『龍-霊魂の世界から舞い降りた霊力-』


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 龍
  (水波一郎 著  アマゾン 発売)
 
 龍というのは、不可思議な存在です。西洋、とりわけキリスト教の

世界では、龍はドラゴンと呼ばれ、たいてい「悪」の象徴とされ、

悪魔と同一視されたり、邪悪な生き物であるというイメージが付き

まといますが、東洋では、逆に、龍王や龍神などと呼ばれ、神的な

存在、霊的に高貴な存在であるとされています。

 

ただし、その姿は、どちらも、(西洋の龍には、翼があったり、火を噴い

たりするものの)、巨大なトカゲのような、あるいは、大きな手足のある

ヘビのようなイメージがあり、似ているように思えます。

 

さて、龍は、一般的には、架空の存在、想像力の産物とされますが、

それが実在するとしたらどうでしょうか?

 

著者の水波一郎氏は、龍は実在するというのです。ただし、物質的な存在
としてではありません。幽質の世界(死後の世界)の生命体としてです。

 

本書では、今まで大きな謎であり、ほとんど知ることができなかった龍の

真実、正体について詳しく述べられています。

 

ただし、水波氏が今まで全く龍について語らなかったかというと、そう

でもありません。

 

水波氏は、ずっと以前に、「霊魂小説」という形で、『龍の正義』という

タイトルの作品を著わしておられます。(詳しくは水波一郎氏監修のHP

「霊をさぐる」の[霊魂小説]を参照)

 

主に十代の人を対象にしたと思われる、一見ファンタジックでありながら、

それでいて深い意味が込められた作品ですので、関心のある方は読んで

いただくとして、そこにおいても、龍という存在の性質、特徴について

語られていたのです。

 

たとえば、龍は、人間同様に知性があって、人間よりはるかに霊力が強い

霊的生命体であること、また、龍には高貴な龍とそうでない龍が存在する

こと、そして、さらに、龍は人間の姿など仮の姿で活動したりするが、

本当の身体は巨大で、霊的成長によってその身体の色が青から白へと変化

していくこと、等々です。

 

なお、そのほかに黒い龍がいるということですが、本来は、黒い龍は存在

しなかったのであり、利己的で愚かな人間と関わった結果、霊的に汚れ、

黒くなってしまったのだそうです。

 

また、そこでは龍の姿について、次のような表現がなされています。

 

「次の瞬間、鮮やかな夕映えの中に、ひとひら、また、ひとひら、まばらに

広がる雲の間に間に、見事な龍が姿を現した。その色は青で、美しく、顔は、

よく絵で見るような龍の顔であるような、それでいて、なぜか、違うような、

不思議な雰囲気を持っていた。胴体は大きく、巨大な蛇というよりも、胴体

が長い四つ脚動物のような形態をしている感じだった。」

 

なお、この作品は、龍の支援を受けて邪悪な霊魂と戦うヒロインたち、と

いう設定で進行しますが、最後には、思いがけない霊的真実を知るという

展開を見せることになります。

 

さて、それでは本書にもどりますと、『龍の正義』によっていくらか龍と

いう存在の謎が明らかにされたものの、では、そもそも、なぜ、龍は人間

と関係を持とうとするのか、人間を援助しようとするのか、から始まって、

さらに、龍の隠された正体は何なのか、そして、龍は、何を思い、どういう

活動をしてきたのか、現在、どういう活動をしているのか、等々、次から新

次へと新たな疑問が湧いてきます。

 

それらの答えについて、詳しく知りたい方は、本書を読んでいただくとして、

その一端のみを紹介しておきたいと思います。

 

本書によると、龍と人とは関係が深いどころか、我々人類に対する指導霊の
立場に立つ
龍が存在するのであり、龍こそが、我々人間の霊的生命体として
の本当の姿を知っているというのです。

 

それも、何と、龍もかつて物質界で生きていたことがあるというのです。

人類の祖先がまだ今のような文明を持つ人類でなかったころ、そのころ、

物質界で生きていた人間たちこそが龍であったようなのです。

 

物質世界の科学では、物質界の生命体は長い時間の経過とともに進化して

きたとされ、人間は猿のような身体から進化したといいます。しかし、

それはキリスト教の聖書を否定する考えであり、そのため、科学と宗教は

深く対立してきたという歴史があります。

 

本書は、物質の身体の変化だけを見ているのが科学であり、霊的な部分の

象徴的な話を神話としているのがキリスト教であるとして、その両方を

肯定し、両方を否定するとしています。

 

つまり、人間という霊的生命体は、今の人類の身体が登場し、文明が生じ

うる状態になって、初めて物質界の生命として生まれたのであり、それ以前

の人類は、龍という霊的生命体が、物質の身体の所持者であったといいます。

言いかえると、龍が物質の世界で使用していた身体に、今度は人間という幽質

界の生命体が侵入して、物質の身体を使用することになったということです。

 

よって、物質の世界の古い人類が龍で、新しい人類が今の人間なのであるが、

それは物資の世界でのことであり、霊魂の世界では人間のほうが早く誕生し、

龍はその後に誕生したということになるようです。

 

本書では、このような龍と人との切っても切れない深い関係を始めとして、

龍の身体の秘密、つまり、その異様で巨大な身体の理由、その身体の色の

違いの意味、その強力な霊的パワーなどについて述べられ、さらには、

龍の生きざま、龍の生殖、龍の修行などについても語られています。

 

そして、青い龍、白い龍が、様々な形で人類のために活動するさま、その

悪戦苦闘の様子が語られますが、何よりも、自分の霊的成長をこそ、まず、

めざすはずであるにもかかわらず、自己を犠牲にし、己を真っ黒に汚して

までも、神を否定し、物質の世界にどっぷり浸かって自己保存の本能に

振り回され続ける愚かな人類を救わんとする龍の健気な姿、人のために
涙を流し、
怒り、苦悩する龍の霊的生命体としての愛の深さに心打たれ
ます。

 

そのほか、神霊やキリストという最も高貴な霊的存在の地球規模のお働き
とそれらに仕える高貴な龍の活動についても語られていますが、これらの
ことから、本書は、われわれ人類とあまりにも関係が深い存在であるにも
かかわらず、それに気がつかなかった龍という霊的生命体
の正体と真実を
初めて明らかにして
くれた類い稀な書物であろうと思います。

 

是非、多くの方々に読んでいただきたいものです。

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 









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地獄と『往生要集』


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六道絵 





『往生要集』は、大文(だいもん)第一「厭離穢土」に始まり、大文第二

「欣求浄土」へと続き、大文第十「問答料簡」までの十章で構成されて

いますが、まず、大文第一「厭離穢土」で、人は、いずれの世界(三界)

にあっても、心身の休まることはないのであるから、なにはさておいても、

これを厭い離れようとしなければならないと説きます。

 

三界とは、欲界・色界・無色界の三つの総称で、欲界は欲望にとらわれた

生物が住む境域、色界は、欲望は超越したが、物質的条件(色)にとらわ

れた生物が住む境域、無色界は、欲望も物質的条件も超越し、精神的条件

のみを有する生物が住む境域とされます。

 

仏教では、生物はこれらの境域(三界)を輪廻すると説いていますから、

輪廻のない悟りの世界である浄土に対して、輪廻の世界といえます。

 

そのなかでも欲界を構成する、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人までの五道と

天の一部(六欲天)は、もっとも苦しみの多い欲望の世界であり、『往生

要集』の「厭離穢土」の説明も、もっぱらここに集中しています。

 

欲天に住む天人の五衰(長寿の末に迎える死の直前に現れる5つの兆し)

の苦しみを説いたのち、天のなかの欲界以外の色界と無色界の苦しみ、

つまりは、いつかは天を去らねばならない、という苦しみにまで触れて

いますが、具体的に説かれるのは欲界の苦しみ、とりわけ詳細をきわめる

のはやはり地獄道の苦しみにあります。

 

大文第一では、その半分以上が地獄の説明に費やされていますが、「地獄

道」に入る前に、先に、それ以外の世界について簡略に紹介しておきたい

と思います。

 

「餓鬼道」とは、物おしみをし、むさぼり、そねみ、妬んだものが、鬼と

なって墜ちる世界です。六道絵には、水を飲もうとして鬼に打ちすえられ

たり、あるいは、墓地で追善の供物をうかがい、はては蛾をとらえて飢え

をしのいだり、自分の脳みそやわが子まで食おうとする餓鬼の様子、身体

はやせ細り、腹だけが異常に膨らんだ異様な姿が描かれています。

 

「畜生道」は、死後、禽類・獣類・虫類に生まれ変わり、無量の苦しみを

受けるという世界です。いずれも弱肉強食の争いを続け、また、人間に

使役され、殺され、忌避される存在であるが、人の世にあったとき、愚痴

で恥知らずで、在家信者の施しを受けるばかりで償いをしなかったものが

この報いを受けるとされます。

 

