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「瞑想の霊的危険」-瞑想の副作用、霊障を防ぐために-


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「瞑想の霊的危険」 
(水波一郎 著 アマゾン 発売)


 





本書を手にとって、まず、目を引いたのは、表紙にある「瞑想をすると霊魂が


寄って来る?」、「本を読んでの独習は特に危険」といったキャッチ・フレーズ


です。これらのフレーズは、私自身が過去に陥った苦い経験を思い出させて


くれました。


 


私も、かつて、市販本をたよりに瞑想の独習を行うことによって、気がつくと、


全く無自覚でしたが、除霊を必要とするような危険な水域にまで踏み込んで


しまっていたという経験があるのです。


 


それを、本書の著者である水波一郎氏の旧著である「神伝禊法入門」や


「霊魂学を知るために」に出会うことによって霊的な真実を知ることが


でき、帰還することができたのです。


 


さて、今の若い人たちは、「瞑想」という言葉にどのような思いを抱いて


いらっしゃるのでしょうか?


 


自分はといえば、もうだいぶ昔になりますが、かつての「精神世界」ブームの


渦中にどっぷりと浸っていたときのことを思い出すと、それは特別な輝きを


持った言葉であったように思います。


 


それは、自分に神秘体験をもたらし、聖者や超人に変身させ、超能力、霊能力を


与えてくれる魔法の技術そのものであるようなイメージでした。


 


よって、ヨーガ、密教、仙道と形を変えながらも、一人で瞑想にふけったもの


でした。


 


当時は、誰もその危険性について警告を発してくれる人もなく、何の警戒感も


持たずに瞑想にはまり込み、瞑想法とは、おおよそ神聖なものであり、ただ


ひたすら熱心に行えば必ず良い効果が出ると思い込んでいたために、それが


先に述べたような結末をもたらしたということです。


本当に危なかったと思います。あのままのめりこんでいたら、今の自分は
なかったと思っています。


ところで、本書では、安易に行う瞑想の危険性について警鐘を鳴らしている


のですが、その当時と比べて、現在は、はるかに霊的状況は悪化していると


いうのです。まわりの霊的な気である幽気の汚れがひどく、まともな霊魂が


近寄れなくなり、不道徳な霊魂の干渉が激しくなっているというのです。


 


とにかく、瞑想とは、原則的に肉体を静止して行うものであり、高級、


不道徳、いずれの霊魂にとっても関与しやすいものであるが、霊的な


環境の悪化によって、高級な霊魂は関与できなくなり、いたずらして


やろうという不道徳な霊魂には好都合なものとなったのだそうです。


 


よって、独習による瞑想の危険性は言うに及ばす、集団での瞑想、


ヨーガなどの伝統的な霊的、宗教的な団体が指導する瞑想法でさえ、


危険になってきていると警鐘をならしています。      


 


瞑想による心理面などでの効果はともかく、霊的な価値は無くなり、


デメリット、弊害ばかりが目立つというような状況になってきている


のだそうです。


 


かつて、私のような、超能力を会得するために瞑想をする人が大勢


いたため、そうした能力に関心を持つ霊魂がこの世に現れるように


なったということです。この超能力を求める瞑想がこの国の霊的状況


を著しく悪くしてしまったのだそうです。


 


よって、昔は価値のあった修行法も、このような現代の環境を考慮して


改良、変更されなければ価値を持たなくなったとしています。


 


もう、一般の人は瞑想をしないほうが良い、そのほうが無難であると


いう状況なのだそうです。


 


では、霊的な修行法としての瞑想は完全に意味を失うことになるので


しょうか?


 


いや、そうでもないようなのです。


 


では、いったいどうすればいいのでしょうか? また、瞑想法にも限界が


あるのであり、それを超える修行法があるということですが、それはどの


ようなものなのでしょうか?


 


その先は、本書を読んでいただきたいと思いますが、とりわけ、現在、瞑想を


行っておられる方、瞑想を行おうと考えておられる方には是非読んで


いただきたいと思います。


 


とにかく、水波氏は、霊魂の真実を知らないで行う瞑想は、役割を終えた


といいます。そして、霊魂を前提とした、幽体の強化を前提とした瞑想法


のみが価値を持つと主張しています。


 


 










 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「アトランティス大陸」-エドガー・ケーシー3-


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  アトランティス
 

「アトランティス」については、以前、プラトンが、「ティマイオス」と

「クリティアス」において、かつて、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)

の彼方に、アトランティスという大きな島があって強大な国家を形成して

いたが、大地震と大洪水によって海中に没して姿を消したという物語を

語ったこと、そして、それが事実であるのか、虚構であるのかについて

記事を掲載したことがありますが、ケーシーのリーディングにおいても、

アトランティス大陸についての口述がかなり頻繁に出てきます。

 

アトランティス大陸についての口述で目を引くのは、一般的な歴史文化

資料などを提供するためのリーディング、つまり、「リサーチ・リーデ

ィング」、「一般リーディング」での回答よりも、個々のクライアントに

対する「ライフ・リーディング」においてなされたものです。

 

ケーシーは、生前、約1600人に対してライフ・リーディングを行い、

それによって、2500件の記録が残され、これらの人々のなかの

約700人が、かつてアトランティス大陸において人生を送っていた

というのです。

 

ケーシーによると、伝説の大陸アトランティスは確かに実在し、そして、

現代のアメリカには、かつてのアトランティス人たちが多数転生して

きているとしています。

 

これらのケーシーのアトランティ大陸にかかる口述は、断片的で、煩雑で

あり、決して体系的に整理されたものではないが、その内容、歴史的経緯は、

大体、次のようなことになるようです。

 

<アトランティスは、現在のメキシコ湾から地中海に至る大西洋海域を占める

広大な大陸であった>

 

<人類は少なくとも1000万年の間、地上に存在してきたが、アトランティス

は人類が発展した場所の一つであり、約10万年前に高度な文明を築き始めた>

 

<人の起源は肉体でなく霊であった。これらの魂は自分の快楽のためにその身

を物質に投射し、地上に進められていた進化のパターンを覆した。利己的目的

にその創造力を誤用することによって、人はその聖なる起源と性質とを忘れ

去ってしまうほどに物質に絡み込んだ>

 

<はるか昔、人類は今の技術を超えないにしても、それに比べられるほどの

大きな技術進歩を遂げていた。当時の地球は、獰猛な動物たちが数多く徘徊

していたが、それらの襲撃に対抗するために科学技術を応用した兵器を開発し、

動物たちを退けた>

 

<動物との間に干渉が発生すると、人間たちのなかには、意識の水準を動物に

同調させることにより、半人半獣の姿に変容する者たちが現れた。彼らは、

自らの霊的な起源や本質を次第に忘却し、物質的快楽や攻撃的衝動に身を委ね

てしまった。その者たちは「悪魔(べリアル)の子ら」呼ばれ、人間本来の

純潔を維持した「神の掟の子ら」と対立するようになった。彼らの霊的力の

誤用が紛争や論争を招いたように、科学的、物質的な達成の誤用が地上に

物理的破滅を招いた。>

 

<アトランティスの文明は、紀元前5万年、紀元前2万8000年、紀元前

1万年の三度にわたって破局を迎えるが、三度目の破局によってアトラン

ティス大陸は完全に沈没してしまう。>

 

<アトランティスを逃れた人々は、アメリカ大陸やユーラシア大陸を始め、

世界各地に移り住み、新たな文明を築いた。 中米とエジプトという離れた

地に、ともにピラミッドが存在するのは、アトランティス人が高度な科学力

を用いてそれを建造したことによる。>

 

以上のことから、まず、気がつくことは、前に紹介したブラバッキー夫人の

「シークレット・ドクトリン」の人類発生論との類似点があるように思われ

ます。(もっとも、「シークレット・ドクトリン」そのものが、古代の神話、

伝説、宗教哲学、神秘思想等を縦横無尽に駆使し、再構成したものだという

ことですが。)

 

とりわけ、七つの根幹人種のうちの、第三根幹人種「レムリア人」、第四

根幹人種「アトランティス人」の部分との類似性は顕著のように思います。

 

なお、「神の掟の子ら」と「べリアルの子ら」との対立というのは、「シーク

レット・ドクトリン」の「光の子」と「闇の子」の対立を思い起こさせます

が、「神の掟の子ら」を純粋種、純潔を守って身を清めてきた人々とし、

「べリアルの子ら」を、自らを動物に投射して神の被造物ならぬ人の子ら

となった者としていること、そして、動物と混ざり合った奇怪な身体を

もった混血種が存在していたということなどについては理解が困難です。

 

人は、最初、肉体持たない存在であったとして、それらが受肉する身体が、

「神の掟の子ら」の場合は、動物の身体、つまり、猿から進化したものとは

異なる特別な身体であったということでしょうか? また、人間と馬、つまり、

ケンタウルスのようなものが存在したということでしょうか?

