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神道の可能性


古代から来た未来人


折口信夫は、神道学者でもありました。独自の「神」観を展開してきた彼は、

中沢新一氏によると、太平洋戦争の敗北をきっかけにして、日本の神道が歴史

の中でたどってきた発達の道は、果たして正しいものだったのだろうか?

日本人の土着的な信仰から成長してきた神道は、ことによると自分の中に潜在

している可能性を抑圧することによって、のびのびとした自生的展開をとげて

こなかったのではないだろうか?このような大きな問いを自分に課すことに

なったというのです。

 

そこで、折口信夫は私は思ふ。神道は宗教である。だが極めて茫漠たる

未成立の宗教だと思ふ。宗教体系を待つこと久しい、神話であったと思ふ。

だから美しい詩であった。其詩の暗示してゐた象徴をとりあげて、具体化

しようとした人が、今までなかったのである。として、「神道の宗教化」

を主張します。

 

しかし、宗教の組織化というのは、どこの世界でも国家の成立というもの

と一緒に起こっているものであり、中沢新一氏によると、それは民族の

自然智の茫漠たる集合体に、深刻な改造を加えることになる。もっと

はっきり言えば、民族の自然智の茫漠たる集合体である折口的な「神道」

は、宗教となった瞬間に、死んでしまう性質を持つものなのだ。』という

ことであり、一体、折口は、何を言おうとしていていたのかということ

になります。

 

どうも、折口は、『つまり神によって体の中に結合せられた魂が、だんだん

発育して来る、その聖なる技術を行う神が、つまり高皇産霊神・神皇産霊

神、即ちむすびの神であります。つまり、霊魂を与えるとともに、肉体と

霊魂との間に、生命を生じさせる、そういう力を持った神の信仰を神道教

の出発点に持っております。』と述べ、来るべき神道は、「むすび」の概念

によって新しく組織化されなければならないと考えていたようです。

 

むすびの神とは、存在の奥底で、たえまない働きをおこないながら、宇宙

と生命をつくりなしている。それなのに、存在のいちばん深い仕組みを

作り出した後は、隠れて見えなくなってしまうという不思議な神です。

 

中沢新一氏は、折口信夫は宗教としての神道は、このようなムスビの神を

おおもとの場所にすえて、もう一度つくりなおさねばならないと考えた。

これはまったく天才的な着想だと、私は思う。なぜなら、このような内部

構造をもつムスビの神は、そこから経済や道徳や社会の領域へと腕を伸ばし

ていき、宗教を超えた大きな働きをおこなうようになるからである。・・・

もしそれができるようになれば、日本人の自然智である神道は、たんなる

宗教としてのありかたを超えて、つぎの時代の知性の導き手となることが

できるかもしれないのである。」とその未来への可能性を非常に高く評価
しています。



 
 
 
 
 
 
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「銀河鉄道の夜」-現世と来世-

銀河鉄道の夜2 
 
 宮沢賢治の童話でもっとも有名で、その特色がよくあらわれている作品はという

と「銀河鉄道の夜」ということになるのではないでしょうか。

 

この作品は、色んななぞらえ方ができると思われますが、現世と来世の問題に的

をしぼって読むことができると思います。

 

吉本隆明は、輪廻転生というのが宮沢賢治にはあります。・・・それが宮沢賢治

にとってとても重要な思想だったと思います。輪廻転生して来世があるんだと

いう考えを宮沢賢治はどうしても捨てることができなかった。・・・宮沢賢治は

大変な農業科学者ですが、来世が存在するということを科学者として信じられる

かということが問題です。・・・そこのところで思い悩んだとおもいます。その

問題が、宮沢賢治の文学や芸術と、宗教思想とのかかわりを決めて行く大きな

問題になったと思われます。と述べています。

 

さて、銀河のほとりを走っていく列車があり、ジョバンニという主人公が夢の

中でその列車に乗り込みます。そこに乗り込んでいる人たち、ジョバンニの友

だちであるカンパネルラという子どもやほかの乗客は、全部が死者の国から乗り

合わせています。つまり、生きているジョバンニの夢と、死者とが一緒に乗り

合わせているのが銀河鉄道の列車ということになります。

 

途中からこの列車に、船が沈没して死んだ3人、姉弟を連れた青年が乗り込ん

できます。この3人はキリスト教の信者で、やがて、サザンクロスの停車場で

降りなければなりませんが、直前までくると、弟のタダシは、大姉さんがいる

ところ(現世)へ帰りたいとダダをこねます。一方、姉のかおるは、現世には

もう帰れない、来世にはお母さんがいて待っているからそちらへ行くんだよと

弟をなだめる。が、まだ現世にも未練を持っていて、どっちへ行ったらいいのか

わからないところがあります。これに対して、青年は来世のほうに価値観があっ

て、何も悲しくないし、悪いことはなにもない、明るくていいところだ、だから

ここで降りなければいけないと言います。

 