「阿修羅道」は、帝釈天と戦う絶え間のない闘争の世界とされるが、『往生

要集』ではそのことには詳しく触れず、それは雷鳴におののき、諸天の侵害

に遭い、身体を傷つけられる苦界とされます。

 

「人道」は、われわれが執着してやまないこの世界ですが、源信は、それ

には不浄と苦と無常の三つの様相があるとしています。

 

まず、不浄については、人の身体は骨・筋・脈・関節・肉・毛孔などの多く

の断片からなり、これらがかろうじてつながり、身体を形成しているにすぎ

ない。・・・命終の後は一日二日ないし七日のうちにその身は膨張し、色は

青黒く変わり、臭くただれ、皮がむけて、膿血が流れ出て、・・・これらを

覆い隠すのは極薄の皮膚ばかりだが、その下の本質に思い至れば、秀でた

眉も、美しい眼も、白き歯も、赤い唇といえども、一塊の糞に脂粉を施した

ものと知り得るが、それを知れば愛欲への執着も薄れてしまうはずだと説き

ます。

 

次に、苦については、人間、この世に生を受け、外気に触れるとともに

激しい苦悩を受ける。成長して後も、内には、全身さまざまの病を宿し、

外には、罪科によって捕えられ責められたり、寒さ熱さ、飢え渇き、

あるいは自然の暴威など、さまざまな苦悩が迫りさいなむ。このように

五蘊(ごうん)[色・受・想・行・識の五つの要素]によって構成される

人間にとって、行住座臥のすべてが苦しみであるといいます。

 

そして、無常について、人の一生とは屠殺場に引かれる牛が一歩一歩死地

に近づくようなものであり、その速さは日が出て没するよりも、月の満ち

欠けよりも速い。また、これを避けることは誰にもできなから、一刻も

早くここから逃れようと思うべきであるとしています。

 

よって、人は人間世界の不浄・苦・無常の三つの真実の相を悟り、心から

この世界を厭い、離れようとしなければならないと説きます。

 

さて、それでは、核心となる地獄道とはどういうところでしょうか?

 

『往生要集』における地獄は、過酷さや悲惨さが幾何級数的に増幅される

構造で八段階に分類されます。一に等活、二に黒縄、三に衆合、四に叫喚、

五に大叫喚、六に焦熱、七に大焦熱、八に無間(阿鼻地獄ともいう)と

なります。

 

等活地獄は、われわれが住む世界の下、一千由宇(ゆじゅん)[古代インド

の里程単位]にあり、縦横一万由旬の広さがあるという。等活地獄の下は

黒縄地獄でその下は衆合地獄、以下同じ縦横の地獄が順に下方にあり無間

地獄に至るが、無間地獄は縦横八万由旬と桁違いに広大になります。

 

さて、等活地獄は、地獄の中ではもっとも苦痛の程度の低いところとされ

ます。しかし、そこでは各々が敵対し、害心を抱き、互いに鉄の爪をもって

つかみ合い、引き裂き、血肉が尽きて骨のみになるまで続けたり、獄卒が

鉄の杖や棒をもって全身を粉々に打ち砕いたり、あるいは、鋭利な刀で肉を

細かに切り刻んだりする。そして、命絶えると涼風が吹き死者はよみがえる。

あるいは空中で声があり、「等しく活(い)きかえれ」という声に応じて

蘇生する。生き返ると再び争いを始め、何度も生死を繰り返すのです。

 

そして、等活地獄の四つの門の外には十六の別処、つまり等活に付属した

十六の小地獄があるとされます。屎泥処、刀輪処、瓮熱処、多苦処、闇冥処、

不喜処、極苦処などが説明され、文字通り、屎尿にまみれ、火に焼かれ、

刃物で切り刻まれるなど、読む人に究極の不快と苦痛を感じさせるような

叙述が延々と繰り返されます。また、その苦痛を味わう期間も気が遠く

なるほど長いのです。

 

では、人は何ゆえにこの等活地獄に落ちるのでしょうか?

 

それは殺生の罪によるとされます。生前に鳥獣虫魚を殺し、焼き、煮て

食したもの、殺人を犯した者が落ちるというのです。いわゆる因果応報

の理というものです。

 

さらに、こういった叙述が各地獄ごとに、これでもか、これでもか、と

いうふうに繰り返されるのですが、苦痛の程度は、地獄を降下するほどに

激増し、そこに拘留される年数も天文学的に長期化します。たとえば、

一つ下方の地獄は前の地獄に比べ苦痛の程度は十倍とされるから、さらに

その下の叫喚・大叫喚を超えて無間(阿鼻)地獄に堕ちれば十の八乗倍と

なり、まさに阿鼻叫喚の地獄図が展開する世界となります。そして、拘留

年数は無間地獄では一中劫とされ、もはや数字で表せる時間ではなくなり

ます。

 

かくして、念仏により救われないかぎり、人はこのような地獄や餓鬼道

から天道に至る六道の世界を前世の報いによりいつ果てるともなく輪廻

するとされるのです。

 

ところで、この『往生要集』の地獄が仏教における代表的な地獄観となる

のですが、ここで、これとは全く異なった、霊魂学を提唱する水波一郎氏

が主張する「地獄」の実態を紹介しておきたいと思います。

 

死後の世界を認める考えのなかでも、地獄というものを認めないものも

ありますが、水波氏は、地獄のような世界は存在するといいます。

 

もっとも、『往生要集』でいう地獄とは大きく異なります。最近の水波氏の

著書『霊魂に聞く』などによると、地獄は存在するが神や仏が作ったもの

ではなく、死後、幽質の世界(死後の世界)に入った人間たちが作ったの

だそうです。人間がまだ原始だったころ、死後の世界には地獄はなかった

ようなのです。

 

しかし、人が地上(物質界)での絶えざる戦いのなかで、殺し、殺される

ときに激しい怨念を発生させ、その念によって傷ついた幽体(死後、使用

する霊的身体)で死後の世界へ入ることにより、そこに、恐ろしい下層の

世界ができあがったが、また、そこでさらに戦い続け、時間の経過とともに

地獄と呼ぶにふさわしい世界を作りあげてしまったということです。

 

また、『往生要集』などが何度も言うように、人を殺したから、悪いこと

をしたから地獄のような世界へ堕ちるのではないとしています。人が死後、

行く世界は、その人が死後使用する霊的身体である幽体の健全度、成長度に

よって決まるというのです。もちろん、閻魔大王が裁くのでもないのです。

 

しかし、だからといって安心はできないのです。困ったことに、現代は、

無神論が優勢で多くの人が神仏を信じないため、高い幽気が降りにくく、

逆に、低い幽気が蔓延しているようなのです。そして、過度の競争社会

であるため、お互いの念により幽体が傷だらけになっていて、死後、

普通の人が死んでも、辛く苦しい地獄のような世界に入る可能性が高い

のだそうです。

 

また、死後の世界は念(想念)が力を持つ世界だということですから、

相争う階層では、念の力によって、地獄絵のように、人を八つ裂きに

したり、切り刻むということが起こり得るのです。

 

そうだとしたら、往生要集で描かれた残虐な行為や恐ろしい光景は、

荒唐無稽な空想の産物だといって笑ってはいられなくなるのであり、

源信が説くのとは異なる新たな対策(霊的修行法)が必要になります。

 

水波氏は、そのために神伝の法があると主張しています。

 

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源信と『往生要集』


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地獄と極楽 







源信の『往生要集』というと、恐ろしい地獄のイメージ、あるいは凄惨な

地獄絵を想起させ、「地獄物語」という印象さえ受けますが、実は、そう

ではなさそうです。

 

もっとも、源信の真意とはべつに、『往生要集』の巻頭で描かれた六道、

とりわけ地獄の強烈なイメージは、読者の間で独り歩きをはじめ、時代

が下ると、「厭離穢土(おんりえど)」と「欣求浄土(ごんぐじょうど)」

の章の絵解きともいうべき六道絵が、さまざまの勧善懲悪説話を伴って

巷に流布し、「地獄物語」の異称さえ生まれたというのは事実のようです。

 

それでは、源信という人はどのような人で、往生要集はどのような背景で

生まれ、何を意図して執筆されたものであるのかを見ていきたいと思います。

 

源信は、天慶5年(942年)に現在の奈良県葛城市當麻(たいま)あたり

に生まれたとされ、父は卜部正親、母は清原氏と伝えられています。7歳の

ときに父と死別し、9歳で信仰心の篤い母の影響で比叡山延暦寺に入門し、

得度したということです。

 

そして、天延元年(973年)に天台学僧の登竜門である広学竪義(こうがく

りゅうぎ)[僧侶となるための口頭試問]に求科し、翌年には、宮中議論の

場に南都北嶺から選ばれた十人の学生として登場したと言われています。

 

源信の師の良源は、若いころから才気と弁舌、そして修法の験で知られ、

康保3年(966年)、天台座主に就任した人で、広学竪義によって学問

を奨励し、多くの弟子を育成して、天台中興の祖とうたわれますが、その

良源の愛弟子であった源信は、論義の名手、因明(いんみょう)[仏教

論理学]の気鋭の学者として活躍したということです。

 

このように、源信は、『往生要集』があまりにも有名なため、最初から浄土

の業を学んでいたかに思われがちですが、若き日の源信がもっぱら学習し、

得意としていたのは、広学竪義などの論義の場に必要な仏教論理学や天台

止観の学問であったようです。

 

しかし、このような華やかな活躍をする源信に転機が訪れます。天元3年

(980年)9月の延暦寺根本中堂供養法会で錫杖衆(しゃくじょうしゅ)

の頭役をつとめたのを最後に、華やかな法会や論義の場から姿を消して

しまったのです。

 

では、なぜ、華やかな舞台から決別していったのでしょうか?

