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ライフサイクルと死

死生学3
 

「死生学3」の「シュタイナーとライフサイクル論」の中で、今井重孝

氏は、まず、現代の、つまり、「科学時代のライフサイクルの特徴とは、

何よりも若さが高く評価され、肉体の衰える老年は冬の気分で捉えられ

るところにある。」と述べています。

 

しかし、こうした、若々しさや肉体の衰えなどの目に見える部分だけに

とりわけ焦点化したライフサイクルの考え方は、古い時代にはなかった

ようです。

 

古代の叡智に基づくライフサイクル論、たとえば、ヒンズー教の四住期

の考え方は、現代の考え方とは大きく異なり、学生期、家住期、林住期、

遊行期から構成され、子育てを終えて家業を譲ってから、霊性を高め、

解脱へと努力する二つの時期が設定されているのが特徴的です。

 

つまり、上昇から下降に向かうイメージではなく、学んで成長し、家の

仕事で成長し、林の瞑想で成長し、遊行で解脱をめざすというふうに、

段階を追って成長し続けているイメージが鮮明で、肉体が衰えたのちは、

霊性を高めることが課題となっていたようです。

 

そして、シュタイナーのライフサイクル論はというと、この古代の叡智

をさらに洗練したしたものだというのです。

 

シュタイナーは、ライフサイクルを、身体の成長の時期、心魂の成長の

時期、そして、精神(霊性)の成長の時期と、21年ごとに三つの段階

に分けていて、さらに、7年周期説によって、21年を3段階に分け、

さらにそれを3つの段階に分けているということです。

 

ところで、これは地上でのライフサイクルであるが、死後も意識体と

して生き続けるとすると、死後の、天上のライフサイクルはどうなる

のでしょうか。

 

地上のライフサイクルにおいて、肉体の成長の段階の後は心魂の成長の

段階、その後は精神(霊性)の成長の段階と絶えざる人間の成長が続く

のであるが、天上のライフサイクル自身が、以前の地上生活における

その人の不完全さをさらにより完全にするためのプロセスとして構築

されているようです。

 

天上のライフサイクルの前半部分は、心魂の浄化がなされ、自分の人生

の不完全さを来世によって克服する強い意志が養われ、次第に精神(霊性)

の領域へと上昇し、神の究極の意図を知り、後半部分で未来の理想の

人間像を目にし、再び地上生活への熱望を抱き、新しい人生のための

感情体(アストラル体)、生命体(エーテル体)、臓器や肉体のもとに

なる部分を作り上げ、誕生すべき民族や家族を選択して、自らの計画

した人生を歩むのに最適な両親を選んで誕生してくるということです。

 

つまり、今井重孝氏がいうように「人類全体が向上しつつあることが

示され、かつ、人間の生きる意味について、一人ひとりが自己の人間性

を向上させるために生きているというように明確な目的を与えられうる

ライフサイクル論である。」と言えるかもしれません。

 

もっとも、今井重孝氏も、「シュタイナーの輪廻転生論は、何よりも希望

の哲学である」。と述べているように、理想主義的であり、これが真実か

どうかは到底証明不可能なことであります。私自身も、死後の世界に対し

ては、もっと悲観的で苦悩に満ちた世界であるような印象を抱いており、

輪廻転生、そしてカルマについても異なる認識を持っていますが、物質

の背後には必ず霊的な存在がある、目に見えるものの背後には必ず目に

見えない存在が存在していて、目に見える存在よりも目に見えない存在の

ほうがより本質的であるというのは、そのとおりではないかと思います。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
幽体の悲劇
 (水波一郎 著 アマゾン 発売)












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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「幽体の悲劇」を読む

幽体の悲劇 
 (水波一郎  著  アマゾン  発売) 

 死後、肉体を失っても、個性が存続するとする立場、つまり、神秘学や

霊学においては、肉体以外の身体、つまり、霊的な身体、「神秘体」と

いうものがあるとしています。

 

しかし、その「神秘体」というものは、従来、極めて抽象的にしか語ら

れず、この世に生きている間は、あまり関わりのないものであるという

風に考えられてきたように思います。

 

水波一郎氏の霊魂学では、それを「幽体」と名付けていますが、関わり

がないどころか、人は「幽体」とともに生きており、「幽体」を知って

初めて自分がわかる、つまり、各人が肉的存在であると同時に、霊的

生命体であるというのです。

 

