「宮崎駿の「深み」へ」

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宮崎駿の深みへ

 以前、青井汎氏の「宮崎アニメの暗号」を紹介したことがありますが、そこでは、

宮崎アニメの背景には、四大元素の錬金術哲学、そして、万物を五つの原素に

分類する五行思想、さらにケルト神話をはじめとする古代神話があるとして、

宮崎アニメの詳細な謎解きがなされていました。

 

そして、そこでは、宮崎アニメの集大成が「もののけ姫」であり、この「もの

のけ姫」によって宮崎アニメのテーマである「自然と人との相克」は極限まで

達し、宮崎駿の引退声明と相まって一応の終止符が打たれたということでした。

 

のちに、宮崎駿は、「千と千尋の神隠し」でカムバックするわけですが、そこ

では宮崎アニメを支えていた「現実感」は崩壊し、残ったのは異界物語、何で

もありのファンタジーの世界に他ならないと述べていたと思います。

 

しかし、村瀬学氏は、本書で、青井氏とはかなり異なった視点から宮崎アニメ論

を展開しています。

 

その中で、最も違いが際立ったのが「風の谷のナウシカ」だと思いますので、

そこに重点を置いて紹介してみたいと思います。

 

本書の「風の谷のナウシカ」論において、村瀬氏は、この物語は、交わりにくい

異質な三つの物語、つまり、「腐海の物語」、「人間の物語」、「王蟲の物語」が

同時に進行しているとしています。

 

まず、腐海、腐海の森とは何か。

 

宮崎駿が最初に描きたかったのは、目に見えない小さい生き物の世界、微生物

の世界であり、それを巨大化して描いてみせたのが腐海の森だというのです。

村瀬氏は、「今までアニメで、こういう「菌」や「胞子」を「巨大な森」のよう

に描こうとした作家はいなかった、というのは確かです。本当なら目に見えない

そういうカビや胞子というような生き物をものすごく巨大な「ジャングル」の

ように見せてしまったこと、おそらくこれがこのアニメの切り開いた新しい

地平でした。」と述べています。

 

これは、青井氏が腐海の森を古代の神話の森、「ケルトの森」の流れの中に位置

付けていたのとはかなり異なっています。

 

次に「人間の物語」ですが、いうまでもなく、それは、人間と人間との争い、

「戦争」です。

 

ただし、コミック版の「風の谷のナウシカ」では、複雑な形で国同士の戦闘が

描かれているものの、アニメ版では、ほとんどそのような戦争の場面は描かれ

ていません。アニメ版では、戦争の悲惨さを描くというのではなく、わずかに

登場する空中戦の戦闘シーンは、戦闘のリアルさを描くよりも、「空中」という

不安定な状況での、上昇、下降の「ハラハラドキドキ」感を描こうとしたのでは

ないかということです。

 

もう一つの「王蟲の物語」については、興味深いことが述べられています。

 

まず村瀬氏は、「「王蟲」のイメージは強烈です。(・・・)「風の谷のナウシカ」

のストーリーはあまりわからなくても、この「王蟲」のイメージだけは、しっかり

と子どもたちの胸に焼きつけられます。(・・・)この「王蟲」のイメージを

じっと考えるだけで「風の谷のナウシカ」のいくつものテーマが見えてくること

になります。」と述べています。

 

宮崎駿は、「王蟲」の造形をセミやトンボやカブトムシやザリガニやクモなどの

昆虫や節足動物を混ぜ合わせた姿にしたんだ、そして観客をハッとさせ、驚かせ

るのが芸の本道だと思っているから、でっかい「王蟲」を作ったんだと言って

いるようです。

 

さて、この「王蟲」は、口がない、あるいは口がないというイメージを持って

おり、それが「王蟲」という幻獣を特徴づける大きな特徴となっているという

ことです。

 

その一方で、「王蟲」は黄色い触手のようなものを持っており、相手に触れて

調べたり、情報を伝えたり、触れることで傷を癒したりするものとして使われ

ています。

 

このことを村瀬氏は、次のように解釈しています。「「口」は相手を食べて消化

するものですが、「触手」は相手に触れ、包み、逆に生き続けてさせるものです。

そういう意味では「口」と「触手」は正反対の存在です。ですから、それは同時

には存在しえないものなのです。「治癒する触手」を持つものは、それ故に

同時に「口」を持つことができなかったのです。」と。

 

もっとも、村瀬氏は、「王蟲」を腐海の「王」だとして、皆を守っているよう

なイメージを持つのは誤りであるとしています。

 

とにかく、最後の最後、ナウシカが「王蟲」の「触手」で触れられ包まれる

シーンで終わるのは良い終わり方だとし、「触れる」というテーマを伝える

ために、わざわざこの、「王蟲」という「口」の見えない、触手を持つ幻獣を

創り出したのだということを改めて見直すべきだとしています。

 

さて、まだ主人公であるはずのナウシカが出てきませんが、どういう役割を

担っていたのでしょうか。

 

村瀬氏によると、交わらないで進行している三つの物語の「橋渡し」として、

その間を行き来できる唯一の人物として登場してきたということです。とに

かく、ナウシカは複数の、複合的な性格を持たされており、火を使う兵士、

技術者であるナウシカが、同時に風を使い、空を飛ぶ「使者」として、

『媒介者』として働くように設定されているところがすぐれているところだ

としています。

 

このようなナウシカ像も、青井氏のナウシカ像のように、救国の士であり

ながら、魔女扱いをされて処刑された男装のジャンヌ・ダルクをイメージ

するものとは大きく異なっています。

 

最後に、村瀬氏と青井氏との間で最も見解が分かれているように思われる

「千と千尋の神隠し」について少し触れておきたいと思います。

 

青井氏は、「千と千尋の神隠し」は、異界物語、ファンタジーであるとして、

「現実とリンクしなくてもいいからこそ、その空間では何が起こっても

おかしくないのです。(・・・)「仕掛け」によって「真情」が引き起される

かどうかも分からないのです。(・・・)宮崎はこれまで、現実的な世界の

裏側に神話的な空間を生み出すことに力を注いできました。しかし千尋

が迷い込んだ異界は、そもそも夢にも似たファンタジー空間なのです。

(・・・)ファンタジー空間の中では、神話的存在は現実的存在へと転化

されるのです。だから、それ以前の作品のように背景に神話(隠された

意味?)を潜ませる必要はもうないのです。」と言い切っています。

 

一方、村瀬氏は、千尋一家が迷い込んだ世界を異界のように考えては

いけないと述べています。「千と千尋」の舞台となる湯屋は、湯=喩、

メタファーの世界であり、表向きの姿だけで判断することはできない

と主張しています。

 

つまり、ファンタジーの背後にある、元の意味、元の姿、その隠された

意味を読み取るべきだということだと思います。

 

とは言っても、アニメ、つまり、エンターテインメントですから、どの

ような受け取り方をしようと自由なはずです。

 

さて、皆さんは、一体、どのように受け取り方をされたでしょうか。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「最後の親鸞」(3)-<信>の行方-

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親鸞
 


今回は、一つのしめくくりとして、親鸞の<信>のあり方そのものについて

考えてみたいと思います。

 

さて、「最後の親鸞」は、1976年に初版が出ていますが、「最後の親鸞」、

「和讃」、「ある親鸞」、「親鸞伝説」の四つの章から構成されていましたが、

1982年に出た増補版には、「教理上の親鸞」という章が付け加えられて

います。

 