 

『今昔物語集』の説話によると、「このように華やかに立ち回るのは、

そなたを仏門に入れた本意ではない。真の聖人になってほしい」という

母の諫めに感じ、山籠もりして浄土の業を修することになったとされ

ますが、実際は、そのころ座主良源の下で表面化する円仁系・円珍系

両門徒の派閥抗争への疑問、また、名利を捨てた聖(ひじり)の性空上人

や、空也の念仏活動に刺激されてできた念仏結社の勧学会(かんがくえ)

貴族たちとの交流が、新たな信仰世界への目を開かせたのではないか

と言われています。

 

性空との交流とは、源信が性空という聖(ひじり)を尋ね、世俗を避け

名利に背を向け、日々の糧にもこと欠くような清貧真摯な修道生活に

感銘を受けたというものですが、「地獄と極楽」の著者速水侑氏は、

性空の面目は、深山で苦修練行に励む持教聖(じきょうひじり)(法華

行者)であり、その生き方が山籠もりする源信の決意を促したとしても、

「浄土の業」へ向かった源信の以後の信仰のかかわりでいえば、慶滋

保胤(よししげやすたね)をはじめとする勧学会の文人貴族たちとの交流

を重視しなければならないと述べています。

 

さて、それでは、『往生要集』はどういう動機で、何を目的として書かれた

のでしょうか?

 

源信が『往生要集』を書いた当時、勧学会などの念仏結社をはじめ、貴族

社会で広く行われていた念仏とは、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀の仏名を声に

出して称える称名念仏であり、その系譜は比叡山の不断念仏にさかのぼる

といわれています。

 

それは、高低緩急を異にする五種の旋律を用いる念仏唱和法で、懺悔滅罪

の法として認識されていたが、念仏者自身の浄土往生もさることながら、

当初は、もっぱら怨魂を鎮め浄土へ送る、死霊鎮送の目的で用いられること

が多かったようなのです。

 

つまり、死霊鎮送・祖霊追善の仏教が貴族社会から民間まで広がることに

より、称名念仏が真言陀羅尼と並んで修されたのです。

 

よって、念仏僧といえば例外なく貴族や民衆が畏敬する密教の験者であり、

念仏といえば声に出して阿弥陀仏の名前を称える称名念仏であったことに

なり、9世紀から10世紀の浄土教の最大の特色は、死霊鎮送的な「験者の

念仏」であったといえるようです。

 

こうした験者の念仏の流れに立ちながら、念仏往生の利益を広く説き勧学会

の文人貴族たちに尊崇されたのが、阿弥陀聖空也(あみだひじりくうや)と

いう人です。念仏が死霊鎮送だけではなく、念仏者自身の浄土往生の因と

なることを説く彼の熱烈な念仏活動を支えたのは、大乗菩薩道実践の高い志

であったとされますが、そうした主体的立場とは別に、彼の念仏は当時の人々

の間では死霊鎮送を主とする験者の念仏の次元で受け取られることが多かった

ようなのです。

 

それはともかく、この空也の念仏活動に刺激されて文人貴族の間に念仏結社

結成の機運が起こり、勧学会が発足したのではないかと言われていますが、

源信は、比較的早い時期からこの勧学会の文人貴族たちと交流があったと

考えられています。

 

速水侑氏は、源信が空也や勧学会の念仏をどのように評価をしたかは推測する

他ないとしながらも、「菩薩道実践の高い志にもかかわらず「験者の念仏」の

次元で受けとられかねない空也念仏のあり方に、正統天台教学の立場から

懼(きく)の念を抱いたとしても不思議ではない。勧学会の文人貴族たちと

親交を深め、その真摯な求道の態度に共鳴すればするほど、確たる念仏理論を

欠くために呪術的な真言陀羅尼との区別も定かでないような彼らの称名念仏

の弱点にも気づいたであろう」と述べています。

 

そして、「称名念仏に立脚するかぎり、従来の呪術的死霊鎮送的な「験者の

念仏」の限界を超えることはむずかしい。菩提心を基とする点は空也と同じ

でも称名念仏ではなく、(・・・)凡夫と仏が一体となる観想念仏こそ、往生

業としての念仏のあるべき姿だという源信の確信は、正統天台教学を究めるに

つれて動かしがたいものになり、自己を含め、念仏往生を真摯に模索する同行

者たちの日常念仏のよりどころとなるべき理論の体系化に、みずからの宗教的

使命を自覚したのではあるまいか」としています。

 

もっとも、そこからストレートに『往生要集』の執筆に至ったのではなくて、

その前に、空也的な称名念仏中心の当時の浄土教に対し、あえて天台教学の

立場から「念仏」のあるべき姿を、念仏結社でも実践できる方法で示そう

として、『白毫観法』(びゃくごうかんぽう)[白毫とは、仏の眉間にある

白い毛のこと]を著したということです。

 

つまり、『観無量寿経』真身観の中の白毫観という初心者にとって比較的

容易な観法を示すことによって、当時流行の称名念仏ではない、天台教学の

立場からの「念仏」のあるべき姿、観想念仏を、勧学会の文人貴族など念仏

結社の人々に示そうとしたようです。

 

このように、『白毫観法』によって、結社の念仏に具体的指針を与えた源信が、

自らの内なる欲求と念仏を志す人々の一層の期待に応え、次の段階として白毫

観をさらに発展させて、天台教学の立場からすべての念仏すべての行業を包括し

位置づけようとする壮大な往生理論の体系化に取り組んだ成果が『往生要集』

三巻であるということになるようです。

 

かくして、速水氏は、『往生要集』執筆の動機および背景は、諸説あるものの、

念仏による救いを模索する念仏結社の人々のため、正しい念仏のあり方を解き

明かそうとしたことがもっとも重要であり、『往生要集』とは、その序文で、

「源信が「予がごとき頑魯(がんろ)[かたくなで愚か]なもの」も浄土往生の

ための教義や修行を理解しやすく実践しやすいように、経論の要文を集めた

もの」とあるように、「源信みずからの念仏実践の書であるとともに、念仏を

通じてともに菩提を求め利他を願う、念仏結社の同信同行の人々のための書で

もあった」と述べています。

 

ところで、『往生要集』とはこういったものであったとはいうものの、その

名を有名にしたのは、大文第一の地獄の惨と大文第二の極楽の美の対称的描写

の妙であり、六道絵などの浄土美術の発達に及ぼした影響は大きなものがあった

ことは否めない事実ですので、次回は、源信の『往生要集』が描写する恐ろしい

地獄の様を紹介したいと思います。





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陰陽・五行説


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陰陽五行説




 

前回も触れましたが、『陰陽道』の著者鈴木一馨氏によると、陰陽道は

日本で生まれたものであり、「陰陽」とは、中国の「陰陽説」や「陰陽

五行説」をもとにしたものという意味ではなく、中国民間思想の総称と

して用いられているということでした。

 

さらにいうと、陰陽道の理論を「陰陽五行説」から説かれる場合が多い

が、「陰陽五行説」という観念は中国には存在しなかったのだそうです。

 

つまり、中国の思想家は、「陰陽家」「五行家」というグループに区別され

ており、「陰陽五行家」というグループは存在しないということです。

 

よって、さまざまなもので中国民間思想の代名詞として使われている

「陰陽五行説」に相当するのは、陰陽家が扱う「陰陽説」と五行家が

扱う「五行説」という二つの思想なのであり、それぞれが互いにもう

片方の思想を取り込んでいるのであるから、正しくは「陰陽・五行説」

としなければならないとしています。

 

実際、「陰陽寮」で行われていたのは、「陰陽・五行説」にもとづく技術

ばかりではなく、前回、律令制官庁の機構や職掌の紹介の際にも述べた

ように、さまざまな中国系の祭りをしたり、天文の様子をながめたり、

時刻を測ったりと、さまざまな行為や技術を行っていたのです。

 

ということで、鈴木一馨氏は、陰陽道への理解を深めるためとして、

「陰陽五行説」からではなく、「気」の思想から始めるほうがよいと

していますので、その流れに沿って見ていきたいと思います。

 

