老子-老荘思想1-


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老子・荘子  




以前、道教を取り上げたことがありますが、どうして、老子が道教の神に

なってしまったか、また、なぜ、神仙道というものと交わったのかが未だに

しっくり来ないという側面がありますので、今回は、老子と荘子、老荘思想

そのものに触れてみたいと思います。

 

さて、老子という人物については、分からないことが多いようです。

 

いつの時代の時代の人か? そもそも老子という人物が実在したのか? 

「老子」という書物は老子が一人で書いたものではなく、複数の著者に

よって書かれたものではないか? 等々

 

それはともかく、通常、老子が生まれたとされるのは、紀元前4世紀頃で、

それは春秋時代の末期、戦国時代と呼ばれる乱世の世です。

 

このような時代、前6世紀に生まれたのが、我々がよく知る孔子という人

ですが、孔子の念願は、目前の無政府状態を克服して、かつて、長く続いた

周という国の初期の頃のように秩序ある社会を回復することであり、その

ために、何よりも力の政治を排して、道徳による政治を実現しなければなら

ないと考えたようです。

 

しかし、老子は、これとは全く逆の見方をしたというのです。老子は、道徳

や礼儀といった人為こそ現在に退廃を招いた原因なのであるから、そういう

人為を助長することは社会をいっそう混乱に陥れるものであるとし、道は

ただひとつ、いっさいに人為を退け、個人や社会を自然な状態に復帰させる

べきだと主張したということです。

 

司馬遷の「史記」には、孔子と老子の立場の相違を示すエピソード、孔子が

老子のもとを訪問したとき、「お前さんのありがたがっているのは昔に死人

ばかりで、残っているのはその言葉だけではないか。・・・」と老子に

ののしられるという話がありますが、それは、生きた時代が異なるのであり、

史実ではなく、後世に作られた伝説であるとしても、老子の思想の一面が

よく現れているエピソードだと言われています。

 

さて、まず、老子の根本の立場は、いっさいの人為をなくして自然のままに

生きるということ、無為自然という言葉で表されます。

 

それでは、自然に反する人為とは何をさすのかというと、具体的には、知識、

学問、欲望、技術、道徳、法律など、いわゆる文明や文化と呼ばれるもの

すべてを含むとされます。

 

なぜ、知識までも不自然なものとするのでしょうか?

 

人間がものを知るというのは、判断・分析・理解という語が示すように、一つ

の物を二つに分断し、分解することによって「わかる」ものとすること、

つまり、相対差別することにほかならない。しかし、これは、物の自然の

あり方、ありのままの物の形をゆがめ、破壊することではないのかというの

です。

 

たとえば、人間の身体を、頭、胴、手足に分解したあとで、もう一度よせ

集めてみても、それは死んだ人間を造るだけで、生きた人間にはならない

といいます。

 

このように、知識は真理を捕らえる力をもたないばかりか、かえってこれを

破壊しまうというのです。よって、「学を絶てば憂いなし」なのです。

 

そして、知識がもたらす弊害はそれだけではないという。知識の増加は、

たえず新しい欲望の開発をもたらすという結果を招くといいます。人間が

欲求不満を持つのは、物が足らないことよりも、たえず新しい欲望に駆り

立てられることによる。したがって、老子は「無知」とともに「無欲」

ないし「寡欲」ということを強調するのです。

 

ただし、老子にいう「無欲」は、キリスト教や仏教などが説く「禁欲」とは

関係がないようです。それは身体と精神という二元論から生まれる「禁欲」

ではなく、赤子や農民を自然人のモデルにした「無欲」だということです。

赤子や農民は、文化人と比べるとはるかに無知であり、無欲であるが、

それは意識的に努力した結果ではなくて、自然にそうなっているのです。

つまり、それは「足るを知る者は富む」ということの結果だといいます。

 

このように知識や欲望を否定する老子は、また、道徳をも否定します。

孔子を始めとする儒家がいう仁義は、自然の大道が失われたとき、これを

埋め合わせるために作られた人為的な手段にすぎず、忠孝は国家が混乱した

ときに現れる病的な道徳にすぎないというのです。

 

病める社会に再び健康を取り戻させるためには、その原因でもある仁義忠孝

の道徳を捨て去る以外にない。道徳は、善と悪、仁と不仁、義と不義と人為

的に二分して人々の間に争いを生じさせる。それは知識の人為性から生まれ

たものであり、ありのままの自然に反する。善といい悪といっても、その差

は相対的であり、絶対的なものではない。要は、自然の道、善悪の差別以前

の一なる立場に立つことである、道は善悪の彼岸にあるといいます。

 

さて、では、きわめて現実的で、政治的な中国思想の中において、どうして、

このような自然主義が生まれてきたのかということになります。

 

「老子・荘子」の著者である森三樹三郎氏は、中国の農村という、無知無欲

道徳、徹底した自然状態に近い社会が実在し、それが老子のイメージの

原型になったのではないかと述べています。

 

中国では昔から大帝国の統一が持続されることが多かったにもかかわらず、

地域があまりにも広大なためか、地方の農村は太古以来の生活形態を保持

していたようなのです。老子が「自然に帰れ」といったとき、このような

中国の農村の自然の生活が念頭に置かれていたのであり、これが老子の

自然思想の出発点になったといえるとしています。

 

ただし、それは中央政府を否定するような無政府主義ではないようです。

老子は大国の存在理由を否定しないばかりか、時には大国となるための

心得を説くことさえあったようです。

 

もっとも、その国家は農村の素朴さを破壊することなく、これを保護し、

育ててゆくような、自然国家であり、老子の理想とする政治は、民衆の

教育や訓練もなく、いっさいの干渉をしない自由放任を原理とするもの

です。

 

しかし、無為の政治は、自由放任の政治であり、無為無策の政治ですから、

まことに無責任であり、民衆に対して冷酷であるように見えますが、

どうなのでしょうか?

 

老子は「無為にして為さざるはなし」、無為でありながら、万能の働きを

するというのです。無為の主体は人間であるが、万能の働きをするのは

自然の力であり、このような自然の万能の働きに守られているのである

から、無為無策でありながら、いささかの不安もないというのです。

 

森三樹三郎氏は、老子には神の信仰はない、当時の知識人はすでに人格神

の信仰を失っていた。しかし、天の道、すなわち自然の摂理に対する絶大な

信頼があった。それは信頼というよりも、むしろ信仰に近いものであった。

自然の摂理への信頼、これは老子ばかりでなく、あらゆる道家思想の根底

にあるものであると述べています。

 

そのほか、老子の人生哲学、処世の態度として、「赤子に帰れ」という柔弱

の徳、「弱は強に勝ち、柔は剛に勝つ」という女性原理の哲学、「水は低き

に向かって流れる」という水の哲学、「他と争わない」という不争の哲学、

「功成りて身退くは天の道なり」という保身処世の道、名声欲の否定など

興味深いものがありますが、今回は長くなるので触れずに、最も特徴的

な老子の道と無の形而上学について触れてみたいと思います。

 

老子の思想が同時代の諸子百家のそれと著しく異なっている点は、無為自然

を唱えるとともに、これに形而上学的な根拠を与えたことにあるとされて

います。もともと現実主義的な傾向の強い中国において、哲学的、形而上

学的な方向へ進んだのは老子が最初であり、それは中国の思想としては異例

のことだということです。ただし、それは論理的な体系ではなく、詩的で

あり、象徴的な表現の形態をとっているのです。

 

さて、老子の哲学の根本は、「名」すなわち言葉、概念が、真理を伝えるには

不十分なものだとしていることです。

 

それでは、ありのままの真理は何によって伝えることができるのかというと、

体験的な直観によるしかないというのです。ただし、直観は本人だけが体験

しうるものであるから、他人に伝えることは非常に困難であり、それをあえて

伝えようとするため、言葉でない言葉、象徴による暗示が用いられることに

なります。

 

また、あらゆるものの根源となるものを、老子は「道」と呼びます。この道

の基本的な性格は何かというと、「無限者」であるようです。道とは無限者に

与えられた仮の呼び名で、道はこのように「限りなきもの」という否定的、

消極的な規定によってとらえるほかはないようです。

 

老子は、この無限者を「一」という語で表現する場合があるということです。

森氏は、おそらく一という無形の道が有形の万物に変化しようとする寸前の

姿を形容したもので、一は道の性格を保持しているものの、無形から有形へ

と移ろうとする契機をはらんだ状態にあるということになるとしています。

 

ところで、道には「為すなくして為さざるはなし」という「自然」の働き

がある。つまり、みずからは心意の働きを持たないにもかかわらず、限り

なく物を生み出し、また再び帰ってくる物を受け入れる。この無限の生産

力と包容力こそが無限者である道の属性であるとしています。

 

一方、老子の実践哲学は、無知無欲、無道徳というように、すべて否定の

上に立てられていますが、その全面的な否定の極にあらわれるのが「無為」、

そして「無」ということであるとしているようです。つまり、老子は、道の

本質は「無」であるとも言っているようです。

 

では、無限と無はどのような関係になるのでしょうか? 森三樹三郎氏は、

無と呼ばれるものには、二つの種類があることが看過されるといいます。

 

