FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

プラトン、アリストテレス、プロティノス-「井筒俊彦」2-



神秘哲学



「アテナイの学堂」というルネッサンスを代表するイタリアの画家ラファエロの

有名な絵画があり、そこには二人の哲人が描かれていて、一人はオレンジ色の

衣をまとい、水色の布をはおって、天を指し、もう一人の人物は、手のひらで

大地を押さえつけるような仕草をしているという。

 

これは、それぞれが真理の場所を訴えていると解されており、天上界を指さす

のはプラトン、現象界に留まれと促すのはアリストテレスであるされています。

 

これを単純に哲学史に置き換えると、アリストテレスによるプラトン的イデア

論の否定を示すということであり、実際、多くの哲学史は、プラトン、プロ

ティノスの間に時間的断絶を認め、その原因をアリストテレスに帰して、

アリストテレスはプラトン哲学の破壊者のように論じられたということです。

 

たとえば、花があるとします。人間はそれを「実在」だと信じて疑わないが、

プラトン哲学では、人間の五感が感覚する事物は「幻影」に過ぎず、真実の

実在はイデアであるとする。イデアは、存在者の数だけ存在するが、万物の

イデアは、究極的にイデアのイデアすなわち「善のイデア」に収斂すると

プラトンは考えた。

 

しかし、プラトンが説くように、イデア性あるいは「存在の叡智性」が

遍在するのだとすれば、天上のイデア界に限定されなければならないのか、

どうして今、このときに現れないのか、つまり、人間が見、感じる世界に

それが実現されていないはずがあろうか、という考えがアリストテレスの

原点であったということです。

 

だが、井筒は、アリストテレスに「真摯なプラトン主義者」の姿を見ており、

「アリストテレスは先師プラトンにも後輩プロティノスにも劣るところ

なき純然たる神秘家であった」と言います。

 

著者、若松英輔氏も、アリストテレスは、プラトン哲学の破壊者ではない。

アリストテレスが壊したのは、プラトン主義者たちが作った教祖プラトン

の偶像ではなかったかと述べています。

 

そして、「畢竟するに形而上学は神学なのである」と井筒は書いているが、

彼の念頭にはアリストテレスの姿があっただろうとしています。なぜなら、

形而上学と神学の根源的一致はアリストテレスの根本問題だったのであり、

アリストテレスの哲学はその誕生以来、「神学に他ならなかったからで

あるという。

 

もっとも、その「神学」とは、人間による「神」の人間的理解を意味する

のではなく、井筒の「神秘哲学」によれば、哲学者とは、知による超越者の

復元を、超越者に託されたもののことだということです。

 

アリストテレスは、「神」の解析者ではなく、それを「愛慕」する実践的

思索者であった。アリストテレスは、人間には元来、自己の存在的根源を

求める本性があるとし、彼の「神学」の底を流れるのは、絶対者への信頼

と安住の確信であったとしています。

 

神秘家の本分は、神を理解し、その甘美な経験に惑溺することではなく、

その顕現を準備することであった。なぜなら、「個人的救済の余徳は万人に

わかたれて全人類的救済に窮極するまでは決して止むべからざる」という

ことこそ、アリストテレスが師プラトンから継承した哲学の使命だった

からだというのです。

 

さらに、若松氏は、アリストテレスは、井筒俊彦に、観照が哲学の道である

ことを明示しただけではないと言います。

 

観照体験の究極は、個の制約と桎梏を超え、ついに「宇宙的実践」たり得る

ことを教えたという。それは人間的実践即宇宙的実践として、あらゆる存在者

の重量を一に脊(せお)った人間の実践的活動の極地に他ならない。一個の

存在者が、真実の意味で「神充」を経験すれば、それは世界の祝福を意味する。

よって、ここにナザレのイエスの登場を、あるいは釈迦が仏陀に変貌する、

いわば人間の聖化を高らかに告げ知らせる預言者の声を聞くことはできない

だろうかと、若松氏は述べています。

 

ところで、井筒は、「神秘哲学」の中で、「アリストテレスを越えてプラトンへ!

 若しプロティノスの立場の歴史的意義を一言にして表明せんとするならば、

我々は恐らくかかる標語を以てするほかはないだろう」とも述べています。

 

もっとも、アリストテレスを越えるということは勿論、アリストテレスを貶斥

することは意味しないという。プロティノスの哲学は、アリストテレスに

よって拓かれた広大な宇宙的視野と、存在論的基底とを前提としてのみ

成立し得たのである。

 

問題はむしろ、かかる存在論体系の究極的頂点をなす超越的絶対者を如何にして

ロゴス面に定着するか、ということにかかっていたという。アリストテレスの

「思惟の思惟」に満足せず、プラトンの「善」を究極の限界まで追求して行き、

絶対充実即絶対無としてのプロティノス的「一者」が定立されたが、井筒に

よれば、プロティノスはその絶対無の形而上学によって、単にアリストテレスを

越えてプラトンに帰ったばかりでなく、プラトン精神を窮極にまで推しすすめ

つつ、遂にプラトンその人をも越えたということができるとしています。

 

ただし、このことは、プロティノスの観照体験がプラトン、或いはアリスト

テレスのそれに比して一層深かったということではないと言います。問題は、

体験の深浅ではなくて、原体験をどの程度まで哲学的に再現し得たのかという

ことだそうです。

 

アリストテレスが生成的存在者の生命に湧きかえる現実に世界から出発して、

現実界の只中に絶対者を追求し、一歩一歩思想的にこれに肉迫しつつ、遂に

「思惟の思惟」として最後のとどめを刺した時、或いは刺したと信じた時、

そこに出来上った結果から見れば彼は自らの観照体験の深さに忠実では

なかったのであるとしています。

 

つまり、アリストテレスは絶対者を「思惟の思惟」として定着することに

よってプラトンよりも遥かに明確に絶対者の内的構造を捉えることを得たが、

その反面、同時に彼はこれによって絶対者をプラトン的「善」の位置より

一段低く引き下ろす結果を招来したという。

 

究極的絶対者をただミュトス的にしか語ることができなかったプラトンの

立場に比べて、アリストテレスの神学は確かに厳密に哲学的であり、その

意味で思想的に一大進歩をとげたものであったが、プラトンが立っていた

深玄なる神秘主義の高処から見るとき、「思惟の思惟」は絶対者の端的な

本体ではなく、すでにそこには一種のずれが生じていることを認めざるを

得ないと述べています。

 

かくして、井筒は、プロティノスの神秘哲学は純然たるプラトニズムであり、

いわばプラトン的神秘主義の自己展開でありながら、かの宇宙的規模を有する

アリストテレスの形而上学を通過することによって、おのずから全宇宙に渉る

雄大な存在論体系を形成するのであり、この意味において新プラトン主義は、

少なくともその代表的思想家について見る時、決して先行諸説の雑然たる混淆

でも、いわゆる折衷でもなくて、むしろ全ギリシャ思想史の創造的綜合であり、

総決算であったと見なすべきであろうと主張しています。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スポンサーサイト

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「井筒俊彦」1 -神秘哲学-



叡知の哲学

 
 
イスラム学者として著名な井筒俊彦の原点は「神秘哲学」にあると、著者の

若松英輔氏は述べています。

 

それでは、神秘家として求道の道を歩む井筒の精神はどのようにして形成された

のでしょうか。

 

井筒は、「神秘哲学」の序文で、「私は東洋的無とでもいうべき雰囲気の極めて

濃厚な家に生まれ育った。」とみずから語っています。

 

井筒の父親はビジネスマンであったが、内心に深い闇を抱き、特異な繊細さで

罪業を感得する人物で、日常の修道を重んじ、息子にも幼い頃から座禅と

「臨済録」「碧巌録」などの禅籍の素読を強いたという。

 