まず、中国思想上の主要概念として、「気」というものをながめたとき、

思想史的にはさまざまな概念が紀元前後までに出てきたということです。

 

最初の頃は、単に物質的存在を作っている基礎的存在が「気」であると

考えられていたようで、道家の『荘子』では、ものの生死というのは

「気」の集まり方に左右されているのだとしており、それはすべての

存在(万物)が「気」によって作られていることなのだと説いています。

そして、儒家の『荀子』では、植物、動物、人間のような存在は、水や

火のような存在と同様に「気」によってできているが、その違いは

生命を持っているか否かにあると説いています。

 

このような「気」が物質的存在を形成する元であるとする考え方が、

前漢の時期にはさらに拡大して、「道」や「太一(たいいつ)」と同一

の存在と見なされるようになり、「気」とは物質的存在・非物質的存在

に限らず、すべてのものごとの元だとされる思想が生まれたようです。

 

そのような思想において、すべてのものごとの元となる「道」や「太一」

と同一とされる「気」を特に「元気」と呼んだが、非物質的存在までを

も含めたすべての存在の元となれば、「気」を元素のような物体的な存在

とは扱うことができないため、この「元気」というものが出てきた時点で、

「気」とは力であると考えられるようになったということです。

 

そして、この「元気」の思想が出てきたころには、それまでゆるく関連付け

られていた「陰陽説」や「五行説」が世界の形成・変化の思想として強固に

結び付けられることになったのだそうです。つまり、「陰陽説」と「五行説」

との結び付きを果たす仲立ちになったのが元気の思想で、最初一つであった

「気」の性格が二つに分かれて「陰陽」となり、それがさらに五つに分かれ

て「五行」になったということで、この「陰陽」や「五行」がすべての存在

を決定しているということになります。

 

かくして、「陰陽」も「五行」も共に「元気」から形成された性格なので、

互いに変換することができるとされるようになったのです。

 

このように、中国において、すべての物事は「気」によって成立している

という思想が世界観として支配的になったが、それは以前に紹介した老子や

荘子などの道家によって主に展開されたため、その道家の思想が道教教団に

取り込まれるなかで民間に再び浸透し、人々の間で中国民間思想として

普及したということです。

 

そして、それが日本に伝わり、七世紀には日本の指導者層・知識層にしっかり

と定着したことが「気」によってつくられたさまざまな現象を解釈し、対処

するという陰陽道の成立につながっていったということです。

 

ということで、鈴木氏は、陰陽道の思想を探る第一歩を「陰陽五行説」に

求めるのではなく、それは「気」というものがその全体を包み込んで

いる思想だということを理解しなければならないとしているのですが、

では、そもそも「陰陽説」「五行説」とはどういうものかという疑問が

わいてきます。よって、次は、それらについて少し紹介しておきたいと

思います。

 

まず、「陰陽説」とはどのようなものかというと、この世界の物事は、「陰」

「陽」の二つの性格のどちらかに当てはまるというものです。それは、

人類のもっとも基本的な価値判断の理論であり、二分論や二元論の中国的

表現ということになります。

 

さて、「陰陽」と「気」との関係はどうなっているかというと、「陰」とは

「気」の消極的な性格であり、また、「気」の消極的な働きによってできた

物事、「陽」とは「気」の積極的な性格であり、また、「気」の積極的な

働きによってできた物事、ということになります。このように、「陰陽」と

は「気」の性格が消極性や積極性を帯びたりすることによって生まれるの

だとされます。

 

また、これを「気」の名称で見ると、消極的な性格の「気」や消極的な

作用をする「気」を「陰気」、積極的な性格の「気」や積極的な働きをする

「気」を「陽気」と呼びます。イメージとしては、人の性格を表す「陰気」

「陽気」と同じように考えてよいようで、人を形づくっているのは「元気」

だが、その精神を形づくっているのは「元気」から分かれ出た「陰気」

「陽気」ということになり、そもそも、人の性格である「陽気」「陰気」と

いうのは、その人の精神が陰気と陽気のどちらによってできているのか、

ということなのだそうです。

 

このように世界の物事が「陰」「陽」の二つの性格のどちらかに当てはまる

ことを言いかえると、「陰気」や「陽気」が世界の多くの物事をつくって

いることになります。たとえば、人の性別でいうならば、男性は「陽気」

によって姿形や性格がつくられており、「陽」の存在となり、女性は「陰気」

によってそれらのものがつくられているから「陰」の存在というこことに

なります。

 

また、正常と異常とを陰陽で分けるならば、正常は「陽」で異常は「陰」と

なり、そして、この世は「陽」、異界は「陰」と位置付けられ、異界の存在

である妖怪変化は「陰気」でできた存在であると見ることができます。

 

陰陽師が妖怪変化を「陰陽の力」で退治するとき、それは異界という「陰」

の世界の存在、すなわち「陰気」でつくられている存在である妖怪変化に

対して「陽」の力をぶつけることによって陰陽の気を中和させてしまう

のだそうです。そうすれば、みずからをつくっている気の性格が失われ、

妖怪変化は雲散霧消してしまうということになるようなのです。

 

なお、「易」が陰陽二気の変化の理論として成立してくると、陰陽説は陰・

陽とその中間の存在である「太極(太一)」の三種類の「気」の状態・

性格の理論を説くようになったということであり、このとき、「太極」と

「元気」と同じであったり、陰・陽どちらにも当てはまらない「気」の

状態や性格であったり、または、両方の「気」の状態や性格を帯びた

物事に当てはめたということです。

 

さて、では、「五行」の考え方とはどういったものなのでしょうか?

 

「五行」の「行」とは「行い」を意味する、つまり、「五行」とは世界の

五種類の働きという意味であり、「気」の説と合体して「気」の五つの状態

とそれによる働きを意味するようになったということです。

 

五行は列挙していうとき、「木火土金水(もっかどこんすい)と称されるが、

このうち、「木(もく)」「火(か)」(土(ど))「水(すい)」は字のごとく

樹木・火・土・水であるが、「金(こん)」は貴金属の金ではなく金属を

意味しています。

 

この五行は、陰陽のような単純な対比ではないので、何がどの五行に当て

はまるか、つまり、何がどのような気の性格を持ち、そして働きを持つ

のかは、単純化して言えないものであるばかりではなく、時代によって

該当する物事や順序が違うようであり、とりわけ、医療に関する物事は、

いくつもの流派があって、それぞれの成立時代の状況を背負っているため

多種多様であるということです。

 

しかし、いずれにしても、すべての物事を五行に当てはめるという姿勢には

変わりなく、「気」でつくられている世界では陰陽からはずれる物事がない

のと同様に、五行からはずれる物事もないということになります。

 

さて、五行の変化について見ると、陰陽の変化は二種類しかなく、変化の

仕組みは単純であるが、「気」の性格が五つに分かれているぶんだけ複雑に

なります。そこでは二種類の変化の仕組みがつくられていて、それは

「相生説」と「相克説」というものです。

 

「相生説」とは、AがBを生み出すという関係によって五行の変化を説いて

いくもので、①木生火木(木気)は火(火気)を生む。②火生土

(火気)は土(土気)を生む。③土生金土(土気)は金(金気)を生む。

④金生水→金(金気)は水(水気)を生む。⑤水生木→水(水気)は木

(木気)を生む、とされます。

 

そして、その変化の順序は、木→火→土→金→水→木の順序になります。

 

また、「相克説」とは、AがBに打ち勝つという関係によって五行の変化を

説いていくもので、①木剋土→木(木気)は土(土気)に打ち勝つ。②土剋水

→土(土気)は水(水気)に打ち勝つ。③水剋火→水(水気)は火(火気)

に打ち勝つ。④火剋金→火(火気)は金(金気)に打ち勝つ。⑤金剋木→

金(金気)は木(木気)に打ち勝つ、とされます。

 

これによる五行の変化の順序は、土→木→金→火→水→土となります。

(ただし、打ち勝っていく順序は、木→土→水→火→金→木となる)

 

このように、「相生」「相克」の関係は、変化の関係であるから、「変化させる

五行」と「変化させられる五行」の二種類の五行の関係として見ることも

できるということです。

 

また、五行を単体で見ると強弱の関係を生じているが、総体で見ると強弱が

相殺されて、結局は五行の関係は対等であるということになるようです。

 

なお、五行を時間や空間、つまり、一日や一年の季節の変化に当てはめると、

また、異なった五行の変化になるようです。

 

最後に、陰陽論(説)と五行説の結合について簡単に触れておきますと、その

統一の萌芽は、斉の陰陽家鄒衍(すうえん)の陰陽主運説にみることが

できるということです。そこでは木火を陽、金水を陰に配当していて、

そのきっかけとなったのは四時(四季)の変化と『易経』の影響が

大きかったとされています。

 

その後、戦国時代末の秦の呂不韋(りょふい)が、『呂氏春秋』の中で、

干支(かんし)の十干(じつかん)に陰陽論(説)と五行説を導入した

あたりから、陰陽論(説)と五行説の結合が一般化していったようです。

(現在では、干支を「えと」と読んでいるが、本来、「えと」とは十干の

総称であって、十二支とは関係がなかったということです)

 

つまり、中国の戦国時代末から前漢初期の頃より、陰陽論(説)と五行説

は結合して、相互に深め合い、陰陽・五行説として統一され、展開される

ようになったということになります。

 

以上、「陰陽・五行説」について大雑把な紹介をしてきましたが、『陰陽

五行説』の著者によると、現代においても、決してこれは過去の遺物では

なく、現代においても漢方医学においては、陰陽五行説をもってしか理解

できないことがあるのであり、また、その心身不可分の考え方、すべてを

有機的結合の中で考えるという陰陽・五行説の方法論は今の時代にも有用な

ものであると述べています。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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陰陽道とは何か?