一つは、常識でいう無で、有を排除するところに生まれもので、有とは対立

関係にあるゆえ、有に対する無、つまり、相対無といえるものです。これに

対して無限の無というものがあり、鏡のように、それ自身は無であるが、

無であるために無限のものを写し、あらゆる有をそのうちに包容することが

できる。常識の無が有を排除するのに反して、この無限の無は有を排除する

どころか、万有を包容する絶対無であるとしています。

 

もっとも、老子は、東洋における無の哲学の先駆者として、絶対無の世界に

足を踏み入れながらも、まだ不徹底なところを残しているようで、その徹底

と完成は荘子を待たなければならなかったようです。

 

 








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シュタイナーと薔薇十字


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薔薇十字の神智学


前回は、ロラン・エディゴブルの「薔薇十字団」により、薔薇十字団の起源を

17世紀の始めとする仮説をもとに、その創造過程を「ファーマ・フラテルニ

タティス」、「コンフェッシオ・フラテルニタティス」、クリスチャン・ローゼン

クロイツの化学の結婚」の三つの文書を中心に見てきました。

 

しかし、その起源に関わる仮説は、歴史的起源、そして、神話的起源といわれ

るものを含めるとほかにも多数あるようです。

 

ロラン・エディゴブルは、ドイツの薔薇十字団がイギリスに起源をもつという

英国の歴史家フランセス・イエイツの仮説を紹介しています。

 

イエイツは、英国聖ジョージ騎士団(ガーター騎士団)の記章が薔薇と赤十字

であり、薔薇十字の象徴自体がここに由来するに違いないといい、薔薇十字

思想は「神聖文字の単子」の著者ジョン・ディーに始まるのであり、17世紀

前半の薔薇十字文書の出版は、ジョン・ディーが関わった社会的、政治的運動

にその起源があるというのです。

 

それゆえに、イギリス思想の浸透した薔薇十字宣言は、魔術的、ヘルメス主義

的、カバラ的な性格を持った大改革計画の神秘的なバックグラウンドになって

いるということです。

 

また、薔薇十字団の先祖とされる神話や思想運動というものもたくさんあり、

アダム、古代エジプト、エレウシスの秘儀、ピタゴラス派、インド思想、

グノーシス思想、アラビアとサービア教徒、などがあげられています。

 

さて、では、その後、薔薇十字団を取り巻く状況はどのようになっていった

のでしょうか?

 

ロラン・エディゴブルは、薔薇十字宣言と「化学の結婚」が流布した複雑で

豊富なメッセージのうち、崇拝者たちが心の留めたのは、二つの側面、奇蹟と

錬金術だけであったと述べています。

 

哲学者の金と霊的万能薬は、当時、過ぎ行く時間と死の恐怖を祓い去るための

絶好のシンボルだった、よって、これらの秘法(アルカナ)を所有する神秘的

なグループに、薔薇十字団という名は付せられ続けていったということです。

 

黄金薔薇十字団などという、後の世紀に幅をきかす黄金という形容詞は、薔薇

十字の神話が錬金術という要素に還元されてしまったことを示すものであると

しています。

 

そして、薔薇十字団は、テンプル騎士団の継承という伝説を付加するとともに、

フリーメイソンと交差、融合していくことになるようです。

 

ところで、一方では、薔薇十字団に関心を抱き、その評判に耳を傾けたり、

それを繰り返して人に伝えたりした哲学者、芸術家、作家などが、たとえば、

デカルト、コメニウス、ベーコン、ニュートン、ライプニッツ、ゲーテ、

等々、大勢いたようであり、また、19世紀以降、「黄金の夜明け団」、

「薔薇十字カバラ団」、「古代神秘薔薇十字団」、ルドルフ・シュタイナー

と人智学協会など、薔薇十字を名乗る団体は、幾つか出現したようです。

 

そこで、これらのうち、シュタイナーのいう薔薇十字会、そして、ゲーテ

と薔薇十字会に関わりについて紹介しておきたいと思います。

 

近代ヨーロッパにおける薔薇十字系の霊統を代表するとされるシュタイナー

によると、ある高次の霊的存在が受肉し、クリスチャン・ローゼンクロイツ

と名乗った。彼は小さな秘教的グループの師として姿を現し、1459年、

結束固い秘密の同胞団、薔薇十字会において黄金石の騎士(薔薇十字的秘教

の霊統における高次の秘儀に参入したもの)になったということです。

 

薔薇十字会の神智学はという叡智は、18世紀に至るまで、強固な規則に

よって外的、公教的社会から隔離されて、ごく少数の限定された同胞団の

中で守られてきたそうです。

 

しかし、この同胞団は、秘教的な霊統を中部ヨーロッパの文化の中に注ぎ

込むという使命を持ったというのです。よって、公的な文化の中で、確かに

外見上は公教的なものであるが、公教的な表現をまとった秘教的叡智が

さまざまな仕方で輝いているのを見ることができるとしています。

 

ただし、何世紀にもわたって、さまざまな人が薔薇十字の叡智を看破しよう

としたものの、たとえば、ライプニッツなども、その叡智を解明しようと

して果たせなかったといいます。

 

だが、そんな中で、薔薇十字の叡智がとりわけ雄大な形で反映しているのが、

18世紀の転回期におけるヨーロッパ文化、ひいては世界文化に大きな役割

を果たしたのがゲーテだとシュタイナーはいいます。

 

ゲーテは若い頃に、ある程度まで薔薇十字の源泉に達し、最高の秘儀の幾つ

かを伝授されたというのです。ただ、ゲーテの秘儀参入については誤解が

あるとしています。

 

ゲーテがライプツィヒ時代の終わりに死に瀕したという外面的な事実として

知られていることですが、彼の魂はある体験に深くとらえられます。重症の

床の中で、ゲーテは重大な体験、一種の秘儀を体験したというのです。彼は、

最初、この秘儀体験に気がつかなかったが、この体験は一種の詩的な潮流と

してゲーテの魂の中で活動し、この潮流が彼のさまざまな作品の中で見事な

形で流れ込んでいったのです。そのような秘儀の光が彼の周囲がゲーテの作品

のうちで最も深いものと呼んだ未完の長篇詩「秘密」の中に見出すことが

できるとしています。

 

しかし、当時の文化の潮流は、この詩の中に脈打つ生命の非常な深みに外的

な形を与えるだけの力をまだ有しておらず、ゲーテはこの作品を完成させる

ことができなかったということです。

 

その後、ゲーテはこの秘儀を意識化し、ついに偉大な散文詩「百合姫と緑蛇

の童話」を書くのですが、シュタイナーは、この散文詩は世界文学の中でも

最も意味深い作品の一つであり、この作品を正しく解釈できれば、薔薇十字

的叡智について多くを知ることができると述べています。

 

しかしながら、当時、薔薇十字の叡智が一般的な文化の中に流れ込んだと

いうことは、薔薇十字的な叡智に対するある種の裏切りが行われたという

ことにもなるとシュタイナーはいいます。

 

この秘密の叡智の公教的な形での公開という裏切りと、西洋文化が19世紀

には物質界において秘教の影響を受けてはならないという必要性があった

結果、薔薇十字の源泉、とりわけ薔薇十字会の創設以来、常に物質界に

存在し続けてきたクリスチャン・ローゼンクロイツは外面的には姿を隠す

ことになり、今日(20世紀)になって再び薔薇十字の叡智の源泉を解明

することが可能になったのだと述べています。

 

さて、シュタイナーは、薔薇十字的叡智の特徴とその社会的使命をよく表し

ている二つの重要な事柄があると言っています。

 

一つは、薔薇十字の叡智のさまざまな立場の人々に対する関わり方で、それ

はキリスト教的グノーシスの霊智の秘教的形態とは異なるものであるとして

います。

 

まず、高次の霊的能力、つまり、霊視霊聴能力を発達させることなしに、

高次の世界の霊的真実を直接見出すことはできないという意味で、霊的真実

の発見には霊視力という前提が不可欠であるが、霊的真実の概念としての

薔薇十字の叡智は通常一般の論理的悟性によって理解できるといいます。

 

また、薔薇十字的な師と弟子の関係は、東洋における弟子と「師(グル)」

の関係とは本質的に異なるもので、権威に対する信仰とは異なるとして

います。師は霊的体験の範を示し、弟子をそのような体験を導く友であり、

助言者であると述べています。

 

もう一つは、霊的叡智の一般的な精神生活に関する関係で、薔薇十字の叡智

は、単に理論的に価値ある体系を打ち建てるのではなく、現代の知の根底を

認識しようとし、霊的真理を日常生活に流入させようするときに必要なもの

を提供するとしています。

 

つまり、脚を折った人が道に倒れているところを通りかかったとして、多数

の人々が骨折した人を取り囲んで温かい感情と同情を抱いたとしても、その

中の一人も骨折を治療する術を知らなかったら、この多くの人々は、感情

豊かでなくとも骨折を治療できる一人の人に本質的に劣る、というのが、

薔薇十字会員の精神なのだと述べています。

 

ところで、シュタイナーは、最後まで、自分の導師(マイスター)の名を

明かさなかったようですが、導師たちは、40歳になるまで、オカルト的

領域で指導的立場に立たぬよう忠告をしていたということです。

 