また、特定の伝統宗教に伝わる瞑想法とは異なる「独特の内観法」を修し、

それを息子にも無理やり教え込んだということです。

 

だが、瞑想法においては特定の行法から自由であった父が、断固として息子に

禁じたのが「思惟」であったという。よって、修道とは、徹頭徹尾、純粋無雑

なる実践道であって、知的詮索を加えることは恐るべき邪解であると信じ込んで

いたというのです。

 

しかし、井筒は、ギリシャ哲学に出会うことによって、父からの厳命とは真逆の

事実を発見します。

 

そのときのことを、井筒は、「人間的思惟の典型的活動ともいうべき哲学や

形而上学が観照的生の体験に底礎されて成立し得るであろうとは夢にも思って

いなかった。・・・そして、特にギリシャの哲人たちが、彼等の哲学の底に、

彼等の哲学的思惟の根源として、まさしくVita Contemplativa(観照的生)

の脱自体験を予想していることを知った時、私の驚きと感激とはいかばかりで

あったろう。私はこうしてギリシャを発見した。」と述べています。

 

つまり、井筒は、父親の言葉に逆行するように、内側から沸き上がる「思惟」

の衝動を感じていたのだが、愛知の業である哲学こそ、求道の道を成就する

のであり、哲人たちの声は数千年の歴史を超えて、今日に至ってもなお、

鮮烈な問題を投じ続けていることを発見したということになります。

 

とはいっても、井筒にとって、ギリシャ哲学の発見は、父親との修道を否定

することにならなかったと著者は言います。

 

行と思想が不可分であるという認識は、井筒の中で終生変わることはなかった。

彼は頭で理解するよりも実感を重んじた、としながら、影響の深さと永続性を

考えると、井筒が父親から継いだのは内観法であるよりも、むしろ「読む」こと

だったのではないかと思えてならないと述べています。

 

なぜなら、思惟を禁じた父親も、禅籍と論語の素読はむしろ義務とした。

素読は「読む」ことが単なる知的行為ではなく、全身を傾け、深みにおいて

「感じる」営みであることを教える。アリストテレスの学んだアカデメイア

においても、「読む」ことは、すなわち秘儀に触れることだったのであると

しています。

 

さて、井筒は、「純粋観想とは人間知性の脱自的体験を意味する」と述べて

います。観照(テオーリア)が純粋の極に達したとき、人間は「脱自(エクス

タシス)」を経験するという。「脱自(エクスタシス)」、それは人間が何かを

慕うように、存在の根源へ飛躍する経験であるが、「脱自」だけで終わるなら、

肉体を飛び出した魂は、大地に叩きつけられてしまうかもしれない。「脱自的

体験」の極点に接したその瞬間、人間は即自的に「神充(エントシアスモス

)」を経験するする。身を捧げ、自己の存在を無化した者を、超越者が間髪

入れずに充足するというのです。

 

古代ギリシャの哲人たちにとって、観照とは、まさにこのような超越者を思慕

する神聖な営みであった。また、彼らにとって哲学とは、自己無化である

「脱自」の果てに訪れたが「神充」の経験に論理の肉体を付与し、世界に記録

することだった。プラトンが哲学における始原的営為を、「想起(アナムネー

シス)」と呼んだように、哲学とは考えることではなくて、思い出すこと、

叡知界の記憶を手繰りよせることだったということです。

 

よって、井筒が、みずからを「ギリシャ主義者でありプラトニスト」だと

語っているのは、それは超越的叡知の実在と、その想起を基軸に、みずから

の哲学は存するという告白でもあっただろうと著者は述べています。

 

著者は、また、「エクスタシスが直ちに神秘主義そのものの本質ではない。

神秘主義は一たびテオーリアの絶頂を窮めた後、自ら進んで此の美的観想の

静謐を断乎として踏み破る逞しき実践の意欲に結実しなければならぬ」と

いう井筒の一文が「神秘哲学」の概略を端的に伝えているとしています。

 

つまり、観照は瞑想を伴うとは限らない。観照は脱自体験に終わらない。

実践に結実するまで完成することはないということあり、井筒がこの論考で

一義的に明示したかったのはギリシャ神秘主義の系譜ではなく、人間が

自己発見を超えて存在的根源へと還る道程、神秘家たちの実践の道行き、

すなわち神秘道であるということです。

 

井筒は、徹底的に自己を滅し、ひたすら叡知界を希求する道を「向上道」と

呼び、徹底してそれを行った者は、叡知界に安住するのではなく、再び現象界

に舞い戻り、そこに叡知界の実相を再現しなくてはならないという。その道を

「向下道」と言うが、「我れ唯ひとりの魂が救われても、他のすべての人の

魂が悉く救われなければ神秘家の仕事は了らない」と述べているように、繰り

返しを恐れることなく、執拗なほど、プラトン哲学における「向下道」の

絶対的な意義を論じているのです。

 

観照の果て、静寂の境地を自ら打ち破り、濁世のその身を捧げる者、それが

井筒俊彦にとっての「神秘家」であるということなのです。

 

ところで、井筒によると古代ギリシャにおいて哲学は、その始原において

「密儀宗教」と分かちがたく結びついていたという。

 

ギリシャの霊性は、新しい神ディオニュソスの誕生と共に大きく転換するが、

井筒は、ディオニュソス神を紀元前7世紀のギリシャ人たちが作り出した空想

の産物だとは思っておらず、彼はその実在を信じ、人類が遭遇した稀有な宗教

体験として論じていて、シャーマニズム、すなわち、原始的神充の経験が哲学

の根源に横たわっているとしています。

 

ギリシャ神話を、あくまで現世的であるとし、神話時代、人間と神々は、救済的

次元においては関係が薄かったのであるが、新しい神が、現世がすべてであると

信じていたギリシャ人に、その彼方に別世界があると教えたというのです。

 

ディオニュソスは、オルフェウス教団の頂きという座位を得て、秘儀典礼組織と

独特の教義体系を与えられ、はじめて全ギリシャ的彼岸宗教の神になったが、

歴史はこのオルフェウス教団の実態をあまり伝えていない。

 

しかし、このことによって霊の救済が現実となると同時に、霊肉二元論の思想

が生まれたのであり、また、それは同時に、哲学の萌芽でもあったのです。

 

この宗教と哲学の狭間に生まれたのがピュタゴラスということになりますが、

この人物において、哲学と宗教は不可分であったばかりか、宗教性を帯びない

哲学など、概念として成立しなかっただろうということです。「哲学は、いわば

「真理」を聖体として成立するところの高次の密儀宗教なのである」と井筒が

言うように、それはピュタゴラスにとどまらず古代ギリシャを貫く実相であった

ということになります。

 

なお、オルフェウス教団とピュタゴラス教団は、接近した霊的共同体であった

という。そして、これらの密儀宗教のおけるイニシエーション、魂の階梯は

三段階になっていたようです。

 

第一にカタルシス、次にミュエーシス、そして、エポプテイアである。カタル

シスとは心身霊における浄化であり、ミュエーシスとは理知的思索の超克、

そして、エポプテイアとはすなわち秘儀参入である。

 

井筒によると、密儀宗教における霊的進化の三層構造は、そのまま哲学に継承

されるのだが、階梯の終わり、密儀宗教の究極、エポプテイアがすなわち哲学

の始まりなのだという。

 

存在の浄化、無化を経て、秘儀参入することが宗教の終わりなら、そこを突破

し、現実世界における実践を説くのが哲学に基点になるというのです。

 

 

