し、宗派そのものを解体に向かわせるものであったがゆえに、信者にも

理解されず、自分の子どもにさえ理解されなかったということです。

 

このことから、最終的に親鸞の<信>のあり方にそのものが問われてくることに

なりますが、そのことについては、次回としたいと思います。




 
 
 
 
 
 
 
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「最後の親鸞」

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最後の親鸞


まず、冒頭で、吉本隆明は、「おもえばいままで、最後の親鸞というかんがえ

に、ずいぶんと魅せられてきたような気がする。」と述べています。

 

それは、なぜでしょうか。

 

私は、親鸞が、他の宗教家に類を見ない、一宗派を興した宗教家の枠を超出

し、宗派の解体といえるほどの地点にまで到達してしまったその孤高の姿に、

思想家としての吉本の心が感応し、激しく揺さぶられたからではないかと

思います。

 

しかし、「魅せられるほどにこの考えが確かなものかという段になると、

とても心もとない。」とも述べています。なぜなら、最後の親鸞は、親鸞

自身の著述のなかにはなく、親鸞が弟子に告げた言葉に一種の思い入れの

ように込められた思想からしか見つけることができないからだと言うの

です。「遠い道程を歩いてきた者が、大団円に近づいたとき吐き出した唇の

動きのように微かな思想かもしれない。」という言い方もしています。

 

どんな自力の計らいをも捨てよ、<知>よりも<愚>の方が、<善>より

も<悪>の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、

自分がかぎりなく<愚>に近づくことが願いであったようです。しかし、

愚者にとって、<愚>はそれ自体であるが、知者にとって<愚>は、

近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題のように思われます。

 

これは、<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を

誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろす

ことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地する

ことができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後

の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能に近い

ので、いわば自覚的に<非知>に向かって還流するよりほか仕方がない。』

と言う吉本隆明自身にとっての重要な思想的課題と重なりますが、最後の

親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれ

る。』と言うのです。

 

しかし、<非知>は、どんなに「そのまま」寂かに着地しても<無知>とは

合一できません。<知>にとって<無智>と合一することは最後の課題です

が、どうしても<非知>と、<無智>との間には「紙一重の、だが深い淵」

が横たわっています。吉本は、<無智>を荷った人々は、宗教が考えるほど

宗教的な存在ではない。かれは本願他力の思想にとって、それ自体で究極の

ところに立っているかもしれないが、宗教に無縁な存在でもありうる。その

とき<無智>を荷った人たちは、浄土教の形成する世界像の外にはみ出して

しまう。そうならば宗教をはみ出した人々に肉迫するのに、念仏一宗もまた

その思想を、宗教の外にまで解体させなければならない。最後の親鸞はその

課題を強いられたようにおもわれる。』と問題の核心を述べています。

 

また、天変地異とそれによる飢餓や疫病の流行でバタバタと人が死んでいく

という当時の時代状況に対して、吉本は、ただ「生死無常」を説くことは、

現実の世界を諦めによって不動なものと定めてしまい、そこからの絶対的な

跳び超しを与えるにすぎないのではないか。飢えて死ぬ者にとって、必要で

充分なことは飢えない現実を出現させることである。親鸞の思想は、ほと

んど絶対的といっていいほど、その具体的な処方をつくっていない。だが

浄土真宗は、全力をあげてこの課題に応えなければならない。親鸞の思想は、

その精髄を挙げて飢え死ぬものをどうかんがえるのか、どうやって救済する

のか、この現実の世界をなんと心得るのか応えなければならなかった』の

ではないかと問うています。

 

これに対して親鸞はどう応えたのでしょうか。

 

