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神に人の苦悩を理解できるのか?-「バガヴァッド・ギーター」3-



バガヴァッド・ギーター3



シュレーゲル、フンボルト、ヘーゲルといった人たちの「ギーター」読解の

試みは、キリスト教世界に育ち、その価値観を身につけた人間が、ヒンドー教

の教典を読み、それとある種の対決を通じて、そこに、果たして普遍的な人間

精神の構造を見出しうるかどうかを問おうとするものであったという。

 

しかし、赤松明彦氏は、もうひとつの読み方、つまり、「ギーター」の教説を

主体的、実践的に読みとろうとする読み方があるとして、ガンデーと

シモーヌ・ヴェイユを取り上げています。

 

二人はともに翻訳から「ギーター」の世界に入っているという。ガンデーが

「バガヴァッド・ギーター」を読んだのは、1889年、法学部の学生として

ロンドンに留学中のまだ20歳のときであり、神智学運動へと接近する中で、

「ギーター」を友人たちと読むことになったようです。一方、ヴェイユが熱心

に「バガヴァッド・ギーター」を読んだのは晩年。晩年といっても、1943

年に34歳で亡くなるまでの4年間であったということです。

 

2人が生きたのは戦争の時代であった。第一次世界大戦中の1915年にインド

に帰ったガンデーは、非暴力主義を掲げて英国に対する不服従運動を行い、第二

次世界大戦後の1947年にインドの独立をかちとった。しかし、同時にそれは

インドとパキスタンの対立の激化のはじまりでもあり、ヒンド―教徒とイスラム

教徒の融和を求めて何度も断食を行ったガンデーであったが、翌1948年の

1月末に暗殺されます。1926年2月24日から11月27日までの間のサテ

ヤーグラハ・アーシュラム(集会)における「バガヴァッド・ギーター」について

の講話をはじめ、「ギーター」についてのまとまった仕事としては四つのものを

彼は残しているということです。

 

シモーヌ・ヴェイユは、1931年、22歳で大学教授資格試験に合格し、リセ

の哲学教授になるが、1936年7月、スペイン内戦が勃発するやすぐにカタロ

ニアに向かい民兵組織に参加、前線に配属されたがやけどを負い9月末に帰国

する。1942年12月、ロンドンで、ド・コール将軍の対ドイツ抵抗運動

「自由フランス」に参加するが、翌1943年8月24日、ロンドン郊外の

療養所で永眠。1941年頃にサンスクリットを独習していたヴェイユは、亡く

なる直前の数週間を「バガヴァッド・ギーター」の翻訳に費やしたようです。

 

ガンデーとヴェイユが、ともに「バガヴァッド・ギーター」から受け取った

メッセージが、「結果への関心を放棄して、ただ行為のみ行え」であったと

いう。赤松氏は、もし、この行為が道徳的な義務(当為)の要請ではなく、

カーストの掟という自然的規定を前提とするものであるなら、個人の実存的

苦悩も、人間の苦悩としては成立しないかのようであり、当為(義務)もまた

必然でしかないようであるとしながらも、「結果への関心を放棄して、ただ

行為のみ行え」という言明のうちに、人間としての当為を見出したのである。

それは、二人が、きっと人間アルジュナの苦悩を自らも引き受けようとした

からに違いないとしています。

 

また、ガンデーは、「バガヴァッド・ギーター」を「実際の戦場のイメージ

を借りて、人間の生において展開する精神の戦いを表すもの」として、終始

それを寓意的に読もうとしている。一方、ヴェイユは、しばしばアルジュナ

とジャンヌ・ダルクを対比的に並べて語っているが、それはまた戦争情況に

身をおいた自身の姿をもそこに重ね合わせるものであっただろう。「バガヴァ

ッド・ギーター」を、古典として主体的に読むとはこういうことである、

と述べています。

 

ところで、ガンデーは、アルジュナにさぞかし共感を寄せていると思いきや、

実のところアルジュナの苦悩なんぞまったく理解いない風なのだという。

 

