「たましいの救い」



たましいの救い
水波一郎 著 アマゾン 発売

少し前に紹介しました「霊的生命体として」の著者水波一郎氏の新刊書です。

 

前作「霊的生命体として」が出版されてから、まだあまり日が経過していない

にもかかわらず早くも新刊が出るのは何か理由があるのだろうかと思いながら

本書を読んでみて、私なりに、その理由が分かったように思います。

 

世の中は、日々、激しく変化していますが、霊的な環境も、そして、死後の

世界も大きく変動しているようなのです。

 

我々が住むこの物質の世界、つまり、この世の霊的な環境が極端に悪化した

ために、かつては、信仰を持つだけでも、死後、上層の世界は無理でも、

下層の世界には下がらない人が大勢いたのが、今では、宗教を否定し、

神も高級霊魂も拒否する人が増えたため、普通に生きた人が、死後、

普通に下層に、つまり、苦しみに満ちた辛い世界に落ちる時代になった

というのです。

 

そして、逆に、地上に恐ろしい霊魂とその部下がどんどん増えていき、

今の霊的な環境では、訓練、修行をしてすら危険があるというような

大変な状況になっているというのです。何と、恐ろしい霊魂たちは、

宗教的、霊的修行の世界にまで入り込んでいるようなのです。

 

また、人は、いったん下層の世界に落ちると、そこから這い上がるのは

非常に困難であり、救うこともなかなかできないということです。

 

よって、矢継ぎ早の出版には、この厳しい現実を一人でも多くの人に

知ってほしいという強い思いが込められているように思いました。

 

なお、多くの人に霊的な真実を知ってほしいが、霊魂の学は、別の世界

のことを語っており、説明できないことを説明しようとするようなもの

であるため、分かりにくい。よって、できるだけ分かりやすい、平易で、

理解しやすい本にしたとも述べてられています。

 

ところで、本書の副題に、「人は表面の心だけで生きてはいない」とある

ように、水波氏は、単なる心の救いではなく、魂(たましい)の救いを

主張しています。

 

表面の心とは、巨大な魂という意識体の一部にすぎないようです。

 

人には、表面の心(無意識を含む)のほかに、幽体の心、霊体の心と

いうものがあって、それらをすべて包括した救い、つまり、たましいの

救いを求めなければならないというのです。

 

人が死後、どの世界へ行くかは、地上の善悪の基準、倫理道徳で決まる

のではなく、死後、使用する身体である幽体の成長度によって決まる

ようです。

 

水波氏は、心に愛を抱けば霊格が上がったり、時代の変化が勝手に魂を

覚醒させたり、進化させたりすることはないといいます。何千年という

魂の長い苦難の歴史をみても、魂を救うことは、そんな簡単なわけが

ないというのです。

 

そこで、水波氏は、安易に果実だけを得ようとする今の風潮に釘を刺し、

きちんとした霊的修行の必要性を訴えています。

 

神霊よりもたらされた秘技である「神伝の法」、すなわち、神伝禊法、

神伝鎮魂法こそ、魂を救うことができる、つまり、幽体とその心、霊体と

その心を進歩、向上させることができると主張しています。

 

魂を救うこと、霊的に進歩することは簡単ではなく、日々、一歩ずつ

進んでいく必要がある、それが、人間がこの世で行うべき、一番大切な

ことなのだといいます。

 

もっとも、きちんとした霊的修行といっても、難行苦行ではないという

ことです。忙しい現代人でも、なるべく短時間で、きちんとした修行が

できる技法であるということです。

 

最後の章で、「ただ、人は物質の身体を着ている。物しか見えない目で

生きている。神霊はおろか霊魂すら見ることができない。それでは真実が

掴めない。誰であっても、見えないものは信じにくいからである。霊魂たち

はそれをよく知っている。自分もかつては、この世の人間だったからである。

だからこそ、救いを求めてほしい。たとえ、見えなくても、感じなくても、

それでも、救いは神霊に求めるしかない。科学が魂を救ってくれる事はない」

と強く訴えています。

 

ともかく、刻々と変化している霊的世界の最新の実情を知りたいと思われる
方は、
是非、一度読んで見ていただければと思います。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ヘルメス哲学-「錬金術」2-


ヘルメス 



  

              

西洋の錬金術は、古代末期、ギリシャ、エジプト、カルデア(バビロニア)

およびユダヤ等の各地の思弁と実験が、アレクサンドリアで総合されて

発展し始めたようです。

 

ただし、アレクサンドリアから、まず、アラビア・イスラム世界へ伝わり、

そこで盛んになったのち、十字軍などの媒介を経て12世紀ごろに西欧に

おいても広く流布されるようになったようです。

 

錬金術師は、<哲学者>を自称し、「ヘルメス哲学」を世にもたらすのだと

主張したようですが、この「ヘルメス哲学」なるものは古代末期のありと

あらゆる神智学的思想の残存物を己の中に巻き込んでおり、その後の中世

の全期間を通じて、色々な影響を受けながらも存続した一つの思想・教理と

いうより、様々な思想・教理の一大集成の観を呈しているということです。

 

これらの思想・教理は、たとえば、本来の意味でのヘルメス思想、様々な

グノーシス派、神秘的異教、密儀宗教、新プラトン主義、そして、カバラ

(ユダヤ神秘思想)などであるが、キリスト教会の攻撃を受けながら、

幾世紀もの間、地下にもぐって生き延びたようです。

 

不思議なことに、このような雑多な思想・教理の集合体が一貫した伝統的

体系の観を呈し、様々な寓意と象徴のベールをかぶって俗衆の目から姿を

隠し、口伝と秘儀によって伝えられる秘密の教理として、とりわけ15

世紀以降、まとまりのある一体系として安定する方向へ向かったという

のです。

 

つまり、各著作家、思想家の間に色々な相違があったにもかかわらず、

基本的観念は少しも変わらなかったということです。

 

さて、まず、その宇宙論はというと、中心に地球があり、それから七つの

惑星圏と恒星圏がくる。つづいて、純粋な精霊の王国たる「最高天上界」

がくる。最後に、この宇宙全体の外部に、「万物」の創造主たる神自身が

ある。神は「万物」をいわば包み込み、みずからは何ものにも閉じ込め

られずして、すべてを己のうちに閉じ込めるというものです。

 

この考え方の中には、グノーシス派の宇宙論の枠組みが見いだされる

ようです。

 

また、神と世界との関係については、あるものは「神的本質」の世界内

存在を説き、あるものは宇宙に対するその超越を説いているが、しばしば、

神はこの世界から独立してあるのではなく、世界の内部に呑み込まれる

傾向があるということです。

 

錬金術の著述家たちは、「神的本質」を指すのに好んで<能産的自然

(生む自然の意味)>という表現を用い、広い意味で、この世界の

全存在、神羅万象は神の一部だとしています。

 

よって、存在するものは、唯一の「存在者」であり、それが限りなく

多様な形をとって我々の前に現れるのです。「賢者の石」が、この

宇宙の全一性の象徴そのものとなるのです。

 

さらに、世界は一個の広大な有機体と考えられていて、万物は生きて

動いているとしています。すなわち、物資の全一性の観念と、存在する

ものすべての間の内的な結びつきの観念には、汎生命主義が伴っている

のです。

 

そのほかに、ヘルメス思想の特徴として、あらゆる生命の源泉たる太陽が

神的な性格を持つものと見なされるという太陽の神学、この世に見いだされる

様々な対立、様々な共感と反発は、すべて互いに相補う二つの原理、すなわち、

能動的・男性原理と受動的・女性的原理の対立に由来するという性的二元論、

そして、世界は、三つの世界、つまり、原型的世界、大宇宙、小宇宙によって

構成されているという三つの世界論、さらに、錬金術は、「自然」のやること

を模倣するだけであり、錬金作業は世界創造の過程と同じ一つのプロセスを

実現するものだという「自然」と「術(アルス)」の平行説などがあります。

 