高橋順一氏は、「吉本隆明と親鸞」の中で、その間に吉本隆明の中で親鸞の

捉え方をめぐって大きな転換が生じたというのです。

 

非僧非俗の立場であらゆる宗教上の教理、教説、それによってそれによって

支えられている宗派性が最終的に解体してゆく場を追い求めていたのが「最後

の親鸞」である。ようするに「宗教」が最終的に解体され止揚されてゆく

プロセスを、親鸞という一人の宗教者を通して浮かび上がらせようとしたい

というのが「最後の親鸞」の基本的なモチーフだったとして、高橋氏は次の

ように述べています。

 

「端的にいって、「最後の親鸞」における吉本さんの親鸞観の中では、教理上

の親鸞という視点はなかったはずだと思うんですね。(・・・)「教行信証」

における親鸞というのは親鸞の余計な部分である。そこには本当の意味で

の親鸞の思想はない。そういう視点に立って書かれたのが「最後の親鸞」で

あったと思うのです。」と。

 

ところが、増補版の中で、今度は「教行信証」に展開されている、「教義」

という側面から見られた親鸞に光を当てようとしたというのです。

 

いったいなぜなのでしょうか。

 

まず、「教行信証」とはどういう書物なのかについて、それは、過去の教典

を抜き書きして、これを整理し祖述し、そして、そこに注釈を加えるという

形で展開されているものであり、教理上の主張や理論づけを積極的に行うため

に書かれているのではないとしながら、高橋氏は、「吉本さんは、親鸞の教理

というのは具合的にどういうものだったのかということを解きほぐすという

意味で教理上の親鸞、「教行信証」の親鸞を論じたわけではないということ

です。(・・・)一番重要な点というのは、いっさいのオリジナリティである

とか、ポジティヴな主張であるとか、立場性であるとか、そうしたものを否定

しようとしたところで際立っている、また、そうでありつつ逆説的に極めて堅固

な論理によって貫かれているこの「教行信証」という本の性格というものを、

「最後の親鸞」によってつかみ取った親鸞像と付き合わせてみて、そこから何が

見えてくるかというのが、この「教理上の親鸞」という論文で吉本さんがやりた

かったことだろうというふうに思うんです。」と述べています。

 

さて、「念仏を唱えれば、あなたたちは浄土へいけますよ」、「善根を積めば功徳

が待ってますよ」というような「効用の論理」、「因果律の論理」を根本から否定

し、「何のために念仏を唱えるのか」という問い自体をも否定するとき、ありの

ままに生きている、自然過程をありのままに生きてるという事実しか残りません。

 

しかし、そうであればこそ、「まさに何が宗教なのかという問題を含めて、浄土

信仰が、称名念仏が宗教という形を取ることの意味は何か。あるいは別な言い方

をすれば、そこになお宗教といえる契機というものがあり得るとすればそれは

いったい何なのかという問題が当然出てこなければいけない。もし親鸞のなかに

教理上の問題があったとすれば、それはこの問いの中にしかなかったろうと

思います。」と高橋氏は言います。

 

さらに、高橋氏は、「なんらかの因果、目的、効用によってこの世を超出しよう

とする普通の意味での宗教性が全部解体してしまっているわけですから、凡俗の

身が自然過程の中でありのままに生きながら、なおかつありのままに生きている

なかにおいて宗教性というものが成立し得るというふうにならなければならない。

(・・・)この悪の世界のなかでありのままに生きている人間存在そのものの

内部に、自然過程をはみ出す形で出てくるような宗教性の契機というものが存在

しなければならないはずだということです。(・・・)無理やりでもなんでも、

この自然過程の内部そのものに距離をつくり出す、自然過程の内部に宗教性と

自然過程のあいだの空隙をつくり出すようなやり方が必要になるということ

です。」と続け、

 

そして、「では、距離とは何なのか。これが「教理上の親鸞」のなかで吉本さん

のいう<信>という言葉で表わされているものだと思います。この<信>は、

外部にある弥陀を「南無阿弥陀仏」と拝むことではありません。ただあるが

ままの自然過程のうちにある存在者として、ぶつぶつだか何だかしらないけど、

とにかくひたすら念仏を唱えるということです。そうした中からしか生じて

こない自然過程内部における宗教性の契機が、ここでいう<信>の本質に

なります。そうした契機だけがこの<信>に残されるのです。だとすれば

念仏はまさに個人のあるがままの自然過程の深部から漏れ出てくる<信>

への呼びかけの「声」、より端的にいえば息づかいのようなものといえる

でしょう。」と解き明かしています。

 

そしてさらに、高橋氏は、「教行信証」は、やたら難しいだけである意味

たいへん空無な本であると前置きしながら、「親鸞という、無名の非僧

非俗、愚禿であり、何だかよく訳の分からないことをいっている、自分で

坊さんと言っていないから何と呼んだらいいんだろうというふうな存在が、

自分自身の<信>をどう立てるかという問題を考えぬくために書いた本と

いうことになります。」と述べたあと、「そのことがそのまま、浄土門に

おける<信>のあり方というものがどういうものであるかへの一つの答え、

証になる。だからまさに「教行信証」なわけですよね。信の証しなわけ

です。こうして非僧非俗、愚禿の最終的な意味が浮かび上がってきます。

あるがままの自然過程にありつつ、それがそのまま<信>の現れである

ような二重化された自然存在、自らのうちに<信>というかたちで隙間を

抱え込んだ自然存在、それが非僧非俗、愚禿の最終的な意味になるわけ

です。」と述べています。

 

かくして、高橋氏は、吉本隆明が「「最後の親鸞」を書いた段階でも

<信>という言葉は使われているんだけれども、今言ったような意味で

の<信>の意味というところにまではおそらく至っていなかっただろう

と思います。(・・・)でも、「教理上の親鸞」となると、さらにそこ

(「知」と「非知」の問題)を突き抜けて一挙に、<信>の極限、極北の

場へと到達する。「知」と「非知」という普遍化された問題の枠組みさえ

も消えていく極限的な場です。極端にいえば「教行信証」という本は、

親鸞以外の誰にとっても無意味な本であるというふうにもいえるかもしれ

ない。親鸞という一人の存在の内部における<信>の実践、「教行」です

よね、まさに。「教行信証」は親鸞一人の「教行」と結びつくことにおいて

のみ、つまり親鸞という<信>の証としてのみ意味を持ち得る本なのかも

しれない。」と結論づけています。

 

ところで、吉本隆明は、みずからを一貫して「無神論者」と規定してきた

ということですが、吉本がみずからの思想形成の重要な段階においてマタイ

福音書や歎異抄のような宗教書によって大きな影響を与えられてきたという

ことを考えるとき、このような親鸞への深い愛着と執拗なこだわりとは

いったい何だったのだろうという疑問を拭い去ることができません。

 

もし、吉本隆明が現代のような悪しき唯物論の時代ではなく、イエスや

親鸞の時代の人であったら、きっと、間違いなく偉大な宗教者になって

いたのではないだろうかと考えるのは私の勝手な願望でしょうか。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「最後の親鸞」(2)-非僧非俗-

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吉本隆明と親鸞


以前に吉本隆明の「最後の親鸞」を紹介したことがありますが、親鸞の

思想そのものの難しさに加えて吉本の主張にかかる独特の思考様式と

用語は、容易に理解しがたいところがあります。

 

