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大乗経典の世界






大乗仏典 

最も代表的な初期大乗経典である「般若経」「華厳経」「法華経」「無量寿経」

を簡単に紹介しておきたいと思います。

 

「般若経」

般若経というのは、「般若波羅蜜(多)」を最重要と説く経典群の総称であり、

単に「般若経」という名称の経典があるわけではないようです。

 

「般若波羅蜜」とは、菩薩の基本的な修行徳目である六波羅密の修行の一つ、

智慧の修行のことであり、「般若経」は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・

智慧(般若)の六波羅密の修行のうち、特に般若波羅蜜を重視し、すべて

の波羅密は、般若波羅密(智慧の修行)をめざすものとして修されるべき

であるとしているということです。

 

数多くある「般若経」のうち、最も基本となる「般若経」は「八千頌般若経

(はっせんじゅはんにゃきょう)」で、そのほか、その内容を踏襲しつつ

分量を増やした「一万八千頌般若経」「二万五千頌般若経」「十万頌般若経」

などがあり、さらに、「金剛般若経」「般若心経」などの個別の経典がある

ようです。

 

「八千頌般若経」では、般若=智慧の究極の形態として、一切智性という

ことがいわれていて、それをめざすとき、すべての善行も意味のあるものと

なるという。つまり、一切の修行は、もとより般若に支えられての修行こそ

意味があると説く。そこには、明快な智慧の立場の重視の姿勢がうかがわれ

ます。

 

では、その般若=智慧に現れる世界とはどのようなものかというと、我々が

有ると思っているものは、そのようには存在せず、現実には存在しないという

かたちで存在しているのだという。

 

つまり、我々が有ると思っているようには存在しないということは、何もない

ということではなく、存在しないかたちで存在するということです。

 

では、どうしてそうなのかということになりますが、そのことに詳しい説明は

ないようなのです。ただ、終始一貫、一切の存在の、あらゆる分別を離れている

こと、規定し得ないこと、したがって一面的に執着すべきでないことが、

繰り返し説かれるのみであるというのです。

 

どうしてそうなのか、といっても、それが禅定(心が深く統一された状態)

に支えられた智慧において現前する事実だから、としか言いようがない

ということです。

 

ただし、無自性・空、すなわち不生・不滅の本性を縁起によって説明しよう

としている箇所もあるとしています。

 

このように一切皆空を説く「般若経」でずが、現実の人間もまた、自体・自性

ではなく、空であり、幻と同等なのだとすれば、では人を殺しても害しても、

実は殺したり害したりすることにならないのではないかという疑問が湧いて

きます。

 

「般若経」は、もちろん、そのようには説かないということです。現実の人間

は、無自性であるがゆえに、菩薩は無量・無数の人々を涅槃に導くけれども、

涅槃に入る人も、涅槃に導く人も、何ら存しないという結論に導かれると

いうのです。

 

「華厳経」

「華厳経」は、釈迦(実は毘盧舎那仏)が菩提樹下で悟りを開いて一週間後に

説かれたという経典で、そのみずからの内に証した世界(自内証という)を

そのまま表現するものであるとされています。つまり、仏陀の悟道の内なる

情景そのものが直接説かれているというのです。

 

その自内証の世界の様とは、釈迦=毘盧舎那仏が、口または顔および一つ一つ

の歯間から無数の光明を放つ。そうすると、釈迦のまわりに集う菩薩衆は、十方

に無数の世界があり、その一つ一つの世界に如来がいることを見る。そして、

世界の大菩薩が、釈迦が放つ光に触発されて、無数の菩薩を従えて釈迦のもとへ

やってきて、仏を供養し、足を組んで坐る。そこで、釈迦は、眉間から一切宝色

灯明雲光という光を放つ。その光のなかで、普賢菩薩が三昧(禅定)に入り、

やがて釈迦の神通力を受けて説法していくというものです。

 

普賢菩薩が述べる蓮華蔵世界(毘盧舎那仏の仏国土)は、たった一つの塵のなか

に、宇宙のすべてを見るという。それもどの塵においても等しいというのです。

 

「華厳経」には、こうした一即一切・一切即一といった説が頻繁に出てくるという。

一つの事象は他の無数の事象と多種多様な関係をなし、無限の関係で関係し合っ

ているという重々無尽(じゅうじゅうむじん)の縁起を明かし、個々の事象が

自由自在に交流浸透し合っているという事事無碍法界(じじむげほっかい)を

説くというけんらん、華麗なコスモロジー(宇宙観)がそこにあるのです。

 

また、「華厳経」の思想の特色として唯心思想というものがあるとしています。

それは、三界、つまり、欲界・色界・無色界は、迷いのなかの世界であり、

それらすべて、一心の描きだしたものにすぎないというものです。(一心或いは

唯心の心とは、物と心と分けた上での心ということではなく、物-心分化以前

の一真実の世界)

 

しかし、一方で、「華厳経」の主題は、実のところ、むしろ菩薩道にあるとも

いわれています。

 

では、「華厳経」の説く菩薩道とはどのようなものでしょうか?

 

菩薩道の始まりには、まず「信」が説かれるという。仏教の信とは、仏・法・

僧(三宝)への信仰ということになりますが、大乗仏教の場合は、そのような

目に見える対象への直接的な帰依とはなり得ず、その教えへの知的了解も含む

信、すなわち信解が求められたということです。

 

こうして信が定まると、「華厳経」ではまず十住の初、初発心住に入るとされ、

十住・十行・十廻向・十地と段階的に修行が説かれていく。大乗仏教では、

一般に初発心住からこれらの段階を経て仏となるまでに三大阿僧祇劫という

無限に近いような時間を要するが、「華厳経」は、信が定まって初発心柱に

入りさえすれば、仏となったと同じだというのです。

 

なぜなら、自我への執着を根本的にくつがえしたところで、こんこんと湧き

出る仏のはたらきの一分が働き出しているからであり、また、時間的に一即

一切・一切即一ということからも、つまり、現在と未来は融けあって、同時

に成立しているとの見方からもこのことは説明できるということです。

 

「法華経」

「法華経」とは、蓮華のような正しい法を説く経典という意味であるよう

です。もっとも、経典の中で蓮華にたとえられているのは菩薩であって、

菩薩は、世間の泥中にあってこれに染まらず、やがて無垢清浄の花を

咲かせるというのです。

 

この法華経の説くテーマというものは、大きく分けると、一乗思想、

久遠仏思想、菩薩の使命の三つのものがあるということです。

 

一乗思想は、能力の差により教えも分かれているとする三乗思想という

ものに対立する思想で、誰もが大乗仏教に適合するものであり、小乗

仏教も大乗へ導入していく際の方便として意味があるとするものです。

 

なお、一乗思想は、誰もが仏となり得るということであるが、それだけに

とどまらず、仏の我々に対する愛情は、種々の方便をめぐらしてまで救い

とろうとするほどに深いということを示しているということです。

 

次に、久遠仏思想ですが、久遠仏とは、久遠の昔に仏となった存在だそう

です。歴史上の釈迦、身体を所持して現れた釈迦は、実は成仏してよりこの

かた、久遠の時間を経ている仏にほかならないというのです。つまり、久遠

の釈迦牟尼仏を説くということは、無始以来、この世に仏の大悲が射し続けて

いることを説くことであり、「法華経」は、日蓮などによって、一面に戦闘的

なイメージによって彩られているが、実はひたすら仏の慈悲を説く経典である

ということです。

 

「法華経」のもう一つのテーマは、菩薩の使命を説くことであったといいます。

「勧持品」では、悪世における布教の使命が説かれ、菩薩たちは忍難布教の

誓願を立てて、このような強烈な菩薩の使命感の教えは、古来、多くの人々の

心を揺さぶってきたのです。

 

「無量寿経」

浄土三部経の一つで、浄土経の根本経典とされています。「観無量寿経」や

「阿弥陀経」が極楽浄土の様子や極楽往生の修行の方法を説くのに対し、

「無量寿経」は、阿弥陀仏の本願(修行に入る最初に将来実現すべきことを

誓う願)を明らかにする経典だということです。

 

かつて、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったころ、四十八の誓願をたて、それを成就

することで阿弥陀仏(無量寿仏)になったというのです。その阿弥陀仏がおら

れる浄土を極楽浄土といい、一切衆生を救済するために、念仏による極楽往生

を勧めているものです。

 

