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「役行者と修験道」


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役行者と修験道 



修験道の祖と言われる役小角とは、どういう人だったのか、そして、そもそも、

修験道とはどういう形で成立してきたのかを探ってみたいと思います。

 

まず、「役行者と修験道」の著者の久保田展弘氏は、修験道について次の

ように述べています。

 

<修験道とは、山岳を修行の場とし、生命肯定を基本に置く宗教であり、山川

草木あるいは湧水、巨岩等々を祈りの対象とする。>

 

<修験道では、山を目指し、山に登ることが登拝と呼ばれているように、

それは山の征服ではなく宗教的行為、修行そのものである。よって、その行に

は、川や滝に身を浸し、心身を清めるという、記紀に語られる禊祓(みそぎ

はらえ)につながる実践が多様に含まれている。>

 

<修験道とは、「験=しるし、あかし」を修める道を究めてゆくものであるが、

この「しるし」とは、自然がたたえる生命エネルギーのことであり、修験者は

この生命エネルギーを体現し、密教の真言・陀羅尼を駆使し、祈願を成就

しようとする。>

 

もっとも、仏教受容以前から、民間信仰としての山岳信仰はあったのであり、

そのなかで山岳信仰の占める位置は大きく、そこは霊界、死霊・祖霊の休まる

ところと崇められ、あるいは天界の神々が里人と接する媒体であったし、また、

魔霊・荒ぶる神のたむろするところとして畏怖されていたと、和歌森太郎氏は、

著書「神と仏のあいだ」で述べています。

 

つまり、原始信仰のなかに、神信仰と呪術信仰の二つの信仰があったという

ことであり、後者、呪術をもって荒ぶる神、悪霊的な神を抑える役割を後世の

修験者が負うことになっていたとしています。

 

山岳信仰とは、一方は直接に神との合一を求める信仰であり、他方は呪術を

介入させる行為を重要視する信仰であるということです。

 

さて、本来、自然崇拝に根ざす日本人にとっての神々は、固有の名や形がなく

てよかった、それは山神であり、水神、樹神でよかったのです。そして、天皇

をはじめ、豪族たちも、五穀豊穣や病気平癒を祈り、天地の百八十神を

祀ってきました。

 

ただし、先に述べたように、たえず、神がもたらすであろう恵みを感謝し、

一方で、祟りへの畏れを抱いていました。

 

そこに仏教が仏教という名ではなく、是法、つまり、すべての物事が思いの

ままになるありがたい法として入ってきたのです。それは教えというより、

呪術としての意味合いが強かったのではないでしょうか?

 

しかしながら、時の天皇は、それをすんなり受け入れたかというと、そう

ではなく、一貫して仏法の受容に不安を抱いていたということです。

 

なぜなら、朝廷を構成する蘇我・物部という二大豪族が、仏法受容に正反対の

対応を示しており、また、仏法が古来の神々に比してより願望達成に働くのか、

あるいは、逆に祟りを生むのか、まったく見当もつかなかったからだそうです。

 

よって、仏教の受容を巡る対立とは、伝統と外来の宗教思想、哲学を巡る

争いというより、豪族間の勢力争いの反映であるという感が強く、どちらの

宗教が霊験あらたかかを競う争いであったようです。

 

紆余曲折の末、結局、仏教は迎え入れられることになるのですが、これに

よって民族宗教的な山岳信仰に仏教的潤飾が進められ、日本固有の混合宗教

である修験道として独自な実践修行体系が進められていくことになります。

 

さて、そのような時代を背景に、いよいよ役の小角の登場となります。

 

とはいうものの、のちに修験道の祖、役行者と尊称される小角の公的な

記録は非常に少なく、それも「続日本記(しょくにほんぎ)」の遠島の

記録のみです。

 

そこには、「はじめ小角は葛木山に住み、呪術をよく使うことで名が知れて

いた。外従五位下の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)は、小角を

師として仰いでいたのだが、のちに能力を害せられたので、妖術で人を

惑わしていると、事実を偽って悪口を伝えたことから、小角は遠隔の地

(伊豆嶋)に配流された」

 