 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

私はなぜ今ここにいるのか?-「輪廻転生を考える」2-



輪廻転生を考える魂とは何か




著者の渡辺恒夫氏は、遍在転生観という氏の考えを述べる前に、精神医学者

イアン・ステーヴンソンの、いわゆる生まれ変わりの科学的研究について

触れています。

 

そして、このような経験科学的研究は、私は霊魂であって、誰かとして生まれ

る前には他の誰かの身体に宿り、死んだ後には、また未来の誰かの体に宿ると

いう、いわゆる、素朴な心身二元論的世界観に基づいているが、それは科学的

方法と二元論を組み合わせたオカルト的パラダイムであり、それでは、「なぜ

私はこの霊魂であってあの霊魂ではないのか」という謎を解くことができない

として、否定的な評価をしています。

 

そして、いよいよ、著者の主張する遍在転生観なるものへと入って行きますが、

まず、著者が子どもの頃に体験した独我論的な体験というものを語っています。

 

それは、「もしかしたら、自分だけが意識を持つのであって、他人という他人は

意識なき機械人形にすぎないのではないか」という不思議な思いなのですが、

そんなことを考えるのは、世界で自分ひとりだと思っていた。

 

しかし、後に、あるマイナーな雑誌の小説の中に同じような感性を発見し、

大学入学後に、「自分にだけ意識があり、他人の意識は存在しない」という

学説が、「独我論」の名ですでに存在していたことを知った。

 

よって、社会的成熟に先立って、尖鋭な自己意識を発達させてしまう現代の

ような社会では、そのようなことを、意外と少なくない人々が一度は経験して

いる可能性があるのではないかという認識に達し、独我論そのものには関心を

失っていったという。

 

なぜなら、独我論が論理的に真理であるならば、すべての人間が独我論者

になることが期待されてよいが、他人というロボットが主張する独我論とは、

また、意味不明のしろものではないかと著者は言います。つまり、他人の

独我論を認めず、「独我論者は私ひとりでたくさんよ!」ということに

なるというのです。

 

ただし、この独我的体験と著者の関心事である「私は今なぜここに」と

いう問いは関係があるのではないかと言います。

 

つまり、どちらも、その奥により根源的な体験、「私の唯一性」という

直観を潜ませており、この根源的な直観のヴァリエーションとみなす

ことができるとしています。

 

かくして、著者は、独我論的な疑問を抱きつつも、独我論者にはなら

なかったのであり、自分の心の秘密を胸にしまい黙って墓場まで持って

ゆくつもりであったが、示唆的な、あるいは驚異的な体験をしたことが

きっかけで、それを理論化し世に出すことになったと述べています。

 

「なぜ、私は、今ここにいる自分であって、他の時間、他の場所にいる

誰かではないのか」という問いに対し、「私はあらゆる今ここにいるすべて

の人間だし、あらゆる今ここにいるすべての人間になるだろう」と、そして、

「他人という他人は心なき自動人形にすぎないのではないのか」という問い

に対し、「すべての他人は私の過去か未来のどちらかである」という考えに

至ったということであり、さらに、それを合理的に説明する論理、すなわち、

唯一の<私>が転生を重ねることによって同時にいたるところに存在すると

いう「遍在転生観」というものの想定に至ったとしています。

 

なお、皆が納得しがたい「同時代の誰かに転生する」ということを何とか

合理的に説明するために、著者は、客観的物理的時間ではない、今という

特異点のない、時間の第二元というものを想定しています。

 

それによると、「<私>は、時間の第二次元軸上を無限に転変を重ねる宇宙

唯一の自己意識である。宇宙に生きとし生けるあらゆる人間、あらゆる自己

意識的生命個体は、この唯一の<私>の、時間の第一次元軸上への投影に

ほかならない」としています。

 

そして、独我論と遍在転生観の背後には、「私の唯一性」という隠れた直観が

存在するとし、死生観としては独我論も「独我転生観」という一種の転生観の

特殊なケースであり、さらに独我転生観もまた、「穴だらけの遍在転生観」

と著者が名づけた死生観の特殊なケースであると述べています。

 

「遍在転生観」は、「独我転生観」から時間概念を拡張し、私がこの人間と

して生まれたという「偶然」を「必然」に転化し、神秘を少なくするために

登場したと言い、「穴だらけの遍在転生観」とは、多数の同時代人の中で、

ある人間は<唯一者(わたし)>の転生であり、他の人間はそうではないと

いう可能性を考えたものだとしているが、断絶があるとすれば、それは

「穴だらけの遍在転生観」の眷族と「遍在転生観」の間にあり、<<唯一者

(わたし)>が、ある特定の知的生命体である、という状態を、偶然と見るか

必然であると見るかの違いであると述べています。

 

よって、著者は、もちろん必然を選ぶが、その理由は、現在のところ、なるべく

多くを理解可能とし、なるべく「神秘」を減らしたいからだと答えるしかない

と述べています。

 

つまり、遍在転生観は、宗教に関心を持たない著者がいっさいの謎と偶然性を

可知化し説明し去り、神秘を追放せんとする、合理的主義的な意志のもとに

生み出されたものだということです。

 

かくして、自我の自覚の深まりにともなって、「今とここの謎」、つまり、

「私は今なぜここにいるのか」という謎が、最も深い意味で理解された自己

意識の唯一性の不思議が、若い世代の間で感知されつつある現代においては、

もう、従来の死生観の論争、すなわち唯物論的虚無主義 霊魂不滅の二元論

の対立に幕を下すころではないかと訴えています。

 

ところで、以前に紹介したことがある池田晶子さんが、「魂とは何か」の中で、

本書について、刺激的な書であったとしながら、次のような興味深い指摘を

しています。

 

「「唯一者(わたし)」は、なぜ、「いま・ここ」に居るかと氏は問う。この問い

を私は共有する。また、「梵我一如(ブラフマン=アートマン)」の自己意識が

<私>であるという事実も、私においても思考の原点となっている。けれども、

氏は、これに続く転生の考察において、<私>の唯一性にこだわるあまり、

論理が抽象に滑ってはいないだろうか。」

 

「<私>の背後に何らかの霊魂的なものを想定しない「記憶なき転生」が可能

にならなければならないと氏は言う。「遍在転生観」とは、<無意識的な妄念

とかコンプレックスとか性格傾向といった水準の連続性さえもなしに、成り

立つのでなければならないのである>と。・・・転生する主体が、もとより

それら社会的心理的水準と断絶しているところの「形而上的<私>」である限り、

当然そうでなければならないだろう。しかし、・・・この奇抜な転生観を、

勇を奮って発表した著者・渡辺氏の、「いま・ここ」での行為、その行為自体

は、それらもろもろの連続性なしの成り立つものだろうか、説明できるもの

だろうか。・・・こう言ってしまえるなら、「転生」とは、それ自体、「唯一者

(わたし)」によって為される宇宙大の行為の謂ではなかろうか。そして、

行為とは、他でもない「記憶」の謂ではなかろうか。「いまここに居る」と

いうこのことが「<私>が唯一である」というまさにその意味なのだ。だから、

「転生」を語ろうとするなら、<私>の唯一性を放棄せざるを得ないのでは

ないか、両者は同時に語れないのではないか。もしも両者を同時に語れたと

したなら、それは「<私>の転生」ではなくて、何か別のことを語っている

のだ。」

 

「真実を知る」ということと、「論理が成り立つ」ということとは別のこと

なのだ。もしも、真実を知ることのほうを選ぶなら、それは「記憶」を証拠と

する以外にはあり得ないだろう。なぜなら、記憶のない転生の論理とは、それ

自体、<私>によって考えられた論理だからである。しかし、問題は、その

<私>とは何か、これのはずではなかったか。氏の論理に欠けているのは、

たぶん、観察者としての<私>の視点、「<私>の転生」について考えている

これは誰か、この問いなのだ。」

 