吉本は、親鸞が具体的にどう考えたのかは分からないが、「歎異抄」にひとつ

だけ暗示がみつけられるとして、その一節を引用して、次のように述べて

います。「わたしたちはここで、とてつもない思想につき当たっている。」と。

親鸞の言うことは、「助かるはずがない瀕死の病人の傍に、豊富な喰べものを

つんだり、財貨をもってきたりしても、なんのたすけにもならない。それより

も往生して浄土へゆき、そこで仏になってから、現世に生まれ変わって人々を

救ったほうがいいと教えているようなものである」と。

 

この考えには異様なところがあるが、それはどこから来ているのかを考えて

みると、当時がまさに「土塀の外、道傍に、餓死した者たちが、数えきれない

ほどある。取片つけるすべもわからず、死体の臭いは、あたりに満ちて、腐って

ゆく死体の形の変わりようは、目もあてられないことがおおい。」というような

方丈記の世界のごとき世の中であったがゆえに、「親鸞にとっては、<衆生>を

考えるときに死者を土台にして考え、その救済の思想を展開するのに、死後の

世界を根本においたとしてもある意味で当然であった。」「眼前に捨てられた飢餓

の死を甦らせることもできないし、飢餓の死を防ぎとめる方途を実現できないと

すれば、一念、多念にかかわらず、称名念仏によって一挙に浄土へ横超できると

説くことは、異様ではあるが解決のひとつである。」と吉本は述べています。

 

さらに、吉本は、親鸞が<非知>へ、愚者へ向かう思想的な道程を追ってゆき

ます。

 

「歎異抄」の中で、親鸞が、唯円の念仏をとなえても、踊りあがるような歓喜

の心があまりわいてこないこと、また、いちずに浄土へゆきたい心がおこらない

のは、どうしたことなのでしょうか』という疑念に対して、よくよくかんがえ

てみるに、天に踊り地に躍るほどに喜ぶべきことなのに、喜ぶ心がわいてこない

というのは、凡夫のしるしで、ますます「きっと往生できる」とおもうべきでは

あるまいか。喜ぶべき心を抑えて喜ばないのは、煩悩がなせる仕わざである。』と

語っています。

 

これに対して、吉本は、喜ぶ心がわいてこないというのは人間にとって<自然>

なことであるが、それは、究極的には、<信心>にゆくか<不信心>にゆくか

を<自然>に委ねることであるから、すでに念仏をとなえるという宗教的行為

自体が、無意味ではないのか、と問います。

 

しかし、それでは、この現実世界は、どこまでいっても相対的な世界にすぎ

なくなり、浄土への契機もなければ、絶対他力への接近もいらなくなるが、

<信心>は捨てられ、悩みは残ったままで、飢餓も死も残ることになります。

 

よって、親鸞は違う答え方をしています。<煩悩>のせいで、称名念仏も嬉し

くなく、いそいで浄土へゆく気にならないからこそ、かえって「往生は一定」

なのだと。

 

これによって、そのまま<自然>のままに突き進むかに見えた、相対的な世界

像は少し揺らぎはじめたように見えますが、果たして、この現世的な中心の

ない世界に風穴をあけることは可能なのでしょうか。

 

吉本は、「歎異抄」で何ごとでも心に納得することであったら、往生のために

千人殺せと云われれば、そのとおりに殺すだろう。けれど一人でも殺すべき

機縁がないからこそ殺すことをしないのだ。これはじぶんの心が善だから殺さ

ないのではない。また、逆に、殺害などすまいとおもっても、百人千人殺す

こともありうるはずだ』と親鸞が語ったことを踏まえて、ここまできて、この

現世的な世界は、たんに中心のない漂った世界ではなく、<契機>(「業縁」)

を中心に展開される<不可避>の世界に転化する。理由もなく飢え、理由も

なく死に、理由もなく殺人し、偶発する事件にぶつかりながら流れてゆく相対的

な世界ではなく、<不可避>の一筋道だけしか、生の前にひらけていない必然

の構造をもつ世界が見えてくる。一切の客観的なあるいは主観的な恣意性が、

<契機>を媒介として消滅することは、<自由>が消滅することを意味している

のではない。現世的な歴史的な制約、物的関係の約束にうちひしがれながら、

<不可避>の細い一本道ではあるが<自由>へとひらかれた世界が開示される。

』と述べ、相対的な世界に穴を開けるかもしれない<契機>(「業縁」)という

思想の現れを見ています。

 