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陰陽道 





 
 
我々が陰陽道(おんみょうどう、おんようどう)という言葉を聞くとき、

まず、思い浮かべるのが小説やコミック・アニメなどに描かれた「陰陽師

安倍晴明」ではないかと思います。そこでは、陰陽師が式神(識神)を操

って妖怪変化と戦う霊能力者、超能力者として描かれていますが、真実の

姿はどうだったのでしょうか? また、そもそも、陰陽道とはどういう

ものだったのでしょうか? 今回は、そのあたりを探ってみたいと思い

ます。

 

鈴木一馨氏の著書『陰陽道』によると、陰陽師、陰陽道に対して我々が

イメージすることと、事実とは大きく異なっているようです。まず、

「中国で生まれた陰陽道は云々」とか、「古代中国の自然観・宇宙観で

ある陰陽道は云々」ということからして誤っているようなのです。

 

近年における研究の成果によって、「陰陽道は中国で成立した」という

ことが否定されてしまったのです。中国には「陰陽道」という言葉が

存在せず、十世紀頃に日本で「陰陽の道」という言葉が出てきたのが

「陰陽道」に変化していったというのです。

 

では、陰陽師や陰陽道そのものの説明に入る前に、「陰陽寮(おんよう

りょう)」という公的機関、官庁について触れておきたいと思います。

 

日本で朝廷という中国的な政府機構が作られ始めた七世紀以降、その

朝廷の機関の中に「神祇官(じんぎかん)」と呼ばれる神々への祀りを

担当する官庁が設置されたが、他方で、「天意」を問う官庁として朝廷

の機関の中に設置されたのが「陰陽寮」だということです。

 

鈴木一馨氏は、陰陽寮の設置時期を、天武天皇が即位した後に、その在位

期間中に設置されたのではないかとしています。

 

さて、律令制官庁の組織は、「養老職員令」によると、基本的に事務・

統括部門と実務・専門部門に分かれていて、正規職員は基本的に常勤の

「長上官」と、非常勤(交代制)の「番上」に分かれていたということ

です。そのうち長上官には事務系官僚の「四等官」と、実務・技術系

官僚の「品官」との二種類があり、四等官は事務・統括部門の、品官は

実務・専門部門の中心業務を担ったということです。

 

そして、事務・統括部門の説明は省くとして、実務・専門部門を見ると、

それは「陰陽」の部門、「暦」の部門、「天文」の部門、そして「漏刻」の

部門に分かれていたようです。

 

 

そのうちの、「陰陽」の部門は、陰陽師、陰陽博士、陰陽生で構成され、

陰陽師(品官)は定員六名で、職務は式占(ちょくせん)と易占(えき

せん)を行い、また相地(風水)を行うとあり、陰陽博士(品官)は定員

一名で、陰陽生らに陰陽の思想や技術を教えるとされるが、陰陽生は陰陽

博士について陰陽の技術を学ぶのが務めであり、いわば、専門官僚となる

ための学生官僚といったものであったようです。

 

なお、他の部門、「暦」の部門は暦を造るところであり、「天文」の部門は、

星々や気象の異常を観測するところであり、「漏刻」の部門は、水時計に

より時刻の管理をするところです。

 

以上のことから、陰陽師とは、まず、陰陽寮という官庁の技術官僚の職を

指すことになります。

 

ところが、よく安部晴明は「稀代の陰陽師」というような言い方をされ、

また、彼の若い頃に、あるいは藤原道長が政権の中枢に座った時期に陰陽師

として活躍したとされます。

 

しかし、鈴木一馨氏によると、安部晴明は確かに「陰陽寮の陰陽師」の官職

を得ていた時期があるが、それは中年になってからであるし、道長の政権の

時は、すでに「天文」の部門の天文博士に昇進していたのであり、最終的に

は、平安京の左京の予備長官の地位に至り、陰陽寮の枠を外れたところに

いたというのです。

 

ということは、一般に言われる安部晴明の「陰陽師」というのは、陰陽寮の

技術官僚の職である陰陽師と、「陰陽道」が成立した平安中期以降にその

術者に対して陰陽寮の官職名をとって「陰陽師」と呼んだことが、まぜこぜ

に理解されているということになります。

 

安部晴明は、確かに陰陽寮の陰陽師であったが、道長に重用されたときには

すでに陰陽寮にはいなかったのです。

 

さて、陰陽寮、陰陽師の「陰陽」という言葉にも誤解があるようです。この

語からは中国の「陰陽説」または「陰陽五行説」を連想してしまいますが、

実はそうではないようなのです。

 

「陰陽」というのは、中国民間思想の総称として使われているのであり、

それ

に基づく技術を「方術」と呼んだり、「陰陽の術」と言ったのだそうです。

つまり、「陰陽寮」というのは、中国民間思想、つまり、「陰陽」の思想と、

それに基づく諸技術、すなわち「方術」、「陰陽の術」を扱う官庁だったと

いうことです。

 

ただし、方術や陰陽の術というのは広く医術までも含んでしまうのですが、

それは陰陽寮では扱わず、医療的な技術については、「典薬寮」という役所

が中心になっていたようです。

 

「陰陽の術」のうち呪文や呪符については、陰陽寮だけではなく、「典薬寮」

に設けられた「呪禁(じゅごん)」という邪気を祓う治療の部門でも行われた

ようで、典薬寮は、官人の病気を治療するための役所で、呪禁の部門には、

呪禁博士一名、呪禁生十名が配置されたということです。

 

陰陽寮における呪文や呪符は、主として陰陽道祭のときに、神々への呼び

かけや、邪気を祓うため、つまり、国家や都に侵入しようとする邪気を祓う

ために用いられていたが、典薬寮の方は、個人にとりつく邪気を祓うため

に使われたのです。

 

つまり、一般にイメージされるような陰陽師の呪符や呪文の「私」に対する

激しい使い方は、陰陽寮での使い方ではなく、典薬寮での使い方であったと

いうことになります。

 

さて、それでは、呪符や呪文を駆使し、もののけや怨霊を祓うという、「陰陽

道の安倍晴明」というイメージは完全な虚構だったのでしょうか?

 

鈴木一馨氏によると、そうでもないということです。安倍晴明は、十一世紀

前後の人のようですが、それから百年後に書かれた「今昔物語」や「宇治拾遺

物語」によると、晴明は、呪符を使って悪霊や妖怪を退治するということは

記されていないが、呪文の類を唱えて災厄を未然に防いだり、式神という精霊

を操ったりしたという情景は描かれているようです。

 

つまり、古典で表現されている安倍晴明は、陰陽寮の陰陽師の職務である式占

・易占や相地(風水)をしていなくても「陰陽師」と呼ばれているのです。

そして、それも、どちらかといえば、「陰陽寮の陰陽師」というよりは典薬寮

の呪禁博士に近い働きをしているのです。

 

では、なぜ「呪禁師」というような名称を使わずに、「陰陽師」という名称を

つかったのでしょうか?