「<私>とは、宇宙におけるその何がしかの一形式もしくは一位相にすぎない

のではないか。<私>という形式でないものにおける、たまたま<私>という

形式、そんな感じがする。この形式それ自体は、「人」でも「もの」でもない

ものである」と。

 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「輪廻転生を考える-死生学のかなたへ-」



輪廻転生を考える 





本書は、もう20年ほど前に出版されたものですが、冒頭で、著者の渡辺恒夫氏

は、当時、社会を騒がせたオウム真理教の元信者がテレビで「私がここにいる

のはなぜ、どこから来てどこへ行こうとしているのか」といった発言をしている

のを聞いて、ついに時代はここまで来たか、という驚きと感慨を禁じ得なかった

と述べています。

 

というのも、著者もまた、他の人はこんなことは考えないだろうと思い、誰にも

話さなかったが、子どものころから「私はなぜ、今、ここにいるのか」という

問いを抱いてきたのだそうです。

 

そして、著者は心理学者なのであるが、全国の大学生を調査したところ、驚いた

ことに、この種の問いがおよそ10人にひとりに近い確率で学生の間で生じて

いることを見出したというのです。また、その問いへの解決として、輪廻転生

を述べる学生が少なからずいたということです。

 

しかし、著者は、日本人の死生観は輪廻転生観ではなかったはずだといいます。

カルマと輪廻転生を教義とするのはインドを発祥の地とする宗教に共通である

が、仏教が中国へ、さらに日本に渡来して定着するためには、転生輪廻の教義

を棚上げし、東アジア固有の祖先崇拝、祖霊信仰を取り入れざるを得なかった

のだとしています。

 

なぜなら、家族を基本とし、地縁と血縁を重視する価値観の中で育まれた日本人

は、自己を「個」として意識するよりも、むしろ、家や一族、村、さらに国家と

いった共同体の一部として自己を意識するという精神構造を身につけてきたが、

輪廻転生説によれば、来世は必ずしも、同じ家系や同じ村や、同じ国に生まれ

変わるわけでななく、輪廻転生説の本来の姿は、民族や国の枠を越えたもので

あり、そのような死生観は偏狭な共同体意識を壊してしまうことになるからです。

 

にもかかわらず、先に述べたような「私はなぜ、今、ここにいるのか」という

ような大宇宙と向き合う孤独な自己意識が顕在化してきたことは、日本人の伝統

的な精神構造と自己意識の構造が、ここ数十年で急速に変容しつつあることを

表しているのではないかと述べています。

 

「私は私を閉じこめている宇宙の恐ろしい空間を見る。そして自分がこの広大

な広がりの中の一隅につながれているのを見るが、なぜほかの処ではなく、

この処に置かれているのか、また私が生きるべき与えられたこのわずかな時

が、なぜ私よりも前にあった永遠と私よりも後に来る永遠のほかの点でなく、

この点に割り当てられたのであるかということを知らない」と言ったのは、

17世紀の最高の科学者であり哲学者でもあったパスカルですが、著者が

行った調査のなかで、「小学校の高学年くらいのとき、自分はどうしてここ

にいるのかな。この広い宇宙の中の銀河系の地球という惑星のこの日本の

国の中で、どうして生きているのだろうか、と漠然と考えた」と述べたという

19歳の女性の言葉を引用し、現代の少年少女は、自分が何ものであるかの

実感に乏しい、アイデンティティの確立が難しい時代に生まれたことにより、

パスカルが問いかけたような謎に年端もいかぬうちに直面せざるを得なく

なったのではないかと言っています。

 

よって、また、著者のものとは異なる調査においても大学生の52パーセント

が輪廻転生があるということに肯定的であるという驚くべき結果が出ている

のだとしています。

 

そこで、著者は、多くの若者たちが「私はなぜ、今、ここにいるのか」という

問いの解答を与えると感じられるがために輪廻転生観に引きつけられることも

十分想像できるとして、まず、伝統的な輪廻転生の歴史を振り返り、その起源を

探っています。

 

まず、著者は、紀元前1000年ごろ、輪廻転生説を説き、また、史上初めて

「自己とは何か」を体系的に探究したインドのヤージナヴァルキャという哲学者

に注目しています。

 

「解脱」とは、悟りをひらくことによって二度と生まれ変わらずにすむように

なることをいうのであるが、ヤージナヴァルキャは、それは宇宙精神ともいえる

ブラフマン(梵)との合一、すなわち梵我一如によらなければならない。そして、

その合一は、「真の自己」(アートマン)、つまり、「本当の私」を知ることに

よって成し遂げられると主張したとしています。

 

ただし、真の自己(アートマン)は、純粋の認識主体であるある以上、「自我

(アートマン)は・・・・・ではない」としか表現できないという。

 

つまり、私は自分の性格や感覚や感情や記憶や知識や思考について、意識でき、

認識できるから、それは私の認識対象であって、私という主体そのものではない

ということです。

 

日頃、「これが私だ」と思い込んでいるものに意識を向けては、「これは私では

ない」と否定を重ねてゆくと、もはや何ものにも意識が向かうことがなくなり、

自分が空っぽになったという瞬間がくる。そのとき、意識は特定の何かに向かう

ことがないため、かえって全宇宙に拡散して感じられるだろう。自分が空っぽ

になったため、自己と宇宙が一体として感じられる、この境地こそ、ブラフマン

とアートマンの合一の境地だというのです。

 

著者は、今から3000年近く前、インドの哲人によって説かれたこの教え

こそ、人類史上はじめて、絶対に認識の対象とはならない主体としての自我に

目覚め、自己いうものをと本格的に探究した記念碑ともいえるものだろうと

述べています。

 

ただ、このような梵我一如の境地は肉体をもつかぎり長続きはしないし、その

境地に達しなかった自我は、肉体が滅んだときも、感覚やら感情やら思考やらを

引き連れて、別の肉体に移って行く。感覚やら感情やら思考やらを「これが私だ」

と思い込んだがために、本当にそれらは私の一部となって霊魂というかたまりを

形成し、別に肉体の中で新しい生を始めることになるのだということです。

 

一方、輪廻転生については、秘密の教えであって、公開すべきものではないと

いうことを述べているところから、ヤージナヴァルキャの独創ではなく、以前

から伝えられてきたものであり、彼の教えの核心は、輪廻とカルマではなく、

アートマンの自覚にあるのではないかとしています。

 

かくして、著者は、輪廻転生観の体験的根源は、闇に没してつかまえられな

かったことになるが、私は死後どうなるかという死後の問いより、真の自己

とは何か、「私」とは何かという問いの方を優先させるべきあること、そして、

「私とは何か」がわかれば、死後についての問いも、おのずと明らかになる

かもしれないこと、これが仏陀以前の最大の哲人ヤージナヴァルキャから

私たちが学ぶべきことなのではないかと述べています。

 

そして、さらに仏教の輪廻転生観にも触れています。

 

仏教には無我説というものがあり、それは一言で言うと自我は存在しないと

いうことであるが、それでは輪廻の主体というものがなくなり、輪廻転生観と

いうものと矛盾することになる。そこで、唯識学派と呼ばれる仏教哲学の一派は、

心の根底にアラヤ識という無意識を想定し、アラヤ識の果てしなき流れが輪廻

の主体だとしたのだという。

 

よって、「自我」と思われているものは、無意識の流れにポッカリ浮かんでは

消える泡であって、この泡が消えるまでの短い時間が私たちの一生であり、

次の泡が流れに浮かんで現れるのが、転生、つまり、生まれ変わりだと

いうのです。

 

