「仏教誕生」-誕生前夜-



仏教誕生1




仏教というと、我々は、まず、浄土宗・浄土真宗、日蓮宗、真言宗、禅宗等々
の宗派を思い浮かべますが、これらはすべて大乗仏教と言われるものです。
 
しかし、釈迦が説かれた教えや直後の原始仏教と、中国を経由して我が国に
伝えられた、上記のような大乗仏教にはこれが同じ仏教かと思うくらい
大きな隔たりがあります。
 
そこで、宮元啓一氏の仏教誕生を手がかりに、今一度、古代インドと
いう宗教的・思想的風土はどのようなものであったのか、そして、その
中からどんな革新性をもって仏教は誕生したのかをたどってみたいと
思います。
 
紀元前6世紀頃、古代インドのガンジス河中流域においては、大量の米の
余剰生産に支えられて商業経済が盛んになり、また、手工業も盛んになり、
その中心地としての巨大な都市が形成され、そして、こうした莫大な富を
背景に高度な統治形態をもつ強大な国家が誕生したということです。
 
こうした社会状況を背景として、バラモンによるヴェーダの宗教の伝統から
はずれた、沙門と称する出家の宗教家が続々と現れ、大小のおびただしい
数の教団が生まれました。その数は、62とか、或は363とか言われ、
とにかく百花斉放といった活況を呈していたようです。
 
仏典には、仏教成立時代に六師外道と称し、特に影響力があった6人の
沙門の名を挙げています。プラーナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、
アジタ・ケーサカンバリン、パクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ベーラ
ッティプッタ、ニガンタ・ナータプッタの6人です。
 
そのうち、プラーナ・カッサパは、火を拝する儀礼を特徴とする教団を率い、
ジャイナ教の出家と同じく全裸で生涯を通したという。彼の唱えるところに
よれば、人間なども生き物の体を切ったり、苦しめたり、命を奪ったり、他人
の家に押し入って略奪したり、嘘八百をならべたてても、何の悪事をなした
ことにもならない。あるいは、逆に、祭祀をきちんと催したり、惜しみなく
布施を行ったり、感官を制御して欲望を遮断したり、嘘をまったくつかなった
りしても、何の善事もなしたことにならないという。悪事とされること、善事
とされることをなしても、善悪の業が生ずることはなく、したがって、また、
その報いもないというのです。
 
彼の説は、後世の学者などから道徳否定論と言われるようになったということ
ですが、彼は、無頼の徒ではなく修行者であり、決してやりたい放題であった
わけではなく、世俗の価値観である善悪を超えることこそが、修行の目標として
立てられるべきであると主張したものであろうと宮元氏は述べています。
 
彼は、のちに、釈迦と問答を行って敬服し、二人の弟や大勢の弟子たちとともに
釈迦の弟子になったということです。
 
マッカリ・ゴーサーラは、すでに成立していたアージーヴィカ教団という教団
に所属する苦行者で、その中興の祖というべき人物だったようです。一時、かなり
強大な勢力を誇っていたが、やがて衰退し、ジャイナ教に吸収されてしまったよう
です。彼らのいうところによれば、世界を構成している要素は、霊魂、地、水、火、
風、虚空、得、失、空、楽、生、死の12あるという。
 
彼の教えでもっともよく知られているのは、輪廻転生も、それからの脱却である
解脱も、何らかの原因があってのことではないとしたことです。いわゆる無因
無縁が生きとし生きるものの実態だというのです。つまり、輪廻転生も解脱も
ともに認めるのですが、みずからの意思によって死後のよりよい境涯を得よう
とか、解脱を得ようとか、そのようなことで努力をしても無駄だというのです。
 
努力しようがしまいが、賢者であろうが愚者であろうが、八百四十万の大劫を
経れば、いかなるものも解脱に至り、それまでは輪廻転生するばかりだという
ことで、後世の学者は彼の説を決定論、運命論と呼んでいるようです。
 
しかし、宮元氏は、そう説いたのは何らかの思惑があってのことで、解脱を
めざすあまりにしゃかりきになっている者は、解脱あるいは解脱の手段に執着
しているのであり、努力すればするほど、実は解脱から遠ざかっているという
ことになろうと述べています。
 
アジタ・ケーサカンバリンは、この世を構成する要素(元素)は地、水、火、
風の4種類にすぎず、それらのみが常住不変であると主張したという。人間
もまた同じく、これら四つの要素が集まってできたものにほかならず、死ねば、
人間を構成していた地の要素は外界の地に帰るのみである。同じく水は水の
集まりに、火は火の集まりに、風は風の集まりに帰る。死後も存続する霊魂
というものもない。そして、来世というものはないから、善悪の果報を受ける
こともない。父母もなければ、沙門もバラモンもないというのです。
 
後世の学者は、彼の説を唯物論とか快楽論とか呼んでいるようですが、宮元氏
は、この説をはたして額面どおり受けとってよいものか疑問であるとしています。
彼は苦行によって間違いなく何かをめざしていたはずであり、解脱の虚無的な面
をあえて前面に打ち出し、そこだけが彼の説だと周囲から見られたのかもしれない
が、それにしても、彼の説に快楽論というレッテル貼るというのは、あまりにも
皮層な見方にすぎるであろうと述べています。
 
パクダ・カッチャーヤナは、先のアジタ・ケーサカンバリンの説く4元素に、苦、
楽、生命(霊魂)を加えて7要素説を唱えたという。彼によれば、これらの7要素
は独立した不変のものであり、互いになんの関係ももたない。したがって、殺す者
も殺される者もなく、聞く者も聞かしめる者もなく、知る者も知らしめる者もない。
鋭利な剣で首を切り落としたとしても、誰も死ぬわけではない。ただ剣が7要素の
すきまを通りぬけるだけであると主張したということです。
 
サンジャヤ・ベーラッティプッタは、「来世はあるか」との質問に、「もしわたくし
『来世はある』と考えたならば、あなたに『来世はある』と答えるであろう。
しかし、わたくしは、そうだとは考えない。そうかもしれないとも考えない。それ
とはちがうものだとも考えない。そうでないとも考えない。そうでないのではない
とも考えない」と答えて、この議論は、どうにもとらえどころのないしろもので
あるため、ウナギ論法と名づけられたということです。なお、彼の高弟であるサー
リプッタとモッガッラーナと共に多くの弟子が釈迦のもとに弟子入りしたそうです。
 
