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マタイ・ルカ・ヨハネ福音書のユダ-ユダとは誰か2-


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ユダ1 

 



前回、マルコ福音書におけるユダについて見てきましたが、今回は、

マタイ、ルカ、ヨハネの各福音書においてユダがどのような扱いを

されているかを見て行きたいと思います。

 

まず、マタイ福音書ですが、この福音書は、紀元前80年代に、一ユダヤ

人キリスト者によって、二つの資料、つまり、マルコ福音書そのものと、

ルカ福音書と共通するイエスの語録集を用い、それに独自の資料を補い

ながら編纂したとされています。

 

よって、ユダヤ人キリスト者の視座から異邦人宣教を視野に入れて福音書を

編んだマタイは、イエスを裏切ったユダヤ人ユダに対して、自らに裏切る

可能性を留保するマルコよりも厳しい対応がなされています。

 

たとえば、「ユダの裏切り」の記事では、マルコでは、祭司長たちのところ

へ来たユダに対して、「彼に銀(貨)を与えることを約束した」と記され

ているだけであるが、マタイでは、祭司長たちのところへ行ったユダが

彼らに、「(あなたたちは)私に何を与えてくれるのか」と積極的に問い

かけ、その代価にイエスを彼らに「引き渡そうと思うのだ」と駆け引きを

し、その結果、祭司長たちはユダに「銀貨30枚を支払った」(マタイ26

 14-15)と記されています。

 

この、銀貨30枚とは、不当な安値で売り渡すことを表しています。

 

そして、「ある弟子の裏切りを予告」する場面(マタイ26 20-25)では、

マルコでは、イエスに対する弟子たち一人ひとりの自問、「まさか、この

私では」とあるのが、「主よ、まさか、この私ではないでしょうね」と

なっていて、「主」に対する弟子たちの信頼と、「私ではない」という

弟子たちの自信がマルコにおけるよりも強く出されているのではないか

といわれています。

 

荒井献氏は、このことから、弟子たち全員にイエスを裏切る可能性を留保

する度合いは、マタイではより少なくなっているのではないかと述べて

います。

 

また、26章25節にマルコにはない「そこで、彼を引き渡す者、ユダが

答えて言った、「ラビよ、まさか、この私ではないでしょうね」。イエスは

言う、「それはあなたの言ったことだ」。」という一文が加筆されています。

 

ここで、弟子たちがイエスに、「主よ」と呼びかけているのに対して、ここ

では、ユダは「ラビよ」と呼びかけているが、「ラビ」とはユダヤ教の律法

学者のことであり、イエスが「あなたたちは律法学者のように「ラビ」と

呼ばれるな」と教えているのに対し、わざわざそのような呼称を使用した

ということです。

 

さて、ユダに関わるかぎり、この後の場面描写、つまり、過越しの食事

(最後の晩餐)の場面、「躓き予告」の場面も、そして「ゲッセマネの祈り」

の場面も、マルコの場合と大差がないのですが、イエスの「捕縛」の場面に

移行すると、少し違いが出てきます。

 

ほとんど同じなのですが、捕縛するイエスが誰だか示すために、接吻をする

とき、マタイでは「ラビ、喜びあれ」と言っています。ここには、マルコ

以上にユダの偽善性が色濃く描かれているとされます。

 

また、マタイでは、イエスはユダの引き渡しに自ら進んで応じ、あくまで

平和を貫いたとされますが、これもマルコとは異なるところだということ

です。

 

ところで、マタイに固有のユダに関する重要な記事は、ユダの最期、

「縊死」物語にあります。

 

『その後、イエスを引き渡した者ユダは、イエスが(死刑を)宣告された

と知り、後悔して銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して言った、

「俺は罪なき血を引き渡して、罪を犯した」。しかし、彼らは言った、

「そんなことはわれわれの知ったことか。お前が勝手に始末せよ」。

そこで彼は、銀貨を神殿に投げ入れ、立ち去った。そして行って、

首をくくった。』(マタイ27 3-5

 

荒井氏は、このようなユダの「縊死」は、一般的には否定的な評価がなさ

れているが、マタイが直接批判の対象にしているのは、イエスを不当に低く

値踏みして銀貨30枚をユダに支払い、「血の代価」によって「血の地所」

を贖った祭司長たちであって、それは直接的にはユダ自身ではないので

あり、彼は「後悔して」銀貨30枚を彼らに返し、罪を告白して、自らを

縊死によって裁いたのだと述べています。

 

ただし、マタイはこのようなユダ像を描くことによって彼の名誉を回復し

ようとしたとまでは言えないとしています。

 

さて、次に、ルカ福音書におけるユダを見て行きたいと思います。

 

ルカ福音書の思想的特徴は、イエスの福音を宣教する「使徒たち」が理想化

され、そして、イエスの十字架上の死は、殉教者の理想像として描かれて

いるとされます。このように、「使徒たち」が理想化されるのに対して、

ユダは、逆に、イエスを裏切ったとして、十二使徒から除外され、「悪魔」化

されることになります。

 

つまり、マルコ、マタイでは、ユダは「引き渡す者」とされていたが、

「売り渡す者」あるいは「裏切る者」と、より厳しい表現になっており、

また、「ところで、サタンは、イスカリオトと言われ、十二人の数に入って

いたユダの中にすでに入り込んでいた」(ルカ22 3)とされます。

 

なお、この「ユダの中にサタンが入った」という見解は、ヨハネ福音書にも

あるので、ルカの創作ではなく、こういった伝承があったと見られています。

 

また、ルカが強調する神の「救済史」観に基づき、すべてはイエスの神の

予知と計画にうちにあるとされるが、そのことによってイエスを死に

「引き渡した」ユダの罪責が軽減されるわけではないようです。「その人に

とっては、生まれて来なかった方がましだったろう」というマルコ、マタイ

にあるイエスの言葉は削除されていますが、その行為は、ここでも、むしろ、

「禍いだ」と呪詛の対象とされているようです。

 

そのほか、ルカ福音書では、マルコにある弟子全員に対する「躓きの予告」

は削除され、ペテロのイエス否認予告だけが残されています。また、弟子

たちは、全員、イエスが逮捕されたのちに、イエスを見捨てて逃亡は

していません。

 

かくして、ルカによれば、イエスの弟子たちは、少なくとも師を見捨てて

はおらず、イエスにその十字架死に至るまで従って行ったのであり、

それに対して、サタンの器となり、弟子たちの十二の数から脱落した

ユダは、「闇の支配」を導入し、それにイエスを売り渡す者になったと

いうことです。

 

なお、ユダの死についてルカは、福音書の中では何も述べていませんが、

使徒行伝において、どのような状況においてなのかは明言していない

ものの、「転落死」したとしています。

 

最後に、ヨハネ福音書のユダに触れておきたいと思います。

 

ヨハネ福音書は、先に紹介した三福音書が用いている伝承資料と重なる

資料を若干採用しているが、全体としては独自の資料に依り、三福音書

には直接依拠することなしに編纂されているとされます。

 

そして、この福音書は、その思想的傾向が、女性の高評価、反ユダヤ主義、

二元論的思考にあったため、二世紀以降、初期カトリシズムが成立する

過程で、正統的教会よりも、むしろグノーシス派などの「異端」的分派の

中で広く読まれたようです。

 