 

ともかく、類似しているとはいうものの、ケーシーの場合は、「シークレット

・ドクトリン」のような抽象的な表現ではなく、アトランティス期の出来事が

詳細に描写されていますし、かつてアトランティス人であった人たちが現代の

アメリカにたくさん再生してきており、その頃に蓄積されたカルマによって、

現代の文明にも危機が迫ってきているという警告に特徴があるように思います。

 

ところで、以前にも紹介しましたが、水波一郎氏は、「神体」の中で、人という

動物とは異なる魂を持った存在の地上での歴史は、「ムー」の歴史が5千年、

それを継承した「アトランティス」が千年、それ以降が5千年となり、せい

ぜい1万1千年程度しかないと述べています。

 

ケーシーのいうアトランティスの文明の始まりが10万年前とは大きな開きが

ありますが、時間を度返して比較するとどうなるでしょうか? ケーシーには、

アトランティスとムーは併存していたような口述がありますから。

 

ケーシーのアトランティスについての口述と「神体」の「ムー」の記述とを

比較してみると、今とは異なる独特の科学を発展させ、高度な文明が栄えて

いたということは共通しています。

 

ただし、今とは異なる動力によって大海を渡る高速船はあっても、ケーシーが

いうような、空を飛ぶ航空機などはなかったとしています。

 

これも以前紹介しましたが、水波一郎氏の旧著「大霊力」において、アトラン

ティスについて次のように述べています。

 

<アトランティスは、前期と中期、そしてまた、後期では、全く違うといって

よいほど性質の異なる人たちが文明をなしていた。平和な時代、戦争の時代、

これが同じ大陸に生きる人間なのかと思うほど、人間が短期間に変化している。

いつも、神と悪魔が同居している、そんな表現が適切といえる大陸であった>

 

また、霊能力者が跳梁跋扈し、超能力の技を競い、大きな対立となり、ついに

アトランティスに戦争をもたらすことになったとも言います。

 

そして、そのカルマが現代にアトランティスを復活させようとしていると

警告しています。

 

これは、ケーシーが「神の掟の子ら」と「べリアルの子ら」の対立として述べた

こと、また、霊的法則を物質的、利己的な利益に利用しようとしたことから、

破壊兵器の開発に向かい、大陸の破壊を引き起こしたことと交差するように

思います。

 

さらに、ケーシーも、現代のアメリカの原水爆をはじめとする大量破壊兵器の

開発のなかにアトランティスのカルマが現れていると警鐘をならしています。

 

もっとも、共通の部分があるからといってそれが正しいということにはなり

ませんが、一考に値するとは思います。

 

以上、このように、ケーシー自身は、正確な透視診断家として病者救済をして

いれば満足であったにもかかわらず、ライフ・リーディングという形でアトラン

ティス大陸にまで言及することなり、さらに、未来を語ることで予言者と言われ

るようになってしまい、それが外れたということで非難を受けてしまうことにも

なりました。

 

自身が霊媒でもある水波一郎氏は、そのようなケーシーについて次のように

述べています。

 

「霊媒の人生は犠牲に満ちている。自分の主張とあわない霊言により、世間から

注目され、抗議され、知りもしないことにより、軽蔑される。彼はそれを避け、

自分の理性で話をしようとする。それが逆に、自分と違う意識による思想を、

表現させえなくする。」

 

「霊界の伝達者たる霊媒は、その無意識の意識で、霊魂の思想を阻んでしまう

のである。しかし、いったん、発せられた霊魂の想念は、現実の霊媒の脳に届き、

言語中枢を刺激する。しかし、それを霊媒の意識が阻止する。二つの意識に

より刺激された脳では、まったくと言ってよいほど、霊媒の力が強くなる。

霊媒の癖と発音、そして記憶に基づいた霊界通信が出てしまう。」

 

「これが霊界通信の現実であり、実体である。霊媒は世間の評価によって心を

揺らす。それが正しい通信を阻止してしまう。人間の理性を固めてしまう。

ケーシーはいま、後悔しているのではなかろうか。いくつかの予言のミスが、

彼の評価を落としていくからである。」

 

だだし、予言というものは当てるものではなくて、それが起こらないように

警告を発することだと認識すると、ケーシーの述べたことは価値がないこと

ではなかったといえるのではないでしょうか?

 

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「転生の秘密」-エドガー・ケーシー2-


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エドガー・ケーシー2








 


先に、ケーシーの「フィジカル・リーディング」から「ライフ・リーディング」


への移行には、アーサー・ラマースという人との出会いがきっかけとなっている


と述べましたが、ラマースというに人は、神智学に関心を持っていたとされ、


神智学の霊魂観、宇宙観が果たして正確なものか、リーディングによって裏付け


をとってみようとケーシーに提案したところから「ライフ・リーディング」が、


そして、「リサーチ・リーディング」が開始されたとすると、神智学という


ものがケーシーの後期のリーディング、つまり、「ライフ・リーディング」に


どう影響を与えたのかという疑問がわいてきます。


 


先に紹介した「現代オカルトの根源」の著者大田俊寛氏は、そのことについて、


「実際のところ、ケーシーとラマースの交流とは、ケーシーがラマースの質問に


回答したというよりも、ラマースがケーシーに対して、彼の活動に理論的背景と


なるものを教えたという方が、より事実に近かったのではないだろうか。催眠


時のケーシーがアクセスしたとされる「霊的な記録庫」は、後の神智学の用語


に倣って「アカシック・レコード」と呼ばれるようになったが、そこにも


ラマースからの影響が窺える」と述べています。


 


そういった可能性は、少なからずあったように思われます。しかし、「輪廻


転生」、「カルマ」、「霊性の進化」といった概念を神智学から受け取った


可能性はあるにしても、ケーシーという人は、個々のクライアントを


対象とする霊的な診断家であり、観念のみを弄ぶ、いわゆる、思想家


ではありませんでした。


 


よって、最初に思想があったのではなく、彼は、病気のために苦しむ人々や、


人生に悩む人々の求めに応じて、その何らかの解決策を示すためにリーディ


ングをおこなったのであり、その数千件に及ぶ実例の中から輪廻やカルマの


法則性のようなものを導き出した人ですから、とても、神智学の範疇に収まり


きらなかったのではないかと思います。


 


もっとも、歴史や宇宙といった抽象的な対象へのリーディング、いわゆる


「リサーチ・リーディング」などにおいては、神智学的な観念が影響を


与えた可能性はより高いと思います。


 


このことは、後程、アトランティス大陸に関するリーディングということで


触れてみたいと思います。


 


それより、彼が敬虔なキリスト教徒であったことの方が、彼のリーディングに


与えた影響を考えると、大きいのではないでしょうか。


 


まず、なによりも、キリスト教の伝統的な観念によってケーシーは、輪廻転生と


いうものに拒絶反応が起こったのであり、それを受け入れるのに長い時間を


要しました。


 


霊魂学の提唱者水波一郎氏の旧著「大霊力」では、ケーシーを指導した霊魂が


次のように述べたということです。


 


「最初、ケーシーは独断的だった。我々を霊魂だと気づくのに時間がかかった。


彼の口は、無意識の状態においても、我々の意識を頑強に妨害した。ところが、


霊的治療や生活指導のときは別である。彼の意識は平然としている。しかし、


こと、予知や、霊力、そして、キリスト教の教義に触れるようになると、大変


である。彼の意識は、我々の力を完全に遮断しようと動きだす。我々は霊魂で


ある。その肉体を我物とする権利を有していない。肉体の脳、肉体の口は、


ケーシーのものである。我々の意識は後退せざるをえなかった。それはいくつ


かの予言の間違いを生んだ。」


 