ニガンダ・ナータプッタは、ニガンダ派を改革して、ジャイナ教を打ち立てた人で、
マハーヴィーラの尊称でよばれたという。不定主義、相対主義の唱道者と言われ、
いかなるものごとについても、絶対的な判断を下してはならないと説いたという
ことです。とにかく、ジャイナ教は、初期仏教と、教団のあり方から教義まで驚く
ほどよく似ているとされています。
 
さて、ここでようやく釈迦について述べるところまで来ましたが、長くなります
ので、ここでいったん中断して、次回にまわしたいと思います。
 


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プラトンの宇宙論2-デミウルゴスとは何か?-



デミウルゴス

 

デミウルゴスとは、本来、ギリシャ語で「職人」や「匠」という意味だった

ということですが、プラトンによって宇宙の造り主、製作者たる神という特別

な意味を賦与されたということです。

 

しかし、語り手ティマイオスは、「万有の作り主であり父である存在を見出す

ことは、困難な仕事でもあり、また、見出したとしても、これを皆の人に語る

のは不可能なことです。」と述べ、その内実について深く追及することは断念

されているように思われます。

 

そこでのちに、デミウルゴスを文字通りの造り主として受け取るのか、それ

とも自然学的原因を神話的枠組みで描いた象徴的表現と見なすのか、さらに、

ティマイオス』で語られる宇宙の生成を字義通り受けとめるのか、それとも

神話的表現と見なすのかについて、活発な論争が巻き起こったようです。

 

さて、ティマイオスは、宇宙の生成の原因、原理について、次のように語って

います。「それでは、生成する事物すべてと、この宇宙万有との構築者が、

いったいどのような原因によって、これを構築したかということを話し

ましょう。構築者はすぐれた善きものでした。ところが、およそ善きもの

には、何事についても、どんな場合にも、物惜しみする嫉妬心は少しも起こら

ないものです。そこで、このような嫉妬心とは無縁でしたから、構築者は、

すべてのものができるだけ構築者自身に似たものになることを望んだのでした。

まさに、これこそ、生成界と宇宙との最も決定的な始めだとすることを、賢者

たちから受け入れるなら、それが一番正当な受け入れ方でしょう。」

 

つまり、神は善であり、ただ善いことのみの原因であるとして、「神は妬む

もの」という当時の一般的な神観を否定しています。ここで、宇宙の構築者が

善きものであり、宇宙をできるだけ善きものになるように制作したということ

が生成と宇宙の原理として立てられます。

 

ここから、プラトンの語る神、デミウルゴスは、ユダヤ・キリスト教のような

万物を無から創造する全能の神ではないことが導かれます。無形のものに形を

与える神、無秩序のであったものに秩序を与える神であり、感覚世界の「必然」

の抵抗にあうが、「必然」を説得してできるかぎりより良い世界にする神的存在

であるということです。

 

また、宇宙の根本的性格について、「理性(ヌース)は魂(プシュケ)を離れ

て何ものにも宿ることはできない。(・・・)この宇宙は、神々が先々への配慮

によって、真実、魂(プシュケ)を備え理性(ヌース)を備えた生きものと

して生まれたのである」と述べていますが、プラトンは、物質を第一の原理と

する物質主義的機械論は明確に否定し、魂(プシュケ)を自然世界の第一の

原理に据えているようです。

 

そして、また、デミウルゴスが、「神々よ、私がその造り主となった神々、私が

その父となった作物は、私によって生じたものであるから、私の意志なしには

解体されえない。まことに、結ばれたものはすべてまた解かれる。(・・・)

しかし、あなた方は、解体を受けることも、死の定めに会うことも決してない

であろう。」と宣言した言葉には、デミウルゴスの位相と宇宙の誕生後も、

宇宙や世界霊魂とは異なる何らかの仕方で宇宙の秩序に関わることが暗示され

ているように思われます。

 

しかしながら、デミウルゴスが生成するものの唯一の原因ではなく、また、「場

」やイデアをつくったわけではなく、崇拝の対象ともなっていないことから、

それを神ではなく神話的シンボルだとみなす考えがあるようです。

 

さらに、近代以降、宇宙の根本である理性(ヌース)や魂(プシュケ)の原理は

排除され、「神」の観念は次第に放棄されて、偶然によって自然世界が成立した

とする機械論的自然観が支配してきたように思いますが、果たしてプラトンの

宇宙論の復権はあるのでしょうか。魂は、神は、復活するのでしょうか。

 

瀬口昌久氏は、宇宙の造り手とは何かで、「現代宇宙論のなかから、宇宙の

解明には人間の存在自体を本質的な属性と考える「人間原理」のような方法論

や思想が登場してきたことは、(・・・)プラトンがヌースとプシューケーを基

礎とした自然観を対峙させた思想とその意義が、現代の科学社会に再びリアリ

ティをもってよみがえってきている証とも言えるのではないだろうか。」と

述べています。

 

そして、瀬口氏は、「法律では、星や月の運行や年月や季節の移ろい

について、魂がそれらの原因であることが明らかになったことを受けて

「しかも、それらはあらゆる徳をそなえた善い魂なのであるから、これら

の魂は神であると、私たちは言うことになるでしょう」と宣言されている。

ティマイオス』において宇宙と世界霊魂を造った卓越したヌースをもつ

もの(プシューケー)が、「神」と呼ばれるのはこのような意味と文脈の

延長線においてであろう。それゆえに、デーミウールゴスは、単なる神話的

表現ではなく、プラトンの宇宙とコスモロジーのなかに神々として存在する。」

と結論づけています。


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「ティマイオス」-プラトンの宇宙論-



プラトン彫像 




この書は、この宇宙が造り主、製作者たる、デミウルゴスによって、秩序ある

善きものとして製作された、そのプロセスを描いた作品ということになります。

 

西洋において、プラトンのものとしては、古代から中世にかけて最も影響力の

あった作品であったようであり、当時の新しい自然観形成の大きな原動力と

なったということです。

 

プラトン晩年の作品のようで本書と「クリティアス」、「ヘルモクラテス」の

3部作として構想されたようですが、この構想は「クリティアス」の途中で

未完に終わりました。

 