そこで、少し補足しておきたいと思いますが、今回は、高橋順一氏の

「吉本隆明と親鸞」に依拠しながら、「非僧非俗」の問題について触れて

おきたいと思います。

 

さて、出家し比叡山で修行していた親鸞は、あるとき、お告げを受けた

として、法然のもとに入門し、専修念仏の立場へ移行していきますが、

その数年後、後鳥羽上皇により専修念仏が禁止され、法然は土佐へ、

親鸞は越後へと配流になるという事態が生じます。

 

そして、そのことによって島流しにされたというだけでなく、還俗させ

られ俗人に戻ることまで強制させられたということです。

 

よって、当時の日本の中心であり文化的にも最先端に位置にあった京

から草深い田舎である越後へは配流されたということは、親鸞の信仰

の基盤や論理にとっても大変な試練であり、ほとんど文字も解さない

ような人々の中に投げ出されて、なお自らの信仰というものを支える

根拠というものがあるとすればそれは何なのか、そして、さらにこう

した人々に布教という形で信仰を広めてゆくことが可能だとすれば、

それは何によってなのか、という問題に突き当たったと思われると

高橋氏は述べています。

 

そこから、親鸞の「非僧非俗」という立場が生まれてくるということ

なのですが、その思いは、越後に5年ぐらい留まったあと常陸へと移る

過程でより強まっていったということです。

 

そのことについて、吉本隆明は、「ある親鸞」の中で、「親鸞の思想は、

外貌は法然の徒であっても支える内的根拠はすでに変貌していた。かれ

が、京洛の法然の死に背を向けて、常陸への路をさしていったとき、心の

なかは孤独だったろう。かれの外貌は遁世の僧体とはならず、独自な思想

を秘めた在家の念仏者のものであった。このとき親鸞の胸中に、幾度も

去来したのは法然の姿ではなく、賀古の教信沙弥の姿であったろうことは

疑われない。親鸞が「我は是れ賀古の教信沙弥の定なり」といつも云い

つづけていたとは、「改邪鈔」だけが記している。」と述べています。

 

 

この賀古の教信沙弥という人はどういう人だったのでしょうか。

 

教信は、興福寺の偉い学僧であったが、あるとき、その立場を全部捨てて、

西海をめざし播州賀古郡西の口まで来て、そこに草庵をつくって、妻帯

し子供ももうけた。日常は、髪も剃らず爪も切らず、衣も着ず、袈裟も

かけず、ただただ念仏を唱えるだけだったと。そして、教信は勧進もせず、

喜捨も乞わず、農家に雇われて田畑を耕して工銭をもらい、旅人の荷を担ぐ

手伝いをして食べ物をもらい生計を立てていた。最後は、そのまま死んで、

死体は鳥獣が食うにまかせた、ということです。

 

この賀古の教信の生き様は、表面的に見れば、すでに平安時代から存在した、

出家遁世の志を抱き、世を捨てて山中などに草庵を建てて念仏三昧にふけった

「捨て聖」の一人のように見えながら、一点において異なっていたという

ことです。

 

それは、教信が喜捨に頼ることなく労働によって収入を得て生活を維持し、

俗との接点を放棄しなかったという点です。

 

高橋順一氏は、このことについて、「逆説的な言い方になりますが、簡単に

世を捨ててしまうのではなく、汚濁、蒙昧、煩悩にあふれた俗世とのつな

がりのなかにとどまり続けることによってはじめて、つまり俗世という

悪の権化と繋がり続けるという覚悟を引き受けるところまでいって初めて

<信>のもっとも根源的な層が見えてくるからです。」と述べています。

 

これは、一遍を中心とする時宗、遊行念仏の徒とは正反対の方向だという

のです。一遍もある意味では<非僧非俗>であるが、それは、徹底した現世

否定、この世の有形無形の様々な諸関係を完全に切断することのなかにしか

救済の可能性は存在しないことになります。

 

高橋氏は、続けて述べています。「一遍が徹底した現世否定によって<信>の

根拠づけをやろうとしたとすれば、親鸞の場合は、とりあえずいうなら現世肯定

の立場になります。その現世肯定をシンボリックに現わしているのが、賀古の

教信が喜捨を否定して自らの労働によって生活を営み、妻帯し子どもをもうける、

つまり、ある有形の生活を形づくっていったという事実です。もちろん、それは

単純な現世肯定ではありません。やや矛盾した言い方になりますが、教信の場合、

この世にとどまり続けることそのものの中にこの世を捨てる志向が埋め込まれて

いる、つまり、現世にとどまり続けることがそのまま現世を捨てることである、

というところに<信>の根拠があったのだと思います。それはそのまま教信に

傾倒した親鸞の立場にもなります。」と。

 

このあたりについて吉本隆明は、「賀古の教信が規範として蘇ったときの親鸞の

姿は、きわめてラジカルであった。かれは僧体を拒否し、出家遁世者とみられる

ことを拒否し、善人づらをして勧進して歩く「人師」の姿をも拒否する。(・・・)

牛盗人と呼ばれてもかまわないが、異形の風体や思想をもつ者のように振舞うな

というとき、<同化>や<教化>や<布教>の概念はまったく否定されている。

ただ還相の眼をもった一介の念仏者が、そのままの姿で<衆生>のなかに潜り

込んで、かれの内心に火をつけて歩く像だけがみえてくる。」と述べています。

 

このように、妻帯してもよし、子どもをつくってもよし、魚鳥獣の肉を食らって

もよし、そのために殺生してもかまわない、という一見するとあるがままに現世

を肯定するかのように見える親鸞の立場は、すなわち、出家遁世を否定し、布教

を放棄し、宗派そのものを解体に向かわせるものであったがゆえに、信者にも

理解されず、自分の子どもにさえ理解されなかったということです。

 

このことから、最終的に親鸞の<信>のあり方にそのものが問われてくることに

なりますが、そのことについては、次回としたいと思います。




 
 
 
 
 
 
 
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グノーシス主義の衝撃

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グノーシス陰

ヨーロッパ精神史において、キリスト教本流から異端として弾劾され、

陰の部分を形作ってきたという「グノーシス主義」とはどのような

ものだったのでしょうか。

 

聞き覚えはあるが、捉えどころのないその内実について探ってみたい

と思います。

 

グノーシスとは、ギリシャ語で「知」あるいは「認識」という意味だと

いうことですが、ドイツの教会史学者A・フォン・ハルナックは、グノーシス

主義を「キリスト教の急速なギリシャ(ヘレニズム)化」と定義づけたと

いうことです。

 

しかし、大貫隆氏は、古代末期のグノーシス主義と言っても、少なくとも三つ

のコンテキストに分けて考えなければならないとして、1.ユダヤ教とキリスト

教、2.プラトニズムとヘレニズム思潮、3.ゾロアスター教を中心とする

イラニズムをあげています。

 

そして、第一のコンテキストを中心とするのがユダヤ教的或はキリスト教的

グノーシス主義であり、第二のコンテキストを中心とするのが慣習的に「異教的

グノーシス主義」であり、第三のコンテキストを中心にするのがマニ教である

としています。

 

さて、グノーシス主義がもたらした最大の衝撃は、神に対する考え方、定義で

あったようです。

 

