神秘学者 シュタイナー

高橋巖


美学者で、日本におけるルドルフ・シュタイナー研究の第一人者であり、

日本人智学協会の設立者である高橋巖氏は、「千年紀末の神秘学」の中で

次のように述べています。

 

「年をとるにつれて、顔にしわが出てきたり、髪の毛が白くなったり、

髪の毛が少なくなったりすれば、誰でも許し難い何かが始まったような

気がするはずです。ところが、大抵の人は、仕方がない、これは必然なの

だから、そういうことに反抗すること自体、主観的でわがままなことだ、

と感じて、あきらめています。」

 

「私自身のことをいいますと、そういうことに関してあきらめる気がしない

ので、若い頃からなんとか反抗しようとしてきました。自分の存在が完全に

無に帰することなど絶対にあり得ない、という確信がどこかにあったからです。

肉体の死が自分の存在の死を意味するものなのか、肉体の死と自分の存在とは

別のことではないか、という疑問をはっきりさせられなければ、何も学んだこと

にならないと思い、そういう問題に正面から答えてくれる思想を求めてきました。」

 

「信仰の次元ではなく、認識の次元で、その問題に対して肯定的に答えようとする

姿勢をもった近代の思想家として、ルドルフ・シュタイナーは、それまで学んだこと

のないような、前代未聞の新しい答え方をしてくれた人でした。」と。

 

それでは、シュタイナーとは、どういう人なのでしょうか。

 

彼は、生まれながらにして霊的な存在を感知する能力を備えていたようです。

しかし、教えを受けた導師から40歳になるまでは、霊的な領域で指導的な立場

に立たぬよう忠告を受けたため、哲学や自然科学の研讃に励み、学者、文筆家と

して活躍し、そののち、時代の支配的な文化から決別し、神秘思想家として霊的

内容の伝達という使命に邁進したと言われています。

 

シュタイナーは、当人にとって存在が無に帰するのは、肉体だけだと言っています。

肉体だけが、いのちを失うと、物質の法則にだけに身をゆだねて、灰になって終わる

というのです。そして、肉体の存在領域である物質界以外に、別のリアルな存在領域

があり、その別な存在領域で、死後も、人間は自己意識を鮮明に保って、生き続ける

というのです。

 

シュタイナーは、その特異な体験内容を近代的な思考の訓練を受けた人々にどの

ような形式を与えれば受け入れられるかを真剣に考えた人であり、それが主張内容

の正しさを証明するものではありませんが、その姿勢は大いに評価すべきだろうと

思います。


 
 
 
 
 
 
 
 

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死と他界-死生学より-

 死生学2
 

前回、死への恐れについて記しましたが、「死生学2」の「死と他界」と

いう論考の中で、古東哲明氏は、普通、我々が、誕生から生が始まり、死と

ともに生が終わるという、人生を川の流れのように考える直線時間が、想像

の産物にすぎないとすれば、「死後の世界だとか、死後の世界に実現するだろ

う「自己の虚無」だとか、それゆえに狂おしくもたちおこる死への哲学的恐怖

だとか、そんな死をめぐる一連の事柄は、単なる錯覚ということになる。時間

思考の乱れゆえの幻想ということになる。」と述べたあと、

 

「あえて生きているうちに死を思い、死の側から生きてみる実存姿勢が、

存在肯定のための屈折装置となる。」として、「他界からの眼差し」という

180度の視点の転換を説き、「それにより、死や滅びの過酷な運命からくる

死の不安、死後の恐怖、自己消滅への不条理感をも圧倒してしまうということ

である。それもこれも、通常ぼくたちは、こうしてこの世に存在している

ほんとうの凄さに気がつかないことによる。この世この生こそが求めた究極の

他界、つまりは浄土だということである。」と結論づけています。

 

なるほどと思う部分もありますが、あっさり、この世が究極の他界だと

言われると、どうしても納得できない部分が残ってしまいます。なにか、

こう、肩すかしを食ったような感じです。

 

自分の中で、他界は絶対にあるとは言えないが、無いと断言できないので

はないか? という思いが湧き上がってきます。

 