かの親鸞が、四十八の誓願のうち、はじめは第十九願により、次に第二十願に

より、最終的には第十八願、つまり、南無阿弥陀仏の名号を一念すれば極楽

往生できるとしたことはよく知られています。

 

かくして、「無量寿経」では、大乗仏教の仏の、その大悲の側面がもっぱら

強調され、その観点からの仏教が説かれることになります。

 

以上、代表的な大乗仏典の特徴を概観してきましたが、そこには、他の仏と

出会ってみずから仏となろうとし、願を立て、修行して仏となって、他の人々

を仏とならせていくというモチーフが流れているようです。

 

そして、その核心にあるのは、一切の人々が如来の胎児をもっている、人は

やがて如来となるべき者だ、という如来蔵思想だということです。

 

竹村牧男氏は、この如来蔵思想、人間に仏智が内在するという主張は、凡夫を

導く方便として説いたというばかりではなく、覚者の目に映った厳然とした

事実だったのではないかと述べています。

 



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大乗仏教の出現



インド仏教の歴史


 

釈迦の説法は、「阿含経」という経典にまとめられて、各部派で伝承されて

いったのですが、釈迦の入滅後、3、4百年ぐらい経ったころ、新たな

「仏説」がまことしやかに流布され始めたといいます。

 

具体的には、「般若経」「華厳経」「法華経」「無量寿経」といった経典が、

釈迦の説法として宣布されていくことになるのです。

 

それは旧来の正統的な部派教団としては考えられない新しい仏教、仏教的

新興宗教の出現ですが、新仏教の担い手は、みずからの仏教を『大乗』

(偉大な教義)と呼び、旧来の仏教を小乗(劣った教義)といって

非難したとされます。

 

しかし、釈迦の入滅後、4百年近くも経ってのち初めて現れた経典が、直接、

釈迦が説いたものだということは考えられません。よって、これらを制作

したものは当時の何者かであったということになります。

 

ですが、それが部派仏教のなかの修行者の一部の特殊なグループであったのか、

それともまったく部派の外部にいた求道者のグループであったのか、あるいは

両者の協同によるものか、そのあたりは確かなことは何もわかっていないと

いうことです。

 

ただし、これらの経典を人々に説いて聞かせた者たちについては見当がついて

いて、それはダルマ・バーナカ(法師)と呼ばれる人たちであったようです。

バーナカとは、正規の出家僧ではなく、インド社会の宗教制度のなかでは

卑しい落ちこぼれ的な存在であったが、そのような、いわば、民衆の心のひだ

を伝い歩くようなバーナカが大乗経典を語り歩いたとされています。

 

それ以前は、バーナカのなかには、「阿含経」を語るバーナカや釈迦の過去世

物語を語るバーナカなど、様々なバーナカがいたようですが、「般若経」など

の今まで見たことのない「仏説」に出会うと、バーナカたちはこぞってその

新しい教えを語るようになったようです。

 

民衆の心の琴線に触れるものは何かを身をもって体得していたバーナカたち

は、大乗の新しいダルマ(法)こそ、人々に語るに足る深い教えだと感じた

のではないかということです。(もっとも、その背景には、正統的な部派教団

の制度化され、形骸化した権威的な僧らに対する対抗意識もあったかもしれ

ません。)

 

そうなると、逆に、旧来の仏教僧からすると、ダルマ・バーナカ(法師)らは、

いかがわしい存在であり、公的権威をもたない新奇な教えを説く厄介な存在で

あったと思われます。

 

よって、部派教団やそれと親密な関係を結んでいた在家の支配層らは、新興の

大乗運動を目の敵にし、言論や力でもって対抗しようとしたようであり、たと

えば、「法華経」で常不軽菩薩(常に相手を軽んじなかった菩薩)という名の

菩薩が、大乗仏教に敵意を抱く人々からどんなに迫害されようと、ひたすら

「あなたは仏となる方です」といって合掌礼拝したとあるのは、大乗運動を

進める者たちのそうした者への姿勢と考え方を表しているものといえる

ようです。

 

いずれにせよ、ダルマ・バーナカ(法師)が語る新しい仏教の教えの材料を

仕入れることのできる拠点がどこかになければなりません。大乗仏教のそう

した教団的拠点は、かつてから釈迦の遺骨を祀る仏塔信仰の集団、そして、

そこに常駐する人々に求められているようです。

 

というのも、元来、仏塔は部派教団の管理外にあったからです。釈迦は

出家者に対し、自分の遺骸について心配するなと言い残しており、仏塔は

在家者によって管理されていたからです。

 

こうしたなかで、ダルマ・バーナカ(法師)、民衆、仏塔管理者、そして、

専門的求道者たちが協同して、新仏教=大乗仏教を作り上げていったのでは

ないかということです。(もっとも、最近では、部派仏教の大衆部の中から

出てきたという有力な説も唱えられているようですが。)

 

なお、大乗仏教出現のもう一つの要因として仏教文学運動の流入というもの

があるようです。このことが、バーナカたちが大乗仏教になびいた大きな

理由の一つであったようです。

 

大乗仏教の仏の慈悲の強調には、本性譚(釈迦の前世物語)の数々の物語が

かかわっていたし、大乗仏教の修行の核にある六波羅密の修行(布施・持戒・

忍辱・精進・禅定・智慧)は、仏伝文学(釈迦はどのようにして発心し

修行したかを説くもの)から出てきたものであるし、大乗の修行者を菩薩と

呼ぶが、この言葉も仏伝文学において、釈迦の成道以前の呼び名として出て

きたものであるとのことです。

 

このように、これもまた正統教団のやや周縁で営まれていた文学活動の中での

仏の追求、人間の追求が、大乗仏教の極めて基本的な部分にかかわってきたと

いうことです。

 

なかでも、菩薩という語の意味の変化は注目されます。元来は、仏伝において

釈迦の成道以前をさすものであったのが、大乗仏教では、大乗仏教に帰依し、

菩提心(求道の心)を発した者は、すべて菩薩なのだといいます。大乗仏教徒

は、すでにひとりひとりが菩薩だというのです。

 

正統教団の部派仏教では、修行の最終の地位は阿羅漢であり、我執を断つこと

によって、身心を灰滅し、静的な涅槃に入ることしか説かれていませんが、

大乗仏教は、釈迦と同じ仏となろうということを堂々と目標に掲げるに至る

のです。

 

かくして、大乗仏教は、歴史上の釈迦に範をとるものではなく、仏伝文学の

仏陀観を継承したものであるということになりそうです。仏伝文学に表されて

いるように、菩薩が他の仏に出会って、みずからも仏になろうとし、必ず仏に

なって他の人々を仏ならしめていく。その無限の連環の壮大な物語を、大乗仏教

はその根幹にすえているということです。

 

ここで、改めて大乗仏教と部派仏教(小乗仏教)の違いを簡潔に記しておくと、

次のようになるようです。

 

大乗では、人間は誰でも釈迦と同じ仏となれると考えられているが、小乗では、

人間は釈迦には程遠く、修行してもとても及ばないと考えられている。

 

大乗は、最終的に仏となり、自覚・覚他(自ら覚し、他を覚させる)円満の

自己を実現するが、一方、小乗は、最後に阿羅漢となり、身と智を灰滅して

静的な涅槃に入る。

 

大乗では、一切の人々を隔てなく宗教的救済に導こうと努力し、利他を重視

するが、小乗では、自己一人の解脱のみに努力し、自利のみしか求めない。

 

大乗は、みずから願って地獄など苦しみの多い世界におもむいて救済行に励む、

生死への自由があるが、小乗は、業に基づく苦の果報から離れようとするのみ

で、生死からの自由しかない。

 

大乗は、釈迦の言葉の深みにある本意を汲み出すなかで、仏教を考えようと

したが、小乗は、釈迦の言葉をそのまま受け入れ、その表面的な理解に終始

する傾向があった。

 

とはいっても、大乗仏教は、いかがわしいものとして、当初、部派の正統的な

教団の大勢からは、いわば白眼視されていたのであり、その後も、いわゆる

大乗非仏説は繰り返し主張されるのであり、さらに、近代に入って科学的な

仏教史研究が始まってからも、再燃することになったようです。

 

「インド仏教の歴史」の著者、竹村牧男氏は、大乗仏教は、それを表現した

人たちの宗教体験を通路として、釈尊-仏陀に迫るような宗教であるとし、

氏自身は、歴史上の釈尊以外は信用しない、その釈尊のみに帰るべきである、

という立場に立とうとは思わないと言い、釈尊の覚ばかりでなく、釈尊が

人々に何を説いたかに仏教を見たいし、そこに含まれる相手側の主体との

関係における真実をそれぞれ尊重したい、と述べています。

 

さて、釈迦自身は、このことについてどうお考えでしょうか?