シュタイナーは、著書「神智学」の付録1の中で、導師たちについて、

わずかですが次のように触れています。

 

「導師との出会いは即座に生じたものではなく、最初は或る人物が彼から

送られてきた。この人は、一切の植物に薬効に詳しく、植物だけでなく、

自然界全般と人間との関連の神秘にも通じていた。彼にとって、自然霊と

交わるのは自明なことであり、それを当然のことのように話題にしたので、

ますます私の驚嘆を呼び起こした。」

 

「その頃、私は自分の背後のオカルト的諸存在の要求と一致して、自分に

対して次のようにいえるようになった。― お前は世界観に哲学的基礎づけ

を与えた。・・・このオカルティストは時代の哲学的、自然科学的成果も

知らないで、霊界のことをこのように語るのだ、とはもう誰もいえない

筈だ。・・・私はすでに40歳に達していた。」

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
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「薔薇十字団」


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薔薇十字団 




本書の著者、ロラン・エデゴフェルは、「十字架に薔薇を絡ませたのは

誰か?」という、かつてゲーテが発した疑問を引用しながら、この疑問は、

今日でもなお有効であると述べています。

 

なぜなら、薔薇十字団の謎は相変わらず謎のままであり、研究者だけで

なく、幸福と叡智を探求するすべての人々を惑わし続けているからだと

しています。

 

さて、著者は、本書において、薔薇十字団の謎を三つの謎として探究して

います。一つは、ゲーテが疑問を呈した、薔薇十字団の起源の謎について

であり、もう一つの謎は、薔薇十字団が追求する目的とは何であったのか

というものであり、第三の大きな謎は、薔薇十字団は本当に実在したのか、

のちに薔薇十字団を名乗ったいくつものグループや結社は、その共同体を

本当に代表していたのかという疑問であるとしています。

 

薔薇十字団の三つの文書

 

歴史的存在として確認できる最初の薔薇十字団は、17世紀の初めに現れた

ということです。しかし、それは具体的な組織としてではなく、三つの文書

というかたちで現れました。

 

最初に出版された薔薇十字文書は、「ファーマ・フラテルニタテス(薔薇

十字兄弟団の声明)」(1614年)です。

 

この文書は、薔薇十字兄弟団と名乗る者(著者は、薔薇十字団の創設から

百十数年後の第三世代にあたるという)が、「ヨーロッパの首長、諸身分

階層、学者たちに宛てた」文書で、時代の短い分析に続き、薔薇十字団の

創立者ローゼンクロイツの伝記、創立期の兄弟団の様子と信条、ローゼン

クロイツの墓について述べ、「普遍的改革」の志を同じくする人々に対して、

文書などによって応答してほしいと呼びかけたものです。

 

ローゼンクロイツはドイツの没落貴族出身で、アラビア、エジプトなどへ

修行の旅に出てカバラーやヘルメス学などの東方の神秘学を学んだのち、

ドイツにもどり、真理を探究するために修道会に似た協会を創設したと

いいます。

 

薔薇十字団の信条は、(1)無料で病人を治すことを職業とすること(2)

特別な姿をするのではなくそれぞれの国の服装を身につけること(3)

毎年集まること(4)自分の後継者を選ぶこと(5)印章、合言葉は

「薔薇十字」とすること(6)兄弟団の存在を百年間秘密にすること、

としています。

 

「ファーマ」における薔薇十字の思想は、哲学と神学を同列に扱う楽観的

なものであり、その哲学は、古代の様々な思想に共通の叡智をみる「古代

神学」の立場、そして、様々な宗教や哲学のあいだに究極的には調和を

見出そうとする「哲学の平和」の考え方を引き継いでいるということです。

 

また、ユダヤ神秘主義「カバラー」や医師であり錬金術師であったとされ

るパラケルスス(パラケルススは薔薇十字団のメンバーではなかったと

いう)の影響も大きいということですが、「ファーマ」は、同時代に

流行した単なる黄金製造としての錬金術や魔術、そして巷にあふれる

錬金術書にははっきりと批判的な態度をとっているようです。

 

「ファーマ」における薔薇十字団は、真理を探究するための、少人数の知的

エリート集団である。よって、その哲学はふさわしくない人々には知られる

必要はない。しかし、知識は閉鎖的なものではあってはならず、探究者たちが

情報交換を行って学術を改良・進歩させていく必要があると訴えたという

ことです。

 

「ファーマ」に次いで出版されたのが「コンフェッシオ・フラテルニタティス

(薔薇十字団員の信条告白)」(1615年)です。本書は、「ファーマ」の

補足であると自称するもので、終末論的なトーンが強い点や反カトリックと

いう立場を鮮明に主張している点で「ファーマ」とは趣を異にしているよう

です。

 

「コンフェッシオ」は、キリストを奉じ、教皇に反対し、真の哲学に心を寄せ、

キリスト教的生活を営んでいる、神の光に照らされた人々を招いている薔薇

十字団に加わったならば、きっと自然が世界の至るところに散りばめておいた

富が分かち与えられるだろうと約束しているとのことです。

 

著者エデゴフェルは、「コンフェッシオ」が「ファーマ」と本質的に異な

っている点は、聖書の重要性を認めていることであると述べています。

そして、「コンフェッシオ」が「ファーマ」で表明された思想の解説だと

いうことになっているのに、「ファーマ」では楽観的な様相のもとに提示

された哲学がここでは欠陥だらけの終焉間近なものとして登場していると

しています。

 

また、天・地・人を究めた「哲学」を多くの人に知らせるべく「言葉の時代」

を宣言するが、自分たちの仲間になる者に対して沈黙を強制し、自分たちの

哲学を告白するが、すぐにそれは神の恩寵に恵まれた者でなくては到達でき

ないと付け加えるというパラドックスをはらんでいると言います。

 

とにかく、「コンフェッシオ」の精神は「ファーマ」のそれとは著しく異な

っているものだと言えるようです。

 

17世紀の薔薇十字団に関する第三の文書は、「クリスチャン・ローゼン

クロイツの化学の結婚」(1616年)という書です。錬金術の象徴を

ふんだんに用いた物語であり、全二作の作者は不明ですが、薔薇十字団の

創設者とされていたローゼンクロイツがこの物語の作者であるとされ、

一人称の語り手となっているというものです。

 

この物語は、ローゼンクロイツが、様々な試練に遭遇したのちに、選ばれて

結婚式に出席し、最後に「黄金の石の騎士」となる、その7日間の出来事を

描いた物語です。その結婚式は、錬金術の作業のように見えるが、結婚式

そのものよりも、結婚式に出席するにふさわしい者はいかなる者か、が中心

的なテーマになっていて、この中心的なテーマは、ローゼンクロイツの歩み

を語る物語の波乱万丈な筋書きによって追求されているということです。

 

ここで錬金術は、象徴的な機能を果していて、物語のなかに散りばめられた

夢、芝居、エピグラム、暗号、記号、音楽、小話などが象徴となって、「秘密

をほのめかしつつ隠し」「隠しつつ顕す」雰囲気をかもし出しているとの

ことです。

 

ところで、「ファーマ」に描かれているローゼンクロイツは、東方で秘教的

な知を学び、秘密結社の指導者になった賢者であり、その生涯は、師を尊敬

する弟子の視点から描かれていました。

 

これに対して、「化学の結婚」のローゼンクロイツは、みじめな、過ちを

犯す存在であり、絶えず迷い、挫折しめげてしまう。しかし、そのような

とき、ローゼンクロイツは、おのれの無価値を謙虚に認めて神にのみ依り、

頼むことを知っています。だからこそ、「神の恩寵」により特別な騎士団

のメンバーに選ばれます。

 

このように、「化学の結婚」はローゼンクロイツの歩みをたどることに

よっていかなる者が自然の神秘を知るにふさわしいかを描いています。

また、そこには、錬金術や秘密結社をめぐる騒動に対する批判や風刺が

あるということです。

 

なお、ローゼンクロイツの歩みが「化学の結婚」というテキストの縦糸

だとすると、その横糸をなしているのが、記号や場面や物語の構造に

おける象徴性、つまりアレゴリー性だとされます。

 

かくして、上記の薔薇十字文書の出現は、世の中に熱狂を巻き起こし、

これに刺激されて賛同、もしくは反対する文書が次から次へと現れ、

数年の間に2百以上の文書を数え、18世紀初頭までにはおよそ9百

にも達したということです。

 

ところが、のちに「化学の結婚」の作者は、実は、ヨハン・バレン

ティン・アンドレーエという人物であることが発覚するのです。

それも、晩年の自伝の中で、17歳の時に書いた、奇想天外な場面を

ちりばめた「遊び」であって、好奇心のむなしい労苦を描いたものだ

と述懐しているのです。

 

アンドレーエは、1586年に南西ドイツのヴェルテンベルク公国に

生まれた、ルター派の重要な一族に属す神学生で、その家紋は、ルター

にならって「薔薇と十字」であったということです。

 

では、「化学の結婚」の著者はアンドレーエだとして、他の二つの文書も

彼によるものだったのでしょうか?