なお、仏陀自身は無我の説を説いたのではなく、非我の説、つまり、何かを

私であると思い込んでも、それは私ではない、ということを説いたのだと

いうことです。

 

そして、この無意識の考え方は、フロイトやユングの深層心理学の中に受け

継がれているが、梵我一如の不二一元論は、オーストリアの物理学者シュレ

ディンガーによって継承発展させられているという。

 

シュレディンガーは、自我の多様性はみかけだけであり、本当は唯一の自我が、

宇宙唯一であるがゆえに、宇宙精神(ブラフマン)というにふさわしい自我が、

あるだけである」という結論に達したということです。

 

しかし、著者は、それは素晴らしく壮大で魅惑的だが、やはり納得できない

部分がいくつかあるとしています。

 

最大の問題は、「時」の問いには答えても、「場所」の問いには答えていない

のではないか、つまり、なぜ私はここにいるこの人間であって、あそこにいる

あの人間ではないのかという問いにどう答えるのかと言います。

 

自分は神秘家ではないので、自分が同時に他のあらゆる人間でもあるという

事態を体験できないゆえに、この「同時」ということを考え直す必要がると

して、新たなる死生観を展開するのですが、それは次回としたいと思います。

 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「昔話と日本人の心」



昔話と日本人の心




 

前回は、グリム童話を素材に、昔話の心理学的基盤というものを見てきました。


 


ユングは、人間の無意識の深層は人類の共通の普遍性をもつとして、「元型」と


いうものを仮定しましたが、著者の河合隼雄氏は、昔話の発生の心理的な側面を、


ある個人がユングのいう元型的な体験をしたとき、その経験をできるだけ直接に


伝えようとしてできた話が昔話の始まりであると思われるとし、それが元型的で


あるということは、人間の心の普遍性につながるものとして、時代や文化の差を


超えて、多くの人に受け入れられてきたとしています。


 


しかし、一方で、先のグリム童話など、西洋の昔話と日本の昔話ではずいぶんと


異なっているところがあるのも事実だと思います。


 


よって、今度は、同じ河合隼雄氏の著書「昔話と日本人の心」によりながら、


日本の昔話の特徴を見てみたいと思います。


 


まず、著者の河合氏は、近代に確立された西洋人の自我は、その自立性や統合性


の高さなどにおいて他に比類を見ないものだといいます。そして、その特異な


自我の確立の過程を神話的イメージで表したエーリッヒ・ノイマンというユング


派の心理学者の説を紹介しています。


 


まず、多くの天地創造神話に示されるカオスの状態がある。つまり、意識と


無意識は分離されず混沌のままで、ウロボロス(自らの尾を呑み込んで円状を


なしている蛇)で象徴される。そして、このようなウロボロス的な未分化な


全体性のなかに、自我がその小さな萌芽を現すとき、世界は太母(グレート・


マザー)の姿をとって現れる。太母の像は全世界の神話な宗教のなかに重要な


位置を占めているが、そこには肯定面と否定面の両面をそなえた太母像がある。


さらに、このような太母のなかで育っていった自我は、次の段階として、天と地、


父と母、光と闇などの分離、つまり、意識と無意識の分離を体験する。これは


多くの創世神話における天と地の分離や、闇の中にはじめて光がもたらされる


物語として表されるが、ここで人間の意識の発達段階は、画期的な変化を迎える


ことになる。今まで創世神話によって表されていたのが、意識が無意識から分離


することによって自立性を獲得し、人格化されることにより英雄神話となる。


英雄の誕生であり、英雄による怪物退治、宝物の獲得である。怪物退治は、父親


殺し、母親殺しでもあり、これらの戦いを経て勝利し、英雄は女性を獲得する。


かくして、自らを世界から切り離すことによって自立性を獲得した自我が、一人


の女性を仲介として世界と再び関係を結ぶことになる。


 


以上のような神話的イメージの流れに沿って、西洋の昔話では、怪物退治、或は


魔女からの救済と求婚の成功という一連の冒険が語られることが多いが、日本の


昔話は、そのようなパターンでは解釈できないものが多く、ヨーロッパの民話の


ようなメリハリのきいた分析を許さない曖昧な性質をもっているとしています。


 


その原因を探ってゆくと、根本的には、母性原理の強さと、<自我>の確立の弱さ


というところに行きつくようで、母なるものとの分離のための激しい対立、父性


原理である厳しい試練の克服、そして結婚の成就といった明確なプロセスを欠く


ということになるようです。


 


たとえば、日本の昔話「飯くわぬ女」の物語を見ると、いつまでもひとり者で、


物を食わない嫁がいたらもらうと言っていた男が、「飯くわぬ女」を嫁にもらうと、


それが何でも食う女(人をも食う)だという話で、すべてを飲み込んで死に至ら


しめるような母性の否定的な側面である山姥(やまんば)が登場します。


 


これは世界中の神話や昔話に共通の太母、いわゆるグレートマザーの一面と同一


視することができるが、人は成長過程でこのような母なるものの否定的側面、


すなわち自立を阻む力を認識し、それと分離しなければならない。


 


そのとき、西洋では「ヘンゼルとグレーテル」の場合のように魔女退治、すな


わち内的な母親殺しというテーマになるが、東洋、あるいは日本では一刀両断


は難しいようで、「飯くわぬ女」の場合は死にますが、逃げ去って終わるという


類話が多いということです。つまり、山姥は退治されたわけではなく、そのまま


共存することになります。


 


また、昔話とは言えませんが、「山椒大夫」の安寿と厨子王のように、厨子王が


母から分離する、つまり、成人して出世してゆくことに対して、母は盲目となり、


子どもの自立を知る危険から身を引くことによって、共存が図られる形になって


いるとしています。


 


このように、太母からの分離は、ストレートには行かず、きわめて曖昧な形に


なるようですが、では、この固い結合を破るものがあるとすれば、何なんで
しょうか?


 


「鬼が笑う」の話は、嫁入りにゆく途中、鬼にさらわれた娘を父親ではなく母親


が探しにゆき、庵女(尼さん)という母を超えた太母的な存在の助けによって、


娘を助け出すというものですが、この母と娘の関係というものは、原初的関係と


言われることがあるように、「関係性」というより「一体性」というべき緊密な


ものであるということです。


 


しかし、根源的な母=娘結合の支配する社会に置いては、事象の変化は永遠に


繰り返され、そこには本質的な変化は生じないため、このような永遠に続く反復


を打ち壊すためには、母=娘の結合を破る男性の侵入を必要とするが、この場合


はそれが鬼だということになります。


 


もっとも、著者は、この鬼というものはウロボロス的父性の体現者ではないかと


しています。それは父性ではあるが、輝きをもたず、暗く凄まじい。強くはあるが


威厳に乏しく、ときに滑稽に陥ることすらあり、父性というものの背後に母性を


感じさせるものがあるとしています。


 


しかし、これなくしては母=娘結合は永遠に破れないのであり、このような


ウロボロス的父性が作用し、女性がそのような父性存在を受けとめたとき、


その女性は母=娘結合の段階から、父=娘結合の段階へ変化し、そして、


さらに新たなる男性像の侵入によって、その結合をも破れねばならない。


そうでないと異性との結婚にまで至らないのです。


 


よって、日本の昔話では、女の世界に侵入してきた怪物は、西洋のように


男性に変身して結婚に至るではなく、女性の力によって消滅させられてしまう


ことが多く、結婚というテーマが欠落してしまう場合が多いとしています。


 


