FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「人類は消滅すべきか」


にほんブログ村  

人類消滅

(水波一郎 著 アマゾン 発売)



「人類は消滅すべきか」というタイトルは、非常にセンセーショナルな響きを

もっています。また、一方で、現実から遊離したテーマのようにも思えます。

 

しかし、そう思う前に、現実を直視してみてはどうでしょうか。資本主義の

高度な発達に伴う現代文明の危機というものを考えてみてはどうでしょうか。

 

現代文明は、近世以前には考えられなかったような利便さや、快適さをもたらし

ましたが、一方で、共同体の崩壊と万人が万人の敵となる競争社会を到来させ、

また、工業社会の持つ弊害や矛盾を露呈させたといえます。

 

大量生産、大量消費により地球環境に大きな変動をもたらして大規模災害を

引き起こし、また、大量の汚染物質が巻き散らかされ、大気汚染、水質汚染、

土壌汚染が深刻化し、他の生命体や、人類自身の生存を脅かすほどになり、

とりわけ、核兵器の開発は、人類の存亡の危機をもたらしました。

 

よって、20世紀末には、ノストラダムスの予言なるものが、世の中を

にぎわし、人類滅亡、日本沈没などがまことしやかに叫ばれたのでした。

 

結局、人類は滅亡こそしませんでしたが、その危機が去ったということ

ではなく、逆に、その危機は増しているとさえいえます。

 

一方、死後の世界があるとして、そこに目をやると、どういう状況なの

でしょうか?

 

近・現代世界の急激な変化を目の当たりにした人間が、どんどん死後の

世界の住人になっていくとすると、死後の世界も大きな変化を起こして

いる可能性があります。

 

本書によると、この世は、近代以降、とりわけ、近年において、物理的な

環境の悪化と併せて、霊的にも著しく汚れが進み、大気が有害物質で汚染

されているように、汚い幽気(霊的な気)が蔓延しているというのです。

 

神の存在を否定し、唯物論が支配する社会、個と個が対立する過度の競争

社会の中で、怒りや恨みや妬みの想念をお互いにぶつけ合うことによって、

肉体と重なっている幽体という死後使用する身体が傷つき、一方で、上記の

ような低く汚れた幽気しか吸うことのできない多くの現代人は、死後、その

汚れ傷ついた幽体が順応できる低い世界にしか行けないようなのです。

 

つまり、悪行を犯した人が死後、地獄のような世界へいき、善行をなした人、

人格のすぐれた人が高貴な世界へ行くというのではないということであり、

死後、使用する身体である幽体の成長度と健全度によって行く世界が決まる

ということです。

 

ともかく、多くの人が行く世界は、とても恐ろしい世界で、その恐怖から

何とか逃れようと必死になるようであり、そこから抜け出した霊魂たちが

地上を徘徊しているのが現状であり、その霊魂たちによる地上の人間に

対する干渉と、それによる霊的な障害が深刻化しているというのです。

 

このような主張は今まであまり聞いたことがなく、霊的に新時代に入った

とか、新次元に入ったとか、楽観的な話ばかりです。

 

スピリチュアリズムなどにおいても、死後の世界は、かなり楽観的に捉え

られていたように思います。

 

普通に死ねば、死は肉体からの解放であり、食べることも、働くことも、

眠る必要もない世界で、自由に楽しく暮らせるというようなことが言われ

ていたように思いますが、そのような楽観論は、もうまったく通用しなく

なったということになります。

 

もっとも、そういう自由で素晴らしい世界が存在しないということでは

ありません。しかし、今、人が普通に死ねば、その幽体の傷や不調によって

低い世界で恐ろしい苦しみを体験しなければならないのだそうです。

 

つまり、スピチュアリズムでは、地獄のような世界は特異な世界で、人が

心の中で作りだすものであったり、地縛霊が作り出す暗黒の世界であった

りするようなのですが、普通の人でも行くことになるような状況になって

しまったようなのです。

 

この世でも、百年もたてば、想像もできないほどの変化が起きてしまい

ますが、現在の死後の世界は、想像を絶するとんでもない状態になって

いるということです。

 

ところで、SF映画などで、エイリアンが地球を侵略しようとしますが、

ヒーローがそれを撃退して、地球と人類を滅亡から守るというような

ストーリーがよくあります。

 

しかし、これを逆の立場で考えてみたらどうでしょう。

 

地球人が宇宙全体の秩序を破壊したり、乱したりしていて、人類こそが

ガン細胞のごとしであるとすると、宇宙全体から見て滅ぼされるのが

正しいということにならないでしょうか。

 

また、地球上の動植物たちが、人間の横暴で身勝手なふるまいを見て、それ

をエイリアンのごとしと思い、人類の滅亡を望んでいるかもしれません。

 

そうなると、霊魂が存在するとして、その中に、それは悪い霊魂ではなく、

上層の霊魂であって、全生命体の幸福といった見地から、人類は、消滅した

ほうがいいと考えている者たちがいるとするのは、そんなに驚くべきこと

ではないともいえます。

 

逆に、下層の霊魂のほうが、干渉したり、弄ぶ対象がなくなっては困るため、

「人類の救済」を主張するのかもしれません。

 

本書のストーリーでは、こういった状況の中で、上の世界の霊魂と下の世界の

霊魂との主張の対立に巻き込まれた平凡な霊魂達が人類を救おうとして立ち

上がることになります。

 

地獄のような世界から脱出した未熟な霊魂が、地上(物質の世界)の感覚では

考えられないような霊的な世界の現実に翻弄されていくのですが、その先にある

ものは、「人類の消滅」か、「人類の救済」か、いったい、どのような結末を

迎えるのでしょうか?

 

とにかく、本書は、現在の霊的世界の現実が、古典的な霊的世界に対する楽観的

な見解とは大きく異なっていて、大変な状況にあること、そして、それはまさに

地上に生きる我々自身の危機でもあるということを強く訴えています。

 

本書は、多くの方に読んでいただきたいと思いますが、とりわけ、過去の固定

的な見解にこだわらず、現在進行中の死後の世界の真実をこそ見極めたいと

思う方には、是非、読んでみていただいきたと思います。

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スポンサーサイト

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

グノーシス主義と現代


にほんブログ村

異端と近代






 


以前に「グノーシス主義の衝撃」いうタイトルで、グノーシス主義とは、

いったいどういうものかについて、紹介したことがありますが、今回は、

グノーシス主義が、現代思想に、また、ニューエイジや精神世界にどの

ような影響を及ぼしているかについて触れてみたいと思います。

 

もう一度、グノーシス主義とは何かを振り返っておきましょう。

 

ハンス・ヨハスというグノーシス主義の研究者の定義によると、それは

「反宇宙的二元論」という概念に集約されるというものです。

 

どういう意味かというと、一神教では、宇宙のすべてが善なる神ヤハウ

被造物であり、この世も人間も善なる神の大いなる働きの下にあるとされる。

ところが、グノーシス主義は、プレローマ(未分化で自己充足的な完全なる

世界)から、決定的な失墜によって私たちが生きる世界(現世)が分離し成立

したとする。たとえば、ヤハウェにあたる創造神ヤルダバオート(デミウルゴス

)は、実は、悪のエージェントであるとされ、悪が支配するこの世界で人間は

悪にまみれて生きざるをえないとされる。しかし、他方、人間の中には、この

世界をはるかに超越した完全な実在世界の「原人」の断片が宿っている。それ

こそ汚れなき本来の自己であり、そのことを認識して超越界に回帰する道を

見いだすための「霊知」すなわちグノーシスが求められるというものです。

 

さて、島薗進氏によると、グノーシス主義は、キリスト教が生まれた西暦紀元

前後の時期に、地中海地域の東方に発生し、2~3世紀には地中海世界の全域

や西アジアにも広く影響を及ぼすようになった一群の宗教運動、宗教思想の

系譜の総称ですが、それは、キリスト教やユダヤ教といった一神教の世界観が

この地域に広まっていった時期と重なっており、グノーシス主義はあたかも

こうした一神教のネガの映像を映し出すような宗教性を持つものであったと

しています。

 

そして、そこには、当時のヘレニズム世界の「関係の危機」、つまり、既存の

世界秩序の崩壊の危機を反映してか、救済宗教としての「救済」の理念は保持

されているが、古代にはまれなニヒリズムが共存しており、それゆえに、その

後の西洋史の「陰」の部分を担う有力な思想系譜として今日まで至っている

ということです。

 

宗教集団として存続したものについては、キリスト教とほぼ同時に創始されたと

推測されるマンダ教、3世紀にイラン人マニによって創始されたマニ教などあり、

その後、やや力が衰えたとはいえ、グノーシス主義の影響を受けた思想は、

キリスト教と対抗する異端思想の有力な系譜であり続けてきたとしています。

 

では、グノーシス主義と現代文化や新霊性文化(ニューエイジ・精神世界など)

が具体的にどのような相互関係にあるのでしょうか? どこが重なり、どこが

異なるのでしょうか?