 

(つづく)

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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新プラトン主義の潮流-イアンブリコス、プロクロス-




新プラトン派

 

新プラトン主義は、プロティノスの死後も生き続け、ギリシャ末期の哲学の

主流になるに至ったようですが、その展開は、大きく分けて次のような三つ

の学派に区分することができるようです。

 

アレクサンドリア派

プロティノスとその弟子ポルピュリオス及びアメリオスを代表者とする

草創期の学派。

 

シリア派

ポルピュリオスの弟子イアンブリコスを代表者として、主にシリアを活動の

中心とした派。この派においては、新プラトン主義の神秘主義的傾向が

さらに助長され、神働術(降神術)や占星術に大きなウエイトが置かれる

ようになったということです。

 

アテナイ派

プラトンの創設したアカデメイアもその末期には新プラトン主義の支配する

ところとなったようですが、アテナイにおける新プラトン派の代表的な哲学者

はプロクロスという人で、彼によって新プラトン主義は再び学的な厳密性を

期するものとなったようです。

 

さて、ここでは、以上のような学派のなかから、イアンブリコスとプロクロス

について触れておきたいと思います。

 

まず、イアンブリコスですが、プロティノスらの魂論に対して大きな軌道修正

を提唱したということです。彼らは人間の魂は神的なものと同じ本質をもち、

直知者、直知対象および一者自身になりうるというように、魂に不当に高すぎ

る存在階層を割り当てしまったとイアンブリコスはいうのです。

 

つまり、イアンブリコスによって、上位の存在の魂への内在の側面が批判され、

魂は、存在階層を上下に浮動するスポットライトのごときものではなくなり、

固定した位置を与えられて、境界を踏み越えられなくなったということです。

よって、存在階層の下への移動、すなわち他の動物への輪廻転生も否定され

たということです。

 

また、人間の魂全体が感性界に降下したのではなく、その一部が直知界に

とどまっているというのがプロティノスのテーゼであり、意識の座にある

魂の中間的部分が情念に引き回され、道徳的に悪しき行ないを犯しても、

魂の最上位の部分は清らかさを失うことはないということになりますが、

イアンブリコスには、魂のこのような分割は容認できなかったようです。

 

もし、人間が罪を犯したならば、それは魂の全体が堕落していたからで

なければならない、人間の魂はその全体が感性界に降下したのだと主張

したということです。このようなアンブリコスに始まる魂の地位の降格は

プロクロスなどのアテナイ派の新プラトン主義者に継承されることと

なったということです。

 

そして、魂はその全体が感性界へ降下して肉体と結びつき、変化を被らない

部分など存在しないのであれば、魂は同一性を失わないながらも本質が変化

したはずだとイアンブリコスは考えたといいます。

 

魂は受肉に際し非理性的生命を産出すると、自己から傾き自己の本質の外に

出る。他方、絶えず新しい生命を注ぎ出す根拠として、自己のうちにとどまる

側面も併せもつという。そして、傾くということは、上方に無変化の部分を

残しておくということではなく、魂の本質が同一性を保ちつつ弛緩するという

ことだとしています。

 

しかし、魂の一部が直知界にとどまることはなく、魂全体が感性界へ降下した

というテーゼは継承しながらも、魂は本質上弛緩するという主張はプロクロス

には受け入れられなかったようです。

 

なお、イアンブリコスは、カルデア神学やヘルメス主義に傾倒していたようで、

テウルギアなるものを行ったということです。テウルギアとは、神を動かす術

という意味と、人を神的にする行という意味があり、神働術と訳されていて、

儀式や瞑想を通じて神との神秘的合一を目指すものであるとされています。

 

プロティノスはテウルギアを行うことを望む人々に観想(テオーリア)を

勧奨したということであるが、イアンブリコスは、祈祷や宗教的であると

同時に魔術的でもある儀式を伴う、より儀式化されたテウルギアの方法を

教えたという。彼は、テウルギアは神々の模倣であると信じ、著書『エジ

プト人の秘儀について』において、テウルギア的祭儀は、受肉せる魂に宇宙

の創造と保護という神的責任を負わせる「儀式化された宇宙創成」である

と述べたということです。

 

では、次にプロクロスに移りますが、彼も魂というものを感性界の鉛のような

重石や、この世的なものから自由にし、神との同化を準備するための浄化的徳

を教え、自らもオルフェウス教や「カルデア神託」の教えに基づいて実践したと

いわれています。

 

しかし、彼の思想的な特徴は、複雑な形而上学的体系を構築したことにある

ようです。新プラトン主義思想の特徴は諸存在を一つの<階層>にまとめる

ことにあり、その構造は、基礎となる下位のものを土台に積み上げられるの

ではなく、最上位のものを究極的な始まりとして、そこか順に下位のものが

産出される仕組みになっているが、その内部構造は重層化され、より複雑に

なっているということです。

 

つまり、プロクロスにとっても最高原理は<一>であるが、階層は、<一>

-知性-魂というシンプルな三階層を維持したプロティノスとは大いに異な

っていて、「生み出す」原因は神だけではなく複数あるのです。そして原因

同士の関係もまた立体的・階層的に理解されるというのです。

 

たとえば、先行する原因であるイデア(可知的存在)が後続する原因である

魂を生み出すことになるが、イデアは先に肉体の原因となり、それに後続する

原因である魂が働き、生き物が生み出されるというのです。

 

また、この世界の原因を探求するとき、プロクロスはプロティノスの<一>

-知性-魂では不十分だと考えたようです。彼は知性の階層をさらに「存在」

-「生命」-「知性」へと細分化したということです。説明すべきものに

応じて原因の階層は多層のものになったようです。

そして、この知性の階層の相違のほかには、プロティノスとの最大の違い

として、一から発出するものの最下層にある「素材」の位置づけが

あげられます。

 

プロクロスによれば、素材とは一・善という究極原因によって生み出された

ものであり、存在はしていないが必然的なものであるという。一方、プロ

ティノスは、一・善からの発出の末端の素材を、善なる光が届かない闇と

とらえ、「悪」と呼んでいる。プロクロスは、<一・善>が生み出すものは

悪ではない。素材は、形相の欠如であっても善の欠如ではないとプロティ

ノスの説を批判したということです。

 

なお、最後にもう一つ付け加えると、プロクロスの神学の中核には、<ヘナ

デス>という概念と<分有>に対する新たな考え方があるということです。

(「ヘナデス」は、基数の一から派生した集合数ヘナスの複数形であり、

「分有」は、プラトンがイデアと個物の関係を表すために用いた用語)

 

<一・善>を分有関係で表すと、

分有されない一=<一・善>

分離した仕方で分有される一=ヘナデス

不可分な仕方で分有される一=内在する一

一を分有するもの=すべてのもの

となる。

 

つまり、すべてのものは直接的にせよ間接的にせよ一を分有する。そして、

それぞれに一が内在している。また、それぞれのものから分離した一が

ある。これがヘナデスである。ヘナデスとは、すべて分有されるもの

なのだということです。

 

具体的には、ヘナデスは存在するものに同一性・善性を付与する。その働き

は「摂理」と呼ばれ、摂理を働かせるヘナデスは神々であるという。

 

プロクロスは、この可知的な存在における神々を通して「プラトン神学」と

いう神学体系を構築しようとしたようです。

 

なお、プロクロスのあとは、新プラトン主義はダマスキオスによって継承

されていきますが、ユスティニアヌス帝の勅令が直接のあるいは間接の

引き金になって、新プラトン派は徐々に衰微の一途をたどっていったと

いうことです。もっとも、新プラトン主義の思想はのちの時代に大きな

影響を及ぼすことになるのですが、学派そのものの活動はそこで消滅する

ことになります。

 