「しかし、我々にはそれを訂正できなかった。彼は、有名になっていた。そして、


その記録はきちんと管理されていた。その予言の間違いは、ケーシーにも我々


にも、訂正することができなかった。別の人たちの手に渡り、手の届かないもの


になってしまったからである。」


 


「世界はいまも、ケーシーに注目している。それにより彼の理性は混乱を来した。


霊界通信の一種であったケーシーの霊言は、ときに、潜在意識の力と言われた。


そして、また、霊魂団のなせる業とも言われた。だが、そのさまざまな評価は、


ケーシーの心を悩ませた。彼は、リーディングの仕事をすることにより、多く


の注目と浴びた。そして、やがて、それが彼の人生の負担となってしまった。


それを知ったとき、我々は、人生の相談者よりも、予言者よりも、ただの


人間に戻してやりたかった」と。


 


次に、「カルマ」についてですが、もともと、インド的な意味では、「カルマ」


とは、単なる行為という意味のようです。そして、人間の現在の苦しみや


不如意を過去の特定の行為に起因するものとしてその因果関係を指すキー


ワードになっていったようですが、ケーシーの場合は、どうしても、


そこに、キリスト教的な「犯した罪とその罰」というニュアンスが


感じられるように思います。


 


つまり、「投げ矢のカルマ」と呼ばれるように、他人に向けられた有害な


行為は、そのまま行為を犯した者に跳ね返ってくるというのです。自分の


善なる行為がそのまま将来の自分に善の結果を生み、悪なる行為は悪の


結果を生むということです。


 


もっとも、時間差や時代状況といったものに規定されるとしていますが、


基本的には、作用と反作用と捉えています。ケーシー的な言い方にすれば、


人が人生において負うべく与えられている十字架は、彼が前世において


蒔いた種に相当しているのであって、人はそれを刈り取らねばならない


ということになります。


 


しかし、水波一郎氏は、その旧著「霊魂学を知るために」において、


カルマとは、そのような単純なものではないと述べています。


 


過去世で人を殺したから、今度は必ず殺されるとはかぎらない。もちろん、


そういう人も中にはいるとしても、実際のカルマはもっと流動的で複雑


だとしています。


 


つまり、何度もの過去世で一度も人を殺していないのに、今回の人生で


人に殺される人もいるというのです。


 


また、カルマとは、人間の過去世からの行為の集積である。そして、


過去世自身は、何人も、霊魂の世界の住人となって実在している。その


霊的細胞分裂が、今生きている人たちである。(人の転生は、ケーシー


がいうような単純な生まれ変わりではなく、その一部分のみが生まれ


変わるという意味である)


 


そのため、人間はいつも過去の好みや経験による失敗を、無意識の衝動と


して浮かび上がらせてしまう。それが、新しい環境においての選択や、


判断の基準となってゆくとしています。


 


そして、過去世のカルマといっても、表面意識と、霊体(幽体よりもさらに


高貴な身体)の意識、そして、守護霊、指導霊によって、相当に変化しうる


のであり、過去世で善行のみを積んだ人であっても、不幸な事故に巻き込


まれることは十分あり得ると述べています。


 


このようにカルマとは複雑怪奇なものであり、日常生活における心構え、


つまり、表面の心を正しく保つ努力や、善なる行為に励むという形で


解消することは非常に困難であるとしています。


 


したがって、霊的修行法、すなわち、神伝禊法の実践によって解消して


ゆく必要があると主張しています。


 


以上のことから、ケーシーにおける「フィジカル・リーディング」から


「ライフ・リーディング」への移行は、ミスを拡大する結果になって


しまったのではないでしょうか?


 


なお、次回は、「リサーチ・リーディング」について、特にアトランティス


大陸にかかるリーディングに触れてみたいと思います。


 










 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「眠れる預言者」-エドガー・ケーシー1-


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エドガー・ケーシー1




エドガー・ケーシーは、催眠状態において生活上の健康法から人類の命運に至る

まで数々の神秘的な言葉を発したことから、「眠れる預言者」と呼ばれた人です

が、心霊診断家、或いは予言者ということで、いわゆるスピリチュアリズムの

主流とは 少し異なった位置で独自の活動をした人です。

 

ケーシーは、1877年ケンタッキー州ボブキンズビル近郊の農場で生まれ

ました。少年期は内向的でおとなしい性格であり、学校の成績もあまり芳しい

ものではなかったようですが、五感を超えるように思える知覚力を示したと

いうことです。

 

ケーシーは、牧師か医者になることを望んでいたが、かなわず、青年期には

本屋の店員や保険の外交員として働いたようです。

 

そうしたなか、喉の筋肉が麻痺し始め、失語症の危険性が出てきたため、様々

な治療を試みたが完全な成果は得られなかったので、友人に催眠療法による

治療を求めました。

 

友人が必要な暗示を与え、自己誘導の催眠に入ると、普段とは異なる人格が

出現し、彼の病気に原因と治療法を語り始めという。そして、これに従うこと

によって声が正常に出るようになったということです。

 

催眠時の人格の導きにより、ケーシーは失語症を克服することができたが、

さらに、自身の病のみならず、他の人々のさまざまな病に対する治療法をも

教えたことにより、その噂は急速に広まり、彼のもとに多くの患者が訪れる

ようになったということです。

 

それから、1945年に他界するまで、43年以上にわたり、8千人を超す

人々に対して診断を施し、リーディングと称される診断の口述速記録を1万

4千ページ以上も残したとされています。

 

ところで、当初は、肉体の健康に対する「フィジカル・リーディング(肉体

の診断)」のみであったものが、あることが転機となってカルマと転生、

人間の運命や人間と宇宙との関係などに範囲が拡大されていきます。

 

それは、1923年にアーサー・ラマースという人物に出会ったことです。

ラマーズは裕福な印刷業者であったが、宗教や哲学に造詣が深く、彼は

ケーシーに対して、催眠時の人格に宇宙の構造や人間の霊魂のあり方に

ついても尋ねてみることを提案したという。

 

ケーシーはあまり気が進まなかったようですが、それを試みた結果、催眠時

のケーシーが答えたのは、人間の霊魂が宇宙の法則に従いながら「輪廻転生」

を続けているということであったのです。

 

これにはケーシー自身が大変驚いたようです。最初は、輪廻というとヒンズー

教徒のいう人間から動物への生まれ変わりしか思い浮かばない敬虔なキリスト

教徒である彼は、教会の教えを汚す異教の思想ではないかと疑ったようですが、

その後のリーディングによって、輪廻は、人間が動物に生まれ変わるというもの

ではなく、哲学的ならびに宗教的見地から絶対的に尊重すべき教義であると諭さ

れたということです。

 

そして、ラマーズから、実例をもって少なくとも聖書は輪廻の存在を否定して

いないと示唆され、これまでの病気治療を目的としたこれまでの診断に加え、

過去の転生の経緯を含む、人生全体に対する相談にも応じてはどうかという

助言を受け入れていくことになったということです。そして、それらは

「ライフ・リーディング(人生の診断)」と称されることになります。

 

そうはいっても、頑固で疑り深いといわれるケーシーがそれを素直に受け入れて

ていったわけではなさそうで、最初、このような情報を与えるのはラマーズが

輪廻を信じていて彼の心にその暗示を植え付けたからではないかと疑った

ようです。

 

しかし、それらの情報が未知の、しかしその真偽を確かめようと思えばできる

事実と、こう何度も一致することはないということで疑いは解消されます。

 

また、子供の将来などの予言的なリーディングも行われましたが、時間が経過

し、人々の生活のなかにリーディングで述べたことが実現していくのを見るに

つれて、ケーシーは自分の仕事の価値に自信を深めていきます。

 

このように批判的好奇心をもって個々のリーディングの真実性を調査し、歴史的

考証と現実の資料の確証を進めるなかで、すべての点を総合し、ケーシーは

次第に「ライフ・リーディング」の内容とそれが提供する人間の運命について

の説明の真実性を確信するようになったということです。

 

ただし、もう一つ、疑問が残っていました。それは、これらの情報が正しいと

してどこから来ているのかというものです。

 

その答えには二つあって、一つは「ライフ・リーディング」の依頼者自身の

無意識的な心であり、もう一つは、「アカシャの記録」であるというものです。

 

前者は、前者は比較的容易に受け入れられると思いますが、後者はどうだった

しょうか?