 

島薗氏は、1.孤独な個人が自ら自覚して変容して高次の存在に近づいていく

こと、2.この世の集団や組織による束縛を嫌い、自由な精神的探究による

向上を求めていくこと、の2つの特徴に注目しながら考察をしています。

 

まず、我が国に目を向けて、援助交際を素材にした作品「イノセントワールド」

や「酒鬼薔薇聖斗」の事件を取材した作品「14 fourteen」などに

触れ、そこには、「牢獄としての世界とそこでの汚辱に満ちた生」、「その中に

あって汚辱にまみれても本質はいささかも汚さず、世界を拒絶し、無垢なまま

であり続ける霊(精神)」、というグノーシス主義的な実存形態があるとする

学者たちの見解を引用しています。

 

ただし、これらの作品の作者自身がグノーシス主義に直接親しんだ気配はなく、

島薗氏は、学者たちが、現代の若者の孤立感を凝縮した形で表現することに

よって、いつのまにか、彼らの「グノーシス主義」風の心象世界の、実存的

な形象化に至ったのではないかと述べています。

 

もっとも、現代人の実存とグノーシス主義の類似が取り上げられたのは日本が

最初ではなく、ハンス・ヨナスがその著書「グノーシスの宗教」(1964年)

ですでに述べていたいということです。

 

ハンス・ヨハスは、古代のニヒリズム(グノーシス主義のこと)との長い対話は

現代におけるニヒリズムの意味を理解し、位置づけるのにきわめて有用であった

と述べており、グノーシス的イメージとして最初に上げられるのは「異邦のもの

」というイメージであるとしています。

 

島薗氏は、ハンス・ヨハスのイメージは、先に述べたような日本の若者文化や

サブカルチャーの作品世界にも当てはまるようだとしながら、実存主義や

ニヒリズムが唱えられたかつての先進社会では、まずは少数の知識層や

エリートたちが「選ばれた者」の孤独と絶望を囲っていたが、20世紀の

末に至って、膨大な数の大衆文化享受者の間に「異邦のもの」の誇りと

自暴自棄が広まるようになったのではないかと言い、90年の日本で、

グノーシス主義との類縁性を感じさせる表象や物語がかくも魅惑的に立ち

現れたのは、このような事態によるものだろうと述べています。

 

もうひとり、先駆として、「異邦のもの」とよく似た意味を持つ「アウト

サイダー」というタイトルの書を1956年に世に出したコリン・ウィル

ソンを取り上げています。

 

コリン・ウィルソンも、「アウトサイダー」で、最初に、実存主義の問題を

取り上げ、心身の修練や神秘体験によってアウトサイダーであることを克服

し、真の「自己実現」を生きようとする試みやその挫折へと展開していく

のですが、のちには、「オカルト」、「至高体験」、「ミステリーズ」などの作品

を著わして、「現代のオカルト学」、すなわち新霊性運動・文化を提唱するに

至っているということです。

 

島薗氏は、最後に、ニューエイジ運動におけるグノーシス主義の影響について

考察しています。

 

特にニューエイジ運動のチャネリングの元祖的存在であるジェーン・ロバーツ

を通して語りかける「セス」と名乗る「エンティティ」(「霊」と呼ばずに

「エンティティ」(=実体)と呼ぶことが多い)のメッセージに焦点を

当てています。

 

まず、セスいう名ですが、旧約聖書でカインとアベルに続くアダムの第三子と

され、ノアを通して後の全人類の祖となるはずのセト(セツ)と同一名であり、

グノーシス文献のなかではしばしば重要な役割を果しているということです。

また、エジプトのオシリス神話のセトをさす語とも同一であり、輪廻の教えを

はじめとして、「古代の文書」に由来する諸思想に強い関心を示すロバーツの

チャネリングが、セスの語りとして示されるのはうなずけるとしています。

 

また、セスは、グノーシス主義そのものや、グノーシス主義に強く引き寄せ

られたことにある心理学者のユングには、人類史に伴う神の進化の考え方など、

何ほどかの関心をもっていることがわかるとしています。

 

しかし、突き詰めていくと、「悪の実在性」をめぐって大きな見解の相違が出て

くるというのです。「悪の実在性」という問題は、「セス」にとってきわめて

重い関心事で、悪は堅固な外的リアリティとしては実在しない。それは人々の

想念、すなわち、内的行為としての意識によって、そのつど仮のものとして

創造されるというものであり、この世での悪に支配を強調するグノーシス主義の

考え方と明らかに対立することがわかります。

 

この悪は仮のものにすぎないという考え方、そして、意識が現実を創るという

考え方は、19世紀後半に起点を持つ北米の「ニューソート」や「キリスト教

科学」の思想との類似があるとしています。

 

ただし、これらの思想は、悪の実在性を否定し、誤った観念が創ったものとする

点でグノーシス主義とは異なるものの、本来的な自己は神的・霊的な性質をもつ

ということ、そのことを「知る」ことが人生の鍵であり、人間の究極の課題である

とする点では、類似性があると述べています。

 

もうひとつ、セスとジェーン・ロバーツが影響を受けているものには、神智学

協会の思想があるようです。生まれ変わりと霊的進化の思想は、グノーシス主義

には見られないものですが、神智学協会の創始者のブラヴァツキー自身が、グノ

ーシス主義を重視していたところから、悪をこの世の基底にある物質的なものと

結びつけているという点、霊智により人間が自己の本来の由来を知り、物質的な

世界から昇華されていくことに救いを見いだしている点などに類似性がある

だろうとしています。

 

このように、ハンス・ヨナスは、実存主義にグノーシス主義と類似するものを見い

だし、その後、何人もがコスモス(宇宙像)から切り離された裸の個の不安をグノ

ーシス的なものとして表現してきたが、グノーシス主義と実存主義とでは、そこ

には決定的な違いがあったようです。

 

どちらも、よりどころのない「自己」ではあるが、グノーシス主義では、それは

神的リアリティを内に宿した「自己」であった。「神なる自己」は関係の崩壊の

中でも、確固たる不死性を確信できた。しかし、実存主義は、神はすでに死んで

いて、あとは超人の道しかないという、徹底的した人間中心主義の思想である

と述べています。

 

ところで、私がグノーシス主義で関心をそそられたのは、「存在しない神」が

存在するという逆説な表現であり、多くのグノーシス神話はここから始まる

ようです。

 

それは、グノーシス主義が奉ずる至高神が通常の人間の表現能力はもちろん

のこと、それまでのさまざまな宗教や哲学の中で神について行われてきた

あらゆる言説、さらには当のグノーシス主義者たち自身の表現能力さえも

越えるほどに超越的な存在であることを何とかして言い表そうとしたところ

にあるということです。

 

水波霊魂学を提唱する水波一郎氏は、以前、紹介したことのある「神体」など

の著書で神霊という存在について述べています。神霊は、一般人には認識する

ことはできない存在であり、人が霊的修行によって霊的身体を著しく成長させ

て、初めてそれを感知することが可能になるとされています。

 

よって、人がいう神は、己が創り出した観念的な神か、人が死後行く世界

(幽質界)の上層の存在を神と呼んでいる場合が多いようなのです。

 

死後の世界には、幽質界の上位に霊質界があり、さらにその上位に神質界が

あって、その神質界に神霊は存在するということです。

 

至高神は、まだその上位にあるとすると、まさに存在しえないがごとしでは

ないかと思います。

 

グノーシス主義の知りえない神は、他の宗教勢力との対抗上考え出されたもの

なのか、あるいは何らかの霊感が働いたのかは定かではありませんが、この

ような真の神を求めようとする視点は注目するべきではないかと思います。

 