本書の宇宙論の語り手ティマイオスは、作中のソクラテスの言葉によると、

ロクリスの人で、財産、家柄でも第一級、政治面でも重鎮、学問の上でも

「全体の頂上をきわめた人」と言われ、特に天文学に通じていて、宇宙、

自然の研究に携わってきた人といわれていますが、その宇宙論は、種山恭子

(「ティマイオス解説」)によると、「パルメニデスと同様の立場を大原則と

しながら、自然の事物を構成するものとして、火・空気・水・土の四種の

物体を想定している点や、粒子説のよる医学・生理学においては、エンペ

ドクレスの影響が明らかなように思われ、しかしまた、エンペドクレスと

は異なり、火・空気など四種の物体の粒子に幾何学的な正多面体の形を与え

ている点や、その他自然の事物のあらゆるところに数的比率に従った秩序を

見ようとする点は、ピュタゴラス派の伝統に立つもののように思われるので

ある。」と述べています。

 

さて、語り手ティマイオスは、「わたしの考えでは、まず第一に次のような

区別を立てなければなりません。つまり、常にあるもの、生成ということを

しないものは何なのか。また、常に生成していて、あるということの決して

ないものとは何のか、ということです。」と述べ、「常にあるもの、生成しな

いもの」=「理性の対象」と「常に生成していて、あるということのない

もの」=「感覚の対象」の区別から始めます。

 

そして、「もしこの宇宙が立派なものであり、製作者(デミウルゴス)が

すぐれた善きものであるなら、この製作者が永遠のものに注目したのは明ら

かです。(・・・)というのは、宇宙は、およそ生成した事物のうちの最も

立派なものであり、宇宙は、言論と知性(理性)によって把握され同一を

保つところのものに倣って、製作されたわけなのです。ところで、以上の

ような事情があるとすれば、この宇宙が何らかのものの似像であることも、

これまた大いに必然的なことです。」と述べています。

 

つまりは、デミウルゴスは、一方で永遠なるイデアの世界(理性の対象)

を眺め、他方にたえず流動し続ける「形なきもの」(感覚の対象)を見て、

イデアを手本に「形なきもの」に形を与え、この宇宙を造ったということ

になります。

 

製作者は善きものであったから、すべてのものができるだけ製作者自身に

よく似たものになることを望んでということですが、では、その善いと

いう宇宙の秩序は、どういう形で実現されているのでしょうか。

 

ごく簡単に記すと次のようになります。

 

<宇宙は「理性」を賦与されるが、「理性」は魂を離れては何ものにも

宿りえないので、魂が宇宙に与えられた。>

 

<宇宙は完結した統一体である。つまり、宇宙は一つである。>

 

<物体的な宇宙を構成する四種の物体、火・空気・水・土は、数学的な

比例を通じて結合される。>

 

<宇宙の形体は球形である。>

 

<宇宙の魂は、「有」(存在)と「同」(同一性)と「異」(差異性)から

構成され、比率に従って区分されている。>

 

<生成物としての宇宙は永遠存在ではないが、一のうちに静止している

永遠を写して、数に即して動きながら永遠らしさを保つ。その似像と

して「時間」が作られた。>

 

<宇宙は、天の種族、空中を飛翔する鳥の種族、水棲族、陸棲の歩行する

種族という四種の生きもので満たさなければならない。>

 

<永遠存在ではない神々(天体)も神(製作者)によって不死を約束される

が、四種の生きもののうち、天の種族以外の「死すべき定めの種族」の製作

は、その神々に委ねられる。しかし、人間の魂のうちで理性の部分は、不死

なる部分として、まさしく神によって製作され、宇宙の魂と同種のものと

して製作された。>

 

<神(製作者)は魂のうちの不死なる部分を構成したのち、まず、それらを

星(恒星)と同じ数に分割し、それぞれの魂を星に乗せる。どんな人間の

魂も、その本性は神によって製作された神聖なものであり、星を故郷とする

ものであるが、地上での身体的な生に伴って必然的に生じる、感覚的な激動

や、快楽を伴う情欲などを克服するかどうかによって、死後、天上の生が

約束されるか、他の劣った生きものに生まれ変わって再び地上に縛りつけ

られるかが決まる。>

 

<不死なる魂が身体(頭)に結びつけられる。人間の魂は、宇宙の魂と同様、

「同」の円と「異」の円から構成されているが、身体に植えつけられて間も

ない頃は、それらの円は捩じ曲げられ、「同じ」ものを「異なる」と呼ん

だり、「異なる」ものを「同じ」と呼んだりするという愚かなものになる。

しかし、やがて成長とともに、魂の循環運動は正され、正しい判断をする

ようになる。>

 

このように、この宇宙論は、できるだけ「理性の対象」に注目しながら、

この宇宙の構造を探るという形で進められていきますが、これがどのように

視覚的・映像的な感覚界へ投射されているのかという問題が生じてきます。

 

そこで、それを説明するために、「生成するもの」と「生成するものの

モデル」を関係づける根源的な素材のようなもの、すべてを受け入れる

「受容器」のようなもの、つまり、「場」というものが登場します。

 

この「場」というものは、プラトンによると、それが延長体であるかぎり、

言論(ロゴス)によって把握される非延長的な理性の対象とは区別され、

「まがいの推理」によってしか捉えられないものだとしています。ただし、

ここに、「延長体」たる場が母胎となって、すべての感覚対象も、その場

の一部分を占めているかぎり、三次元的なひろがりを持つという点で共通

したものであると捉えられています。

 

そして、感覚的諸性質・力が「場」を満たしているという図式で、感覚界が分析

されたのち、延長体としての共通性を持ち、同じ一つの母胎たる「場」にあら

われる点で共通しているところの感覚的事物は、さらに幾何学的形体の粒子の

形を与えられることによって処理されていきます。

 

そして、さらに、本書の目的が、「人間の本性」を自然世界の中に位置づける

ためであったということですから、どのようにして合目的的な身体が構成された

かについて語られていくわけですが、結論として、身体と魂との均衡が重要で

あるとして、魂の訓練と、身体の訓練の両方の必要性を説き、これらを教導する

主体である「魂」に養分と動きを与えることが大事であるとしています。

 

最後に、人間以外の生きものの誕生が語られ、これで天体から水棲動物にいたる

までのあらゆる生きもので宇宙は満たされることになるとして、この宇宙論は終

わっています。

 

では、デミウルゴスとは、いったい何なのか、文字どおり、造り主の神なのか、

それとも、自然的原因を神話的な枠組みで描いたものなのか、等々については、

次回に述べたいと思います。

 