 

アンドレーエが「ファーマ」と「コンフェッシオ」両文書の執筆に関与

 していたとする研究者、「ファーマ」のみに関わっていたとする研究者、

いずれにも関わっていないとする研究者など、意見が分かれている

ようです。

 

ただし、いずれにしても、両文書が若きアンドレーエの周辺で成立したこと

はほぼ間違いないとされています。

 

では、上記の文書が遊び、戯れのようなものであったとしても、これらの

文書が世に出た背景には何があったのでしょうか?

 

著者エデゴフェルによると、反抗的な学生であったアンドレーエは、30年

戦争に至るその当時の危機的な社会状況と、そこから派生する諸問題の重大さ

を認識し、ある主要な人物を批判したため、神学の勉強を中断しなければなら

なくなり、亡命を余儀なくされたこと、そして、そのことによる傷心と、トビ

アス・ヘスという、カバラーに傾倒し、法律家であり、医者であり、神学者で

ある変奇な人物との出会いが、第一の宣言、つまり「ファーマ」を誕生させた

のだろうとしています。

 

つまり、これらのことから全能の伝説的な人物、過ちを正し、新時代を告げる

人物を考えだしたのであり、その名前は彼の一家の紋章とルターの紋章から

思いついたに違いないと述べています。

 

しかし、事態は勝手に進展していき、大騒ぎになってしまいました。

 

それに対して、アンドレーエは、本来は、一生の間の様々な著作と行動に

より、ルター派の世界ではキリスト教徒の真の友愛団を推進しようと努めた

人であったようですから、いくつかの書の中で、薔薇十字団騒動への鎮静化を

始めます。

 

「ファーマ」に対して「化学の結婚」が、「コンフェシオ」を修正するものと

して「精神の剣の鞘」という書が著されたということです。

 

ただし、それは全面的に否定するわけではなく、肯定するにも否定するにも、

あまり明確でないデリケートな方法を用いたことになります。

 

 

著者は、これによって、アンドレーエは、学生時代の失敗を教訓に、直接、

下手な論争に首を突っ込むことを避け、秘密裏に、ローゼンクロイツを秘密

結社の指導者となった賢者という存在から、神の恩寵によってのみ救われる

迷える存在へと巧妙な修正を行おうとし、また、薔薇十字宣言から驚異という

偽りの魅力を排除し、宣言に含まれているメッセージの聖書的解釈を提唱し

ようとした、つまり、十字架の採用と薔薇十字の放棄へと導こうとしたと

述べています。

 

しかしながら、それに耳を傾ける者はなく、その後、薔薇十字神話は、

いやおうなしに、その作者の手を離れ、時間と空間を超えていたるところ

に出現することになって行ったようです。








 
 
 
 
 
 
 

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「霊魂に聞く-この世の人達が知っておきたい霊学宝典-」


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霊魂に聞く 
(水波一郎 著 アマゾン 発売)

 

水波氏一郎氏は、まえがきで、霊的な本は多数出版されているが、それらの

見解は一致してしないのはどうしてか? たとえば、「死後の世界はあると」

という本もあれば、「ない」という本もある。「生まれ変わりはある」という

本もあれば、「ない」という本もあるが、なぜこんなに違うのか? と問を

投げかけています。

 

医学の分野であれば、一つの結論が出るまでには、大勢の人達の手により、

数多くの実験が繰り返されており、そのようにして出た結論でさえ、覆さ

れることがあるのに、霊魂の分野は、昨日まで普通の会社員や主婦だった

人が、突然、「霊能力が出た」と言っては、様々な説を本で発表するという

現実があるのは、この分野は科学では認められていないとはいえ、おかしく

はないだろうかと言うのです。

 

霊能力は本当だったとしても、その人が生まれ変わりや死後の世界の仕組み

についての専門的な知識を持っているとは思えないのであり、そうしたこと

は、その後、十分研究してから発表すべきことではないかと言います。

 

自分が知らないことは誰かの本を参考にして書くので、皆、似たり寄ったり

の本が出るという噂がある。いや、それどころではなく、ニセモノが横行し、

ニセモノを全部除くと、本物がどれくらい残っているかが問題となるような

状況ではないかと述べています。

 

しかし、言えることは、真実は一つしかないということ、死後の世界があるか

否か、地獄はあるか否か、である。仮に、「ある」という主張が正しければ、

「ない」という主張は、どんな権威のある人の主張であっても間違っている、

ということだと言います。

 

水波氏は、霊的な分野は、多数決では決まらない世界であり、内容の真偽は

霊魂のレベル次第となる。自分は、霊媒であり、霊媒の主張を代弁することが

できるが、本書では、人間の頭脳で考えたことではなく、霊魂の言いたいこと

をそのまま記している、と述べてしています。

 

さて、水波一郎氏は、近年の霊的な状況の著しい悪化に対して警鐘を鳴らす

ために、精力的に著書を世に出し、その数は、すでに二十冊ほどに達して

いますが、本書は「霊学宝典」とあるように、それらの本とも関連する霊的

分野に関する様々なことを初心者にわかるようにQ&Aの形式でまとめた

教典であり、また、辞典でもあるといった印象を私は受けました。

 

本書で参照してほしいとされる既存の水波氏の著書をあげてみますと、「霊的

能力の謎」、「霊魂は居ると思いますか?」、「たましいの救い」、「幽体

の悲劇」、「霊魂からの伝言」、「神伝鎮魂法」、「神伝禊法」、「死後の

世界で恋をして」、「ネコの死後はどうなるの?」、「人類は消滅すべきか」、

「瞑想の霊的危険」、「神体」、「霊魂イエス(上・下)」、と多岐にわたり

ます。

よって、さらに詳しく知りたい人は、上記の本を読んでさらに認識を深める

ことができるようになっています。

 

ところで、本書の内容は、

 

第一章 霊魂や死後の生活の勉強

第二章 霊能力者 

第三章 スピリチュアリズム

第四章 この世に生まれた目的 

第五章 御利益 

第六章 霊魂の種類 

第七章 死後の生活の様子 

第八章 この世で霊魂が起こす現象 

第九章 霊魂と幸福 

第十章 救世主 

第十一章 霊的な愛 

第十二章 死後の為に

 

となっています。

 

全体的に、基本的な事柄についての質問と回答が述べられていますが、

たとえば、第三章の「スピリチュアリズム」については、スピリチュアリ

ズムは果たして科学か、宗教か? 果たして現在も価値をもっているのか

どうか? 等々、かなり詳しくそれらの問題点について触れられている

と思いました。

 

そして、第四章「この世に生まれてきた目的」では、従来、「人はこの世

に、心の修行をするために生まれてきた」というような、スピリチュア

リズムなどでよく言われてきたものとはまったく異なる原因が述べられて

います。

また、第七章「死後の世界の様子」で、今まであまり触れられなかった
生まれ変わりのメカニズムについてかなり詳しく触れられています。


さらに、第十章の「救世主」に関しては、我々がまず思い浮かべるイエス

・キリストとの関連のみならず、初心者にはなかなか理解しにくいこと

ですが、他の「キリスト」と呼ばれる複数の偉大な存在にまで踏み込ん

で述べられていて、我々の持つ既成観念の誤りを正しています。

 

その他、初心者向けの書物といっても、霊魂が述べることは、我々の霊的な

世界や霊魂に関する常識を覆すことばかりです。よって、きちんと理解する

ためには、何度も繰り返し読み返すことが必要だと思いました。

 

なお、全体を通して、他の著書でも、何度も述べられているとおり、現代は、

物資科学が幅をきかせ、無神論が蔓延しているため、幽気という霊的な気が

著しく汚れている時代であること、また、資本主義社会という過度な競争社会

のため、各人の幽体という霊的な身体をお互いに傷つけあっている時代である

ことを重ねて述べられています。

 

そのことは、現代人は、善人と言われる人も、悪人と言われる人も、また、

勝者も敗者も、共に、死後、下層の世界で苦しむ可能性が高いのであり、

何はともあれ、そのような世界に落ちないこと、落ちない対策を講じること

が霊的な存在としての人間の真の幸福につながると主張しています。

 

とにかく、人が死ぬまでに是非知っておきたい知識ということで、Q&A

形式の読みやすい本になっておりますので、多くの方に読んで頂きたいと

思います。

 

 









 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 






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出口王仁三郎と大本-鎮魂帰神法2-


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出口王仁三郎2 
(出口王仁三郎)





大本霊学の実践面の中核をなすとされるのが鎮魂帰神法ですが、大本教祖の

一人である出口王仁三郎に本田親徳の鎮魂帰神法その他の霊学が伝えられた

のは、直接には、明治31年4月、本田の弟子の長沢雄楯を通じてであった

ということです。(ただし、神話的には、すでにその一月ほど前、郷里の

高熊山で修行中に、霊界の本田親徳を通じて伝えられたとされる)

 

しかし、王仁三郎は、必ずしも「本田流の」鎮魂帰神を標榜し通したわけ

ではなく、「大本の」鎮魂帰神という場合には、本田説に見られない展開を

示しているようです。そして、王仁三郎を通じて鎮魂帰神に触れた旧大本

幹部の鎮魂帰神理解は、さらにそれを特殊化する方向での展開をしていった

ようです。

 