これについて、吉本隆明は、現世に価値観を置いている小さな男の子、現世と

来世の中間でためらっている姉、来世はいいところだから悲しいことは何も

ないという言い方をしている青年、同じ会話の中で現世から来世に価値観が

移っていく物言いの仕方を非常にスムーズにつなげています。』と述べて

います。また、『一瞬ボーッとしてわからなくなった。わかるようになった

ら、もうここにきていた。宮沢賢治の考える現世と来世のつなぎ方は、そう

いうふうにスムーズなものです。』とも述べています。

 

もう一つ、「銀河鉄道の夜」で列車がプリオシン海岸というとところを通る

ところがありますが、そこでは、学者らしいメガネをかけた人が色々指図

しながら化石の発掘を行っています。しかし、ジョバンニたちに学者は、

ほかの人が見たら、ここはガランとした空気だけで、獣の骨やクルミや貝の

化石があるとは見えないかもしれない。ただ、自分たちはここで発掘して

いるが、これは証明しなければわからないことだと説明します。

 

これは、宮沢賢治が現実にある北上川のほとりの海岸での自分の体験を「銀

河鉄道の夜」の幻想的な風景の中にそのまま入れたようで、文学と、宗教と

しての来世の風景をくっつけようとした彼独特の試みであるということです。

 

吉本隆明は、これらは、宮沢賢治が文学作品の中で、自分の中にある宗教観

と文学観をどうやって結びつけたらいいかということに対する、彼なりの独特

の解決の仕方だとかんがえることができると思います。・・・これは来世を信じ

ているどんな宗教家の「死後の世界はあります」という言い方よりも、はるか

に自然に、はるかに豊かなかたちで、来世はあるということを象徴的に言おう

としていると見ることができます。・・・その中でも、「銀河鉄道の夜」のやり

方はとてもいい、最も成功した例だと思います。と称賛しています。

 

さて、列車に乗り込んでいた者のうち、生者はひとりだけで、あとは全部死者

ということでしたが、生者の夢と死者の見るものは微妙に違っていました。

死者にしか見えないものがあるようなのです。

 

それが生者と死者を隔てる深い深淵なのでしょうか。

 
 
 
 
 

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折口信夫と「まれびと」-「神」をめぐる視点-



まれびと 



 

日本人の抱く神の観念は、今、私たちが知っているものよりもずっと古い、

原型的なものがあったはずだという点では、折口信夫と柳田国男の見解は

一致していたようですが、その原型がどういうものであったかというこことに

なると、両者の考えは大きく異なっていたようです。

 

柳田国男は共同体の同質性や一体感を支えるものこそ神だと考えていたという

ことです。そうなると、神と共同体は、同じ性質を共有している必要があります。

柳田の考えでは、先祖の霊こそがそれにふさわしい存在でした。祖霊になるべき

霊は、共同体の内に発生するから、共同体と深い同質感や一体感を持っているはず

だと。その祖霊が神の観念に発展していけば、当然、その神と共同体は一体のもの

となります。このように、柳田は祖霊こそが日本人の神観念の元型だと考えたよう

です。

 

一方、折口信夫は、そうではなく、それと逆のことを考えていたようです。折口は

神観念の大元にあるのは、共同体の外からやってきて、共同体に何か強烈に異質の

体験をもたらす精霊の活動であるに違いないと考えていたというのです。つまり、

柳田国男が共同体に同質の一体感をもたらす霊を求めていたのに対して、折口信夫は

共同体に異質な体験を持ち込む精霊を探し出そうとしていたようであり、そこから、

折口の「まれびと」の思想が生まれたということです。

 

ところで、この「まれびと」の思想とはどういうものなのでしょうか。

 

折口の「まれびと」の思想には、二つの意味が込められているということです。

 

一つは、日本や日本文化のルーツ、つまり、「魂のふるさと」である南の海洋

世界からの訪問者のイメージであり、もう一つは、これは、重要なことだと

思われますが、「あの世」、「他界」からの来訪者のイメージです。

 

中沢新一氏は、このことに触れ、人間の知覚も思想も想像も及ばない、徹底的に

異質な領域があることを、「古代人」は知っていた。・・・この他界と現実の世界を

つなぐ通路が発見されなければならない。・・・「この世」に生きている時間などは

ほんのわずかにすぎないけれど、それでも「この世」を包み込んでいる「あの世」

があり、あらゆる生命が死ぬとそこへ戻っていき、また、いつか新しい生命とな

って戻ってくることをあると知ることができれば、わたしたちはいつも満ち足りて

落ち着いた人生を送ることができる。「あの世」と「この世」をつなぐ通路こそ、

折口信夫の発見(再発見)した「まれびと」なのであった。』と述べています。

 