本書では、その「幽体」は、誕生から他界までの間、肉体と重なって

成長し、たえず、肉体の意識に大きな影響を及ぼしているとしています。

 

つまり、肉体の脳で自分を表現する意識と、「幽体」の脳にあたる器官に

より表現する意識の、二人三脚の人生を送るというのです。

 

その「幽体」と「幽体」の意識が、誕生ののち、乳幼児期、少年期、

思春期において、肉体の成長の過程で、どう関わり、どのような影響を

及ぼしていくのか、そして、成人期、老人期を経て、他界に至るとどう

なるのかを、特に、成人期においては、日常編、仕事編、結婚編などに

細かく区分して、その一つ一つに焦点を当てながら、詳しく述べられて

います。

 

ところで、タイトルが「幽体の悲劇」とあるように、「幽体」にとっては

誕生とともに「幽体の意識の屈辱の歴史」が始まるようで、「幽体」は、

肉体の鋳型にはめられたように、自分の意志では何もできず、一方的

に、肉体と記憶を共有させられ、肉体の勝手な思いを理解することを

強制されて生きることになるようです。

 

そのため、この世を生きる間は、表に出られない、自己表現できない

影の存在として、「幽体」の意識は、特異な性質、傾向を持っているよう

なのです。

 

それは、端的に言うと、とてもわがままな性質であり、自分勝手で、

楽を好む一方、その不自由さゆえ、大変ながまんを強いられて、

ストレスを溜め続けているということです。

 

よって、「幽体」の意識は、あまり理不尽は扱いを受けると、がまんも

限界を越え、激しい自己主張をして、肉体の意識に強い衝動をもたらし

人生を狂わせてしまうことがあるようです。

 

特に、「幽体」の意識が発する、他者に対しての激しい想念は、相手の

「幽体」を傷付けてしまうことになるようであり、「幽体」に様々な

不調をもたらし、その結果、死後、大きな不幸をもたらすことに

なるようです。

 

とにかく、まず、もう一人の自分の存在を知り、認めるところから

始めて、その分身の思いを十分理解してやりながら、それでいて、

わがままな主張の言いなりにならず、共に成長していくことが大切な

ようです。

 

ところで、ややこしいことに、思春期になる頃、もう一人の自分に

とどまらず、さらに、三人目の自分、つまり、「霊体の意識」という

ものが登場し、自己主張を始めるそうです。

 

そうなると、私は、そして、「幽体の意識」は、いったい、どうなる

のでしょうか?

 

それが今生の人生に、そして、死後の行方にどう影響するの

でしょうか?

 

いや、そもそも、私とはいったい何者なのでしょうか?

 

本書からは、これらに対する驚くべき示唆が得られると思います。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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神話的思考-その不思議な思考様式-

最古の哲学 


中沢新一氏は、「人類最古の哲学」の中で、「神話は人間が最初に考え出した、

最古の哲学です。どんな領域のことであれ、人間ははじめにしか本当に偉大な

ものは創造しないのです。」と述べ、また、「「はじまりの哲学」である神話は、

少なく見積もっても三万数千年にもわたる、とてつもなく長い歴史を持って

います。」「ですから、神話を学ばないということは、人間を学ばないという

ことに、ほとんど等しいかと思えるほどなのです。」と主張しています。

 

では、一体神話というものは、どのような特質を持ったものなのでしょうか。

 

神話の特徴は、まず、人間と動物が変身によって互いの位置を入れ替えたり、

お互いの果たしていた機能を逆転させてしまったりと、たえず、ねじれや、

ひっくり返りや、飛躍が起こるところにあるようです。

 

また、それを見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、味覚を味わったりという

ような具体的な感覚で象徴的に表現するところにその特異性があるようです。

たとえば、生命力の象徴を蛇で表したり、大地の豊穣なる恵みを女神、或は

女性で表したりして。

 

さらには、過去、現在、未来、或は、この世とあの世というような時間的、

空間的な制約さえ取り払われてしまいます。

 

そうなると、それはとてつもなく自由に満ちた時空を形成することになり、

ついには、宇宙の始まりや、人類の誕生にまで広がって行くことになります。

 

このような思考様式は、その後、伝説や昔話などの形で継承されて生き続け、

現代に至って、童話やマンガなどを経て、奇しくも科学技術と結合し、アニメ

やゲームなどのバーチャル文化の中で甦えることになりました。

 