 

「アカシャの記録」とは、宇宙始まって以来のあらゆる記録が印象されたまま

消えずに残っているというものであり、ケーシーは長い間、この点についての

判断をひかえていたようです。

 

しかし、無意識の心という説明では、前世における個人の歴史はカバーできる

かもしれないが、歴史を遡る過去の時代の関する「リサーチ・リーディング」

の場合はそれでは説明しきれません。

 

結局、ケーシーは、絶対的な証拠があるからではなく、リーディングは

これまでの他の実証可能な点では間違いがなかったからということで、

「アカシャの記録」を受け入れることになります。

 

ところで、ケーシーの輪廻転生についての見解、そしてカルマについての

考え方については、スピリチュアリズム一般の考え方、神智学の見解とも

異なる独特のものがあるように思います。

 

よって、そのことについては、次回に触れてみたいと思います。

 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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ブラヴァツキー夫人の実像と虚像


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ブラバッキー夫人 神体






 

前回、ブラヴァツキー夫人に対しては、全肯定から全否定まで、さまざまな評価

がなされていると述べましたが、今回は、主に高橋巌氏の「神秘学講義」の

見解を紹介し、そして、私なりの考えを述べてみたいと思います。

 

その前に、他の評価を紹介しておきますと、「英国心霊主義の台頭」の著者

ジャネット・オッペンハイムは、自らを科学と形而上学の統合者とみなして

いたブラバッキーについて、「無知は明白だが、彼女にとってその知識は東洋

宗教、太古の哲学、そしてオカルトの実践の間に、表面上ではあったにせよ、

つながりを生み、科学と神学の調和を目指す大いなる戦いのための準備とする

には十分であった」と否定的な表現をしています。

 

宗教学者マックス・ミュラーは、「ブラヴァツキーの密教とは、誤解され、曲解

され、戯画化された仏教である。すべてが混乱し、誤解されている。」との

学術的批判をしながら、しかし、それは致命的な打撃にはならず、未知の知識

に心ひかれる者にとって、西洋のあらゆる材料に加え、東洋に源をもつ異国的な

材料を多く含む「混ぜ物」は長い間魅力を振りまいた、と述べています。

 

さて、高橋巌氏は日本におけるシュタイナー研究の第一人者ですが、ブラヴァツキ

ー夫人に対しては、概ね、好意的な見方をしています。

 

まず、高橋氏は、ブラヴァツキーは、その思想の偉大さにも関わらず、思想史の上

でまったく無視されてきたが、近代ヨーロッパが生み出した傑出した神秘学者で

あり、「自我」の、或いは、「個体主義」の思想家であると述べています。

 

たいていの神秘学者は、だんだん集合的になって、最後には伝統主義者になり

がちであり、最後には民族主義者として、ある特定の「血」の思想なり、集団

精神なりを旗印に掲げて、それの下に集まることを求めますが、ブラヴァツキー

を見ると、初めから終わりまで、まったく一匹狼的な生き方に徹した人だと

しています。

 

それが典型的に表れているのは、いわゆる「ドジアン(ジャーン)の書」だ

といいます。ブラヴァツキーの「シークレット・ドクトリン」は、全部この

「ドジアンの書」をベースに成り立っているのです。

 

「ドジアンの書」は、ブラヴァツキーによれば、それは太古のチベットのもっとも

神聖な書として、長い間誰に公開されずに秘蔵されて書物であるが、彼女だけが

特別に見せてもらったというのです。

 

誰も見たことがないといった、馬鹿でもないかぎり、そんなものは存在しないに

違いないということがわかるような本を、太古以来の叡智を発表すると言いながら

麗々しく持ち出しているという点が、ブラヴァツキーの特徴だと高橋氏は述べて

います。

 

それから、ブラヴァツキーの書物の特徴としてあるのは、全然首尾一貫していない

ことであるとしています。

 

ある文献学者が調べたところによると、彼女のもう一つの主著である「ベールを

ぬいだイシス」には、短時間で書かれた書にもかかわらず、少なくとも千四百冊

の本が利用され、そして、その千四百冊の中から、二千百か所の引用がされて

いるそうです。

 

彼女は、そのことについて、自分はいちいち文献に当たったのではない。自分が

ある特定の問題を考えると、目に見えない霊界の導師(グル)が自分に必要な

書物を差し出してくれたので、自分はただそれを眼前に見ながら写していけば

よかったのだと言ったということです。

 

しかし、いいかげんに読むと、実にでたらめに主張しているように見えながら、

まともに真正面からそれにぶつかって読んでみると、実に論理的に、意識的に、

一行一行正確に書こうと思って書いている文章であり、そういう意味で頭の良さ

は無類だと高橋氏は言います。

 

もっとも、今までブラヴァツキーは、透徹した知性の持ち主だという言い方で評価

されたことは、まったくといっていいくらいなかったということですが。

 

そして、ブラヴァツキーは、東洋の神秘学に対して特別な敬意をはらっただけで

なく、徹底的に研究した神秘学者だとしています。

 

彼女は、自分の思想は東洋の中に全部含まれているのだけれども、それを自分

はつみとって、一つの花束として、みなさんの前に提出して見せただけにすぎ

ないという言い方をしているのだそうです。

 

ただし、それは単なるリバイバルではなく、現代の時代の意識にふさわしい

形式でなければならないということです。

 

高橋氏は、ブラヴァツキーやシュタイナーは顕微鏡、あるいは望遠鏡のような

道具を作ってくれたのであり、その書を読むことによって、新しい宗教に

加担するというのではなく、今まで自分の属していた宗教が、今まで以上に

その宗教の本当の意味が理解できるようになる、そういうあり方が、ブラ

ヴァツキーやシュタイナーの望んだ本当の神秘学徒のあり方ではないかと

述べています。

 

そして、近代の神秘学をとおして、別の思想を批判するのなら、もはや近代

の神秘学ではなくなってしまうのであり、近代の神秘学をとおして、ますます

他の思想を評価できるようになるというところが、いちばんの本質なのだと

いうことを考えてほしいと主張しています。

 

ところで、晩年、心霊研究協会の調査によってブラヴァツキーの虚偽性が暴かれ

たとして、神智学協会は大きな打撃を受けたことについても、高橋氏は触れて

います。

 

当初、ブラヴァツキーは、ヨーロッパ最高の霊媒として、大変な霊媒能力を発揮

していたということで、心霊学者はブラヴァツキーを霊媒として大事にし、色々な

実験を試みたということです。

 

しかし、後になって、彼女は、心霊実験の方法論は、自然科学の方法論と変わ

らないため、そこには道徳的契機が欠けている。よって、心霊実験が人間の肉体

と魂の健康に非常にマイナスだと言い出したのだそうです。

 

こうして、もともと、ブラヴァツキーは、性格的に、天衣無縫というか、道徳的

規範からはずれたところがあり、色々なトリックを使ったりして人を驚かすよう

なことを平気でする人であったことも確かであるようですが、心霊研究協会と

の友好関係に亀裂が入っていき、あのようなブラヴァツキーのやったことは全部

ニセモノだという調査報告書が出されたということです。

 

この報告書は、常に良心的に調査された結果であるという見方もあるようです

し、一方で、神智学協会をつぶすために行われたという話もあるようですが、

とにかく、この報告によって神智学協会は完全に一般の社会から葬りさられる

ことになったようです。

 

以上のようなことを踏まえて考えてみると、私は、ブラヴァツキーという人が

人格的に信用のおけない単なる詐欺師のような人だとは思えません。

 

しかし、ブラヴァツキーと神智学に対して少なからず疑問を抱いているのも

事実です。

 