 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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新プラトン主義2-「一者」・「知性」・「魂」-



プロティノス2



 

新プラトン主義、とりわけ、プロティノス哲学の最大の特色である「一」

(「一者」)等についてもう少し詳しく紹介しておきたいと思います。

 

「一」という名称は、何かであって一つであるものではなく、純然たる一

そのものを表すということです。それは単一性、自足性を表し、すべての

原因だとしています。また、善も何か善いものではなく、善さそのもの

であるとしています。

 

これは、歴史的にはプラトンの言った言葉、「一はあるものではなく、

名前もなく、説明されることもできない」に由来するようであり、

さらにはピタゴラス派に由来するものだと言えるようです。

 

「一」はそれ自体としては何であるとも規定できないものだとすると、

それについていかほどか理解しようとするならば、それをそれから生じ

たものとの関連において把握するしかないということになります。つまり、

産出されたもの(結果)は産出者(原因)のおもかげをいかほどか保有

しているはずだし、また、少なくともそれを否定的な形で、つまり、

「一は・・・ない」という形で、それをいかほどか理解できるであろう

というのです。

 

では、「一」から何が産出されたのであろうかというと、「一」が産み出した

「すべてのもの」である。そして、「すべてのもの」とは、直接的には知性

とすべてのイデアであり、間接的にはすべての魂と全物理的宇宙を含んで

いるとしています。

 

また、このようなすべてを産み出した力は途方のないものであり、それゆえ

に「一」から直接間接に生じたものは、末端の「素材」を別にして、それ

ぞれが自分の子(結果)を産出する力を持つということです。そして、「一」

は、自己が産出したすべてのものを保全する力でもあるとしています。

 

それでは、どのようにして、「一」からその他のものが階層にしたがって

順次に産出されたのでしょうか?

 

この問題の答えとしてプロティノスが提出したのが、いわゆる「発出論」

ですが、それは特殊な因果関係であり、複雑な意味を含んでいるという

ことです。

 

発出とは、ある意味で自然必然的に生起する事象であり、それは恩恵と

して生じたのではない。完成(成熟)したものは自然に自分の後のもの

を産み出すのであって、それは、いわば満ち溢れて流れ出るものである

としています。よって、かのものは、自足的であり、不変不動のままで

ある。つまり、発出とは、犬が犬の子を産むような生物学的産出や、ある

種から別の種への生物的進化でもないし、物理的因果関係でもないと

いうことになります。

 

かくして、アリストテレスによると、究極の始原は知性ということで

あったが、プロティノスは、「まったく一であるものが、自己を求めて

どこへ行くだろう。どこで自己知覚を必要とするだろうか。・・・自己

知覚を超越しているものは、すべての直知をも超越しているのである」

として、最高の始原が知性を超えたものあり、意識をもたないとした

のです。

 

このことについて、井筒俊彦は、「神秘哲学」の中で、アリストテレスに

よって定立された「思惟の思惟」を超え、「思惟の思惟」の彼方にプロ

ティノスは「一者」を措いた。しかし、その「一者」即「善者」とは、

かのプラトン的な「善のイデア」を更に深遠な相に於いて捉えたものに

外ならなかったのであると述べています。

 

もう一つ、プロティノスの思想において、一者、知性の他に始原として

位置づけられる魂について触れておきたいと思います。

 

プロティノスによると、魂は、知性によって生み出されるとされ、その

限りでは直接の起源は知性であるが、知性を媒介として一者を究極の根源

とする発出の体系に連なっているとされています。そして、魂は、われ

われのうちにある個別の魂だけではなく、宇宙全体もまた魂と身体から

なる一つの生き物であり、宇宙霊魂によって生命を与えられていると

いうのです。

 

そして、原理的なものの一つとしての魂と宇宙霊魂と個別の魂の各々は

どのような関係にあるかというと、宇宙霊魂とわれわれの個別の魂は

一つの魂から生じ、いわば類を同じくするものととらえることができ、

実際に姉妹にも例えられているということです。

 

ところで、非物体的なものである魂と、物体である身体がどのように

結びついているのかについては、「魂は身体の内にある」という表現を

ひとまず用いながらも、実は違っているといいます。

 

プロティノスによれば、実は身体のほうが魂の内にあるのであって、

魂のほうがいわば身体を包含しているというのです。つまり、魂と

身体の関係においては、魂は支配するものであって、身体は支配

される者なのであって、魂の身体に対する価値的優位が前提と

されているということです。

 

また、プロティノスはプラトンの思想を継承して、世界を感覚によって

とらえることのできる可感的世界と、知性によってしかとらえることの

できない可知的世界の二つに区別するが、そこに彼独自の観点を付加

しているという。

 

プロティノスの見方によると、可知的世界と可感的世界は厳然と区別

されるが、決して断絶しているわけではなく、むしろ連続するもので

あり、魂はこれら両方の世界にかかわり、両世界の連続性を担うと

されています。

 

よって、プロティノスは、魂の固有の働きとは、単に思惟するのみで

なく、「自己よりも先のものに目を向け、それを思惟するとともに、

自己自身に目を向けることによって、自己の後ろにあるものを秩序づけ、

整理し、それを支配することである」とし、こうした魂の活動を「降下」

という言葉で表しています。

 

かくして、宇宙霊魂は上方、つまり可知的世界に位置を占めながら、

自己の末端の力を宇宙の身体の内部に送り込む形で、いわば間接統治の

ような仕方で可感的世界にかかわるということですが、では、可感的

世界はどのようにして生み出されたのかという疑問が湧きます。

 

プロティノスは、「魂の影」と呼ばれる「自然」(ピュシス)が魂に

代わって可感的な世界の成立に直接かかわるとみなしたようです。

そして、彼においては、「自然はある種の生命であり、ロゴスであり、

制作する力」だということです。「魂の影」としての自然は、一者から

の発出の体系における最終的な形成力としてさらに「末端のロゴス」を

生み出し、最下位にある「質料」に形相を与え、可感的世界を成立

させるとしています。

 

かくして、<一者 知性 自然(ピュシス)- 質料> という

全存在の階層化がなされたことになります。

 

(つづく)

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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新プラトン主義とは何か?-プロティノス-



 新プラトン主義


 
 
 
新プラトン派とは、西洋古代哲学史の最終局面に登場した一大学派ですが、

それは、ある思想傾向を共有する多数の哲学者を、哲学史の研究者たちが

便宜的に一括したというぐらいの意味での学派のようです。

 

新プラトン派は誰から始まったかについては、二つの見解があって、一つは

プロティノスだという説、もう一つは、彼の師であったアンモニオス・サッカス

という人だとする見方があるようですが、アンモニオスは何も書かなかったので

史料がなく、文献としてはプロティノスの著作が新プラトン主義の出発点と

されています。

 

新プラトン主義とは、どのような思想信条であるのかについては、広義の新プラ

トン派ではもちろんのこと、最狭義の新プラトン主義者(プロティノス、イアン

ブリコス、プロクロスなど)の間でも見解に対立する点があるということである

が、プロティノス哲学に基づく新プラトン主義の特徴については、大体、次の

ようになるようです。

 

<新プラトン主義の根幹部分は、プラトン哲学の、ある解釈の産物である。>

 

つまり、プロティノスの考えは、新奇なものでも、いま初めて語られるものでも

なく、プラトンなどによってとっくに言われていたもの、だだし、詳細にでは

なく、暗示的に、あるいはごく簡単に言われていたものである。そして、プラ

トンもまったく独自の思想を創出したのではなく、彼以前のギリシャ思想を受け

取って、それを発展的に解釈したのだということです。

 

<新プラトン主義の特色の一つは、存在するものの段階(階層)を想定している

ことである。>

 

プラトンは感覚される領域と思考あるいは直知される領域を区別して、後者を

前者よりも実在性の高いものとみなしたが、同様に、プロティノスも、存在する

すべてのものを、直知される世界と感覚される世界とに二分した。直知される

ものとは、われわれの「頭の中にある」いわゆる概念ではなく、感知される事物

よりも実在性が高いものである。

 

直知界は「一(一者)」と知性と魂の三者(三層)から成り立っている。知性と

言っても、人間の知性や魂でなく、何者でもない、マクロの巨大な力をもつ

知性と魂である。

 