しかし、それは核を失ってしまったといいますか、神話というものが持つ本来

の機能を喪失してしまったのではないでしょうか。本来、神聖な物語という意味

を持っていたものが、ホラ話、夢想、作り話という意味に貶められてしまった

ように思います。

 

かくして、現代人は、神話を単なる子供じみたファンタジーと同一視したがり

ますが、本来、神話というものは、「真実」と見なされており、対立する世界、

集団間の闘争、軋轢を調整する、仲介するという社会的な役割をも担っていたと

言われています。つまり、夢想、幻想に見えても、現実的で、具体的な世界を

ベースにしていたようです。

 

さらに、特筆すべきは、その時空を超えた自由な空間は、高級な霊的存在が霊的

なインスピレーションを注ぎ込む受け皿であったということであります。これは、

霊的、宗教的な真理を求める者とって大きな意味を持っていると思われます。

 

しかし、今のアニメやゲームは、現実とは切断された、具体的な世界と呼応関係の

ないバーチャルな世界であり、そこには神話的な思考の意味、内容が捨てられ、

神話的な様式だけが、視覚中心の異様な快楽追及の怪物として勝手気ままに歩き

まわることになってしまったような気がします。

 

このままでは、アニメやゲームは、神話の装いをまといながら、我々を現実の世界

遊離したバーチャルな領域に閉じ込めて、飲み込んでしまうかもしれません。

 

本来の神話は、決して単なる幻想でも、夢物語でもなかったのであり、外なる世界と

内なる心象の区別が曖昧であったと思われる古代の人々に対して、具体的な感覚で

象徴的に物事の本質を指し示す働きをし、現実と想念の間に立って、このふたつを

仲介する絶妙な機能をもったものであったことを改めて認識したいものだと思います。

 

今なお神話的なものが人々の心を引き付けるなら、願わくば、新たなる神話、つまり

物質的な時空を超えた真実を世に示す本当の意味での神話が世に出ることを期待した

いと思います。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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神話-血の供犠-


メキシコの夢 




私の神話への関心の一つに、古代の人々は、実際に神話というものをどのよう

に受け取っていたのだろうか、ということがあります。

 

現代人が神話というものをひも解くとき、どういうふうな形でそれを読むで

しょうか。どうしても、知性というものに頼って、それを比喩的、或は、

象徴的なものとして論理的に再構成して解釈してしまうような気がします。

 

一方、古代の人々は、何の解釈も施すことなくそのまんま受け入れていたの

ではないかという推測はできるのですが、それ以上は分かりませんでした。

 

そんななか、フランスの作家、ル・クレジオの「メキシコの夢」をという古い本

を見つけ、古代ではなくて、近世においても、高度な文明を築きながら、神話と

神々の世界に生きた人たちがおり、その記録があることを知ることができました。

 

それは、16世紀になってスペイン人に滅ぼされた、今のメキシコあたりに

あったテオティワカン、マヤ、トルテカ文明などを継承したとされるアステカ

文明に生きた人々です。

 

征服者であるスペイン人記録者の記述の一端を読んで、我々、現代人とは全く

異質なその生き様、価値観に圧倒されました。彼らの思考、いや、全生活が、

神話とそこに登場する神々の意向に沿うことに向けられていたようなのです。

 

神々は、崇拝の対象でもあり、恐怖の対象でもあったようで、神々はすぐ

そばにおられ、生きることは、存在できることは神々に気に入られることで

あり、そのために、ことあるごとに祭儀を行い、神々をたたえて、幸福を

得ようとしたようです。

 

そこから、スペイン人が悪魔的な行為として嫌悪した、そして、現代人が目を

そむけたくなる残酷な生け贄の供儀や自傷による贖罪行為が生まれてくること

になったようですが、その現象だけを見て思考停止すると、神話的な世界に

生きる人々の本当の心が見えなくなるような気がします。

 

後世、その残虐性ばかりが誇張されたようですが、少なくとも、彼らの行為

は、地上的な私利私欲のためや、恨みや怒りの感情の発露とは異なったもの

だったようなのです。まさに、神に喜んでもらうため、そのことのために

行った行為だったとされています。血は、宇宙の均衡を終わらせぬために、

毎朝、太陽に戻ってきてもらうために、火や食物を与えてもらうために

流されたようなのです。

 

