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「ヨーガ・スートラの哲学」-ヨーガの思想・哲学2-




ヨーガの思想


       

長い歴史を持つヨーガは、歴史時代に入ってからも、ヴェーダやウパニシャド、

初期仏教や初期ジャイナ教のヨーガ、さらに、「マハーバーラタ」などの叙事詩

文献に記述されたヨーガの時代を経て、「ヨーガ・スートラ」とそれに基づく

ヨーガ学派の成立をもって初めて体系化されたということです。(スートラとは、

元来、「糸」を意味し、ここでは経典を意味する。)

 

「ヨーガ・スートラ」に代表される、あるいはそれに基づくヨーガは古典的

ヨーガと呼ばれるが、後世、それはラージャヨーガと呼ばれるようになった

ようです。

 

立川武蔵氏は、ヨーガ考察する際に、我々がまず念頭におかなくてはならない

のは、インド人にとってシステムというものが不可欠であったということだと

述べています。

 

「インド人は究極のものが、ことばを超えたものであることを知っている。

それでもインド哲学は、ことばによる挑戦をやめない。ぎりぎりのところまで

ことばによるシステムをつくりあげていって、最終の段階で沈黙するのである」

 

古典ヨーガ学派の人々は、ヨーガという行法の体系を、ことばをつくして説明

しようとしたのであり、その最初のまとまった成果が「ヨーガ・スートラ」で

あったとしています。

 

さて、「ヨーガ・スートラ」ですが、その成立年代は、2世紀から4世紀ごろ

であったであろうということです。ただし、そのころにその内容のすべてが

成立したものではなく、紀元前に成立していたインド古代のいくつかの伝統が

あわさって、一つの経典になったようです。

 

「ヨーガ・スートラ」の編者は、パタンジャリと伝えられていますが、パタン

ジャリについては詳しいことは何もわかっておらず、実在した人物であるか

どうかすら定かではないということです。

 

スートラ本文の中に互いに矛盾する観念が同居し、古い要素と新しい要素が

混在しており、実際には、「ヨーガ・スートラ」はパタンジャリという一人

の作者に帰せられるというより、多くの人々が編纂にかかわった、あるいは、

様々な材料を寄せ集め、組み合わせて作られたとする説が有力です。

 

「ヨーガ・スートラ」は、4章52節からなる小品ですが、その構成内容に

ついて、全体を現形の章とは一応別に、Ⅰ 哲学的基礎 Ⅱ 実践理論 Ⅲ

 八支ヨーガとその結果 Ⅳ 心転変(心の展開)等に関する理論の四つの

部分に分ける説が有力だそうです。

 

立川氏は、「ヨーガ・スートラ」は、「さて、ヨーガの解説をしよう」という

文章からはじまり、続いて「ヨーガとは心のニローダである」とヨーガの

定義と述べているが、この「ニローダ」という語に注意を促しています。

 

「ニローダ」は、統御とか止滅とか訳されていますが、この二つの訳語の

意味には大きな相違があるというのです。

 

心の作用を統御するのであれば、心の作用そのものが無になることはないが、

心の作用を止滅させる場合は、心の作用そのものが無になります。

 

ヨーガの全歴史を通じて心の作用がどの程度まで抑えられるかについて見解

が異なり、おおざっぱにいうならば、古典的ヨーガ派に代表される古い形の

ヨーガは、止滅という側面を重視し、後世の密教的ヨーガでは、統御という

側面を重視したということができるとしています。

 

次に、「スートラ」は、ヨーガの哲学の理論的基礎について、「心の作用が

止滅(ニローダ)されたときには、純粋な観照者である霊我はそれ自体の

本来の状態に留まる」と述べていて、「霊我(プルシャ)」とは、「純粋精神」

を表すサーンキャ哲学の術語ですが、心の作用が止滅したときは、世界の根本

物質である原質(プラクリティ)が展開して現象世界となった過程を、逆に

短期間でたどって到着する原初の状態をさしているということです。

 

サーンキャ哲学とは、精神と物質からなる二元論を唱えるもので、あらゆる

結果は根本物質(プラクリティ)の中にあらかじめたたみ込まれており、世界

創造はそれらが展開し、顕在化する過程にほかならならないとする。精神は

物質に囚われることにより苦を経験し、輪廻に捕えられる。精神と物質を

峻別する英知により、純粋精神(プルシャ)が物質との結合を離れ、独存を

達成したとき、輪廻の生存が断たれ解脱がもたらされると説くものです。

 