折口は、その後、日本列島の南の島々へ調査に出向き、「まれびと」は、単なる

詩人的な幻想などではなく、今なお実在している事実であることを確認すること

になります。

 

中沢新一氏によると、『「まれびと」はこうして、日本人の神概念の原型を示して

いるばかりではなく、(さらに、日本の文学と芸能の発生にまで及び)折口信夫

の学問と思想の全体を表現する、たぐいまれな独創性をもつ概念となって成長

していった。』ということです。

 
 
 
 
 
 
 

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宮澤賢治と信仰

 
宮澤賢治




宮澤賢治というと、詩人・童話作家、あるいは、農業科学者・農民運動家、

そして、宗教者・法華経の信者というように、多彩な顔を持っていますが、

どれが最も自分にとって大切であると考えていたのでしょうか。

 

客観的にみると、芸術家としての、或いは詩人、童話作家としての宮澤賢治

と、法華経信仰者としての宮澤賢治とどちらが偉大だと思うかというと、

普通は、詩人、童話作家としての宮澤賢治のほうを偉大だと思いたい

ところです。

 

しかし、吉本隆明はある講演の中で、もしかすると、なんとなく宗教者と

しての自分、法華経の行者、あるいは信者としての自分をいちばん大切に

考えていたんじゃないかという感じがします。そして、宮澤賢治がいち

ばんひっかかった法華経の肝腎なところは、「安楽行品」であったと思える

のです。と述べています。

 

この「安楽行品」は、法華経というのは、大変すぐれた人、菩薩にだけ説く

べきお経で、文学、芸術、娯楽のたぐいを真っ向から否定して、そんな遊び

の要素、快楽の要素の含まれているものに近づくのなら、法華経の信者には

なれないと説いています。

 

よって、吉本隆明は先の講演で、宮澤賢治は思春期にはじめて(安楽行品を

)読んだときにぶつかって、死ぬまで文学、芸術をやめられわけですから、

なんかの意味でこれに対する心の解決が、宮澤賢治にはなくてはならない

ところです。と言っています。

 

そこで、宮澤賢治はどういう解決の仕方をしたかというと、吉本隆明は、「マ

リヴロンと少女」という童話を例にして、賢治が、芸術と宗教の相違を突き

詰めて行ったとして、最終的に、あなたが考えるそこにはいつでも私がいる

んです、ということは芸術からはいえないのです。私が書いたもの、つくった

も読むことによって、あなたなりの受けとり方がありうるだろう。そして、

それはもしかすると役に立つ、くらいのことは言えるかもしれませんが、それ

以上のことは芸術には言えないのです。・・・必ず救われるぞ、みたいなこと

も言えないわけです。・・・それを言ったらまたうそになってしまいます。

それが芸術の立場です。たぶん、宮澤賢治はそこまでは解決したと思います

とし、さらに、宗教がほんとうに宗教であるなら、おまえは何かかんがえた

り悩んだり、芸術のことをおもったりしたら、そこにいつでもわたしがいるん

だよ、とそういえなければ宗教でないということになります。それ以外に宗教が

人を同化することはできないのです。いつでもあなたが悩んだりかんがえたり、

立ち止まったりしたとき、現実のからだは離れていても、その場所にわたしは

いるんだとかんがえてくれていいんだよ、といえるのは宗教の立場だと思います。

わずかに、宗教と芸術のちがいはそこだけなんだというところまで、宮澤賢治は

追いつめていったと思います。と述べています。

 

しかし、吉本隆明は、宮澤賢治が解いていった宗教と芸術のかかわりあいの問題

は、結局、解決していないのではないかとして次のように言っています。

 

そこの問題を宮澤賢治は解いていないとおもいます。それで、法華経に違反する

ことなんですが、自分は解いたと思ったかもしれません。初期の頃は童話作家で食べ

ていこうとしていたわけですが、ある段階からそれはやめて、自分ひとりではなんと

なく解決したような生き方をやっとこさしたんだといえそうな気がします。そして、

臨終のときに、自分の作品は迷いのあとだから処分してくれ、という伝説があるくら

いですから、個人的には解決していたんでしょうが、だれにでも通用するところまで

は解決していないとおもいます。

 

ただ、吉本隆明は、この問題の追いつめ方は大変真剣な追いつめ方のようにおもい

ます。・・・宮澤賢治の場合は、たぶん一生を棒に振って、宮澤賢治なりに最終の

ところまで追いつめていったと思います。しかし、その追いつめ方はどうも不可能

な追いつめ方じゃないかという感じがします。しかし、『(追いつめ方に)限界は

あるかないかは、まわりを見ればどうでもいいことで、それをそうしたかどうか、

そのためにどこまで本気で自分の生涯をつぶしていったかということのほうが重要

なのかもしれません。とも言っています。

 

