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「ヨーガの思想と哲学」1-ヨーガの起源と展開-




ヨーガの哲学1



 

 

ヨーガの起源については、よくわかっていないようです。


 


ある研究者たちは、ヴェーダ(聖典)に述べられる苦行者の秘儀的実践の


なかにその起源を見ようとするようですが、ほかの研究者は、非アーリア人


(インドの先住民)の伝統のなかにヨーガの始まりを見ようとするようです。


 


いずれにせよ、ヨーガという宗教実践の方法がヴェーダにもとづく祭式主義


とは異なるものであり、非アーリア的要素を持っていることは疑いないと


しています。


 


ともかく、紀元前800年~前700年ごろまでには、インド人は呼吸を


調整し、精神を集中することによって、特殊な体験が得られることを知って


いたようで、このような体験はヴェーダ祭式に専念するバラモン僧たちの


グループとは異なるグループの人々によって追求されたようです。


 


紀元前700年ごろからは、ヴェーダの祭式主義に反抗したウパニシャド


(奥義書という意味)の哲人たちの活躍がはじまり、彼らは宇宙原理


ブラフマンを直証する知を求めたとうことです。


 


ウパニシャドの哲学が主として知を求めたのに対して、ヨーガは知をも


捨てたとこに何ものかを体得しようとしたのであり、その求めるものや


方法が元来異なるのですが、時代とともに両者の間には、さまざまな形で


相互浸透が起こったようです。


 


したがって、古いウパニシャド群のあちこちにヨーガの初期的な姿、


たとえば、制感の実践や調息法の実践をうかがわせるような記述を


見ることができるようです。


 


もっとも、「ヨーガ」という語が行法の意味で初めてあらわれるのは、


「カタ・ウパニシャド」においてであり、そこでは、「感官をこのように


堅固に制御すること このことを人々はヨーガと考える そのとき、


人は心を乱さなくなる」というふうに明確に語られます。


 


また、「カタ・ウパニシャド」と同時代とされる「シュヴェーターシュヴァ


タラ・ウパニシャド」では、よりいっそう詳しくヨーガの実践について述べ


られおり、ヨーガの八階梯のうちの坐法、制感、調息法が見られるという


ことです。


 


そして、紀元後2世紀ごろまでに成立したとされる「マイトリ・ウパニシャド


」には、禁戒、勧戒、坐法は欠けているが、ヨーガの八階梯の残りの五つに


ついての記述がみられるということです。


 


立川武蔵氏は、「ヨーガ・スートラ」の成立は紀元後2~4世紀と考えられる


が、2世紀ごろには、そこに編纂されているようなヨーガのシステムがほぼ


完成していたのだろうと述べています。


 


なお、この「ヨーガ・スートラ」については、のちほど詳しく紹介したい


と思います。


 


ところで、紀元前2世紀ごろまでは、ヨーガにとって、さらにヒンドー教


全体にとって、「バガヴァッド・ギーター」という重要な聖典が成立して


いました。


 


「バガヴァッド・ギーター」の内容については、以前、紹介したことがあります


ので、詳しくは触れず、ヨーガに関連する部分のみを見てみたいと思います。


 


「バガヴァッド・ギーター」のなかで、神ビシュヌの化身クリシュナは「三種類


のヨーガ」を説きます。三種類とは、「知のヨーガ」、「行為のヨーガ」、そして


「バクティのヨーガ」です。


 


ただし、「ギーター」におけるヨーガという語の意味については少し注意が必要


なようで、「ヨーガ・スートラ」におけるとほぼ同じ意味で用いられる一方で、


「三種類のヨーガ」という場合には、「道」、「方法」の意味で使われている


ようです。


 


「ギーター」の作者あるいは編者は、狭義の意味のヨーガ、つまり「ヨーガ・


スートラ」的ヨーガの実践方法に知っていて、それについても言及しながら、


同時に、「ギーター」は、「宗教的実践の道」というように、「ヨーガ」という


語をきわめて広く用いているということです。


 


立川氏は「ギーター」の試みは欲深いものであると述べています。というのは、


それはインドが接した宗教形態のなかに抗争、葛藤のほとんどを統一総合しよう


としているからだというのです。


 


この統一統合は、大きく分けると二つの方向でなされたようです。まずは、


「知の道(ジュニャーナ・ヨーガ)」と「行為の道(カルマ・ヨーガ)」の


統一であり、そして、この古代からよく知られた二つの道と、新しく起こって


きた「献身の道(バクティ・ヨーガ)」との総合です。


 


「ギーター」のこの総合統一の試みはかなりの成功を収めたようで、この画期的


な試みによって、最も重要なヒンドー教の聖典となり今日に至っていると


いうことです。


 


「行為の道」の行為は、「ギーター」では、武士階級の義務、すなわち戦いを


さしていたが、近代には、労働と奉仕と捉えたり、独立運動と解釈されたよう


です。しかし、この行為は、報いを期待しない行為であり、そこには宗教行為に


とって不可欠な自己否定があるのであり、立川氏は、この自己否定が、後期の


ヒンドー教のほとんどの宗派において聖典と見なされるに至った主要な原因


であるとしています。


 


また、「ギーター」は、それまでに徐々に成長しつつあったビシュヌ神を、ほか


の二つの道よりもさらにすぐれたものとして位置づけたようですが、ウパニシャド


の伝統を否定するのではなく、宇宙我ブラフマン、個我アートマン、そして神


ビシュヌを同一視するという大胆なことをやってのけ、従来よりもより広い層の


人々が、個人として直接語りかけることのできる神を有することになったと


いうことです。


 


なお、ヨーガと仏教とのかかわりというものも深いものがあるようです。


 


初期の仏教の瞑想法は、一般に「静慮(じょうりょ)」、あるいは「等至


(とうじ)」と呼ばれ、「ヨーガ」と呼ばれることはまれであったが、それは


広義のヨーガであったようです。


 


また、大乗仏教におけるヨーガの位置は、引き続き重要なものであり、前に


紹介した唯識派は、瑜伽行派、すなわちヨーガ派と呼ばれていました。


 


大乗仏教において、ヨーガでめざすものは、中観派と唯識派の相違はある


ものの、「俗なるもの」の死滅によって、「聖なるもの」を顕現させること


においては同じであったが、タントリズム(密教)になると、それは大きく


変化したようです。


 


心の作用を死滅させるのではなく、対象をいきいきとイメージし観想すること、


つまり、「心の作用」そのものが「聖化」されることになり、観想法(成就法)


が重要視されるようになったということです。


 


(つづく)


 



 

 

 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体