よって、これらのことがユダとの関連においても反映されており、ユダは、

盗人にして悪魔という最も厳しい扱いを受けていて、イエスは「光」、弟子

たちは「光の子ら」であるのに対し、ユダは「滅びの子」、「悪魔」、「夜」

の支配者であるとされています。

 

ルカにおいても、ユダは「悪魔」化されていましたが、ヨハネにおいては、

「彼がこう言ったのは貧しい人たちのことを心がけていたからではなく、

盗人であり、金庫番でありながら、その中身をくすねていたからである」

(ヨハネ12 6)とさらに金銭欲の権化とされます。

 

また、「過越しの食事」(最後の晩餐)の場面で、ユダはイエスからパン

切れを受け取ると、「ただちに(食事の席から)出て行った」(ヨハネ

13 30)という記事がありますが、他の三福音書では、ユダの不在を

示唆する記事はないのです。つまり、ヨハネ福音書以外では、ユダも他の

弟子たちと共に「正餐」の与ったとしていると考えられるのです。

 

なお、ヨハネ福音書では、イエスの逮捕以降のユダについて、さらに、

ユダの死に関しては一切言及されていません。ただし、イエスが復活の

後に顕現する相手は、最初にマグダラのマリヤ、それから十一人の弟子

たちであって、イスカリオテのユダはもちろん含まれていませんから、

イエスの死の前にユダがこの世を去ったことを暗黙の前提としているで

あろうとされています。

 

このように、ユダはヨハネ福音書の中で最も強く「悪魔」化されていると

同時に、イエスの「引き渡し」は、神の定めに従う、イエスの意思の結果

であることもまた同時に最も強調されているのです。

 

以上、共観福音書におけるユダの扱いを見てきましたが、その度合いは

違ってもユダがとった行動は許されざる「裏切り」であるとされている

点は共通していたと思われます。

 

しかし、「ユダの福音書」では、ユダは十二弟子たちを超える存在であり、

使命を果たすためにイエスを引き渡したのだというのです。

 

次回は、この「ユダの福音書」に触れてみたと思います。










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ユダとは誰か 1 -マルコ福音書の中のユダ-


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ユダとは誰か 




イスカリオテのユダとは、周知のとおり、イエスを裏切ったと言われる

人物ですが、それを歴史的な事実と断定するに際しては、いくつかの

疑問点があるようです。

 

なぜなら、共観福音書と言われる四つの福音書においてさえ、ユダの

「裏切り」(一般的に「裏切る」と訳されるが、もとは「引き渡す」と

いう意味であった)の度合いが異なるだけでなく、それに対するイエス

の対応にもかなりの差異が認められるからです。

 

そして、近年、公表された『ユダの福音書』においては、ユダはイエスの

十二弟子たちを超える存在であり、ユダはむしろイエスの使命を果たす

ために彼をユダヤ当局に引き渡したとさえいうのです。

 

このような違いをどのように理解したらいいのか、何が真実なのか、を

荒井献氏の著書「ユダとは誰か」に依拠しながら考えてみたいと思います。

 

なお、「イスカリオテのユダ」という名称の由来についてですが、「イス

カリオテ」とは、諸説あるものの、「カリオテ(ユダヤの一地名)の人」

という説が一番広く認められているようであり、「ユダ」とは、旧約聖書

で、族長ヤコブの第四子にあたる人物名ということで固有名詞を超えて、

由緒ある名前として、その後、部族名や国名、地域名などに転用され、

さらに、イエスの時代には、個人名として多く用いられたということです。

 

さて、それでは、四つの福音書では、ユダについて、どのように表現され

ているのかを見ていきたいと思います。

 

まず、マルコ福音書ですが、この書は、紀元前70年代に、それまで言い

伝えられてきたイエスの言行に関する伝承を編纂されたもので、最初の

福音書であるとされています。

 

この書において、ユダの位置づけに関して重要なのは、イエスが自ら選んだ

12人の弟子たち総体に対して、他の福音書のイエスと比較して極めて批判

的である点と、にもかかわらず、最終的にイエスを見捨てた弟子たちに対し

て、ガリラヤにおいて復活のイエスに再会することを約束している点で

あるといわれています。

 

さて、マルコ福音書において最初にユダに言及されるのは、イエスによる

弟子たち「12人の選び」の場面(マルコ三 13-19)においてであり、

イエスが立てた12人のリストの最後に、イスカリオテのユダに言及

されており、「このユダはまた、イエスを引き渡したのでもある」と

いわれています。

 

この「引き渡す」は「裏切る」と同義と見なすことができるようですが、

マルコ福音書では、ユダが、マタイ福音書、とりわけルカ福音書における

ように、積極的にイエスを祭司長たちに売り渡してはいないのです。

 

「十二人の選びの場面」では、「このユダはまた、イエスを引き渡したの

でもある」と書かれているのが、ルカ福音書では、「この彼は、売り渡す

者になった」と書き換えられているのです。

 

マルコ福音書では、ユダの裏切りについて次のように記されています。

 

『さて、十二人の一人イスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ出

かけて行った。彼らにイエスを引き渡すためである。彼らはこれを聞いて

喜び、彼らに銀貨を与えることを約束した。そして彼は、どのようにしたら

イエスを首尾よく引き渡せるか、その機会をねらっていた』(マルコ14

10-11

 

 

ここでは、先に祭司長や律法学者たちによるイエスの殺害計画があって、

彼らの計画にユダが乗ったというのが物語の筋になっています。そして、

ここでは、マタイやルカと異なって、ユダがイエスを「引き渡すため」

の動機が明らかにされていないです。

 

マタイにおけるように、ユダのほうがまず祭司長たちに報酬を要求した

のでもなければ、ユダの裏切り行為は、ルカのようにユダに入り込んだ

「サタン」の業でもないのです。また、マタイのように、祭司長たちが

ユダに「銀貨三十枚を支払った」その時より、イエスを引き渡す機会を

狙っていたのでもなければ、ルカにおけるように、ユダは「彼に銀貨を

与えることで一致した」祭司長たちの協議に同意して、イエスを引き渡す

機会を狙っていたのでもないのです。

 

そして、マルコでは「過越しの食事」において、ある弟子の裏切りに

ついて、次のような予告をします。

 

『さて夕方になると、彼は十二人と一緒にやって来る。そして彼らが

(食事の席で)横になって食べている時、イエスは言った、「アーメン、

私はあなたたちに言う、あなたたちの一人で、私と一緒に食事をして

いる者が、私を引き渡すだろう」。彼らは悲しみ始め、一人ずつ彼に

言い(始めた)、「まさか、この私では」。そこで彼は彼らに言った、

「十二人の一人で、私と共に鉢の中に(自分の食物を手で)浸す者

(がそれだ)。というのも、たしかに<人の子>は彼について書いて

あるとおり、去って行く。しかし禍いだ、<人の子>を引き渡すその

人は。その人にとっては、生まれて来なかった方がましだったろうに」』

(マルコ14 17-21

 

荒井氏は、この中の「まさか、この私はでは」という弟子たちの自問に

ついて、マルコは、弟子たちの一人ひとりにイエスを「引き渡す」可能性

があることを読者に示唆しているのではないか、あるいは、この弟子たち

の自問に、マルコ福音書の読者の自問が重ねられているのかもしれない、

と述べています。

 

なぜなら、マルコ福音書は、イエス物語を「同時代史」的に書かれていて、

福音書の弟子たちは、マルコ時代の教会員、とりわけ、その指導者たち

と重ねられているからであるとしています。

 

マタイでは、この弟子たちの自問を残しているが、その後で、予告されて

いる者がユダであることを示唆しているが、ルカに至っては、この文言は

完全に削除されています。

 

ところで、「たしかに<人の子>は彼について書いてあるとおり、去って

行く」とありますが、これはどういう意味でしょうか?