 

 











 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

団塊の世代と宗教嫌い-宗教か、新霊性文化か-


にほんブログ村



スピリチュアリティの興隆
 
 
 
私自身もその端くれなのですが、昨今、「団塊の世代」があれこれと話題に

上ることが多いようです。

 

団塊の世代とは、第二次世界大戦後の数年間の、いわゆるベビー・ブームの

間に生まれた世代のことですが、その一時期に極端に増えた人口の影響は

大きく、近年では、大量の退職者による年金制度への影響や、技能や人脈の

喪失などが問題視されてきました。

 

そんな中で、最近、高齢者の犯罪の激増や、その自殺率の高さが問題視され、

団塊の世代の未来は決して明るいと言えないようです。

 

ところが、団塊の世代は、昔であれば、老後、そこに光明を、よりどころを

見出してきたであろう宗教というものが嫌いなのです。おそらく、現代の日本

に暮らすすべての世代の中で、いちばん宗教が嫌いなのではないかと言われる

くらい嫌いのようなのです。

 

その理由として考えられることは、一つには、戦前の極端な精神主義への反発

と、経済力が弱かったから戦争に負けたという思い込みからか、経済至上主義

になったことであり、もう一つは、こういう社会のあり方に反発するところ

から、マルクス主義を信奉する人々が多く生まれことによること、つまり、

左右の唯物主義から、宗教は挟み撃ちにされ、宗教嫌いになったという

ことのようです。

 

では、団塊の世代が宗教的なものにまったく関心がないかというと、そうとは

言い切れないところがあります。私自身の経験から言っても、宗教は嫌いなの

に死後の行方といった神秘的な事柄や自己の変革、変容につながると思われた

霊的、宗教的修行法にはなぜか非常に関心があったのです。

 

さて、この宗教嫌い、宗教離れは、団塊の世代に限ったことではなく、全体的

な傾向でもあるということです。

 

以前の紹介した「精神世界のゆくえ」の著者で宗教学者の島薗進氏も、諸統計

を見ると、人々の宗教離れが進んでいるのではないかと述べています。

 

しかし、それも違った角度から見ると、様相は異なっており、若者などの

神秘的なものへの親しみに注目すると、はっきり増加傾向を示していると

いうのです。

 

つまり、「宗教」や「信仰」という言葉に好ましくない響きを感じる人が

増えているが、広い意味での宗教的なもの、霊的なもの、精神的なものへの

関心は少なくとも減少はしておらず、むしろ高まってきているらしいと

いうのです。

 

これは、いったいどういう意味を持つのでしょうか?

 

島薗氏は、宗教団体は好まないが、「霊性」や「精神世界」の探求、育成には

熱心に取り組む、個人主義的な求道者が明らかに増大している。すなわち、

ニューエイジや精神世界といった新霊性運動、新霊性文化の潮流が近年着実

に成長してきており、「宗教離れ」の顕著化と「宗教的」実践の増大や神秘へ

の関心の増大ということが昨今の統計に反映していると解釈できるとして

います。

 

ところで、ニューエイジや精神世界など新霊性運動に関わる人たちの多くは、

このように既存の「宗教」を否定し、宗教を「超えて」いこうという考え方に

立っているようですが、立場によってかなりの相違があるようです。

 

集団や持続的なネットワークを形成しながら、新霊性運動的な実践を長期に

わたって続けてきた人もあれば、もっぱら学問的な著述や評論や電子メディア

による情報発信・情報交換を通して新霊性運動に類する思想の鼓吹の務めて

いる人々もいるということです。

 

前者は、「宗教」に近い位置から「超宗教」の方へ歩んでおり、後者は、

「学問(科学)」に近い位置から「超宗教」の方へ向かっています。

 

そして、「超宗教」がどのようなものであるかについても、かなり相違が

あるのですが、逆に、「宗教」批判に関しては、主張に一致するところが

多いようなのです。

 

その批判点をまとめると次のようになるということです。

 

<a「宗教」は本来、個々人が自由に出会うべき宗教体験、神秘体験をゆがめ、

真理はすでに決定されているとし、啓示や教義の枠をはめ、個々人がそれに

従い、信仰することを強制する。>

 

<b「宗教」は人々に対して、カリスマ的指導者や教団組織のような一元的

権威に依存服従し、自由な思考や実践を放棄するとともに、弱者への差別を

正当化したり、集団外の人々を敵対視するよう促す。>

 

<c「宗教」は人間だけを超越者に接近できるものとして特権化し、他の

自然的存在を価値のないものとして軽んじ、人間による自然の支配や搾取

を正当化し、自然との調和的交流を妨げる。>

 

<d「宗教は人間の悪や苦しみを強調して諦めの姿勢を強い、ありもしない

(あるかどうかわからない)救いなるものを約束して偽りの満足を与えて、

人々を「ほんものの自己」や本来的な生の喜びから遠ざける。>

 

しかし、これらには、当然、「宗教」の側からの反論があるであろうといい、

また、そのことによって、「宗教」批判者の弱点も明らかになるであろうと

して、予想される反論を次のように述べています。

 

<a 宗教体験や神秘体験とされるものは、聖なるものとの無制約的な直接的

接触であるかもしれないが、そうでないかもしれない。宗教体験に類するもの

は、さまざまな手段によって得られる。変成意識状態は薬物や過呼吸によって

も得られるし、病的な幻影に取りつかれている人もいる。そうした「体験」の

「ほんもの」性は何を基準として判定できるのか。>

 

<b 自由な思考や実践は、まったく形のないところから作り出されるものでは

ない。何らかのモデルや規範にしたがうところから、自由な思考や実践に必要な

型が身につけられ、技が磨かれていく。また、他者との創造的な共同行為の能力

は、他者との持続的な関係のなかから養われていく。こうした型や技や能力、

より広くは「生の形」を身につけるには、何らかの権威秩序に服し、持続的な

共同行為に参加し、訓練を受けたり学習したりする必要がある。また、「宗教」

が必ず依存・服従や差別・敵対・暴力を招き寄せるとは限らない。>

 

<c 日本こそアニミズムや「森の思想」のようなエコロジカルな宗教性が

根強く、人類文明の未来を明るく照らし出す国だとよく言われるが、神の創造

になる世界への畏敬の念を鼓吹した中世キリスト教や、その他の東方キリスト

教会のように、歴史宗教が宇宙・大自然の聖なる秩序の観念を支えてきたと

いう側面もあり、諸歴史宗教がどのような意味で自然破壊に加担したといえる

のか、むしろ、自然への畏敬心を養ってきたといえないかどうか検討してみる

必要がある。>

 

dについては、まとまった形では反論は述べられていませんが、それは一言で

いうと、逆に、「悪の不在の誇張」ではないかというものです。かつて、人々

の念頭を離れなかった戦争や災害や疫病や飢饉のような「共同的な悪」に対し

て、競争社会での成功や失敗、あるいは評価や失意の経験における「私事悪」

のほうが切実であると感じる人が増大してくるなかで、快美としての善の要素

に関心を集中させて、被害感やルサンチマンから逃避しようとするものでは

ないかというものです

 

つまり、「悪の不在の誇張」、あるいは「ポジティブな思考」によって、意識

の奥深く潜む「共同悪」の経験と記憶を覆い隠すことができるのか、「病める

魂」の救済というものに深くかかわってきた「宗教」というものを否定できる

のか、ということではないかと思います。

 

私自身の思いとしては、かつては宗教嫌いではありましたが、今は、「宗教」

の側の肩を持ちたいと思います。「救い」から「癒し」へ、ではなくて、

「救い」をこそ求めたいと思っています。

 

といいますのも、以前、紹介しました水波一郎氏の「神体」などの著書に

よりますと、肉体を持たない霊的な存在であった人という生命体が地上

(物質の世界)に降り、肉の身体を所持したところからあらゆる苦悩が

はじまったとされています。

 

そこから、己の生命を維持するため、他の生命体を犠牲にし、また、人間同士

で奪い合い、傷つけ合わなければならない存在になったというのです。

 

そうすると、我々の「悪」、というより、その「カルマ」、あるいは「罪」に

よる苦しみの根源は恐ろしく深いということになります。

 

そうなると、「癒し」に象徴される、単なる心、思いの転換、あるいは一時的

な至高体験などでは解決せず、それを超克するためには、「カルマ」や「罪」

を浄化し、救いを得るための長きににわたる努力、すなわち、霊的トレー

ニングによるたゆまぬ研鑚が必要になると思います。

 

よって、今の宗教のあり方には多くの問題があるにしても、従来より、

宗教が一貫して追求してきた、「悪」や「罪」、「カルマ」という

ものを正面から捉え直し、まず、真実を知る、その根源的な矛盾の

深さを知ることが大切なように思われますが、どうでしょうか?