つまり、至高神と造物神を分離し、至高神は造物神によって造られた可視的な

宇宙全体を超絶しているというのです。特に、第一のキリスト教的グノーシス主義

の場合、造物神は無知蒙昧な神とされて、旧約聖書の神ヤハウェと同一視され、

大貫氏によると「今やヤハウェは部下の星辰や悪霊たちと共に可視的な宇宙全体を

支配する悪の権化になり、部外者には意味不明の隠語(「ヤルダバオート」など)

で呼ばれる。その誕生も光の世界の最下位の神ソフィアあるいはロゴスの過失の

結果である。」としており、ここに旧約聖書以来の知恵(ソフィア)文学の伝統に

対する批判と同時にヘレニズム世界における「愛知」とロゴスの哲学に対する批判

も込められていると述べています。

 

次に、宇宙論についてですが、可視的な宇宙は、第一、第二のコンテキストの場合、

多かれ少なかれ、造物神の失敗作とされ、極端な場合、「幻影」あるいは「子宮」

に喩えられて、天上界(星辰界)、地上界(月下界)、冥界(地下界)という伝統的

な三層構造が、超宇宙的な光の世界(プレローマ)、中間界<以前の天上界>、

物質界(暗闇、混沌、陰府)<以前の地上界、冥界>への新たな三層構造へと

平行移動されているということです。

 

それは、天地の創造を「良きもの」とする旧約聖書の創成神話や宇宙を不老不死

の最良の制作物とするプラトニズムと相容れないものです。

 

また、第三のコンテキストのマニ教の場合は、光(善神)の勢力と闇(悪神)

の勢力の間で起きた太古の戦いの悲劇的な結果から可視的宇宙の創成を説明する

が、これは現実の世界をアフラ・マズダーの善意の創成物とするゾロアスター教

の世界肯定的な信仰と相容れないということです。

 

その次に、人間については、第一、第二のコンテキストでは、多くの場合、三つ

の部分からなるものとして理解されているようです。価値的に最も低い部分は

肉体であり、その内側に位置する心魂的部分を覆っているという。肉体は三層

の最も下位の物質的世界に、魂は中間界の支配者に由来するが、今、現に

これら二つの中に閉じ込められている第三の神的な部分は、太古に起きたある

過失によって落下してきたものであり、本来、現実の物質世界を超越するもの

であるとしています。

 

これは人間を被造物、肉として、創造主ヤハウェの霊と対立させる旧約思想と

も、神の子の受肉について語る新約聖書の神人思想とも激しく対立しています。

 

また、叡智―魂―肉体の順で存在論的な降下を考える新プラトン主義と共通

するものがあるが、神的本質の過失による落下という観念は、新プラトン主義

には到底許容できるものではなかったようです。

 

他方、マニ教の人間論は、肉体と神的部分というふうに二分法的であったようで

すが、肉体の中に拘束されている「光」は、太古における光と闇の戦いの結果、

光の一部が失われて闇の世界に分散したものであるとしており、ゾロアスター教

が、人間は肉体も含めてトータルに善神の創造物であることに照らすと、それと

相容れないものになります。

 

さて、それでは、このような現世は闇の勢力が支配するという反宇宙的、現世

否定的な宗教運動において、救済とはいかにしてもたらされるのでしょうか。

 

大貫氏は、至高神と造物神の間の分離が、救済の局面では反転して、造物神と

救済神の間の分離となって現れるとし、「グノーシス神話は、至高神が今や

救済神として、造物神が創造した物質世界の中で肉体に拘束されている光の

断片を回収するために、さまざまな戦略的な救済行動を開始するさまを物語る。

すなわち、繰り返し自己の分身であるさまざまな神的存在を送り出して、闇の

世界と肉体の中で微睡んでいる最初の人間を覚醒し、彼の神的本質を啓示し、

それを認識させる。あるいは、彼のその覚醒を妨げようとする闇の勢力の策謀

を打ち砕くのである。」と述べています。そして、その啓示者が「御子」、

「キリスト」と呼ばれたものの、歴史的対象から切り離されて記号化されて

しまったということです。

 

また、啓示によって与えられる覚知がそのまま死人の復活、霊的な復活に他

ならないという見方は、キリスト教の正統主義信仰のみならず、ゾロアスター

教も保持していたという終末時における肉体の復活という考え方にも真っ向

から異を唱えるものであったようです。

 

よって、終末そのものが個人主義化、現在化される傾向にあったようですが、

一方で、拡散した個々の光の断片が可視的な宇宙を超えた本来に領域に回収

され終わるとき、可視的世界はその活動を止めるか宇宙的破局によって消滅

するという独自の終末論も語られていたということです。

 

要するに、グノーシス主義の主な主張は、この世界が神によって創造され、

支配されている、「神の作品」ではないということであり、むしろ、この世界

は、真の神を知らないヤハウェという造物主によって造り出されたものである

としているところにあり、また、現世という、この神の光が貫徹していない、

より暗い勢力が支配する場所に囚われている人間の魂は、真なる神からの救済

の知(グノーシス)によって初めて囚われの状態から解放されるというところ

にあるようです。

 

古代末期に限らず、この世が、矛盾と苦悩に満ちた世の中であるかぎり、

グノーシス主義のような徹底した現世否定的な宗教や思想が、繰り返し、

現れてきたのではないかと思われます。

 

しかし、神は死んだと言われる現代において、死んだ観念の神に変わる

真の神、実在の神を求める者が現れるでしょうか。








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「霊魂イエス」(下巻)を読む

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 下巻において、様々な困難の中、イエスとその霊魂団が多様な手段で人類を

導かれている様が描かれていますが、その中から、重要と思われる霊媒の育成

による、霊媒を通しての指導について紹介しておきたいと思います。

 

本書では、霊的世界には、幽質界、霊質界、神質界があるとして、我々人間が

死後に入るという幽質界にも、下層幽界、上層幽界、そして上級幽界がある

とされています。

 

イエスという高貴な魂がより高次な世界に参入されるにしたがい、人類への

直接的な指導が困難になる中で、まず、イエスの霊魂団が行ったことは、上記

の神質界と霊質界、霊質界と上級幽界を橋渡しする霊媒の育成であったと

述べられています。

 

そして、さらに、一般に物質界の人間というものは、よほど特殊な修行でも

しなければ上級の幽界の霊魂と交流することができないということですので、

物質界の人間に直接通信する上層幽界の霊魂を育てるという作業が行われた

ということです。

 

以上のことからも、人間が神霊の通信を直接受けることなど通常はあり得ない

ことだそうです。ただし、全く不可能というわけでもなく、高級霊魂の世界で

「キリスト」と呼ばれるような特別な個性のレベルであれば可能であるとの

ことです。

 

さて、このような霊的世界での霊媒の育成を経て、いよいよ地上の人間の霊媒

の育成にとりかかられることになります。

 

まず、イエスとその霊魂団は、何人かのふさわしい霊魂を選び地上に生まれさせ

られたということです。もちろん、それは、本人の意志、希望にもとづくもので

あり、基本的に真の価値ある霊媒というものはそのような形で地上に生まれて

きた存在であるということです。

 

因みに、その中には、二つのグループがあったということです。一つは、霊魂

の実在、霊的世界の存在をより強く証明しようとするグループ。もう一つは、霊魂

からの具体的なメッセージを伝達しようとするグループです。

 

前者だけでは、本来の目的が達せられないし、後者だけでも、世に受け入れ

られない。よって、まず、前者を中心に活動し、次に後者の活動を中心に置く、

これが霊魂団の計画であったということです。

 