そして、原初の血による関係である母=娘結合の次に来るのがきょうだい、


それも異性のきょうだいの関係だという。(父と子の関係は、原初の時代には


血の関係として意識されなかったようです。)


 


この場合も、日本の昔話は、姉妹の場合に、姉の活躍するものが多いが、


それは、やはり、母性の力が強いので姉の働きを示すものが多く存在するの


ではないかとしています。


 


また、先に少し触れた「山椒大夫」では、姉は弟の犠牲になり、ただ弟の幸福


のみを願って死んでゆくのであるが、その姿は、わが国の母性優位の文化に適合


する女性像を与えていると述べています。


 


もう一つ、最後に「浦島太郎」についての論述を紹介しておきたいと思います。


 


誰もが知っている有名な昔話であり、今まで様々な角度からの研究、論述が


なされていますが、著者は深層心理学の立場から次のような考察しています。


 


まず、先の母なるものからの自立というテーマに沿って見ると、父親はおらず、


母一人子一人の家族、それも母親は80歳、息子は40歳にもなっていながら


嫁を貰う気がないという、興味深い状態が浮かび上がります。


 


これは、とりもなおさず、息子が母親から分離していない状態、自我が無意識


から自立性を獲得していない状態を表しており、父親の不在は、主人公がその


男性性を確立すべきモデルを欠いていることを示しています。


 


よって、著者は、浦島を童子と述べている類話もあり、母親との結びつきから、


「永遠の少年」の元型が想起されると述べています。永遠の少年は、「母」と


の強い結びつきゆえ、母なる女神を求めて、さまよい続けるというのです。


 


また、浦島は、竜宮、つまり、他界に3年間滞在したつもりが、現世では


3百年に相当して困り果ててしまうのであるが、これを著者は、心理療法家


として、無意識内における無時間性として解釈しています。そして、無意識界


に入って行きながら、外界とのつながりを失わないようにすることは重要な


ことであり、この困難さを克服しないと浦島と同様の失敗を犯すことになる


と述べています。


 


しかし、外界と内界、意識界と無意識界との区別が明白でないことも、日本人


の特性の一つではないかと言い、外界と内界、他界の現実界の障壁が薄いことは、


日本人の自我の在り方を反映しているものではないかとしています。


 


西洋流の母親殺しを達成して確立された自我は、意識と無意識の区別が明白で


あり、物事を対象化して把握する力を持つが、日本的な意識の在り方は、非常に


境界を曖昧にすることによって、全体を未分化なままで把握しようとすると


言明しています。


 


もっとも、著書は、<自我>の確立の弱さといっても、<自己>の存在を知る


ことにおいて優っていると考えれば、<自我>と<自己>の関係は日本における


人間と自然の関係と同じく、対立することなく共存するものとしてあり、曖昧な


中に存在する統合感のようなものによって保たれていると見ることができると


言っています。


 


また、エーリッヒ・ノイマンは、父権的意識は、母権的意識よりも発達したものと


考えているものの、母権的意識の意義についても指摘しているところから、著者は


唯一の自我とそれによる統合というイメージは、西洋におけるキリスト教文化に


よって生み出されてものであるゆえ、我々は、可変性を内包している「女性の


意識」や、多重の自我の存在ということを考えてもいいのではないか、そして、


そのほうがこれからの多様化する世界に対応しやすいのではないかと述べて


います。


 


なお、著者は、以上のような考察をしながらも、物事に解釈を与えるという


ことは、重要な原体験を失わすだけの事かも知れないとして、いかなる昔話の


解釈もその昔話以上を出ることはできないということを読者とともに常に心に


とめておきたいとも言っています。


 


 





















テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

グリム童話と心理学―「昔話の深層」2―



グリム童話集



一般に昔話の主人公は一人であるが、先の「ヘンゼルとグレーテル」の物語は、

主人公が二人いることになり、それは非常に珍しいことだそうです。

 

しかし、ここで紹介されている「二人兄弟」という話は題名から見て主人公が

二人いるように思われるが、そうとは言い切れないところがあるという。つまり、

一人の人間の対照的ともいえる二つの側面を表しているというのです。

 

たとえば、気が弱く自己主張のできない人が、酒に酔ったときだけ急に思い

がけない強いことを言ったりすることがあるが、これは、その人の無意識内に

形成されていた意識に反する傾向が、飲酒によって自我の統制が弱くなり、

表面に浮かび出てきたものと考えられます。

 

このような現象を説明するため、分析心理学者ユングは、人間の心に働く相補性

の原理の存在を唱え、相反するものがお互いに補いあって一つの全体性をつくり

あげる傾向が人間の心のなかに存在すると主張したということです。

 

そして、ユングは、ある個人の自我が否定し、受け入れが難いとする傾向の

すべてを、その人の「影」と名づけたという。すべての人はそれ自身の影、

黒い半面を持っているというのです。

 

そうなると、この「二人兄弟」の物語の場合、兄が弟にとって何らかの意味で

分身的存在であることは明らかであると述べています。

 

しかし、影は必ずしも悪とはかぎらないということです。内向的な人にとって

外向的な生き方は、その人の影となるであろうが、外向的なことは悪ではない。

むしろ、その人が外向的な面をあわせもつように努力するほうが、人間として

は豊かな人となると言えます。

 

また、ユングは、影にも個人的な影と普遍的な影があると考えていたようで、

ある個人にとって、その性格と反対にあるような傾向として個人的な影が存在

するが、普遍的な影は万人に共通なものとして、すべての人の受け入れ難い悪

と同義のことになってくるのであり、昔話においては普遍的な影は悪魔などの

姿をとって現れてくるということです。

 

しかし、著者は、この「二人兄弟」の物語は判断の難しい困難な問題を投げ

かけていると言います。

 

つまり、弟は、兄の行為を誤解して兄の首を一度は切ってしまうのであるが、

その兄に救い出されることになるということはどう解釈したらよいのかと

いうことです。

 

因みに、ユングは、「私」というものはひとつのまとまり、主体性をもって

いるが、そのような統合および主体性の中心を<自我>と呼び、その背後に、

もうひとつ、意識と無意識をも含めた全体性の中心としての<自己>の存在

を仮定していています。

 

もしそうだとすると、兄が弟のもうひとつの側面であるとするとしても、

その「もう一人の私」が、私を転落に誘う影の像なのか、自己実現への歩み

を促進する<自己>の像なのかを見分けることがほとんど不可能なのです。

 

著者は、この困難な問題について、確かにわれわれは、兄のような暗い

同伴者が、われわれの克服すべき欠点を象徴しているのか、受け入れる

べき意味のある生き方の一つを象徴しているのかを前もって区別する

ことはほぼ不可能としながらも、弟が悪いと感じた兄を切り、深い悲しみ

を体験し、また、後に兄の隠れた立派さを知ることによって、影という

ものの自覚と救済を遂げたことは示唆深いことであり、体験こそが我々に

物事の区別を教えてくれるのである、と述べています。

 

なお、この「二人兄弟」は、かなり長い物語で、まず、先に述べたように

性悪の兄と貧乏で善人の弟が登場するのですが、この二人は、話の出発点で、

弟の双子の兄弟を中心にストーリーが展開してゆきます。そして、上記の

ほかにも、父性原理の果たす役割や、怪物退治などの自己実現のための試練、

再生のための死、などといったテーマもそこには埋め込まれています。

 

ところで、「ヘンゼルとグレーテル」は、母なるものからの心理的自立の物語

であったが、著者は、父なるもの、父性原理を描いたものとして「黄金の鳥」

という話をとり上げています。

 

この物語は、王と3人の息子(王子)が登場する王権継承の話ですが、父なる

ものとしての王のはたらきが描き出されているとしています。

 