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

修験道と現代


にほんブログ村





 現代の修験道
 








日本固有の山岳信仰に、神道や外来の仏教、道教、陰陽道などが混淆して

成立した民族宗教である修験道は、古代から中世にかけて盛んになり、近世、

つまり、江戸時代に至って頂点に達し、仏教は、半分くらい、修験道が担って

いるといわれるほどであったようです。

 

しかし、近代、すなわち明治以降になって急速に衰退し、これまでの評価を

落としていきます。

 

それは一体なぜなのでしょうか? どういう理由があったのでしょうか?

 

「現代の修験道」の著者の正木晃氏によると、まず、仏教は、真言宗や浄土

真宗をはじめとする「宗派」によって担われてきたという思い込みがある。

言いかえれば、寺と僧侶のみが仏教の担い手だったという思い込みが、

修験道に対する不当な評価を育んできたのだということです。

 

そして、そういった思い込みの背景には、明治5年の修験道廃止令によって

修験道に徹底的な弾圧が加えられたことにあるとしています。

 

明治初年の宗教政策というと、神仏分離令や廃仏毀釈があげられますが、

このとき修験道が公的に抹殺された事実は、ほとんど知られていない

ようです。

 

明治維新において、政府は、神道イデオロギーによって主導するため、まず、

1200年以上も続いてきた神と仏の蜜月状態、すなわち神仏習合に矛先を

向け、それを分離させようとしたが、日本の数ある宗教の中で、神と仏が

もっとも親密に結びついてきたのが修験道だったため、徹底的な弾圧が

加えられたということです。

 

文明開化の名のもとに、欧米にならって近代化を急ぐ明治政府とすれば、

確固たる宗教哲学もなく、もっぱら呪術を駆使しているようにしか見えない

修験道は、宗派宗教のような本山と末寺が分かちがたく結びついた本末関係

を持たなかったゆえに、解体するのは容易であったようです。

 

もっとも、修験道廃止令そのものは、明治29年に撤回されたようですが、

このときに修験道が受けた傷は非常に深く、今日にいたるまで、完全に癒

されたとは言いがたいとしています。

 

ともすれば、私たちは、現行の宗派中心の仏教のあり方を当然視し、遠い

時代からそうだったと思い込みがちであるが、事実は大きく異なり、今の

ような形態になったのは明治以降にすぎず、それ以前はまったく違って

いたということです。

 

江戸時代に一体どれくらいの数の修験者がいたかということについては、

一説では、最末期で17万人いたということです。この説の確認作業は

終わっていないようですが、とにかく、現在では想像もできないくらい

多くの修験者たちが活躍していたことは確かなようです。

 

江戸時代の修験道は、幕府の統制政策を受けて、当山派修験道(総本山は

醍醐寺)と、天台系の本山派修験道(総本山は聖護院)の二つに統合され

たということですが、民衆にとって、その両派の区別はほとんど意味がなく、

日々の暮らしに直結する現世利益と後生安楽の期待に応えてくれるか否か

だけが問題であったはずです。

 

かくして、修験道は、宗教とも習俗ともつかない領域にたずさわることで、

直に民衆に接し、同時に、この領域を媒介として、宗派仏教と民衆との接点

になっていた、よって、修験道は長きにわたり、民衆仏教の主たる担い手で

あり続けたとみなしたほうが正しいと正木氏は主張しています。

 

ところで、正木氏は、このような修験道は、現代、復活の機運にあるとして

います。時代が修験道を再び求めているというのです。

 

正木氏は、従来のような共同体のための宗教や、原理主義的な宗教ではない、

21世紀の宗教として、六つの要件をあげていますので紹介しておきたいと

思います。そして、そのあとでその問題点などを述べてみたいと思います。

 

六つの要件とは、<参加型の宗教>、<実践型の宗教>、<心と体の宗教>、

<自然とかかわる宗教>、<総合的・包括的な宗教>、<女性の視点・考え

方を重視する宗教>というものです。

 

その意味を要約すると次のようになります。

 

<参加型の宗教>

平安時代の仏教は坊さん中心のプロフェショナルの宗教で、鎌倉新仏教は、

指導者はいるが庶民・大衆が中心の宗教でアマチュアの宗教といえるが、

どちらも欠陥がある。プロとアマの交流が必要である。プロがすばらしい

技能をもちながらも、それを独占したり誇示したりせず、アマと仲良く

して、両者の間が切れないような関係ができれば素晴らしい。

<実践型の宗教>

明治維新以来、仏教研究・宗教研究は宗教哲学、つまり、理屈ばかりやって

きた。だから、行を中心とする過激な集団が出てきたとき、まったくといって

いいくらい対応できなかった。行の研究が多少あったとすれば、禅の研究ぐらい

である。しかし、そこにはある限界がある。もし、修験道が明治維新以前のよう

な健全な姿で活動していたならば、日本の宗教地図は大きく変わっていたに

違いない。

<心と体の宗教>

心の時代というが、心を心で変えるのは大変だ。ところが、修行などによって、

体を少し変えていけば、心は大きく変わっていく。あるいは、心を変えれば

体も変わるし、体が変われば心も変わる。そういう相関関係を正しく認識した

宗教でなければいけない。

<自然とかかわる宗教>

環境破壊が進み、自然が破壊されていく21世紀においては、自然にまなざし

を注がなかったら、それは大きな欠陥になる。いいかえれば、信仰の純粋さや

真摯さゆえに、自然と関わらないというのでは、もはや通用しない。これから

の宗教は、自然との関係もきちんと捉える宗教でなければならない。ただし、

自然に関わる宗教といっても地域に限定された素朴で原初的な宗教、すなわち

アニミズムやシャーマニズムでは圧倒的な近代化の波に対応しきれないので

あり、普遍性を併せ持つ必要がある。

<総合的・包括的な宗教>

これからの宗教は、総合的で包括的でなければいけない。何か一つだけとって

これだけやればいい、あるいは、他の宗派を排除するというタイプの宗教は、

ともすると原理主義の罠に陥ってしまいがちである。したがって、包括的で

総合的であることが、今後の宗教に求められる要件の一つである。

<女性の視点・考え方を重視する宗教>

人類お半分は女性である。21世紀にもなって、女性蔑視や女性排除は通用

しないし、女性の視点や考え方を重視できなければ、宗教として存続できない。

(従来は、修験道というと女人禁制というイメージがあったが、現在では、

ほとんどの行場は、女性に対してオープンになっている。)

 

正木氏は、以上の六つの要件を検討してみると、どの点においても、もともと

修験道はその理想に近いと言います。

 

ただし、それは「もともと修験道は」であって、現代の修験道は残念ながら、

六つの条件を完璧に満たしているとは言いがたいとしています。

 

しかし、修験道の未来はいたって明るいと言います。開祖の役行者がこの世を

去られてから1300年、21世紀を迎えた「日本仏教」は、今まさに大転換

期を迎えつつあると感じざるをえない。それは第二の大乗仏教運動といっても

いい。少なくとも、日本の仏教者は、これくらいの気概をもたなければならない

と主張しています。

 

もし、それができないというのであれば、「日本仏教」は死滅し、過去形で語ら

れる存在になり果てるだろう。しかし、修験道には、常に民衆と深く関わって

きた歴史がある。「上求菩提、下化衆生」(おのれの悟りを求めることと、人々

を救済することは一つであるという意味)の精神がある。この歴史をよく

見つめ、第二の大乗仏教運動を展開しようと訴えています。

 

以上、正木氏の主張する21世紀の宗教の条件、すなわち現代の修験道のあり

方を紹介してきましたが、そこには問題点、つまり、足りないもの、忘れては

いけない要件があるように思います。

 