 

荒井氏は、ここで突然イエスは自らを<人の子>と呼ぶことについて、

これはマルコ福音書において、イエスが自らの受難復活を予告する際に

用いる自己呼称であり、「<人の子>は・・・去って行く」とは、受難

復活への意味をたどるためにここを去って行く、というほどの意味で

あろうとしています。

 

「彼について書いてあるとおり」とは、聖書に書いてあるとおりを意味

するが、これを示唆する(旧約)聖書の箇所は見出されず、受難のイエス

の先駆者として登場するエリヤの運命を示唆しているのではないかと

しています。

 

また、イエスは、エルサレムへ行く途上で、自分が引き渡され、殺され

ること、「そして三日後に、彼は起き上がらされる」と予告する(マルコ

10 33-34)のですが、「起き上がらされる」とは「復活させられる」の

意味で、「神によって」を含意していて、イエスの受難と復活の道行は

神の定めであると言おうとしているということです。

 

しかし、このように「引き渡される」行為の主体が神で、ユダはその

人間的手段に過ぎないとすると、では、マルコ福音書14 21の後半の、

「禍いだ」という呪詛、そして、「生まれて来なかった方がましだった

ろうに」(マルコ14 21)という言葉をどう理解したらいいのかと

いうことになります。

 

荒井氏は、最愛の弟子に裏切られたイエスの、彼に対する率直な恨みと、

裏切りもまた神の定めのうちにあるという神学的解釈との緊張関係が

ここに露呈されているのであろうか。あるいは、側近の弟子に裏切られ

て死に引き渡されようとしているイエスの苦しみの吐露によって、その

イエスを「起き上がらせた」神の恵みの深さを際立たせようとしているのか、

それとも、このイエスの言葉はユダに対する呪詛ではなく、弟子のひとり

のために主人が漏らした哀れみの叫びととるべきかもしれない、と述べて

います。

 

そして、このあと、有名な最後の晩餐の場面に移るのですが、そこではユダ

はもう同席していないと想定されることが多い。しかし、ヨハネ福音書のみ

が、ユダがイエスからパン切れを受け取ると、「ただちに(食事の席から)

出て行った」と記しているのであり、他の三つの福音書においてはユダの

不在を示唆する記事は皆無であるとしています。

 

さらに、食事のあと、イエスの一同はオリーブの山へ行き、ここでイエスは

弟子たちに「あなたたちは、全員が躓くことになるだろう」と「躓きの

予告」をしますが、ここで「躓き」を予告される「全員」とは、ユダを

含む12人の弟子たちすべてであろうとしています。

 

なぜなら、マルコは、先に触れたように、イエスを裏切る可能性をユダ

のみならず、他のすべての弟子たちにも見ていたと思われるからです。

実際、のちに、イエスの「捕縛」に際し、弟子たちは彼を見捨てて

全員が逃げて行きます。

 

しかし、マルコによれば、イエスは自らを見捨てて逃げ去った弟子たち

全員に対して、ガリラヤでの再会を約束していて、彼らの罪は究極的に

赦されていたとされます。

 

このことは、弟子たちに対するイエスの「躓きの予告」の場にユダも

いたと思われるだけに、「イエスを引き渡す者」と言われるユダにも

妥当すると思われると荒井氏は述べています。

 

この「躓きの予告」のあと、イエスは弟子たちと共にゲッセマネの園へ

行き、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴って最後の祈りを行います。

イエスは神に対して必死に祈っているにもかかわらず、彼らは眠り

こけていた。そして、最後にイエスは言う、「なお眠っているのか、

また休んでいるのか。事は決した。時は来た。見よ、<人の子>は

罪人らの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を引き渡す者が

近づいた」(マルコ14 41-42

 

このイエスの言葉から推定して、ゲッセマネの園にはユダは不在で

あったとされます。彼はイエスの捕縛の先導をするために、園から

離れ、ユダヤ最高法院へと密に赴いたのであろうとされます。

 

イエスの「捕縛」は次のようなかたちで実現されます。

 

『そしてすぐに、彼がまだ語っているうちに、十二人の一人のユダが

現れる。・・・彼を引き渡す者は、(こう)言いながら彼らに目印を

与えていた、「俺が接吻する奴があいつだ。それを捕らえて、間違い

なく引っ立てて行け」。そしてやってきて、すぐにイエスに近寄って

言う、「ラビ」。そこで彼らは彼に手をかけ、彼を捕らえた。』(マルコ

14 43-46

 

なお、このあと、「私は毎日、神殿(境内)で教えながらお前たちのもと

にいたが、お前たちは私を捕らえはしなかった。しかし(これも、)聖書

が満たされるためだ」と言われていますが、これはこのようなかたちで

イエスが逮捕され、「引き渡される」のも神の定め、その必然であること

を示唆しているようです。

 

このあと、ユダはどう振る舞ったのかについては、「すると(弟子たち)

全員が、彼を見捨てて逃げて行った」(マルコ14 50)と記されて

いるものの、一切報告されていません。マルコ福音書では、「縊死」も

「転落死」もしていないのです。ユダもまた他の弟子たち「全員」と

共に、ガリラヤにおける復活のイエスとの約束に与っていることを示唆

しているだけだということです。

 

もっとも、荒井氏によると、これは暗示されているだけで、イエスが復活

後自らを顕した相手は、「十二人」であったとする古い伝承があるのみで

あり、ユダはイエスを裏切った後、どのような仕方で、またどのような

時点で弟子集団に復帰したか、またどのような死にざまをしたかについて

定かでないと述べています。

 

さて、マルコにおけるユダは、このように描かれていますが、マタイや

ルカ、そしてヨハネの福音書では、どのように表現されているのでしょうか?

次回はそれを見てみたいと思います。









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グノーシス主義による聖書解釈-「トマスによる福音書」2-


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ナグ・ハマディ写本 
(ナグ・ハマディ写本)




グノーシス主義による聖書解釈とは、具体的にはどのようなものなのかと

いうことですが、まず、その旧約聖書解釈から見ていきたいと思います。

 

一時代前までは、グノーシス派は旧約聖書を創造神や律法と共に拒否したと

いう説が一般的であったようですが、現在は、とりわけナグ・ハマディ写本

発見以来は、もちろん、その解釈原理によって適当な修正を加えた上で、

旧約聖書を受容した、あるいは、少なくとも、彼らの解釈の対象としたと

見るのが定説であるようです。

 

実際に、グノーシス派の創造神話は、多くの場合、創世記1~3章の釈義に

よって展開されていて、デミウルゴス(造物主)は、アルコーン(低位の神、

偽の神)と共に、自分のかたちに人を、男と女とにつくった、それも、この

場合、「人」は単数であるから、人は元来両性具有であったと解釈されます。

さらに、女(イブ)が男(アダム)から離れたとき、死が生じたとされ、

彼女が再び入り込み、彼が彼女を受け入れれば死はないであろう。このような

男女の原初的統合をもたらすために、イエスは来臨したのであるとされます。

 