やはり、死の向こう側、他界の本質については、神秘思想家、霊学・

霊魂学研究家の主張に耳を傾けなければならないように思います。

 
 
 
 
 
 

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人はなぜ死に怯えるのか-死生学より-

 芹沢俊介
 
「なぜ人は死に怯えるのだろうか」という問いの中で、評論家の芹沢俊介氏は、

「死に関して重要な事実がある。それは私が実際に自分の死を経験することが

できないということだ。」「この経験不能な主観的領域であるということが、

自分の死について不安や恐怖、嫌悪といった様々な感情を呼び込んだり、

死後への想像力をかきたててくる理由と考えられる。」と述べています。

 

死は、己がガンの告知をうけたときなどに、「人はいつかは死ぬ」「人は誰でも

死ぬ」という他人事的な認識のレベルを離れ、私の生の内側、主観へ場所を移す

ことによって、対象化不能の恐ろしい相貌を現し、自我を不安のどん底に陥れると

いうことです。

 

また、「自分の死、つまり自分の喪失。たんに自分の喪失ではなく、自分と一体

になっていた世界から自分だけ切り離されていくことの孤独。世界から自分だけが

いなくなること、この覚醒が孤独ではないだろうか。これが現代人における存在論的

孤独という一人称の死の形であり、それこそが恐怖のみなもとにあるものではない

だろうか。」とも述べています。

 

しかし、私自身の過去を振り返ってみると、昔、唯物論にどっぷりつかっていた頃、

突然、襲われた恐怖は、これとは少し異なっていました。

 

それは、「世界から自分だけ切り離されていくことの孤独」というより、私という

意識の消滅、自己意識が永遠の闇に沈んで消えていく恐ろしさであったように思い

ます。

 

しかし、そのとき、心の底、意識の奥の奥で、それは違うという叫びのようなものが

あったことを記憶しています。

 

その結果、肉体の消滅とともに己が消えていくと思うことは間違いではないかと思う

ようになり、そして、それが最終的に宗教や霊学、神秘学への関心につながって

行ったように思います。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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死を学ぶー死生学とはー

死生学1
 

 

死生学とは、新しい学問であり、1960年代から欧米ではホスピス運動が急速に

広がり、死に直面した患者や家族の要請に答えるための教育、研究が進められる

ようになったところから始まったようです。

 

こういった学問が生まれた背景には、人が死を迎える場所は長年暮らしていた自分

の家であり、そこで家族や近隣の人々に看取られながら亡くなって行くという伝統的

な死のパターンが崩壊し、人々は、病院の中で見知らぬ医者や看護師の人たちと延命

装置に囲まれながらの死を余儀なくされる現代特有の環境、そして、死について語る

ことはタブーとされ、自らが死に近づきつつあることは薄々気づいているものの、

それを知らないふりをしながら、その意味を問うこともできないまま、孤独な死を

迎えなければならないというような特異な状況があったようです。

 

そして、それは、デス・スタディーズと呼ばれ、死だけをテーマにされていたが、

日本や東アジアでは、儒教や仏教や道教の影響からか、「死生学」とか、「生死学」

というように、「死」と「生」をセットでテーマにすべきだと考えられるように

なったようです。

 

現代においては、欧米では、今なお、死とその周辺において生起してきた諸問題を

デス・スタディーズの対象としており、日本では、範疇が拡大され、死と生が表裏

一体のものとしてあるような生の在り方、また、死と隣り合わせとしての生の危機的

な状況に関わる諸問題、また、「いのちの尊厳」が問われるような諸問題を死生学と

呼ぶようになってきているようです。

 

かくして、現在の死生学は、期待を担って前進を続けながらも、死のこちら側のみに

目を向ける形に止まっているようで、生を全うすることによって人生を終え、納得

した上で死を受容するということで完結しているように見えます。

 

今後は、死というものの本質をどう理解するか、さらに、死の向こう側、つまり、

失われつつある伝統的な死生観を再検討するなかで、魂の帰っていく場をも包括

した死生学として深化していくことが求められているように思います。









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「霊魂は居ると思いますか?」を読む

霊魂は居ると思いますか

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著者は、霊魂学研究家で、霊媒でもあるが、意外なことに、霊魂や霊的世界の