 

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アトランティス物語2-史実か?虚構か?-





アトランティス1


 


プラトンがアトランティスをどのような位相で語ったのかについての解釈は、


大きく分けると、史実説と虚構説に分けられるようです。


 


まず、史実説についてですが、大西洋上にあって海底に沈んだとすると、何か


残存物が残っていなければなりません。大西洋には、今日のアイスランドから


南大西洋にかけての中央海嶺に隆起した山脈が確認されているようですが、


地殻変動のよる土地の隆起や沈降は、その速度がきわめて遅いため、かつて


大西洋にアトランティスのような陸地があって、それが沈んだことの証明には


ならないということです。


 


そこで、1960年代に、大西洋ではなく、地中海域に生じた同様な文明崩壊


と重ね合わせることができないかということで、クレタ島のミノア文明崩壊が


クローズアップされたことがあるようです。


 


紀元前15世紀に火山の噴火によってクレタのテラ島の古代都市が沈没し、


それを期にクレタ文明が消失したようですが、クレタの海洋王国には、いくつ


かの宮殿が分散したかたちで建設されていて、島が管区に分けられ、王の家族


によって統治されていたようで、これは、アトランティスの王国も島全体が


10に分割され、ポセイドンの神の子孫らに領地として与えられたという


記述とよく似ているということです。


 


したがって、このアトランティスはクレタ島にあったという仮説を支持する


者は少なからずいるようですが、ソロンがギリシャ本土から近いクレタ島に


栄えたミノア文明について知らず、これをアトランティス物語として語った


というのはとても信じ難く、結局、決定的な証拠を示すことができなかった


ようです。


 


そうだとすると、これは史実ではなく虚構ではないかという解釈が出て


きます。


 


どうも、アトランティスをめぐる資料は、古代にいくつかあるが、それらは


いずれもプラトンに遡り、プラトン以前に古代の史家による言及がまったく


ないようで、この話が唯一の源とすると、虚構の可能性が出てきます。


 


プラトンの対話編について最初の注釈を書いたクラントルは、純然たる歴史


と見なしたが、アリストテレスは、むしろこの話を虚偽のものと考えていたと


されており、プラトン以後の著作家の言及を見ると、これを史実とするものと、


虚構だとするものが相半ばしているということです。


 


もし虚構だとしても、単なる荒唐無稽な話ではないとすると、それは、どの


ようなアレゴリー(寓意)として読まれるべきものなのでしょうか。


 


ちなみに、新プラトン派の解釈は、そのほとんどが、古アテナイとアトラン


ティスの戦いを、魂と悪しきダイモン等、宇宙において対峙する二つの勢力


の争いとして説明がなされたということです。


 


現代においては、まず、比較的以前の解釈者たちは、アテナイとアトラン


ティスの戦いを、アテナイを中心とするギリシャ軍とペルシャとの戦争を


物語風に翻案したものだと考えていたようです。


 


言葉だけについていうと、「アトランティス」という名称はすでにヘロドトス


に出ており、プラトンがヘロドトスからいくつかのヒントを得て、ここから


架空の物語を創作したというのです。


 


しかし、これにはいくつかの難点があるようです。


 


まず、物語では、古アテナイには港がなく、むしろ、戦闘では陸上戦に秀で


ていたとされるのに対して、ペルシャ戦争当時のアテナイはすでに海軍大国


であったということです。


 


また、プラトンが古アテナイの栄光を語るのに、なぜアトランティスだけで


なく古アテナイをも破滅させたのかという問題にうまく答えられていないと


いうのです。


 


よって、現代では、フランスの構造主義者の中でも影響力のあるヴィダル=ナケ


という学者の次のような解釈が有力視されているようです。


 


彼によると、この物語は古アテナイとアトランティスとをアテナ(およびパイス


トス)とポセイドンの間の争いを表現するものとし、この二神の戦いは、神話の


伝統形式に沿ったものであるが、さらに、それはまた「土」=アテナイと「水」


=アトランティスの対立によっても表されているというのです。


 


このことについて、国方栄二氏はプラトンのミュートス』の中で、「このよう


に二つの対立的な構造を見るヴィダル=ナケの解釈は、プラトンの記述の細部に


象徴的な意味を読み込もうとする大胆な、しかも非常に興味深い試みである。


これによれば、アテナイとアトランティスは、結局プラトンが理想とする陸上


国家と彼が非難してはばからない海洋国家とを、ミュートス風に体現したもの


となるだろう。そうすると、重すぎる富の蓄財に耐えかねてアトランティスの


王たちが堕落していくあり様はペルシャではなく、むしろプラトンが幼少の頃


からいやが上でも体験していた、当時のアテナイの国情に似ていると考えること


ができる。(・・・)つまり、アテナイとアトランティスとの「二都物語」は、


プラトンがかつて国家』においてもっとも理想的な国家として構想したものが、


実際に歴史上存在したとされる「古アテナイ」と、蓄財され富によって膨張し


破滅の道をたどった海洋国家「現アテナイ」とを象徴的に描いたものである-


これがヴィダル=ナケの解釈で、現在のところ古典学者の間でもっとも支持され


ているものであるということができるだろう。」と述べています。


 


ただし、この解釈にも難点があるということです。


 


国方氏は、いくつかの不満点を述べたあと、「もともとこの物語は、ソクラテス


が前日に離した「思想国家論」が、話(ミュートス)だけのものでなく、現実に


動くところを見たいという要請を受けて語られたものである。もしもその話が


虚構、すなわち現実に何らの対応をもたない架空の話だとすると、それはソクラ


テスの期待を裏切ることになるのではないかという疑問が生じる。」として、


虚構説そのものに対する疑問を展開しています。


 


そして、クリティアスが、この話が作り事ではなく真実の出来事を語るものだ


と断言していることなども示して、「もしもアトランティス物語について回答を


求められるならば、われわれは一応これをリテラルに、つまり史実として読む


べきだと思う。つまり、古アテナイとアトランティスとの戦争を、作者プラ


トンが語るままに、そのまま受け入れるのが基本的に正しい読み方であると


考える。」と述べています。


 


もっとも、プラトンの関心はアトランティスではなく、ひとえにアテナイ史に


あり、現アテナイが歩むべき道と将来の指針を明らかにすることがプラトンの


意図であったということです。


 


さて、皆さんは、どうお考えになるでしょうか。






 
 