旧約「律法」に対するグノーシス派の姿勢については、グノーシス派が律法を

造物主(デミウルゴス)に由来すると見るかぎり、これに対しては必然的に

否定的、少なくとも消極的な評価を下すことになるようですが、完全に否定

する立場がある一方、プトレマイオスなどのように、救いの条件としての

律法は否定するが、救われた状態をこの世で持続していく手段としての律法

の効用を認める立場もあり、その意味でグノーシス主義を直ちに無律法主義

と同定する正統的教会の偏見から自由になるべきだとする主張があります。

 

そして、このような「律法」に対するグノーシス派の両義的立場は、グノー

シス派の「預言者」観、あるいは、預言者の解釈にも妥当するようです。

 

グノーシス主義各派において、預言者は多くの場合、造物主(ヤルダバオト)

から霊威を受けた存在として批判の対象とされていますが、「最後の預言者」

洗礼者ヨハネに中間的位置づけが与えられている場合もあるようです。

 

このように、グノーシス派の聖書解釈には、各派、各文書によって、かなり

の多様性がある、そして、その際、グノーシス派がその解釈原理を直接的に、

しかも、ラディカルに前景に押し出すところでは、創造神、律法、預言者

などが否定の対象となるけれども、他方、これらは、グノーシス的「解釈」

によって「原理」の中にとり込まれることもできた、ということだろうと

荒井献氏は述べています。

 

さて、では、トマス福音書では何が語られているのでしょうか。

 

新井氏は、トマス福音書は全体として一貫した構成はない、一定の解釈原理

に沿ってではあるが、無作為にイエスの言葉を収録した「語録集」であると

いう立場をとりたいとしています。

 

なぜなら、トマスは一人のグノーシス主義者として、イエスの言葉の歴史的

文脈には無関心であり、彼はむしろ、一つ一つの言葉の隠された意味の解釈

を我々に求め、それに聞く耳ある者が聞くことを、すなわち、それの理解と

組織化を我々自身に委ねているというのです。

 

それゆえに、トマスのみならずグノーシス主義出自の「福音」は、総じて

正典四福音書のごとくイエスの言葉をその歴史上の業の中に編み込まず、

語録集、あるいは弟子たちとの対話集という独自な文学類型の中で告知

されているのだとしています。

 

そこで、トマス福音書における語録の配列順序をいったん解体し、それを

現代に生きる我々に理解しやすいテーマ別に組み直すと次のようになる

ようです。

 

まず、イエスが「肉において」現れ、「この世」の只中にたったとき、彼は

人間が、肉体、性、富、家柄、年嵩(としかさ)のみならず、宗教的伝統

と敬虔、さらには権力者と神に酔いしれているのを見出したとして、神を

も相対化しています。

 

つまり、<人々がイエスに金(貨)を示し、そして彼に言った、「カイザル

の人々が私たちから貢を要求します」。彼が彼らに言った、「カイザルのもの

はカイザルに、神のものは神に返しなさい。そして、私のものは私に返しな

さい」(100)>とあるが、この場合の「私のもの」とは、上界(プレー

ローマ界)に属する人間の本来的「自己」、「カイザルのもの」とは地界に属

する事柄、そして「神のもの」とは中間界(天界)に属する事柄をそれぞれ

意味し、神とは、「天地」「この世」の創造神(デミウルゴス)、つまり、

正統的教会の「神」ということになります。

 

また、トマス福音書のイエスは、共観福音書における「神の国」「天国」

という表現を「父の国」「御国」に言いかえる傾向があるだけでなく、

「創造神」を示唆する「義人ヤコブ」「盗賊」「強い人」などの象徴語は、

いずれも負の意味で用いられていることが多いようです。

 

なお、「御国」とは、客観的に可視的な特定の領域なのではなく、人間が

「自己」の本質を知るときに、おのずから知られる、人間の只中に内在し、

同時のその外に外在する一つの支配状態をいうようです。

 

さて、旧約以来の「神」を相対化するのですから、その「神」に依拠する

キリスト教の伝統と敬虔も、すなわち、「イスラエルの預言者たち」や

「アダム」でさえ、イエスによる批判の対象となります。

 

そして、これに呼応して、ユダヤ教の慣習はもとよりこと、ユダヤ-キリ

スト教の宗教的敬虔、つまり、断食、祈り、施し、食事規定は否定され、

割礼、断食、安息日のみが精神化されたうえで、新しく意義づけられる

のです。

 

また、ユダヤ社会においても、成立しつつある正統的教会においても、とり

わけ年長者(「長老」)が重要な地位を占めていたが、トマス福音書のイエス

は、「老人」と「小さな子供」の位置を逆転し、「子供」と同様に、ユダヤ

-キリスト教社会では一般的に差別の対象とされていた「女」も、当福音書

では逆に高く評価されているのです。

 

そして、「この世」の本質であるもの、「この世」に属するすべてのものを

捨て、本来の「自己」を求めよというのですが、それでは、その人間の本質

とは何なのでしょうか? 人間は元来どこから来てどこへ行くのでしょうか?

 

人間は、元来「光」からきた「光の子ら」とされます。この場合の「光」とは

「父」(至高者)のことを指すため、人間はこの意味で「父の子ら」といえ

ます。しかし、他方、光が生じた、それは自立して、人間の像において現れ

出た、といわれるように、「光」とはイエス自身のことでもあろうという

ことです。

 

イエスは、「光」として、覚知者にとっては、そこから出てそこに帰る

「すべて」のものとされ、「父」と「子」(イエス)と「子ら」は、「光」

にあってその本質を一つにするとされます。

 

また、イエス(と父)のいる「場所」は、「光」であると共に、「命」で

あるといわれます。そして、イエスは端的に「生ける者の子」、「生きて

いる者」と呼ばれ、他方、「自己自身を見出す者」つまり覚知者は「生ける

者(イエス)から生きる者」、「生ける者」と呼ばれるが、このことから、

父と子と子らは、「生者」として「命」において、その本質を一つにする

ことが明らかだということです。

 

このように、皇帝や神をも相対化し、およそ「この世」的なるものの一切

を「屍」と喝破するイエスは、人間界の中では、まさに孤独な「異邦人」

であるが、孤立しつつも「生ける」イエスは、「隠された言葉」、「奥義」

の中に「自己」を啓示し続けるのであり、「隠されているもの」が啓示

されるのは、人間がイエスの「口から飲む」とき、それによって自らが

「イエス」になるときであるとされます。

 

つまり、イエスと共に「父」の本質―「光」と「命」に象徴される「同じ

もの」に与り、自らこの原初的「自己」の統合を回復するときなのだ

といいます。

 

トマス福音書のキーワードの一つに「単独者」という表現があるとされます。

一つは、血縁的同族関係から己の身を断ち切って「一人で立つ」者、つまり、

自立者を意味しますが、もう一つ、原初的「自己」の統合を達成する者と

いう、より深い意味があるようです。

 

原初的「自己」の統合とはどういうことなのかというと、これを理解する

ためには、まず、両性具有の「原人」神話を前提としなければなりませんが、

トマス福音書では、<イエスは言った、「アダムは大いなる力と大いなる

富から成った。そして(それにもかかわらず)、彼はあなたがたにふさわしく

ならなかった。なぜなら、もし彼がふさわしくなったら、[彼は]死を[味わう

ことが]なかったであろうから」>とあるところから、アダムがなぜ死を

味わうことになったのかは明らかにされていないものの、両性具有の「原人」

神話が前提とされていると考えられます。

 

そうすると、原初的「自己」の統合とは、男と女の「二つ」に分裂している

現実の性別を、原初的「男-女」の対へと「一つ」にする、原初的統合を

回復し、「単独者」となることを意味するということになります。

 

かくして、二重の意味での「単独者」、「はじめに立つ者」は、「生ける」

イエスと共に、はじめから「死ぬことはない」とされます。つまり、トマス

福音書において「死」とは、肉体的死ではなく、むしろ、原初的関係の

断絶ということになり、この関係を回復し、「はじめに立つ者」に「死ぬ

ことはない」というのです。

 

ところで、このイエスの語録集としてのトマス福音書において、明らかに

されたのはどういうことでしょうか? 失われたイエスの貴重な言葉が

そこにはあったでしょうか?

