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「バガヴァッド・ギーター」2 -その原型そしてテーマを探る-

バガヴァッド・ギーター2


「バガヴァッド・ギーター」をひととおり読んでみて、そのテーマを一言で

いうとすれば、義務の遂行、無私の行為、神への信愛、神の体験、精神の集中、

ヨーガの実習等々の言葉が頭に思い浮かぶとしても、一言でその主題をいう

のは到底無理なように思われます。

 

「書物誕生 あたらしい古典入門「バガヴァッド・ギーター」」の著者の赤松

明彦氏は、このことに関して、次のように述べています。

 

「バガヴァッド・ギーター」は、聖典として伝承されるようになったときには、

すでにひとつの作品として、おそらく今日のわれわれが目にしているのと同じ

表現と内容をもった詩節の集まりとして完成していたはずである。しかし、

そこに至るまでには長い年月の経過があった。口頭伝承によって伝えられ、

吟遊詩人たちによって唄われて、ヒンドー教の聖典として完成に至るまでの

その長い年月の間に、様々な要素がそこに加わり、変容があったに違いない

のである。その変容の痕跡が幾重もの層となって「バガヴァッド・ギーター」

という作品の中に残されている。近代になって、ヨーロッパ世界に「ギーター」

が紹介されて以来、読み手としての研究者や思想家たちが最も熱心に論じる

ことになったのも、まさにこの点であった、と。

 

かくして、赤松氏は、テーマを探るために、テキスト成立の歴史的な過程を

考察するとし、そこに残された変容の軌跡から原型を探っていきます。

 

そこで、まず、「バガヴァッド・ギーター」が、叙事詩「マハーバーラタ」の

一部を構成している点に着目します。

 

長い伝承の歴史を経たのちで完成したひとつの作品がそのまま大叙事詩のなか

に存在している理由を考えると、その原型は、三つの可能性が考えられると

しています。

 

ひとつは、もともと叙事詩「マハーバーラタ」とは関係なしに独立して存在

していた。それが、色々な要素を含み込み、時代を経てひとつのものとして

完成した後に、叙事詩の一部として編入された。

 

ふたつ目は、もともと叙事詩「マハーバーラタ」とは関係なしに独立して存在

していた。それが、まず叙事詩の一部へと編入され、その後に叙事詩の内部

で現行のもののように改変された。

 

もうひとつは、もとから叙事詩「マハーバーラタ」の一部としてあった。

それが核となって、そこに色々な要素が付け加えられた結果、今のよう

な姿になった。

 

いずれにせよ、ポイントは「マハーバーラタ」との関係にありそうだとし、

その関連性を「ギーター」の内容に照らし個々に検討していく必要があると

しながらも、とにかく、「マハーバーラタ」の話の展開からすると、「ギーター

」は、同族間の戦闘が始まったとき、敵陣に居並ぶ親族、同族を見て戦意を

喪失したアルジュナが再び戦闘に立ち向かうまでの話であるということが

確認できるとしています。したがって、これをひとつの原型とみることが

できるとも述べています。

 

「クリシュナよ、戦おうとして立ちならぶこれらの親族を見て、私の四肢は

沈みこみ、口は干涸び、私の身体は震え、総毛立つ。ガーンディ―ヴァ弓は

手から落ち、皮膚は焼かれるようだ。私は立っていることもできない。私

の心はさまようかのようだ。」

 

それにしてもなぜアルジュナは戦意を喪失したのか? シバァ神からガーン

ディ―ヴァ弓という最強の兵器を与えられた勇者がその弓を取り落として

しまうほどの意気消沈はどこからきたのか? いよいよ、「ギーター」の

解読に入っていきます。

 

さて、第一章かけて第二章にかけて、アルジュナは自らの戦意喪失の理由を

語ります。アルジュナが発した言葉は、直後にクリシュナによって「分別くさ

い」と笑われるが、著者、赤松氏は、ここに見出されるアルジュナの苦悩は、

彼の倫理観に深くかかわるものだとしながら、ここには、実存的といってよい

ような個人的な倫理観、現実社会における義務的な倫理観、さらには伝統的な

社会の中にあって歴史的な制約からくる倫理観が複雑に混じり合って表明

されているとしています。そして、ひとりの人間がこのようにレベルの異なる

倫理観をもち、その相克から生じてくるデレンマ苦悩するというのは、実は

それこそが叙事詩のテーマであるということを指摘しておきたいと述べて

います。

 

また、「マハーバーラタ」においては、戦争はもはや栄光に満ちた讃えられる

べき出来事ではなくなっている。戦争は殺戮であり罪悪ではないのかという

疑念こそが、叙事詩「マハーバーラタ」の全編に漂う雰囲気なのである。

それはまた「バガヴァッド・ギーター」の全体を通奏低音のように貫いて

いる気分でもあるとしています。

 

そうすると、アルジュナが、「私は戦わない」と戦争を放棄する第一章から

第二章のはじまりにかけての部分は、「マハーバーラタ」の筋の展開に

ぴったりとおさまっており、もともと一体的にあったということができ、

「ギーター」の原型をこの部分に認めうるのではないかとも述べています。

 

それでは、「バガヴァッド・ギーター」の原型の成立を「マハーバーラタ」

とは関係ない場所に見出そうとするとどうなるのか。これはそのまま「ギー

ター」の主題をクリシュナの教えのいずれかのうちに見出そうとすること

であるとして、クリシュナの説得の展開を追っていきます。

 