かくして、ヘルメス思想、とりわけ、その宇宙発生論は入念に練り上げられて

いったようですが、一見、細部は非常に込み入っているように見えて、その

理論の主な特徴はいつも不変のままであったということです。

 

つまり、世界の始原にあるのは、ただ未分化の至高なる宇宙的「原一体

(ユニテ)」である。これは形なき不可知なもの、もろもろの可能性と力の

驚くべき貯えであり、やがて万物それぞれに限りなく多様な特性を与える

こととなる源である。この原初の暗闇は、およそ存在がとり得る形の不変の

本質をなすもの、ただし潜在的に未分化な状態にあるそれであるが、その中に、

存在が以後たどる発展の全段階が無の状態で刻み込まれている。この単一の

根源が具体的に現れるためには、否定的・女性的・受動的原理と、能動的・

男性的原理とが二元的に分かれることによって分離しなければならない。

この両原理の結合から「カオス」、つまり、「原物質」が生まれる。こうして、

「原一体(ユニテ)」は分割され、分解され、己の体内から「原物質(第一

質料)」を出現させたのである。そして、それは三つの原質(硫黄、水銀、

塩)に分かれ、この三者の結合から形あるものとなった物質および万物の

もととなる四元素が生じるというのです。

 

なお、三原質とは、同名の科学物質をさすのではなく、物質のある種の特性

をあらわすもののようです。

 

つまり、「硫黄」は能動的特性(たとえば、熱、不揮発性など)を、「水銀」

は受動的特性を(たとえば、冷、揮発性など)をさすものであるということ

です。そして、「塩」は、「硫黄」と「水銀」を結びつける手段で、多くの

場合、魂と肉体を結びつける精気にたとえられるようです。

 

また、四元素は、四大に関するギリシャの古い理論を継承したものですが、

その「水」、「土」、「空気」、「火」とは、その名で呼ばれている具体物を

さすのではありません。

 

それは物質の状態であり、様相です。つまり、「土」は固体的状態の象徴で

あり支えである。「水」は流動性の象徴であり支えである。「空気」は揮発性

の象徴であり支えある。そして、この三者よりずっと微細で希薄な「火」は、

光と熱と電気との象徴的な支えであるエーテル状流体という実体の観念と、

物体を構成する窮極的な微粒子の運動という現象の観念とに、同時に

対応するというのです。

 

以上のような思想、哲学に裏付けられて錬金術は発展していったのですが、

18世紀に入ると、見かけ上は消滅してしまったようです。

 

実際的錬金術は、本来の、固有の意味での化学へ向かっていったようであり、

一方、神秘的錬金術、ヘルメス思想は、穏秘学(オカルティズム)として生き

残ったようであり、とりわけ、その数多い象徴とともに、近代フリーメーソン

などの中に入り込んでいったということです。

 

そして、今日においても、錬金術の思想と記号、象徴は、フンタジーやSF

などのジャンルのコミック(アニメ)、小説、映画、そして、ゲームなどに

隠然たる影響を与え続けているのではないでしょうか。

            
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




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「錬金術」




錬金術


いったい錬金術とは何なのでしょうか?

 

一般的に世の中に流布している定義では、中世における疑似科学たる金属変成

の術で、その目的は黄金を造り出すことにある。したがって、錬金術師とは、

黄金製造人であり、できるだけ安上がりに、それも大抵は他人の懐を当て込んで

金持ちになろうと試みる怪しげな人間のことであるというものです。

 

しかし、著者、セルジュ・ユタンは、こういう先入見はとんでもない間違いだ

と言います。

 

金属を変質させようとする真の意味での錬金術師たちの試みは、金持ちになる

ためではなく、彼らの理論体系に一つの物的証拠を付け加えるため、つまり、

今日のいわゆる科学的探究のようなものであったというのです。

 

この道に精通した達人たちがその秘密を俗人の目から隠そうと色々苦心した

のはそのためであったし、また、単なる黄金製造人、すなわち経験だけに

もとづいて「賢者の石」を探し求め、肝心な原理を知らずに勝手きままな方法

を次々と試み、往々ペテン師や贋金作りとして生涯を終えた連中を軽蔑した

というのです。

 

それでは、もう少し詳しく見ていきたいと思います。

 

錬金術(アルケミー)の語源はギリシャ語で、古代にエジプトを指す呼び名

から来ているようです。

 

そして、錬金術は、穏秘の術、すなわち秘伝に通じた一部の人だけの手にあり、

俗人に伝授されてはならぬ隠れた術としてのあらゆる性格を呈していると

いうことです。

 

また、それは時の支配者や神学者によって罪ありとされ、知識の公認の枠外で、

ときには敵対して発展した呪われた術でもあったようです。

 

これらの点において、それは最初から近代科学と全く違うものようのです。

錬金術は口頭または文書により師から弟子への伝授という形で伝えられる

ものなのです。

 

そして、その土台となるのは、寓意文学や啓示によって伝えられた古い秘密で

あり、錬金術師は何か新しいものを発見する必要はなく、秘密を再発見すれば

よいとしています。

 

だからこそ錬金術は幾世紀もの長期にわたって変化せずにすんだというのです。

よって、その象徴体系と展開が、中世のみならず16世紀においてさえ、多様

な形態をとることがあったにせよ、物質の組成に関する根本理論は変わらなか

ったということです。

 

ところで、錬金術師自身は錬金術をどのように位置付けていたかというと、

彼らは好んで「哲学者」の肩書を名乗ったようです。

 

彼らは特殊な「哲学者」で、最も高い意味での「学問」、すなわち他のあらゆる

学問の原理を含み、森羅万象の本質と起源と存在理由を説明し、宇宙の始原と

運命を物語る学問の受託者をもって任じていたそうです。この秘密の学問を

「ヘルメス哲学」と名付けたということです。

 

ただし、この学問と固有な意味での実験操作そのものを混同するのは間違い

であるという。錬金術は何よりもまず実地の作業であり、その限りにおいて

「ヘルメス哲学」の応用であったとしています。

 

したがって、錬金術は厳密にいえば実用の術であり、一つの技術であった

ということなります。だが、錬金術はやはり物質の組成や生物・無生物の形成

等々に関する一連の理論に基づいており、錬金術師はこの理論をいわば公準

として、そこから出発したのだそうです。

 

そして、理論的錬金術をじかに応用した実際的錬金術は、「賢者の石」の探求

であったとされています。これには大きく分けて二つの局面、すなわち、狭義

の「錬金作業」である金属変成と「万能薬」の作製の両面があり、これこそ

賢者の石が有する二つの本質的な力であるとしています。

 

つまり、錬金術師の考えでは、金属は生きており、健康な状態のときには、

それは完全な金属としての黄金の形をとって現れるはずであるという。また、

賢者の石を液化させれば延命長寿の霊薬が得られ、それを所有する者は、

長寿のみならず永遠の生命を保証されるはずだというのです。

 

ところで、これとは全く異なる錬金術の概念があるようです。

 

ある種の著述家、思想家にとっては、錬金術は一つの神秘学であったという

ことです。錬金術に用いられる述語は比喩的な意味を持ち、<霊的黄金>を

指し示すものであった。錬金術師のめざしたのは物質的黄金の探求ではなく、

魂の浄化であり、精神を徐々に変容させることであった。人間は錬金作業の

素材そのものであり、<卑金属>とはこの世の様々な欲望と煩悩、正しい

人間関係を妨げるもの一切であった。<賢者の石>とは、神秘的変成によって

姿を変えた人間であり、鉛から黄金への変化は、人間が「真」「善」「美」に

向かって上昇すること、誰もが自分の内部に持っている祖型を実現すること

であったということです。

 