 

荒井氏は、グノーシス派の秘教主義的性格にもとづく固有の聖書解釈と

その原理について詳しく述べてはいますが、共観福音書やその元資料より

もさらに貴重なイエスの言葉の発見というものは特にないようです。

 

イエスの真の言葉、真の思いはこのようなものではないのではないかという

疑問と、それをこそ知りたいという思いは残こされたままになります。

 

 

  

 
 
 
 
 
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隠されたイエス-トマスによる福音書-


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トマスによる福音書 トマスによる福音書2





エジプトのナイル川中流域にあるナグ・ハマディという小さな村で、

1945年に、羊の皮でカバーされた13冊のコプト語(古代末期の

エジプト語)パピルス古写本(コーデックス)が発見されましたが、

これが、いわゆる「ナグ・ハマディ文書」といわれるものです。

 

この「ナグ・ハマディ文書」の大半は、キリスト教最初で最大の「異端」

といわれるグノーシス主義に関わるものであり、その中の一つが、今回、

取り上げるトマス福音書です。

 

トマス福音書は、グノーシス主義の視点で著された福音書ではありますが、

教会教父(古代キリスト教の正統を担った著作家たち)がいうような偽

福音書、つまり、マニ教徒によって偽作された福音書であるとするのは

誤った見方であると、『トマスによる福音書』の著者、荒井献氏は

述べています。

 

もっとも、この福音書が実際に使徒トマスによって著されたものではない

という意味で「偽作」であることは事実であるとしても、それを言うの

であれば、「正典」のマタイ福音書は使徒マタイに、ヨハネ福音書は

使徒ヨハネに、それぞれ直接由来するのかどうかという疑いがあるの

と同じであるとしています。

 

ともかく、トマス福音書に収録されているイエス語録の最終的編集が

グノーシス主義者であったことは否定できないとしても、イエス語録の

すべてがグノーシス主義の視点から虚構されたことを意味するものでは

ないといいます。

 

そうではなく、トマス福音書には、「ナグ・ハマディ文書」発見以前に、

19世紀末から20世紀初頭にかけて、エジプト中部のオクシリンコス

で発見されたギリシャ語のいわゆる「オクシリンコス・パピルス」の

一部と並行するイエスの言葉、つまり、直接、グノーシス主義に由来

しない<ユダヤ人キリスト教>出自と思われるイエスの言葉が見出

されるばかりではなく、正典福音書に並行する、さらには共観福音書に

前提されているイエスの言葉伝承に、本来の形としてはより近い語録

さえ存在すると荒井氏は述べています。

 

ところで、グノーシス主義とは何かということですが、以前、グノーシス

主義について取り上げたことがありますので、詳しくは触れませんが、

それは、端的にいうと、人間の「現在性」―身体この世宇宙宇宙の

支配者たち宇宙の形成者(デミウルゴス)―に対する拒否的な姿勢が

前提とされていて、人間の本来的自己と、宇宙を(否定的に)超えた究極

的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという「認識(グノーシス)」

を救済とみなす宗教思想ということです。

 

もっとも、このような反宇宙的な、否定的な現在性への姿勢だけでは、未だ

グノーシス主義そのものは成り立たず、この姿勢によって存在の根元的解釈

をし、自己を表現しなければならないが、それは現実世界を否定的に超えた

場に自己を同一化した表現にならざるをえず、必然的に神話論的象徴言語に

よらざるをえなくなるということになります。

 

また、「グノーシス派」とは、一般的には、キリスト教の「分派」のことで

あるから、キリスト教の「正統」思想がまずあって、それを奉ずる正統的

教会により「異端」として排斥された思想に固執するセクトのことである、

よって、グノーシス主義からその基盤となったキリスト教の要素を取り去れ

ば無に帰するとされますが、荒井氏は、グノーシス主義そのものは、元来、

キリスト教とは無関係に成立した独自の宗教思想であり、それが事後的に

キリスト教に自己を適合して、「キリスト教グノーシス主義」を形成した

ことは認められなければならないと荒井氏は述べています。

 

さて、グノーシス主義の解釈原理が反宇宙的・本来的自己の認識にある

とすれば、これは必然的に、至高者と人間の間にあって人間に救いを

仲介する、救済手段としてのこの世の絶対的権威というものを承認

しないことになります。

 

実際、グノーシス派は、救済機関としての教会制度、これを排他的に

担う聖職位階制、これによって正当性を保証される特定の使徒伝承を、

これらが客観的絶対性を主張する限りにおいて、相対化していった

ようです。

 

ただし、このような教会の業を頭から拒否したのではなく、否定した

のは、これらが自己を歴史的・客観的に絶対化した限りにおいてで

あったということです。

 

だからこそ、グノーシス派は、正統的教会が「正典」化しつつあった聖書

諸文書をも自らの聖文書として採用することができたし、正統的教会が

その名によって伝承の正統性を確保しようとしたペテロをはじめとする

十二使徒、あるいはパウロの名によって、自らの福音書や黙示録を著す

ことができたということです。

 

しかし、元来、グノーシス主義の側からすれば、啓示は直接的、無媒介的

なものであり、また、万人に対して無差別に顕示されるものではなく、

特定の宗教的達人、知的エリートに秘かに伝授されるものであるため、

ペテロやパウロは啓示の受け手、伝え手以上の機能を持たないのです。

 

しかも、グノーシス派の場合、人間の救われるべき本質は<女性>として

表現されていて、ここから、当時、正統的教会から「娼婦」とみなされて

いたマグダラのマリアにペテロを批判的に超える最高の地位が与えられて、

イエスから直接彼女に、しかも秘かに啓示された内容を伝える福音書や

彼女の名による福音書(『マリア福音書』)が著されることになります。

 

また、啓示の超越性と直接性を確保するため、グノーシス派の福音書は、

しばしば、その内容が、地上のイエスによってではなく、復活のキリスト

によって啓示されたという文学形式によって伝えられているということです。

 

そして、その際、注目すべきは、その啓示がイエスと弟子たち、あるいは

マグダラのマリアとの対話によって伝授されているということですが、

このトマスの福音書の場合は、対話形式さえも後景に退き、全体として

イエスの語録集になっています。

 