とにかく、一生、法華経信仰と文学、芸術の創造を常に並行してやめなかったと

すると、通俗的にみれば、法華経信仰に人々を勧誘していくために童話や詩を書く

のなら、許されるんではないかと考えたようにも思えます。しかし、人々を信仰に

引き入れるモチーフをもって書かれていようといまいと、読んだ人が受けとる芸術

的な感銘は、独立したもので、もし何か感じる無形のものがあるとすれば、それは

宗教かもしれないというかたちで、宮澤賢治は文学作品を生み出していったとも

考えられます。

 

しかし、法華経との関わりにおいて、宮澤賢治はあくまで自分を菩薩にする精進、

励み方、道の求め方を生涯やめませんでした。自分は人間を超えられる、この現世

を超えられるとかんがえた人です。現世を超えて、あの世、涅槃、最上の道に行ける

ことを諦めずに精進をつづけました。そして、自分だけではなくて、万人を連れて

そこに行きたいんだというのが宮澤賢治の最後までの願いでした。と吉本隆明は

断言しています。

 

宮澤賢治は、臨終のとき、南無妙法蓮華経と題目を唱え、また、法華経を千部刷

って知り合いの人に分けてくれと父親に遺言して死んだと言われています。(もっと

も、彼は法華経信仰に当てはまらない、はみ出した部分があるといわれますが)この

ことからも法華経の行者として死んだと言えるのではないかと思います。彼が望んだ

ように、芸術家よりも、宗教家としての一生を全うしたとみることができるのでは

ないでしょうか。


 
 
 
 
 
 
 
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折口信夫の「死者の書」-古代人の心-

折口信夫「死者の書」


古代や中世を素材にした小説というと、私などは、芥川龍之介の「羅生門」

などの短編を思い浮かべますが、それと同様の小説かと思い読んでみると、

大いにその趣は異なりました。

 

芥川龍之介の場合は、舞台はいにしえでも、登場人物は近代的な自我意識を

持った人間であり、その複雑な心理描写が印象に残りますが、この「死者の

書」は、それとは全く異なり、失われてしまった古代人の心そのものを描き

出そうとした作品であるようです。

 

とにかく、特異な感性で描かれており、本当に不思議な作品だと思います。

 

中沢新一氏は、「古代から来た未来人 折口信夫」のなかで、死者の霊と

いうものは、生前の倫理観は通用せず、時間の観念も持たない。霊の思考を

突き動かしているのは、ただ「類化性能」という無意識の働きだけであって、

ずっと後の時代の女性を「似ている」という理由で、自分の恋人と同一視

しようとする。また、死者の霊は、生者が体験している空間とは全く違う構造

をした空間の中を、なめらかに流れる流体のように運動していくが、折口は、

こういう死霊の行動を、死霊の側からなまなましく描き出すことのできる、

異常な才能を持っていたと述べています。

 

しかし、「死者の書」が描く古代末期は、今まで身近であった生者と死者の

分離はどんどん進み、唯一、人と死霊を媒介し得る巫女、いわゆるシャーマ

ンでさえ、すでに没落していたようであり、新文明の象徴であった国家仏教が、

かろうじて残っていたそういう古代人の心性を、時代遅れの迷信として社会の

片隅に追いやろうとしていたというのです。

 

それでは、死霊の世界との古いやり方での交通の手段を失ってしまった日本人

は次の時代に、「あの世」との交通路をどのようにして開くことができたのかと

いう問いが、この小説のテーマと重なってくるようです。

 

つまり、折口信夫は、わたしたちの先祖たちが、長い時間をかけて考え抜いて

きた列島土着の思想と、時代に飛躍をもたらす新しい観念とを、まるでひと

つながりの展開のように描き出すことができなければ、仏教がもたらした思想

の飛躍などは、民族の伝統にとってはひとつの災いにすぎないと考えていた

ようなのです。

 

そこで、折口は、古代末期に生きた伝説の中将姫(小説では、藤原南家の郎女

として描かれる)をよみがえらせることによって、日本人の精神をまざまざと

描き出してみようとしたのであり、それによると、古い死霊の出現の形では

なく、二上山山頂に沈む太陽の輝きをとおして、恍惚のなか、浄土の扉が開か

れるといった、仏教思想を取り込んだ新しいタイプの通路への精神的飛躍が

なしとげられたということです。

 