なお、15世紀以降のヨーロッパで、「アルス・マグナ(大いなる秘法)」と

いう概念、時として「王者の術」とも呼ばれるものが展開されたという

ことです。

 

それによると、真の錬金術、秘伝的錬金術は、人間と自然のうちにある生命の

諸法則を認識することであり、また、アダムの失墜によって現世で劣化し、

その純潔と輝きと充実と原初の特性とを失った生命が再びそれらを取り戻す、

その一連の過程を再現することであるというのです。要するに、それは、人間

の精神に関しては、いわゆる贖罪ないし新生、肉体に関してはその再組織、

自然に関しては純化と完成、そして最後に、固有な意味での鉱物界に関しては

精髄化と変成なのであるとしています。

 

かくして、著者は錬金術とは何かという問いの答えることはなかなか難しいが、

大きくいうと、1秘密の学理、「ヘルメス哲学」、2物質の組成に関する<科学

的>とも呼びうる理論、3実用的な術(その主要目的は金属変成と万能薬に

ある)、4神秘学、5「アルス・マグナ」、(すなわち、神秘主義と宗教的憧憬

と神智学と実験手続きとの奇妙な結合)、の五つの局面に分けることができる

だろうと述べています。

 

(つづく)




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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ハタ・ヨーガの思想構造-ヨーガの思想・哲学3-


ヨーガ根本教典 



古典ヨーガは、ヨーガの原型として今日にも残っているが、その後の社会的な

変化とともに世界の具体的な構造への関心が高まるなか、新しいかたちのヨーガ

が追求されることになり、それは「ハタ・ヨーガ」と呼ばれる体系にまとめられ

たということです。

 

より具体的には、この種のヨーガは、8、9世紀から徐々に形成され、13世紀

にゴーラクナート(ゴーラクシャ)という人によって大成されたとされています。

 

「ナート」とは、導師、主を意味する言葉で、ゴーラクナートのような神秘的な

力を行使する行者を指す呼称で、彼らはしばしば呪術者であり、ときにはシャー

マニズムの要素をも持っていたようです。

 

彼は、「ハタ・ヨーガ」と「ゴーラクシャ・シャタカ」を著わしたと伝えられて

いますが、かなりの時をへて、このハタ・ヨーガの行法を説明した著作がいくつ

かあらわれたということです。

 

16世紀ごろに、スヴァートマーラーマが「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」

を著わして、ハタ・ヨーガを体系的に説明し、その後、ゲーランダが解説書

「ゲーランダ・サンヒター」を著わしたということであり、ハタ・ヨーガの

解説書としては、この二著が特に重要視されています。

 

「ハタ」とは力という意味で、ハタ・ヨーガとは、力を込めてなすヨーガ、

激しいヨーガという意味です。インドの伝統的な解釈では、ハタは日と月、

または呼吸を表しているとされていますが、それは教義的解釈だという

ことです。

 

さて、「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」の構成は、「ヨーガ・スートラ」

と違って組織立っていて、第一章 体位法(アーサナ)、第二章 調気法

(プラーナーヤーマ)、第三章 ムドラー(印相)第四章 ラージャ・ヨーガ

の全四章から構成されています。

 

第一章は、主に坐法(多くは座る体位)について説かれていますが、それと

ともに、ヨーガを行うための準備について、つまり、禁戒と勧戒、また、

食物の摂り方、身体の浄化の仕方について言及されています。

 

第二章は、調気法(プラーナーヤーマ)について説かれます。それは気

(プラーナ)をコントロールするということで、ハタ・ヨーガの根幹を

なしているのがこの調気法だとされています。古典ヨーガの場合も、

体位法(坐法)の次に調息法(調気法)が来ます。しかし、それは心の

作用を統御するために気をしずめることが目的であったのであり、ハタ

・ヨーガでは、気を集中させることに重点が移り、そこに、クンバク、

つまり、息を留めること そして、バンダ、つまり身体のいくつかの要所

をしめつけるという作法が加わります。

 

また、身体には7万2千本のプラーナ(気)が流れるためのナーディーと

いう気道・脈管があり、そのうち、最も重要なのは、身体の縦軸、すなわち

脊椎のなかを上下に貫通するスシュムナー・ナーディーであるといいます。

 

しかし、一般人は、中央のスシュムナー・ナーディーは汚物で詰まっており、

清掃されないかぎりプラーナ(気)はそのなかを流れていかないため、その

浄化法が説かれています。

 

浄化と調気、クンバカ、そしてバンダを行うことで、初めてプラーナは

スシュムナー・ナーディーをスムーズに流れ、ヨーガ行者は大宇宙の生命

エネルギーと通じ合えるようになるということです。

 

第三章は、ムドラーが主題となります。「ムドラー」は、一般的には「手の

印相」を意味するが、ハタ・ヨーガでは「身体の印相」、すなわち、ヨーガ

を行う際の最終的なかたち、を意味するということです。つまり、定められ

た体位法によって坐り、調気法により「気」を満たし、「ムドラー」によって

スシュムナー気道に眠る女神クンダリニーを目覚めさせるというのです。

 

この第三章から第四章にかけて、ハタ・ヨーガにとって重要なクンダリニー

の概念が登場します。

 

クンダリニーは、平素は背骨の最下端に潜在しているエネルギーですが、これを

覚醒させる、つまり、活性化して背骨の真中を通ずるスシュムナーという管の

なかを頭頂まで貫き上らせることが修行の最大の狙いとされています。クンダリ

ニーがスシュムナーを貫きますと、プラーナがこの管のなかを自由に流れるよう

になって、この管の六カ所にあるチャクラが活性化することになり、それぞれの

チャクラに眠っていた才能が発現するというのです。そうして、遂にプラーナが

頭頂近くにあるブラハマ・ランドラという神聖な室のなかへ流れ込んだときに、

三昧の状態が現れて、ハタ・ヨーガの理想は実現するということです。

 

最終の第四章では、ハタ・ヨーガを経て、ラージャ・ヨーガの三昧に入ることで

得られる偉大な効用などが説かれます。つまり、アートマン(真の自己、真我)

とブラフマン(宇宙我)と合一することにより三昧を得ることができるという

のです。

 

ラージャ・ヨーガとは古典ヨーガのことですが、ラージャ・ヨーガがなければ、

どんな美しい大地(体位)も、夜(保息(調気法))も、ムドラー(印相)も

輝かないと説かれています。しかし、このハタ・ヨーガの位置づけは建前の

ようであり、実際には、ハタ・ヨーガの修練による超常的な能力の獲得が、

ヨーガ行者たちの目的とされることがしばしばあったということです。

 

ところで、哲学的な見地から見ると、ハタ・ヨーガ等の後期ヨーガは、一元論

的傾向があるようです。

 

ヨーガは、もともと一元論的なところがあって、万有内在神論的な傾向もって

いたようですが、パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」になって、精神原理と

物質原理を峻別して世界を説明するサーンキャ哲学的二元論の枠組みを取り

入れて体系化が図られました。

 

しかし、後期ヨーガになると、ヨーガは再び一元論的傾向を帯びるのです。

ウパニシャドの思想を受けたインドの一元論的伝統は、ヴェーダーンタ学派

を構成し多くの学匠を輩出することになりますが、そのうちで決定的な

影響力を行使した者の一人がシャンカラだとされています。

 