 

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アトランティス物語-「ティマイオス」・「クリティアス」より-



ティマイオス 



プラトンの「ティマイオス」と「クリティアス」には、かつて、ヘラクレスの柱


(ジブラルタル海峡)の彼方に、アトランティスという大きな島があって強大な


国家を形成していたが、大地震と大洪水によって海中に没して姿を消したという


物語が語られていますが、後世、太古に、アトランティスという大陸があって


古代文明が栄えたという、その消えた幻の大陸のイメージだけが一人歩きして


しまったようです。


 


では、プラトンは、本来、どういう意図でこのような物語を登場させたので


しょうか。


 


「ティマイオス」そして、「クリティアス」の中では、理想の国家が現実に活動


する状況が知りたいとするソクラテスに対して、クリティアスが、祖父から聞


いた物語として語る形で登場します。


 


それは、七賢人の一人であるソロンがエジプト滞在中に神官から聞いた物語を


クリティアスの祖父に語り、それをさらにクリティアスが祖父から聞いたと


いうものです。


 


遡ること9千年前、ギリシャ人の間では、その後の何度かの大洪水や火山の


噴火ですっかりその伝承が途絶えてしまったが、エジプトの聖なる文書による


と、その時代の古アテナイは、戦争においても最強であり、他のあらゆる面で


卓越した法秩序を持っていたというのです。


 


神官は語る、「あなた方は地上の洪水をただ一つ記憶しているに過ぎないが、


そのような洪水は何度もあったのである。その上、およそ人類を通じて最も


立派な、すぐれた種族が、あなた方の国土にいたのを、あなた方は知らない。


(・・・)おおソロンよ、かつて、水による最大の危機に見舞われる以前に、


現にアテナイの国であるところのあの都市国家が、戦争に関しても最強で


あれば、またあらゆる面で卓越した法秩序を持っていたことがあるのだ。


そして、その国家の遂行した偉業も、その国政も、およそ天の下でわれわれ


の耳にしたあらゆる事例のうちで、最も立派なものであったのだと言われて


いるのである。」と。


 


一方、ジブラルタル海峡の彼方、アトランティス島に驚くべき巨大な諸王侯


の勢力が出現し、その島の全土はもとより、他の多くの島々と、大陸の


いくつかの部分を支配下におさめたというのです。彼らは、莫大な富を


所有し、必要とされる施設をことごとく備えた立派な都市を建設していた


ということであり、強力な軍隊を備え、大規模な運河等の建設も行われて


いたということです。そして、また、地下資源が豊富で、土地も肥沃なため、


生活に必要な物資の大部分をこの島で算出し、大いに繁栄を誇っていました。


 


あるとき、アトランティスからこのような強大な勢力が海峡内に侵入して


きて、内海周辺の国々を隷属させようとしてとき、当時のアテナイが危険に


さらされながら、先頭に立ってこれを撃退して、海峡内に住む人々全員の


自由を外圧から守ったということです。


 


ところが、その後、大規模な地震と大洪水が度重なって、一昼夜のうちに、


アテナイの兵士たちは大地に呑み込まれ、アトランティス島も海中に没し


て消滅してしまいます。


 


「クリティアス」は、途中で中断されており、明確には記されていません


が、アトランティスが沈んだのは、「かれらに宿る神の性が、多くの死すべ


きものども[人間]とのたびかさなる混合によって、その割合を減じ、人間の


性が優位を占めてくると、とうとう財の重荷に耐えかねて、見苦しい振る舞い


をするようになり、人を見る目のある者には、「破廉恥な奴らよ」と思われる


ようになってしまった。」ことが消滅の原因であることがうかがわれます。


 


一方、アテネの兵士も一緒に沈んだとありますが、それは道徳的退廃による
によるものではなく天変地異、つまり、自然に手によるもので
あったという
ことです。


 


しかしながら、このような卓越した法秩序、立派な国制と偉業を誇ったアテナイ


も、後世になると、内には民衆煽動家が横行し、煽動された民衆の多数決によって


無謀なシケリア遠征などを企てて外へ覇権を要求する、しまりのない大国と化し、


そしてやがてスパルタの前に降伏したアテナイは本来のアテナイではなくなって


しまいます。


 


かくして、アトランティス物語は、アトランティスという文明の偉大さを語る


ためではなく、往時のアテナイの政体とソクラテスの構想した理想の制度は驚く


ほど一致していたということですから、理想の国家の実際の活動の例として、


アテナ神が建設したままの古きアテナイの偉業を語るために、アトランティスが


引き立て役として登場したということになります。


 


とはいっても、その後、このアトランティスというものの存在と位置づけ


をめぐって様々な説が唱えられ、議論が巻き起こったのは事実です。


 


しかしながら、長くなりますので、いったん、ここで中断して、次回、


アトランティスにまつわる様々な説を紹介したいと思います。










指導霊
  (水波一郎 著 アマゾン 発売)















 


 




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「指導霊」を読む

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指導霊

    水波一郎 著 アマゾン 発売

本書は、明治後期に農家で生まれた学問のない一人の女性の死後に焦点を当て、

彼女が、その努力と素質によって、守護霊、指導霊の補助霊の見習い、補助霊、

個人の指導霊、そして、さらには、修行法の指導霊、国境を越えた世界的な指導

霊団の指導霊となり、幽質界(通常、人が死後に入る世界)の代表のひとりに

まで成長していくさまを物語風に描いたものです。

 

この主人公は、一般の人たちから見ると、死後、ずいぶんと上の世界に入って

おり、めったにないケースであるが指導霊の実際を知るのは大変良い主人公だ

としています。

 

なお、一般の人が入る世界の紹介も検討されたようですが、昨今、現世、物質界

の霊的環境の悪化が著しく、死後、とても辛く厳しい世界に入る可能性が高い
ため、それ
では、とても辛くて読み進められないということで、取りやめに
なったという
ことです。

 

さて、指導霊、守護霊、あるいは補助霊というのは、どういった存在なので

しょうか。

 

もともとは、これらの用語は、西洋の心霊研究において使用されていたものを

翻訳したもののようですが、今では様々な定義や解釈がなされ大変混乱して

いるようです。

 

著者の水波氏の提唱する霊魂学によると、次のようになるようです。

 

<守護霊、指導霊は、決して先祖の霊魂などではなく、より上位の霊魂から

任命された高級な霊魂である。>

 