存在を当然の前提に論旨を展開するのではなく、肯定派、否定派、それぞれの

主張、言い分を忍耐強く一つ一つ客観的に考察、検証し、早急な結論を退けます。

 

霊魂現象、霊媒実験、金縛り、臨死体験、霊能力等を考察、検証していく

なかで、少しでもミスや虚偽を発見すると全否定する多くの人々、他方には、

単なる物理現象でも霊魂だと騒ぐ人々、どちらも正しくないとしながら、

霊魂や死後の世界は、客観的には、絶対にあるとも、絶対にないとも言えない

とし、結局、実在すると思うのか、しないと思うのか、一人一人が直観と理性

を駆使して判断するしかないと結論づけています。

 

ただし、もしも、霊魂や死後の世界があったら、今、この瞬間の生き方によって

死後の生活が変わってしまうかもしれない。今、この瞬間にも霊魂が関わっている

かもしれない。よって、分からないではすまされない、決して放置すべきではない

とも述べています。

 

最後、著者は、「人は自分で自分の道を選択するしかない。」という言葉で締め括って
います。  

 

さて、あなたはどちらを選択しますか?


 
 
 
 
 

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気分だけは若者-自分って何?-

サクラ 


もう、とっくに老人の域に達してしまったのに、ある意味で、なぜか、ちっとも

変っていないような気がします。昔と同じように年なんかどこ吹く風の、今まで

通りの自分がいるように思います。

 

勿論、物がよく見えなくなったとか、音や声がよく聞こえなくなったとか、走って

いるつもりが、少し早く歩いているだけになってしまったとか、自分の肉体の衰え

を目の当たりにすると愕然とするのですが、若い頃は、年をとったら、その外見

相応の意識状態に変化するのではないかと想像していたのと裏腹に、なぜか、

意識は若い頃と全然変わらないように感じるのです。

 

人の意識というものは、ひょっとすると、絶えず変化しているのにもかかわらず、

自己同一性を保っているように感じるようできているのかもしれません。

 

或いは、もし、昨日の自分は今日の自分ではないというような大きな意識の断絶

を毎日感じるというようなことがあれば、個性そのものが保てないのかもしれ

ません。

 

となると、大切なことは、いくら今の自分が嫌いだといっても個性を度がえし

したような大変身を夢見るのではなく、自分は自分でありながらも、徐々に、

少しずつ変化させていくこと、進歩向上に努めていくということが大切である

ように思われます。

 

長い時間の中で形成してきた個性は、嫌でも自分そのもの、己自身なのですから。


 
 
 
 
 
 

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いにしえの叡智-進歩とは何か-

デルフォイの神殿  

古代ギリシャにおける最高の叡智とは、まず、第一に「汝自身を知れ」という言葉と、
第二に「分を越えるなかれ」という言葉に表されるそうです。

 

なお、「分を越えるなかれ」とは、程々にしろということではく、釈迦の「中庸」の
精神を意味するものです。

 

2千年以上も前に、このようなことが言われていたということは、大変な驚きですが、
現代人を見ると、逆に、人間の心というものは、全く進歩していないのではないか
という、いや、かえって退歩しているのではないかと思ってしまいます。

 

過去の何千年の歴史を振り返っても、人類は、物質的な欲望だけは増大したかもしれ
ませんが、そして、快楽や快適さを得るための技術だけは発達させたかもしれませんが、
その他については全く進歩していないように思われます。いや、それどころか、逆に、
ますます唯物的になって真実から遠ざかり、退化して行っているような気さえします。

 

ただ、楕円のまわりをぐるぐる、ぐるぐる回っているばかりではなく、スパイラル状に
奈落へ向かって下降しているようにさえ思われます。

 

その行きつく先は、一体、どこなのでしょうか。果たして「幸福」というものが待って
いるのでしょうか。

 

この世での結末もさることながら、死後があるとすると、死後、どのような状況が待ち
受けているのでしょうか。

 

「汝自身を知れ」、そして、「分を越えるなかれ」は、我々現代人にとっても、未だに
乗り越えられない重要なテーマであるように思われます。

 
 