ハタ・ヨーガなどの後期のヨーガは、一様にヴェーダーンタ的特徴を備えて

いるが、特にシャンカラが唱えた徹底した一元論思想をからの影響が強いと

いうことです。そこでは「知」のみが解脱の手段とされ、自己の内奥に潜む

「知」へと至らせてくれるのがヨーガだとしています。

 

以上、ヨーガというものの流れをざっと見てきましたが、そこには確固と

した思想、哲学に裏付けられた優れた技術の体系、霊的修行の体系がある

ことが伺われます。

 

しかし、現代のヨーガ、とりわけ、我が国ヨーガを取り巻く状況を一瞥すると、

それの多くは、健康法としてのヨーガ、美容のためにヨーガでしかなく、また、

一方で、単なる超能力開発の手段でしかないという現状を目の当たりにします。

 

それでいいと言う人もいるかもしれませんが、私は、大変もったいないこと

ではないかと思います。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「ヨーガ・スートラの哲学」-ヨーガの思想・哲学2-




ヨーガの思想


       

長い歴史を持つヨーガは、歴史時代に入ってからも、ヴェーダやウパニシャド、

初期仏教や初期ジャイナ教のヨーガ、さらに、「マハーバーラタ」などの叙事詩

文献に記述されたヨーガの時代を経て、「ヨーガ・スートラ」とそれに基づく

ヨーガ学派の成立をもって初めて体系化されたということです。(スートラとは、

元来、「糸」を意味し、ここでは経典を意味する。)

 

「ヨーガ・スートラ」に代表される、あるいはそれに基づくヨーガは古典的

ヨーガと呼ばれるが、後世、それはラージャヨーガと呼ばれるようになった

ようです。

 

立川武蔵氏は、ヨーガ考察する際に、我々がまず念頭におかなくてはならない

のは、インド人にとってシステムというものが不可欠であったということだと

述べています。

 

「インド人は究極のものが、ことばを超えたものであることを知っている。

それでもインド哲学は、ことばによる挑戦をやめない。ぎりぎりのところまで

ことばによるシステムをつくりあげていって、最終の段階で沈黙するのである」

 

古典ヨーガ学派の人々は、ヨーガという行法の体系を、ことばをつくして説明

しようとしたのであり、その最初のまとまった成果が「ヨーガ・スートラ」で

あったとしています。

 

さて、「ヨーガ・スートラ」ですが、その成立年代は、2世紀から4世紀ごろ

であったであろうということです。ただし、そのころにその内容のすべてが

成立したものではなく、紀元前に成立していたインド古代のいくつかの伝統が

あわさって、一つの経典になったようです。

 

「ヨーガ・スートラ」の編者は、パタンジャリと伝えられていますが、パタン

ジャリについては詳しいことは何もわかっておらず、実在した人物であるか

どうかすら定かではないということです。

 

スートラ本文の中に互いに矛盾する観念が同居し、古い要素と新しい要素が

混在しており、実際には、「ヨーガ・スートラ」はパタンジャリという一人

の作者に帰せられるというより、多くの人々が編纂にかかわった、あるいは、

様々な材料を寄せ集め、組み合わせて作られたとする説が有力です。

 

「ヨーガ・スートラ」は、4章52節からなる小品ですが、その構成内容に

ついて、全体を現形の章とは一応別に、Ⅰ 哲学的基礎 Ⅱ 実践理論 Ⅲ

 八支ヨーガとその結果 Ⅳ 心転変(心の展開)等に関する理論の四つの

部分に分ける説が有力だそうです。

 

立川氏は、「ヨーガ・スートラ」は、「さて、ヨーガの解説をしよう」という

文章からはじまり、続いて「ヨーガとは心のニローダである」とヨーガの

定義と述べているが、この「ニローダ」という語に注意を促しています。

 

「ニローダ」は、統御とか止滅とか訳されていますが、この二つの訳語の

意味には大きな相違があるというのです。

 

心の作用を統御するのであれば、心の作用そのものが無になることはないが、

心の作用を止滅させる場合は、心の作用そのものが無になります。

 

ヨーガの全歴史を通じて心の作用がどの程度まで抑えられるかについて見解

が異なり、おおざっぱにいうならば、古典的ヨーガ派に代表される古い形の

ヨーガは、止滅という側面を重視し、後世の密教的ヨーガでは、統御という

側面を重視したということができるとしています。

 

次に、「スートラ」は、ヨーガの哲学の理論的基礎について、「心の作用が

止滅(ニローダ)されたときには、純粋な観照者である霊我はそれ自体の

本来の状態に留まる」と述べていて、「霊我(プルシャ)」とは、「純粋精神」

を表すサーンキャ哲学の術語ですが、心の作用が止滅したときは、世界の根本

物質である原質(プラクリティ)が展開して現象世界となった過程を、逆に

短期間でたどって到着する原初の状態をさしているということです。

 

サーンキャ哲学とは、精神と物質からなる二元論を唱えるもので、あらゆる

結果は根本物質(プラクリティ)の中にあらかじめたたみ込まれており、世界

創造はそれらが展開し、顕在化する過程にほかならならないとする。精神は

物質に囚われることにより苦を経験し、輪廻に捕えられる。精神と物質を

峻別する英知により、純粋精神(プルシャ)が物質との結合を離れ、独存を

達成したとき、輪廻の生存が断たれ解脱がもたらされると説くものです。

 

つまり、心が止滅していないときには、霊我(プルシャ)はみずからの本質

に気づかず、心のもろもろの作用に同化しているのであるが、心の作用を

止滅させて、霊我を本来の状態の状態に留まらせるのがヨーガの道だと

いうことです。

 

このように、古典ヨーガ学派は、サーンキャ学派と教説の多くの部分を共有

するが、唯一重要な相違点は、サーンキャ学派が主宰神を認めないのに対し、

ヨーガ学派はそれを認めることにあるようです。

 

さて、「ヨーガ・スートラ」では、ヨーガの実践を八つの階梯(八部門)に

分けて説いています。

 

1禁戒、2勧戒、3坐法、4調息、5制感、6凝念、7静慮、8三昧の

八部門のうち、1から5を外的部門、6から8を内的部門と大別して

いますが、外的部門はヨーガの心理的、生理的手順であり、内的部門は、

それを踏まえてヨーガの最終段階に至るプロセスとしています。

 

1、2は、道徳的準備、そして、精神、身体上の準備であるが、3の坐法

からが実際のヨーガの行になります。坐法(アーサナ)とは、坐る方法だけ

ではなく、体位全般を指すようです。なお、この当時の体位は後世のような

多種多様な体位があったわけではないということです。

 

4の調息とは、後世のヨーガとは異なり、吐く息と吸う息にかかる時間を限り

なく「長く細く」していくことによって、息をしているか、していないのか

わからない状態に入ることが主眼であったようです。

 

5の制感は、感覚器官がそれぞれの対象と結びつくことをやめることです。

ただし、感官の働きそのものは存在している状態だということです。

 

以上の5つの階梯において準備が終わり、ここからは内的部門(綜制)と

呼ばれる本格的なヨーガの瞑想法がはじまります。

 

6の凝念とは、心を一つのものに集中することです。第5の制感で対象

から引き離された心は、内的なものや外界のもの、しばしば、へそや心臓、

鼻の先、舌の先など、身体のある一点に思念を集中・凝固させ、心を一つ

のものに固定させるのです。

 

7の静慮は、禅定ともいわれ、凝念の対象になったその場に向かって想念が

ひとすじに伸びていくことです。つまり、凝念で集中した対象から、想念を

そのまま維持しつつ拡大・延長していくプロセスを指すようです。

 

