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「河童」と懐疑論者

河童 
 


近世哲学の祖と言われるデカルトは、
真理に至るために、一旦全てのものを疑い、

疑い尽くして、絶対確実なものとして最後に残ったものが、有名な「我思う、

ゆえに我あり」であるとされていますが、そこには「信じる」ということが

排除されています。

 

ここから人類の意識は、新たなる段階に入るとともに、新たな苦悩も始まった

ように思います。

 

ところで、よく芥川龍之介の短編小説を読むことがありますが、いくつか読んで

みると、キリスト教や仏教など、宗教的な題材のものが意外と多いことに気が

つきます。

 

しかし、宗教的なことに関心を抱きながら、というより、人生の光明を見出そう

としながらも、「河童」のなかで、降霊会に出現した詩人トック(河童)の幽霊に

心霊の存在を「確信するにあたわず」、「余は懐疑論者なり」と言わせているように

最後まで信じることができなかったようで、結局、自死を選ぶことになります。

 

最晩年の作品「歯車」の中で、主人公は屋根裏の隠者と称する宗教者とおぼしき

老人と会話を交わしているが、老人の「信者になる気はありませんか」という

問いに、「悪魔をしんじることはできますがね」と答えています。

 

この悪意と苦悩に満ちた現実世界をみたとき、全知全能の神を前提とした信仰と

いうものに疑いを持つことは、ある意味、止むを得ないことなのかもしれません。

 

キリスト教においても、神は、絶対無謬、完全無比であるとする正統派に対して、

地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えるグノーシス派が

登場したとされています。

 

ですが、彼等は、その場合でも、どこかに知ることができない至高神が存在し、

「真の世界」が存在するはずであると考え、神そのものを否定することは

ありませんでした。

 

しかし、近代の懐疑論は、神そのものを否定し、その究極的なものとして無神論、

唯物論というものを生みだしてしまいました。

 

宗教的なもの、霊的なものに近づこうとしては引き返し、近づこうとしては

引き返し、結局、自死してしまった芥川龍之介の姿は、彼固有の資質という

ものもあるでしょうが、迷路にはまり込んだ現代人の心の有り様というものを

象徴的に表しているような気がします。

 

既成のものを疑うことによって、虚偽や迷信を廃し、真実に近づくという側面は

決して否定できませんが、その代償として、信じること、信仰という、そのあまり

にも大切なものを失ってしまうことになったのではないでしょうか。

 








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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体