 
 
 
 

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「歎異抄」を読む

歎異抄 
(歎異抄 唯円 著 梅原猛 全訳注 講談社学術文庫)



私の生家は、浄土真宗の門徒でしたので、子供の頃、祖母などから開祖の親鸞に

ついて、たえずどんなに偉い人であったかを聞かされる中で、かなりの尊崇の念を

抱いておりましたが、青年になり伝統的な宗教、および教団に対する反発もあって、

親鸞その人に対する思いも徐々に薄れていったように思います。

 

しかし、その後、青年期になって吉本隆明の「最後の親鸞」という書を読んだことが

きっかけになって「歎異抄」にたどり着き、再び親鸞に対する深い尊敬の思いが息を

吹き返すことになりました。

 

この「歎異抄」という書物は、「歎異」とあるとおり、親鸞の没後、30年ほどあとに

弟子の唯円という人が、師の教えが乱れて、様々な異端邪説がはびこるのを嘆いて書いた

ものであるとされていますが、その意義は本当に大きいと思われます。

 

まず、世の常として、稀有の宗教的達人が世を去られるとき、達人の本意は曲げられ、

徐々に逸脱していくものなのかという無念な思いにとらわれざるを得ません。

 

しかし、それでもなお、この書は唯円が、師の生前から死後にわたり、師の教えを受け

止めるなかで、その意味を自問自答、反芻し続け、骨肉化し得たことによって、親鸞の

深い思いの一端を後年に伝えてくれているような気がします。

 

確かに、達人のご意思は凡人には到底計り知れないものでありましょうが、唯円のように

宗教的天才が伝授されたことの意味を絶えず自問自答し続け、骨肉化し、少しでも真理に

近づけるよう日々努力していきたいものだと思います。


 
 
 
 
 
 

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メメント・モリ-死を想え-

死者 

「メメント・モリ」という言葉を聞くと、80年代に出版された

藤原新也の写真集を思い出しますが、その意味は、「死を想え」と

いう意味だそうです。

 

かつて、ガンジス河で水葬に付された死体を野犬がむさぼり食う

映像を見たときは、その現実に強烈な衝撃を受けました。

 

もっとも、私がまだ子供の頃は、交通事故などで人が死んでも、

そのまま長時間放置されていたのを鮮明に記憶していますし、

祖父母の死を含め、死はもっと身近であったように思います。

 

しかし、近年は、核家族化が進み、また、事故などで死者が出て

もすぐに隠されてしまうため、死者と遭遇することが極端に少なく

なってしまったのではないでしょうか。

 

死者は遠ざけられ、死の現実を忘れようとしているかのように

思われます。

 

一方で、テレビや新聞にはイメージだけの「死」が、言葉だけの

「死」が溢れているにもかかわらず。

 

しかし、人は、毎日、毎日、確実に死んでいっています。現実から

目をそむけ、死から逃れようとしても逃れることはできません。

 

「死を想え」、すなわち、厳粛な死の真実を直視せよという言葉の

意味を今一度深く考えたいものです。


 
 
 
 
 
 
 

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最後の場所

釈迦苦行像

生老病死は、人が人生において避けることのできない

 四つの大きな苦悩を表しますが、人生も終盤にさしかかり、

肉体は衰え、老いはますます深まってゆき、死というものを

否応なく意識せざるを得ない状況のなかで、今一度、生と死を

見つめ直してみたいと思います。

 

ふと気がついてみると、自分の人生は、まあ、長くてあと十余年。

まさに最後の場所に来つつあるという思いです。

 

老いの果てに必ず死はやってきます。残された時間はあまりあり

ません。

 

残りの人生をどう生きるのか。

 

ただ、体力と気力の衰えを嘆きながらも死から目をそらし、

目先の快楽に身をまかせるのか。

 

そうではなくて、近代以前は、誰もが信じていたように、死後の

世界があり、魂は肉体の死後も存続すると考え、残された時間を

次の世界に行くための貴重な準備期間として捉え、真剣にその

準備に備えるのか、の分岐点に立っています。

 

 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

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