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「三万年の死の教え」

 

「三万年の死の教え」 



前回まで紹介してきた「チベットの死者の書」は、端的にいうと、輪廻転生を

前提としながら、人が死んでから再び生まれ変わる期間(バルド(中有)と

いう)を四十九日と設定し、その間に、できるなら、生まれ変わらずに解脱

できるように、死者に対して死について教えを説いて聞かせる経典だという

ことです。

 

能力の優れたヨーガの実践者は、死後にバルドの期間を経過しないで確実に

解脱に至るということですから、対象となるのは、理解力はあるがまだ悟って

いない人、悟ってはいるがまだ実践の浅い人、そして、教えの伝授を願って

いる一般の凡俗の人たちであり、その人たちが恐怖のために道に迷わないよう

このお経によって道案内をするということになります。

 

今回は、中沢新一氏の三万年の死の教え』のなかの「死者の書』のある

風景」によりながら、少し具体的にその流れを追ってみたいと思います。

テキストの違いで、前に紹介したものとは、細部において相違がありますが、

基本的な流れは同じであり、時代と文化と越えた大切なことが把握できるの

ではないかと思います。

 

さて、人は死に際して全く未知の体験をするようです。

 

まず、死の間際には、肉は土の要素に溶解され始め、死んでいく人は、自分が

重いものに押しつぶされていくように感じるというのです。そして、息が止まる

と、死者の前には、生命の存在の根源をつくる、まばゆい光があらわれるという。

そこで、ニンマ派(古派)のラマ僧が、「この光こそがあなたという生き物を

つくっていた純粋な本質であり、そのことを悟って、この光と合体することに

つとめなさい。」と言いますが、普通の人は修行ができていないため、その光は

持続せず、すぐに消えてしまいます。

 

そこで、さらに、「この光を見ながら、あなたは自分の守り本尊のことだけを考え

なさい。ここにあらわれているのは、純粋な本質をもった幻影なのだ。この純粋

な幻影が、あなたを解脱に導いていくだろう。」と語り聞かせます。

 

しかし、普通は、ここで解脱に至る、つまり、救われるのは難しいようです。

このとき、死者の意識は、すでにからだを離れていますが、ラマ僧は、語り続け

ます。「あなたは、これから心の本性のバルド(チョエニ・バルド)の中に

入っていく。さまざまな光や音や色を体験するだろう。でも、それをこわがって

はいけない。おののいてはいけない。この音も光も色も、あなたの存在本来の

姿そのものが、あらわれているのにほかならないのだから」と。

 

かくして、心の本性のバルトに突入した死者は、いったん失神するが、三日

ほどして目覚めるといいます。

 

目覚めた死者に対してさらにラマ僧は言います。「あなたは今、心の本性の

バルトゥの中にいるのだ。あなたはそこで、さまざまな幻影に出会うことに

なる。これらの幻影は、心の本性からわきあがってくる純粋な光のたわむれ

であると同時に、あなたをふたたび輪廻の中に誘惑していこうとする力でも

ある。細心の注意で、このバルトゥを渡っていくのだ。そして、このバルト

において、こんどこそ解脱を実現するのだ」と。

 

つまり、心の本性のバルトゥに入った死者の意識は、そこで自分をつくってきた

おおもとの存在の、ありのままの姿を見ることになるというのです。生きている

人の胸のあたりには、四十八の静寂尊がいて、おだやかな波動を送っているが、

大脳のあたりには、五十二の憤怒尊がいて、破壊的な力をもった波動を放ち、

そのふたつの波動があわさって、人間の活動をつくっているという。このように、

身体を離れた死者の意識は、このバルトゥの中で、静寂と憤怒のふたつの姿を

した、自分のほんとうの姿と出会っていかなければならないのだそうです。

 

ラマ僧は、なおも「あなたの前にこれからおそろしい憤怒の形相をしたヘルカ神

が、つぎつぎとあらわれてくる。でも、それを見て驚いたり、しり込みしたり、

おののいたり、逃げだそうとしてはならない。それらの神々は、あなたの大脳に

住んでいる神々のほんとうの姿なのだ。それはあなたの心に生まれた純粋な幻影

なのだ。あなたが、こうした恐ろしい神々に恐怖してしまうことがなければ、

あなたはかえってこれらの神々によって、確実に解脱できるだろう。」

 

