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「非神秘主義」-真の神秘主義-




非神秘主義



著者の上田閑照氏は、神秘主義について次のように定義づけています。

 

「神とか、最高実在、あるいは宇宙の究極的根拠などと考えられる絶対的なもの、

ないし絶対者が、絶対性のままで人間主体の内面において直接体験される、経験

される立場と見ることができます。」

 

まず、絶対者と自己との合一体験が基礎となり、それが、自己からの脱却、自己

という枠の突破と結びついて成立するという。つまり、合一即脱自ということ

であり、そのような神秘家の体験が、脱我、忘我、エクスタシーなどと言われる。

それによって、初めて真の自己と絶対者に目覚めるが、そこでは、人間主体は

その絶対者の直接的現前ですっかり吸収され尽くして無になる。しかし、その

ことは同時に絶対者が人間にとって対象であるという対象性が脱落して、真の

自己の根元になるという事態が起こるというのです。

 

また、それは神秘家自身にとっては、死して甦る出来事、それが最も単純に

生起する出来事であるということができるという。つまり、それは、神秘家が

霊とか魂とか呼ぶところの人間の内面の最内奥の出来事であり、絶対的なる

ものに直接触れられることによって内面に向かって自分自身を塞いていた

ような自己という壁が破られて無限の深さが開かれる、神的生の尽きぬ泉に

没して、そこから真新しく生まれ変わって出る、そのような体験として神秘家

自身によって自覚されるということです。

 

そして、合一即脱自の体験は、やがて反省的に自覚化されて、絶対者のあり方

とか、あるいは絶対と相対の関係とか、魂の最内奥、あるいは魂の本質と魂の

働きの関係、などに関する思索が展開していき、神秘哲学などの思想形態も

生まれてくるという。ただし、その思想形態は、「光り輝く闇」とか、「一切を

含む無」といった徹底的に否定的な表現、逆説的な表現、象徴的な表現に

なるということです。

 

さらに、以上のような思想展開とともに、一方で合一体験が基礎となって独特

な実践の形態が形成されてきます。合一への魂の上昇の過程が自覚化されて、

いわば階梯ができ、一つの神秘道として構築されてくるということです。

 

これは非持続的であった合一体験を経験の主体自身が反復する道にもなり、

同時に、また神秘体験に与ろうとする者に対して示される歩むべき道に

もなるという。

 

かくして、神秘道は「行」的な生活を帯びてきます。最初の段階は、沈黙

とか、孤独とか、貧という宗教的な言葉で表現される徹底的な自己放棄、

そして、次の段階は、それと結びついて、瞑想、ないしは絶対者への極度

の集中、そして最後は成就完成の段階ということになります。

 

ただし、その道を歩む場合、自力によって合一が可能になるというよう

に神秘家が考えているわけではなく、絶対的な受動性、自己放棄の道で

あるとしています。

 

なお、合一体験というのは、ずっと持続するものではなく、神秘家は

必ず合一からの脱落というものを経験するが、その場合、合一からの脱落、

つまり神秘的虚脱ともいうべき事態に対して、そこをどのように実存と

して生き抜くかということが、神秘主義が単に一時の心的現象であるのか、

それともはっきりとした生き方になるのか、その境目になってくる重要な

ところだとしています。

 

以上、神秘主義とは何かということについては、このようなことになり

ますが、神秘主義をどう位置づけるか、どのような意義を与えるかという

点になると、驚くほど見方が分かれてくると述べています。

 

まず、宗教的な見地から神秘主義の意義を認める立場がある。一つには、

神秘主義を宗教の普遍的な核心と見る立場があり、また、神秘主義の意義

を同じように認めるにしても、神秘主義(一元論)と預言者的敬虔(二元論)、

あるいは信仰の立場を宗教の二つの基本的な類型(超倫理的と倫理的など)

と見る見方があるという。

 

さらに、神秘主義の意義を認める場合であっても、そのような類型として

ではなく、真の宗教性への一つの段階、あるいは宗教性の一つの真理契機

と見る見方があり、また、それとは反対に、宗教の究極的な可能性が

神秘主義のうちに実現されている、あるいは実現されるという見方も

あるということです。

 