人は他者に迷惑をかけないかぎり、どのような宗教を信じようとまったく自由

なのですが、現代において霊的、宗教的修行を語るときに忘れてはならない

ことは、この前、紹介した水波一郎氏の「瞑想の霊的危険」のなかで警告され

ていたように、昨今の著しい霊的な環境の悪化ということではないかと思います。

 

水波氏は、おおむね次のように述べています。

 

<古代であれば、熱心な信仰者も大勢いたであろうから、そうした祈りに

よって、相応しい幽気が降りる場所も多かったに違いない。神山とか霊山とか

呼ばれている山は当然、高級な幽気で満ちていたと思える。>

 

<日本の最大の霊山といえば富士である。しかし、今の富士は穢れてしまった。

ある宗教団体の本拠地があったために、事件後、一般に人達の攻撃的な念が、

周辺に多量に集まってしまい、その念を見つけた邪悪な霊魂の数が、どんどん

増えてしまったからである。その上、信仰心のかけらもない人達が大勢集まって

しまった。この現象は、幽気の性質を下げるばかりでなく、人々に良い影響を

与えるような、高級な幽気を減少させる力となってしまったのである。>

 

<古来の技法に価値を持たせるには、まず幽気の性質を上げなければならない。

それなのに、世の中は益々逆の方向に流れて行くのである。>

 

かの富士でさえ、このような状態のようですから、他の霊山は言うに及ばす

ではないかと思います。

 

このように、かつては霊山と言われた山がことごとく穢れてしまったとする

ならば、まず、山に霊的な力を取り戻すことが大切であり、再び高級な幽気を

山に取り戻すことができたとき、修験道というものものに真の霊的な価値を

もたらすことができるのではないでしょうか?

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

役行者伝説


にほんブログ村


役小角読本





前回、紹介したように、公的に役小角について記述のあるのは、「続日本記」

のみであり、それも、小角は、弟子である韓国連広足により、事実を偽って

妖術で人を惑わしていると訴えられ、配流(島流し)された。また、彼は

鬼神を使役し、呪術で鬼神の自由を束縛したという風聞がある、という

非常に短いものでした。

 

よって、ここから小角の人物像を導き出そうとすると、歴史的資料にもとづき

当時の社会状況、政治状況から推測する形のかなり主観的なものにならざるを

えないということになります。

 

もう一つ、「続日本記」から30年ほど後に完成した、薬師寺の僧景戒の

編による仏教説話集「日本霊異記」のなかに、小角に関する最古の説話が

あります。

 

先に紹介した「役行者と修験道」においても、この二つを参考にしながら、

一つの役行者像が描かれていました。

 

著者の久保田展弘氏は、小角の修行には道教・神仙思想の反映が見られるが、

基本的には彼の仏法への篤い信仰が、絶え間ない山林修行によって究められて

いたことをうかがわせるとしています。

 

そして、小角が修めたという孔雀経の呪法に触れ、その伝来の密教の修法は

朝廷の呪禁師でさえ教えを乞うほどのものであり、請雨、止雨に際し、多くの

農民が待ち望んだものだったに違いない。しかも仏教、道教、神仙思想をも

融合していたと思われる彼の実践宗教は、奈良時代に入って、いよいよ具体的

なかたちを見せてくる神仏習合の先駆けでもあったと述べています。

 

しかし、「日本霊異記」は正史ではなく、仏教説話であり、それをどう解釈する

かによって異なった見解が出てくることになります。

 

今回は、少し違った役小角の人物像を紹介したいと思います。

 

さて、今回、紹介する藤堂一保氏の「役小角読本」では、資料を基本的な前回の

久保田氏と同様、「続日本記」と「日本霊異記」によりながらも、小角を在俗の

仏教修行者ではなく、神仙道修行者として捉えています。

 

「霊異記」は、いわゆる、仏教説話であるが、「続日本記」からさほど隔

たっていない時代に成立したため、空海の真言密教以前の雑部密教である

孔雀経の呪法を修めたとしながらも、一方で、神仙道の仙術をも修めたと

あり、道教・神仙思想の影響を否定していませんでした。

 

しかしながら、後世になると、小角にまつわる伝説は、彼が傑出した仏教者

であることを力説するようになったというのです。

 

<前世から山岳に籠って修行を重ねた小角は、舒明6年正月元旦、大和国に

生まれた。母が密教法具である独鈷杵ないし金剛杵が口に入る夢を見て生まれ

た子で、生まれながらに仏縁が深く、仏陀や聖徳太子がそうであったように、

小角も誕生後すぐに仏語をしゃべって人々を驚かせた。>

 

<幼いときから深く仏教に思いを寄せ、泥や草で仏像や仏塔を作って遊んだ。

人々を仏法に導くために、十代で山に籠って仏教修行に入った。山中では

孔雀明王の呪法を駆使して種々の不思議な験(しるし)を表し、鬼神を使役

した。その足跡は日本全土におよび、各地の霊山を開いた。云々> といった

具合です。

 

しかし、藤堂氏は、「続日本記」と「日本霊異記」、そして関連資料を注意深く

読んでいくと、とても、小角は仏教の超人、あるいは仏教系呪術者とはなら

ないと言います。

 

上記のような伝説上の仏教的小角像を払拭したのちの小角像は、従来、語り

継がれてきたものとは大きく異なっていて、小角の使ったとされる呪術も、

奇門遁甲や役使鬼術といった道教系の呪術であって、世間で流布している

仏教系の「孔雀の呪法」ではない。小角の生涯に立ち込めている匂いは、

道教、それも仙人になることを目標とした神仙道の匂いであって、仏教の

それではないとしています。

 

そこで、もう少し詳しく藤堂氏の描く小角の人生のアウトラインを紹介して

おきますと、次のようになります。

 

<役小角は、大和国に生まれた。生家は賀茂氏に仕える賀茂役君といい、のち

に高賀茂氏を名乗った。賀茂氏の氏神を賀茂の大神、またの名を葛城の

一言主神といい、国家のために託宣を行う朝廷の守神でもあったが、

この大神の祭祀や神憑りによる神託を取り次ぎ、呪術などを司祭する

のが小角の生家の仕事で、シャーマン色の濃い血筋の家柄であった。>

 

<こうした環境の中で、小角は先祖から伝えられた家職の神事や祭祀に

関するさまざまな知識を幼い頃から叩き込まれて育ったが、やがて、

それだけでは飽き足らず、大陸伝来の神仙道や道教方術にも強い関心

を示すようになった。>

 

<仙人に対する憧れは年とともに募っていったが、小角には継ぐべき家職が

あったから、夢は夢としてそっと自分の胸にとどめて十代、二十代は知識の

習得と家職である神への奉仕生活に明け暮れた。やがて、小角は、博学で

あるとともに、呪術面でも傑出した才能を発揮し、人々の声望を集めるよう

になっていった。>

 

<しかし、三十代のはじめころ、小角の身辺に、内容はわからないが、それ

までの人生観や価値観を一変させるような何らかの事件が起こった。その事件

を契機に、小角は、仙人になろうと心に決め、一切を捨てて葛城山-現在の

金剛山に籠った。>

 

<小角は、山中で過酷な修行に明け暮れた。まず、肉体を造り変えるべく、

道教でいう辟穀を実践し、松の実や松葉のほか、さまざまな草根木皮だけを

口にして露命をつなぎ、そして、山中をくまなく歩き回って仙薬の材料を

収集し、丹薬を練って服用するという日々を続けた。>

 

<丹薬を練って服する服餌と並んで、小角が最も力を入れて鍛え上げたのは

呪禁の力であった。呪禁とは気をもって万物を制御・制圧する法のことで、

肉体の変容後、小角の呪禁力は一気に高まったが、さらに、小角は、遁甲

方術など、もろもろの道教方術をおのれのものとしていった。>

 

<こうして、小角は、神仙道の外丹法と内丹法の双方を習得し、日本での最初

の本格的な神仙道家になった。>

 

また、小角の配流の理由についても、妖術で民衆を惑わしたからではなく、

朝廷が命じた各地の鉱物資源の調査に、大和の諸山に精通していた小角が

従わなかったからであり、それに朝廷が激怒し、罪をでっち上げて、小角の

弟子の韓国連広足に密告させたものだとしています。

 

先の説と比べると、完全に道教・神仙道にウエイトを置いた見解ではないか

と思われます。

 