感覚界(物理的世界)は直知界をモデルにして作り出されたものであり、その

意味ではこの世界の創造者は知性であるが、直接にこの世界を産出したのは

世界魂である。世界魂の下端である大自然から最初に無形質の素材が生じ、

この素材に色々な形相が与えられることによって、諸元素と、諸元素から成る

複合物が出来上がったという。

 

<プロティノス哲学の最大の特色の一つは、存在階層の最上位に、すべての

ものの唯一究極の原因者として、知性と実有をさえも超越する無限定のものを

置いたことである。>

 

この超有的・超知性的なものをプロティノスは「一」とか「善」とか「第一者」

とか「自足者」などと呼んだ。彼は「われわれは別の始原をさらに求めては

ならない。このもの(「一」)を真っ先に立てて、それからこれの次に知性を、

つまり第一義的に直知しているものを、そして知性の次に魂を置かねばならな

い。なぜなら、これがそれぞれのものの自然(本性)に従った順序であるから。

そして直知界にこれら(三者)より多くのものをも、少ないものをも置いては

ならないのである。」と述べたという。

 

<直知する知性と直知される対象である実有を同一のものと考えたことも、

プロティノス哲学の一つの特色である。>

 

知性は同時に諸有なのである。つまり、知性は、一切の実在(プラトンが

「イデア」と呼んだもの)から出来上がっている一つの世界(狭義の直知界)

である。だから、知性は自己だけを直観するのだが、そのことによって全実有

を直観しているというわけである。イデアは知性に内在するというプラトン

解釈は以前からあったが、プロティノスはこの理論を整備し深めたということ

です。

 

<存在階層の上位者から次位者が産出される特有の様式を考案したことも、

プロティノス哲学の特徴の一つである。>

 

「一」(一者)からヌース(知性、英知)が生まれ、ヌースから魂が生まれた。

(生まれたと言っても、それは、ある複雑な特殊な産出形式を意味している。

また、この様式は、便宜的に「流出」とか「進出」とか「発出」などと呼ばれ

る。)さらに、魂(これは何ものの魂でもない純粋魂である)から世界の魂と

個々の動植物や人間の魂(個別魂)が産出され、そして世界魂から物理的世界

が生じた。この世界は、ある意味で世界魂の内に内在している、としています。

 

<われわれの魂は、すべてのものの究極の原因者である至高の神(一者)と

合一することができる、とプロティノスは主張した。>

 

実際に彼は、その合一に成功したと伝えられている。それが、彼が「神秘主義

者」と言われる所以である。もっとも、このような合一、あるいは見神を実際

体験しなくても、少なくともその可能性を承認することが、狭義の新プラトン

主義者の要件の一つであるとされています。

 

このようなギリシャ哲学史上における新プラトン主義の祖プロティノスの歴史的

位置について、井筒俊彦は「神秘哲学」の中で、プラトンとアリストテレスを

つなぐギリシャ哲学主流の線上に、しかも両者の思想が脱自的観照生活の一点を

通じて相交叉するところに存立するとし、プラトン的観照とアリストテレス的

観照の交叉交流とは、かのミレトスの自然学以来連綿として陰に陽に、あるいは

対立し、あるいは協力しつつギリシャ思想の底流をなし来ったイオニア的自然

主義と、密儀宗教的霊魂神秘主義との最後の綜合でなくて何であろう、と述べて

います。

 

(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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イスラーム神秘主義




イスラーム哲学









「ワリー」とは、宇宙の内面的真理、存在の秘密に通じた人を指す名称


だそうです。


 


スーフィー、イスラーム神秘家も、その中で特に最高の境位に達した人々は、


ワリーということになりますが、他の派のように、生まれや、血筋や、神の


選びによってワリーであるのではなく、修行によってワリーになるところに


特徴があります。


 


著者、井筒俊彦は、修行とは「最終的には神との一体化、すなわち、全存在界


の絶対的原点そのものと一体となって、その一体性を主体的事態として自覚する


ことに至ることを最終目的として行われる霊的現成のための全人的鍛錬である」


していますが、一足飛びにそのような境地には到達できないために、段階を踏む


ことになるとしています。


 


そこで、まず、自我意識の払拭から始めます。我の意識の払拭とは、単に我を


忘れるというような消極的なことではなくて、自分の内に自分ならぬものを


見出そうとする積極的な努力をすることなのだそうです。自分とか我とかいう


ものを深く、深くどこまでも掘り下げていく。その極点において、我の内面に、


我ではなく、溌剌と創造的に働く生けるハキーカ、つまり神を見出して、神に


会う。これがスーフィズムの修行の第一段階だとしています。


 


ここでの神は上から、外側から人間を支配する超越神ではなくて、むしろ、


あらゆるものの内面にあり、人間の魂の奥底に潜んでいる内在神なのです。


 


この内在神という考えは、スーフィズム特有のものではなく、「コーラン」


の中にも少なからず見出されるとしています。


 


迫りくる天地終末の日と審判のとき、己の生きざまの罪深さ、恐れといった


終末論的、実存的なメッカ期のイスラームの雰囲気。スーフィズムは、この


メッカ期の啓示の精神を、そのまま純粋に推し進めていったものであると


述べています。


 


そして、スーフィーと呼ばれる人たちは、そこから出発して徹底的に現世否定


の道を進みますが、現世否定とは、具体的には禁欲生活、苦行道の実践という


形をとります。


 


現世は、そのままでは堕落であり、悪であると感じるのはスンニー派の人たち


と異なりませんが、スーフィーたちはその悪い現世を強いて良くしようとは


しません。現世は、もう初めから根源的に悪なのであって、一刻も早く現世に


背を向け、現世的なもの一切を捨て去らなければならない。それこそ神に意志


だ、ということになります。


 


ただ一人神の前に、ただ一人で立つただ一人の実存、それがスーフィーと


すると、スーフィズムは概して反シャーリア(反イスラム法)となり、少なく


ともシャーリア軽視となります。西暦11世紀の偉大なスーフィーだとされる


アブー・サイードのように、怠れば重罪だとされるメッカ巡礼を生涯拒否する


ような人も現れることになります。


 


もっとも、このような境地に達するまでには、先に触れたような自我意識払拭


の厳しい修行の道を歩まなければなりません。


 


ところで、彼らにとって「我」というものが人間的苦しみと悪の根源であると


いうことです。スーフィーの見地からすると、自我意識、我の意識こそ、神に


対する人間の最大の悪であり、罪だというのです。


 


悪とは何か、最大の悪とは何か、このような問いは、仏教などでも意義重大な


問いですが、それに対する答えは、仏教とイスラームとではだいぶ違ってくる


ようです。


 


スーフィズムもイスラーム的神秘主義であるゆえに、人格的一神教というもの


を守り抜こうとするのです。そして、私が私の意識を持つ限り、我と神とが


対立する、それが悪だといいます。


 


人間に我の意識がある限り、人は我として、神に汝、と呼びかけなければ


ならない。或いは、神を彼と見なければならない。どこまでも人間的我と


神的汝、または人間的我と神的彼の関係であって、神だけではない。神だけ


でなければ二元論である。一神教ではない。真に実在するものは、ただ神だけ、


全存在界はただ神一色でなければならない。それでこそ純粋な一元論であり、


本当の一神教だというのです。


 


かくして、スーフィーは、その修行道において、自己否定、自我意識の払拭に


全力をつくすのですが、自己否定の道をどこまでも進んでいくうちに思いがけ


ない不思議な事態が起って来るとしています。


 


自己否定の極限において、人は己の無の底に突き当たるとき、その人間的主体性


の無の底に、スーフィーは突如として燦然と輝き出す神の顔を見るというのです。


つまり、人間の側における自我意識の虚無性が、そのまま間髪を入れず、神の


実在性の顕現に転生するというのです。


 


すなわち、スーフィーの体験的事実としての自我消滅、無我の境地とは、意識が


空虚になり、虚ろになってしまうことではなくて、むしろ逆に、神的実在から


発出してくる強烈な光で、意識全体がそっくり光と化し、光以外の何ものでも


なくなってしまうということになります。


 


そして、「自我性を完全に脱却した私は、もう私ではなくて、神そのものだ」と


いうような言葉がスーフィーの達人から吐かれるとき、これでもなおイスラーム


なのかという問いが生まれます。


 