 

このような計画にもとづく活動が繰り広げられた時期については、これは、

私の推察ですが、19世紀後半から20世紀初頭にかけて欧米で心霊ブームが

起こり、交霊会などが盛んに行われたり、霊媒を通じて霊魂との交信が多く

なされた時期と期を一にするのではないかと思います。

 

しかし、一人の本物の霊媒を育てることさえも大変な困難が伴ったようです。

本人の強い意志と努力はもちろんのこと、霊媒を守る優秀な協力者がいなければ

実現しないのであり、ちょっとしたミスを犯せば詐欺師扱いをされるというよう

な社会状況の中で、その価値を正当に評価されることは難しく、ほとんどの霊媒

は、大切な人生を犠牲にすることとなってしまったようです。

 

そのため、霊魂の実在、霊的世界の存在の証明の段階で、交霊会などにおいて

霊媒が非人道的な扱いを受けるという事態が発生する中で、霊魂団は、早々に

霊魂の存在に対する実証に力をかけるということを終え、肝心な霊魂からの

メッセージの伝達へと移行していったということです。

 

果たして、その結果はどうだったのでしょうか。

 

結局、この世に転生した何人もの霊媒候補の霊魂達がその使命を全うした例は、

ほんの一握りであったそうです。イエスとその霊魂団の活動は、何度もの失敗

の中からほんのわずかな成功しか得られなかったようです。

 

とにかく、わずかながらも真に価値ある霊媒が誕生したということですが、

そのような霊媒が有名になったかというと、決してそうではなく、後世に影響

を与えた本物の霊媒は少なかったようです。この時代は、とても高級とは言え

ない霊媒や、もっともらしい演技をおこなうニセモノがたくさん登場し、本物

よりも人々の目を引いてしまうことになったからだそうです。

 

かくして、特殊な選ばれた人より発せられた霊魂通信にとどまるのではなく、

次の活動、つまり、人間が誰でも自分を訓練することにより霊的に進歩できる

ような霊的トレーニング法を世に出すという活動に力点を移されていったと

いうことです。

 

本書では、イエスが、その後の活動を、その名が知られているシャカやクリシ

ュナというような偉大な存在、そして、全くといっていいほど知られていない

その他の「キリスト」と呼ばれる他の偉大な方々とどのような交流、協力のもと

で行おうとなされてきているのかが記されていますので、関心のある方は読んで

いただければと思います。

 

最後に、著者は、「人類の歴史はどんどん神を遠ざけていく。その選択の結果は

魂にとっての苦悩を生む。それを考え、今、目覚めねばならない。 人は、自ら

の行為の結果をやがて受けとるのである。苦しくても打ち勝て。まず、第一歩を

踏み出すべきである。」というイエスの言葉を記したあと、本書がだいぶ以前に

書かれたものであるとして、「現在は、本書が書かれた時よりも更に難しい時代に

なってしまった。この時代を乗り切る事は大変である。しかし、いつか、人々が

真のイエス師を求める日が来る事を、私はただ願うのみである。」と述べて結びと

しています。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「霊魂イエス」(上巻)を読む

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霊魂イエス上
  水波一郎 著 アマゾン 発売
 

冒頭に、「偉大なる魂は物質の世界では血の涙を流した。しかし、その価値は

時と共に失われてしまった。それでもイエス師の魂は今もなお健在であった。

霊魂としてのイエスが今、現れる。」

 

と記されていますが、かつて、イエス・キリストが、死後、どのようなことを

なさっておられたのか、などということについて包括的に、それも具体的に

分かりやすく著された書物というものを私は今まで見たことがありません。

 

とにかく、常識を根底から揺さぶるような内容でした。よって、本書を読む

ときには、我々がイエス・キリストに対して抱いている先入観念、常識を

しばらく脇に置いておいたほうがいいように思います。

 

水波氏は、本書の真の著者は、自分ではなく、霊魂であるとしながら、本書

の意図を、現代に生まれ、育った一人の霊媒を通じて、イエス・キリストの

誕生から、死後、霊魂の世界における活動、霊魂の世界からの人類の指導、

そして、現代においてもなお、物質の世界の人間を指導しておられる、その

実際、そして、イエス・キリストのご意思を、極力反映させんとするもの

であると述べています。

 

そして、自分はキリスト教徒ではない。同様に仏教とでもない。実際は、

霊魂学を探求し、現代では忘れられた、霊的進歩を目指す、様々な修行法

を指導している、いわば、キリスト教とは縁もゆかりもない人間であると

しながらも、イエスという個性が人類に大きく関わっているという現実が

ある以上、それを無視して、現代、未来を語れないのだと主張しています。

 

本書は、タイトルが「霊魂イエス」とあるように、イエスの生前ではなく、

死後に焦点を絞り、イエスがどのような活動をなされたか、そして、今の

なお、なされているのかを世に示した書ですが、それでも、生前の、15

ごろから30歳までの空白の10数年間、いったい、どこで何をされていた

のか等について驚くべきことが記されています。

 

さて、イエス・キリストといえば聖書ですが、聖書という書物は果たして

真実を伝えているものなのでしょうか?

 

著者は、この通信を受けとったとき、困ってしまったと述べています。

なぜなら、聖書の記述と異なる部分をあったからだというのです。

 

しかし、通信する霊魂は、次のように答えたということです。「聖書に正確さ

を要求できない。」「いかなる書といえども、一冊の本にすべての真理を著す

ことはできない。それは、人間界の文字や知性ではとても不可能だからである。

文字の中に真理を押し込めることはできない。人類の魂としての成長、知性の

発達に応じて、神はいつの時代にも、聖者、神人を物質界に降ろし、また、

その時代に相応しい聖典を送ってくださる。いつまでも2千年前にこだわって

いてはいけない。」と。

 

つまり、2千年前の人達には、その人達に応じた教えがあったのであり、人々

のそれぞれの意識の相違により、イエスは様々なたとえ話を通して人々を導かれ

たということです。それは、その人達にとって大切な教えにすぎず、現代人に

とって適切な教えとは限らないということになります。

 

それは、弟子についても言えることで、わずかな年月しかイエスと弟子は一緒に

いられなかったために、弟子達はイエスの深い心を知ることができなかった

ようで、弟子は弟子の理解の範囲で教えを理解したということです。

 

したがって、それから2千年たった現在、科学技術の進歩とそれに伴う様々な

弊害の中で、善くも悪くも変化した現代人には、現代人に応じた神の道がなけ

ればならないのであると述べ、もし、「イエス師が今、貴方の前にいらっしゃ

れば、まるで違うことを教えられるに違いないない」のであり、このような変化

に対応するため、「神は再び聖書を降ろそうとしておられる」のであると著者は

主張しています。

 

詳しい内容については、関心のある方は、是非、読んでいただくとして、最後に、

少しだけ上巻で強く印象に残ったところを記しておきたいと思います。

 

人の世と人の心というものは絶えず変化するもので、やがて、イエスが物質界に

いたときの直接の弟子達も、霊魂の世界へと入り、直接イエスを見た者は一人も

いないと状況がやってきますが、そのようにして、かなりの年月が経過したとき、

すでにキリスト教は国教化されるなどして大きな勢力を持ち始め、そろそろ始め

の清く純粋な志しに変化が起こり始めたというのです。

 