しかし、呪禁道というものが、古代中国の民間呪法であり、それが道教の

なかに取り込まれていったということ、また、道教は、仏教が中国に入って

くるとそれと習合し、仏教は道教の方術を取り込み、道教のほうでも仏教の

呪術を取り込んだということ、さらに、日本に伝来してからも、呪禁の法は、

密教・陰陽道・修験道に吸収され、消滅していったことを考えると、どちら
がどちらへ影響を与えたか、ということを明確にするのは難しい
ように思い
ます。

 

よって、役小角は、密教や修験道を含む仏教的修行者であったか、あるいは、

神仙道修行者であったかを特定することはあまり意味があることではないよう

にも思われます。

 

より、重要なのは、日本の宗教史上で、小角が果たした役割、使命ではないか

と思いますし、外来ではない、日本固有の呪術、あるいは、神道の源流という

ようなものとの関わりはどうであったのかが気になります。

 

歴史・民俗学者の和歌森太郎氏は、著書「神と仏の間」において、小角に

ついて、彼は、古来の山岳信仰にこたえて、山中の霊界を操り、抑える

仏教信仰とは関係ない呪術師であったのである。それは、中国から伝来する

方術や、仏教の真言呪法に触れる以前から、固有の呪術を操るものであった

ろう。それは、あるいはシャーマンの類であったかもしれない。こうした

ものの存在が、後の修験者、山伏の祖型になるのである。役小角自身は山伏

修行者ではなかったけれども、すぐれた山の固有的呪術師であったという点

で、後世輪をかけてその呪術が喧伝され、山伏の祖師のようになったのだと

述べています。

 

また、霊魂学の水波一郎氏は、旧著「大霊力」のなかで、役小角が果たした

使命について次のように述べています。

 

<小角は、独自の密教を開発した。それは神伝密教である。彼は、仏教思想の

深さに惹かれ、いったん神道を捨てて仏教へ参入した。>

 

<しかし、彼には、疑問があったという。インドで生まれた仏教の神、そして、

仏は、日本にまで出張してくるだろうか。日本の神の怒りに触れないだろうか。

彼は悩んだ。しかし、日本の神は、仏教の仏に違いない。日本の神に仕える

眷属は、仏教でいう神々に違いないという結論を出した。彼は両者を同一の

存在と見破った。>

 

<そして、それから一挙に進歩した。精神的な壁を破ったのである。彼の生涯は

仏法と神道の融合であった。>

 

<彼は、至るところで仏教を説き、神道の秘術を行った。日本初めての仏教神道、

仏教密教の誕生であった。それが空海をして「虚空蔵求聞持法」へと誘導させ

たのである。>

 

<役小角は聖人であった。しかし、自分の役目は、法燈を伝えることにのみある

と考えた。将来、出る人のために、伝えることに意義を感じたのである。日本の

民衆は役小角を理解しえなかったからである。それがやがて、親鸞によって実現

されるに至る。>

 

とにかく、役小角という人は、容易には捉えきれない深遠なる人物であることは

確かなように思われます。









 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「役行者と修験道」


にほんブログ村

役行者と修験道 



修験道の祖と言われる役小角とは、どういう人だったのか、そして、そもそも、

修験道とはどういう形で成立してきたのかを探ってみたいと思います。

 

まず、「役行者と修験道」の著者の久保田展弘氏は、修験道について次の

ように述べています。

 

<修験道とは、山岳を修行の場とし、生命肯定を基本に置く宗教であり、山川

草木あるいは湧水、巨岩等々を祈りの対象とする。>

 

<修験道では、山を目指し、山に登ることが登拝と呼ばれているように、

それは山の征服ではなく宗教的行為、修行そのものである。よって、その行に

は、川や滝に身を浸し、心身を清めるという、記紀に語られる禊祓(みそぎ

はらえ)につながる実践が多様に含まれている。>

 

<修験道とは、「験=しるし、あかし」を修める道を究めてゆくものであるが、

この「しるし」とは、自然がたたえる生命エネルギーのことであり、修験者は

この生命エネルギーを体現し、密教の真言・陀羅尼を駆使し、祈願を成就

しようとする。>

 

もっとも、仏教受容以前から、民間信仰としての山岳信仰はあったのであり、

そのなかで山岳信仰の占める位置は大きく、そこは霊界、死霊・祖霊の休まる

ところと崇められ、あるいは天界の神々が里人と接する媒体であったし、また、

魔霊・荒ぶる神のたむろするところとして畏怖されていたと、和歌森太郎氏は、

著書「神と仏のあいだ」で述べています。

 

つまり、原始信仰のなかに、神信仰と呪術信仰の二つの信仰があったという

ことであり、後者、呪術をもって荒ぶる神、悪霊的な神を抑える役割を後世の

修験者が負うことになっていたとしています。

 

山岳信仰とは、一方は直接に神との合一を求める信仰であり、他方は呪術を

介入させる行為を重要視する信仰であるということです。

 

さて、本来、自然崇拝に根ざす日本人にとっての神々は、固有の名や形がなく

てよかった、それは山神であり、水神、樹神でよかったのです。そして、天皇

をはじめ、豪族たちも、五穀豊穣や病気平癒を祈り、天地の百八十神を

祀ってきました。

 

ただし、先に述べたように、たえず、神がもたらすであろう恵みを感謝し、

一方で、祟りへの畏れを抱いていました。

 

そこに仏教が仏教という名ではなく、是法、つまり、すべての物事が思いの

ままになるありがたい法として入ってきたのです。それは教えというより、

呪術としての意味合いが強かったのではないでしょうか?

 

しかしながら、時の天皇は、それをすんなり受け入れたかというと、そう

ではなく、一貫して仏法の受容に不安を抱いていたということです。

 

なぜなら、朝廷を構成する蘇我・物部という二大豪族が、仏法受容に正反対の

対応を示しており、また、仏法が古来の神々に比してより願望達成に働くのか、

あるいは、逆に祟りを生むのか、まったく見当もつかなかったからだそうです。

 

よって、仏教の受容を巡る対立とは、伝統と外来の宗教思想、哲学を巡る

争いというより、豪族間の勢力争いの反映であるという感が強く、どちらの

宗教が霊験あらたかかを競う争いであったようです。

 

紆余曲折の末、結局、仏教は迎え入れられることになるのですが、これに

よって民族宗教的な山岳信仰に仏教的潤飾が進められ、日本固有の混合宗教

である修験道として独自な実践修行体系が進められていくことになります。

 

さて、そのような時代を背景に、いよいよ役の小角の登場となります。

 

とはいうものの、のちに修験道の祖、役行者と尊称される小角の公的な

記録は非常に少なく、それも「続日本記(しょくにほんぎ)」の遠島の

記録のみです。

 

そこには、「はじめ小角は葛木山に住み、呪術をよく使うことで名が知れて

いた。外従五位下の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)は、小角を

師として仰いでいたのだが、のちに能力を害せられたので、妖術で人を

惑わしていると、事実を偽って悪口を伝えたことから、小角は遠隔の地

(伊豆嶋)に配流された」

 

「世間ではのちの世まで、次のように伝えた。鬼神を自由に使って水を

汲ませたり、薪を採らせたりすることができ、もし鬼神が命令にそむく

ようなことがあると、呪術をもって自由を束縛した』」とあります。

 

そこで、久保田氏は、なぜ、小角が宮廷の小役人の訴えぐらいで、なぜ、

都を遠く離れた島への配流という重罪を負うことになったのだろうかと

問うています。

 

そして、「妖術」、そして「鬼神」という二つのキーワードに着目して

います。

 

妖術・妖惑とは、民衆を惑わず言動であるが、国家によって管理された

僧ではない、私的に山中に入って修行を重ねる、小角のような私度僧が

「民衆を惑わず」ことが国家反逆罪につながるととらえられたのでは

ないかとしています。

 

そして、鬼神とは、葛城山に勢力をもった古来の山の神であり、それを

自由に使役し、また、束縛したとは、新しい道教の呪術や仏教の呪術的

修法を身につけた小角に半ば帰依した古来の神々を祀る山人に対する

行動を暗示するのではないかとしています。

 

このように、のちに役行者と尊称されるほどの小角に関する記録が唯一、

これだけということは、いわば国家反逆の罪ともいうべき重罪により配流

に処せられた宗教者であったことによるのであり、まさに、そのことに

よって伝説的な修験者になっていったのだとしています。

 