いずれにしても、グノーシス派の場合、啓示内容の伝え手は、彼(または

彼女)が啓示者によって、その資質が認められ、選ばれた者であるならば、

十二使徒やパウロに限定されはせず、原則的には、無制限に拡大され得た

のであり、秘教の伝え手は、グノーシス諸派の創設者でもあり得たという

ことです。

 

かくして、グノーシス派によれば、正統的教会は「至高者」の存在を知らず

に、創造神(デミウルゴス)に対する信仰に、しかも現実には、信仰に

基づく行為を救済の条件としており、しかも、地上の「見ゆる教会」を

救済機関とみなしている。人間は、救済の条件としての倫理的行為や、

救済機関としての教会、さらには、これらの一切が起因する創造神に

対する信仰そのものから、本来的自己の出自である至高者の認識

(グノーシス)によって解放されなければならないと説くのです。

 

さて、では、グノーシス主義の聖書解釈は、トマス福音書では、具体的

にどのようになされているのかということになりますが、それは、次回に

取り上げてみたいと思います。






 


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親鸞と教信-我は是れ賀古の教信沙弥の定なり-


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親鸞 親鸞




吉本隆明氏は、「ある親鸞」の中で、親鸞にはいくつかの貌があるが、

当代無二の思想家として、浄土教義の流れに身をただし思想を述べている

晩年の親鸞と、越後や関東の野人たちに、偶像や派閥の破壊を生々しい

言葉で説いている親鸞とは、異質のように思えてくる、と述べています。

 

つまり、晩年、法然の専修念仏義を展開させるために打ち込んでいる親鸞

の姿と、越後配流(流刑)以後、はじめて、じかに接触した無学文盲の野人

たちに、むきになってラジカルな見解を説き歩いている親鸞の姿の間には、

深淵が横たわっているというのです。

 

さて、親鸞は、法然とともに、専修念仏を布教したかどで、後鳥羽院の怒り

を買って、「僧の儀を改め、姓名を賜うて、遠流に処」される、つまり、

流刑に処せられ、還俗させられるのですが、自分を「僧に非ず俗に非ず」

と考え、「禿(とく)」の字を姓とするようになったということです。

ただし、ここではまだ<非僧非俗>は、後鳥羽院らに押しつけられた境涯

の命名にすぎず、何ら思想的な自覚はなかったようです。

 

しかし、越後配流の生活は、この<非僧非俗>に思想的な意味を与える

ことを、親鸞に強いたのだと吉本氏は言います。

 

なぜなら、法然のもとで、自力の計らいからもっとも遠い存在だと思って

いた、<衆生>は、越後国で接触した衆生に比べたら、まだ空想の<衆生>

にすぎないことを知った。<衆生>とは、単に<僧>たるものが<知>の

放棄によって近づくていの生やさしい存在ではなかった。また、<僧>たる

ものが、安直に専修念仏を勧めれば帰依させうる存在でもなかったからだ

というのです。

 

親鸞は、越後配流中に、後の恵信尼と同棲し、そして、息子の信蓮をもうけ

たといわれますが、名主や村落民たちに念仏を説きまわりながら、彼らの

経済的な援助で妻子と生活を営んだようです。

 

妻帯して子を交えて営んだ生活は、形からして<非僧>だったばかりでは

なく、このあたりで易行道によって<衆生>を教化するという理念を放棄

したと思われると吉本氏は述べています。

 

彼自身が<衆生>そのものになりきれないことは自明であったが、また、

<衆生>は、専修念仏によって釣り上げるべき与しやすい存在でもなかった。

親鸞にできたのは、ただ還相に下降する目をもって<衆生>のあいだに入り

込んでゆくことであったと吉本氏は言うのです。

 

親鸞の師の法然にとって<衆生>とは、なまじ自尊心や知識に装われて

いないために、かえって他力の信に入りやすい存在であったし、また、

信に凝るあまり無知文盲の身でもって、えてして他宗の有識の徒を誹り

(そしり)などして、逸脱しやすい存在とも解されたが、親鸞がこの時期に

体得したところでは、<衆生>はことのほか重い強固な存在で、なまじの

<知>や<信>によってどうにかなるようなちゃちなものではなかった。

よって、教化、啓蒙のおこがましさを、親鸞は骨身に徹して思想化する

しかなかったのだとしています。

 

たしかに、法然は、念仏者は一代の仏法の学匠であっても、文盲の愚かな

身になって、尼入道などの人々と同じようにして、智者のような振る舞い

をせず、ただ、一向に念仏すべきだと述べていますが、他では、経文の

一句ものぞいたことのない身で、真言・止観を破り、余の仏・菩薩を誹謗

してはならないと戒めています。

 

つまり、一方で<僧>に<知>の放棄を求め、一方で念仏帰依者である

<俗>に仏法理念を破るなというスタンスをとっているということです。

 

しかし、少なくとも越後配流以後の親鸞は、もっと徹底した位相に身を

移しているのではないかということのです。

 

吉本氏は、「越後の在俗生活は、親鸞に<僧>であるという思い上がりが、

じつは<俗>と通底している所以を識らせた。そうだとすれば<僧>と

して<俗>を易行道によって救い上げようとするのは、自己矛盾に

すぎない。<衆生>にたいする<教化>、<救済>、<同化>といった

やくざな概念は徹底的に放棄しなければならない。なぜなら、こういう

概念は、自分の観念の上昇過程からしか生まれてこないからだ。」

 

「観念の上昇過程は、それ自体なんら知的でも思想的でもない。ただ

知識が欲望する<自然>過程にしかすぎないから、ほんとうは<他者>

の根源にかかわることができない。往相、方便の世界である。」

 

「<他者>とのかかわりで<教化>、<救済>、<同化>のような概念を

放棄して、なお且つ<他者>そのものではありえない存在の仕方を根拠

づけるものは、ただ<非僧>がそのまま<俗>ではなく<非俗>そのもの

であるという道以外にはありえない。ここではじめて親鸞は、法然の思想

から離脱したのである」と述べています。

 

そして、このときの親鸞の胸中に去来したのは法然の姿ではなく、「賀古

の教信沙弥」の姿であっただろうことは疑われない。なぜなら、親鸞が

「我は是れ賀古の教信沙弥の定なり」と云いつづけていたと覚如の

「改邪鈔」に記されているからであるとしています。

 

さて、教信については、前回、ざっと紹介しましたが、教信と当時の

他の遁世の聖たち、すなわち捨聖と比べると著しい特徴があるという

ことです。

 

教信が、興福寺の碩学だったという伝が正しいとして、<知>と名跡を

放棄し一介の念仏者となって草庵にこもったというところまでは当時の

遁世の流行と変わっていないとしても、当時の一般的な捨て聖たちは、

別所に集落を構え、ときどき巷へやってきては人々に経文をすすめ、

工銭や食糧の喜捨を受けるのが生活様式であったのに対し、教信は、

髪を剃った僧体をとらず、妻帯し、農家の日雇い下人として田畑を耕し

たり、旅人の荷物運びを手伝ったりして、報酬を得ては妻子との生活の

資としたということです。

 

このことは、教信の思想に<衆生>への<教化>という概念がなく、また

<僧>という意識を放棄していたことを意味しているのではないか。そして、

教信が、本尊を飾らず経文も読まなかったのは、宗教を否定した宗教者と

いう境地にあったとも言えるのではないか。

 

そして、教信は、変わり種の後世者、変わった捨て聖の域を超えていて、

その生きざまは、当時の僧侶概念から考えて思想的な根拠なしには不可能

な領域に達しているはずだとしています。

 