中沢新一氏は、この小説の意義について、折口信夫は、『「死者の書」という

小説作品で、古代末期に日本人の精神に起こった、重要な飛躍の意味をあきら

かにしてみようとしたのである。それは学問的な論文の形式では、とても表現

できないような、重層性を持っている。しかも、その飛躍は日本人の心の奥で、

外見上は、ひっそりと遂行されたものであるから、歴史学や民俗学にもとうてい

理解できない深さをそなえている。このひっそり遂行された徹底的に保守的な

革命の意味を描くために、中将姫のイメージは折口によって想像されたのである。

この小説の背後には、折口の抱えていた巨大な主題が隠されている。』と大変な

評価をしています。

 

そして、さらに、「死者の書」の続編(第一稿、第二稿)から推理すると、そこに

働く宗教思想の論理を東方のキリスト教や民間信仰の考えやペルシャ経由の太陽

神に対する信仰にまで拡大しようとしていたとし、『折口学のめざしていたのは、

人類の行ったすべての観念活動の意味を一貫した視点から再構成することによっ

て西欧的な進化主義的なものの見方を覆すことにあった。折口信夫の残した仕事を

見渡してみるとき、わたしはその先駆性に、しばしば、茫然とさせられる。・・彼が

切り開いた道は、いまではすっかり雑草におおわれてしまっているように見える。

その雑草を切り払い、わたしたちは、もう一度、その道を歩みなおしてみる必要が

ある。』とその先駆性、未来性の継承を訴えています。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「ネコの死後はどうなるの?」を読む

ネコの死後はどうなるの?2 


 

本書は、タイトルから見て、ネコ愛好家が読むためのものであると思われるかも

しれませんが、決してそうではありません。

 

従来、仮に死後の世界があるとして、人間の死後については、かなり論じられる

ことはあっても、動物の死後はどうなるのかについては、非常に論じられることが

少なかったではないかと思います。

 

本書は、そういった中で、動物の死後について、従来、述べられてきたものとは大

きく異なる主張を物語風に、とにかくわかりやすく表現しています。

 

ちょっと、今まで、神秘学やスピリチュアリズムでは、どう考えてきたのかを振り

返ってみると、

 

まず、ルドルフ・シュタイナーの場合は、動物は、死後、人間とちがって個々に

自我をもたず、集合魂的なありかたをしているというふうに抽象的に述べていた

ように思います。

 

また、スピリチュアリズムのある一説によると、動物に死後の運命は、地上で人間

に愛された経験があるかどうかで異なり、人間に愛されたことのない家畜や野生

動物は、死後、すぐにその肉体の死とともにそれまで身体によって示されていた

個別性を失うことになるとし、ペット、つまり人に愛された動物の死後は、人間

の愛によって、個別性が強化され、死後もしばらくはそのままの外形を維持する

としています。ただし、その期間中、動物は人間のような自我意識を持っている

わけではなく、天使等の働きかけのもとで外形は維持するが、それはあたかも

ロボットのようなものであり、いずれ、愛する人間と別れるときがくると、外

形を失い集霊、類魂の中に吸収されるということです。

 

ところが、本書では、そうではないと主張しています。人間の愛情と関わりなく

動物は死後も、個々に霊的な身体(本書では幽体と呼ぶ)を保持し続け、その

幽体の意識が個々に存続するとしています。(いつか、「幽体の死」という事態

を迎えるまでは、多くの魂が集合して一つになることはないということです。)

 

さて、本書は、他界した5匹のネコの兄弟姉妹と1匹のイヌが、死後の世界で

目覚め、様々な経験を経ながら成長をしてゆく様を描いていますが、表現は

極めて平易であるにもかかわらず、その内容をよく理解するのは、そう簡単

ではありません。

 

まず、死後の世界は、念の世界、つまり、想念、イマジネーションがそのまま

実体化するような世界であるいうことがなかなかピンと来ないとうことが

あります。

 

ただ、想念による対話、いわゆる、テレパシーのようなもので対話する世界に

入ったネコの霊魂たちは、そのうち個別性を失うことになる、単なるロボット

のようなものではなく、驚くべきことに、「言葉はなくとも会話する生命体」

に進化するということ、つまり、これは決して動物を擬人化した物語ではなく、

事実として、ネコは、概念的な思考はできないものの、日常的な思いは、人間

の子供のようなレベルで、お互いに伝えられる存在になっているということ

が、本書を理解する上での前提事項になるのではないかと思います。

 

しかし、それでもすぐには理解し難い主張がいくつかあります。まず、それは、

ペットが、生前、飼い主にどんなに愛されても、それが死後のペットの幸福に

はつながってゆかないということです。

 

勿論、動物を愛することは、とてもすばらしいことですし、生前のペットたち

の食、住などの環境を良くすることは彼らにとって大変望ましいことには違い

ありませんが、それだけでは、彼等は、死後、幸福にはなれないようなのです。

 

