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「池田晶子 不滅の哲学」



不滅の哲学





池田晶子さんとは、1960年生まれで、2007年に肝臓がんのため46歳

の若さで亡くなった文筆家です。

 

彼女は、哲学を一般人向けに、専門用語を使わずに語るという新しい分野を開拓

した人で、中学の教科書に書き下しが掲載されたりしており、特に14歳から

の哲学-考えるための教科書は、道徳の教科書などに引用されたという。

 

そうなると、哲学者という方が適切かもしれなませんが、彼女は、哲学者という

のは、自分から名乗るものではなく、他者がそう呼ぶものだとして、文筆家だと

名乗っていたようです。

 

さて、著者の若松英輔氏は、この本の初めに、「会ったこともなければ、遠く

から見かけたことすらない。生前には、どんな声かも知らなかった。ある期間、

確かに同時代に生きたのだが、その言葉は、彼方の世界からやってくる、そんな

感覚をぬぐいさることができなかった。それは彼女が亡くなった今でも変わらない。

池田晶子の言葉、誤解を恐れずにいえば、言葉である池田晶子は、今も語ること

を止めない。」と述べています。

 

池田晶子さんは、「言葉はそれ自体が価値である」と何度も述べているが、彼女の

いう「言葉」とは、通常、私たちが感じている言語の領域をはるかに超えていて、

ときには、色であり、音であり、また芳香、あるいは形でもあるような、姿を定

めずに私たちの前に顕れるものであり、それは「コトバ」と言い表す方が適切だ

としています。

 

「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて

言葉である。宗教でもなくて、言葉である。」

 

つまり、彼女のいう「コトバ」は、魂にふれる。また、ときに、私たち自身より

も私たちの魂に近づくこともできるということのようです。

 

では、彼女がいう「価値」とはなんでしょうか。

 

著者は、「価値」とは、もともとは、かけがえのない何ものか、つまり、絶対

価値を意味したが、絶対を信じることが困難な今日では、その原意を見失い、

いつの間にか価値の意味も相対的なものになってしまったという。

 

よって、「価値」には絶対が分有されていなければならず、「存在はコトバで

ある」、つまり、存在=超越者は「コトバ」として世界に顕われるがゆえに、

言葉それ自体が絶対であり、救済は言葉によってもたらされるというのです。

 

そして、池田晶子さんは、「言葉それ自身を追求してゆくと、当然言葉の向こ

う側へ出てしまう。」「言葉』とはすなわち『意味』であり、『言葉の不思議』

とは、『意味の不思議』。」「言葉の意味というものは、目に見えて手でさわれる

この現実の世界には、存在しないということなんだ。意味というのは、別の世界

に存在するものなんだ」だとして、五感で認識される言語である言葉の世界から、

意識の世界を超えた「意味」の領域へと向かっていきます。

 

かくして、著者は、言葉を認識することは、「別の世界」にふれることである。

「言葉」、あるいは「意味」が別世界にあると信じる者にとって、別世界の

存在自体は疑い得ない。「世界」であると私たちが信じて疑わない、こちらの

視点から見れば、「別の世界」が異界なのだが、それが私たちの世界を包み

込むように存在しているのなら、「異界」と呼ばれるべきは、こちらの世界

かもしれないとしています。そして、池田さんが言うように別世界にある以上、

それにわずかでもふれようと思い者は、彼方なる世界へと歩を進めなくては

ならないと述べています。

 

ところで、池田晶子さんのいう哲学とはどのようなものなのでしょうか。

 

彼女の処女作「事象そのものへ!」の第一章は、まさに、走っている最中に

全構想が閃いたとあるように、哲学とは、躍動する営みとして感じられて

いたということです。

 

「内的発語の不思議。誰が誰に語っているのか。ことばはどこから紡ぎ出され、

どこへと向かい、また、何故その必要があるのか。あるいはまた、表象される

映像群。それらはどこに見え、また何故その当の意味を担っているといえる

のか。記憶の切実さは何によってそうなのか。そして-夢。ことばであったり、

なかったり。見知らぬひと見知らぬところ、知られすぎている自身の気配の

なかで。「物質」を超えて、塊状の「意味」が飛来する」

 

一見、これは哲学というより詩のように思われますが、著者は、「哲学者が

詩人になるとき、それが哲学の誕生である」とし、それは形而上学の始原

である古代ギリシャ以来、変わらない。哲学者に宿った言葉が、「哲学」

として他者に伝播してゆくとき、詩情(ポエジー)を欠くことはできない。

詩情は、詩だけではない。絵画にも、音楽にも、造形にも働きかける。

哲学も、詩情が自らを顕す場の一つである。哲学研究は驚くほど進展を遂げ

たが、哲学それ自体がこれほど力を失った時代もまた、ない。哲学に論理を

欠くことはできない。だが、人間において魂なき肉体が意味をなさないように、

哲学における詩情は、その根幹を司る働きを担っていると述べています。

 

そして、彼女にとって哲学とは、形而上の経験に論理の肉体を与えること

だった。哲学とは学業や学科の名称ではなく、日常で経験される気づきの

瞬間それ自体である。生活の根柢を支えているのが、予想を排した偶然の

連続であるように、そこで実が結ばれる哲学もまた、形式化されることを

拒む。「哲学者」を自称するものが次々に現れるとき、「哲学」は人々の手

から奪われ、雲間に隠される。彼女は「哲学の巫女」と称する。ここに

一切の比喩はない。避けがたい宿命と、神聖なる義務の自覚がある。彼女は、

自分の思想を語ろうとしたのではなかった。天岩戸(あまのいわと)に隠れ

た「哲学」を呼び戻す、巫者たつことを願ったのであると喝破しています。

 

ただし、このように、彼女にとって哲学は、止むことのない律動、持続する

律動、つまり、叡智の律動そのものであるがゆえに、もし、わずかであっても

この律動への感覚が開かれていないと書き手である彼女と読み手の間に溝が

深まることがあるという。よって、きわめて熱心な読者がいる一方、どうしても

なじむことができないという人も少なくないようです。

 

しかし、著者が、そして彼女が書くのは、そうした異和を感じる読者に向かって

でもあるという。なぜなら、私たちが経験する始原的な営み、それが「知る」

ことであり、「知る」ことは、しばしば異和の経験であると同時に、根元的な

「知」につながる合図でもあるからだというのです。

 

そして、池田晶子さんは言う、知ることは想起である。あらかじめ在るものを

知るのであり、ないものを知ることでは決してない。知ることは確認である。

「われわれ」が知るのではない。「概念」が、「宇宙」が、「われわれ」という

場所において、既に在る自身を想起しているのだ、と。

 

また、彼女は、哲学と決別した科学主義に対し、「彼ら(科学主義)は言う

だろう。神や魂などの形而上的存在など、信じられない。われわれは、目に

見えるもの、証明できるものしか、信じない。しかし、目に見えるものしか

信じないという彼らに目は、じつは、目にみえるものすら見てはいない。」

という。「なんでみんなわからないことをわかっていると思い込んでいるのか。

知りもしない死のことを、知っていることとでもあるかのように怖がるのか。」

ともいう。

 

これらのことから、著者は、領域を問わず、近代が作りだしたもっとも大きな

ドクサ(臆見)こそが死、存在の消滅としての死ではないかとし、この「臆見」

という幕の後ろに実在の世界を開示すること、それが池田晶子さんにとっての

哲学の使命であったと明言しています。

 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体