つまり、心が止滅していないときには、霊我(プルシャ)はみずからの本質

に気づかず、心のもろもろの作用に同化しているのであるが、心の作用を

止滅させて、霊我を本来の状態の状態に留まらせるのがヨーガの道だと

いうことです。

 

このように、古典ヨーガ学派は、サーンキャ学派と教説の多くの部分を共有

するが、唯一重要な相違点は、サーンキャ学派が主宰神を認めないのに対し、

ヨーガ学派はそれを認めることにあるようです。

 

さて、「ヨーガ・スートラ」では、ヨーガの実践を八つの階梯(八部門)に

分けて説いています。

 

1禁戒、2勧戒、3坐法、4調息、5制感、6凝念、7静慮、8三昧の

八部門のうち、1から5を外的部門、6から8を内的部門と大別して

いますが、外的部門はヨーガの心理的、生理的手順であり、内的部門は、

それを踏まえてヨーガの最終段階に至るプロセスとしています。

 

1、2は、道徳的準備、そして、精神、身体上の準備であるが、3の坐法

からが実際のヨーガの行になります。坐法(アーサナ)とは、坐る方法だけ

ではなく、体位全般を指すようです。なお、この当時の体位は後世のような

多種多様な体位があったわけではないということです。

 

4の調息とは、後世のヨーガとは異なり、吐く息と吸う息にかかる時間を限り

なく「長く細く」していくことによって、息をしているか、していないのか

わからない状態に入ることが主眼であったようです。

 

5の制感は、感覚器官がそれぞれの対象と結びつくことをやめることです。

ただし、感官の働きそのものは存在している状態だということです。

 

以上の5つの階梯において準備が終わり、ここからは内的部門(綜制)と

呼ばれる本格的なヨーガの瞑想法がはじまります。

 

6の凝念とは、心を一つのものに集中することです。第5の制感で対象

から引き離された心は、内的なものや外界のもの、しばしば、へそや心臓、

鼻の先、舌の先など、身体のある一点に思念を集中・凝固させ、心を一つ

のものに固定させるのです。

 

7の静慮は、禅定ともいわれ、凝念の対象になったその場に向かって想念が

ひとすじに伸びていくことです。つまり、凝念で集中した対象から、想念を

そのまま維持しつつ拡大・延長していくプロセスを指すようです。

 

最終段階の三昧とは、静慮において想念された対象(客体)のみが顕現し、

それになりきった状態を指すということです。つまり、主観自体は客体への

完全な没入・滅却を果たし、主格の区別が解消した状態を指すようです。

 

なお、6から8までの階梯は、実際はひと続きのものであり、その間に

明確な区別をもうけることは難しいとされています。

 

以上がヨーガの八階梯の概要です。しかし、これでヨーガがめざす最終の

境地に到達したわけではないようです。

 

「ヨーガ・スートラ」が最終的に目指すものは、イメージもなくなって

心の作用が完全に止滅した世界だというのです。八階梯のヨーガは無種子

三昧の前段階にすぎないというのです。

 

第八段階の三昧では、行者の心に対象が存するという意味で「有種子三昧

(種子のある三昧)」といわれ、ヨーガ行者は、対象をもたない「無種子

三昧」に進まねばならないということです。

 

第八の段階を幾度も習得して、いつも三昧の状態に入ることのできるように

なったものには真智(プラジュニャー)が輝き出るとされています。真智も

まだ対象を有するが、それは、ことばによって「これである」と捉えられない

特殊な個を対象とするのです。

 

この智は、ことばともイメージとも結びつかず、しかも瞬間的であるのであり、

綜制(6、7、8の三部門)における生き生きとしたイメージの世界は、この

段階において反転され、イメージもことばをも超えた世界に入っていくことに

なります。

 

やがて、煩悩と業をはなれた心は霊我と対面し、個を対象とする直観智をも

止めてしまう三昧、つまり無種子三昧が生ずるということです。

 

この一瞬は、その後のヨーガ行者の全存在を変えることになります。行者は

かの三昧の一瞬を自分に許された「恵み」として、終生忘れることはない

のです。

 

(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体