最終段階の三昧とは、静慮において想念された対象(客体)のみが顕現し、

それになりきった状態を指すということです。つまり、主観自体は客体への

完全な没入・滅却を果たし、主格の区別が解消した状態を指すようです。

 

なお、6から8までの階梯は、実際はひと続きのものであり、その間に

明確な区別をもうけることは難しいとされています。

 

以上がヨーガの八階梯の概要です。しかし、これでヨーガがめざす最終の

境地に到達したわけではないようです。

 

「ヨーガ・スートラ」が最終的に目指すものは、イメージもなくなって

心の作用が完全に止滅した世界だというのです。八階梯のヨーガは無種子

三昧の前段階にすぎないというのです。

 

第八段階の三昧では、行者の心に対象が存するという意味で「有種子三昧

(種子のある三昧)」といわれ、ヨーガ行者は、対象をもたない「無種子

三昧」に進まねばならないということです。

 

第八の段階を幾度も習得して、いつも三昧の状態に入ることのできるように

なったものには真智(プラジュニャー)が輝き出るとされています。真智も

まだ対象を有するが、それは、ことばによって「これである」と捉えられない

特殊な個を対象とするのです。

 

この智は、ことばともイメージとも結びつかず、しかも瞬間的であるのであり、

綜制(6、7、8の三部門)における生き生きとしたイメージの世界は、この

段階において反転され、イメージもことばをも超えた世界に入っていくことに

なります。

 

やがて、煩悩と業をはなれた心は霊我と対面し、個を対象とする直観智をも

止めてしまう三昧、つまり無種子三昧が生ずるということです。

 

この一瞬は、その後のヨーガ行者の全存在を変えることになります。行者は

かの三昧の一瞬を自分に許された「恵み」として、終生忘れることはない

のです。

 

(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「ヨーガの思想と哲学」1-ヨーガの起源と展開-




ヨーガの哲学1



 

 

ヨーガの起源については、よくわかっていないようです。


 


ある研究者たちは、ヴェーダ(聖典)に述べられる苦行者の秘儀的実践の


なかにその起源を見ようとするようですが、ほかの研究者は、非アーリア人


(インドの先住民)の伝統のなかにヨーガの始まりを見ようとするようです。


 


いずれにせよ、ヨーガという宗教実践の方法がヴェーダにもとづく祭式主義


とは異なるものであり、非アーリア的要素を持っていることは疑いないと


しています。


 


ともかく、紀元前800年~前700年ごろまでには、インド人は呼吸を


調整し、精神を集中することによって、特殊な体験が得られることを知って


いたようで、このような体験はヴェーダ祭式に専念するバラモン僧たちの


グループとは異なるグループの人々によって追求されたようです。


 


紀元前700年ごろからは、ヴェーダの祭式主義に反抗したウパニシャド


(奥義書という意味)の哲人たちの活躍がはじまり、彼らは宇宙原理


ブラフマンを直証する知を求めたとうことです。


 


ウパニシャドの哲学が主として知を求めたのに対して、ヨーガは知をも


捨てたとこに何ものかを体得しようとしたのであり、その求めるものや


方法が元来異なるのですが、時代とともに両者の間には、さまざまな形で


相互浸透が起こったようです。


 


したがって、古いウパニシャド群のあちこちにヨーガの初期的な姿、


たとえば、制感の実践や調息法の実践をうかがわせるような記述を


見ることができるようです。


 


もっとも、「ヨーガ」という語が行法の意味で初めてあらわれるのは、


「カタ・ウパニシャド」においてであり、そこでは、「感官をこのように


堅固に制御すること このことを人々はヨーガと考える そのとき、


人は心を乱さなくなる」というふうに明確に語られます。


 


また、「カタ・ウパニシャド」と同時代とされる「シュヴェーターシュヴァ


タラ・ウパニシャド」では、よりいっそう詳しくヨーガの実践について述べ


られおり、ヨーガの八階梯のうちの坐法、制感、調息法が見られるという


ことです。


 


そして、紀元後2世紀ごろまでに成立したとされる「マイトリ・ウパニシャド


」には、禁戒、勧戒、坐法は欠けているが、ヨーガの八階梯の残りの五つに


ついての記述がみられるということです。


 


立川武蔵氏は、「ヨーガ・スートラ」の成立は紀元後2~4世紀と考えられる


が、2世紀ごろには、そこに編纂されているようなヨーガのシステムがほぼ


完成していたのだろうと述べています。


 


なお、この「ヨーガ・スートラ」については、のちほど詳しく紹介したい


と思います。


 


ところで、紀元前2世紀ごろまでは、ヨーガにとって、さらにヒンドー教


全体にとって、「バガヴァッド・ギーター」という重要な聖典が成立して


いました。


 


「バガヴァッド・ギーター」の内容については、以前、紹介したことがあります


ので、詳しくは触れず、ヨーガに関連する部分のみを見てみたいと思います。


 


「バガヴァッド・ギーター」のなかで、神ビシュヌの化身クリシュナは「三種類


のヨーガ」を説きます。三種類とは、「知のヨーガ」、「行為のヨーガ」、そして


「バクティのヨーガ」です。


 


ただし、「ギーター」におけるヨーガという語の意味については少し注意が必要


なようで、「ヨーガ・スートラ」におけるとほぼ同じ意味で用いられる一方で、


「三種類のヨーガ」という場合には、「道」、「方法」の意味で使われている


ようです。


 


「ギーター」の作者あるいは編者は、狭義の意味のヨーガ、つまり「ヨーガ・


スートラ」的ヨーガの実践方法に知っていて、それについても言及しながら、


同時に、「ギーター」は、「宗教的実践の道」というように、「ヨーガ」という


語をきわめて広く用いているということです。


 


立川氏は「ギーター」の試みは欲深いものであると述べています。というのは、


それはインドが接した宗教形態のなかに抗争、葛藤のほとんどを統一総合しよう


としているからだというのです。


 


この統一統合は、大きく分けると二つの方向でなされたようです。まずは、


「知の道(ジュニャーナ・ヨーガ)」と「行為の道(カルマ・ヨーガ)」の


統一であり、そして、この古代からよく知られた二つの道と、新しく起こって


きた「献身の道(バクティ・ヨーガ)」との総合です。


 


「ギーター」のこの総合統一の試みはかなりの成功を収めたようで、この画期的


な試みによって、最も重要なヒンドー教の聖典となり今日に至っていると


いうことです。


 


「行為の道」の行為は、「ギーター」では、武士階級の義務、すなわち戦いを


さしていたが、近代には、労働と奉仕と捉えたり、独立運動と解釈されたよう


です。しかし、この行為は、報いを期待しない行為であり、そこには宗教行為に


とって不可欠な自己否定があるのであり、立川氏は、この自己否定が、後期の


ヒンドー教のほとんどの宗派において聖典と見なされるに至った主要な原因


であるとしています。


 


また、「ギーター」は、それまでに徐々に成長しつつあったビシュヌ神を、ほか


の二つの道よりもさらにすぐれたものとして位置づけたようですが、ウパニシャド


の伝統を否定するのではなく、宇宙我ブラフマン、個我アートマン、そして神


ビシュヌを同一視するという大胆なことをやってのけ、従来よりもより広い層の


人々が、個人として直接語りかけることのできる神を有することになったと


いうことです。


 


なお、ヨーガと仏教とのかかわりというものも深いものがあるようです。


 


初期の仏教の瞑想法は、一般に「静慮(じょうりょ)」、あるいは「等至


(とうじ)」と呼ばれ、「ヨーガ」と呼ばれることはまれであったが、それは


広義のヨーガであったようです。


 


また、大乗仏教におけるヨーガの位置は、引き続き重要なものであり、前に


紹介した唯識派は、瑜伽行派、すなわちヨーガ派と呼ばれていました。


 


