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マイスター・エックハルト-「非神秘主義」2-



エックハルト



 

上田閑照氏は、さらに、真の神秘主義、つまり、氏のいう「非神秘主義」

として、禅とマイスター・エックハルトについて論述していますが、

今回は、エックハルトについて少し触れてみたいと思います。

 

エックハルトは、1260年頃、中部ドイツのエルフルト近郊に生まれ、

若くして説教者修道会ドミニコ会に入り、パリとケルンで哲学および

神学を学んだという。

 

そして、以後、エックハルトは、パリ大学神学教授として学問の領域に

おいても、また、修道院長あるいは管区長としてドミニコ会内部においても、

次第に重責を担っていったということです。

 

なお、ドミニコ会は、古い修道会とは異なって、都市という新しい世界に

おける托鉢説教者修道会として、学問と説教によってキリスト教の真理に

仕えることを務めとし、特に異端を改宗させる任務を教皇から与えられて

いたようです。

 

晩年は、シュトラスブルクで約10年、続いて、ケルンにおいてめざましい

説教活動を行ったということですが、その極限的な教説のゆえに異端の告発

を受け、弁明書を提出するも、審問を待つ間に没したということです。

 

その死後、1329年、エックハルトは異端の宣告を受け、著作の刊行、

配布が禁止され、そして、彼に関する歴史的資料の多くは失われて

しまったようです。

 

もっとも、公にエックハルトの教えを信奉することが許されなくなっても、

人々に語りかけたエックハルトの精神の息吹は、人々の心から消えることは

なく、彼の説教の聞書きがひそかに伝写されて、数世紀にわたって広い範囲

で秘蔵され続けたということです。

 

エックハルト、次のような言葉を残しています。

 

「我々は何かであることを放棄しなければならない。我ということ、それは

欺くことである」

 

「神の言葉を聞こうとするならば、自分自身を完全に捨て去らなければならない。

そうすれば、そこで永遠なる神の言葉を聞くことができる。永遠なる言葉とは、

神の存在であり、神の本性であり、神の神性である」

 

「見返りを求めて何かを捨て去るならば、それは何一つ捨てたことにならない。

永遠の命のために、霊的な成就のために何かを捨て去るならば、あなたは何一

つ捨てたことにならない。そういうあなた自身を捨てさらなければならない。

自分自身を捨て去った人は真に純粋であり、もはや彼は何ものにも悩まず、

完全に自由である」

 

「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が

完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、

名前無き無なることを理解するであろう」

 

「神と私、私たちは一である」

 

著者は、このような或る極限性を含む思想が一体、そして何故に可能であったの

であろうかと問い、そこにはエックハルト自身の実存究明の徹底性ということが

あるであろうし、同時にそれは、時代の激動のなかで当面した問題の困難さに

対する一つの思い切った思想の試み、歴史において自分の生をもって実験する

解決の試みであったと見ることができるだろうと述べています。

 

エックハルトが繰り返し、繰り返し説いたことは、「脱却して自由」ということ

だという。「我(が)」性からの徹底的脱却、すなわち「我」性に死して神の生命

に甦り、神が人間の魂そのものになること。

 

その際、神を徹底的に経験したエックハルトにとっては、神と考えられるような

神は、真の神ではなかった。そのような神は「我」性の引力圏内である。むしろ、

そのような神との合一によって「我」性のほうがますます膨らむという。

 

その故に、エックハルトは、神自身における真の神を神と区別して「神性の無」

という。同時に、神が人間の魂というにとどまらず、「神性の無」こそ魂の底

なき根底だというのです。

 

かくして、エックハルトが「神から離れ」、神なき砂漠に大死すべきことを説く

のは、「我性」の徹底的放脚のためであり、それによって魂の根底が「神性の

無」に無限に切り開かれるためだということになります。

 

そして、そのような「神性の無」から「何故なく」湧き出ずるところに、生

の根源性と絶対的主体性と生活の醒めた平常性が一つに融合して現成して

くるのだそうです。

 

以上の論述は、非常に難解で、なかなか理解することが難しいですが、仮に、

「一心」に何かをしているとき、その「一心」の持続のなかで「我を忘れる」

ことの極地に至って「一心」ということも忘れ、「無心」に何かがなされて

いるようなニュアンスを思い浮かべると理解の一助になるのではないかと

いうことです。

 

この「一心」から「無心」へは、緊密な持続があり、そして、その持続性が

切断されて飛躍的に質の転換が起り、その真っ只中にあって真の現実性が

現れるというのです。

 

ところで、著者によると、エックハルトが説教において繰り返し説いた

のは、「魂のおける神の子の誕生」と「神を突破して神性の無へ」の

二つの根本命題であったとしています。

 

前者は、キリスト教神秘主義の伝統の中軸をなしてきたものであり、後者は

いわゆる「否定神学」の徹底的な実存的遂行であるとしても、エックハルト

に特徴的なことは、この両者の間を思想的・実存的な「高揚」の動性で

つないだことであり、そこに「神秘主義から非神秘主義のへ」の動性が

見られるのであると主張しています。

 

かくして、エックハルトは死し、異端の宣告を受けながらも、その思想は

生き続けたが、これは、歴史的制約をまぬがれない教えの形態のままで、

あるいは神学思想のままで受け継がれていった場合よりも、より力強く

根源的に、エックハルトの裸形の精神が伝わってゆく道であったかも

しれないとしています。

 

そして、エックハルトの精神は、絶えることなく、地下水のように歴史の

深層を流れ、時代時代の思想的根本問題に触れては、新しい解決への泉と

なり、いわゆる「ドイツ神秘主義」と呼ばれる、歴史を貫流する一つの

大きな精神的潮流となったのではないかと主張しています。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体