まず、初期の教団では、混乱気味ではあるが、病気直しとしての「鎮魂」が

あり、それに対して霊的存在の憑依あるいは潜在的憑依の顕在化を導く

ための「鎮魂」=「鎮魂帰神」=「神懸かり」、という大雑把な使い分けが

あったようです。そして、また、帰神法は、人為的な操作による治病力や

霊媒能力の発揮を目的としたものと、開祖出口ナオに起こる非人為的な

不可抗力によるものがあったということです。

 

出口王仁三郎独自の鎮魂帰神説は、大正13年に発刊された「霊界物語」第

48巻の「聖言」においては発表されたようで、その帰神説の骨格は、(一)

守護神における本・正・福の三区分、神人交渉の経路としての直接内流、

間接内流、直接外流、間接外流の四区分、(三)神人交渉の等級としての

帰神・神懸・神憑の三区分、という三つの用語群から成り立っていると

いうものです。

 

王仁三郎は、世界の成り立ちを、霊界と現界(自然界)の対と考えていて、

霊界を「高天原=天界」「中有界=精霊界」「根底の国=地獄界」の三つに

区分するのですが、人間は肉体を宿として精霊界を彷徨する存在として

います。

 

上記の、本・正・副守護神とは、人間の本体である精霊自身の三つの在り方

を表現し、その善悪を表現するものとしています。(本人の精霊の善悪の

状態に応じて感応してくる外来の精霊を表する場合もある)

 

内流・外流については、直接内流は、本体神からの影響力が人間に直に流入

することであり、間接内流とは、直接ではなく、中間の霊的存在を経由する

場合を指すようです。

 

また、外流のうち、直接外流とは、本田親徳の「他感法」に相当するもので、

神主(被憑依者)と審神者が対座して行うなかで、神主に種々の神霊の憑依

が出現する過程を指し、間接外流とは、潜在化した記憶が折にふれて第二

人格のように出てくるものを指すということです。

 

つまり、本田親徳の帰神法の三形態のうちの「神感法」が王仁三郎の「直接

内流」、そして、「他感法」が、「直接外流」に相当するようです。

 

そして、もう一つの三区分、「帰神」は「直接内流」に対応し、「神懸」は

霊界の善なる精霊が人間に憑依することを言い、「神憑」は邪なる霊の憑依

を意味することになるようです。

 

以上、かなり煩雑になりましたが、津城寛文氏の「鎮魂行法論」の中の王仁

三郎の鎮魂帰神に関する「まとめ」を引用すると次のようになります。

 

<人間の本質は精霊界の存在としての精霊である。それが自然界の肉体に

宿って、霊と肉の結合した「一種の機関」をなしている。この機関は背反

する二方面に向かう志向性を持つ。一方は、天界の「影像」に向き合う

志向性であり、他方は自然界の「世間的影像」に向き合う志向性である。

そして、この二つの領域は、それぞれ「内分」「外分」といわれる。内分

は霊界に向き合い、外分は自然界に向き合う。ところが、劣位の霊界で

ある「地獄に向かって内分の開けてゐる」ことがあり、その場合「内分

は外部に向か」っているとされる。>

 

<通常、人は内分が閉じて外分が開けた状態にあり、その場合、「外部より

入り来る諸々の悪と虚偽に依って」、悪霊=副守護神が「形作られ」、心身は

それらによって占領されることになる。この状態が「体主霊従」であると

いう。したがって、志向性を自然界にではなく霊界に向ける、しかも、邪悪

な地獄界にではなく高次の天界へ向ける、そういう回路を作って、内分が

天界に向かって開けた、いわゆる霊主体従の状態としなければならない。

そのための「霊界に通ずる唯一の方法」が「鎮魂帰神の神術」である。>

 

しかし、理論上はそうであっても、その具体的な方法となると、初期に自ら

さかんに他者に施した自己流の病気治しや憑きもの落とし、そして、本田親徳

流の技法の実践であったようです。そして、後期に至るとことさら特殊な技法

を説くことはなくなり、最終的には、「霊界物語」を読めば「魂に力がつき、

そこに内流が降り、判断力となる。こういうことを聖師様は常におっしゃった」

といわれるような、教典崇拝的な指示に収束していくことになったということ

です。

 

なお、「鎮魂」に関しては、帰神=憑霊のための準備のための行法、治病術と

して説かれる以上の独自の鎮魂説の展開はなかったようです。

 

津城氏は、このことから、出口王仁三郎はもっぱら天性のシャーマンとして、

「霊界」の情報を「現界」にもたらし続けたのであり、教団としての大本が

万人に向けて喧伝した「鎮魂帰神」による神霊実在の体験という大向こう相手

の看板は、王仁三郎自身が立てたものではないのではないかと述べています。

 

では、どこからそのような形が出てきたのでしょうか?

 

それを探るために、大本幹部に目を向けてみたいと思います。

 

さて、出口王仁三郎をはじめとする大本の「霊学」の世界観は重層的な構造

をもっていたとしながらも、津城氏は、やはりその特徴は、何よりもそれが、

シャーマニスティックな実体験の機会を広く一般人に提供するとされたところ

にあり、疑似的ながらシャーマン体験が万人に誘導可能であるという主張に

ほかならないと述べています。

 

そして、こういう主張の先鋒に立ったのは、出口王仁三郎ではなく、浅野

和三郎を筆頭に大正半ばに入信した知識層の幹部だったとしています。

「神霊界」の大本通信によると、外来者が浅野による鎮魂を受けたという

記事が頻出し、この時期の鎮魂帰神の指導は、もっぱら浅野が中心になって

いたことがわかるというのです。

 

浅野は鎮魂帰神の原理を「神と吾人の霊魂との感応也」とし、理想的には

人間の本霊である神とその分霊である人間の合一が目指されているが、

そういう理想的の合一が起こるには人間の霊魂が天賦の理想状態でなければ

ならず、そうでない場合―これがほとんどなのだが―人間の霊魂は本霊以外

の低級な霊と感応するという。そして、その感応=憑依が一時的でなく恒常

的であるとき、その憑依の霊を「守護神」と命名するのであるが、大本で行う

鎮魂帰神は、その守護神を呼び起こして、覚醒させ、改心を迫り、向かうべき

方向を示すところにあるとしています。

 

浅野の理想と現実の乖離は大きく、神と人と霊魂との感応ではなく、平均的

な一般人を対象とした「守護神の改心」のみに終始したようです。

 

また、浅野の鎮魂帰神説は、鎮魂と帰神を連続したものととられ、鎮魂は

すべて帰神に解消されてしまうことになったようです。津城氏は、現在、

これが内外一般の鎮魂帰神の理解、「鎮魂帰神の神懸かり」という短絡的

な受け取り方に直結していると述べています。

 

ところで、前回、水波一郎氏の帰神法について、とりわけ、審神者の重要性、

困難性について触れました。よって、ここではもう述べませんが、それに

照らしても、一般人に憑霊現象を起こすことは危険極まりないことでは

ないかと思われます。

 

ただし、出口王仁三郎自身には大本幹部の逸脱の責任はなかったのかどうか

疑問が残りますので、最後に、水波氏の現在は絶版になっている旧著「大霊

力」の記事を取り上げ、出口王仁三郎の誤り、そして、武内宿禰との関わり

を見ておきたいと思います。

 

それによると、武内宿禰は、霊魂となったのちも、成長し、偉大な指導霊と

なったということです。彼は何人かの聖者や神人を指導したが、その中の

一人が出口王仁三郎であり、彼に神伝の法、真の帰神法を伝えようとした

ようなのです。

 

しかし、それは王仁三郎によって曲げられてしまったようであり、その

過ちを王仁三郎の指導霊団は今も悔やんでいるということです。

 

帰神法は単なる神懸かりではないのであるが、王仁三郎はそこを間違った

ようなのです。よって、これを正すために武内宿禰は王仁三郎の指導霊団

に参加したということです。

 

しかし、ときすでに遅く、サイコロは振られてあとであり、坂道をまっしぐら

に転落していったようです。

 

帰神法は、命をかけた技であり、大衆化しえないものであるが、それを行った

王仁三郎の罪は大きい。しかし、この偉大な指導者を罪人にしないために、

その力と業績を生かすために、彼の指導霊団は今も懸命に修正しようとして

いるのだそうです。

 

水波氏は、正しい鎮魂は、大衆のものであり、一人ひとりの霊的進化のために

こそあるが、帰神はそうではなく、天才のための法であると述べています。

 

 








 
 
 

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本田親徳-鎮魂帰神法1-


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 本田親徳2
(本田親徳) 
 



以前、
鎮魂行法を取り上げたとき、本田親徳(ほんだ・ちかあつ)

長澤雄楯(ながさわ・かつたて) 大本・出口王仁三郎に至る鎮魂

帰神法については、それが鎮魂であるのか、帰神であるのか微妙な

問題を含んでいるため、割愛しました。

 

よって、今回、改めて取り上げてみたいと思います。

 

まず、本田親徳ですが、津城寛文氏は、「鎮魂行法論」の中で、本田親徳

の鎮魂説・帰神説は、さらにさかのぼれば何によるのか、文献上に直接に

先行物を見るのは難しいと述べています。

 

平田篤胤の影響は確かに大きいものの、鎮魂行法、帰神行法の実際に関

するかぎり、本田説の直接の典拠ともいうべき記述は篤胤にはないと

しています。

 