ところで、正史ではありませんが、もう一つ、役小角に触れたものとして

平安時代のはじめに完成したという「霊異記(りょういき)」の説話があり、

久保田氏はそれにも触れています。

 

そこでは、役小角が「役の優婆塞」として登場しますが、「優婆塞」とは

在家の修行者をいい、小角は半僧半俗の山林修行者であったことがわかる

としています。

 

また、小角の出自について「賀茂の役の公で、今の高賀茂朝臣」の系統で

あるとし、生まれつき賢く、博学で、仏法の信仰に篤く、つねに修行に励み、

仙人とともに永遠の世界に遊び、心身を養うことを願っていたとあり、さらに、

四十有余歳にしてなお巌窟に住み、そまつな着物をまとい、松の葉を食べ修行

を続けたということです。

 

さらに小角は孔雀経の呪法を修め、不思議な験力を示す仙術を身につけ、

鬼神を自在に使うことができ、「金峯と葛城山との間に橋を架け渡せ」と

命じたという。

 

そこで神々は、皆、嘆いたが、このとき葛城山の一言主大神が人に乗り

移って、「役の優婆塞が陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしている」と訴え

たため、朝廷は彼を伊豆の嶋に流したとしています。

 

久保田氏は、小角が使役し、駆使した神々は、葛城を在とする賀茂一族の神

・高鴨神の仲間であるならば、その山の神を奉じ祀る人々にとって、小角は

古来の神々がもつ力への否定者とも映るのではないか、小角の宗教的呪術性

とその験力は、王朝守護の任にある神々への凌辱とも受け止められかねない

と言います。

 

よって、葛城の一言主大神が、役の優婆塞を誹謗し、訴えたということは、

新旧の宗教、あるいは伝来の仏と在来の神との熾烈な戦いを意味している

に違いないと述べています。

 

かくして、おそらく役小角という宗教者は、渡来の文化が日本人の精神世界

に具体的な意味を持ち始めた、政治的にも宗教的にも大きな転換期にさし

かかった時代の生きた、その意味で革命的な宗教者であったと考えられる。

小角と同族の神と対峙し、配流の罪を負う孤独こそ、時代の変革者の姿なの

だと結論づけています。

 

ここには一つの役行者像が示されていると思いますが、どこまで小角の

実像に迫っているのかはわかりません。

 

よって、次回は、これとは異なった役行者像を紹介してみたと思います。






 
 
 
 
 
 「瞑想の霊的危険」
   (水波一郎 著 アマゾン 発売)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

霊媒からチャネラーへ


にほんブログ村


バシャール

 ニューエイジや精神世界において、そして、昨今のスピリチュアルにおいても、

瞑想やトレーニング、セミナーのほかに、重要な体験としての位置づけがなされ

るものに「チャネリング」というものがあります。

 

アメリカにおいては、70年代初頭以降、シャリ―・マクレーンの自伝的小説の

中などで詳しく述べられているように、ニューエイジ運動が広まっていく過程で、

このチャネリングが大変重要な役割を果たしたということですが、それはどう

してなのでしょうか?

 

先行形態としては、スピチュアリズムにおける霊媒とその霊界通信、また、

エドガー・ケーシーのリーディングなどがありますが、それとどう違う

のでしょう?

 

チャネリングのチャネラーは、スピリチュアリズムの霊媒とは異なり、主に、

身近な死者やその他の「霊」ではなく、「霊界」の「マスター」や高次の知性

を持つ「エンティティ(実在)」と交流する。そして、得られる情報も個人の

私的な出来事に関するものよりも、抽象的な人間観や世界観に関わるような

大きな問題が多い。しかし、神智学などで語られている壮大で体系的世界観に

比べると、もっと大衆的で身近な生活の知恵に類するものが多いとされています。

 

ニューエイジにおけるチャネリング形態のモデルとなったジエーン・ロバーツ

の場合は、最初は「フランク・ウザース」と称する人物からのメーッセージ

が得られたが、やがて、それはもっと大きな「実在(エンティティ)」の一部を

なすものとされるようになります。この通常の意味での「人格」を越えたエン

ティティは「セス」と呼ばれ、自らを「エネルギー人格本質」であるとして

います。セスがなすことは、トランス状態のロバーツを通して人々の言葉を

語りかけることであり、それは高度の知(情報)を含んだものと理解されて

います。

 

つまり、語る主体は、スピチュアリズムのような「霊」というかつて人間で

あった実体のみではなくて、神、個人の霊、高次の非個別人格的意識、

非人称的なエネルギーなどの要素が入り混じった存在だということです。

 

このロバーツに続いて様々なチャネラーが登場することになり、シャーリー・

マクレーンの本にも登場するケビン・ライアソンや、日本でも有名なった

「バシャール」のダリル・アンカなど、10年ほどで千人を越えるほどに

なったのだそうです。

 

チャネリングによって伝えられるメーッセージには、個々人の過去や未来、

個別的な悩みや人生指針に関する教え、そして、宇宙観、世界観、人間観、

歴史観など一般的真理に関わるものなどがありますが、その教説の特徴は

次のようになります。

 

<「あなたは神である/あなたはあなた自身のリアリティーを創造する」-

チャネリングの中心的教説であり、その背後に、神は遍在し、人そのものが

神の性格を分有する汎神論的世界観がある>

 

<「あなたは、あなた自身の救い主である」-人それぞれが神なのであるから、

自らを探求し、自らを知り、自らを助けることによってのみ、神的なもの、

霊的なものを知り、そうしたものへ近づいていくことができる>

 

<「愛」-愛がなければならない。しかし、まず自らを愛することができ

なければ、他者を愛することもできない。>

 

<「死は存在しない」-死は幻想である。死と呼ばれるものは、実はより

高いレベルへの移行であり、将来はたぶん地上へ生まれ変わる。何事も

恐れるな、恐れこそ人を不幸にする。>

 

<大いなる自己と、または上位自己(ハイアーセルフ)と人生の目的-

それは日常的な人格ないし自己である自我(エゴ)や、個人的無意識を

越えたものであり、それと結合し、チャネルすることが、チャネリング

に学ぶ者の主たる目的である。自らの大いなる自己こそ、個別問題と

ともに人生全体の目標をも教えてくれる。>

 

<指導霊-大いなる自己を補佐するものとして、生まれる前に指導霊は

選ばれており、人が高次の目的に向かって歩むのを助けてくれる。>

 

その他、地球と人類の未来についての予言的な教えも頻繁になされている

が、多くは楽観的であり、危機的な出来事は新しい時代への移行の際の

「浄化」の現れにすぎないとしているようです。

 

そこでは、死後の生命の存続と外部の心的な実在の存在が前提となっているが、

個々のチャネラーのソースは、イエス・キリストなどの上級のマスターたち、

地球外生命体、肉体を持ったことがないが個体的意識の特徴を多く分け持つ

エンティティたち、宇宙心(、宇宙エネルギー)、天使、大いなる自己、動物

(イルカ)、植物、等々、多岐にわたっています。

 

しかし、多くのチャネラーが述べている思想はかなり似通っているようで

これだけの一致があるということは、信憑性があると見るのか、色々な名前を

語っても同じソースなのか、あるいは他のチャネラーの真似をしているという

ことを表すのか、考え方が分かれるところだと思います。

 

もっとも、チャネリングは、少数の特殊な資質をもつ人たちだけでなく、多く

の人が実践できる可能性をもつという考え方が強いようですので、今のアメリカ

のチャネリング現象とは、個々別々の真摯で有能なチャネラーの集合体を指す

のではなく、ニューエイジ運動という一つの宗教運動群の一翼を担おうとする

人々による、ある程度まとまりをもった集合現象という見方をするほうがいい

のかもしれません。

 

とは、いっても、気になることがあります。なぜ、霊媒ではなくチャネラー

なのか?そして、チャネリングのソースとは、一体何者なのでしょうか? 

 

まず、ニューエイジ運動のチャネリングが登場したとき、すでにスピリチュ

アリズムおいて霊媒という呼称が存在していたはずです。それなのに、なぜ

霊媒ではなくチャネラーという語を用いたのかというと、スピチュアリズム

や霊媒がアメリカ文化の本流からは蔑まれてきたために、霊媒の語を避け、

UFO運動で使われていたチャネラーという語を用いたということのようです。

 

そうなると、色んな言い方をしているものの、ソースは、やはり、霊的存在、

つまり「霊」ということになるのではないでしょうか?