著者は、これほどまでに純化されたイスラームは、もうイスラーム自身の歴史的


形態の否定スレスレのところまできている、或いは、イスラームの歴史的形態


の否定そのものだといった方が真実に近いかもしれないとしながらも、スーフィ


ズムが迫害に耐えながらイスラームに精神的深みと奥行きを与えることによって、


イスラーム文化に重大な寄与をなしてきたことは疑いの余地のないところである


と述べています。








 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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イスラームにおける内面への道-シーア派、スーフィズム-

  イスラム神秘主義









イスラームの見地からすると、宗教と法、あるいは宗教と倫理とは密接に結び

ついて一体化しており、とくにスンニー派は、イスラーム即イスラーム法

(シャリーア)、つまり、宗教即法律という極端な立場をとっています。

 

この立場によると、イスラームという宗教はイスラーム法の名で知られる

整然たる法的結晶体となってはじめて完全な意味での宗教として成立する

ということになります。

 

よって、イスラームは、共同体(ウンマ)の宗教となり、イスラーム法と

いう形で固定されるに至り、外面的には実にがっしりした文化構造体を構築

しましたが、一方で、社会制度化し、政治の場となり、信仰の実存的なみず

みずしい生命力が失われて枯渇しそうになるという側面が露呈してきたと

いうことです。

 

律法主義が極端に走れば、宗教は形式に堕し、形骸化するのであるが、井筒は、

イスラームの内部には最初期から宗教のこのような形式化に真正面から反対し、

それと対決してきた精神主義の大潮流、猛烈な実存的内面主義の傾向があった

といいます。

 

今回は、その、イスラームの内面的、精神主義的傾向について紹介してみたい

と思います。

 

さて、井筒は、「コーラン」前期、すなわち、メッカ期のイスラームは、

「コーラン」後期=メディナ期の宗教形態とは異なり、人間個人個人の生々

しい宗教的実存のあり方に直接つながるものであり、己の罪悪性を自覚した

人間主体が、神の呼びかけに対してどう決断し、どう応えていくかという

問題が中心あったが、イスラームの内面のへの道をゆく人たちは、大体に

おいてこのメッカ期のイスラームの系統を引くものであると述べています。

 

そして、イスラームを外面的、社会制度的に発展させた人たちをウラマーと

いうのに対して、そのような内面への道をゆく人たち、つまり、一切のものに、

感覚や知覚や理性ではとらえることのできない隠れた次元、存在の深層を認め

て、それを探求しようとする人たちに対してウラファーという名を付したと

いうことです。

 

ウラファーとは、このように宗教を霊性的、あるいは精神的内面性において

体認しようとする人たちであり、ウラマーたちのシャリーア至上主義、すなわち

宗教としてのイスラームをそのままシャリーアと同一視し、法即宗教と考えに

反発し、これと激しく対立するに至ります。

 

それは、熾烈な対立であって、多くの命がそのために失われ、イスラームの

歴史を血に染めたということですが、血を流したのは、大抵はウラファー、

内面の道をゆく人たちであったということです。ウラマーは、時の政府の

政治力、軍事力と結びついた一大勢力であり、ウラファーは、政府に対する

反逆者として、また、「コーラン」の教えに背く背信者、異端者として迫害

され、殺戮されたということです。

 

井筒は、内面への道をゆく人々の間に生まれ育った文化パターン、とりわけ、

イラン、シーア派のイスラームに全体として、どことなく悲劇的な雰囲気、

痛切な運命的悲壮感のようなものが流れているのはそのためだとしています。

 

ところで、一般的に宗教には、顕教と密教とがあるとされていますが、イス

ラームにも顕教的なイスラームと秘教的、密教的なイスラームがあるという

ことです。

 

そのイスラームの公の顔ともいうべき顕教におけるいちばん大切な、中心的

なキーワードは、いうまでもなく「シャリーア」(イスラーム法)ですが、

イスラームの秘密の顔ともいうべき密教のほうで中心的位置を占める

キーワードはハキーカという言葉だそうです。

 

この「ハキーカ」という言葉は、「内的真理」とか「内面的実在性」という

意味であるが、「シャリーア」との関係において重要な意味を持っている

としています。

 

「ハキーカ」とは、外に現れた形の背後、あるいは奥底にあって、それを

裏から支えているリアリティー、すなわち可視なものの不可視の根底、存在

の秘密であるという。秘密ゆえに目には見えない。意識の特異な深層次元が

開けて、一種独特の形而上的機能が発動したとき、はじめてそこに見えてくる

存在のリアリティーである。とにかく、世界に見出されるあらゆるものは、

外面的、内面的の二重構造を持っているというのです。

 

つまり、シャリーアの奥には、ハキーカがある。ハキーカの自己表現である

からには、シャリーア(イスラーム法)はそれ相当の存在理由を持っているはず

であり、ウラファー、内面主義の人たちも、いちがいに否定はできないのである

が、ウラマーたちがやるように、シャリーア即宗教としてイスラームをそのまま

シャリーアに還元してしまう態度が許せないということです。

 

内面主義の人たちにとって、ハキーカのないシャリーアは生命のない抜け殻に

すぎないという主張ですが、ハキーカの重要視が過ぎると、今度は、内面主義

を極端なところまで持っていってしまうことになります。

 

そうなると、シャリーア軽視から完全な無視、そして、シャリーアを通じて社会

制度化された共同体的イスラームへのいっさいの妥協拒否という流れになり、

イスラームそのものが危機に陥ってしまうことになります。実際、イスラームは

歴史的に何度もそのような危機に陥ったようです。

 

なお、このような内面の道、あるいはハキーカ第一主義という潮流は、全部、

同じ形で、同じ方向に進んだのではなく、大別すると二つの系統に分かれると

いうことです。

 

一つはシーア派的イスラームであり、もう一つは、スーフィズム、つまり、

イスラーム神秘主義ですが、後者は別の機会に譲るとして、前者について、

少し触れておきたいと思います。

 

シーア派といってもいつかの分派があるため、井筒はイランの国教となった

「十二イマーム派」に絞って述べています。

 

まず、イスラームは徹底した聖典解釈学的であるなかで、シーア派は特に

意識的に解釈学的だといいます。なぜなら、シーア派では、「コーラン」の

テクストを普通のアラビア語の文章や語句として、アラビア語の語彙や文法

が指示し許容する範囲で、その意味を解釈するだけにとどまらず、必ずもう

一段奥に「内的意味」を探ろうとするからだというのです。

 

「内的意味」とは、秘密の意味、秘教的な意味ということであり、このような

解釈をすると、「コーラン」のテクストが、しばしば、通常のアラビア語の知識

ではとても考えることもできないような意味を持ってくるのだそうです。

 

なぜそのようなことになるのかというと、先に触れたように、すべてのもの

に、そして「コーラン」自身にも、ハキーカなるものを認めるからです。

 

そして、これこそがシーア派をしてシーア派たらしめる最も根本的な原理で

あり、シーア派の内面主義を直裁に表しているものだとしています。

 

かくして、神の言葉の内面に「秘密の意味」を認めるシーア派の人々に

とっては、「コーラン」は単なる宗教書ではなく、全編、暗号で書かれた

書物となります。

 

暗号となると、それは解読されなければなりませんが、この暗号解読、

つまり、外面的意味から内面的意味に移る解釈学的操作をシーア派独特の

言葉でタアウールというそうです。一般的には「原初に引き戻す」と

いう意味だそうですが、シーア派的には、普通の人間の言葉で表現され、

外面化された神の意志を、もとの神の意志そのもの、いわば、啓示の原点

に引き戻すことだということです。

 

そうなると、イスラームは、本来、聖俗不分、つまり、存在の聖なる次元と

世俗的な次元とを区別しないのが建前であったものが、シーア派のタアウ

ールの立場に立つと、タアウール以前に人が見ていた世界は世俗的な世界

で、タアウールのあとに現れてくる世界が聖なる世界だということに

ならざるを得ません。

 

つまり、スンニー派の構想するようなイスラーム法的世界は、宗教的世界

ではなくて、政治的権力の葛藤の場であり、まぎれもなく世俗的世界である

ということになります。

 