漠然とした言い方をすれば、むしろ、材料を直接には記紀神話や「狐憑き」

の実見、社寺巷間の口寄せ、稲荷降ろし、行者の諸説等に求めながら、

それをかなり体験的な思考錯誤で自己流に体系化したものと考えるのが

妥当ではないかと述べています。

 

さて、本田親徳は、体系化として、帰神の対象としての神霊の区分(有形

と無形、正神と邪神)と、帰神行法の方式区分(自感法、他感法、神感法)

を行ったということです。

 

まず、帰神とは「幽斎」とも呼ばれ、「神界ニ感応スルノ道」と定義されて

いますが、その標準的な形式(他感法)は、被憑依者を指を組んで座らせる、

そして、対座した者が笛を吹くうち、憑依が起こるというものです。

被憑依者は「神主(かんぬし)と呼ばれ、それに対座して憑依を促し、

慿霊の後はこれを統御する者を「審神者(さにわ)」と言いますが、「審神

者」の役割は憑依した神霊の真偽正邪、功業その他属性、「公慿」か「私慿」

か(公共性を持つ託宣か、私的な尋ねに応じるものか)、などを弁別する

こととして、重視されるということです。

 

本田親徳の帰神法の形式は、このほかに「自感法」と「神感法」があります

が、前者は上記のような神主・審神者の対座形式をとることなく、自ら一人

のみで帰神を追及する行法で、後者は対座の形式をとらないだけでなく、

帰神の意向も準備もない人物に、神霊の側が一方的に憑依してくるものと

されています。

 

ところで、大本では、「鎮魂・帰神」とつなげて表現されることが多かった

ようですが、もとの本田説における「鎮魂」と「帰神」は、多様で微妙な

関係にあるものの、一応区別された実践であったようです。

 

とはいえ、両者は、並べて記された箇所では明らかに区別されているようで

いながら、他の箇所では、区別が曖昧な表現がなされているところもある

ようです。つまり、大体において、「帰神」=憑霊と等置しても問題はないが、

「鎮魂」のほうは、ある場合は帰神の準備的・基礎的行法、ある場合は、

帰神と区別がつかないもの、ある場合は、憑霊ではなく、脱魂的な状態を意味

するものと、説明が変化するということです。

 

よって、結果的に、鎮魂と帰神の区別が曖昧になってしまうことは避けられ

ないということになったようです。

 

津城寛文氏によると、本田親徳の鎮魂と帰神は非常に微妙な関係にあるが、

憑霊という一つの事象に対して、それを被憑依者の側の受動的な立場で表現

すれば「帰神」となり、憑依せしめる側の能動的な立場で表現すれば「鎮魂」

となりがちだという傾向が浮き彫りになるという。

 

そこから、本田親徳は、一つの霊魂憑依という現象をめぐって、その二つの

傾向を対立させたうえで、憑依させることを「鎮魂」と表現し、憑依される

ことを「帰神」と表現したのではないか、という結論が得られるのではないか

と述べています。

 

以上のことから、津城氏は、本田親徳の説いた鎮魂帰神行法は、単純に「鎮魂」

と「帰神」という二分法では整理のつかない複合的なものであることがわかる。

そこでは、憑依傾向と脱魂傾向が相互にからみあっており、何か単純な一対一

の対応関係にないのである。本田親徳の説自体がこうした微妙な多義性、多様性

を孕んでいるので、その説や法を継承すると称する者たちの理解がまちまちで

あるのも無理からぬことではないかと述べています。

 

さて、本田親徳の弟子の中で、その鎮魂法、帰神法をもっともよく伝える人は

長沢雄楯だとされます。彼は、明治18年に本田親徳と面会し、詰問をこと

ごとく論破されて入門、霊学と霊術=鎮魂帰神を伝えられたという。その後、

宗教結社・稲荷講社を設立し、多くの弟子を育成して鎮魂帰神を広めたと

いうことです。

 

長沢は、本田が帰神の対象としてあげた「無形」「有形」の区別を、無形の

神懸かりとは「幽の帰神」、有形の神懸かりは「顕の帰神」と断定したと

されます。

 

つまり、本田においては、「有形」「無形」は神格の違いであったが、長沢に

おいては、帰神=憑霊の発現形態の潜在・顕在の区別に置き換えている

ようです。

 

津城氏は、有形・無形という神格のカテゴリーを、それぞれ憑依における

「顕・幽」の違いに等置する長沢の理解が、本田説の順当な展開かどうか

の判断は、文書上は明らかでないため困難であるとしています。

 

ともかく、本田親徳から長沢雄楯を通して出口王仁三郎や大本幹部に伝えら

れていくことになるのですが、それに移る前に、水波霊魂学を提唱する水波

一郎氏の帰神法について触れておきたいと思います。

 

水波氏の監修によるHP「霊をさぐる」の「霊魂と交信する技術」の中で、

HPの制作者は、水波氏は、本田親徳の系統とは異なる帰神法の技術を完成

させたと述べています。

 

それは、この国に長い間消えていた神秘の技であり、特殊な霊的身体を持つ

人にしか出来ない技術だということです。

 

HPの制作者は帰神法について次のように述べています。

 

「私は監修者と実際に帰神法を行ないました。そして、分かったのです。

本物のレベルの高い帰神法を行なう事により実感したのです。本物の帰神法

は誰にでも出来るものではない、という事を。そして、偽者はすぐに分かる

のです。それは、まるで、美しい音楽を聞いた後に、はずれた音がすぐに

分かるような、それに似た感覚なのです。」

 

また、水波氏がこの技術を完成したとき、それに関わった古代の日本の

霊魂が次のように言ったということです。

 

「あなたはこの国の修行者が歴史上一人も授からなかった秘密の技術を

持ちました。この技は『神伝の法』といい、太陽の国が長い間封印して

きた秘密の法です。それを完成なさったからには、私たちはあなたに従う

事になります。あなたが、私に霊としての死を与えるとおっしゃれば、

私はそれに従います。それがあなたに、この過酷な使命を与えた、私たち

全員の一致した意思です。」

 

HPの制作者は、監修者を指導して神伝の法の完成に関わった霊魂たちは、

自分からみれば神のような存在であったが、その神のような霊魂達が、

物質の体を着て御飯を食べないと生きられない、そんな弱い人間としての

水波氏に対して、自ら奴隷になると言われたのを聞き、初めて自己犠牲と

いう事の意味と、魂と魂の結束の深さを知った、と述べています。

 

そのほかに、霊媒現象(帰神状態)を起こすときの、審神者(さにわ)の

役割の重要性と難しさについて述べられていますので紹介しておきたい

と思います。

 

普通、審神者の役割は、懸かってきた霊魂の真偽正邪を判別することと

言われていますが、それよりも、まず、一番大切な事は、より高級な霊魂

に入っていただくためにどうするべきかを考える事、この事前の環境作り

が実は最も重要なポイントだとしています。

 

審神者を自称する人の中には、初めての人をいきなり霊媒にして、霊媒現象

を起こそうとする方がいるようですが、こうした事は絶対に行なってはなら

ないのだそうです。なぜなら、仮にそれで本当に霊媒現象が起こった場合は、

十中八九、意識の高い霊魂が入ることなどなく、間違えば、その後、その霊媒

になった人は意識の低い悪い霊魂の餌食にされてしまう心配があるからです

 

一度低い霊魂が身体内に入るルートを付けてしまうと、次からも同様に低い

霊魂が入りやすくなるらしいのです。また、そうした低い霊魂から発せられ

た気が霊媒の身体に染み付くために、その後、高級と言える霊魂が入り得る

可能性はほとんどなくなるそうです。 

 

よって、大切なのは、霊媒に入って来た霊魂の正体を見極める事ではなく、

それ以前に、意識の低い霊魂が入らないようにする事だということです。

霊魂は実に巧みに人間を騙すので、いったん入った霊魂の正体を見破る

事は大変難しく、肉体の目でしか見ることのできない人間には、なかなか

できる事ではないと述べています。

 

かくして、審神者は、まず、高い霊魂しか入れない状況を作る事がなにより

大事なのですが、その他にも、周囲の騒音に気を配ったり、側にいる人達が

疑いの目で見ていたり、攻撃的な念を発している場合は、それを防ぐために、

そうした念に対する対処もしなければならず、審神者という立場の人は、

霊媒現象が終了するまで決して油断する事なく、霊媒(神主)に好都合な

環境を提供し続けなければならないのだそうです。

 

ところで、話題を鎮魂帰神法に戻すと、長沢雄楯から直接指導を受けた人の

中には、大本・出口王仁三郎のほかに友清歓真(ともきよ・よしさね)や

佐藤卿彦(さとう・あきひこ)という人たちがいたということですが、本田、

長沢の鎮魂帰神理解からより大きく乖離していくのは、大本系の鎮魂帰神説

のようですので、次回は、友清、佐藤には触れず、大本・出口王仁三郎の説

を見ていきたいと思います。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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道教教団の成立-道教とは何か2-


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道法変遷






道教という教団の成立に際し、その原点となったが、五斗米道(天師道)、

太平道などの教団であったとされています。

 

まず、五斗米道(ごとべいどう)とはどういう教団であったかを見て

いきたいと思います。

 