父なるものは、母なるものがすべてを包み込み、養い育てる機能をもって

いるのに対し、父なるものは切断の機能をもっているという。

 

つまり、物事を分割し、分離する。善と悪、光と闇、親と子、などに世界を

分化し、そこに秩序をもたらす。父性はそのような秩序と規範性の遂行者

としての権威をもち、子どもたちが規範を守ることができるように訓練を

ほどこすものだというのです。

 

しかし、父なるものも両面性をもっていて、例外を許さぬ厳しさは過酷な

ものとなるとき、命あるものを切り捨てる否定性につながっていくことが

あるのです。

 

よって、母なるもの、すべてを区別することなく包み込む機能と、父なる

ものの善悪を区別する機能との間に適切なバランスが保たれてこそ、人間

の生活は円滑に行われることになるということです。

 

さて、王の命を受けて息子たちは旅立ちをすることになりますが、著者は、

旅を無意識への旅ととらえています。そして、援助者として登場する狐

に注目しています。

 

最終的に、狐の援助を獲得したのろまな王子(三男)が、忠告を聞かなかった

りして窮地に立たされながらも、王位を継承することになるのですが、その

恩返しとして狐は、「あたしを打ち殺して、首と手足をちょんぎってほしい

んです」という奇妙な要求をします。

 

何度も断ったあげく、狐の言うとおりにすると、狐はぱっと人間の姿になり、

彼は美しい姫の兄で、魔法をかけられていたことを告げるのですが、このこと

から、狐(兄)とは先に述べた<自我>を超えた全体性としての<自己>の

高次な側面を表しているものと見るほうが妥当ではないかと述べています。

だから、それは手足をちょん切るような救済を要求するような人間の常識を

はるかに超えた存在なのだというのです。

 

かくして、<自我>と<自己>との望ましい相互関係が確立されていてこそ、

自己実現の過程を進んでゆくことができるのであり、この物語は、主人公が

狐の忠告に従うときと、自分の判断に従うときと、言うなれば、<自我>と

<自己>の対決を通じてのバランスのあり方が見事に示されていると述べ

ています。

 

ユングは、自己実現の道を<個性化>の過程としてとらえているようですが、

著者は、意識と無意識の相互作用のなかで、「個人」がいかにつくられてゆく

かという過程を各段階のごとに明らかにしたのが本書であるという。ある

主人公は危険にあえて挑戦して成功し、ある者はそれを避けることによって

事無きを得た。あるいは、一見不幸に見えることが、あとでかえって幸福の

種となることさえあった。このような一般化を許さぬことにこそ人生の特徴

があり、それゆえにこそ「個性化」と呼ぶべきなのであろうとしています。

 

昔話はすべて結末をもち、主人公の願いは成就されるのであるが、それは

あくまで自己実現の一コマとしての意味をもつものであって、一つの段階の

成就の次には、また次の段階が待っているものであると述べています。

 

なお、そのほかにも、男性の心のなかの女性、女性の心のなかの男性、

トリックスター(いたずらもの)のはたらきなど、興味深い論述が

なされていますが、またの機会にしたいと思います。

 

 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「昔話の深層」



昔話の深層


 

昔話がどうして発生してきたかは、いろいろな観点から考察することができる

ようです。

 

現在では、民族学、民俗学、文芸学、心理学など、多面的な研究対象となって

いるが、本書では、河合隼雄氏がユング派の心理学者として、昔話の心理的な

基盤について論じています。

 

著者の心のなかでは、一見、隔たったように見える昔話の内容と現代人の心性と

が深く結びついていると考えられ、昔話に関心を持たざるを得ないのだとして

います。

 

よって、心理学的な観点、とりわけ、ユングの普遍的無意識や元型の考えによって

昔話を見てゆくのであるが、その前提として神話、伝説と昔話の関係、区別を次の

ように述べています。

 

伝説は昔話と比較すると、元型的な体験が特定の人物や場所と結びつけて語られる

が、昔話は、「昔々、あるところに・・・」というふうに特定の場所と時間からの

思いきった分離があり、内的現実への接近を容易にする。また、神話の場合、その

素材が元型的なものであることに変わりはないが、それは一民族、一国家のアイ

デンティティの確立に関係するものとして、より意識的、文化的な彫琢が加え

られている。

 

つまり、神話・伝説のほうが意識的な統制を受けているものと考える必要があり、

昔話は異なった時代や文化の波に洗われて、その中核部分のみを残したものと

いえるとしています。

 

さて、著者は、グリム童話を素材にしてその深層を探ってゆきますが、「トル

ーデさん」という恐ろしい話から始めています。

 

普通、我々は昔話というと、勧善懲悪的な教訓とハッピー・エンドをイメージ

しますが、この物語は、主人公が棒切れに変えられて火で焼かれるという残酷

な結末になっているのに驚かされます。

 

で、なぜ著者がこの話を最初に選んだのかというと、昔話のすさまじさを知って

ほしいと思ったからだというのです。

 

死を忘れてしまいたいとする私たちに、「「トルーデさん」の物語は、人生の

戦慄をあらためて体験させるという。なぜなら、現代人がつとめて忘れ去ろう

としている、死の戦慄は、未開人にとって真に重要なものであったのであり、

彼らは、子供が成人になるためのイニシエーション(通過儀礼)において、

それを大切な要素として組み入れていたからだと言います。

 

ところで、神話や昔話などに登場する女性像には、このトルーデさんのように

恐ろしい魔女の姿をとるものと、一方で、慈悲深くやさしい母親像という二つの

傾向があるようです。

 

この極端な両面性を追求してゆくと、「母」という生命の源泉、そして、死と

再生の場となる土の神秘を反映した地母神に至るという。

 

つまり、産み育てる肯定的な側面と、すべてを呑み込んで死に至らしめる否定的

な面を持つが、さらにいうと、否定的な面は、子どもを抱きしめる力が強すぎる

あまり、子どもの自立をさまたげ、結局は子どもを精神的な死に追いやっている

状態として認めることができるとしています。

 

日本神話におけるイザナミは、日本の国をすべて産みだした偉大なる母の神で

あるが、黄泉の国を統治する死の神でもあることが思い起こされます。

 

かくして、著者は、「トルーデさん」のような人間離れした恐ろしい母親像は、

わが国における山姥(やまんば)の例があるように世界中の神話や昔話に見出

されるが、ユングは、人間の心の深層にこのような表象を産出する可能性が

存在すると仮定し、それを母なるものの元型と名づけ、個々の母親とは異なる

人類に普遍的なイメージの源泉として太母(グレートマザー)と呼んだとして

います。

 

さて、次に、われわれにも大変なじみ深い「ヘンゼルとグレーテル」の物語を

とり上げています。

 

先の「トルーデさん」は、母なるものの元型があまりにもすさまじく、超人間的

で抗しがたい感じを与えるものであったが、ここでは、それがもう少し人間的な

レベルで語られ、それにいかに対処してゆくべきか、つまり、飢饉というもの

を契機として顕在化した母なるものの否定的な側面と、それに対抗する子どもの

自我、そして母親からの自立を描いているものと言うことができるとしています。

 

また、昔話を人間の心の内界の表現として見るとき、その主人公は、人間の自我、

あるいは新しい自我として確立される可能性を示していると考えられるが、この

「ヘンゼルとグレーテル」の場合、主人公が幼い兄妹の二人であるということは、

男性とも女性とも未だに分離して確立される以前の自我の状態を示すものと

考えられると述べています。

 