こうして、シーア派は、その根本的な立場において、聖と俗をはっきりと

区別するのであり、この点においてスンニー派と明確に対立するとして

います。

 

井筒は、シーア派は根本的にイラン的だとしながら、彼らにとって現世は、

タアウールによって内面化され、象徴的世界として見直されない限り、

完全に俗なる世界であり、存在の俗なる次元を代表するものとして、存在

の天上的な次元とあくまで戦うことを本性とする悪と闇の世界である、と

考えているとしています。

 

そして、そこには善と悪、光と闇の闘争という古代イランのゾロアスター教の

二元論的世界表象が、きわめて特徴ある形でイスラーム化、一元論化されて

働いていることが認められると述べています。

 

 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「イスラーム文化」2-その宗教的基底-



イスラーム生誕
 
 
一般的に世界の三大宗教というと、キリスト教、仏教、そしてイスラム教を

指しますが、イスラム教徒なら躊躇することなく、ユダヤ教、キリスト教、

イスラム教を上げるようです。

 

なぜなら、イスラームの立場からすると、(仏教は、セム的な人格一神教と

は著しく性格を異にしていて、宗教といえるかどうか疑問視されるが、)

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、人類の歴史のなかでは三つの

違った形で現れたものの、根本的には同じ「永遠の宗教」だからだ

そうです。

 

永遠の宗教? 「コーラン」では、このように、歴史を超えた、あるいは

歴史以前に、一つの「永遠の宗教」がある、いわば、形而上的宗教の理念

というようなものがあるとしているようです。そして、この形而上的宗教性

は、セム的一神教の伝統に基づく宗教理念であり、厳密にいえば、上記の

三つの宗教だけに限らず、旧約聖書の認める預言者の興した宗教は全部

「永遠の宗教」の歴史的現れだということです。

 

つまり、「コーラン」によると、「永遠の宗教」が純粋な一神教として実現

したのはアブラハムの時代であり、神の世界創造以来、人類の間に現れた

預言者の中でアブラハムこそ純粋無雑な一神教徒であり、絶対的一神教の

精神の体現者だということになります。

 

その後、モーゼがユダヤ教として、次にイエスがキリスト教として同じ

「永遠の宗教」を二つの異なった歴史的形態で実現したが、イスラームに

言わせれば、残念なことに、これら二つの宗教は、もはや、かの「永遠の

宗教」をもとの純正な形では保持できなかったがために、ムハンマドが

現れて、また、もとの本源的な姿に戻そうとしたのだということになる

ようです。

 

よって、この意味ではイスラームという宗教は決して新しい宗教ではなく、

むしろ古い宗教、永遠に古い宗教だということです。

 

ところで、この「永遠の宗教」、アブラハム的宗教というものの構造を

単純化すると、それは神と人の垂直関係、タテの人格的関係という形で

提示されると著者はいいます。

 

一方の極(上)に神、他方に極(下)に人がいて、この間には無限に深い

断絶、無限に遠い距離がある。神は絶対的超越者であり、このままでは

人と神の間には何の連結もありません。しかし、連結は神の側から作られ

ます。それが「啓示」と呼ばれる現象です。神が直接人間に語りかけて

きます。人間に対するこの語りかけは、人間のなかの誰かが突然選ばれて

預言者になることから始まります。

 

それが、いわゆる預言者の召命体験であり、彼の口から断続的に、断片的

にほとばしり出る神的言語が啓示といわれるものであり、この特異な現象を

通じて神の意志が人間にも伝わり、それを通じて人間と神との間に一種の

人格的つながりが成立するとしています。

 

預言者は、いわゆる「予言者」ではなく、神の言葉を預かった人、任された

人という意味であり、預言者がさらに特定の民族に派遣されて、自分の受け

た神の言葉をその民族に伝えるという特別の使命を負わされたとき、その

預言者は神の「使徒」と呼ばれるということです。

 

イスラームを興したムハンマドは預言者であると同時に、また、神の使徒

でもあったのであり、この点でモーセやイエスとまったく同資格とされた

ということです。

 

かくして、イスラームの考え方によると、「コーラン」は神の意志の直接の

言語化、あるいは神の言葉そのものとなり、本来、断絶してまったく懸け橋

のない神と人との間をつなぐ唯一の手段として、神と人との中間にその位置を

占めるということになります。

 

なお、ここで注意しておかねければならないのは、人類創造の初めから、神は

預言者を次々に立ててきた、その連綿たる預言者系列の最終点にイスラームの

預言者ムハンマドが現れるということの意味であると著者は述べています。

 

つまり、神の啓示はそこで終了し、これからはもう神の言葉を聞くことができ

ないのであり、この考えが、後に述べられるように、後世、イスラーム思想史

で大きな問題を引き起こすことになるというのです。

 

さて、イスラームの神アッラーは、まず、何よりも生ける神、生きた人格神と

して自らを現したということです。人間が我・汝の人格的関係に入りうる神で

あり、古代インドのブラフマンのような形而上的絶対者ではありません。

 

この生きた人格神は、人間の側からすれば無限に遠い絶対的超越神であるが、

神の側からすれば、また人間に無限に近い神、つまり内在神でもあると

いうのです。

 

すなわち、超越と内在、そういう矛盾的性格を持って人間に関わる神だという

ことですが、このような矛盾的性格の神であればこそ、人間は信仰を通じて、

信仰を通じてのみ、これと人格的関係に入ることができるだとしています。

 

しかしながら、キリスト教と異なり、イスラームでは、それは父と子の親しさ

のようなものとはまったく異質なものと考えているようです。

 

人格的な関係と言っても、神はあくまで主人、絶対的権力を持つ支配者であり、

人間はその奴隷であるというのです。あくまで主人と奴隷との関係ということ

であり、この考え方がイスラームという宗教の性格を理解する上で決定的な

重要性を持っていると著者は述べています。

 

つまり、奴隷のように、奴隷が主人に対するように、何をどうされても、ただ

ひたすら相手の思いのままという絶対他力信仰的な態度を意味するということ

であり、それがイスラームという宗教の実存体験的中核をなすとしています。

 

まさに、イスラームという言葉自身が、「絶対的に帰依すること」を意味し、

ムスリムという語も「絶対的に帰依した人」を意味するということです。

 

もう一つのイスラームの神アッラーの顕著な特徴は、その絶対的唯一性にある

といいます。セム民族特有の一神教として当然かもしれませんが、キリスト教

と比較しても、イスラームでは、それが実に徹底しているようです。

 

イスラーム以前のアラビアの宗教であった多神教とその偶像崇拝はもちろん

のこと、キリスト教の三位一体の教義も偶像崇拝として激しく攻撃したという

ことです。つまり、キリストに神性を認めないのです。

 

もっとも、イスラームにおいてもイエスが大変重要な働きをすることは認める

のですが、それは神の子としてではなく、ムハンマドと同じく預言者として

であり、神の使徒であったという意味においてです。

 

ムハンマドは、後世になると神格化されますが、彼自身はもっと単純素朴な

人物であり、自分が神聖視されることを嫌い、それを警戒して、常々、自分は

「めしを食い、市場を歩きまわる」ふつうの人間だということを強調していた

ということです。

 

さらにもう一つのイスラームの神の顕著な特徴は、その絶大な力、全能性に

あるとしています。この神の全能ということは「コーラン」の始めから終り

まで、全体を流れている最も根本的なテーマであるようです。

 

イスラームの神は世界をただいっぺん創造したきりで、あとは事の成り行きに

任せるのではなしに、それ以来、ずっと、いつまでも、時々刻々と全世界を

厳格に管理し、支配している主宰者だということです。つまり、神の瞬間的

創造行為の連鎖、神のこの瞬間、瞬間の存在界への介入が歴史ということに

なります。

 

そうなると、瞬間ごとにまったく新しい世界が創造されることになるため、

全体が切れ目のない一つの流れではなくなります。とぎれとぎれの独立した

単位の連鎖だということになります。

 

かくして、歴史はつぎつぎに起る出来事のとぎれとぎれの連鎖であるという、

アラブ独特の歴史観が形成されたということです。

 

また、この考え方は、時間だけではなく空間にも適用されて、世界は互いに

内的に連絡のないバラバラなアトムの集合だとするイスラームのアトミズム

=原子論的存在論と呼ばれるものが出来上ったようです。そこでは、われわれ

の経験的な世界は、因果律そのものが成立しない世界ということになり、人間

に適用されると、人間の自由意志が完全に否定されてしまうことになります。

 