<守護霊は、一人であり、一生のあいだ、つまり、人間が地上に誕生してから

死ぬまで、および死後のしばらくの間、本人の守護と指導にあたる霊魂であり、

指導霊とは、守護霊を任命した高級霊魂の指示、または、守護霊の依頼により、

地上の人間の指導にあたる霊魂である。>

 

<指導霊は、守護霊よりも専門的な立場でかかわってくるので、その任務が

終われば去っていき、また別の人間を指導する。>

 

<守護霊は個人にかかわる霊魂であるが、指導霊には、個人のほか、霊的、

宗教的な団体、集団の修行法等にかかわるもの、さらには、国や世界を

視野に入れた大きな指導霊団を構成するものがある。>

 

<補助霊は、守護霊および指導霊に任命され、それらと地上の人間を中継ぎ

する役目をもつ霊魂である。>

 

しかし、今の時代は、守護霊、指導霊にとって、その活動が非常に困難に

なっているというのです。

 

もともと守護霊、指導霊は、上方の霊的世界の存在であり、人とは大きな隔たり

があったうえに、近代以降の資本主義の発達、自然科学の発展により、素朴な

信仰心さえ失われて、人が唯物的、無神論的になる中で、どんどん霊的環境

が悪化し、良好な幽気を吸う場が失われ、死後、使用する身体である幽体から

オーラが出なくなり、ほとんど視界に入らなくなってしまったということです。

 

また、一方で、功利的、或は観念的な、誤った霊魂主義がはびこり、未発達な

霊魂や邪悪な霊魂をそばに引き寄せるために、それらに操られてしまい、その

結果、個人の自由意思を最も尊重する上方の世界の霊魂、つまり、守護霊、

指導霊、そして、補助霊は拒絶される形になり、ほとんど関与できない状況に

あるということです。

 

とにかく、著者によると、諸説が入り乱れているものの、その基盤となる

霊魂と霊的世界に対する見方、考え方が根本的に誤っているか、時代遅れ

になっており、まず、事実を知ることが大切であると述べています。

 

そこで、我々の常識とは大きく異なる今の霊的世界の実情を本書の中から、
少し
ピックアップして、紹介したいと思います。

 

<平和運動などの背後には、さぞかし高級な、あるいは正しい霊魂がついて

いると思いきや、事実は、悪戯な霊魂や邪悪な霊魂の手下がついていて、

さかんにデモなどをする人を煽っている。要は、これらの霊魂たちは主義

なんかどうでもよくて、面白ければ何でもよい。さらには、暴力的になって、

お互いに激しい想念をぶつけて幽体を傷つけ合うことを望んでいる。よって、

そういった運動をする人たちが霊的修行法で幽体を鍛えたうえで、各々の

活動を行えばよいのであるが、今の状況では、そばに寄ってくる良からぬ

霊魂の悪影響を受け、また、念に傷つき、生きている間も、死んでからも

不幸になる。>

 

<山に入って厳しい修行を行い、宗教の世界では達人と呼ばれる人でも、

幽体を鍛え、向上させる霊的トレーニングを行っていないために、上の世界

からはその幽体が見えづらく、死後、上の階層には入れない。>

 

<スポーツの世界におけるアスリートたちの涙ぐましい修練と、その結果、

得られた超人的な技は我々を感動させるが、その幽体から強いオーラを出し

ているものはいない。なぜなら、ライバルからの、そして相手方のファン

からの強い念を受けて、一般人より幽体の状態が悪いのである。>

 

いずれにせよ、この世を正しく生き、死後、真の幸福を得るためには、何を

行うにせよ、禊法や鎮魂法などの、霊的トレーニングを行い、まず、幽体を

鍛えることが大切であるということです。

 

ともかく、そのプロセスについて関心のある方は個々に読んでいただくとして、

主人公は、死後、何百年たっても、一歩も向上できない霊魂が大勢いるという

のに、また、高僧とか、聖人とか呼ばれた宗教家が、霊魂の世界で苦しんでいる

というのに、わずかな時間で霊的な階段を駆け昇ったということです。

 

学問がないので、うまく説明することができない。しかし、ただ、神仏が存在

しておられる、それだけでも、充分に感謝の気持ちが湧いてきた。主人公はそう

いう特別な人であったようです。

 

最後に、著者は、「そうした特別な霊魂が、どんなに頑張っても、読者一人一人

の守護霊、指導霊が、どれだけ頑張っても、物質の世界の人達は、霊的な進歩に

向かってくれないのであった。難しい理屈はともかく、真の意味で人が救われる

には、霊魂の真実を知るしかない。人が生きる真の目的を知るにも、霊魂を知る

しかない。」と結んでいます。

 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「対称性人類学」を読む2-仏教の可能性-

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対称性人類学2 

中沢氏は、仏教こそが、対称性の思考という原初の知性形態、つまり流動的知性


に磨きをかけて、それを完成形にまで発達させようと試みてきた、ほかに類例の


ない倫理思想であるとしてします。


 


よって、まず、対称性の論理の極限まで展開された思考の例として、「金剛般若


経」という大乗仏典を引用しながら、菩薩の布施(ほどこし)に焦点を当て


ています。


 


この経典の中でブッダが語ろうとしたのは、布施は純粋贈与の行為でなければ


ならない。そこに少しでも「私は何かをこの人に贈与している」といった思い


が混入すると非対称性の原理で動く経済行為である交換の環の内部に落ちて


しまう。布施は、純粋贈与として、そういう交換の環に落ちてはならない。


贈り物を通して「贈る者」と「贈られる者」の区別や分離がまったく発生


しない状況、つまり完全な対称性の状況の中でだけ、純粋贈与は可能になる。


菩薩はそのような対称性の思考の「理想」を体現するものでなければならない


のだということです。


 


中沢氏は、私たちのような「凡夫」に、ここでブッダが要求しているような


純粋贈与の行為を現実に行うことはまず不可能であるとしながらも、贈与の


「理想=イデアル」を現実世界の中に持ち込むことによって、人類に新しい


生きる指針を提出している点で、大乗仏教のおこなった思考と実践はまったく


画期的なことであると述べています。


 