その行為は、現代人の理性では到底許容できませんが、彼らにとって最も

大切なものが水であり、水=血だとすると、その最も大切なものを神に

捧げる行為であったようにも思われます。

 

スペイン人記録者は、敵である彼らに対して、儀式における残虐性、或は

、勇猛な戦士の敵に対する残虐性とはあまりにも不釣り合いなもう一つの

側面、王は神の代理者として誠に謙虚であり、民衆は、徳が高く、神々に

対してとても敬虔であり、国に対して愛着が強く、互いに親切であったし、

仲間に対してはきびしいが人間味があった人々であった、と記しています。

 

その彼らが、合理主義的、物資主義的で、私的な欲望や財産への執着のため

に殺戮と強奪を行うスペイン人の滅ぼされてしまったことは、神から遠ざかる、

或は、神を観念化、抽象化する近、現代社会への変質を象徴する出来事の

ような気がします。

 

農耕民族の場合は、これとは異なる神話世界に生きたのではないかと思われ

ますし、他に資料を読めば、また異なる見解が出てくるかもしれません。

よって、一つの資料だけで結論めいたことを言うのは危険が伴うかもしれ

ません。また、アステカの人々の生き方が神々の意に沿っていたかどうかは、

私にはわかりません。そして、そのあまりにも血の贖罪にこだわる特性は、

決して古代的な感性を代表すものではないとおもわれますが、あらゆるもの、

あらゆる行為が聖なる意味を帯びており、24時間、365日、神と共に

生きる、いや、生きたいという思いは普遍的な意味を有するものではないで

しょうか。

 

彼らが殺戮や疫病だけでなく、征服者によって、神話と神々を、そして、

そこから派生する神聖なる生き方、考え方を奪われたことにより、その高度

な文明と共に滅びてしまったことは重く受け止めたいものだと思います。









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自我の肥大と憎しみの時代

池田晶子

 (塚田幸三 著 発売 星雲社)

現代人が、私、自分というものを考えるとき、外の世界と明確に区別された

かけがえないない存在をイメージしますが、古代の人たちも同じように

考えていたのでしょうか。

 

シュタイナーによると、古代ギリシャ人は、心象を伴わない思考が目覚め

ており、人間の意識は世界との分離を感じるが、自己の意識と世界との

分離過程が完結していないので、今日の人間とは異なる仕方で思考を

体験していた。つまり、思考を事物に付着するものとして知覚していた

というのです。

 

つまり、古代ギリシャは、自我が悟性魂の中に入った時代であるとされ、

そこでの「私」は、まだ、現代人のような自己意識的な「私」ではない

というのです。

 

古代ギリシャなどでは、心は、自己中心的なあり方ではなく、世界中心的

なあり方をしており、普遍性を持ったものと見なされていたのであり、古代

ギリシャの「私」とは、「我々・人類」の一人としての「私」=「魂」を

意味し、主観と客観、内と外を鋭く峻別する実存的「私」ではないと

しています。

 

一方、シュタイナーは、15世紀以降の人間は、意識魂の時代を生きている

と言っています。意識魂の時代とは、世界についての判断の基準が集団社会

の中にではなく、一人ひとりの個人の中にある、と本能的に感じることの

できる時代であるとしています。

 

価値の判断基準が外的な倫理や道徳ではなく、個人の自由なる意思による

思考に基づくべきとすることは、原理的に正しいものだと思いますが、

それが物質的な欲望と結びついたとき、恐ろしい結果をもたらしたのでは

ないでしょうか。

 

近代西洋文明により、個人のエゴイズムは肥大化し、万人は万人の敵と

なって、恐怖と憎しみの社会をもたらしました。そして、さらに、国家

レベルでは、帝国主義的な権力意志と結びついて強烈な国家エゴイズム

を生み出したように思います。

 

果たして、現代人は、極端に肥大化して、外なる環境や社会的人間関係

を破壊し続ける、まさに怪物と化した近代的自我意識というものを

コントロールし、霊的に変化させることができるのでしょうか。

 

とりわけ、かつては、異なった道を歩み、自我意識が希薄で対象世界に

対する帰依の心が深かったという、我々、東洋人も、ほぼ、そういった

伝統を破壊されてしまったかのごとくですが、果たして再び甦らすこと

ができるでしょうか。

 