創始者は、沛(はい)の国(現在の安徽省)から蜀(四川省)に移り住み、

鵠鳴山(こうめいざん)で修行したという張陵という人です。もともと仙道

を志した人のようですが、鵠鳴山を本拠に道書を作り、人々に布教したと

いうことです。歴史書には「道書」とだけ記録されて詳しいことは不明で

あるが、符(おふだ)を用いた呪術であったようです。

 

張陵のもとに多くの入門者が集まり、教団は拡張します。彼は門弟信者に

米や肉などを納めさせたようで、五斗米道という名は、五斗の米を納め

させたところから人々が称した名だということです。

 

五斗米道は、張陵の孫の張魯の頃に天師道と称されるようになったと

言われていますが、いつごろからそうなったかは定かではないようです。

 

なお、この張魯のころになると、教団の状況がかなりわかってくるようで、

人の犯した罪過が病気の原因となると考えられていたようです。そこで

病人は静室(靖室)という自省のための一室で自ら罪を反省し、服罪の

意志と、二度と罪を犯さないという自戒をあらわすために、天地水の

三神に対して、三官手書という誓約書を書いて奉げたということです。

 

また、教団は、鬼卒と呼ばれる信者と、数十人から数百人の鬼卒を束ねる

祭酒、さらにその祭酒を監督する大祭酒、教区の長である治頭、そして

最上位の師君、つまり天師と称される教主が君臨するという、完全なピラ

ミッド型の組織を構成したとされています。

 

また、義舎という無料の接待所を設け、行旅中のものが食料に窮したとき、

そこに備えられた食料を必要なだけ取ることができたという。これは、流民

・難民・旅行者の教化を目的としたものであったが、互助的救済の性格を

もつ一つの善行でもあったようです。

 

このように、五斗米道の思想の中心は、道徳の重視だと言えます。罪過・悪行

が病の原因であるという考えにもとづいて、悪行を戒め善行を賞揚する。

それに三官に対する祈願や呪術が配されて教義づけされた教団だということ

になります。

 

しかし、それだけでは道教とどう関連するのかがわかりません。

 

実は、五斗米道では、祭酒が中心になって信者に「老子」を教えていたという

のです。当時の学習法は書物を暗唱することであったから、おそらく祭酒は、

多くの信者たちが声を出して「老子」を唱和するのを指導していたのでは

なかろうかというのです。

 

なお、この教団では房中術の実践も行われたということです。これは黄赤術

と称され、養生法・仙法として用いられたということであり、道徳性を説く

一方で、非禁欲的な価値観をも有していたことになります。

 

いずれにせよ、「老子」を唱和することは、この教団が単なる病気治療の呪術

的新興教団ではなく、「老子」の教えを実践する、あるいは老子その人を崇拝

するという要件をもった道教的な教団であったことを示すものではないかと

言われています。

 

さて、では太平道とはどういう教団なのでしょうか?

 

張陵と同じ頃か、あるいはもう少し早くに、山東半島の南部沿岸地域の琅琊

(ろうや)というところに干吉(かんきつ)という修行者が現れたという。

干吉は、「太平清領書」という道書を得たが、この書は、陰陽五行説や予言

の学である讖緯(しんい)にもとづく社会変革を説いたものであり、中には

子孫の繁栄を実践する房中術の類も含まれていたということです。

 

「太平清領書」は、現在、「老子」、「荘子」以外に、道教の諸法や儀礼を

記録したものとしては最も古い経典であると考えられているようです。

 

干吉は、この「太平清領書」を中心に教団を設立したが、それが太平道と

なります。太平道の教法は五斗米道のそれとよく似ていて、罪の告白に

よる療病を主としたようです。

 

太平道の経典が「太平経」ですが、その思想の特徴は、主に三つあって、

第一は、「元気」説、第二は、「承負」という観念、第三は、方術の重視だ

とされています。

 

「太平経」では、上古にはすべての人々が清らかで純粋な「元気」と「合一」

して「真の道」にかない、相和して幸福に長寿を保って生きていたという。

しかし、上古-中古-下古と、時間の経過とともに、世界は邪悪で汚濁した

「気」が満ちてくるようになり、「巧偽」「詐欺」におおわれ、さまざまな

「災怪」が現れる衰退の時代になったと説きます。

 

そして、「承負」とは、後の世代の人が前の世代の人の犯した罪を承継し、

前の世代の人が後の世代の人に災禍を負わせて、時代の前後を通じて

つぎつぎと伝えられていくという罪責の連鎖を指すが、今は、「承負の極」

に達している終末の世であると同時に、「太平の気」がまさに到来せんと

しているときであると説きます。

 

では、この終末の世から、いかにして人々は救済され、「太平の気」が

満ちる世界に再生できるのかというと、「金闕後世帝君」(きんけつこう

せいていくん)が降臨するとき、道を信じ善行を積んだ人のみが「種民

(選ばれた人)」として救われると説いたということです。

 

実際に、信者の一人であった張角という人が、山東を中心に広く信者を

糾合し、数十万人に及ぶ一大結社を確立したのち、いわゆる黄巾の乱を

起こすことになります。二十年近くに及ぶ反乱の結果、太平道は鎮圧され、

教団が消滅するなかで、多くの信者は五斗米道に吸収されていったという

ことです。

 

後漢末の社会的混乱、そこからくる不安、あるいは災害や疫病の流行などが、

教団の拡大や反乱の要因となったようですが、もともと、この二つは別々の

宗教団体であり、そこには、「道」の観念による統一性は見られなかったと

いうことです。

 

さて、以後、天師道(五斗米道)は、太平道を吸収したこともあって勢力を

拡大していくようです。ただし、4世紀前後の長江下流域の宗教状況に

ついて、前回、触れた葛洪の「抱朴子」では、はびこっている多くの金儲け

のための教団、人々を惑わすだけの教団を禁止せよとか、太平道の張角の

一派は姦党を結んで反乱を起こしたとか、当時の宗教事情を批判しています

が、天師道については特に触れられていないようです。

 

もっとも、「抱朴子」は外丹の思想を中心に、いかに不老不死を得るかと

いう視点から書かれているため、そういった信仰的な側面についてはあまり

記録されていないのではないかということです。

 

とにかく、葛洪の仙道が、天師道の流れとは異なるものであることは確かな

ようです。

 

さて、4世紀の初めに「抱朴子」が書かれたのち、半世紀が経過したころ、

この外丹を中心に説く経典とはまったく様相が異なる経典が現れたという

ことです。

 

それは、「上清経」の根本経典となる「上清大洞真経」なるものです。東普

時代、南京郊外の聖地として知られる茅山(ぼうざん)という山で修行して

いた許謐(きょひつ)とその息子の翽(かい)が、同じ修行者であった楊義

が神がかりの状態になって神霊の言葉を述べるのを筆記したというものです。

それが事実かどうかは不明ですが、要は、この経典を唱えることで神仙に

なれる、あるいは天神を身体神として存思(瞑想)することによって、不滅

の肉体を持った神仙になることができると述べているようです。

 

彼らは、上清派、あるいは茅山派とも呼ばれたが、その特徴は、仏教の思想

を取り入れながら、誦経(じゅきょう)や存思(瞑想)によって仙道を完成

させようとしたこと、特に気の技法を重視した点にあるようです。

 

もう一つの大きな流れに、「霊宝経」と言われるものがあります。

 

後漢のころから、山林に入って薬草を採取する修行者の間で、山林の悪鬼や

邪鬼に犯されず、狼や虎や蛇にも襲われず、さらに名薬を発見することが

できる効能をもった護符が信仰されていて、霊宝符、あるいは霊宝五符と

呼ばれていたが、その符には、山林に入る吉日を選ぶ方法や、仙薬の調合法

などが書かれた文書が付属しており、それらを総称して「霊宝経(ほうれい

ぎょう」と称したということです。

 

「霊宝経」は、4世紀の初めには存在したようですが、その頃からさかん

になりはじめた仏教の経典の形式や、先に述べた「上清経」などに影響

されて、その後、単なる符の信仰だけでなく、救済や長生の思想を取り

入れた経典が作られていったようです。

 

もともと道教の救済は、修行者が自分自身の不老不死のために求めるもの

であったが、大乗仏教の思想、生あるものすべての救済を願うという考え

の影響で、修行者が他人のために他人の救済を行うという新しい要素が

加わったということになります。

 

ここに来て、他者を救済するものとしての聖職者、つまり道士と、救済

される信者という構図が新しく道教の中に確立することになるという

ことです。

 

さて、天師道に話をもどすと、その後、天師道は乱れていったようです。

教団そのものは存続したが、治(教区)の責任者である大祭酒や祭酒など

の役職の者は、その地位を世襲し、上納金をたくわえ、信者に金品を強要

したという。予言や占いなどの呪術を行う者、黄赤術という房中術を濫用

する者など、内情は惨澹たるものであったということです。

 

そんな中、南北朝時代、北魏に現れたのが、天師道の道士であった冦謙之

(こうけんし)という人物です。

 