大乗仏教において、ヨーガでめざすものは、中観派と唯識派の相違はある


ものの、「俗なるもの」の死滅によって、「聖なるもの」を顕現させること


においては同じであったが、タントリズム(密教)になると、それは大きく


変化したようです。


 


心の作用を死滅させるのではなく、対象をいきいきとイメージし観想すること、


つまり、「心の作用」そのものが「聖化」されることになり、観想法(成就法)


が重要視されるようになったということです。


 


(つづく)


 



 

 

 
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「唯識という思想」




唯識という思想



 

唯識思想は、中観思想とならんで大乗仏教の根本ともいえる思想です。

 

まず、先に紹介した、「空」「無事性」を説く中観学派の思想があり、唯識

学派は、この「空」の思想をさらに詳細に考察していきます。その考察とは、

龍樹が説き明かした「空」を非常に優れた思想と認めた上で、それでもなお、

未だ解き明かされていないものがあり、それを明らかにしようとしたよう

です。

 

中観思想は、自他のあらゆるものが本来は「空」であり、仮に、ことばに

よって認められているものであるから、ことばに囚われることなく、正しく

「空」としてのあり方を知ることで、無明を断ち切ろうとしますが、唯識

思想は、「空」を正しく知るための方法論として、あらゆる存在はただ識

(心)によって現されているにすぎないものであって、私たちが認識している

対象はすべて実在しているのではない、ただ識(心)のみがあって対象は存在

しないと知ることであるというのです。

 

さて、唯識思想を展開する学派は、正しくは瑜伽行(ゆがぎょう)唯識学派

といい、その瑜伽行という名称が示すように、ヨーガの実践を中心とした

伝統的な仏教の中から生まれてきたと考えられています。

 

唯識学派の思想家たちによって、伝統的な瞑想を実践する仏教の中に中観の

「空」という大乗仏教の根本となる思想が取り込まれたようですが、一切が

空であると私たちが認識するのは何によってであるかが中観思想では明らか

にされていないとして、瞑想の対象として「空」を感じる心のはたらきを認め、

同時に、私たちが存在すると考えているすべてのものは心によって現れている

ものにすぎないと主張したということです。

 

中観思想が「般若経」に基づいて思想を展開したように、唯識思想も「般若経」

に説かれる「空」について深く考察したようですが、中観思想では明らかに

されてこなかった心の働きについて考察し、その根拠となる経典として、

唯識思想では「解深密経(げじんみっきょう)」を重視したようです。

 

唯識思想は、一切を空とせず、仮に識(心のはたらき)の存在を認め、その

上で外界の対象が存在しない空(無自性)であると知るところから考察を

進めます。

 

このあらゆる存在を現出する私たちの識(こころ)が、阿頼耶識(アーラ

ヤシキ)を原因として起こる「虚妄なる分別」であり、それによって世俗の

過った見解が日常的に連綿と引き起こされるが、その相続生成する心のはた

らきもまた自性を持たない虚妄であり、仮の存在であるから、瑜伽行(瞑想)

を通して、迷いから悟りへという転回が可能であると瑜伽行唯識学派の思想家

たちは考えたということです。

 

このように、あらゆる存在が私たちの識(心)によって現れたものであることを

知らないだけでなく、その同じ識(心)が自分を含め、あらゆる存在(法)に

執着しているという自己矛盾に気づいていなのが人間なのだとし、とにかく、

唯識思想では、私たちの虚妄なる心のはたらきを認めて、最終的にはそのはた

らきを、瞑想等を通じて制御し、転換することで「空」を覚り、悟りへと到達

する道を示そうとしたようです。

 

ところで、先に、阿頼耶識(アーラヤシキ)という言葉が出てきましたが、瑜伽行

唯識学派が登場するまでは、識(心のはたらき、認識作用)は、眼識(げんしき)

・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜっしき)・身識(しんしき)・意識

(いしき)の六識しか設定されていなかったようです。

 

そこで、唯識学派がまず問題と考えたのは、あらゆる存在が心のはたらきによって

現れているのであり、認識されているものは実在しないという唯識の基本思想の

うち、あらゆる存在を成立させている根源のあるものは何か、ということで

あったようです。

 

それは同時に、現象的な六識では解明しきれないと考えられ、私を私であると

認識している心のはたらきの根源に何があるのかということ、私たちの認識する

はたらきが一人ひとり異なっているのはなぜかということ、その認識に執着する

はたらきが何によって起こってくるかということ、煩悩(無明)を止滅させる

ことで、悟りの境地に至ることが何を根拠として可能かということ、これらに

ついて明らかにすることでもあったようです。

 

このような疑問に答えるために、唯識学派が瑜伽行(瞑想)を通して、私たちの

意識(六識)の深層に見出してきたのが、日常生活の中ではまったく知られる

ことのない領域で働いている阿頼耶識(アーラヤシキ)であったということに

なります。このアーラヤという語は「蔵」を意味し、一切を蓄えるはたらき

をもつことから、そう名づけられたようです。

 

なお、このように阿頼耶識(アーラヤシキ)は一切のものが現れてくる種子で

あるとされますが、阿頼耶識(アーラヤシキ)そのものが汚染されたものである、

あるいは汚染するはたらきを持つということでもないということです。

 

同時に、六道に輪廻する迷いの原因として、瞬間、瞬間に生じては消える第六識

とは異なる識があることが明らかにされました。つまり、「心と意と識」のうち

の阿頼耶識(アーラヤシキ)の異名である「心」でもなく、前六識である「識」

でもない識である「意」、すなわち末那識(マナシキ)というものが設定され、

それが迷いの原因であるとされたのです。この末那識(マナシキ)は、常に自我

を意識し、それに執着する心のはたらきであることから、汚染された「意」で

あると考えられたのです。

 

かくして、我々の意識の深層に阿頼耶識(アーラヤシキ)なるものを見出した

唯識学派は、「心と意と識」のうち、「心」がすべての種子を有する阿頼耶識

(アーラヤシキ)にほかならず、この心の本体から意(マナシキ)と識(前六識)

がはたらくという八識説が成立したということです。

 

それでは、この阿頼耶識(アーラヤシキ)には、どのようなはたらきがあり、

また、どのようにして世界を成り立たせているかということになりますが、

その特質は、自相、因相、果相の三種があるということです。

 

まず、自相とは、阿頼耶識(アーラヤシキ)があらゆる汚染されたものから

薫習(染み込むこと)され、それが種子(形成力)となってあらゆる汚染され

た存在が生じてくるということです。

 

なぜ阿頼耶識(アーラヤシキ)が苦を生じさせる汚染の原因としてはたらいて

いるのかというと、私たちに認識されているものはすべて虚妄なるものであるが、

阿頼耶識(アーラヤシキ)がそれらの影響を種子として蓄え、それらが原因と

なってあらゆるものを汚染されたものとして生じさせ、しかも、それを私たちが

実在する唯一のものと認識しているからだというのです。

 

このように、私たちが存在する迷いの世界の影響を蓄積して、またそれを因と

して世界を成立させている根源であることを阿頼耶識(アーラヤシキ)の自相

といいます。

 

次に、因相について、阿頼耶識(アーラヤシキ)の識とは心のはたらき、認識

作用のことですが、それは私たちの意志とは関係なく、常に現前し、私を含め、

あらゆる汚染ある存在を生起させる原因になっているということです。これを

阿頼耶識(アーラヤシキ)の因相というそうです。

 

最後の果相ですが、阿頼耶識(アーラヤシキ)は絶えずはたらき、それは量り

知れない過去から存続してきたのですが、それは汚染された存在の基盤として

はたらくと同時に、みずからが因となって生起させたあらゆる存在の影響を

種子として、すべてを蓄えてきたということです。

 