かくして、吉本氏は、「賀古の教信が規範として蘇ったときの親鸞に姿は、

きわめてラジカルであった。親鸞は僧体を拒否し、善人づらをして勧進

して歩く「人師」の姿をも拒否する。・・・牛盗人とよばれてもかまわ

ないが、異形の風体や思想をもつ者(当時流行の遁世者たちのこと)の

ように振る舞うなというとき、<同化>や<教化>や<布教>の概念は、

まったく否定されている。ただ還相の眼をもった一介の念仏者が、その

ままの姿で<衆生>のなかに潜り込んで、かれらの内心に火をつけて

歩く像だけがみえてくる。こういう親鸞は、現在のこされているどんな

<御影>(肖像画)とも似ていない。また、徹底的に僧形を拒否している

親鸞をたれも描いていない」と述べています。

 

ところで、以前にも述べたことですが、吉本隆明氏は、みずからを一貫

して「無神論者」と規定してきたということです。しかし、このような

親鸞への深い愛着と執拗なこだわりとはいったいなぜなのだろうかと

いう疑問がさらに深まります。

 

吉本氏は、彼の思想形成の重要な段階で歎異抄や福音書などの宗教書

よって大きな影響を与えられてきたといわれますが、彼の意識の奥深い

ところに強い宗教性があり、時代をさかのぼれば、思想家ではなく、

卓越した宗教者であったかもしれません。

 

ともかく、絶対他力をいい、骨の髄まで<信>の人であった親鸞に

とっては、後世、己が思想家として扱われ、評価されるということは

夢にも考えらなかったのではないでしょうか。

 

現代とは、<信>よりも、<愛>よりも、<知>というものがすべて

に優先する不幸な時代なのかもしれません。









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賀古の沙弥 教信―捨聖・念仏聖の先駆者2-


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教信  
(教信寺 沙弥教信上人 頭像 )

<教信入滅後、遺言により、亡骸は野に置かれ、体は鳥獣に食われたが、首から上は
無傷であったという説話をもとに制作されたという>


一遍が尊敬していた念仏聖は、空也のほかに「播磨国の賀古の駅(うまや)

の教信」という人がいます。

 

一遍は非常に教信を尊敬していて、『一遍聖絵』によると、教信寺(教信

を開祖とする寺)を訪れ、懐かしく思いつつも、そのまま去る予定で

あったのが、教信上人がお引き止めになったと、その寺に一晩泊まること

になったという。また、その3年後、病気がちになった一遍は、教信寺の

ある「いなみ野の辺にて臨終」しようと思っていたし、臨終直前に自分の

遺骸は、教信がしたように「野にすててけだものにほどこすべし」と遺言

していたということです。

 

では、教信とはどういう人だったのでしょうか?

 

どうも、前回紹介した空也以上に資料が少ないようですが、南北朝時代の

播磨国の地誌である『峰相記』によると、次のような人だということです。

 

教信は、はじめ奈良・興福寺の碩学で、法相宗のすぐれた学匠であった。

ある時期から回心するところがあって、西方浄土を願うようになり、

興福寺を捨てて西海を志し、播州賀古郡西の野口(兵庫県加古川市)に

草庵をつくって住んだ。この地は西方が遠く晴れて、極楽浄土を願う

ものにふさわしい土地であった。教信は妻帯し子供が一人あった。髪も

剃らず爪も切らず、衣も着ず、袈裟もかけなかった。昼夜に念仏を

おこたらず、夢中で名号をとなえた。村人たちは阿弥陀丸(あみだまろ)

と呼んだ。

 

教信は勧進(布教)もせず、喜捨(お布施)も乞わなかった。農家に

雇われて田を植え畑を耕して工銭をもらい、また、旅人の荷を担ぐ手伝い

をしては食糧をわけてもらって、生活の資に供した。けれども念仏の

ほかすべてのことは忘れているようであった。このようにつづれ(ボロ)

を身にまとい「金ヲ懐ヒテ」一生涯をおくった。

 

そして、『今昔物語集』に、次のような説話があります。

 

昔、摂津の国(大阪府)、島下郡に勝尾寺という寺があった。その寺に

勝如(しょうにょ)上人という僧が住んでいた。道心が深く、別に草庵

を作ってその中にこもり、十余年の間、六道に輪廻する衆生のために無言

の行をして、熱心に勤行に努めていた。だから、弟子たちとも会うことも

まれであり、まして、他の人を見ることなど絶えてなかった。

 

あるときのこと、夜半に庵の柴戸をたたくものがある。勝如はそれを聞いた

が、無言の行の最中なので、要件を問うこともできず、咳ばらいをして戸

を叩いている人に知らせると、「自分は播磨の国賀古郡の賀古の宿駅(兵庫

県加古川市)の北辺に住む沙弥教信というものです。長年、弥陀の念仏を

唱えて極楽に往生しようと念願してきましたが、今日、とうとう極楽往生

することができました。あなたもまた、某年某月某日に極楽からお迎えが

くるでしょう。ですから、そのことをお知らせに参ったのです」といって

そのまま去ってしまった。

 

勝如はこれを聞いて、驚き怪しんで、翌朝すぐに無言の行をやめて、弟子の

勝鑒(しょうかん)を呼んで、昨夜こういうお告げがあったから、賀古の

宿駅あたりに行って教信という僧がいるか尋ねてくるようと命じた。勝鑒

が師のいうとおり播磨国におもむいて、言われたとおりあたりを尋ねてみる

と、賀古の駅宿の北に小さな庵があり、その庵の前に死体がひとつ置いて

あり、犬や鳥が集まって、その死体を争って食っている。庵の内には一人の

老女と一人の子供がいて、一緒にとても激しく泣き悲しんでいる。

 

勝鑒はこれを見て、庵の入り口に立ち寄り、「これはどういう方で、どう

いうことがあって泣いているのですか」と問うと、老女が答えていうには、

「あの死人は私が永年連れ添った夫です。名を教信といいます。一生の間

弥陀の念仏を唱えて、昼夜夢のなかでも怠りませんでした。それで隣近所

の里人は、皆、教信のことを阿弥陀丸と呼びました。ところが昨日死に

ました。私は、老いて永年連れ添った夫に死別して泣き悲しんでいるのです。

ここにいる子は教信の子供です」という。

 

これを聞いた勝鑒は帰ってきて、勝如上人に詳しく話した。覚如上人は

これを聞くと、涙を流して感じ入り、かつ、貴んで、さっそく教信のところ

へ行って、泣く泣く念仏を唱えて庵に帰ってきた。そのあと、勝如は、

いよいよ心を込めて日夜念仏を唱えるようになり、教信が先に予告した年の

その月のその日に、貴い最後を遂げた。

 

また、「一言放談」によれば、教信は、庵の西には垣もせず、西方極楽浄土

と素通しに向きあうようにし、本尊などは安置もせず、経文なども読まず、

「僧にもあらず、俗にもあらぬ形」で、常に西方に向かって念仏していた。

 

大体、以上のようなことで、他の書物に依っても、これ以上のことはわから

ないようですが、晩年の一遍が強く教信にひきつけられたのは、おそらく、

その没後に何も残さない生き方であったのではないかと言われています。

 

ところで、この教信という人を先達として、非常に尊敬していた人がもう

一人いるようなのです。

 