「世間ではのちの世まで、次のように伝えた。鬼神を自由に使って水を

汲ませたり、薪を採らせたりすることができ、もし鬼神が命令にそむく

ようなことがあると、呪術をもって自由を束縛した』」とあります。

 

そこで、久保田氏は、なぜ、小角が宮廷の小役人の訴えぐらいで、なぜ、

都を遠く離れた島への配流という重罪を負うことになったのだろうかと

問うています。

 

そして、「妖術」、そして「鬼神」という二つのキーワードに着目して

います。

 

妖術・妖惑とは、民衆を惑わず言動であるが、国家によって管理された

僧ではない、私的に山中に入って修行を重ねる、小角のような私度僧が

「民衆を惑わず」ことが国家反逆罪につながるととらえられたのでは

ないかとしています。

 

そして、鬼神とは、葛城山に勢力をもった古来の山の神であり、それを

自由に使役し、また、束縛したとは、新しい道教の呪術や仏教の呪術的

修法を身につけた小角に半ば帰依した古来の神々を祀る山人に対する

行動を暗示するのではないかとしています。

 

このように、のちに役行者と尊称されるほどの小角に関する記録が唯一、

これだけということは、いわば国家反逆の罪ともいうべき重罪により配流

に処せられた宗教者であったことによるのであり、まさに、そのことに

よって伝説的な修験者になっていったのだとしています。

 

ところで、正史ではありませんが、もう一つ、役小角に触れたものとして

平安時代のはじめに完成したという「霊異記(りょういき)」の説話があり、

久保田氏はそれにも触れています。

 

そこでは、役小角が「役の優婆塞」として登場しますが、「優婆塞」とは

在家の修行者をいい、小角は半僧半俗の山林修行者であったことがわかる

としています。

 

また、小角の出自について「賀茂の役の公で、今の高賀茂朝臣」の系統で

あるとし、生まれつき賢く、博学で、仏法の信仰に篤く、つねに修行に励み、

仙人とともに永遠の世界に遊び、心身を養うことを願っていたとあり、さらに、

四十有余歳にしてなお巌窟に住み、そまつな着物をまとい、松の葉を食べ修行

を続けたということです。

 

さらに小角は孔雀経の呪法を修め、不思議な験力を示す仙術を身につけ、

鬼神を自在に使うことができ、「金峯と葛城山との間に橋を架け渡せ」と

命じたという。

 

そこで神々は、皆、嘆いたが、このとき葛城山の一言主大神が人に乗り

移って、「役の優婆塞が陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしている」と訴え

たため、朝廷は彼を伊豆の嶋に流したとしています。

 

久保田氏は、小角が使役し、駆使した神々は、葛城を在とする賀茂一族の神

・高鴨神の仲間であるならば、その山の神を奉じ祀る人々にとって、小角は

古来の神々がもつ力への否定者とも映るのではないか、小角の宗教的呪術性

とその験力は、王朝守護の任にある神々への凌辱とも受け止められかねない

と言います。

 

よって、葛城の一言主大神が、役の優婆塞を誹謗し、訴えたということは、

新旧の宗教、あるいは伝来の仏と在来の神との熾烈な戦いを意味している

に違いないと述べています。

 

かくして、おそらく役小角という宗教者は、渡来の文化が日本人の精神世界

に具体的な意味を持ち始めた、政治的にも宗教的にも大きな転換期にさし

かかった時代の生きた、その意味で革命的な宗教者であったと考えられる。

小角と同族の神と対峙し、配流の罪を負う孤独こそ、時代の変革者の姿なの

だと結論づけています。

 

ここには一つの役行者像が示されていると思いますが、どこまで小角の

実像に迫っているのかはわかりません。

 

よって、次回は、これとは異なった役行者像を紹介してみたと思います。






 
 
 
 
 
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