 

「霊」だから良くないということではなく、霊ならば、そこにはスピリチュ

アリズムの霊媒による通信の場合に行われたような、霊が本物かどうか、

高貴な存在なのかどうか、ということへのこだわりや、メーッセージ内容の

真実性に対する厳しい見極めの姿勢が希薄なように思われます。

 

今までに何度も紹介しているように、水波一郎氏監修のHP「霊をさぐる」では、

真に高級な霊媒現象の難しさについて述べられています。(霊魂と交信する技術

 

チャネリングでも、神や高次の非個別人格的意識や宇宙意識などからメッセージ

を受け取るとされていますが、水波氏は、高級と言われる霊魂の思想を表現する

ことは、普通の霊媒ではまず無理であり、それが可能なのは、長い間に渡り、

不可能を可能にするための訓練をした霊媒だけなのだといいます。よって、

欧米のように、訓練のない霊媒を使っても、通信を送りうる霊魂は、それほど

意識の高い方の霊魂ではなく、真実が表現されていることは少ないと述べて

います。

 

そうなると、神も宇宙意識も本物ではなく、自称である可能性があります。

高度な知性体といっても、地上と同様、不道徳な存在もいるわけで、

それが高貴な存在である証明にはならないということです。

 

よって、チャネリングというものに霊的な真実を求めるのではなく、むしろ、

ニューエイジ運動や精神世界、さらには「スピリチュアル」の活動を補強し、

広めるための有効な手段の一つであると冷静に捉えたほうが無難ではない

でしょうか?









 
 「瞑想の霊的危険」
 (水波一郎 著 アマゾ ン発売)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

「スピリチュアル」の源流



にほんブログ村


精神世界のゆくえ 



日本で「スピリチュアリズム」でもない、そして、「スピリチュアリティ」

でもない、それらをすべて呑み込んだような「スピリチュアル」という言葉が

流行りだしたのは、21世紀に入ってからのようです。

 

この分かったようで、つかみどころのない言葉が意味するものの源流はいったい

どこにあるのでしょうか? そして、それは、最初はどのようなものだったの

でしょうか? 島薗進氏の著書「精神世界のゆくえ」を参考にしながら探って

みたいと思います。

 

「スピリチュアル」は、系統的には70~80年代のアメリカにおける「ニュー

エイジ運動」、日本での「精神世界」ブームと呼ばれたものの流れの延長線上に

あると思われますが、そこでは、自己、あるいは社会の変革への希望や、その

ためのトレーニング、修行といった側面がより希薄になり、より大衆化が進んだ

といいますか、単なる「癒し」や、即効的な利益、現実的なメリトットを求める

ような印象を受けます。

 

しかし、そういったことは、最初から内包されていたものなのかどうか、まず、

「ニューエイジ運動」の成り立ちを見てみたいと思います。

 

島薗氏によると、アメリカにおいてニューエイジ以前には、超越主義、神智学、

スピリチュアリズム、スウーデンボルグ派、ニューソート、あるいは、ヨー

ロッパの精神的(霊的)傍流の諸派、東洋の宗教思想や実践などが併存して

いたが、それとニューエイジとは違いがあるという。

 

ニューエイジ運動は、すぐそこまで迫りつつある新しい時代、すなわち、水瓶座

の時代を先取りする思考、新しい時代を持ち来たらす主な要因となる新しい思考

の代表者であるという自覚を持っていたのであり、そこに、多様な集団やアイ

デンティティのあり方が包み込まれていたということです。

 

よって、そこには、とにかく多様なものが内包されていて、その観念や信念の

明確な輪郭を描くことは難しいが、あえて、それを要約すると次のようになる

としています。

 

まず、理念的な表現としては、

 

<自己変容あるいは霊性的覚醒の体験による自己実現>

 

<宇宙と自然の聖性、また、それと本来的自己の一体性の認識>

 

<感性・神秘性の尊重、つまり、覚めた合理的、分析的意識を抑制し、

感性を尊び、神秘体験や超常的な意識のあり方にも心を開いていく>

 

<自己変容は癒しと環境の変化をもたらす>

 

<死後の生への関心、つまり、死後、意識や魂にあたるものが存続する、

あるいは、その可能性が高いと考える>

 

<旧来の宗教や近代合理主義から霊性科学の統合へ>

 

<エコロジーや女性原理の尊重>

 

といったことになるようです。

 

そして、より明確な表現をすると、<超常的感覚や能力の実在>、<思考が

現実を変える>、<現代こそ意識進化の時代>、<意識進化は宇宙進化の

ひとこま>

 

ということになり、さらに、信念的、信仰的なものが加味されてより具体化

されると

 

<輪廻転生とカルマの法則>、<地球外生命体(ETI)との接触>、<過去

文明の周期と埋もれた文明の実在>、<人体におけるチャクラや霊的諸次元の

存在>、<水晶・音・香・場所などが持つ神秘力>、<指導霊の実在>、

<体外離脱や誕生前記憶の体験による霊魂の存在の確認>、<チャネラーや

シャーマンの真正性>

 

ということになるとしています。

 

よって、これらのうちの全部、あるいは大部分に同意する人々を典型的な

ニューエイジャー、そして、理念的なものは受け入れても、信念的、信仰的

なものは受け入れられない、あるいはその逆という、部分的な同意者を、

ニューエイジ周辺ととらえることができるとしています。

 

ところで、島薗氏は、以上の捉え方は、アメリカに焦点を絞った場合は妥当

であるにしても、この運動はグローバルなものではあり、世界の各地で、

自性的に多様な形で展開しているとすると、「ニューエイジ」の語で語る

のは不適切ではないかと述べています。

 

そして、それを従来の「宗教」とは異なると「霊性」という観念で呼ぶと

して「新霊性運動」という語を提示しています。

 

そして、同じ新霊性運動ではあっても、アメリカのニューエイジと日本で

「精神世界」と言われた流れとで違いがあると述べ、その違いに言及

しています。

 

日本の新霊性運動は、日本やアジアの宗教思想や実践の伝統を発掘し、

それらを継承発展させようとする動きと結びつきつつ展開してきた

ということです。

 

<アニミズム・古神道の継承を説くながれ>

 

<密教・禅・唯識などの仏教の継承を説く流れ>

 

<平田篤胤からで出口王仁三郎らに引き継がれていく霊学を説く流れ>

 

<中国を源泉とする東アジアの気の伝統の継承を説く流れ>

 

以上の四つの流れが有力であるとしています。もっとも、私は、ここに

インドのヨーガの継承を説く流れを加えてもいいと思いますが。

 

ともかく、アメリカやヨーロッパの新霊性運動と大きく異なる点は、欧米の

それはキリスト教や合理性を重んじる正統派の伝統と先鋭な緊張関係にあり、

厳しい批判を受けたり、論争を重ねたりしながら形成されてきたのに対し、

日本では国民的な文化遺産の国際的な自己主張や、近代化の過程で蓄積

されてきた西洋文明の圧迫的な影響に対する、伝統的な霊性の復権として

自覚されているということにあると述べています。

 

以上、ニューエイジや精神世界の時点にまでさかのぼってみると、昨今の

「スピチュアル」と総称されるもののすべてが、すでにそれらのなかに

あったことがわかります。

 

そして、気がつくことは、理念的、能動的な側面が後退し、より、実利的で

受動的なものがより前面に出てきていることです。

 

特に、自己変革であれ、霊的進歩であれ、日本の場合、修行法、瞑想法と

いうものが重要な位置を占めていたはずであったのに、もう、ほとんど

見聞することはありません。

 

技法と言われているものがあるとすれば、速攻で自己の願望、欲求を実現

する法、物を獲得する法ばかりのように思われます。

 

これは、前進ではなく、後退ではないでしょうか? 単に大衆化したと

いうことではないように思われます。

 

もっとも、当時の修行法や瞑想法は、霊的な成長よりも、神秘体験、

そして、超能力や、霊能力の獲得をめざすという大きなゆがみを

持っていたことは確かですが。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 「瞑想の霊的危険」
   (水波一郎 著 アマゾン 発売)
 
 
 
 
 
 

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。