「あなたの前に出現したブッダ・ヘルカの恐ろしい姿に、おびえてはいけない。

おののいてはいけない。この神はあの大日如来が、姿を変えたものにほかなら

ない。恐ろしい姿のその心には、広大な慈悲の力がみなぎっている。この神の

姿によって、悟りなさい。この神の姿によって、あらゆる幻影に打ち勝つのだ。」

と言い聞かせます。

 

このような静寂や憤怒の神々のイメージがあらわれてきたときに、自分の心の

信実を理解することができれば、その人には解脱が実現するが、それはとても

難しいことなので、たいがいの人は、その後、深い失神状態におちいってしまう

のだそうです。

 

そして、その失神からさめると、以前自分がもっていたのとよく似た身体、

「意識だけでできた身体」がむっくりと起き上がってくるのを感じるようです

が、これは悟ることができなかったために、ふたたび輪廻する世界への再生に

向かう道に入りはじめているということなのだそうです。

 

このように、死者の意識が、純粋な光の中から出て、ふたたび再生へと向かう

道に入りはじめても、それでもなお、死者の意識へ向けて、「いまのあなたは、

ただ、観音菩薩の慈悲すがることだけを、心に念じればよいのだ」と教えが

説かれます。

 

それでも、多くの人は解脱することができずに、再生に近づいていきます。

このとき、死者の前には、地獄に住むヤマ法王が出現してきて、生前の行為の

善し悪しを判断して、その人がつぎの生で悪い条件に生まれるべきかどうかを

決定するということです。ただし、そのヤマ王の恐ろしい姿も、自分の心の

本性と異なるものではないのだから、幻影のとりこになってはいけないと

さとすのだそうです。

 

しかし、それでも、なお、再生にむかう最後のバルトゥに入っていき、六つの

違った構造をもつ、輪廻の世界のどこかに再び生まれようとするとき、ラマ僧

はさとす、「自分が生まれる世界を正確に見抜きなさい。そして、細心の注意

を払い、輪廻に向かうかわりに、観音菩薩のほうにむかい、六つの形をした

輪廻におちこんでいくのを、可能なかぎり、防止しなければならない」と。

 

こうした最後のチャンスを逃した者には、自分が生まれてくることになる世界

の光景が次第にはっきりしてくるという。バルドゥもここまできてしまったら

致し方なく、意識を善いもの、優れたもの、清浄なもののほうにむけて、餓鬼

やアシュラなどの意識に触れないようにしなければならないが、このときには

もう、観音菩薩の力による救いを待つしかないということです。

 

かくして、バルトゥ(中有)の死者への導きとさとしは終わるのですが、勤め

を終えた帰りがけに、お供の小坊主が、師であるラマ僧に「私たち、生まれて

きてしまったものの生には、意味がないのでしょうか?」と問うています。

 

それに対して、ラマ僧は次のように答えています。

 

「生と死のむこうにある、心の本質を知ることができたら、その生には意味

があるということになるし、それができなければ、無意味なことを積み重ねた

ことにすぎないだろう。お前はなにも知らずに生まれてきたが、今は生まれて

きたことの意味を、知りはじめている」と。

 

ところで、中沢新一氏は、この『三万年の死の教え』という著書の中で、

『チベットの死者の書』はチベット仏教のニンマ派に伝承されている書物で

あるが、ニンマ派に伝承されてきたたくさんの教えのなかでも、いちばん

高度な「ゾクチェン」の教えのクラスに属しているようであり、ゾクチェン

の瞑想によって体験されるものと『チベットの死者の書』が説いている死後

の意識の体験するものとが、本質的に同じものつながっているという認識が

できるとしています。(なお、ゾクチェンという言葉は、「大いなる完成」を

意味し、人間を含むあらゆる生き物(一切有情)の心性における本来の

様態、またはあるがままで完成された姿のことを指していて、「大究竟」

などと訳される)

 

そして、また、数万年の古さをもつオーストラリア・アボリジニーの精神

伝統の中には、ゾクチェンで行われる青空を見つめる瞑想に類似した営みが

みられるが、このことから中沢氏は、両者の共通性にもふれ、アボリジニー

の「ドリームタイム」の思想には仏教の空性の思想と相通じるものがあると

して、人類学的な見地から、ゾクチェンがニンマ派のゾクチェンの伝統を

超えたきわめて古い人類の精神文化に連なっているのではないかと指摘

しています。

 

 







 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体