しかし、親鸞が、現世の中心にこの<契機>(「業縁」)を据えたとき、「苦悩の

旧里」である現世と「安養の浄土」とが、称名念仏を媒介として直結するはず

だという浄土教の理念は、疑義にさらされたとおもえる』として、吉本は、

さらに、親鸞の思想の行きつく先を見極めようとします。

 

歎異抄の親鸞にとっては、「ただ念仏をとなえて、弥陀の本願によって救われ

るようにしなさい」と優れた先達から云われて、そう信じるほかに、かくべつ

の理屈があるわけではありません。念仏はほんとうに浄土へ生まれる種子で

あるのだろうか、また地獄へ堕ちるような業であるのだろうか、そういうこと

は与り知らないことです。』結局のところ、愚かな私の信心では、そう思議

するよりほかはありません。このうえは、念仏をえらびとり信じ申すも、また

捨ててしまわれるのも、皆さまの心にまかせるほかはありません、と云々。』

という一節を引用し、次のように述べています。

 

親鸞における<契機>(「業縁」)は、客観的なものと主観的なものの恣意性

を排除し、いわば<不可避性>を深化してゆくとき、当然のように対象である

他者の解体にむかうべき構造をもっている。』もうひとつは、このような

<不可避性>を深化してゆけば、ついにそれがはじめに出逢った<契機>その

ものの重さを超え、<契機>そのものを解体せざるをえなくなる。<契機>

そのものの解体とは<信心>そのものの解体である。「個のうえは、念仏を

とりて信じたてまつらんとも棄てんとも面々の御計らいなり」というとき、

親鸞は念仏思想そのものを越境してしまっている。ここに絶対他力そのものを

再び対象化し、さらに相対化したあげく、ついに解体表現にまでいたっている

最後の親鸞が開始されている。すくなくともわたしには、そう思える。』と。

 

そして、念仏を唱えれば、一念多念を問わず、善も悪も同じ浄土へゆくこと

ができるというのが浄土真宗の考えですが、親鸞が、<知>と<愚>が本願の

前に平等であり、<善>と<悪>もまた平等というところから、<愚>と<悪>

こそが逆に本願成就の<正機>であるというところまで歩むほかなかったと

すると、その<愚>と<悪>がもっとも仏から遠い存在、死んだあとは浄土へ

ゆきたいという信心を自分から決しておこさない非宗教的な存在、宗教の領土

の外にある存在だという矛盾にどのように応えたのかという究極の問いに対

して、その要諦は、親鸞自身の著作からではなく、いわゆる「語録」の中で

しか伺い知れないとして、それらを引用しています

 

「このうえは、念仏をえらびとり申すのも、また捨ててしまわれるのも、皆さま

の心にまかせるほかありません。」<歎異抄>

 

「念仏がほんとうに浄土へ生まれる種子であるのだろうか、また地獄へ堕ちる

ような業であるのだろうか、そういうことは与り知らないことです。」<歎異抄>

 

「なにが善であり、なにが悪であるか、というようなことは、おおよそわたし

の存知しないことである。・・・」<歎異抄>

 

「だからじぶんで「浄土へ行くだろう」とも、また「地獄へ行くだろう」とも

定めてはいけない。」<執持抄>

だとえ牛盗人といわれても、あるいは善人、あるいは後世を願う聖とか、仏法

を修行する僧侶とみえるように振舞ってはならない。」<改邪抄>

 

「・・・親鸞は弟子一人ももっていない。・・・」<歎異抄>

 

「弥陀の五劫にわたる思惟の願を、よくよく考えてみると、ただただ親鸞一人

の為にある。・・・」<歎異抄> 

 