まず、その霊性進化論を核とするシンレクティズム(混合主義、習合主義)は、

のちに雑多な霊的、宗教的組織、潮流を派生することにつながったと思われ

ますが、まさに、それは1980年代、90年代の精神世界ブームとして

よみがえったように思います。私自身、そこに呑み込まれ、翻弄され、その

「混ぜ物」、「ごった煮」の迷宮のような世界を数年はさまよった忌まわしい

経験がよみがえります。

 

次に、霊性、神性の意味が誤って捉えられていたのではないかと思います。

神人への道か、獣人への道かといい、神人への道とは、七つの根幹人種を

経て新たな人種の創出によってもたらされるというとき、それは肉の身体

を持ったまま、神のような存在になることを意味し、そこには神人という

より、いわゆる超人という意味合いが色濃かったのではないかという思い

があります。なぜなら、のちの精神世界ブームそのものが、超能力志向、

変身願望と不可分であり、超能力の獲得と超人への変身が正面切って

主張されるようになったからです。

 

もう一つ、ブラヴァツキーは、第四根幹人種(アトランティス人)の段階で

物質性の領域への侵入が頂点に達し、「光の子」と「闇の子」との対立が

激化し、物質的、動物的領域への転落を招いたと言いますが、結局、第四

根幹人種「アトランティス人」から現在の世界の支配種族である第五根幹

人種「アーリア人」へと進み、最終的に第七根幹人種において最高の進化

段階に達するとしています。そして、アトランティス期のスパーンを

100万年ぐらいと見ているようであり、その前のレムリア期も数百万年

単位であったようですが、これらの真実性はどうなのでしょうか?

 

水波霊魂学を提唱する水波一郎氏は、これと異なった見解を述べています。

 

その著書「神体」において、人という種の地上(物質界)での歴史はそんなに

長くはなく、今から1万1千年ぐらい前に、幽質界において自由に暮らしていた

人類が、地上(物質界)に降り、肉の身体をまとったことから、他の生命体を

食べなければ生きられない不自由な生活が始まり、そこから苦悩が始まり、霊的

カルマが発生したと述べています。よって、「初めの地(ムー)」の歴史が5千年

ほどであり、「後継の地(アトランティス)」は、今から5千年前に千年足らず

でその歴史を終えたということです。

 

よって、霊的な進歩の重要性はいうまでもないことであるが、それは図式的な

法則によって抽象的に展開されるものではなく、神霊よりもたらされた霊的

修行法を極めるという個々の努力によってもたらされるとしています。他の

著書によると、人は、まず、禊法によって霊的カルマを解消し、その上で

鎮魂法により、霊的身体の強化、成長をもたらすことによって霊的進歩、

向上をめざすべきであると主張しています。

 

これらのことから、霊性進化論というのは、古代インドにおける気の遠くなる

ような時間の観念、そして、そこで永遠に繰り返される輪廻転生といった考え

方に、単に「進化」という近代的な概念を付加としたものではないかという

見方ができるように思います。

 

そうなると、古代の宗教、たとえば、古代ギリシャのオルフェウス教などに

おいて、原初の犯罪に対する罰として、魂は墓に閉じ込められるように肉体の

中に閉じ込められた。したがって、人の姿をとった存在はむしろ死の状態に近く、

死が真実の生活の始まりとなる。しかしながら、この「真実の生活」は自動的

には得られず、魂はその犯した過ちと徳によって判定され、しばらくしたあと、

魂は最後の解脱まで輪廻を運命づけられている、と説かれていることのほうが、

真実ではないにしても、より深い示唆を与えてくれるように思われるのですが、

どうでしょうか?

 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「霊性進化論の光と闇」


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現代オカルトの根源  


 

神智学の創始者であるブラヴァツキー夫人には、その存在をほとんど神格化する

ような手放しの称賛から、「稀代の詐欺師」という厳しい批判まで、きわめて

対照的な毀誉褒貶の評価が与えられています。

 

スピリチュアリズムの大流行した19世紀後半という時代を舞台に活動した

ブラヴァツキーは、神智学という霊的な思想運動の創始者、牽引者であると

ともに、霊媒としても活躍し、その霊媒能力は世間からの注目を集めたが、

1884年に「心霊研究協会」による検証が実施され、その虚偽性を批判

する報告書が発表されることにより、彼女と神智学協会は大きな打撃を

受けることになったということです。

 

厳しい非難を浴びるなかで、世評から距離を取り、主著の一つである

「シーレット・ドクトリン(秘密教義)」の執筆に没頭し、1888年

の公刊の後、3年ほどして病気のため59歳でこの世を去りました。

 

しかし、その後も、神智学協会は存続し、神智学の思想は継承され続け、

後世に様々な影響を与えたことは周知のとおりです。

 

「現代オカルトの根源」の著者大田俊寛氏は、現代の神秘主義、オカル

ティズム諸潮流の思想的根幹として引き継がれているのが「霊性進化論」

であり、それは「シーレット・ドクトリン」によって最初の明確な形式を

与えられたとしています。

 

そして、ブラヴァツキーが創始した神智学の教説は、神秘性とともに難解さ

をもって知られているが、その主な原因は、それが多くの要素を強引に折衷

することによって組み立てられているからだと言います。

 

大田氏によると、彼女の活動期は、ヨーロッパ期、アメリカ期、インド期の

三つに分けることができるようですが、全体としてみれば、彼女の構築した

神智学の教説は、西洋オカルティズムの世界観を基礎に置きつつ、秘密結社、

心霊主義(スピリチュアリズム)、進化論、アーリアン学説、輪廻転生論と

いった雑多な要素をその上に積み重ねていったものと捉えることができる

のであり、その意味では、神智学とは、古代以来の西洋穏秘主義(オカル

ティズム)や秘教主義(エソテリシズム)の伝統に連なるものであり、

その現代的亜流の一つにすぎないといわなければならないだろうと

述べています。

 

また、彼女は、表面的には、当時、伝統的なキリスト教が全体として弱体化

するなかで、新たな世界観として台頭する進化論と、新たな宗教的世界観と

して流行を見せる心霊主義(スピリチュアリズム)の両者を裁然と否定した

のであるが、単に否定するのではなく、むしろ、進化論と心霊主義の構想を

巧みに融合させ、人間の生きる目的は、高度な霊性に向けての進化であること

を明らかにしようとしたのではないかとしています。

 

さて、霊性進化論を壮大な体系にまで打ち立てたのが先に述べた「シーレット

・ドクトリン」だということですが、それは「ジャーン(ドジアン)の書」と

いう神秘的なテキストがベースになっているという。ブラヴァツキーによれば、

その文書は中央アジアの聖地において、アデプト(霊的熟達者)たちによって

古代から保存されてきたものであり、世界中の多くの宗教は、そこに記された

知恵から派生していったのだそうです。

 

「シーレット・ドクトリン」は、第1巻「宇宙発生論」と第2巻「人類発生論」

から構成されていて、まず、「宇宙発生論」においては、宇宙の原初状態から、

太陽系が誕生するまでの経緯が描かれているということですが、要約すると

次のようになります。

 

<原初においては、「永遠の親」という女性の神格が存在し、彼女は「処女卵」

を抱いて眠り込んでいた。するとあるとき、そこに一条の光が差し込み、処女卵

は「世界卵」に変容する。やがて、世界卵は孵化し、そこから「子なる神」と

呼ばれる宇宙意識が誕生する。子なる神は、宇宙を創造するために「七大天使」

や「十二星座天使団」と呼ばれる天使たちを生み出す。そして神と天使たちは、

光線を降り注がせることによって、太陽系の惑星たちを創造する。太陽系の

創造者である宇宙意識としての神は、「デミウルゴス」や「ロゴス」、あるいは

「太陽神」と称される。そして神は、太陽系に「七つの周期」を設定することに

より、その進化を促進しようとする>

 

大田氏は、以上のような枠組みは、全体として、グノーシス主義、プラトン主義、

ユダヤ教カバラといった、古代以来の神秘思想における流出論的な宇宙発生説を

基礎に置きつつ、近代天文学の知見をそこに盛り込んだものと理解することが

できるとしています。

 