 

鈴木氏は、そこには次のような陰陽寮と陰陽道との関係があるとしています。

 

つまり、怪異などが起きたとき、それがすべてもののけの仕業とは限らない

のであり、怨霊が起こしたものもあり、呪咀によって起こされたものも

あったとすると、呪禁の術を使う前提として、その怪異の原因を探らなければ

ならない。それこそが陰陽寮の陰陽の部門で扱われた様々な占いであった。

そして、原因が分かったとして、直ちに対処しなければならないとするとき、

邪気を祓う呪文や呪符を知っている陰陽師が、本来は、「公」のために使われ

るはずであったものを「私」に災いする邪気を祓うためにも使うようになった

のではないかと述べています。

 

要するに、本来、「私」にかかる邪気を祓うはずの「呪禁博士」の役割を、

必要に迫られて、或いは、求めに応じて、陰陽師が奪ってしまった。

そして、民間にあって邪気を祓うようなことをした者の中で、特に呪文や

呪符を使えたものまでをも「陰陽師」と呼んだということのようです。

 

つまり、陰陽道とは、陰陽寮の知識、諸技術を「公」のためではなく、

「私」のために使い始めたところに成立したということになります。

 

それでは、最後に、小説やコミック・アニメで安部清明が活躍するとき

に使われる式神(識神)について少し触れておきたいと思います。

 

この式神は非常に便利な存在として描かれていて、安部清明の命令のもと、

妖怪変化に対して獣や鳥の姿で攻撃したり、敵を惑わすために清明の

姿をしたり、ひそかに他者の動向を探ったりと、どのような働きでもする

とされます。そして、清明や彼と対峙する他の術者の能力は、この式神を

使いこなす能力として描かれているといっても過言ではありません。

 

これをそのまま信じるわけにはいきませんが、そのモデルとなる古典の

説話には、呪詛、呪いの技として使われたという例があることを考えると、

あながち荒唐無稽な話として切り捨てるわけにはいかないように思います。

 

「今昔物語」、「宇治拾遺物語」の中で、清明に式神を使って人を殺せるか

と尋ねたところ、「簡単に殺せるが、蘇生させる方法を知らなければ罪を

得てしまうから、容易にはしない」と答えたという話がありますし、水波

霊魂学の水波一郎氏の旧著「大霊力」のなかにも、今も残存する殺人の

技術としての呪法に絶対近寄ってはならないとして、空海に技くらべを

挑む修験者の呪法の恐ろしさが語られていますが、当時の陰陽師たちの間、

さらに、修験者や密教僧をも含めて、その表の顔とは別に、裏で己の意志、

あるいは依頼により、政敵、ライバルに対する呪詛、呪いの技の行使が
行われていたのではないかと推察されます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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禅宗・浄土教と老荘


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竺道生2
曇鸞 
 (竺道生)           (曇鸞)





六朝から唐の末期までは、中国では多くの宗派仏教が生まれ、それぞれに

栄えたということですが、最後まで生き残ったのは禅宗と浄土教だけで

あるようです。

 

特に明代以後は、その禅と浄土の両者が融合するという傾向が著しく、禅浄

一致が唱えられ、座禅とともに念仏をするという念仏禅が普及することに

なったのだそうです。

 

そのためか、今日の中国や台湾には日本の宗派仏教に相当のするものはなく、

禅寺・禅林を名のるものばかりで、しかもその修行や信仰の内容は、すべて

念仏であるといってよいという状況なのだそうです。

 

ともかく、禅と浄土は最も漢民族の体質に合った仏教である、というか、

中国人の体質に合うように改造された仏教だといえるようです。

 

しかし、禅と浄土は、一見すると、とても相容れないように見えます。

 

まず、その方法論から見ても、禅はきびしい修行に耐える強い意志を要求

するものであり、その意味で自力道であり、難行道であるといえますが、

これに対して、浄土教は、そのような修行に耐える強い意志を持たない凡人

のためのものであり、ただ念仏するだけで成仏するというのであるから、

その意味では他力道であり、易行道であるといえます。

 

また、その仏に対する見方も、禅宗は、仏を外にあるものとは見ず、わが

心のうちに宿るものとし、あるいは、わが心がそのまま仏であることを

悟る立場だとしますが、一方、浄土教は、仏を西方十万億土のはるか彼方

に求めようすとするものです。

 

では、このような両者の間にある大きな相違点にもかかわらず、どこに

共通点が見出されるのでしょうか?

 

森三樹三郎氏は、それは「慧(え)」の軽視であり、排斥であるといいます。

つまり、いずれも「知識」や「理論」に重きを置かず、むしろこれを排除

する傾向が強いという共通項があるというのです。

 

インド仏教における救いとは、慧、つまり、知恵によって真理を悟ることで

あったといわれますが、同じアジアでも中国人は、その言語構造に原因が

あるのか、理屈が苦手であり、嫌いであるようです。

 

その結果、一時は、唯識論などのずいぶん難解な仏教理論が好まれた時代

もあったようですが、やがてすたれて、禅と浄土だけが残ることになった

ということです。

 

さて、それでは、まず、禅と老荘の関係について見ていきたいと思います。

 

普通、中國における禅宗の開祖とされるは菩提達磨(ぼだいだるま)と

いうインド人ですが、この説は、不明確で伝説的な要素が強く、より

確実視されるのは、達磨よりも百年前に現れた南朝宋の笠道生(じく

どうしょう)という僧で、彼が禅宗の先駆となる思想をもたらしたと

いうことです。

 

道生は、頓悟成仏説を唱え、当時の仏教界に大きな衝撃を与えたという。

頓とは、「一挙に」という意味であり、それまでの「漸」、つまり、次第

に悟りの境地に近づく形ではなく、一挙に悟りへと至るというものです。

 

道生が頓悟説を唱えた理由は二つあるということです。

 

一つは、理は一つのものであり、分割を許さない。したがって、理を悟る

場合には、一挙に悟るほかない、つまり、頓悟ということである。もう

一つは、まだ真理を見ることができない間は、経典の文字や言葉に頼って、

漸次に知る努力を必要とする。しかし、真理を直接に見た瞬間には、文字

や言葉は不要になってしまう。真理が姿をあらわしたとたんにそれを見る

のは体験的な直観である。直観はすなわち頓悟である、といいます。

 

ここから、禅宗というものが形成されていったようですが、最初は南宗禅と

北宗禅の二つの流れがあったということです。しかし、「無為自然」を説く、

より頓悟的といえる南宗禅が、修行として座禅を位置づける北宗禅に勝利し、

北宗禅はやがて消滅していったようです。

 

かくして、禅は、悟りを得るための修行としての座禅を否定することになる

とすると、その何事も思わない無念の禅と荘子のいうところの自然と同化

するような「座忘」とはきわめて近いものになっていくように見えるの

ですが、違いがあるのでしょうか?

 

森三樹三郎氏は、南宗禅は、修行法としての座禅を否定し、その点で荘子の

立場に接近したことは事実であるが、あらゆる努力や修行を不自然な人為と

して排斥する荘子とは異なり、戒律や座禅が無用のものとして捨てられたか

といえば、決してそうではない。おそらく、修行や座禅に「とらわれるな」

というだけで、やはり実行していたのではないだろうかと述べています。

 

さて、一切の人為を否定し、あらゆるはからいを捨てる点において、荘子は、

禅よりもより浄土教に接近しているということですので、浄土教と老荘思想

について触れておきたいと思います。

 

今まで、浄土教と老荘思想の関係は、ほとんど問題にされてこなかったと

いうことですが、それは主に中国の浄土教がある程度の発展を見せながら、

一定の段階で停滞してしまった結果によるようです。

 

しかし、浄土教の根本経典、浄土三部経の一つである大無量寿経を見ると、

サンスクリット原本にはないにもかかわらず、漢字への翻訳に際し「自然」

という語がきわめて多用されているということです。それは、当時、あた

かも老荘思想の興隆期にあたっていたようであり、それが当時の流行語で

ある「自然」を多用する結果を招いたのではないかとされています。

 

また、輪廻や因果応報というものを仏教思想になじみの少ない中国の人々

に分からせるために相当な量の解説文が挿入されているということであり、

そこにも、訳者が老荘思想を駆使して読者の理解や共感を得ようとした

形跡が多々あるといわれています。

 

こうして、翻訳された浄土教の根本経典「大無量寿経」は自然や無為自然の

語がおびただしく現れるという結果をもたらしたが、それが一言一句すべて

仏の口から出た尊い説法であると信じられていたということです。

 

さて、他力易行と浄土往生とを浄土教の生命とするなら、中国浄土教の祖は

北魏の曇鸞という僧になるようです。

 

仏道には、難行と易行の二道があるとするインドの竜樹の説を受けて、難行

道を自力に、易行道を他力にあてるとともに、この世で不退の境地を得よう

とするのを難行道、浄土へ往生してのち不退の境地を与えられるのを易行道

にあてることにより、これにより他力易行による浄土往生という浄土宗の

基礎を築いたとされます。

 

しかし、曇鸞の他力易行には不徹底な点を残していたようです。つまり、

曇鸞は、阿弥陀仏を心中に深く思い、他の雑念を交えない一心不乱の三昧

を必要不可欠としていることから、それは凡人では困難であり、その意味

では難行道ではないかということです。

 

また、曇鸞は当時の神仙説、ないしは道教信仰の影響を色濃く残していた

ともいわれます。もっとも、曇鸞の伝記には矛盾が多く、断言はできない

ようですが、彼には神仙術ないし道教と不可分に結びついている中国の本草

や医学に関する著述があり、道教に心を寄せていたという可能性は否定

できないようです。

 