ここから、伺い知ることができる「唇の動きのように微かな思想」とは、如来へ

の絶対的帰依と他方での<浄土>と<念仏>との因果関係の引き離しと断絶、

布教そのものの放棄、宗派人としての自己放棄、つまり、他力往生を本旨する

浄土真宗そのものの解体であり、同時に他宗派の無化である。他力の絶対性を

さらに解体するために宗教的信仰そのものを拒否する視点があらわれたのだと

見るほかはないと述べています。

 

終りに、吉本は、末燈抄の一節を引き、「最後の親鸞を訪れた幻は、<知>放棄

し、称名念仏の結果にたいする計らいと成仏への期待を放棄し、まったくの

愚者となって老いた自分の姿だったかもしれない。」「目もみえなくなった、

何ごともみな忘れてしまった、と親鸞がいうとき、老もうして痴愚になって

しまったじぶんの老いぼれた姿を、そのまま知らせたかったにちがいない。

だが、読むものは、本願他力の思想を果てまで歩いていった思想の恐ろしさ

と逆説を、こういう言葉にみてしまうことをどうすることもできない。」と

結んでいます。

 

さて、吉本隆明は、このように思想家としての親鸞を徹底的に追い求めましたが、

私の関心事は、宗教家としての親鸞にあります。そうなると、果たして親鸞は、

そのとき、彼を心から信じた人々を救い得たのか、浄土へ導くことができたのか
が本当に知りたいところな
のですが、どうなのでしょうか。私は、親鸞は確かに
衆生を救い得たと信じています。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「銀河鉄道の夜」-現世と来世-

銀河鉄道の夜2 
 
 宮沢賢治の童話でもっとも有名で、その特色がよくあらわれている作品はという

と「銀河鉄道の夜」ということになるのではないでしょうか。

 

この作品は、色んななぞらえ方ができると思われますが、現世と来世の問題に的

をしぼって読むことができると思います。

 

吉本隆明は、輪廻転生というのが宮沢賢治にはあります。・・・それが宮沢賢治

にとってとても重要な思想だったと思います。輪廻転生して来世があるんだと

いう考えを宮沢賢治はどうしても捨てることができなかった。・・・宮沢賢治は

大変な農業科学者ですが、来世が存在するということを科学者として信じられる

かということが問題です。・・・そこのところで思い悩んだとおもいます。その

問題が、宮沢賢治の文学や芸術と、宗教思想とのかかわりを決めて行く大きな

問題になったと思われます。と述べています。

 

さて、銀河のほとりを走っていく列車があり、ジョバンニという主人公が夢の

中でその列車に乗り込みます。そこに乗り込んでいる人たち、ジョバンニの友

だちであるカンパネルラという子どもやほかの乗客は、全部が死者の国から乗り

合わせています。つまり、生きているジョバンニの夢と、死者とが一緒に乗り

合わせているのが銀河鉄道の列車ということになります。

 

途中からこの列車に、船が沈没して死んだ3人、姉弟を連れた青年が乗り込ん

できます。この3人はキリスト教の信者で、やがて、サザンクロスの停車場で

降りなければなりませんが、直前までくると、弟のタダシは、大姉さんがいる

ところ(現世)へ帰りたいとダダをこねます。一方、姉のかおるは、現世には

もう帰れない、来世にはお母さんがいて待っているからそちらへ行くんだよと

弟をなだめる。が、まだ現世にも未練を持っていて、どっちへ行ったらいいのか

わからないところがあります。これに対して、青年は来世のほうに価値観があっ

て、何も悲しくないし、悪いことはなにもない、明るくていいところだ、だから

ここで降りなければいけないと言います。

 