もっとも、霊魂となったイエスは、次々とより高次な世界に参入しながら

、世界でも代表的な指導霊団を構成し人々を指導したようですが、権力と

権威を持つに至った物質の世界の宗教指導者、聖職者達とイエスの指導霊団

とは接点がなくなってゆき、気持ちも合わなくなり、高級な霊魂現象も起き

なくなってしまい、やがて、別の霊魂団、下層幽界の霊魂達が教会を支配する

ようになっていったということです。

 

もちろん、中には純粋で正義感あふれる信仰者がいたことは言うまでもない

でしょうが、そのような状況によって、イエスが率いる高級な霊魂団の影響を

受ける機会が確実に失われてゆき、以後、世の中は徐々に暗黒の時代へと突入

してゆくことになったという主張は、やはり、そうだったのかと大いに納得

がゆきました。

 

しかし、「暗黒の時代へ」といっても、これでイエスとその高級霊魂団の活動

が終わってしまったのではありません。下巻では、その後の様々な活躍の様子

が描かれていますが、そのことについては、次の機会とさせていただきたい

と思います。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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マーニー教の再発見

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マーニー教


マーニーというと、ジブリのアニメしか思い浮かびませんが、マニ、或はマニ教

というと聞き覚えのある響きに変わります。しかし、それでも今や完全に消滅

してしまったこの宗教がどのようなものであったのかが明らかになりません。

 
マーニー教とは、いったいどのような宗教だったのでしょうか?

 

青木健氏は「マニ教」の中で、「マーニー教は西暦3世紀の西アジアに生きた

パルティア貴族の末裔、マーニー・ハイイエー(216~277年)が説いた教え

に端を発する。この宗教は、教祖自らがイラン系の血統でありながらメソポタミア

のセム的な宗教環境で育ち、ユダヤ・キリスト教系の洗礼集団に所属しつつも、

そこから破門されてインド亜大陸に修行の旅に出たという多彩な経歴を有して

いることの反映か、著しく複合的でコスモポリタンな性格を持っていた。」と

しています。

 

そして、マーニー教の特徴を表すキーワードとして三つ掲げています。

 

まず、マーニー教を理解する上での第一のキーワードとして「人工の宗教」で

あるという点をあげています。

 

他の宗教の場合には、最初に突出した宗教的求心力を持った教祖が現れ、教祖

没後に何世代もかけて才能ある信徒によって少しずつ教義や教団組織が整備

されていくのが常であるが、マーニー教は、マーニー・ハイイエーが60年ほど

の生涯のうちに教義と教団組織を完璧に整備してしまい、しかも、それを逐一

文字に書き記し、自分で綺麗に絵画表現まで加えて製本したという。その上、

マーニーは自ら使徒を任命し、地中海世界から中央アジアまでどのように布教

するべきかを事細かに書簡で命じたということです。

 

もっとも、「人工の宗教」と言っても、布教の過程で最後は獄死したという

マーニーの波乱万丈の生涯は、世界の宗教史上でも稀に見る魅力に富んだもの

であり、マーニー教もまた洗練された教義を整え、どの民族の出身者であれ

「改宗」することが可能な、世界の宗教史上で稀に見る興味深い宗教に仕上が

っていたということです。

 

次に、この「人工の宗教」という性格は、直接的にはマーニー教が「マーニー

が著した書物中心の宗教」だったことに反映されているとして、この「書物

中心の宗教」という点がマーニー教を理解する上で、第二のキーワードで

あるとしています。

 

マーニーは、現在知られているところでは、合計9冊の書物を著している

ということですが、その中でも、東方アラム語で執筆した7冊の書物を

「七聖典」にしているようです。

 

一般に、宗教の聖典は後世の信徒たちが個別に編集してしまうのが常で、どこ

からどこまでを聖典の範疇に含めるかに関して大論争が勃発するようであるが、

マーニー教の場合は教祖が自分で聖典を執筆し、自分でその範囲までしている

という周到さが際立っているということです。

 

これに加えて、絵の才能にも恵まれたマーニーは、書物に絵画的表現をも添えた

ということであり、教義も明確なら芸術も解する知的宗教としての風貌をマーニー

教に与えたようです。

 

さらに、マーニー教の教義の内容は、著しく情緒的な世界観を神話的な表現で語る

ところに特徴があり、この「神話的表象の宗教」という点が、マーニー教を理解

する上での第三のキーワードであると述べています。

 

つまり、マーニーは、決してギリシャ的な意味での思弁的な世界観を語ろうとした

のではなく、独特の「神話の構造」を伝えようとした教祖であったということであり

教義の論理的な一貫性などは最初から問題にならなかったようで、彼にとっては、

彼の想像を絶するイマジネーション豊かな頭脳の中に宿った現世否定的な雰囲気を

反映した神話の形成こそが唯一無二の関心事であったということです。

 

かくして、一時は、マーニー教は、西は、エジプト、北アフリカ、地中海全域へと、

そして、東は、中央アジアから中国に至るまで、教勢いを拡大し、マーニー自身が

言うような「キリスト教、ゾロアスター教、仏教を止揚した最後の宗教」、つまり、

第四の世界宗教としての位置づけがなされたかに見えたが、キリスト教やゾロアス

ター教、そして、のちのイスラム教等の既成宗教の激しい迫害のためか、或いは、

内的な要因のためか、10世紀には独立した宗教として命運が尽きたようです。

 

ところで、マーニー教について、もっとも激しい批判者として現れたのが、古代

カトリック教会であったようです。彼らは、マーニーを異端の創始者と呼び、

マーニー教徒を便乗主義的なキリスト教異端と見なしていたということであり、

欧米では、古代のみならず近代に至るまで、「異端」の代名詞であったようです。

 

しかし、近代以降、ようやく客観的な歴史的研究の対象にされるようになり、

新しい資料の発掘と研究の結果、マーニー教の基盤をイラン古来の宗教、ゾロ

アスター教などに求め、キリスト教は表層的なものであるいう考え、或いは、

グノーシス主義化したキリスト教であるという考えが代表的な主張とされて

いるようですが、それでも、少なからず、異端的な、或いは、合成的な宗教と

いうイメージを引きずってきているようです。

 

ただし、ニコラス・J・ベーカ=ブラウンは「マーニー教」の中で、マーニー

教は、本来、「メソポタミア的キリスト教」、或いは「マーニー派キリスト教」

と呼ばれるべきである。そして、マーニー教は、本質的には、もう一つのあり

得べきキリスト教であって、「融合主義的」な「人工の宗教」という批判は

当たらない。安易に「グノーシス主義」として括られるべきではないと主張

しています。

 

このように、マーニー教の位置づけについては、様々な説が唱えられてきて

いますが、さらに、驚いたことに、ルドルフ・シュタイナーは神秘学の立場

から、マーニーは、スキティアノス、仏陀、ゾロアスターより偉大な存在であり、マーニー

教の使命は、未来の邪悪人種を特別に善良で神聖な者に変えることであると述べて

いたということです。

 

以上、一方で、既成の宗教に便乗した融合主義的な人工宗教の創始者、はたまた、

異端者の象徴、偽預言者とまで言われ、他方で、仏陀やゾロアスターをしのぐ偉大

な存在とされるマーニー・ハイイエーとは、一体、何者なのか、その真の姿は

いかなるものなのか、謎はますます深まるばかりです。


 