最初にクリシュナがいうには、個我は永遠に不滅であり、身体が殺されて

も個我は決して殺されることはない、それゆえ、嘆くべきでない、と。

つまり、アルジュナの悲痛な嘆きを、それとはレベルの異なる形而上的

な原理、すなわち「個我の永遠不滅性」を説くことによって昇華解消して

しまおうとするもので、これは、「知識のヨーガ」と呼ばれる、クリシュナ

の教えのひとつの軸である哲学的・思弁的な立場をよく示しているものです。

 

次に続くのは、クシャトリア(王族、士族)としての義務(ダルマ)は戦うこと

であるから、戦わないことは、自己の義務と名誉を捨て、罪悪を得る、さらに、

戦わなければ、不名誉と軽蔑を人々から受けることになるというもの。著者、

赤松氏は、この部分は、「アルジュナの苦悩の言葉を「分別くさい」と一笑に

付したわりには、あまりにもあたりまえのインパクトのない言葉に思える。」

「ここでのクリシュナは、せいぜい勇者アルジュナの友人であり御者である

人間クリシュナであって、それが無理やり「戦え」といっているだけのよう

に思える。」と述べています。

 

かくして、最初の説得は空振りに終わるが、「殺す」いうことを意味する理屈

として、もうひとつ別のものが提示されることになる。次に述べられるのは、

「殺しての、殺したことにはならない」という行為の転換を導く知性の状態で

ある。これが「行為の束縛」を離れる「行為のヨーガ」の教えであるという。

 

赤松氏は、「結果を考慮せず行為を行え、結果への執着を捨てて行為せよ、

といういわゆる「無私の行為」の宣揚を、クリシュナの教えの中心的な

メッセージであると考える読み手は多い。後に紹介するガンデーやシモーヌ

・ヴイユも、最初に心惹かれたのがこの教えであった。」と述べています。

 

ただし、これはやみくもな実践の勧めではなく、自己の制御、専心、つまり、

ヨーガ行者のような心的状態をもって行為を行えということであるとして

います。

 

では、クリシュナの教えにおいては、何に向けて心を集中せよといわれる

のでしょうか。

 

「バガヴァッド・ギーター」では、「ヨーガ」という語が様々なレベルで

使われており戸惑うが、精神集中とされる場合、その意識が集中される

一点とは、「自己」であり、さらに「私」、つまり教示者であるクリシュナ

自身であり、ウパニシャッド以来の神学において最高実在の位置を占めて

きた「ブラフマン」であるという。

 

ここでは、「自己」と「ブラフマン」が同じ位置に置かれており、このよう

な神秘的同一観念から、「ギーター」が、ウパニシャッド的な思想風土の中

から、一元論的汎神論を原型として生まれてきたのではないかという考えを

提供することになるとしています。

 

さて、あいかわらず動揺を隠せないアルジュナに対して、クリシュナは、

とうとう、「アルジュナよ、私に意を結びつけ、私を帰依所として、ヨーガ

を修めれば、あなたは疑いなく完全に私を知るであろう。それにはどうすれ

ばよいか、聞きなさい。」と、つまり、自らを神として、「私に帰依せよ」と、

アルジュナに対して語り始めます。

 

ここで、それまで同じひとつの戦車に乗る御者と射手として、はたまた友人

としての両者の間に隔絶が生じるが、赤松氏は、「この隔絶こそが、インド

における全く新しい「神」の誕生を告げるものである。」としています。

 

第七章から第十一章では、クリシュナの神としての一人称による語りが

圧倒的な割合を占める。圧倒的な神、驚異的な唯一絶対の神の姿が語り

続けられます。

 

第十二章で、「このように常に(あなたに)専心し、あなたを念想する信者

(バクタ)たちと、不滅で非顕現なものを(念想する)人々とでは、どちら

が最もヨーガを知る者であるか。」というアルジュナの問いに対し、クリシュ

ナは、「私に意を注ぎ、私に専心する、最高の信念を抱いた人々は、「最高に

専心した者」であると私は考える。」と答えています。

 

赤松氏は、第七章から十二章までの全六章は、「「バガヴァッド・ギーター」

の中心にあってひとつのまとまりを形成しており、神に対する「信仰」、

「信愛」、すなわち「バクテ」を主題として語られて部分であると述べて

います。

 

「バクテ」の観念は、ヒンドー教の「信仰」の特徴をよく表すものとして

知られたものであるが、神に対する強い信愛の感情を表す語として宗教的な

意味を帯びて使われたのは、「バガヴァッド・ギーター」が最初であると

しています。

 

もっとも、近年の研究では、この「バクテ」の観念をふくむ層は、「ギー

ター」の中では、最も新しい層、つまり最後に付加された部分であると考え

られているようです。ただし、「バガヴァッド・ギーター」という聖典に

とってのこの観念の重要性はいうまでもなく、この観念がなければ、宗教

聖典としての「バガヴァッド・ギーター」の全体が存在し得たはずはなく、

インドにおいても、今日に至るまで、これほどまでに汎ヒンドー教的な

影響力を「ギーター」が持ち得たはずもなかったであろうと述べています。

 

さて、アルジュナはまだ座り込んだままです。いったいいつになれば、

またどうすれば再び立ち上がるのか? また、ガンデーやシモーヌ・

イユは、「ギーター」をいかに読んだのか? それは次回に触れ

たいと思います。

 

 


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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体