彼は、乱れた天師道を正すために、「雲中音誦新科之誡」(うんちゅうおん

じゅしんかのかい)という経典を太上老君(老子の神格)から授けられた

として、(一)道教を清潔で整った教団とする、(二)教祖張陵以来の呪術

を退ける、(三)房中術を廃止する、(四)上納金を廃止する、という

戒律を打ち出します。

 

この教団は、のちの新天師道と言われますが、それは単に乱れた天師道を

もとの状態に戻したのではなく、新たに老君から授けられた戒律によって、

張陵以来の呪法等を偽法として否定し、冦謙之自身が教祖となった、

まったく新しい教団であると考えたほうがよいとされています。

 

この北魏における冦謙之の改革は一代かぎりで消滅したようです。しかし、

その戒律の中には注目すべきものがあり、その一つ、「大いなる道は清虚」

という考えは、「老君の道の教え」と解釈できるもので、この頃から道

の教えとしての「道教」という観念を道士が自覚しはじめたことを示す

ものではないかと言われています。

 

一方、南朝の天師道は、陸修静という人によって仏教に対抗できる形態

に改革されていったということです。

 

天師道には、罪過の告白によって災危を除く教法がありましたが、陸修静

はそれを斎戒の儀礼として位置づけ、罪過を懺悔して祈願の達成を図る

儀礼を構築したようです。

 

つまり、仏教の他人のために徳を積み、他人を救う利他行にもとづき、

信者の寄進により斎場を整え、道士を招いて布施し、道士は信者のために

修法を行って功徳を立て、それを回向する。それによって祈願が達成される

というシステムです。

 

また、陸修静の改革の中で重要なものに経典の整備があるとされています。

まず、仏教の大乗思想にもとづいて霊宝経典を整備し、それに従来の

「上清経」、そして後漢以来の伝統をもつ「三皇経」を道教の教えを伝え

る中心経典と考え、これを「三洞(さんどう)」と名づけました。

 

[上清経]を伝えるものはそれだけ、「三皇経」を伝えるものはそれだけ

と、これまで会派的要素の強かった道教は、ここにおいて「三洞」という

統一概念にまとめられることになります。

 

現在の道教という概念は、この「三洞」という理念を受け継いでおり、道教

の成立をこの時点に置く見方をする研究者が多いということです。

 

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「道教とは何か」-道教の成立以前-


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道教とは何か 




 

 

道教とは何かと問われて、思い浮かべるイメージは、まず、老子や荘子の

無為自然の高遠な哲学であり、一方では、香煙の絶える間もないほどの参拝客

であふれている道教の寺院とそこにおけるきわめて現世利益的で呪術的な宗教

のイメージがあり、さらに浮世とは隔絶した仙境に住み、不老不死をめざして

厳しい修行を行い、不可思議な術を行使する仙人の姿であります。

 

しかし、それは、どう考えても異質なものが同居しているように思えますし、

どこか不釣り合いなものがあるように思えます。

 

よって、まず、道教の成立以前に目を向けてみたいと思います。ともかく、

道教は、仏教が釈迦によって、キリスト教がイエスによって創始されたの

とは異なり、誰かが開いた宗教ではないということであり、日本の神道の

ような自然宗教であると言えるようです。

 

それでは、道教を構成することになる思想、技術を見ていきたいと

思います。

 

まず、道教の基盤となるのは神仙説、神仙思想です。

 

神仙説というのは、紀元前4世紀頃からの文献に記される仙人伝説、

あるいは仙境伝説にもとづく仙人信仰なるものです。

 

渤海湾中にあると伝えられた三神山が仙人境として有名であり、ここに不老

不死の薬があるとされために、紀元前3・4世紀の戦国時代、渤海沿岸の燕や

斉の国の王、後には秦の始皇帝がこの山を探させたということです。その山に

住む仙人は不老の薬をもつと信じられていました。

 

仙人は孤高、孤独の存在です。山の奥深くに住み、時折、町の中に姿を現し

ます。数百歳の寿命であるから、親しい人はみな死に絶え、彼を知るものは

いないという孤独な人生となるはずです。しかし、それでもなお仙人になる

ことを求めたのはなぜでしょうか? 生への執着は、古今東西における万人の

願望ではありますが、ここまで不死や永遠の生命に固執するところは他に見ら

れないものであり、特有の民族性が感じられます。

 

さて、仙人になるため、具体的にどのような方法を行使したのでしょうか?

 

最初にあげられるものとしては、錬金術(煉丹術)があります。「史記」に

渤海沿岸の燕・斉の国に方僊道(ほうせんどう)という錬金術を行う集団が

存在したという記録があるようです。しかし、その錬金術は炉を祀って鬼神

を呼び寄せ、その鬼神の力によって黄金を作ろうとするものであり、老子や

荘子の「道」の思想とは関わりがなかったようです。

 

ちなみに、仙人には三つの段階があるようです。最上の仙人を天仙といい、

これは錬金術によって作られた黄金(金丹)を服用し、白日のもと天上界に

昇って仙人となったもので、これに次ぐのが地仙といわれ、天仙にはなれず、

地上世界に住む不老不死の仙人を指します。三番目が尸解仙(しかいせん)

といい、それは仙人になる方法の中で最も下位に属するもので、一度死の

苦しみを体験したのち、死体を残して仙人になることをさすようで、方僊道

はその尸解を目的としたということです。

 

神仙説が老子や荘子の「道」の思想とかかわりをもつようになるのは、4世紀

初期に書かれた葛洪(かっこう)の「抱朴子(ほうぼくし)」に至ってからで

あるとのことです。

 

「抱朴子」は、錬金術を最上の得仙法とし、これによって作られた黄金、すな

わち金丹を服用することによって天仙になることを説いたもので、得仙と錬丹

術を最初に理論的に裏付けた文献だそうです。

 

この中では、錬金術を行うに際して、必ず老子の神座を立てて祀るべしと

されているようです。

 

つまり、神仙説は、「老子」、「荘子」の思想から生まれたのではなく、それら

が書かれたと考えられる紀元前4世紀頃には、すでにかなり広く流布していて、

「老子」、「荘子」は、逆に、そうした神仙の存在を借りて、その思想を表現

したということです。

 

錬金術を説く神仙の説と老子、荘子の思想とは、もとは別々に説かれていたと

いうことになります。

 

「抱朴子」は、仙人になる唯一の方法を金丹の服用とするが、伝説として語ら

れている古い仙人の中には、房中術によって仙人となった彭祖(ほうそ)や、

守一行気(しゅいつこうき)の法によって仙人となった劉根などの名が残され

ており、「抱朴子」にも存思(瞑想法)によって不老不死を得ることができる

と記されているようです。

 

ともかく、金丹の完成は極めて困難であり、一朝一夕にしてなし得るものでは

なく、数十年、数百年かけてようやく作り得るのであるから、その間は、その

他の仙薬や仙法によって寿命を延ばし、最終的に金丹を服用して仙人になるの

が「抱朴子」の基本的な考え方のようです。

 

仙薬の服用以外の長生の方法には、その代表的なものに導引法と行気法があり

ます。いずれも気にかかわる行法であり、今日の気功法の原型になります。

 

導引の特徴は、単なる呼吸法ではなく、それに動物の形態に倣ったポーズが

加えられたものです。つまり、導引法の特徴は、呼吸法と体操が組み合わされ

ているところにあります。

 

一方、行気法は、吸収した気をどのように体内に巡らせるかという点を重視

した技法です。体内に気の流通を効果的に行うために、存思といわれる瞑想法

を用います。それは無念夢想ではなく、かなり強力な意識の集中であり、気の

コントロールをはじめとして、神との交感にまで用いられる道教の基本的な

技法となるようです。

 

さて、神仙説のほかにも、道教は、遠く古い時代から伝わる呪術、つまり、

呪言、呪符、攘災術などをも基盤にしています。

 

呪言とは、いわゆる呪文、まじないのことであり、それは太古からあったで

あろう言霊信仰、つまり、発せられる言葉そのものに呪力が潜んでいるという

信仰が背景にあったようです。

 

呪符は、いわゆる「おふだ」であり、古くから呪力があるとされていたよう

です。なお、呪符には、善符、凶符の別があって、善符は駆邪または消災

治病などに用いられ、神霊に対する願望の表示であり、凶符は、主として

人間同士の間に用いられて、人を疾病にかからせ、また、死に至らしめ、

あるいは嫉妬や未練を抱く人の欲求を遂げさせるものです。

 

そのほかにも、鬼門とか風水とか占朴など、以前から民間にあった方術も

加わっていったようです。

 

以上のようなことを踏まえると、様々なものが現世利益を旗印に掲げる道教

という入れ物の中に取り込まれていったという過去の歴史があるために、

最初に述べたような雑多なイメージを抱いたことになります。

 

とにかく、道教とは、古くから民間に伝わる仙人信仰などの民間信仰、そして

さまざまな呪術を基盤にして成立したものであり、最初は、人々の世俗的な

願望をかなえるための呪術的な集団のようであったのが、教勢が拡大して

信者が増大し、また、同じ時期に仏教も浸透し始めたこともあって、宗教

教団的な色彩を濃くしていったようです。さらに、知識人や貴族向けに道教を

権威づける必要から、仏教に対抗して、尊像や経典が作られるようになり、

老子や荘子などが取り入れられるようになったというのが本当のところの

ようです。

 

 

 

 
 

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