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シュタイナー 「悪について」

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悪について
 

本書で、ルドルフ・シュタイナーは、「人類のもっとも古い問いの一つである

悪の問題」をとり上げています。

 

まず、人類の歴史をひもとくとき、悪の問題がいつも深い思索家にとって大切な

問題であったとして、悪に対する思索の例をいくつか提示しています。

 

その中で、とりわけ、目につくのは、西洋で主流であるキリスト教的な悪に対する

考え方で、「本来の悪はまったく存在しない。悪は否定であるにすぎない。善は

積極的なものである。しかし、人間は弱さゆえに、善を実行することができない。」

という古代のキリスト教の神学者アウグスティヌスの思想をあげ、現在でも依然と

して同じ答えがなされているとしています。シュタイナーは、これでは、悪に

対して、何も語ったことにはならないと述べています。

 

また、それとは異なる立場として、3世紀の新プラトン派のプロティノスの思想

を紹介していますが、プロティノスは、人間は霊と物質体とから合成された存在

であり、物質の特質とも結びついており、その物質の特性ははじめから霊の活動を

妨害している。さらに、人生における悪の起源は、まさに霊が物質の中に沈潜する

ことの中にあると主張したということです。

 

ところで、興味深いことですが、ここでシュタイナーは、日本の陽明学者中江藤樹

の思想に触れて、「17世紀の前半に生きた東洋のこの思想家の立場は、プロティノス

以来の、新プラトン派の悪の起源についての思想、つまり、物質にとらわれた人間の

状態が悪の始まりである、という思想にとても近いのです。」と述べています。

 

このほかにも、いくつかの例をあげていますが、以上のような答え方では、十分

納得できないとして、シュタイナー自身の主張を展開してゆきます。

 

シュタイナーは、今、新しい認識段階を目の前にしているとして、単なる感覚的、

物質的な世界とは異なる、超感覚的世界を認識する能力の存在を主張しています。

霊的探求の道を歩むことによって、「悪」というものの本質がわかるとして

います。

 

なぜなら、「私たちは、身体から抜け出た霊的、魂的なもと共に霊界に参入する

瞬間に、自分の人生の不完全さをいやというほど思い知らされるのですから。

自分の不完全な人生を、まるですい星が尾を引きずっているように、引きずって

いかなければならないのだ、と悟るのです。」と述べています。

 

霊界参入の出発点は、自分の不完全さと悪とを経験し、認識し苦悩することだ

として、そこから見えてくる人間悪の根本原因は、人間の自己主義にあるのだと

主張しています。

 

「悪の本当の意味は、人間の自己主義と結びつけて考えるとき、はじめて見えて

きます。そして、自分の中の悪と、不完全さと戦い、それを克服する可能性は、

自分の中の自己主義をどう克服するかの一点にかかっているのです。」と述べて

います。

 

しかし、これが結論かというと、シュタイナーは、その背後に非常に難しい問題、

大きな矛盾が横たわっていると言います。

 

なぜなら、霊界における魂は、逆に、自分の中に内在している能力のすべてを

自己の中から取り出して活用しなければならないため、私たちの自我を強化し、

力強いあり方をしなければならないと言うのです。

 

このような物質界と霊界との矛盾についてシュタイナーは「本当に気が重くなって

しまいます。」としながらも、「霊的に進歩するということは、自分の中で何かを

禁止することではなく、むしろそれを生かさなければならないのです。・・・霊的

な義務とは、・・人間にとっては進化することです。しかし、霊的進化にとって

義務であるべき事柄が直接物質生活に適用されると悪になってしまうのです。」

と述べ、また、「霊的な存在とし必要としていたもの、霊的に大切だったものが、

物質界に持ち込まれると、その高貴な、すぐれた霊的性質が、この世の物質界に

おいては、もっとも深刻な仕方で道を踏み誤らせてしまうことさえあるのです。」

と述べ、そして、「物質世界の中でお前を悪人にする能力を、物質生活の中で

働かせてはならない。なぜなら、そういう能力を働かせれば働かせるほど、お前は

魂に霊的な力を与える機会をのがすことになるのだから。」という叡智を持た

なければならないと主張しています。

 

かくして、「悪の起源をこういう仕方で語ることは、たぶん、多くの人には通用

しないだろう」と思うとしながらも、古今の思想家が悪の起源の前で立ち止まって

しまったのは、悪そのものが、物質界だけでなく霊界の存在をも想定する必要性を

示唆しているにもかかわらず、彼らの認識能力が霊界の存在を認めようとしない

ところにあるからであると結論づけています。

 

最後に、19世紀においては、唯物主義は、もっともすぐれた魂を途方もなく

強力な力でとりこにしたとして、ペシミスト(厭世主義者)として現れざるを

えなかった思想家フィリップ・マインレンダーの苦悩を紹介ながら、20世紀は、

唯物主義の時代と霊性の時代の境目であり、未来の霊的な時代に向かって生きて

いかなければならないとして、ゲーテの「ファウスト」の「感覚の光の中に留ま

るかぎり 魂の謎は解明できない 人生の秘密を知ろうとするなら 霊の高みに

向かって努力しなければならない」という言葉を引用して結んでいます。

 

以上、なかなか理解しがたいところもありますが、この物質界と霊的世界の大き

な矛盾、法則の違いということについては、大いに考えさせられるところです。

また、唯物主義に押しつぶされて、感覚と悟性の示すものしか認めることが

できないという状況は、そのまま現代の状況でもあり、何としても霊性の回復、

向上に向かっていきたいものだと思います。


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「生命学に何ができるか」

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生命学


以前に取り上げた「生命観を問いなおす」の中で、森岡正博氏が、『
「生命」

とは、「調和」とか「共生」などの美しい言葉だけで捉えきれるような、

単純なものではありません。「生命」を捉え、考えてゆくとは、「生命」の

奥底にあるその本質にまでさかのぼり、そこに内在する様々な矛盾や、

葛藤や、妥協や、悪や、愛などをつかみとってゆく作業なのです。』

たちはいったん生命の奥底まで降りていって、そこにひそむ生命の本質を

あらゆる角度から解明しなければなりません。そのうえで、「どうして

生命は、他の生命を犠牲にしようとするのだろか」「それにもかかわらず

どうして生命は、他の生命や自然と調和したいと願うのだろうか」という

疑問を、ひとつひとつ考えぬいてゆく必要があるのです。』『これが、今の

私が考えている「生命学」のスタート地点です。と述べましたが、その後、

森岡氏の「生命学」は、いかに展開されていったのでしょうか。

 

それから10年以上たってから出版された本書では、はじめに、森岡氏は

次のように述べています。生と死の問題を、まったく新しい角度から

見たい。この本は、そういう角度から生まれた。脳死移植、中絶、遺伝子

操作などを、いままでになかったやり方で考えることができたら、面白い

のではないか。生命倫理というと、「善いか悪いか」にばかり目がゆく。

だが、それ以前に、これらの問いにもっと違った角度から光を当てることが

できるんじゃないか。』と。

 

まず、脳死の再考、そして、ウーマンリブから妊娠中絶、さらには、障害者

と優生思想の問題にまで考察を深めてゆきます。

 