ペットたちが行く死後の世界は、地上の世界も動物たちにとっては非常に厳し

い世界でしたが、それに輪をかけたような残酷な世界でもあるようなのです。

 

そして、どうも、それはペットたちの責任ではなく、飼い主の責任、つまり人間

の霊的な成長の問題が関わっているということであり、そのために人はどう生き
るべきか、それこそが著者の主張したかったことのように思われます。

とにかく、本書は、従来の諸説とは大きく異なっており、愛による予定調和を

謳っていませんし、とにかく、甘い幻想は打ち破られます。

 

いずれが真実かは証明が不能な世界ではありますが、ハッとする場面、深く考

えさせる箇所は多々あり、肯定するにせよ、否定するにせよ、一読する価値は

大いにあろうかと思います。

 





 

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「魂のライフサイクル-ユング・ウィルバー・シュタイナー-」を読む

魂のライフサイクル



 

著者は、まず、最初に、発達研究に「死後の世界」が出てきたら、本当にル
ール
「違反(カテゴリー・ミステイク)」だろうか。<発達を問うこと>と
<死後の
発達を問うこと>は、本当は全く関連がないか。関連がないというのは、

それ自体ひとつのものの見方ではないか。ひとつのパラダイムなのではないか。

ひとつの人生観・世界観・生と死のコスモロジーに過ぎないのではないか。

という問いを発しています。

 

輪廻・転生・再生・生まれ変わり・復活などの多様なイメージが含まれる「円

環的ライフサイクルにおける発達のパラダイム」をテーマとして取り上げ、

その意味と構造を、理論モデルとして描き出してみようというわけです。

 

そこで、ユング、ウイルバー、シュタイナー三つの思想と理論を「円環的ライ

フサイクル」というただ一点に絞って、横並びにして、そのズレを際立たせる

ことによって、それぞれの理論地平の位置関係を明らかにしようとします。

 

そして、まず、ユングのから見たライフサイクルから検討を始めます。

 

長くなるので、ごく要点だけをピックアップすると、ユングにとって、人生と

は、無意識的なエネルギーが、夢見る人の夢を舞台にして、勝手に作りだす揺ら

めく影絵でありその無意識的なエネルギーが、勝手に自己を実現してゆく

ことを、人生と呼んでいるのである。』『無意識の存在するであろうその場所を、

ユングは「心(ゼーレ、もしくはプシュケー)」と呼ぶ。』『<わたし>が「心

(ゼーレ)」を持つのではない。むしろ、「心(ゼーレ)が、<わたし>に現れ

る。』『その「心(ゼーレ)が、この<わたし>を場として、自己を実現する。

それが、ユングの地平から見た人生の姿ということになる。』としています。

 

よって、個人の魂が生と死を貫いて連続するとは、まるで次元が違って、むし

ろ、ライフサイクルという出来事それ自体がゼーレの中で生じる。つまり、

「魂(ゼーレ)の自己展開」として、理解されるということになるようです。

 

次に、ケン・ウイルバー場合はどうかというと、ユングがついぞ名前をつける

ことをしなかった、その「心<ゼーレ>」の究極の統一状態を、一言「梵我

一如」と言ってのけ、古代インド思想とつないで見せたところに、ウイルバー

の理論的地平が成立するとし、人は、究極のアートマンに至ろうと、次々に

新しいプロジェクトを企て続ける。企てては失敗し、次の段階に進んでも満足

できず、繰り返し繰り返し、究極のアートマンに至るまで新しい企てを続けて

ゆく。』『そして、ウイルバーの理論モデルで言えば、求めても求めても至り

着けなかったその境地に、人は、死の直後にたどりつく。アートマン即ブラフ

マンの境地。』『にもかかわらず、せっかくたどりついたその境地に、意識は耐

えきれない。もし、そこにとどまることができたら「解脱」である。しかし、

大概は、そこから降りてしまう。再び収縮し始め、新たな肉体に宿ってゆく。

そして、誕生とともにあらためて「あの」究極のアートマンを回復すべく

「アートマン・プロジェクト」を企て続ける。それが、ウイルバーの説く

人生の姿ということになる。としています。

 

さらに、シュタイナーの場合となると、シュタイナーは、死後に「霊的

(精神的」実在を主張する。肉体や魂(心)は失われても、霊的(精神的)