 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「河童」と懐疑論者

河童 
 


近世哲学の祖と言われるデカルトは、
真理に至るために、一旦全てのものを疑い、

疑い尽くして、絶対確実なものとして最後に残ったものが、有名な「我思う、

ゆえに我あり」であるとされていますが、そこには「信じる」ということが

排除されています。

 

ここから人類の意識は、新たなる段階に入るとともに、新たな苦悩も始まった

ように思います。

 

ところで、よく芥川龍之介の短編小説を読むことがありますが、いくつか読んで

みると、キリスト教や仏教など、宗教的な題材のものが意外と多いことに気が

つきます。

 

しかし、宗教的なことに関心を抱きながら、というより、人生の光明を見出そう

としながらも、「河童」のなかで、降霊会に出現した詩人トック(河童)の幽霊に

心霊の存在を「確信するにあたわず」、「余は懐疑論者なり」と言わせているように

最後まで信じることができなかったようで、結局、自死を選ぶことになります。

 

最晩年の作品「歯車」の中で、主人公は屋根裏の隠者と称する宗教者とおぼしき

老人と会話を交わしているが、老人の「信者になる気はありませんか」という

問いに、「悪魔をしんじることはできますがね」と答えています。

 

この悪意と苦悩に満ちた現実世界をみたとき、全知全能の神を前提とした信仰と

いうものに疑いを持つことは、ある意味、止むを得ないことなのかもしれません。

 

キリスト教においても、神は、絶対無謬、完全無比であるとする正統派に対して、

地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えるグノーシス派が

登場したとされています。

 

ですが、彼等は、その場合でも、どこかに知ることができない至高神が存在し、

「真の世界」が存在するはずであると考え、神そのものを否定することは

ありませんでした。

 

しかし、近代の懐疑論は、神そのものを否定し、その究極的なものとして無神論、

唯物論というものを生みだしてしまいました。

 

宗教的なもの、霊的なものに近づこうとしては引き返し、近づこうとしては

引き返し、結局、自死してしまった芥川龍之介の姿は、彼固有の資質という

ものもあるでしょうが、迷路にはまり込んだ現代人の心の有り様というものを

象徴的に表しているような気がします。

 

既成のものを疑うことによって、虚偽や迷信を廃し、真実に近づくという側面は

決して否定できませんが、その代償として、信じること、信仰という、そのあまり

にも大切なものを失ってしまうことになったのではないでしょうか。

 








真実を求めて
 (水波一郎 著 アマゾン 発売)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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シュタイナー・死について

 死について・シュタイナー
 (ルドルフ・シュタイナー 著 高橋巖 訳  春秋社)
 

シュタイナーは、「死について」所収の「思考の変容」の中で、「物質世界の

中で思考し、探求する人にとって、もっとも気にかかる問題の一つは、生まれ

てから死ぬまでの間生存のいとなみを続けているこの物質世界と、死後の世界

である、人間が本来属している高次の世界との関係を正しく認識することです。」

 

「一方、これに対して、特に今日の唯物主義の時代にあっては、多くの人が

そもそも感覚世界を超えた超感覚世界など存在する筈がない、少なくとも人間

にはその存在について何かを知ることなどできる筈がないと思っています。」

 

「けれどもこの点に関しては、そのような高次な世界に「否定的」な態度をとる

のは、そのように教えられてきたからだ、と言い返すこともできます。なぜなら、

死後の霊的、超感覚的な世界を否定するのは、人間にとって「あたりまえ」な

ことではないからです。」と述べています。

 

つまり、唯物主義的な風潮が広まったのは、近代以降であり、それ以前は、神へ

の信仰と死後の世界の存在は、「あたりまえ」のことであったいうことではない

でしょうか。

 

また、「私の内部には感覚世界から独立した知性の働きがある。私はこの知性働の

きによって、感覚世界だけでなく、その感覚世界の裏の秘密をも知りたいと思って

いる。」とも述べています。

 

つまり、人間に固有の、己の心の中で働いている知性は、物質界を対象とする感覚

の中には存在しないものであり、感覚以前のもの、まだ感覚と結びついていない

内的活動なのだ、と考えているようです。

 