そして、取り扱う内容の広大さと、重さに打ちひしがれて、吐きそうになった

こともたびたびあったという状況のなかで、10年にも渡って、それらの難問

と格闘した結果、たどり着いた地点について、「生命学とは、生命世界を現代

文明との関わりにおいて探り、みずからの生き方を模索する知の運動のこと

である。すなわち、生命学とは、(1)現代文明に繰り込まれた生命世界の

仕組を、自分なりの仕方で把握し、表現してゆく知の運動であると同時に、

(2)私が、限りあるかけがいのないこの人生を、悔いなく生き切るための

知の運動である。」と表現しています。

 

また、「生命の姿を明らかにするために、私は、科学でも宗教でもない第三の

道を選択する。宗教とは別の道を歩みながら、私は「宗教性」の問いを救い

あげてゆくことになるだろう。生命学のひとつの目標は、「宗教なき時代の

宗教性」の姿を明確にすることである。」とも述べています。

 

さらに、先の生命学の二つの営みについて、より具体的に整理しています。

 

まず、「私が、限りあるかけがいのないこの人生を、悔いなく生き切るための

知の運動」という側面については、「欲望や、悪や、死などの限界性を背負った

われわれが、現代文明のなかで悔いのない人生を生きるとは、いったい何を

することなのかを探求してゆくことである。そして、その探求を原動力にして、

実際に、悔いのない人生を生きてゆくことである。」と述べながら、「悔いのない

人生を生き切るとは、(社会からの洗脳や無力化による自己否定ではなく)いま

の私の存在をつねに自己肯定できるように生きることでもあると私は思う。」と

主張しています。しかし、その自己肯定は、みずからのアイデンティティの問い

直しと密接に関わっており、「私の存在そのもののかけがえのなさの実感の上に

構築される自己肯定でなくてはならない。」とし、それを可能にする方法を、

生命学は考える必要があるとしています。

 

また、生命学は、自分の実人生における問いの明確化と、それへの決着を優先

させるとして、みずからの人生に決着を付けることを最優先しなければならない

が、それが自分の行ってきた「悪」に対して決着を付けることでもあるとする

なら、自分が行った「悪が」が大きな問題になってくる。「悪」を行ってしま

った私が、いかにすれば自己肯定に向かえるかというのもまた生命学の問いで

あるとしています。

 

そして、悔いのない人生を生き切るとは、自分がやりたいことをすべてやると

いうこと意味せず、禁欲でもない開き直りでもない新たな欲望の形を模索する

ことや、暴力と悪を自覚的に行使し、みずからの可能性を最大限に切り開いて

ゆくことをも視野に入れて、「自分にとって何が悔いのない人生なのか」を

全力で考える必要があるとしています。

 

なお、私が悔いのない人生を生き切るためには、社会全体が、それを許す

ような状況になっていなければならないとして、生命学は、人々が「悔いの

ない人生の追求」を保障されることをもって、生命倫理のルールの達成目標

と考えるとも述べています。

 

次に、生命学のもうひとつの営み、「現代文明に組み込まれた生命世界の仕組

を、自分なりの見方で把握し、表現してゆく知の運動」という側面について、

いくつか着目すべき点を挙げています。

 

まず、生命というものを、つねに「かかわりあい」と「かけがえのなさ」の

二つの側面について考えてゆくとしています。この両面から見てゆくことが

生命を考えるうえでの基本であり、「かかわりあい」と「かけがえのなさ」

の関係を、具体的な事例に即して究明することは、生命学の大きな課題で

あると述べています。そして、生命学は、死んでしまった人や、生まれる

ことのなかった人や、未生のひとの到来を具体的な生と死の現場に探し求め、

ともすれば忘れられがちになるそれらの声の重要性を繰り返し確認してゆく

作業になるだろうとし、「すでにいないはずの存在者」の力によって突き

動かされた「生命の問い直しの連鎖」こそが生命学のひとつのあり方であり、

その連鎖の運動を解明しなければならないと主張しています。

 

また、生命世界は、想像を絶するほどの暴力と殺戮のネットワークが張り

巡らされ、そのなかに私たちひとりひとりが埋め込まれているが、このなか

で人間がどのような役割を担っているのかを冷徹に把握する必要があると

して、生命存在があるかぎり、われわれは暴力と殺戮の行使から逃れられない

のかと問い、著者自身のかつて主張した、地球圏に組み込まれた人間の生命は、

「循環と共生」の方向に進もうとする本性と、「暴力と殺戮」の方向に進もうと

する本性の二つの方向に引き裂かれているという仮説は正しいのかどうか再考

しなければならないと述べています。

 

さらに、現代文明は、個々人の欲望追求を最大限に認めようとするが、何か大切

なものが失われていくのではないか、我々の生命の力を枯渇させる危険性がある

のではないかとして、「欲望から降りる知恵」を開発しなければならないと主張

しています。欲望追求によっても、苦行・禁欲によっても、われわれは豊かな人生

には至れない。かと言って、ほどほどの欲望の満足というかけ声だけでは、何も

言ってないのと同じである。その間を縫って、悩み、ゆらぎ、おろおろしながら

進む「知恵」をわれわれは創造しなければならないとしています。

 

もうひとつ、エコロジー思想では、人間が手をつけてはならない自然環境を

「聖なる保護区域(サンクチュアリ)」として保存することを提唱してきたが、

今後、科学技術がいま以上に進展するとき、われわれに突きつけられるのは、

「人間の生命には、これ以上介入してはならない不可侵域(サンクチュアリ)

があるのではないか」という問いである。われわれは、宗教ドグマによること

なく、民主主義的合意によって、ある種の不可侵域を創作する必要に迫られる

であろう。また、そのような不可侵域の具体的な設置場所についても、生命学は

提案しなければならないであろうと述べています。

 

かくして、生命学は、著者自身、どれくらい広い学問領域を横断できるものなの

か分からないとしながらも、単に生命倫理だけにとどまらず、環境哲学、臨床

心理学、宗教学、生物学、看護学などの、専門領域の知の枠組みを横断して、

生命世界の仕組を解明する「総合研究」の様相を帯びることになると主張して

います。

 

最後に、生命学に対する様々な疑問、つまり、生命学が「主観的」にとどまる

のではないか、自然科学のような「客観性」にかけるのではないかという疑問に

対し、生命学は、自然科学のパラダイムに乗らない学問を目指しているとしな

がら、生命学は、自分自身の人生における実験と検証によって独断を廃そうと

する、一種の「実験学」なのである。また、自然科学の特徴である「客観性」

と「実証」は、生命学において「豊かさへの寄与」と「人生における検証」に

よって果たされるとも言えると述べています。

 

そして、著者が述べたことは生命学の探求の一例であり、考えがまとまらずに

書くのを控えたテーマもたくさんあるとしながらも、「本書を読んで、生命学に

ひかれた者は、まず、みずからの自己を問い直し、ゆっくりと時間をかけて、

自分自身の悔いのない人生と、この生命世界に思考をめぐらせてみてほしい。

科学技術と資本主義を原動力とする現代文明のなかで、これから自分がどのよう

な人生を送るつもりなのか、そして、われわれの欲望や暴力をどのようにして

ゆけばよいのかについて、考えてみてほしい。」と訴えて結んでいます。

 

さて、森岡氏の長きにわたる生命学探求の軌跡をたどるとき、その真摯な姿勢と
苦闘の様子が
ひしひしと伝わってきますが、氏の主張する「科学でも宗教でも
ない第三の道」
は、究極的に、どこに至るのでしょうか。果たして、「宗教なき
時代の宗教性」の姿を
明確にすることができるのでしょうか。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体