次元の個体性は保たれる。物質的な肉体は死んでも、「エーテル体・アス

トラル体・自我」は、ひとまとまりに残っていて、順にエーテル体が離れ、

アストラル体が離れ、しかし、最後に「自我」だけは、その個体としての

実在性を失うことなく、一貫し、連続してゆく』と考えており、『その

「自我」が、今世の<わたし>に宿っている。この<わたし>として生き

ている。』『そして、その「自我」が、わざわざ、この<わたし>に現れた

ことには意味がある。目的がある。なぜ、この<わたし>として生きる

のか。なぜ、この<わたし>として一生を送るのか。長い長いタイム

スパンをもった「自我」の霊的(精神的)成長プロセスから見る時、

その意味が解き明かされることになる。』『「自我」を見る目こそ、シュ

タイナーという人の、人生を見る目なのである。』と述べています。

 

そして、最後に、先人の残した「魂」をめぐる解釈。それもひとつの

立場から見た解釈に過ぎない。しかし、それは、それは、その思想家が、

自分の人生をかけて紡ぎ出した「魂」の解釈である。そして、本物の

思想は、ひとつの立場から見た解釈として、理論的な整合性を持ち、

体系的な広がりを持ち、歴史的な吟味に耐え得る力を持っている。

と述べたあと、円環的ライフサイクルの問いも、まさにそのため

(永遠の問いのため)に在る。答えはない。何が正解なのか、結局

わからない。大切なのは、この答えの出ない問いとどう付き合うか。

それとどう対応するか、逆にこちらが問われている。』『そして、その

問いを引き受けない限り、実は、私たちは、常識的なライフサイクル

に囚われたままである。』『それに囚われたままの、科学的発達研究を、

私は好まない。同様に、生まれ変わりの信念の囚われたままの人生も、

私は好まない。そうではなく、その異なるパラダイム相互の隙間に

入り込んだ一瞬、問いが生まれてくる。そして、その問いの前に立つ

時のみ、事の真相に触れるチャンスがある。』と結んでいます。

 

ところで、本書をめぐって、当然、共感と反発があったようですが、

とりわけ、反発の振幅が大きかったようです。一方で、「魂」という

言葉が思考停止をもたらす、必要以上に神秘化をもたらし、知的探究

をマヒさせてしまうという意見があり、他方で、知的操作に傾きすぎ

ている、内的な体験の裏付けを持たない空虚な概念だけが空回りして

いるという意見がありというふうに。

 

しかし、この本は三つ理論を「言葉」の位相で検討した。とある

ように、それは止むを得ないことなのかもしれません。「行」のレベル

まで期待することはないものねだりではないでしょうか。

 

ただし、著者は、増補版では、「魂」の解釈から、「魂」の学びへと

進め、魂を学ぶとは、魂を捕えることではない。・・・むしろ、私

たちが魂の中にいる。私たちの方が、魂の一部である。私たちの方が、

魂という織物の一部をなしている。』とし、『「魂」をいかに理解する

か、そう問うた瞬間、「頭」で考えている。・・・そうではなく、その

「私」から離れることを願っていたのではないか。と問い、「魂の

学び」とは、もしかすると、その両方向(溶け込んでゆく方向と考え

続ける方向)に引き裂かれてゆくことなのかもしれない。あるいは、

振り子のように、その方向を何度も往復し続けること。・・・その

とき、魂の学びとは、祈りと、別の出来事ではないだろう。』という

新たな思いを付加しています。

 

死の向こう側は、誰もわからないとはいえ、切り捨ててしまうことが

できない直感のようなものが我々を苛むとしたら、どこまでも魂の

真実を追い求めてゆかなければならないのではないかと思います。

 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「転生した子どもたち」

転生した子どもたち


前回、ヴァージニア大学で、イアン・スティーヴンソン氏が開始した「前世」

研究について述べましたが、それから50年以上たった現在、どのような研究

成果が出ているのかを、スティーヴンソン氏の後継者の一人であるジム。・B・

タッカー氏の「転生した子どもたち」からピックアップしてみたいと思います。

 

まず、タッカー氏は、本書で、長期間、調査研究されてきた膨大な事例の中

から、いつかの項目に分類して、それぞれ、有力な生まれ変わりの事例を

紹介しています。

 

そして、それに対する想定できるかぎりのあらゆる解釈を、先入観を排した、

あらゆる可能性を考慮した解釈を通常的な仮説、そして超常的な仮説に分け

て検討していきます。

 

さらに、唯物論的世界観を筆頭とする様々な反論をも検討した結果して、

「最有力の事例について最も適切な解釈は、記憶や感情や体の傷痕が、時と

して、前世から来世へ持ち越される可能性があるということになるだろう。」

と結論づけています。

 

スティーヴンソン氏も「私たちが調べてきた比較的有力な事例については、

生まれ変わりが-唯一でないとしても-最も適切な解釈である」と主張

しています。

 

こうした結論に付随する他の結論および推論について、いくつか具体的な表現

を拾い上げてみると次のようになります。

 