その後、民衆の間に浄土教を広め、大成させていったのは、道綽とその弟子

善導という人であったが、まだ、そこには延年益寿という道教信仰への妥協

があり、念仏に自力的要素を残しているなど、 不徹底な部分を残していて、

浄土教が真に徹底して完成するのは、我が国の浄土宗および浄土真宗の成立

を待たなければならなかったようです。

 

そこで、最後に、親鸞と自然法爾の思想に少し触れておきたいと思います。

 

森三樹三郎氏は、親鸞は、最晩年、真の仏とは無形の道理、真理そのもの、

「自然」にほかならないというところまで到達したといいます。神話中の

阿弥陀仏は、実は、この自然という真理を理解させるための手段であり、

方便にすぎないとするものです。

 

では、形なき阿弥陀仏である自然とはどのようなものであるのか、そもそも

阿弥陀が自然と呼ばれるのはなぜかということになります。

 

それに対しては、森氏は、次のように述べています。

 

救いの境地が自己の努力によらず、かえって「はからい」を捨てるところに

あらわれる、つまり、無為によって達せられる。このように人為を放棄して

得られた自然は、「必然」に通ずる。必然の法則は、自己の努力を放棄する

ところに姿をあらわすのであるから、自己に対する他者として意識される。

他者とは自然必然の法則のことである。しかし、その他者としての意識は

最後まで持続するのではない。自己は他者のうちに溶解し、自他の差別は

なくなる。この自然必然の法則は、生と死のいずれをも包括する無限の

ひろがりをもつものである。しかし、この死の肯定は生の否定に結びつく

ものではない。

 

このように、自然必然の法則に抵抗する私意のはからいを否定し、自然の

ままに生死を迎えようとするのが親鸞に立場であったとしています。

 

そして、もし親鸞の浄土教が、その究極において死の運命の肯定の上に

立っているとすれば、それは期せずして荘子哲学の立場に一致するもの

としなければならない。むろん、親鸞は荘子の思想を知っていたとは思わ

れない。にもかかわらず、究極において荘子思想と合致したのは果たして

偶然なのだろうか? そうではなく、やはり、中国以来の浄土教の本質の

うちに荘子思想と共通するものが奥深く秘められていたと考えたいと述べて

います。

 

さて、どう考えるべきなのでしょうか?









 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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中国仏教と老荘思想


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 老荘と仏教

 
仏教が中国に伝えられたのは、西暦紀元前後の後漢初期の頃とされて

いますが、それが中国人、特に知識層に受け入れられるのに、それから

三百余年もの月日を要したということです。

 

もっとも、この間には、帝王階級の一部と庶民層の間に、ある程度の仏教

信仰者が現れたようですが、その仏教信仰の内容は、神仙思想の影響が強く

真の仏教受容とは言えないものであったようです。

 

では、なぜ、三百余年にわたる長きにおいて、仏教のような世界性をもつ

宗教が中国人、特にその知識層に受容されなかったのでしょうか?

 

森三樹三郎氏は、その原因として二つ考えられるとしています。

 

一つは、漢代の知識人は政治的関心が強く、そのために宗教に対しては

冷淡であったという事実であり、もう一つは、漢民族に特有な強烈な

中華意識が夷狄(いてき(外国人の蔑称))の教えである仏教を頑強

に拒んだという事実である、と。

 

しかし、後漢が滅び、六朝時代になると、状況は変化していきます。

四世紀の初めには華北一帯は夷狄の王朝に支配され、漢民族の王朝は

都を今の南京に移し、揚子江を中心とする華南の地方を支配するに

すぎなくなります。

 

こうしたなかで、本来、政治家であり、官吏であった知識人の門閥貴族化

が進んで、哲学的、宗教的な老荘思想が興隆し、また、漢民族の中華意識

に深刻な打撃が与えられることにより、ようやく仏教というものが受け

入れられる地盤が準備されることになったということです。

 

かくして、中華意識は否応なく後退させられ、知識人のうちで、仏教の

理解ないし受容が急速に展開することになるのですが、では、仏教の

どのような点に注目していったのでしょうか?

 

森三樹三郎氏は、これも二つの方向に分けることができるとしています。

一つは、仏教の教義と老荘思想の間にある共通点を求め、老荘思想を

通じて仏教を理解しようとするものであり、もう一つは、仏教の中心を

三世報応の説(現世のみならず、前世、来世にわたる因果応報論)に求め、

輪廻の思想として受け入れるとするものです。

 

両者を比較すると、前者は仏教の教理を老荘思想を通じて理解しようと

するのであるから、本格的な理解であるとはいえないが、次第にそれに

接近する可能性をそなえており、後者は、仏教理解の初学入門の域から

脱しないものであるが、そのかわりに、ひたむきな信仰に達する可能性

が高いということになるようです。

 

今回は、老荘思想と仏教がテーマですから、前者に焦点を絞るとして、

老荘思想にもとづき仏教の理解をなすためには、そこには、どのような

思想的共通点があったのでしょうか?

 

中国に伝えられた初期の仏教経典には、小乗系のものも、大乗系のものも

あったようですが、結局、中国の知識人に受容されたのは大乗の経典で

あり、それも「般若経」の系統のものが中心になったということです。

 

般若とは知恵という意味であり、一切皆空の理を明らかにする知恵の

ことです。すべてを空と見ることにより、あらゆるものの実在を

否定し、その結果として特定のものへの執着を消滅させ、一切を

平等無差別に見る悟りの境地に達するとするものです。

 

般若皆空の思想をこのようなものだと理解すると、それは老荘の思想に

非常に近いようなのです。老子は空のかわりに無というが、その無は

あらゆる有の根本にあるとし、荘子に至っては、老子よりもさらに

般若の立場に近いとされます。

 

つまり、荘子の無限者の立場に立ては、あらゆるものはその対立と

差別を失い、平等無差別となって無限者のうちに包括されてしまう

ことになり、よって、荘子の万物斉同、無限の思想は、般若に対して

最短距離にあるといえるようなのです。

 

このような共通点ゆえに、当初、仏教は老荘を通じた理解をされる

のですが、このような老荘色を帯びた仏教のことを格義仏教と

呼ばれました。

 

逆にいうと、この時代、仏僧が知識人に接近するためには、老荘の知識

ないし教養は必須のものであり、そのため、老荘色をおびた仏教が生ま

れるのは不可避であったともいえるようです。

 

さて、このような格義仏教において中心問題となったのは、般若の空と、

老荘の無とをどのような関係においてとらえられるかということであった

ようです。

 

よって、この仏教の空の格義的解釈について、最も有力な「本無義」説と

いうものを紹介しておきたいと思います。

 

始めて本無義を唱えたのは笠道潜(じくどうせん)という僧で、「すべて

の始めに無があった。その無から有が生まれる。したがって無は有より

先にあり、有は無の後にある。だからこれを本無とよぶ」と主張したと

いう。つまり、無と有とを発生の先後関係においてとらえ、万有に先行

する無を「本無」と呼び、これが般若の空にほかならないとしたという

ことです。

 

森三樹三郎氏は、もし本無義がこのような立場であったとすれば、それは

般若の空を老子の無に著しく引き寄せたことになるであろうし、それは

老子の思想に慣れた中国の知識人に空を理解させるに役立つ一方で、それ

を誤解に導く危険性があったといえようと述べています。

 

そして、仏教の空は、老子に比べれば、はるかに荘子に近いのであり、

それは一切の実在の否定であるから、有の実在性を否定するのはもちろん、

実在化され、対象化された無をも否定するのであるといい、それに対して、

老子の無の立場は、無を尊ぶという無というものへの執着が見られ、無限

の否定の連続である般若の空に到達していないことになり、本無義は空の

解釈としては不適当であるというほかはないとしています。

 

それとともに、仏教を老荘的に理解するということは、最初にサンスクリ

ットの原典を漢字に翻訳したときに始まっていたことであるともいえる

ようです。初期の漢訳仏典では、「涅槃」を「無為」、「菩提」を「道」、

「真如」を「本無」というふうに老荘の語を訳語にあてていたということ

であり、まして経典の内容を理解しようとすれば、老荘の概念に頼らざる

を得ないことになり、初期の中国仏教が老荘的色彩を帯びることはやむを

得なかったということになります。

 

さて、この格義仏教の風潮を克服したのは、西域から北朝の都に迎え

られた鳩摩羅什(くまらじゅう)からであると言われています。羅什は

多くの経典を漢訳することにより、中国仏教に新紀元を開いたとされ

ますが、中国人の思考法の底に深く生き続ける老荘思想は、その後の

中国仏教の展開にも無関係ではあり得ず、六朝を経て隋・唐時代になると、

やがて老荘思想を基にした新しい中国仏教が生まれてくることになり

ます。

 

それが、一見、異質に見える禅宗と浄土教であったということですが、

そのことは、次回に取り上げたいと思います。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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荘子-老荘思想2-


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( 荘子 )