次に、第2巻では、上記のようなプロセスから創造された太陽系において、

人間の霊が誕生し、進化を遂げる過程について描かれています。

 

太陽系においては、進化に関する「七つの周期」が設定されたが、地球に

霊が誕生したのは、7周期のうちの第4期にあたる。そして、7つの周期は、

地球上での人類の進化においても反復される。すなわち、地球において人類は、

7つの段階の「根幹人種」を経て進化してゆくとしています。

 

第一根幹人種において「アストラル体」という未熟な霊的身体として登場した

人類は、徐々に物質性の領域に踏み込んでゆき、それは第四根幹人種(アトラン

ティス人)の段階で頂点に達する。人類は幾度も、物質的・動物的領域への転落

の危機に見舞われるが、そのなかで着実に霊性を発達させ、第七根幹人種において

最高度の霊性を獲得することになるということです。

 

大田氏は、宇宙と人類の発生史は、一見極めて複雑で難解だが、内容をよく吟味

すれば、基本的な構図の反復によって物語が構築されているのがわかるという。

すなわち、人類の歴史は、「霊的進化」と「物質的進化」というに二種類の進化

のラインの交錯によって形作られており、そのなかで人類は、霊的進化のライン

に従えば神的存在に近づくことができるが、それとは反対に物質の進化のライン

に導かれれば、悪魔や怪物を含む動物的存在に墜してゆくことになるという構図

になっているとしています。

 

つまり、霊性進化論の大枠は、霊性の進化か退化か、神人が獣人か、という

二元論を基本線とすることによって構築されているということです。

 

そして、大田氏は、ブラヴァツキーの生涯は紆余曲折に富み、その著書も重厚かつ

難解なものであり、その思想が当時の人々によく理解されたとは到底思えず、

また、彼女自身が数々の神秘化やごまかしの手法によって、自説の深遠さを過分

に装っていたということは否定できないとしながらも、その思想のなかには、

強靭な体系を構築するための諸要素が確実に含まれていたと述べています。

 

それを列挙すると、次のようになります。

 

霊性進化 人間は、肉体の他に霊体を持つ。人間の本質は霊体であり、

その性質を高度なものに進化させてゆくことが、人間の生の目的である。

 

輪廻転生 人間は、霊性を進化させるために、地上への転生を繰り返す。

地上での行いは「カルマ」として蓄積され、死後のあり方を決定する。

 

誇大的歴史観 霊体は永遠不滅の存在であるため、個人の歴史は、天体・

人種・文明等の歴史全体とも相関性を持つ。これらの集合的存在もまた、

人間と同様に固有の霊性を有し、円環的な盛衰を繰り返しながら進化を

続けている。

 

人間進化/動物化 人間は霊的な成長を遂げた結果として、神のような

存在に進化しうる。しかし、霊の成長を目指さず、物質的快楽に耽る者は、

動物的存在に退化してしまう。

 

秘密結社の支配 人間の進化全体は「大師」「大霊」「天使」等と呼ばれる

高位な霊格によって管理、統括されており、こうした高級霊たちは、秘された

場所で結社(大白色同胞団)を形成している。他方、その働きを妨害しようと

目論む悪しき低級霊たちが存在し、彼らもまた秘密の団体を結成している。

 

霊的階層化 個々の人間・文明・人種は、霊格の高さに応じて階層化されて

いる。従来の諸宗教において「神」や「天使」と呼ばれてきた存在は高級霊で

あり、それと反対に「悪魔」や「動物霊」と呼ばれてきた存在の正体は低級霊

である。

 

霊的交信 高級霊たちは、宇宙の構造や人類の運命など、あらゆる事柄に

関する真実を知悉しており、必要に応じて、霊媒となる人間にメッセージを

届ける。

 

秘密的伝統・メタ宗教 霊性進化に関する真理は、諸宗教の伝統のなかに

断片的な形で受け継がれている。ゆえに、それらを総合的に再解釈し、隠され

た真理を探り当てる必要がある。

 

ブラヴァツキーの死後、彼女の権威を支える根拠であった「マハトマ書簡」に

真正性に嫌疑がかけられていたこともあり、神智学協会は、少なからず

混乱に見舞われ、協会の指導者の地位をめぐる争いが起こり、それに

よっていくつもの分派が生み出されることになります。

 

しかし、上記のような諸要素は、神智学の運動が継承されるなかで、あるいは、

その他の諸思想に影響を与えるなかで、徐々に明確化・具体化されてゆくことに

なったということです。

 

次回は、ブラヴァツキーに対するこれとは異なった見方、評価を紹介してみたい

と思います。

 








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神智学とスピリチュアリズム(2)


モーゼスの霊訓 霊的能力の謎



先に神智学の側からの、あるいは、オカルティズムからの評価を紹介しました

が、今度は、スピリチュアリズムからの反論を見てみたいと思います。

 

津城寛文氏の「<霊>の探究 近代スピリチュアリズムと宗教学」では、ステイ

トン・モーゼスの「オカルティズムとスピリチュアリズム」による反論を紹介

しています。モーゼスは有名な霊界通信「霊訓」の著者であり、心霊研究協会

の初代の副会長という指導的なスピリチュアリストであった人です。

 

モーゼスは、ブラバッキー夫人やオルコット大佐との交友関係から、初期には

招かれて神智学協会のメンバーになっていたこともあるということです。

 

さて、モーゼスは、ブラバッキー夫人の周辺で起こる現象の事実性を認めつつも、

その形而上学やマハトマ(聖者)の存在の主張には批判的であったようです。

 

モーゼスは、オカルティズム=達人制度というものに疑問を呈していたようです。

イニシエーション(秘義参入)というプロセスが理想として立派であることは

認めながら、目的とされた力を得るためには困難な準備が必要であり、それでも

なかなか奥の院に入ることは許されないと言います。

 

つまり、オカルティズムが主張する、原則的には万人に接近可能ながら、しかし、

実践的には達人向けのイニシエーションは、実は選ばれた少数者にとってすら

現実には不可能に近いという、何重もの扉が続いているというのです。

 

よって、オカルティズムの主張するところは、多くの者にとっては信仰の問題

になる、つまり、一般人には手の届かないところにあるものと主張したという

ことです。

 

また、オカルティズムが、自分が操作している法則を知悉した、意識的で生き

た人間が達成するものであるのに対して、スピリチュアリズムは、霊媒がコン

トロールもできず理解もできない現象だという主張に対して、次のように

述べているようです。

 

<ブラバッキー夫人自身もすべての現象は説明できなかった以上、オカル

ティズムの現象は、生きている人間の意識や操作でコントロールされている

とは言えない。スピリチュアルあるいはオカルトと呼ばれる現象は、理想的

な達人であれば、自分自身が発生させた力によって起こすことができるで

あろうが、霊媒も進歩した霊から援助を受けることで、同じ超常現象を

起こすことができる。そして、ブラバッキー夫人においてすらそうで

あったように、この二つは効果において区別できない。>と。

 

つまり、モーゼスは、スピリチュアリズムにも低俗なスピリチュアリズムと

高等なスピリチュアリズムがあり、後者は高級霊の指導による魂の訓練、

教育によるものであるとして擁護しようとしたということです。

 

そのほか、高度な思想をあらわす学術的、哲学的な通信もあるが、どちら

かというと、霊界案内や人生哲学のような、いわば実用書的なものが目立つ

ことに対して、スピリチュアリズムの側から、地上に人類に必要なのは神学

のような大げさで難解な哲学ではなく、どこの宗教でも説かれるに至って

いない単純な真理であるといった反論や、死後間もない霊が、「死は終わり

ではない」と語ることは、語られる私的内容とあいまって、少なくとも

残された身近な者たちにとって、死後生存の信憑性を高めるのに、最初の

一歩としての大きな意味を持ち得るといった主張がなされたようです。

 

以上のことから、神智学等とスピリチュアリズムとの争点は、主に、スピリ

チュアリズムにおける意識の断絶、受動性、主体性の放棄、自我の喪失と

いったものに収れんされると思われます。

 