また、仏教の無意識の捉え方について、「フロイトの見出だした無意識は、


自己と他者の区別を行いません。また、個体性の認識を行いません。個体は


それを包み込むより大きな実在の中に発生した、ささやかな「結び目」のような


ものにすぎない、と無意識は語るのです。興味深いことに、仏教が同じことを


主張するのです。いや、同じというのは正確な言い方ではありません。仏教は


無意識が「無意識的」に語っていることを、ひとつの哲学的真理であり、実践


のめざすべき認識と生き方の目標として、指し示そうとしています。」と述べて


います。


 


つまり、フロイトをはじめとする精神分析学が無意識に対して、無意識こそが


妄想の源泉であり、ふるさとであると考えてきたのに対して、仏教の思想的伝統


では、そこで言われている無意識こそが、自己への執着を捨てさえすれば、


正しい認識である「悟り」の湧き出す源泉であると教えているというのです。


 


そして、大国家がつぎつぎと地球上に出現することによって、野生の思考が


保ち続けてきた、対称性の思考と、非対称性の現実思考とのバイロジック


(複論理)的な結合体が破壊されてしまう、まさに、その時代に、仏教が


登場してきた意義について、「仏教が挑戦したのは、すでに国家というもの


が発生して、自然と人間との間にバランスをつくりだしていた対称性=


非対称性のバイロジックな均衡が破壊されてしまった後の世界に、失われた


ものよりもさらに高度な均衡を生みだすための道を探求することでした。


(・・・)人間の「心」の組成の中で、「無意識」として抑圧されている


その流動的知性を全面に引き出して、そこに内蔵されている可能性を思う


さま限界もなく発達させてみることの中から、現生人類である人間に新しい


道を開いてみせることこそ、仏教という巨大な思想運動のめざしたことの


ように、私には思われてしかたありません。」と述べています。


 


そして、さらに、禅仏教でいう無心は流動的知性と同じものあり、無意識に


対する原初的抑圧を重視する一神教の宗教とは異なり、仏教は、無意識の働き


を発達させようとするものであり、もう、それは宗教ではない、としたあと、


まだ、手つかずのまま残されている問題、流動的知性はそれ自身としてどんな


論理で作動しているのか、「空」の内部構造はどうなっているのかという問題に


ついて、「華厳経」を手がかりに踏み込んでゆきます。


 


中沢氏は、「華厳経」の一部を紹介しながら、「「華厳経」という書物には、


さかんに「無限」という表現が出てきます。このことは、対称性の論理で


作動する無意識が無限集合の特徴をそなえている、という現代の精神医学


の発見ともよく対応していますし、じっさいそこに語られていることの


内容を現代的に読み直してみると、仏教の思想家たちが「心」という


ものを無限集合として理解していたことがはっきりわかります。」と述べ


ています。


 


そして、「華厳経」では、現実世界で、われわれのまわりに無限に広がって


いる宇宙、そういう無限の広がりを持つ宇宙をまるごと包み込んで、そこに


荘厳な輝きを与えているものを「法界」と呼んでいますが、この「法界」を


「完成された無意識」というふうに理解すると流動的知性である無意識は、


現実の宇宙の無限の広がりよりも、ずっと広く、深く、きめ細かな、一ランク


上の無限集合であるとしているということです。


 


また、仏教では、知性の働きには「粗大知性」と「微細知性」の働きが


あると言いますが、流動的知性は、このうち微細知性をあらわし、言語と


一体となって意識の働きを生み出す知性のほうを粗大知性に分類すると、


粗大知性はしばしば自分のことを全体的真理であるという、思い上がった


慢心を抱きがちであるが、「華厳経」は微細知性の生み出す微細権力を


もって、粗大知性のつくりだした粗大権力を粉々に打ち砕くことができる


と述べているとしています。


 


さらに、もう一つ、重要なこととして、仏教の個体というものについての

徹底的な
思考の展開をあげています。


 


精神分析学が夢や分裂症の中に見出した対象性の論理では、個体というものは


存在していませんが、仏教は、私たちひとりひとりが宇宙の中でかけがえのない


たったひとつの個体であることの認識から出発しながら、反転して、この個体と


いうものを対称性の思考の中に投げ込むことによって非対称性と対称性の共存


として発達してきた野生の思考の知恵をできるだけ完全なかたちまで発達させ


ようと試みてきたとしています。


 


そして、そのことを最初に意識的に表現してみせたのが「華厳経」であると


しながら、その巧みな解説として、次の井筒俊彦の文章を引用しています。


 


「すべてのものが無「自性(そのものとしての本質)」で、それら相互の間に


は「自性」的差異がないのに、しかもそれらが個々別々であるということは、


すべてのものが全体的関連においてのみ存在しているということ。つまり、


存在は相互関連そのものなのです。根源的に無「自性」である一切の事物の


存在は、相互関連的でしかあり得ない。関連あるいは関係といっても、たんに


AとBとの関係というような個物間の関係のことではありません。すべてと


すべてが関連し合う、そういう全体的関連性の網が先ずあって、その関係的


全体構造のなかで、はじめてAはAであり、BはBであり、AとBとは個別


に関係し合うということが起こるのです。」


 


中沢氏は、「ここから自由についての新しい思想が生まれてきます。ものに


は自性がない、というあり方によって、全体的な関連の中で初めて個体性は


発生可能なのです。そのとき、すべてのものが、流動的知性だけが「見る」


ことのできるエネルギーの渦巻く「空」のなかで、個体としての存在を輝かす


ことになります。」と述べています。


 


かくして、仏教は、無意識という「心」の原初的基体を、ひとつの完成体に


まで発達させて、その無意識を動かしている「別の論理」を全体的真理の認識


まで高めようとしているのではないかと主張しています。


 


さて、すべてをモノとして扱い、夢やビジョン、そして神話や宗教さえも商品


(交換価値)としてしまう、この究極の資本主義社会において、仏教は、そこに


大きな風穴をあけることができるのでしょうか。また、「無意識」というものの


真実を究極まで明らかにすることができるのでしょうか。そして、そこに潜む


自己への執着というようなネガティブなものを捨て去るということが果たして


可能なのでしょうか。






 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「対称性人類学」を読む-神話、無意識、仏教-

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対称性人類学

以前、中沢新一氏の「神の発明」を紹介しましたが、そこでは、今から

3~4万年前に出現した現生人類の脳に革命的な変化が起こり、脳内部の

違う領域の知識を横につないでいく新しい通路が作られ、そこをそれまで

見たこともなかった「流動的知性」が高速度で流れだし、そこから、比喩的

な思考が可能となり、神話的、宗教的思考が発生できる条件が脳の中で

整ったということが述べられていました。

 