かくして、すべては阿頼耶識(アーラヤシキ)を原因として生じるとともに、

そのようにして生じたあらゆるものは阿頼耶識(アーラヤシキ)に影響(種子)

を与え続け、阿頼耶識(アーラヤシキ)はその影響(種子)を蓄え続けると

いう三つの特質(三相)があるということになります。

 

なお、唯識学派は、この阿頼耶識(アーラヤシキ)を含む八識説と並んで、

人間存在の在り方を三種類に分ける三性説をも説いています。

 

それは、(1)「依他起相性」(あらゆる存在は個別に独立して存在するものでは

なく、他に依るという性質を持って生じるということ)と(2)「遍計所執性」

(私たちが認識している対象は実在しているものではないが、それを実在して

いるかのようにあやまって捉えること)、そして、(3)「円成実性」(実在する

かのごとく妄想されたものが永く取り除かれたのちに残る「完全に成就された

もの」としてのあり方)であるとしています。

 

大乗仏教を奉じ、仏道を歩む者(菩薩)は、まず意識の深層にある阿頼耶識

(アーラヤシキ)を含む八識を知り、さらに、人間存在のあり方に三性がある

ことを知り、いよいよ、瑜伽行唯識学派の名が示すとおり、どうすれば悟りの

境地へ到達するかという実践の道へ進んでいくのですが、それについては、

省略したいと思います。

 

とにかく、生死の世界(遍計所執性)を捨てて、涅槃の世界(円成実性)を

得る方法が瑜伽行、すなわち、瞑想ですが、修行の階梯を上昇するなかで

自分の依り所が転回する「転依」ということが起こるとされています。

そして、なお、「転依」の後もさらに修行は続き、究竟道と説かれる

仏陀の境界をめざすのだそうです。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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空の論理-中観思想-




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大乗仏教においては、大乗経典をもとにして徐々に哲学的な思想体系が整理

されていったようですが、それは、中観派と瑜伽行(ゆがぎょう)派のニ大

学派によって確立されたといわれています。

 

ここでは、そのうちの中観派の「空」の思想について紹介してみたいと

思います。

 

中観派は、龍樹(ナーガールジュナ)を祖師とする学派で、「中論」を根本

聖典とし「空」の論理を明らかにしたとされています。

 

「中論」には、「行くものは行かない」とか、「見るはたらきは見ない」と

いった容易に理解しがたいような逆説的な表現がいたるところに出てくる

のですが、それが意図するところは、日常言語表現が矛盾をはらんでおり、

解体されざるを得ないことを縦横に論じて、最高の真理(勝義諦)のありか

を示そうとしたのだということです。

 

さて、中観派の思想とは、「般若経」に説かれている「空」の思想がその

根底にあり、存在するものすべてのものは、「無自性」(不変・不滅の実在

ではないこと)であるからこそ「縁起の道理」が成立するといい、部派仏教、

いわゆる小乗仏教の説一切有部という学派が、「一切のものが恒常的にある」

と説く実在論を批判するものです。

 

説一切有部は、不変・不滅の実在のことを自性、自体などと呼び、そのような

実体が多数存在すると主張したようですが、般若経や龍樹は、実体とは概念、

ことばの実体視されたものにすぎず、実在するのではない。だから、その意味

で、あらゆるものは実体をもたず、空であるとしました。

 

よって、「空」とは、無あるいは無存在ということではなく、あらゆるものが

それぞれ固有の性質(実体)をもって存在しているのではないということです。

 

つまり、存在しているものは、「仮に条件が重なったから存在している」だけで、

「もし、条件が重ならなかったら、また、条件が変化したら存在しなくなる」

ということです。

 

そして、説一切有部が説くように、「一切のものが恒常的にある」ならば、

それは変化せず、常に一定・固定したものとして存在し続けるはずです

から、釈迦が説いた「縁起」そのものが成立しないというのです。

 

ただし、この縁起については、龍樹はそれまでの否定の論理とは趣の

異なった、いわば世間的な言語習慣を一定肯定するような論理を展開

しているようであり、そのことについてはのちに触れたいと思います。

 

ともかく、龍樹は、すべての事物・事象は相互依存的に存在しているに

すぎず、恒常的に存在するのではないという我々にははなはだ分かり

にくい見解に、「般若経」の空の思想を継承発展さることによって、

理論的根拠を示したということです。

 

ところで、龍樹によって批判された説一切有部も無我と縁起を説いて

います。

 

無我については、私たちの心身は五蘊(五つの構成要素)によって仮に

生成されているものであるから、主体的な「我」は存在することが認め

られず、空であると説くようですが、法(我以外の存在するものすべて)

は有であると考えるようです。

 

また、縁起については、無明にもとづき、過去になされた行為を原因と

して、未来においてその行為の結果が表れるという因果関係が存在する

という縁起説、十二支縁起説を説いています。

 

つまり、原因となった行為は一瞬一瞬に生じては滅し、滅しては生じると

いう生滅をするが、直前に滅した行為の影響を直後に生じたものに次々と

引き渡して結果を引き起こすと考えるのだそうです。

 

このような説一切有部の説、すなわち、あらゆるものを成立させる要因が

すでに存在していて、それが縁を得て、未来から現在、現在から過去へと

一瞬一瞬現れては消えていくという十二支縁起のほうが、目の前にある

ものすべてが空であるという説明で終わるより、人々にとっては受け入れ

やすい側面があったようです。

 

そのためもあってか、あらゆるものが縁起の道理によって生じては滅すると

釈迦によって説かれたことを正しく理解しようとした場合、説一切有部が

説く実有説によっては、因と縁によって様々に変化するということに矛盾

が生じるのであり、実体論そのものは否定しながらも、龍樹は、「中論」

の中で、世間の人々が信じている十二縁起を頭から否定せず、世間的に

有意義な信条を仮説的な真理として認めるかたちで説いているという

ことです。

 

このことについて、梶山雄一氏は、「空入門」で龍樹の空の思想には、世間

の道徳・非道徳その他のよい信条や慣行を、実態はないが、空の現われと

して打ち立てなければならないという意図も含まれていたといいます。

 

なぜなら、善い行為によって未来の幸福を得、悪い行為によって未来に禍を

得る(因果応報)、そして、その行為の禍福の果報は、行為をなした当人だけ

に現れる(自業自得)ことを説く輪廻説は、インド文化圏、或いは仏教圏に

おいて、社会の倫理の根拠を与える唯一の理論であり、十二縁起は、龍樹の

当時の仏教界において、輪廻と道徳を説くもっとも重要な、そしておそらく

もっとも合理的な教説になっていたために、龍樹は、実体的に語られる十二

縁起ではなくて、空の現われとしての、仮にものではあっても有意義な業報

輪廻の教えとしての十二縁起を、世間に打ち立てようとしたのだとして

います。

 

しかし、仏教では、時代と学派の相違を問わず、業報輪廻は迷いの生存に

おける善悪の行為と禍福の果報との関係を説くものであり、それは迷いの

世界にほかならない世間の秩序を打ち立てることはできても、我々は道徳

で救われることも、輪廻を超えることはできません。

 

そこで、龍樹は、「因縁心論」という著書で、十二縁起を解説して輪廻を

説きながら、しかも輪廻を超える悟りにいたる道を説いているようです。

 

輪廻として解釈された十二縁起について、輪廻の主体としての自我は

存在しないで、ただ五蘊(心身を構成する五つの要素)のみが次々と

因果の連鎖を構成するだけである、ということは説一切有部でもいうが、

龍樹は、さらに、この世からかの世へは微塵ほどのものも移りはしないと

いい、いかなる実体も、この世で死んでかの世で生まれるわけではなく、

ただ、空にすぎないものから空にすぎないものが生じるだけであると

説くのだそうです。

 