津城氏は、神智学・オカルテイズム等の人間中心主義、意志、自我の強調に

対して、スピリチュアリズムは受容性の強調、謙遜、自我の抑制であり、

そのどちらを選択するかは、シャーマニズム研究における脱魂型シャーマン

と憑霊型シャーマンという二つのパターンを紹介しながら、単なる思想の

対立のみだけではなく、人間タイプ=気質の差として考えられるのではないか

と述べていますが、目を西洋から我が国へ転じてみると、また異なった見方が

できるのではないかと思います。

 

水波霊魂学を提唱する水波一郎氏の監修によるHP「霊をさぐる」のなかの

「霊魂と交信する技術」で、次のように述べられています。

 

<監修者は、かつて出口王仁三郎氏で有名になった本田系の鎮魂帰神法とは

異なる技術を行なっていました。それは、霊と交流するうちに生まれた新しい

技術でした。しかし、この技術は特殊な霊的身体を持つ人にしか出来ない技術

でした>

 


<霊魂からの通信は基本的には優秀な霊媒を用いることによって成り立ちます。

霊魂というものは、高級になればなるほど、人間に対して自分の思想を表現する

ことが難しくなります。それは、霊魂の使う身体が地上の物質とは違うために、

その思想も物質の脳には収まらないという問題があるからなのです>

 

<結果として、高級と言われる霊魂の思想を表現することは、普通の霊媒では

まず無理なのです。それが可能なのは、長い間に渡り、不可能を可能にするため

の訓練をした霊媒だけなのです>

 

<したがいまして、西洋の霊界通信のように、訓練のない霊媒を使っても、通信

を送りうる霊魂は、それほど意識の高い方の霊魂ではなく、真実が表現されて

いることは少ないのです>

 

<水波師が霊媒の場合は、霊言の最中に霊言の内容に指示を出される場合があり、

霊魂も集団でないと対処出来ない、とのことでした。>

 

つまり、日本における本物で優秀な霊媒とは、霊媒となる以前にまず霊的修行を

行い霊的な進歩、向上を図った人であり、そして、帰神法という霊媒となるため

の特殊な技術を取得した人であるということです。よって、非主体的な憑霊と

いったものではなく、真に主体的であり、あるときは、完全なる自我の抑制を

行い、あるときは、絶対に自己の主張を曲げないという通常では不可能なことが

可能な特殊な人だということになります。

 

また、高級な霊魂は、霊媒の自由意志を最大限尊重するようであり、霊媒の身体

を完全に占有するということは、危険性を伴うため、まず、行わないようです

ので、意識の断絶、主体性の喪失という、神智学の霊魂通信というものに対する

批判は、我が国の真に高級な霊媒に対しては全く当てはまらないように思います。

 


 
 
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神智学とスピリチュアリズム(1)


霊の探究 


 

近代神智学と近代スピリチュアリズムの違いはどこにあるのでしょうか?

また、お互いに相手の陣営をどのようにみていたのでしょうか?

 

近代神智学の創始者とされるブラバッキー夫人は、初期の頃は実際に霊媒と

なって心霊実験を行っていたとされていますし、多くの場合、神智学は、

スピリチュアリズム(心霊主義)に包括されて説明されていたりします。

 

しかし、両者が19世紀後半の西洋キリスト教世界に同時的に起こった、

物質主義、唯物論に対抗する霊的な運動であるにしても、当事者たちは、自説

擁護の域を超えて、お互いに架橋しがたい差異があると考えていたようです。

 

ここでは、津城寛文氏の「<霊>の探究 近代スピリチュアリズムと宗教学」

に依りながら、まず、神智学の側からの視点、批判を見てみたいと思います。

 

まず、ルドルフ・シュタイナーは、「神智学とスピリチュアリズム」という

講演の中で次のように述べたということです。

 

<16世紀にはじまる信仰と科学の敵対関係、科学の発展が霊的生活の視力を

失わせた。スピリチュアリズムと唯物論との抗争は唯物論に分があった。心理学

が「魂なしの魂の科学」と呼ばれるほど魂の何たるかが見失われた。こうした

流れを受けて近代スピリチュアリズム運動が起こった>

 

<スピリチュアリズムは必要な現象であり、必然の出来事であった。ただし、

自然科学的な方法を魂や霊にまで拡張しようとした彼らの試みについて、問題と

すべきは、彼らの観察は正しかったかではなく、彼らが考えたことが可能だった

か、不可能だったかである>

 

<神智学、スピリチュアリズムのどちらも高次の存在、高次の世界に関心を

もっており、それは共通の源から出ているが、スピリチュアリズムには高次の

世界や存在を探究する方法、技術がなく感覚世界を盲目のまま歩き回っている>

 

<霊的な波の第一段階であるスピリチュアル現象は霊的存在に目を開かせたが、

偉大な科学者たちの失敗は、次の段階が必要になったのに、新たな認識能力を

発達させることなく、現象を単に自然科学的な実験で証明しようとしたところ

にある>

 

そして、最終的に、<人間の意識を切断するのはきわめて危険である。人間は

意識をもって活動的でなければならない。理性を完全に自覚し、理性を完全に

制御していなければ、霊的な力に無力になる。神智学とスピリチュアリズムの

違いは、スピリチュアリズムの霊媒には「意志」がない>と結論づけている

ようです。

 

また、神智学者チャールズ・W・リードビターは、「スピリチュアリズムと

神智学」という著述のなかで、どちらも、人間は不滅で永遠に進歩する存在で

あるという偉大な考えを真摯に保持していると共感しながらも、スピリチュ

アリストが死者の霊の作用によると主張する現象の一部は死んだ人間とは

別の作用者によって引き起こされたものとして批判し、哲学的な体系に関心を

もたないスピリチュアリストがやがてその必要性を痛感するだろうと述べて

いるということです。

 

もう一つ、これは神智学者ではありませんが、近代の代表的なオカルティスト

であるダイアン・フォーチュンの批判を紹介しておきたいと思います。

 

<死は魂が肉体から撤退するときにはじまる。そして、「エーテル的ダブル」

という質料が崩壊していくが、たった今去ったばかりのこの世に、死者の関心

を呼び戻すのは、そのプロセスに悪影響を与え、その者たちを傷つけることに

なり、望ましくない>

 

<死者の魂は、新たな意識の段階に適応し、過去世の出来事の深い瞑想状態に

沈潜する。そして、第二の死が起こり、過去世の記憶とともに人格性が死滅し、

最後の純粋な精神、霊的な本性である個体性が残る。このような肉体の死後も、

長く続く離脱のプロセスに干渉することは、世を去った者の利益を害する生者

の利己心であり、是認できない>

 

しかし、次にように霊媒という言葉を肯定的に用いている場合もあるようです。

 

<霊媒が接触している霊的存在には二つのタイプがある。一つは、輪廻の谷間に

逗留しているだけの魂であり、もう一つは、もはや生死の輪に縛られない完成

された魂である。後者は、「個体性」に達した存在であり、その個体性を構成

する意識のレベルに触れた霊媒が輪廻再生に関する教えを受けることができる。

そして、そのような完成された魂からのみ、オカルティストは通信を求める>

 

もっとも、フォーチュンによると、高級な霊媒はスピリチュアリストではなく、

オカルティストなのであり、オカルティストは自分自身のマインドを特別に

訓練することで、実は自らの霊媒になるというのです。

 

つまり、フォーチュンの場合、死の直後から長く続くプロセスの途上にいる

死者の霊は否定的に論じられるが、遠い昔に地上を去って、進化のプロセスを

はるか先に進んだ霊については、決して死者の霊としては言及されず、別の名

で呼ばれるということになります。

 

なお、スピリチュアリズムから神智学への反論は、次回としたいと思います。

 

 


 
 
 
 
 
 
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動物の霊魂(動物霊)の真実


古代霊は語る ネコの死後はどうなるの?2 



動物が死んだあと、どうなるのか、あるいはどこへ行くのか、という問いに

対する包括的な記述を今まであまり目にしたことがありません。

 

しかし、スピリチュアリズム普及会公式サイトにおいて、動物の霊魂について

かなり詳しく述べられているので、その内容を紹介し、検討、比較してみたい

と思います。

 

「「シルバー・バーチの霊訓」の画期的な動物観」、そして、「動物に死後の

ゆくえと、動物の進化」のなかで次のように述べられています。

 