これについて、吉本隆明は、現世に価値観を置いている小さな男の子、現世と

来世の中間でためらっている姉、来世はいいところだから悲しいことは何も

ないという言い方をしている青年、同じ会話の中で現世から来世に価値観が

移っていく物言いの仕方を非常にスムーズにつなげています。』と述べて

います。また、『一瞬ボーッとしてわからなくなった。わかるようになった

ら、もうここにきていた。宮沢賢治の考える現世と来世のつなぎ方は、そう

いうふうにスムーズなものです。』とも述べています。

 

もう一つ、「銀河鉄道の夜」で列車がプリオシン海岸というとところを通る

ところがありますが、そこでは、学者らしいメガネをかけた人が色々指図

しながら化石の発掘を行っています。しかし、ジョバンニたちに学者は、

ほかの人が見たら、ここはガランとした空気だけで、獣の骨やクルミや貝の

化石があるとは見えないかもしれない。ただ、自分たちはここで発掘して

いるが、これは証明しなければわからないことだと説明します。

 

これは、宮沢賢治が現実にある北上川のほとりの海岸での自分の体験を「銀

河鉄道の夜」の幻想的な風景の中にそのまま入れたようで、文学と、宗教と

しての来世の風景をくっつけようとした彼独特の試みであるということです。

 

吉本隆明は、これらは、宮沢賢治が文学作品の中で、自分の中にある宗教観

と文学観をどうやって結びつけたらいいかということに対する、彼なりの独特

の解決の仕方だとかんがえることができると思います。・・・これは来世を信じ

ているどんな宗教家の「死後の世界はあります」という言い方よりも、はるか

に自然に、はるかに豊かなかたちで、来世はあるということを象徴的に言おう

としていると見ることができます。・・・その中でも、「銀河鉄道の夜」のやり

方はとてもいい、最も成功した例だと思います。と称賛しています。

 

さて、列車に乗り込んでいた者のうち、生者はひとりだけで、あとは全部死者

ということでしたが、生者の夢と死者の見るものは微妙に違っていました。

死者にしか見えないものがあるようなのです。

 

それが生者と死者を隔てる深い深淵なのでしょうか。

 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

宮澤賢治と信仰

 
宮澤賢治




宮澤賢治というと、詩人・童話作家、あるいは、農業科学者・農民運動家、

そして、宗教者・法華経の信者というように、多彩な顔を持っていますが、

どれが最も自分にとって大切であると考えていたのでしょうか。

 

客観的にみると、芸術家としての、或いは詩人、童話作家としての宮澤賢治

と、法華経信仰者としての宮澤賢治とどちらが偉大だと思うかというと、

普通は、詩人、童話作家としての宮澤賢治のほうを偉大だと思いたい

ところです。

 

しかし、吉本隆明はある講演の中で、もしかすると、なんとなく宗教者と

しての自分、法華経の行者、あるいは信者としての自分をいちばん大切に

考えていたんじゃないかという感じがします。そして、宮澤賢治がいち

ばんひっかかった法華経の肝腎なところは、「安楽行品」であったと思える

のです。と述べています。

 

この「安楽行品」は、法華経というのは、大変すぐれた人、菩薩にだけ説く

べきお経で、文学、芸術、娯楽のたぐいを真っ向から否定して、そんな遊び

の要素、快楽の要素の含まれているものに近づくのなら、法華経の信者には

なれないと説いています。

 

よって、吉本隆明は先の講演で、宮澤賢治は思春期にはじめて(安楽行品を

)読んだときにぶつかって、死ぬまで文学、芸術をやめられわけですから、

なんかの意味でこれに対する心の解決が、宮澤賢治にはなくてはならない

ところです。と言っています。

 