識も有も生も何ら実体のないもので、その空なる五蘊から空なる五蘊が

生じるのがいわゆる輪廻であり、輪廻の観念は人の誤った判断にほかなら

ない。輪廻は夢のようなものであり、我々が迷いの生存を生きているかぎり、

それは事実であるが、我々がさとったとき初めて輪廻が存在しなかったこと

を知るというのです。

 

龍樹は、「中論」の冒頭で、「滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常で

もなく、同一でもなく、異なりもせず、来たりもせず、去りもしない、そして

多様な思いを超越し、至福なる縁起を、完全に悟った(ブッダ)は説いた。

その説法者のなかの最高の人に私は礼拝する。」と記しています。

 

梶山氏は、この八つの否定は、龍樹の考えている縁起が、説一切有部その他

の縁起説と違って、空の縁起であり、その空の縁起を説いたブッダに礼拝する

ということであって、大変重要な意味を持っているというのです。

 

なぜなら、生じも滅しもしない、有るのでも無いのでもない、来るのでも

去るのでもない、というように、二つの矛盾概念の両方をともに否定すると

いうことは、それによって形容される縁起が、じつは空の同義語であるという

ことを示しているからであると述べています。

 

 


 
 
 
 
 
 
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「霊的生命体として-この世の常識はあの世の非常識-」



霊的生命体として 

水波一郎 著 アマゾン 発売


「水波霊魂学」を提唱する水波一郎氏は、本書で、この世の常識はあの世の


非常識であると訴えています。


 


日本の常識は世界の非常識という言葉がありますが、仮に死後の世界がある


として、現世と死後の世界の間には、それどころではない根本的な相違が


あるとしたら、どうでしょう。


 


ある霊的存在、いわゆる霊魂が「この世の人達の言う善い人間が、天国の


ような世界に入れるわけではありません」と言ったというのです。


 


もし、仮に死後の世界があるとしたら、人間がこの世で生きる価値とは何


なのか。それを知りたい人が、死後の世界を前提にしない哲学や思想を


どれだけ学んでも、何の役にも立ちません。死後の世界へ行ってから、


現実が理解できたとしても手遅れかもしれない。仮に、この世の行動で、


死後、生活する世界が決まるのであれば、事前に知っていないと不幸に


なってしまう可能性が高い。「この世にいる時に、ああしておけばよかった」


とか、「あんなことさえしなければよかった」とか、そうしたことをいくら


悔やんでも、あとの祭りになってしまいます。


 


要するに、もし死後の世界があるとすれば、死んで、いずれ事実を知るに


しても、死んでからでは遅すぎる、死んでからではどうにもならないこと


がある。よって、霊的世界の真実を、死後の世界の存在、霊魂に問うた


のが本書であるとしています。


 


では、最初の章(第一章)で、霊魂の世界、いわゆる死後の世界の常識、


しかし、我々からすると、混乱、困惑するような死後の世界の実情に


ついて述べられているので、少し紹介しておきたいと思います。


 


<愛ある行為が正しいとは限らない>


 


善悪は、人々がそれぞれの社会の中で、便宜的に見出した価値基準である。


よって、地域環境が生み出した倫理道徳が、霊的な善悪とは別であるとき、


そうした倫理を前提にした愛の行為も、霊的生命体としては間違っている


かもしれないのである。


 


また、霊的な世界は幽体という霊的な身体で生きている。幽体が不調になると、


死後の世界では、どんなに立派で心がきれいな人であっても、霊的に進歩した


霊魂たちの住む世界には入れない。どんなに愛が深くて立派な人であっても、


誰かが強い念を出せば、その人の幽体は傷つき、その人は、死後、その人の


幽体にふさわしい世界(苦しみの世界)に行くのである。


 


つまり、本心からの愛に基づく行為をしたとしても、霊的世界の法則は、それ


とは無関係に人を不幸にしてしまうのである。愛による行為は尊い。しかし、


この世で行う愛の行為は、この世の社会の中での正しさである。


 


<人々の正義は霊的に正しくない>


 


社会というものは、社会を構成する人たちの価値観と利害で動いている。


正義は口だけで、実際には、利害が一致する人の肩を持つことによって、


自分を正当化している人がほとんどである。


 


社会が複雑になり、人種や民族が複雑になると、その分、正義も複雑になる。


大きな社会になればなるほど、まとまりにくくなり、その分、それぞれに


正義が誕生してしまい、最後は法律で決着するしかなくなる。


 


しかし、法律は人々の多数意見の反映であったり、時には権力の側の都合を


反映していたりして、決して霊的な価値観は反映されていない。つまり、人々


の正義が最後は裁判で決着する社会にあっては、そこに霊的な正義はないの


である。


 


<イジメは悪なのか?>


 


霊魂の世界は、物質の身体をもっていないため、食事がいらない世界であり、


働く必要もない。また、年もとらなければ死ぬこともない。よって、この世では


殺人が一番の罪であるが、殺人が存在しない世界である。


 


そして、イジメについても、人間の社会では悪そのものであるが、霊魂の世界


から見ると、いわゆる悪霊からは、自分がイジメに加わらないかぎり、別に


面白くもない普通に行為に見えるし、高級霊魂から見ると、人間という確固と


した人格の所持者が、個々の自由意思によって行っている行為であり、かわい


そうではあっても、本来は干渉できない事柄である。


 


しかし、イジメの結果、いじめる側も、いじめられる側も、ともに強い攻撃的


な念を発することによって、お互いの幽体が傷つき、不調になって、その結果、


悪霊の干渉を受けやすくなり、死後は、苦しみの世界に入る可能性が高くなる。


 


<霊的真理とは嘘である>


 


人々の死後の幸福は幽体の状態にかかっている。善悪にばかりかかわって


いても、死後、上の世界に入ることはできない。


 


ましてや、最近流行っている霊的真理などというものを信じてはいけない。


霊魂の世界は広大で物質の世界の人達が理解することは困難である。理解


できるレベルの内容であれば、それは真理と言わない。


 


人間の肉体の脳には限界がある。限界のある脳で、神霊や高貴な霊魂を


理解できるはずがない。そうした方々の御心が理解できないのに、


どうして真理が示せようか。


 


「愛」や「霊的真理」、人々は、このような心美しい言葉に騙されてしまった


ようです。だが、人は成長して初めて愛を知り、愛を語り得る。愛は霊的な


成長に応じて深まるものだということです。


 


あとの内容については省略しますが、項目だけ紹介させていただきますと、


<第二章>( 霊的身体の進歩)では、龍、天狗といった霊的生命体について、


また、霊的身体の成長とその技法(神伝の法)について述べています。


 


そして、<第三章>(高貴な存在)では、文字通り、富士の神やイエスや


ラ・ムーといった高貴な存在について述べられ、<第四章>(霊的な現実)


では、霊的分野に横行するニセモノやインチキ、そして数少ない本物に


ついて、また、犬や猫の霊的実情について語られています。


 


さらに、<第五章>(人々の社会)では、霊的な観点から見た人間社会に


ついて、とりわけ、自由、政治、宗教、人間と進歩などについて語り、


そして、最終章の<第六章>(霊的な真実)においては、それまでの章の


主張を踏まえて、「真の悪」、「邪教」、「人殺し」、「救い」、「救い主」、


「愛の死」について語り、訴えています。


 


霊的世界の真実の一端に触れたいと思う方は、一度、読んで見ては如何


でしょうか。








 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体