本書では、その「流動的知性」を受けて、いわゆる神話的思考というものは、

部分と全体、自己と他者、人と動物、死者と生者、この世とあの世等の区別が

なく、過去-現在-未来という時系列にとらわれていませんが、それは、

脱領域性、高次元性、対称性などの特徴を持っている「流動的知性」が、

「心」の基体として作動したことによるものであり、それは「流動的知性」

の持つ対称性の論理に従ったものであったとしています。

 

そして、神話的思考、すなわち「野生の思考」は、消滅することなく、今なお、

私たち「心」に作動し続けていると言うのです。

 

それは、近代以降、「無意識」と呼ばれるものとして、不変の構造を保ち続け

ており、かつて、神話的思考を生み出してきたものは、芸術、哲学、科学的

創造、経済生活などにおいて、いぜんとして大きな働きをおこなっている

と言います。

 

しかし、現実の今の社会では、とりわけ科学の分野では、徹底して非対称性の

論理を使ってすべてが進行しており、ものごとをきちんと分離したうえで論理

の文法にしたがって結びつけるというやり方で、間違いのない推論や証明が

行われています。

 

したがって、人間の心は、対称性の原理と非対称性の原理という二つの原理で

動いているということです。

 

つまり、自己と非自己を区別しない、自己と他のあらゆる人間は同じ一つの

ものであるというような対称性や部分と全体の一致といった無意識レベルの

ふるまいと密接に結びついた心の存在様式と、物事を諸部分に分割し、全体を

不均質なものとするほうにばかり関心がいくという非対称性の論理と堅く

結びあった心の存在様式とが同時作用を行う「バイロジック(複論理)」と

して成立しており、そのために、ものごとを分割し不均質にする現実的な

非対称的思考が働いているときも、その底にはいつも対称的思考が通奏低音

のように流れながら相互に影響を及ぼし合っていると述べています。

 

ところで、宗教史の分野に目を向けると、流動的知性=対称性無意識の発生

と同時に、精霊はヒトの心の中で活動を始めたとされていますが、精霊の仲間

たちの中から他を圧する一神教の神が出現することによって、つまり、人間と

の間に圧倒的な非対称の関係を打ち立てる神を持つ、新しい宗教が生まれ

ることによって、対称的無意識は抑圧されてしまったということです。

 

流動的知性を無意識として抑圧したうえで、その上に記号的表現でできた世界が

つくられるというのが一神教的な西欧社会であり、文化だということになります。

 

しかし、一神教の出現は、現生人類の「心」の構造に何の変化も起こさなかった

し、ましてや、「心」の進化などまったく起こっていないと断言しながら、中沢氏

は、「たしかに近代に入ってからは一神教の一形態であるキリスト教の影響力が、
惑星的な規模で圧倒的になってしまいましたので、一神教こそが人類の霊性の発達
の最終的なまた最高の形態であるというような間違った考えがのさばってきました。
しかし、強いものが正義であるとは限りません。ましてや強いからといってそれが
霊性の最高形態であることなどは、まずありえないことです。(・・・)一神教や、
一神教と結合した資本主義にたいして、私たちは今日、精霊の主張する対称性の
思考の側に立った、誇り高い立場から批判的解明を試みるべきです。」と主張して
います。

 

そして、その手だてを、「ここまで伝統が破壊されてしまった社会に生きている私

たちには、もうそれほど有効な精神的資産は残されていないと覚悟していなければ

ならないでしょう。仏教はそういう私たちに残された、数少ない精神的資産なの

です。」と仏教(大乗仏教)に求めていきます。

 

もう、「野生の思考」だけではこの事態には対処できず、対称性の思考がはらんで

いる思想的な可能性をとことんまで展開し、それをちょっとやそっとでは壊されない

堅固な哲学の体系にまで鍛え上げておいてくれた仏教の力を借りなければならない

としています。

 

神話的思考と仏教との同質性について、中沢氏は、山羊の屠殺を目の前にして

瞑想するという自分の体験をもとに「自ら動物を殺すことを否定する仏教が、

狩猟民とは違うやり方で、対称性の論理を発動させている様子を、はっきりと

見届けたのです。神話の時間の中では、人間と動物を区別している隔たりが消滅

するために、そこでは動物がしゃべり、人間が動物と結婚することも自在です。

仏教では、それと同じタイプの思考を「時間」の軸に投影して、展開しようと

しています。こんどは不変の「心連続体」が、人間と動物をつなぐ同質性になり

ます。この「心連続体」が輪廻転生をくりかえすうちに、ありとあらゆる生命の

姿をとって現象することになるわけですから、遠い過去のどこかの地点で、いま

目の前にいる動物が自分の母親や姉妹であったことがあっても、少しの不思議で

はないでしょう。仏教はこのようにして、神話的思考が空間軸で展開している

思想を、時間軸に投影して展開しているのだ、と考えることができます。」と

述べています。

 

ここから、動物たちに対して、自然に対して、人間の「倫理的」なふるまいが

生まれてくることになりますが、それは対称性の論理、つまり、「ふつうでは

ない論理」から倫理の思考が生まれてくるとも言えます。

 

一方、科学を支える合理的な思考から「道徳」が発生してくるとすると、どの

ような道徳も、狩猟民たちが何万年ものあいだ続けてきた「ふつうでない論理」

から生まれた倫理を支持することはないと言えます

 

中沢氏は、「対称性の思考にもとづく新しい「倫理学」を、私たちは創造しな

ければならないのでしょうか。」と問いかけつつ、「私たちの先祖は、かつて

そのような倫理をよく知り、それにしたがって自然の一部である自分たちの

ささやかな領分を守って、生きる努力を重ねてきました。自分だけの利益を

図ったり、功利的な目的を追求しようとするたびに、対称性の思考による倫理が

ストップをかけてきました。(・・・)倫理による命令は、つねに「部分と全体

が一致する」という対称性の論理にしたがおうとします。そのために、こうした

倫理は合理化することができません。しかし、合理化不能な倫理によって、地球

上の生態系のバランスは保たれてきたのです。私たちが今日、人類の知性して

つくりださなければならないものは、このような倫理なのではないでしょうか。」

と主張しています。

 

まだ、もう少し続くのですが、冗長になりますので、いったん中断し、次回と

したいと思います。

 


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