赤松氏は、アルジュナの弱気は、単に一時の気の迷いである。彼がもし自分

の果たすべき仕事を放棄してしまったら、それこそ混乱と無秩序を作り出し、

彼自身と彼と無数の係累に不名誉をもたらすだけである。もしアルジュナが

非暴力の考えをもち、それを実際に行為に移したらなどといったことを推測

するは詮無いことである。始めた限り成し遂げよ、ぐずぐずするなという

のが、ガンデーのアルジュナ観であったと述べています。

 

一方、シモーヌ・ヴェイユはどうであったのでしょうか。

 

赤松氏によると、戦わざるをえない状況に置かれた者が、一時の気の迷いで、

あるいは憐憫の情に押し流されて、戦いたくないと言っているだけであり、

ガンデーと違っているわけではない。しかしながら、ヴェイユにはアルジュ

ナに対する共感があったという。「もはや選択の余地はない。」ヴェイユが

カイエ(雑記帳)の中で何度も繰り返すこの言葉こそが彼女がとらえたアル

ジュナの情況であり、まさにそこにおいてアルジュナに共感したのである

としています。

 

もはやそうするしかない情況で行為する。これが「無行為の行為」であり、

彼女が「ギーター」から理解した「行為の超越」ということであった。それゆえ、

アルジュナは、もはや戦う以外には道はないのであり、彼女もまた、戦う以外

に道はなかったのであったと述べています。

 

かくして、アルジュナは戦う以外に道はないとされるなか、最終章の第18章に

おいて、クリシュナは次のように言明します。

 

「あなたが我執により、「私は戦わない」と考えても、あなたのその決意は空しい。

(武人の)本性があなたを駆り立てるだろう。アルジュナよ、あなたは本性から

生ずる自己の行為に縛られている。あなたが迷妄の故に、その行為を行おうと

望まないでも、否応なくそれを行うであろう。」

 

赤松氏は、この言葉に対して、これではまるで自然の本性や神の意志には逆らえ

ぬのだといっているだけではないか。いったい、クリシュナにアルジュナの苦悩

は理解できていたのであろうか、と疑問を呈しつつも、「全身全霊で彼にのみ

庇護を求めよ。アルジュナよ。彼の恩寵により、あなたは最高の静寂、永遠の

境地に達するであろう。」とクリシュナが述べるところに着目し、神が今まで

一人称で語られてきたのが、「彼」と三人称で指示されているところから、

この部分のテキストの成立が、時期的には古い層に属しているとしています。

 

しかし、「バガヴァッド・ギーター」の全体をいまわれわれが目にするような

かたちに仕上げた古代の編集者は、巧妙であったと言います。古い層の周辺に

新しい層を重ね合わせ、文脈を接合して、全体を完成したというのです。

 

最後の最後に、クリシュナは、へたり込んだままのアルジュナにいう。

 

「さらにまた、すべての秘密のうちで究極の秘密である、私の最高の言葉を

聞け。あなたは私にとってこよなく愛しいから、あなたに有益なことを語ろう。」

 

「一切の義務(ダルマ)を放擲して、ただ私にのみ庇護を求めよ。私はあなたを、

すべての罪悪から解放するであろう。嘆くことはない。」

 

赤松氏によると、この詩において、明らかにクリシュナの、つまり神の態度が

変化しているという。ようやく神に人間の苦悩が理解できたとでもいうべき

であろうかと。

 

つまり、クリシュナが積極的にアルジュナをすべての罪過から「解放しよう」、

「救済しよう」という意志を表すのは、ここが最初であり、唯一ここだけである

と述べています。

 

この究極の秘密を聞いて、アルジュナはついに立ち上がります。

 

「迷いはなくなった。不滅の方よ。あなたの恩寵により私は正気を取りもどした。

疑義は去り、私は断固立ち上がった。あなたのいうとおりにしよう。」

 

終りに、赤松氏は、「アルジュナに共感をよせたヴェイユは、しかし戦いの場を

もはや与えられることなく、サナトリウムで衰弱死する。「ギーター」の教えを

日々実践したガンデーは暗殺され、彼の夢はまだ実現しないままである。

困難な時代に生きるわれわれも、「バガヴァッド・ギーター」におけるアルジュ

ナの苦悩を、きっと自分たちのものとして引き受けなければならないことがある

だろう。そのときのために、また、もう一度、「バガヴァッド・ギーター」を読む

ことにしよう。」と述べ、結んでいます。

 

 



 
 
 
 
 

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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体