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荘子-老荘思想2-


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荘子 
( 荘子 )


前回、取り上げた老子の思想は、最初は、文明の中毒に犯された社会に、

自然の健康を取り戻させようとする政治的な関心から出発したが、それに

とどまらず、その無為自然の立場を掘り下げることによって、先人未踏の

無の世界を発見したとされます。

 

しかし、老子はせっかく人間存在の深奥にある無の世界を突き止めながら、

半ば、いわゆる政治的人間であったためか、そこからさらに人間の生死の

運命を解明しようとはしなかったようです。

 

そこで、このような政治の重い鎖を断ち切って、思うがままに永遠の世界に

遊んだのが、今回、取り上げる荘子という人です。

 

老子の書には、天下や国家といった語が現れるが『荘子』にはほとんど

これが見えず、まれに言及することはあっても、全面的に否定されるための

ものです。荘子には老子のような村落共同体の自然の生活に対する憧れも、

もはやなく、個人主義に徹底していて、いわば、宗教的人間の立場に立って

いるようなのです。

 

なお、荘子の場合は、司馬遷の『史記』では、老子と違って、明確に梁(魏)

の恵王や斉の宣王と同時代の人といい、具体的にその活動時期が明らかに

されており、他の資料からも、前3百年前半の人であることが明らかな

ようです。

 

さて、では、荘子の思想を紹介していきたいと思います。

 

無為自然を根本の立場とすることでは、老子と荘子とでは変わりがないが、

何を道とし、何を無為自然とするかという点で、両者の間には微妙な違い

があり、その相違は次第に幅を広げていったということです。

 

まず、荘子が最初に取り上げるのは、ありのままの真理は、いかにして

得られるかという問題です。

 

なぜ、ありのままの真理の求め方を問題にするかというと、常識が真理の

求め方を誤っているからだというのです。人間は混沌とした一つのものを、

そのまま知識の対象とすることができないので、それを二つに分断して

理解しようとするが、このように分断という人為を加えることは、人為に

よって真理を曲げることではないかというのです。

 

そして、このような思考法からは、前後・左右、是非や善悪、美と醜の

対立差別が生まれるが、いずれも相対的なものである。人間が実在する

ものと信じている二元の対立差別は、もし人間という局限された立場を

離れて、人間以外、もしくは人間以上の立場に立つならば、一挙に霧消

してしまうに違いない。あとに残る世界は、二元の対立がないから一つ

であり、差別がないから斉(ひと)しく同じであるといいます。

 

これが「万物斉同」の説ですが、この立場に達するためには、逆に、もの

を二つに分けて差別する人為をなくすこと、つまり、「無為」ということ

が必要であり、無為になれば、そこにありのままの真実、「自然」の世界

が現れるとしています。

 

さて、前回述べたように、老子は、「無」の世界に足を一歩踏み入れた

ものの、その解明は不十分、不徹底であるということでしたが、荘子は、

この点をさらに深く究めようとしたようです。

 

荘子は、万物の始め、万物の根本となるものは、「固定した無」ではなく、

「無限」そのものでなくてはならないといいます。固定した無とは、

一定の限界を持った無であり、有との間に一線を画し、そのうちに閉じ

こもった無である。ところが、無限とは、まさにそういった区画を持た

ないものであり、有と無との区別なく包容するものであるというのです。

 

森三樹三郎氏は、すべてを斉(ひと)しいと見て、万物の差別を認めない

万物斉同の立場というのは、実は、この無限のうちに身をおくことに

ほかならない。荘子のいう万物斉同の境地とは、あらゆるものを無差別

に包容する無限の境地の別名であるといえようと述べています。

 

荘子は、このような無限の性格を鏡にたとえて次のように述べています。

 

「無限なるものと完全に一体になり、形なき世界に遊べ。天から授け

られたものを、そのまま受け取り、それ以上のものを得ようとするな。

ひたすら虚心になるようにせよ。最高の人間の心のはたらきは、あた

かも鏡のようである。去る者は去るにまかせ、来たる者は来るままに

まかせる。相手の形に応じて姿を写すが、しかもこれを引きとめよう

とはしない。だからこそあらゆる物に応じながら、しかもその身を傷つ

けることがないのである。」

 

このようにして、荘子の根本思想である万物斉同の説は、あらゆる対立と

差別を越えて、一切をそのまま包容し、肯定する無限者たれと主張する

のであるが、この立場を人生の現実に密着させた場合には、人間の運命

をそのまま肯定する立場になります。

 