なお、この話の原話では、母は実母であったが、のちの継母に変更されたのだ

ということです。無意識のレベルでは、「母」の否定的な側面は当然のことで

あるが、意識的なレベルでは、それはあまりにも非人間的で残酷だということ

で受け入れ難いため、継母という名によって、母性の否定的な側面をすべて

背負いこまされてしまったということです。

 

ともかく、無意識への退行が開始され、それがある程度を超えると、われわれは

無意識のより深い層に至るという。この物語でも、はじめに語られる継母のイメ

ージは否定的であっても、まだ人間的な感じを残しているが、次に現れる女性は、

人を食う魔法使いのお婆さん、すなわち、より普遍的な否定的母性像を示すこと

になってゆきます。

 

いずれにせよ、子どもは生まれてから母の全面的な保護を受けて育ってくると

しても、成長にともなって、その母なるものの否定的側面、すなわち自立を阻む

力を認識し、それとの分離を図らねばなりませんが、そこに、成長の一段階と

しての母親殺し、この「ヘンゼルとグレーテル」では、魔女退治のテーマが

生じてくる理由があるとしています。

 

ただし、著者は、自我の確立過程に不可欠な母親殺しの主題は西洋に特徴的な

ものであり、これが東洋において適用できるかというと、非常に難しいものが

あると述べています。

 

「安寿と厨子王」の例を引きながら、盲目になって、我が子のことをしのびつつ

雀を追っている老母のあわれさは、われわれの心を打つとしながら、盲目の母

には母親殺しの主題は生じないと言います。

 

しかしながら、厨子王の成長の影には安寿の死が存在しており、個人の成長は

常に死と再世の繰り返しであることを考えると、その過程に何らかの死が

生じることは避けられないのかもしれないと述べています。

 

次回は、母なるものに対する父なるもの、父性原理などについて触れて

みたいと思います。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

<私>から魂へ-「池田晶子 不滅の哲学」2-



池田晶子魂とは

 

かつて、池田晶子さんは、重要なのは「言葉」であって、わが身はその通路に

すぎないと言っていたが、晩年はそうした思いに変化が生じてきて、人生の

味わいを感じるのは、魂以外ではあり得ない、日増しに魂が身近に感じられ、

魂を考えざるを得ない毎日を送るようになったという。

 

このことを次のように表現しています。

 

「自分とはその姓名以上の何ものかである。そう感じる時、人はそれとは

しらず、魂としての自己、その内実に触れているのだ」

 

「手に入れて、転がしてみる「魂」という語のもつ味わい深さ、ああそうか、

そういうことだったのか-という深い納得の後味は、「意識」の語にはなかった

ものだ。たとえば、「私の意識」とは言えなかったが、「私の魂」、これは言える。

確かに言えるのだ。奇怪な一語「私」は、やはり永劫不動に宙に浮いたままなの

だが、「私の魂」は言える。なぜなら、「魂」の側が転がり移るからである」

 

「ひょっとしたら、「<私>が魂」なのではなく、「<私>の魂」という言い方も

なく、「魂の<私>というのが、近いのかもしれない」

 

わかりにくいですが、これは、若松英輔氏が言うように、根源的な魂は、「私」

に帰属せず、いわば「私」に預けられているのであり、人間とは「魂」それ

自体であるということでしょうか。

 

ところで、池田さんの言う「私」とは何か、そして、なぜ「魂」なのか、

このあたりは、なかなか理解しにくいので、今回は、それを塚田幸三氏

シュタイナーから読む池田晶子』を参考にしながら追ってみたい

と思います。

 

塚田氏は、池田さんは、かつて、「私」とは何かについて、このことを

正確に言おうとすると本当に難しいとしながらも、質的な「私」という

ことを言っているが、この質的「私」は自己意識的自我を表す言葉と

言ってよいだろうと述べています。

 

一方で、池田さんは、「私は如何なる個人的意見を述べているのでもない」

とか、「思考活動は主観的なものではあり得ない」とか述べているが、なぜ

そのようにいえるのかといえば、その思考活動をしている私とは精神で

あるからだ、人間の精神は、それ自体で自他を超えているからだ、と

言うというのです。

 

また、自分とは何かという問いに対して、何かを正解するとしても、その自分

とは何かという問いはどこまでも残る。しかし、だからといって、結局自分とは

何かなんでわからないってことなんですね、なんて言うようじゃ、君はちっとも

わかってないってことなんだ。「わからない」ということは答えではなく、問い

なのだ、ともいうと。

 

そして、その問うものは何かというと、池田さんは「自他を超えている」ものと

いい、精神だと言うという。つまり、精神は問うものであり、問われるもので

あり、考えるものであると。

 

何だか余計にわかりにくくなった感がありますが、とにかく、ここでは、池田

さんは、自分とは、<私>とは、先に述べた自己意識的自我を超えたもの、

精神である、あるいは魂であると言っているように思われます。

 

しかし、このことを我々はどう理解すればいいのでしょうか。

 

理解を深めるために塚田氏は、ルドルフ・シュタイナーの考え方を紹介

しています。

 

シュタイナーの認識によると、古代ギリシャからキリスト紀元に至るまでの

期間は思考生活の覚醒期で、それまで自分を世界有機体の一部と感じていた

人間の魂は世界との分離を感じ始めるが、しかし、その過程は未だ完結して

いない。キリスト紀元を迎えると魂の内部に自己意識が覚醒するが、9世紀

頃までは世界有機体の生命に組み入れられているという宗教的意識がなお優勢

である。やがて、16世紀を迎えると、デカルトの「我考う、故に我あり」で

代表されるように魂は思考によって捉えられて自己意識を有するようになり

現在に至るというのです。

 

つまり、古代には洋の東西を問わず、「魂」や「心」は、自己中心的な在り方

ではなく、世界中心的な在り方をしており、普遍性をもったものと見なされて

いたが、西洋の場合は、古代のギリシャ・ローマでは世界中心的な見方が大体

の基調をなしていたものが、キリスト教が支配的になって以来、自己中心的な

見方が主軸になって現在に至っているということのようです。

 

世界中心的に、普遍性をもったものとして捉えられていた主体は「私」ではなく

「われわれ」であり、シュタイナーの理解によれば、未だ自己意識が覚醒する

以前には、思考は外界から受け取るものと感じられ、現在私たちが色や音の知覚

を特定の物に帰すように、思考は事物に付着するものとして知覚されていたと

いうことから、塚田氏は、このような古代ギリシャ人の思考と池田さんの「魂」

を「感じる」は似ているのではないかと述べています。

 

つまり、池田さんは近代の実存的自己意識の立場から古代ギリシャの魂の立場に

戻ったということができるように思われると。

 

そして、塚田氏は、シュタイナーが近代の実存的自己の問題を解決する可能性は、

中世ではなく古代の神秘主義の伝統と近代の科学的精神を統合することに見出

されると主張しているが、そうだとすれば、現代人として「私」とは何かという

問いに取り組んだ池田さんが古代ギリシャ人の魂に向かったということは重大

な理由ないし意味があったといえるのではないかと主張しています。

 

なお、「私」というものが向かうべき方向性について二つ考え方があるという。

 

一つは、「自我」、つまり「近代的自我」を否定して「本来的な自己」に向かう

べきという仏教的な考え方であり、もう一つは、シュタイナーが主張するような、

「自我」の否定ではなく、「自我」そのものの「覚醒」や「進化」を目指すと

いうものです。

 

それは、利己的な自我が肯定されているのではなく、その克服が課題とされて

いるのであるが、池田さんも、考えることに「私」の本質を見る以上、否定が

介在する余地はなく、シュタイナーに近いようにも思われます。

 

さて、<私>はどこへ向かうべきなのでしょうか。利己的な自我は、いかに

して克服されるべきなのでしょうか。

 

  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。