そして、「思考そのものを自己認識によって考察するなら、思考がエーテル体

(生命体)の中のこの知性の働きに他ならないことがわかります。」というふうに、

霊的な世界は、遠い隔絶した世界ではなく、我々の思考、知性の働きそのものが、

霊的世界にその根源を持つものであると考えているように思います。

 

最終的に、「今私たちにとって大切なのは、こんにちの唯物主義的風潮の中で霊的な

立場を洞察する力を手に入れ、その洞察の力によって、霊的な正しい運動に関わる

ことなのです。そのためには、霊的な認識への努力を、物質界から取り出してきた

言葉とイメージとで表現する試みを続けるしかありません。たとえ、霊界そのもの

がどんなに物質界と似ていなくても、です。」と締めくくっていますが、私自身と

しても、当時と比して、今、さらに力を強めつつある唯物主義的風潮に対し、

何とか飲み込まれないよう、流れに抗して行きたいものだと思います。

 
 
 
 
 
 
 
 
真実を求めて 
 (水波一郎 著 アマゾン 発売)
 
 









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「真実を求めて」を読む

真実を求めて
(水波一郎 著 アマゾン 発売)


副題に「悪魔の霊言を知る」とありますが、これは何を意味するのでしょうか。

 

さらに、著者は、解説の中で、「神様や仏様からのメッセージと、悪魔から

メッセージとどちらが正しいのか。もちろん、答えは後者である」と逆説的

ともいえる表現をしていますが、これは何を意味するのでしょうか。

 

著者も言明しているように、霊魂の世界の実在は科学的に証明できない世界

であるために、各自がそれぞれ理性と直観で判断しなければなりませんが、

仮に、実在すると判断したとして、一歩、その世界へ足を踏み入れると、

そこは、この世、地上とは全く異なる法則で成り立つ世界であり、とにかく、

この世の常識、倫理や道徳が全く通用しない世界である、ということが言い

たかったのかもしれません。

 

本書では、一人の青年が登場し、母の死をきっかけに霊魂の実在に関心を

持った「彼」は霊魂の探究に旅立ちます。

 

世の中には、霊媒、霊能力者、霊能力開発、チャクラ、気、霊界通信、

等々、インターネットをはじめとして、おびただしい情報が氾濫して

います。

 

しかし、その真偽は客観的に証明できないため、そこは、インチキ、

ニセモノの横行する世界であり、さらに、「彼」の無知や勝手な思い

込みが加わって、足を踏み入れてみたものの、右往左往し、思考錯誤

を繰り返すことになります。

 

そして、挙句の果てに、「彼」は、とうとう罠にはまってしまいます。

やっかいなことに、インチキ霊能者にだまされるのではなく、本物の

悪い霊魂にそばでささやきかけられるという現象が起こり、「彼」は

悪霊に翻弄されることになるのです。

 

とにかく、悪い霊魂とは、恐ろしく狡猾な存在でした。悪い霊魂は、

霊能力者の無知やインチキを次々と暴いて行きます。そして、皮肉

にも、「彼」は、霊能力者というものの驚くべき実態を一番良く

知っているのが悪霊であることを知ることになります。

 

霊能力者も、霊媒も、実は、ニセモノばかり、たとえ、主観的

に自分では本物と思っていても、霊魂から見ると子供だましの

レベルにすぎなかったとは。

 

とうとう、その狡猾さに屈して悪い霊魂と友人関係(?)を結ぶ

ことになってしまいました。

 

あわや、「彼」が、死後、恐ろしい世界へ引きずり込まれるかも

しれない悪い霊魂との二人三脚の人生を歩むかと思われた時、

そこへ、大悪魔を自称する「真の霊媒」が登場します。

 

大悪魔とは何か? 悪魔と悪霊とはどう異なるのか? そして、

そもそも悪とは何か?

 

果たして、「彼」は、悪い霊魂とのおぞましい関係を断ち切ること

ができるでしょうか。

 

「彼」は、果たして霊的な真実に触れることができるのでしょうか。

 

個人的には、まず、霊的世界へ足を踏み入れてから、「彼」がたどった

コースは、己自身が歩んだ道と重なる部分が幾つかあり、とても他人事

とは思えないと感じましたが、加えて、霊に関心を持つかもしれない人

たちが、知らず知らずに陥ってしまう落とし穴の典型的なパターンを如実

に表し、警告を与えてくれる大変価値ある書物ではなかろうかと思いました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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