「動物は人間と違って肉体の死とともに存在が消滅します。人間のように

死後、“個”として存続することはありません。動物には人間のような霊的

構成要素がないため、死は存在の消滅を意味します。人間は死後も永遠に

存在し続けますが、動物は死によって「個別性」を失い、存在それ自体が

消滅することになるのです。」

 

「動物は死とともに、一度限りの個的存在としての歩みを終了します。

しかし、死によって肉体から抜け出た生命素(一種の霊)は、生命素の

大きな塊(グループ・スピリット)の中に吸収され、その一部分として

存在し続けることになります。」

 

「“死によって存在が消滅する”という表現は、「個別性」を基準としたとき

の見方です。人間には、神によって永遠に消滅することのない個別性が与え

られているのに対して、動物は肉体の死とともに個別性を失います。動物の

個別性は死をもって消滅しますが、生命素(一種の霊)はグループ・スピ

リットの中に溶け込んで存在し続けることになります。そして人間と比べた

ときそのスピードは遅くとも、グループ・スピリットとして永遠に進化の

道をたどることになるのです。」

 

(コメント)

<動物には、人間のような霊的構成要素がないため、個体性を失い、

存在自体が消滅する。ただし、死によって肉体から抜け出した生命素は、

グループ・スピリットの中に吸収され、その一部分として存在し続ける>と

いうことですが、まず、霊的構成要素がないというのはどういうことなの

でしょうか? 動物は、霊的な身体、つまり、幽体を持たない存在だと

いうことなのでしょうか? だとすると、それで、生前においても、

動物は感情を表現し、行動する生命体として存続できるのでしょうか?

それではまるで有機的なロボットのように思われますがどうでしょうか?

 

以前より何度か引用している水波一郎氏の霊魂学によると、動物も幽体

を所持しているとされています。(ただし、もう一つ上位の身体である

霊体はないということです。)

 

したがって、死後も決して消滅することなく、個体として存続し続ける

ということであり、霊魂としてのその活動の有様が、先に紹介した

「ネコの死後はどうなるの?」や「ガンバレ! 動物霊魂」に中で明らか

にされています。

 

「動物は人間にとっての“愛の対象”として創造された。」「人間が本当の愛

(利他愛)で愛するなら、動物はそれに応えて愛を返すようになり、人間と

動物は互いに愛の喜びを味わうことができるのです。」「これまでの地球の

実情は、そうした神の計画から大きく外れていました。現在では、本来は

愛の対象であるはずの動物が人間の“食料”にされています。神の計画の

中には、動物を殺して人間の食料にするというようなことは含まれていま

せん。動物に“生命”を与えたのは神であって、人間ではありません。

人間と同じように、動物の生命は神のものなのです。したがって人間には、

動物の生命を奪う権利はなく、動物を殺して食料とすることも許されて

いません。」

 

(コメント)

<動物は、人間にとっての愛の対象として創造された。よって、神の計画に

動物を殺して人間の食料にするというようなことは含まれていない。動物に

“生命”を与えたのは神であって、人間ではない。したがって人間には、

動物の生命を奪う権利はなく、動物を殺して食料とすることも許されて

いない。>ということですが、これは真実でしょうか? 現実をきちっと

踏まえたものになっているでしょうか? 

 

水波氏の霊魂学では、人は物質界に降りたがために、殺されたくはない

他の生命体の生命を奪わなければ生きられない存在になったとされて

います。植物でさえ、幽体を所持し、他の生命体に食べられたくないと

いう意識を持っているようなのです。

 

これは、罪ともいえるような人類が持つ根本的な矛盾であり、この大きな

矛盾を霊的な進歩向上への修行を進める中で、どう解決してゆくのかが

問われているということです。

 

いくら利他愛を叫んでも、肉体をまとっている以上、その愛は他の生命体

よりも己の生存を優先しようとする自己保存の本能がそれに制限を加えて

しまいます。

 

よって、動物や植物を愛の対象として認識しても、愛情をもって接しようと

しても、それだけでは真の解決にはならないのです。動物への虐待や虐殺は

論外ですが、たとえ、食べようとしなくても、人は己の生命行為そのものが

他の生命体の犠牲の上に成り立っているのであり、たとえば、己が少し動く

だけでも、息をするだけでも、他の生命体を殺してしまうことになるのです

から、問題を観念的に、主観的に捉えていたのでは、必ず自己欺瞞に陥って

しまいます。

 

かつて、古代のインドでは、ジャイナ教徒が徹底した不殺生を実践しようと

したようですが、やはり、他の生命体を食さざるを得なかったはずですし、

知らず知らずに殺生をせざるを得なかったように思われます。

 

よって、そのことを本当に実行しようとするなら、それは自分の死と引き

換えにする以外にないのではないでしょうか?

 

「動物は、肉体の死とともに個別性を失うことになりますが、地上で生命体

を成り立たせてきた生命素は、その集合体である“グループ・スピリット

(集霊)”の中に吸収されます。そのとき人間から愛を受けてきた動物の

生命素は、グループ・スピリットの進化を促すことになります。」

 

「動物のグループ・スピリット(集霊)は“種”ごとに異なっており、その

中で最も進化しているのがイヌのグループ・スピリットです。人間はイヌや

ネコをペットとして愛することによって動物の進化に貢献し、同時に神の

創造の業に参加しているのです。」

 

「ペットとして人間にかわいがられた動物の死後は、家畜や自然界の野生動物

とは状況が違ってきます。“人間の愛”によってある種の霊的要素が動物の生命

素体に吹き込まれ、個別性が強化され、死後もしばらくはそのままの外形

(ある種の幽質の身体)を維持します。」

 

「こうした幽界の動物たちは、自分を愛してくれた人間が霊界に来るまで、

その姿で待ち続けることになります。そして飼い主は、他界直後にかつて

愛したペットの出迎えを受けるようになります。人によってはその後も

しばらく、幽界で愛するペットとともに生活を送るようになります。」

 

「やがて、霊界入りした飼い主の意識と関心が徐々に地上世界から薄らぎ、

それと同時に「霊的成長」への意識が目覚めるようになります。」「すると

幽界でともに過ごしているペットに対する愛情も自然と薄らぎ、それに

ともなってペットは姿を消すようになります。このときの別離には、地上

で体験したような悲しみはありません。こうして人間と別れた動物は、

それまで維持してきた外形を失い、生命素は、グループ・スピリットの

中に吸収されます。」

 

(コメント)

ペットと家畜や野生の動物とは、死後の状態がことなるようです。ペットは、

人間の愛によってある種の霊的要素が生命素に吹き込まれ、個別性が強化され、

死後もそのままの外形を維持して存続するが、やがて、他の動物同様、グループ

・スピリットの中に吸収されていくというのですが、ペットを愛する者の願望と

してなら理解できますが、少し無理があるように思われます。

 

端的にいうと、人間の愛には特別な力があって、それによって動物、とりわけ、

ペットは進化を促されるという論理ですが、どうなのでしょうか?

 

水波氏の著書「ネコの死後はどうなるの?」では、飼い主の愛情がペットの進化

を促すという我々の思い込み、願望とは逆に、次のように記されています。

 

「この世の猫や犬を真の意味で救うために、人間の出来る事は、一つしかない

のでした。飼い主が猫や犬の霊魂から見て、眩しく見えるような幽体の所持者に

なることでした。そうなれば、猫や犬達も、死後、より上の世界に入る事が

出来るのでした。」と。

 

生前、いくら人間がペットに愛情を注いでも、人間自身が霊的トレーニングを

行うなどして幽体を輝かせないと、ペットは、死後、進化するどころか、

人間とともに辛い世界に行き、苦しむことになるというのです。

 

なかなか、今までの常識を覆すこのような見解は受け入れにくいかも

しれません。

 

しかし、私自身も大のネコ好きで、今も精一杯愛情を注いでいるつもり

ですが、そのことが絶対にネコの死後の幸福をもたらすというのは願望の

ように思えてなりません。

 

したがって、本当にペットたちの幸福を願うなら、厳しい現実を重く受け

止めなければならないのではないかと思います。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
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テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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