また、神秘主義を宗教的な現象というより歴史的な現象と見る立場もある

ようです。それによると、既成宗教が教義や儀礼、戒律などの面で形式化し

外面化してきた場合、あるいは教会組織が世俗化したり、神学における合理

主義的な傾向が非常に強くなってきた場合、歴史的な既成宗教のなかから、

その地盤になる宗教的な自由な生命が固定性を破って噴出してくる。

あるいはその特定の宗教の生きた宗教性の源泉に帰ろうとする運動が

起こってくる。そこに神秘主義が成立するという見方です。

 

一方で、このような神秘主義に対する肯定的な見方ではなくて、原理的に

否定的な態度な態度をとる見方があります。

 

それによると、脱自的合一ということ自体がすでに宗教の空想的な、

あるいは頽落的な形態である。なぜなら、そういう仕方で神と人間との

向かい合いが消されてしまうところでは、人格性というものが解消されて

しまうばかりではなく、人間のこの現実の有限性も絶対者の絶対性も共に

誤解され、誤認されてしまうからだというのです。

 

また、直接的な信仰の立場からだけではなく、人間経験の基礎的な理解

からして、あるいは人間経験の基礎的な構造に対する哲学的な理解から

して、そもそも神秘主義なるものは不可能であるという考え方もある

ようです。なぜなら、人間の経験の基礎には経験するものと経験される

もの、主観と客観の区別が大前提であり、神と人間との合一を主張する

神秘主義は、空想的な自己誤解であったり、あるいは情緒の一時的な

異常な高揚にすぎないというのです。

 

このように、神秘主義というものは、その評価が激しく分かれてくるが、

著者は、こうした事態そのものが神秘主義をめぐる非常に特色的な事態

であると論述しています。

 

 

以上のことを踏まえて、著者は、神秘主義というものが上記のように極限的

で単純極まりない一つの出来事であるゆえに、そのコンテクスト如何が非常

に重要になってくるとしています。そして、現代というコンテクストの

なかで神秘主義がどういう意味を持ち得るかを問うています。

 

その答えとして、まず、仏教とキリスト教が大きな規模とスケールで出会う

なかで、各宗教の伝統的な自己理解における基本的な枠組みや様々な概念を

相対化し得なければならないが、それには神秘主義が大きな示唆を与える

のではないかとしています。

 

また、神秘主義は、絶対的なものは、「これこれである」というように肯定的

に言うことができず、「これこれでない」という否定的な表現に特徴があるが、

そのような神秘主義の否定的な言い方のなかに、或る無制約的なものに

かかわる生き方そのものを否定せず、自己について語る語り方を相対化する

原理的な可能性が用意されているのではないかとしています。

 

さらに、機械化といった現代文明の陥っている病弊ともいうべき事態に対して、

神秘主義の様々な契機が、ある原理的な解毒作用を及ぼし得る予感があるとも

述べています。つまり、神秘主義は決して制度化できないものであり、個人の

自発性をというものを通して、その当の個人自身を本当に甦らせることができる

可能性を持っているというのです。

 

以上、上田閑照氏の神秘主義についての論述を見てきましたが、もう一つ、

著者は、「神秘主義から非神秘主義へ」という言い回しで著者の主張の核心を

述べています。

 

神秘主義と言われるあり方の要になるところを合一即脱自と見てきたが、合一

も脱自も独特な運動であり、動的構造としては一挙に合一即脱自であるが、

経験の動態においては「合一から脱自へ」であり、脱自にまで至って合一が

成就するとともに、脱自においては合一ということもないことになる。よって、

この全動性を真の神秘主義と呼びたいと述べています。

 

つまり、合一のところを神秘主義と呼び、脱自のところを非神秘主義と名づけ

るとすると、「神秘主義から非神秘主義へ」という動性全体、すなわち「非神秘

主義へ」というところまで含めて真の神秘主義と見るというのです。

 

合一のところで停滞する、たとえば、「神と私との合一」をいう場合、合一に

とらわれてそこに止まり続けると、「私」へのとらわれと相乗化されて、「神と私

との合一」が「私」の方にひきよせられて、「私」が「神」によってふくらんで

いく、つまり、自我が肥大化していく危険性が生まれてくるという。

 

かくして、真の神秘主義は、神秘主義にあらず、非神秘主義と言うのが適切だ

と主張しています。





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体