そこで、宮澤賢治はどういう解決の仕方をしたかというと、吉本隆明は、「マ

リヴロンと少女」という童話を例にして、賢治が、芸術と宗教の相違を突き

詰めて行ったとして、最終的に、あなたが考えるそこにはいつでも私がいる

んです、ということは芸術からはいえないのです。私が書いたもの、つくった

も読むことによって、あなたなりの受けとり方がありうるだろう。そして、

それはもしかすると役に立つ、くらいのことは言えるかもしれませんが、それ

以上のことは芸術には言えないのです。・・・必ず救われるぞ、みたいなこと

も言えないわけです。・・・それを言ったらまたうそになってしまいます。

それが芸術の立場です。たぶん、宮澤賢治はそこまでは解決したと思います

とし、さらに、宗教がほんとうに宗教であるなら、おまえは何かかんがえた

り悩んだり、芸術のことをおもったりしたら、そこにいつでもわたしがいるん

だよ、とそういえなければ宗教でないということになります。それ以外に宗教が

人を同化することはできないのです。いつでもあなたが悩んだりかんがえたり、

立ち止まったりしたとき、現実のからだは離れていても、その場所にわたしは

いるんだとかんがえてくれていいんだよ、といえるのは宗教の立場だと思います。

わずかに、宗教と芸術のちがいはそこだけなんだというところまで、宮澤賢治は

追いつめていったと思います。と述べています。

 

しかし、吉本隆明は、宮澤賢治が解いていった宗教と芸術のかかわりあいの問題

は、結局、解決していないのではないかとして次のように言っています。

 

そこの問題を宮澤賢治は解いていないとおもいます。それで、法華経に違反する

ことなんですが、自分は解いたと思ったかもしれません。初期の頃は童話作家で食べ

ていこうとしていたわけですが、ある段階からそれはやめて、自分ひとりではなんと

なく解決したような生き方をやっとこさしたんだといえそうな気がします。そして、

臨終のときに、自分の作品は迷いのあとだから処分してくれ、という伝説があるくら

いですから、個人的には解決していたんでしょうが、だれにでも通用するところまで

は解決していないとおもいます。

 

ただ、吉本隆明は、この問題の追いつめ方は大変真剣な追いつめ方のようにおもい

ます。・・・宮澤賢治の場合は、たぶん一生を棒に振って、宮澤賢治なりに最終の

ところまで追いつめていったと思います。しかし、その追いつめ方はどうも不可能

な追いつめ方じゃないかという感じがします。しかし、『(追いつめ方に)限界は

あるかないかは、まわりを見ればどうでもいいことで、それをそうしたかどうか、

そのためにどこまで本気で自分の生涯をつぶしていったかということのほうが重要

なのかもしれません。とも言っています。

 

とにかく、一生、法華経信仰と文学、芸術の創造を常に並行してやめなかったと

すると、通俗的にみれば、法華経信仰に人々を勧誘していくために童話や詩を書く

のなら、許されるんではないかと考えたようにも思えます。しかし、人々を信仰に

引き入れるモチーフをもって書かれていようといまいと、読んだ人が受けとる芸術

的な感銘は、独立したもので、もし何か感じる無形のものがあるとすれば、それは

宗教かもしれないというかたちで、宮澤賢治は文学作品を生み出していったとも

考えられます。

 

しかし、法華経との関わりにおいて、宮澤賢治はあくまで自分を菩薩にする精進、

励み方、道の求め方を生涯やめませんでした。自分は人間を超えられる、この現世

を超えられるとかんがえた人です。現世を超えて、あの世、涅槃、最上の道に行ける

ことを諦めずに精進をつづけました。そして、自分だけではなくて、万人を連れて

そこに行きたいんだというのが宮澤賢治の最後までの願いでした。と吉本隆明は

断言しています。

 

宮澤賢治は、臨終のとき、南無妙法蓮華経と題目を唱え、また、法華経を千部刷

って知り合いの人に分けてくれと父親に遺言して死んだと言われています。(もっと

も、彼は法華経信仰に当てはまらない、はみ出した部分があるといわれますが)この

ことからも法華経の行者として死んだと言えるのではないかと思います。彼が望んだ

ように、芸術家よりも、宗教家としての一生を全うしたとみることができるのでは

ないでしょうか。


 
 
 
 
 
 
 
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