前回、取り上げた老子の思想は、最初は、文明の中毒に犯された社会に、

自然の健康を取り戻させようとする政治的な関心から出発したが、それに

とどまらず、その無為自然の立場を掘り下げることによって、先人未踏の

無の世界を発見したとされます。

 

しかし、老子はせっかく人間存在の深奥にある無の世界を突き止めながら、

半ば、いわゆる政治的人間であったためか、そこからさらに人間の生死の

運命を解明しようとはしなかったようです。

 

そこで、このような政治の重い鎖を断ち切って、思うがままに永遠の世界に

遊んだのが、今回、取り上げる荘子という人です。

 

老子の書には、天下や国家といった語が現れるが『荘子』にはほとんど

これが見えず、まれに言及することはあっても、全面的に否定されるための

ものです。荘子には老子のような村落共同体の自然の生活に対する憧れも、

もはやなく、個人主義に徹底していて、いわば、宗教的人間の立場に立って

いるようなのです。

 

なお、荘子の場合は、司馬遷の『史記』では、老子と違って、明確に梁(魏)

の恵王や斉の宣王と同時代の人といい、具体的にその活動時期が明らかに

されており、他の資料からも、前3百年前半の人であることが明らかな

ようです。

 

さて、では、荘子の思想を紹介していきたいと思います。

 

無為自然を根本の立場とすることでは、老子と荘子とでは変わりがないが、

何を道とし、何を無為自然とするかという点で、両者の間には微妙な違い

があり、その相違は次第に幅を広げていったということです。

 

まず、荘子が最初に取り上げるのは、ありのままの真理は、いかにして

得られるかという問題です。

 

なぜ、ありのままの真理の求め方を問題にするかというと、常識が真理の

求め方を誤っているからだというのです。人間は混沌とした一つのものを、

そのまま知識の対象とすることができないので、それを二つに分断して

理解しようとするが、このように分断という人為を加えることは、人為に

よって真理を曲げることではないかというのです。

 

そして、このような思考法からは、前後・左右、是非や善悪、美と醜の

対立差別が生まれるが、いずれも相対的なものである。人間が実在する

ものと信じている二元の対立差別は、もし人間という局限された立場を

離れて、人間以外、もしくは人間以上の立場に立つならば、一挙に霧消

してしまうに違いない。あとに残る世界は、二元の対立がないから一つ

であり、差別がないから斉(ひと)しく同じであるといいます。

 

これが「万物斉同」の説ですが、この立場に達するためには、逆に、もの

を二つに分けて差別する人為をなくすこと、つまり、「無為」ということ

が必要であり、無為になれば、そこにありのままの真実、「自然」の世界

が現れるとしています。

 

さて、前回述べたように、老子は、「無」の世界に足を一歩踏み入れた

ものの、その解明は不十分、不徹底であるということでしたが、荘子は、

この点をさらに深く究めようとしたようです。

 

荘子は、万物の始め、万物の根本となるものは、「固定した無」ではなく、

「無限」そのものでなくてはならないといいます。固定した無とは、

一定の限界を持った無であり、有との間に一線を画し、そのうちに閉じ

こもった無である。ところが、無限とは、まさにそういった区画を持た

ないものであり、有と無との区別なく包容するものであるというのです。

 

森三樹三郎氏は、すべてを斉(ひと)しいと見て、万物の差別を認めない

万物斉同の立場というのは、実は、この無限のうちに身をおくことに

ほかならない。荘子のいう万物斉同の境地とは、あらゆるものを無差別

に包容する無限の境地の別名であるといえようと述べています。

 

荘子は、このような無限の性格を鏡にたとえて次のように述べています。

 

「無限なるものと完全に一体になり、形なき世界に遊べ。天から授け

られたものを、そのまま受け取り、それ以上のものを得ようとするな。

ひたすら虚心になるようにせよ。最高の人間の心のはたらきは、あた

かも鏡のようである。去る者は去るにまかせ、来たる者は来るままに

まかせる。相手の形に応じて姿を写すが、しかもこれを引きとめよう

とはしない。だからこそあらゆる物に応じながら、しかもその身を傷つ

けることがないのである。」

 

このようにして、荘子の根本思想である万物斉同の説は、あらゆる対立と

差別を越えて、一切をそのまま包容し、肯定する無限者たれと主張する

のであるが、この立場を人生の現実に密着させた場合には、人間の運命

をそのまま肯定する立場になります。

 

ただし、それはただの運命随順の思想とは違って、幸福と不幸と呼ばれて

いる差別の姿は、すべて人為によって構成された虚妄にすぎないとして、

あらかじめ運命に付随する牙は抜き取られているのです。

 

したがって、荘子は、「人力ではどうすることもできないと悟ったとき、

運命のままに従うことこそ、至上の徳であるといえよう」「すべての物事

を成り行きにまかせ、心をゆうゆうと自由の境地に遊ばせて、やむに

やまれぬ必然のままに身をゆだね、心の中におのずから中正の状態を

養うがよい。しいて、よい結果を求めようとするな。ひたすら天命の

ままに従え」というのです。

 

ところで、およそ人間の背負う運命のうちで、死ほど強力で無慈悲なもの

はありませんが、運命の肯定を説く荘子は、死の問題に対しても深い関心を

寄せています。死の運命があまりにも強力なものであるだけに、荘子も

さすがに万物斉同の原則論だけですますことができず、さまざまな角度から

死の問題に接近しようとしています。

 

そもそも生とは何か、死とは何かについて、荘子は、「人間が生きている

というのは、生命を構成する気が集合しているということである。気が集合

すると生になり、離散すると死になる。もし、このように生死が一気の集散

にすぎないとすれば、生死について何を憂える必要があろうか」といいます。

 

ここでは、生死が一気の集散として説明されています。ありのままの自然

においては、ただ一つの気が集散しているにすぎないのです。万物斉同の

理、絶対無差別に立場がここでも表れているようです。

 

また、荘子は生死が等しいものであることを自然現象の循環になぞらえて

説明しようとします。自然現象には、昼と夜、春夏秋冬の四季の後退と

循環が見られるが、人間の生死も、この自然の法則にほかならないと

いいます。

 

荘子は、万物は機と呼ばれる幽微なものから生まれ、それが水辺に落ちると

水草になり、それがいろいろな植物や虫類に転生し、次第に鳥や獣となり、

最後は人間となる。その人間が死ぬと、再びもとの機に帰り、そこから

また水草が生まれるというように、無限の循環を繰り返すという一種の

転生説をも説いているようです。

 

このように、荘子は死の世界の楽しみを説き、これをしきりに賛美したと

いうことであり、中国の思想家のなかで、死を正面から論じた最初の

人だといえるようです。

 

ただ、荘子が運命主義者であったとしても、それは古代ギリシャのように、

運命の主宰者、運命の女神が存在したかというと、そうではないようです。

人間がこの地上に生まれたのは、造物主といった他者の力によるものでは

なくて、自然・必然の運命によるものだとしています。

 

以上のことから、荘子は老子と同じく無為自然を根本としながらも、そこ

から万物斉同の説を構成し、無限者である運命のうちに包容されることを

説く、独特の運命肯定論者に到達したということです。

 

なお、以上の思想は『荘子』の内編・外編・雑編の内の内編の思想になり

ます。しかし、外編・雑編は、荘子思想の後継者たちが書き継いでいったと

思わるふしが多く、内編とはかなり異質なものが含まれているようです。

 

外編・雑編には、神仙説の萌芽、つまり、健康を願い、長生を積極的に

肯定する養生説が見られたり、儒教道徳への接近、享楽主義の発生などが

見られるということですが、森三樹三郎氏は、内編との一番の違いは、

人間のうちにある自然、すなわち、人間の「性」、人間の「本性」を取り

上げようとするところにあると述べています。

 

つまり、内編では自然を人間の外におき、これを運命としてとらえ、

外なる自然必然である運命と合一することをめざしたが、そこには絶対

無差別ということが一貫している。しかし、荘子の後継者たちは、

人間性のうちにある自然を発見し、その説を展開していったが、

そのため、知らず知らずのうちに荘子本来の絶対無差別の立場を

忘れ、内と外、我と物との相対差別に陥ったのだと述べています。

 

さて、前回と今回、老荘思想というものについて、ざっとみてき

ましたが。前回の冒頭に述べた疑問、老荘思想は道教と本質的な

関係は有るか否か、という問題の結論はどうなるのでしょうか?

 

老子の神秘主義的な傾向と長生の思想が道教の神仙説との結びつきと

混同されたようですが、老子の神秘的な色彩は、道教のもつ密儀的な

信仰とは異質であり、また、老子は道教的な長生術を人為的なものと

して否定しているようです。そして、荘子に至っては、死と生を等しい

ものとし、死の賛美者とされるほどであり、不老不死の神仙説とは

全く相容れません。

 

よって、宗教ではあるものの、現世否定の契機のない、現世執着の思想

が色濃い道教と老荘思想は全く別個のものということになりそうです。

 

 









 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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