これは、人間の倫理性の問題だけではなく、絶対無力の人間が犯す悪も罪も、

すべては全能の神の責任になるということであり、神の倫理性までも危うく

なりかねないということで、初期イスラーム神学で大きな論争を巻き起こす

ことになったということです。

 

なお、このような因果律の否定を伴う非連続的存在観というものは、イスラーム

の正統派(スンニー派)の根本的な哲学であり、イラン人(ペルシャ人)の世界

認識は存在の空間的、時間的連続を特徴としており、正面からぶつかっていく

ことになるとしています。

 

(つづく)

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「イスラーム文化-その根柢にあるもの-」



イスラム文化

イスラームというと、人は、ふつう、砂漠的人間の宗教思想として類型化するが、

著者は、厳密に考えると、イスラームはアラビア砂漠の砂漠的人間の宗教では

なかったといいます。

 

砂漠的人間とは、定住せず荒漠たる砂漠を移動しながら遊牧生活を送る、

いわゆるベドウンのことをいうが、イスラームを興した預言者ムハンマド

(マホメット)は商人であったのです。

 

メッカとメディナという当時のアラビアの国際的商業都市の商人であり、商人

として才知をいろいろな局面で発揮した人間であったとしています。

 

同じアラビア人といっても、砂漠の遊牧民と都市の商人とでは、メンタリティー

も生活原理も著しく異なっており、砂漠的人間であるどころか、ムハンマドは、

まさに砂漠的人間の一番大切にしていたもの、砂漠的人間の価値体系そのものに

真正面から衝突し、対抗し、それとの激しい闘争によってイスラームという宗教

を築きあげたというのです。

 

ムハンマドは、ベドウンに対して、事あればすぐ裏切る人間だと、実に深い

不信感を抱いていたのであり、また、人間がこの世で行う善なり悪なりの行為を

「稼き」とするなど、宗教を神を相手方とする取引関係のように考えていたと

いうことであり、そのことが聖典「コーラン」に明確に表されているとして

います。

 

かくして、著者は、イスラームは最初から砂漠の遊牧民の世界観や、存在感覚

の所産ではなく、商売人の宗教、すなわち、商業取引における契約の重要性を

はっきり意識して、何よりも信義、誠、絶対に嘘をつかない、約束したことは

必ずこれを守って履行するということを、何にもまして重んじる商人の道義を

反映した宗教だったと述べています。

 

さらに、イスラームは預言者ムハンマドが世を去って後、まもなく広大な古代

オリエント文明の領域に広がっていく。ギリシャ、イラン(ペルシャ)、インド

文化との交叉、そして、当初からのユダヤ教、キリスト教との密接な有効的、

かつ敵対的関係、等々を考えると、イスラーム文化なるものは、砂漠の文化と

して簡単に類型化されるものではなく、種々様々に異なる文化伝統の入り乱れ、

錯綜し、絡み合う多くの交差点の網の目の広がりなかで形成された複雑な

内部構造を持った一つの国際的文化であることがわかるとしています。

 

さて、このような様々な要を含んだ複雑なイスラーム文化ではあるが、それ

にもかかわらず、全世界のイスラーム教徒は、自分たちは一つの共同体だと

いう自覚を持っているというのですが、それは、なぜでしょうか?

 

著者は、イスラーム文化を究極的に一つの文化たらしめている統一要素こそ

宗教としての、あるいは信仰としてのイスラームであり、さらにその根柢に

あってすべてを統一しているのが「コーラン」という一冊の書物なのだと

いいます。

 

国際的文化構造体として歴史的に自己形成したイスラームが、どれほど複雑な

様相を呈しようと、そのどの側面をとってみても、イスラーム文化は究極的に

「コーラン」の自己展開だというのです。

 

とにかく、全部「コーラン」という同一のテキストの解釈であり、究極的には

「コーラン」で統一されているのであり、その意味でイスラーム文化は

「コーラン」をもとにして、それの解釈学的展開としてでき上がった文化だと

いえるとしています。

 

たしかに、古代インドにおいても根本聖典「ヴェーダ」の解釈による文化であり、

仏典、旧約聖書、新約聖書においても、それの解釈に基づいた文化の形成が

なされているが、それらは異なった流派や異なった伝承による多層的構造に

なっているのです。

 

これに対して、「コーラン」は神の言葉だけをそのまま直接に記録した聖典と

して完全に単層的であり、他と大きく違っているというのです。

 

では、どうしてそのようなことになったのでしょうか?

 

どうも、イスラームで「宗教」という言葉の意味するところと、我々が常識的

に「宗教」という語で理解しているものとは大きく違うようなのです。

 

イスラームは、コーランそのものの教えに基づいて、原則的に聖と俗との区別

を立てないのです。つまり、宗教はいわゆる聖なるもの、存在のある特殊な

次元としての神聖な領域だけに関わることではなく、ふつうの考え方でいくと、

世俗的、俗世間的と考えざるをえないような人間生活の日常茶飯事まで宗教の

範囲に入るのです。

 

そして、人間生活のあらゆる局面を通じて、終始一貫して「コーラン」に表れ

ている神の意志を実現していくこと、それがイスラームの宗教生活なのだと

いうのです。

 

しかしながら、その一方で、ただ一つの聖典であり、そのテクストが神の言葉

であっても、それを解釈するのは人間であり、解釈の仕方によっては何が出て

くるかわからないという側面もあったようです。

 

預言者ムハンマド自身も、イスラームは、自分の死後、次第に内部分裂して

いくであろうと考えていたようであり、現在、我々が目撃しつつあるスンニー

派のイスラームとシーア派のイスラムの対立もその具体的な現れだということ

になります。

 

結局、解釈というものの本来的な自由性が結局イスラーム文化なるものの

多様性、多層性の原因にもなったということです。

 

とはいうものの、幸いなことに、それでもなお、イスラームはその本源的な

内的統一性を失うには至らなかったということです。そして、その理由の

一つは、すべてのイスラーム教徒が神の啓示に基づいた一つの信仰共同体に

属しているのだという強烈な連帯意識であるとしています。

 

近代以降、イスラーム世界が多くの独立国に分かれたが、彼らの心の奥深い

ところでは、依然として一つのイスラーム、世界中のムスリムは一体だという

強い連帯意識がひそんでいたというのです。

 

なお、歴史的事実としては、イスラームの内的統一性は、「イスラーム共同体

(ウンマ)」という、「コーラン」の解釈から直接に出てきた強力な制度に支え

られて保持されてきたという、ある意味では不幸な事実があるとしています。

 

イスラームの歴史の上では、「コーラン」の解釈の範囲を狭くしようとする運動

が初期からあり、解釈があまりに行き過ぎて許容範囲を逸脱した場合、共同体

の統一に責任のある指導者たちが、「コーラン」の権威によって、ただちに断固

としてこれに異端宣告して、共同体から追放してしまいました。

 

この共同体の秩序維持に責任ある指導者を「ウラマー」といいますが、聖俗を

区別しないイスラームでは、それは学問を修めた僧ではなく、「コーラン」と

それに関連する学問を専門に研究する人だということです。

 

ともかく、「ウラマー」によって異端宣告をされた多くの人々が、「イスラーム

の敵」ということで処刑されていったようです。

 

しかしながら、逆の方向から見ると、これほど多くの人たちの血の犠牲において

はじめてイスラームは、内部分裂を重ねながらも、根源的統一性を守り通すこと

ができたのだと著者はいいます。

 

そして、消滅にも至りかねない分裂と極端な画一性を強制する統一、この相矛盾

する、そして、それぞれに極めて危険な二つの傾向性の間に緊迫したバランスを

とりながら、イスラームは広大な古代オリエント文明世界に広がっていき、その

時代時代、その地域地域で著しく変動する状況に柔軟に適応しつつ様々な方向に

展開し、ついにあの創造性に満ちた多層的イスラーム文化構造体にまで発展して

いくことができたのだとしています。

 

思えば皮肉なことに、イスラームを分裂させたのも、イスラームの統一を守り

通したのも、結局、同じ一つの「コーラン」だったと述べています。

 

(つづく)





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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