「今や一部の物理学者たちが、意識を脳とは別のものであり、宇宙の中で重要な

働きをする実態と考えていることを考慮に入れなければならない。」

 

「前世の記憶を持つ子どもたちは特殊かもしれないので、その子どもたちが生ま

れ変わって来たとしても、他の人たちはそうではないかもしれない。たとえば、

それらの子どもたちは、この世に未練を残していたので戻って来たが、それ以外

の人たちは違うということかもしれないのだ。」

 

「生まれ変わりはふつうに起こるが、記憶がそれとともに前世から引き継がれて

いるわけではないということなのかもしれない。その場合は、ほとんど者が前世

を記憶していないとしても、誰でも前世があるということになるだろう。もし

それが事実なら、予期せざる死のような前世での要因が、来世で何らかの要因に

よって、正常な過程が疎外されてしまい、その結果として、一部の記憶が来世

まで持ち越されることになるのかもしれない。そうすると、すべての人間が生

まれ変わるとしても、私たちが集めた事例は、前世の記憶が残っているという

点で例外的ということになる。」

 

「これらの事例は、少なくともある事情から人間が生まれ変わる場合があること

を示す証拠にはなる-これは重要な結論には違いない-が、実際にすべての人が

生まれ変わることを教えてくれるわけではない。たとえ、私たち全員が生まれ変

わるとしても、記憶が残っている事例に見られるパターンが、それ以外の人たち

にそのまま当てはまるわけではないだろう。」

 

「私たちが集めた事例から、前世の記憶を来世へ持ち越す媒体が示唆されるのは

間違いない。単なる記憶や感情以上のものが死後にも存続しているように見える

のだ。」

 

「前世で体に外傷を負ったことにより、意識が大きな心的外傷を負い、その結果、

成長する胎児に影響が及び、新しい体に同じような傷が作り出されるのではないか

ということだ。それを意識と呼んでも、「心搬体」その他の用語で呼んでもかまわ

ないが、何らかの存在がなければ、このような仕組みで母斑が発生する可能性を

思い描くのは、私には難しい。その存在が、前世で受けた傷による影響を来世に

もたらすのだろう。」

 

「さまざまな事例があることを考えると、生まれ変わる際に自分の両親や生まれ

変わる場所を選ぶ人たちと、選ばない人たちがいるという可能性もある。このこと

から、誰もが生まれかわるまでの間にいくつかの決定を下しているのかどうかと

いう、もっと大きな疑問が浮かび上がってくる。」が、「私たちの事例は、実際問題

として、この重要な問題について教えてくれることがほとんどないのだ。」

 

「その結びつきが地理的なものか感情的なものかはともかく、これらの事例から、

生涯が終わった後にも人は、その生涯との結びつきをいくつか持ち越す場合が少な

くないことがわかる。それが一般に言えることなのかはわからないが、これらの

事例は、状況によってはつながりが来世に持ち越される場合のあることを示して

いる。」

 

「本書で扱った研究成果は、もしかするとカルマで説明することができるかも

しれないが、私たちが集めた事例からは、それを支持する証拠がほとんど得られ

なかったと結論せざるを得ない。」

 

「残念ながら、催眠は、現世の記憶を引き出すのに使う場合も、過去世の記憶を

引き出すのに使う場合も、極めて信頼性の乏しい方法なのだ。」

 

「生まれ変わりが起こる可能性を承知しているほうが、自分の人生の霊的側面や

他者の霊的要素を理解しやすいかもしれないが、過去世があるという可能性に

あまり注意を向けるべきではない。」

 

「私たち誰しもが霊的存在だということをいうことを完全に認めるには、生まれ

変わり研究について知る以上のことがわからなければならないのは確かだろうが、

そのことがわかれば、人間はもっと霊的な生活のしかたを探し求めるようになる

かもしれない。」

 

「感情の重荷を前世から来世まで引きずるという考えかたは不愉快かもしれない

が、その対応のために複数の生涯を送ることが予測されれば、最終的には、私たち

にわかる以上の問題が解消できることになるのではないだろうか。」

 

「何度も生まれ変わりを繰り返したところで、完璧な人間になることまでは期待

すべきでないが、進歩するために何度も生涯を繰り返せば、その目標に近づける

のは確かだろう。」

 

以上の結論および推論を眺めてみると、隔靴掻痒の感じで、物足りない印象を受け

るかもしれませんが、逆に、このような、どちらかといえば、科学的な研究に不向

きな特殊な対象の研究の限界というものをよくわきまえていると考えることができ

るのではないでしょうか。

 

とにかく、この生まれ変わりの問題は、人間の本質に関わる非常に奥の深い、

それゆえ、最も興味深いテーマの一つであり、さらに研究が深まることを

期待したいものです。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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