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『チベットの死者の書』の心理学



瞑想の心理学







エバンス・ヴェンツの
チベットの死者の書』の英訳の出版の7年後にこの訳に

もとづいて忠実なドイツ語訳が刊行されたが、これに「心理学的解説」という


長文を寄せたのが、C.G.ユングでした。


 


ユングは、この書に対して、「その出版の年以来、何年もの間、バルド・ト


ドル』は私の変わらぬ座右の書であった。私はこの書から多くの刺激や知識を


与えられたばかりでなく、多くの根本的洞察をも教えられた。」と賞讃したと


いうことです。


 


このことについて、中沢新一氏は、三万年の死の教え』のなかで、「ユングは、


自分が生きたプロテスタントやカソリックのキリスト教の世界が、人間のたま


しいの秘密のすべてに精通しているとは、考えることができなったのです。


むしろ、キリスト教は、人間の魂の秘密にかかわるたくさんの部分を、見え


なくしてしまったり、抑圧したり、それについての探究を阻んできたような


ところがあります。そこで、ユングは、自分たちの文明の「生命の源」に触れ


るために、精神性の別の源泉を、探し求めようとしました。」「ですから、彼は


エバンス・ヴェンツの出版したチベットの死者の書』を発見したとき、自分


の探し求めていたものをみいだしたような興奮と感動を覚えたのでした。」


と述べています。


 


ところで、チベットの死者の書』は、チカエ・バルド(死の瞬間の中有)


からチョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)、そして、シパ・バルド


(再生へ向かう迷いの状態の中有)へというふうに、究極最高の状態から迷い


と不安と恐怖の状態へという方向性で説かれていますが、ユングは、それとは

逆に、
終りから前へと読むことを進めています。


 


つまり、我々が誕生のとき以来、失ってしまった、人間の魂そのものの持つ


神性を全的に回復しようとする通過儀礼の過程として捉えようとするのです。


 


現在、西洋文明圏で実用に供されている唯一の通過儀礼手段は、精神分析医が


用いる「無意識の分析」であり、治療上の目的から意識の背景や根底へと入り


込みます。そうして、意識下の、萌芽状態にある、まだ産まれていない心的内容


を意識上の引き出す作業を行います。


 


しかし、主として性的な夢(リビドー)をとりあつかうフロイトの精神分析学


からはじまったこの治療法は、心的な傷の基本的原因を誕生時の経験、さらには


誕生以前の母の子宮内の胎児体験に見出すまでにいたったものの、限界に達して


しまいました。


 


なぜなら、生物学的前提だけで無意識の領域に進入するとき、ひとは本能の領域


にはまり込んでしまい、それを乗り越えることができないので、繰り返し肉体的


な生の次元に引き戻されるだけになってしまうからです。


 


そのような自然科学的前提とはまったく異なる考え方で、『チベットの死者の書』


がその先を説いていたとしたらでどうでしょう。


 


当該『死者の書』の訳者である川崎氏は、ユングは、この書のような四十九日間


の叙述とは逆に読むことにより、フロイトによって開拓されたわれわれの意識存在


の背後にある領域(「シパ・バルド」)を超えて、フロイトが入るのをためらった


「隠されたオカルト領域」、すなわち「集合的無意識の領域」に立ち入ることが


できることを示唆しているとしています。


 


魂の旅を一貫してその根源まで遡り、そこに個々の人間としての誕生以前の過去の


生命の源泉ともいうべきものを見いだし、この体験主体の痕跡とでもいうべきもの


を実感することをユングは求めたのだというのです。


 


しかし、ユングは、解説の終盤で、彼が提案したテキストの配列順序の逆転は、


読者の理解を助けるためにしたことで、バルド・ト・ドルの意図したこと


ではないと念を押しています。つまり、「この風変わりな書物の本来の目的は、


二十世紀の教養あるヨーロッパ人にとっては、すこぶる異様な感じを与える目的、


つまり「中陰」の領域を旅している死者たちに説明してやるための努力にある


のである。」というのです。


 


そして、「われわれ西洋人が行う死者への配慮は、きわめて未発達な段階にある。


しかし、それは、われわれが霊魂の不死について十分納得することができない


からではなく、われわれがわれわれのうちにある魂の欲求を排除し、逆に合理化


しようとしてきたからである。われわれは、われわれがそういう不死への願望を


もたないかのように知的にふるまい、死後の生を信じることができないからこそ、


絶対に何もしようとしないのである。」と言っています。


 


また、一方で、ユングは、「この書物の全体が、無意識の原型的諸内容から


つくられていることは、全く明らかなことなのである。」「神々と霊の世界は、


つまり、私の内なる集合的無意識に「すぎない」のである。この命題を逆に


いえば、「無意識とは、私が外に経験する神々と霊の世界である」という意味


になる。」とも述べています。


 


そして、最後に、「バルド・ト・ドルは秘教的な書物であったし、今もなお、


われわれがそれについてどんな注解を加えてみても、このことに変わりは


ない。なぜなら、それを理解するには、ある種の精神的能力を必要とする


からである。その能力は、だれも所有していないような特殊な能力ではなく、


ある特有な生き方と人生経験とを通じて、はじめて所有できるような能力で


ある。その内容と目的について、そのような「無用」な書物が現代に存在する


ということは、まことに喜ばしい。このような書物は、われわれ現代の「文明


世界」が求めているような種類の効用や目的や役割などに対して、もはや重要


な価値を認めないようになった人々のために書かれたものなのである。」と述べ、


締めくくっています。


















 

 

 

 

 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体