ただし、それはただの運命随順の思想とは違って、幸福と不幸と呼ばれて

いる差別の姿は、すべて人為によって構成された虚妄にすぎないとして、

あらかじめ運命に付随する牙は抜き取られているのです。

 

したがって、荘子は、「人力ではどうすることもできないと悟ったとき、

運命のままに従うことこそ、至上の徳であるといえよう」「すべての物事

を成り行きにまかせ、心をゆうゆうと自由の境地に遊ばせて、やむに

やまれぬ必然のままに身をゆだね、心の中におのずから中正の状態を

養うがよい。しいて、よい結果を求めようとするな。ひたすら天命の

ままに従え」というのです。

 

ところで、およそ人間の背負う運命のうちで、死ほど強力で無慈悲なもの

はありませんが、運命の肯定を説く荘子は、死の問題に対しても深い関心を

寄せています。死の運命があまりにも強力なものであるだけに、荘子も

さすがに万物斉同の原則論だけですますことができず、さまざまな角度から

死の問題に接近しようとしています。

 

そもそも生とは何か、死とは何かについて、荘子は、「人間が生きている

というのは、生命を構成する気が集合しているということである。気が集合

すると生になり、離散すると死になる。もし、このように生死が一気の集散

にすぎないとすれば、生死について何を憂える必要があろうか」といいます。

 

ここでは、生死が一気の集散として説明されています。ありのままの自然

においては、ただ一つの気が集散しているにすぎないのです。万物斉同の

理、絶対無差別に立場がここでも表れているようです。

 

また、荘子は生死が等しいものであることを自然現象の循環になぞらえて

説明しようとします。自然現象には、昼と夜、春夏秋冬の四季の後退と

循環が見られるが、人間の生死も、この自然の法則にほかならないと

いいます。

 

荘子は、万物は機と呼ばれる幽微なものから生まれ、それが水辺に落ちると

水草になり、それがいろいろな植物や虫類に転生し、次第に鳥や獣となり、

最後は人間となる。その人間が死ぬと、再びもとの機に帰り、そこから

また水草が生まれるというように、無限の循環を繰り返すという一種の

転生説をも説いているようです。

 

このように、荘子は死の世界の楽しみを説き、これをしきりに賛美したと

いうことであり、中国の思想家のなかで、死を正面から論じた最初の

人だといえるようです。

 

ただ、荘子が運命主義者であったとしても、それは古代ギリシャのように、

運命の主宰者、運命の女神が存在したかというと、そうではないようです。

人間がこの地上に生まれたのは、造物主といった他者の力によるものでは

なくて、自然・必然の運命によるものだとしています。

 

以上のことから、荘子は老子と同じく無為自然を根本としながらも、そこ

から万物斉同の説を構成し、無限者である運命のうちに包容されることを

説く、独特の運命肯定論者に到達したということです。

 

なお、以上の思想は『荘子』の内編・外編・雑編の内の内編の思想になり

ます。しかし、外編・雑編は、荘子思想の後継者たちが書き継いでいったと

思わるふしが多く、内編とはかなり異質なものが含まれているようです。

 

外編・雑編には、神仙説の萌芽、つまり、健康を願い、長生を積極的に

肯定する養生説が見られたり、儒教道徳への接近、享楽主義の発生などが

見られるということですが、森三樹三郎氏は、内編との一番の違いは、

人間のうちにある自然、すなわち、人間の「性」、人間の「本性」を取り

上げようとするところにあると述べています。

 

つまり、内編では自然を人間の外におき、これを運命としてとらえ、

外なる自然必然である運命と合一することをめざしたが、そこには絶対

無差別ということが一貫している。しかし、荘子の後継者たちは、

人間性のうちにある自然を発見し、その説を展開していったが、

そのため、知らず知らずのうちに荘子本来の絶対無差別の立場を

忘れ、内と外、我と物との相対差別に陥ったのだと述べています。

 

さて、前回と今回、老荘思想というものについて、ざっとみてき

ましたが。前回の冒頭に述べた疑問、老荘思想は道教と本質的な

関係は有るか否か、という問題の結論はどうなるのでしょうか?

 

老子の神秘主義的な傾向と長生の思想が道教の神仙説との結びつきと

混同されたようですが、老子の神秘的な色彩は、道教のもつ密儀的な

信仰とは異質であり、また、老子は道教的な長生術を人為的なものと

して否定しているようです。そして、荘子に至っては、死と生を等しい

ものとし、死の賛美者とされるほどであり、不老不死の神仙説とは

全く相容れません。

 

よって、宗教ではあるものの、現世否定の契機のない、現世執着の思想

が色濃い道教と老荘思想は全く別個のものということになりそうです。

 

 









 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体