それは、かの親鸞上人なのだそうです。本願寺三世、親鸞の曽孫とされる

覚如が著した「改邪鈔」によると、親鸞が「我は是れ賀古の教信沙弥の

定なり」、つまり、「じぶんはあの賀古に住まれた教信沙弥を心の規範に

している」といつも言いつづけていたというのです。

 

では、なぜ、親鸞は、そのようなことを言ったのか、また、親鸞にそう

言わしめた教信という人の生きざまは、他の念仏聖といわれる人たちと

どう違っていたのかという疑問が湧いてきますが、その答えを、次回に、

吉本隆明氏の『ある親鸞』に依りながら、探ってみたいと思います。










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空也-捨聖・念仏聖の先駆者-


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空也  



前回、衣食住のすべてを捨てて各地を遊行するという一遍がとった活動形態

の原型として、「法華の持経者」と呼ばれた人たちがいたこと、そして、

その持経者の一人である行空のという人物について触れました。

 

しかし、それよりも、実際、一遍自身が先達として慕っていたのは、平安

時代、すべてを捨てて、山野に遊行し、念仏を勧めて歩いて、阿弥陀聖、

あるいは市聖と呼ばれた空也という人で、彼の言葉に感動したからである

と言われています。

 

では、その空也とはどういう人だったのでしょうか?

 

空也が市中に「南無阿弥陀仏」と称えて、当時の人々が多くこれに従った

ということまでは、六波羅蜜寺の空也上人像とともにかなり多くの人に

知られていますが、それ以上の彼の実像は、残された資料が乏しく、あまり

にも現代の人々に知られていないというのが実情のようです。

 

しかし、『阿弥陀聖 空也』の著者石井義長氏は、その「謎に包まれた空也

の生涯と思想の実像を探ってみると、日本人が仏教を魂の糧として吸収

してきた長い歴史の中で、彼は到底見過ごすことのできない大きな足跡を

残し、それは仏教を離れた一箇の人間の生き方としても、まことに注目

すべき意義を備えたものといわなければならない」と述べています。

 

つまり、空也は、わが国の念仏の祖師と称することができるというのです。

なぜなら、7世紀に浄土教が日本に伝えられて以来、平安末の12世紀に

法然が専修念仏を唱えるまでの5百余年のほぼ中間の10世紀前半に、都市

の庶民生活が育ちつつあった平安京の市中に現れて、称名念仏を始め、法然

と同時代に鴨長明から「わが国の念仏の祖師」と称され、また、当時の仏教

史書において、その位置を中国浄土教の大成者善導のごとしと明確に記録

されているからだとしています。

 

ところが、従来の空也研究をみると、その念仏について、民間呪術的宗教の

性格を示す「狂躁的エクスタシア(恍惚)」というべきものにされたり、

「呪験者的性格」が強調され、さらには、空也の念仏は、「踊る宗教」に

類するものにされているということです。

 

そこには、空也の念仏のもつ大乗仏教的性格が顧慮されておらず、仏教者と

しての空也の真実の人間像を見出すことは不可能であるが、そうなった理由

として、空也の著した書物が何も伝わらず、第一資料である『空也上人誄』

という伝本も多くの欠落があり、彼に関する確実な史料が極めて乏しいと

いう事情があるようです。

 

さて、空也が生まれたのは、10世紀の初めで、平安京では盗賊の横行、

疫病の流行やさまざまな災害の頻発で社会不安が続き、悪神(巷の神)や

御霊(怨霊)に対する俗信も盛んにおこなわれていた時代、人々が生きる

ことの苦しみを痛感し、死後の安心に望みを託そうとする願いを強めて

いた時代であったとされます。

 

そのような時代を生きた空也の生涯については、生誕から修行・地方巡歴

の時代を経て、36歳で平安京に帰るまでを第一期とし、阿弥陀聖として

平安京の市(いち)を中心に念仏布教を進めた第二期、比叡山の大乗戒を

受戒してから東山の六波羅の地に道場を設けて造像・写経等の仏事を行う

第三期、入滅とそれ以後の第四期に大別できるとされています。

 

まず、第一期を概説すると、空也の出自も不明、生国も不明であり、幼少期

の生育状況については全くわかりませんが、少壮の日には、在家の仏教信者

である優婆塞(うばそく)として各地の名山・霊窟を遊行し、その間に、

道路を補修し、井戸を掘り、荒野に捨てられた遺骸を集めては焼き、阿弥陀

仏の名を唱えたといわれています。

 

もっとも、若き空也が遺骸に向かって唱えた阿弥陀仏名は、当時一般で

あった陀羅尼等の死霊を鎮め送る呪術性の強い念仏であったようです。

 

20歳をすぎて、尾張(愛知県)の国分寺で出家して沙弥(完全な戒を受け

て比丘、比丘尼となる以前の者)となり、自ら「空也」の名を称しました。

彼が20歳をすぎた年齢で自ら志して沙弥となったのは、優婆塞として各地

に庶民のための福祉事業を行った中で、人々の悩みを救うためには、仏教に

よる魂の救済が最も重要であると悟ったからであろうといわれています。

 

次いで、自ら求める庶民のための仏教の教えを見出すために、国分寺を

出て、一切経(仏の教えが説かれた経と、戒律を定める律、経律について

論議を述べた論の三部(三蔵)の仏籍を集成した大蔵経)を学ぶことを

志し、播磨の国(兵庫県)の峯合寺に籠ったということです。

 

そこでの閲読、研学のなかで、空也が選択したのは、戒律を守り、修行を

積み、深遠な真理を悟るという伝統的な聖道門ではなく、阿弥陀仏に祈って

極楽に往生し、その仏国土で悟りを開いて成仏しようという浄土教であり、

中でも、誰にでもたやすく唱えられる、当時の我が国としては前人未踏の

究極的な易行の称名念仏であったのです。

 

その後、彼は峯合寺を出て阿波の国(徳島県)の湯島へおもむき、数ヵ月

参篭し、観音菩薩に祈り続け、伝道者としての確信を得たあと、仏教が

あまり普及していないと考えられた陸奥・出羽(東北地方)を巡回する、

念仏布教の旅に出たとされています。

 

そこでの活動の記録は何も残されていませんが、現在も空也念仏踊りを

伝えている福島県の会津地方や長野市の信濃善光寺等は、空也の巡回の

地と考えられています。

 

さて、第二期の市(いち)を中心とする念仏唱道の時代は、空也が36歳

のときから始まるとされています。

 

この時代の前後は、東国に平将門の乱、西国には藤原純友の乱が相次いで

起こり、各地に群盗が横行したのに加え、平安京では疫病の流行、火災・

水害・地震等が頻発して、都と地方を問わず、大きな動乱の渦中にあった

ということです。

 

そのような平安京に帰ってきた空也は、市民の往来が最も激しい市(いち)

の中に乞食して、得るものがあればそれで仏事を行い、また、貧者や病人に

与えたため、市聖と呼ばれ、また、常に念仏を唱え続けたため、阿弥陀聖

とも称されたとされます。

 

なお、前回紹介した一遍が、「そもそも踊り念仏は、空也上人が市屋とか、

四条の辻ではじめて行われたものである」と記しているようですが、空也

みずから踊り念仏を行ったということは確認ができないようです。

 

あと、第三期、第四期をごく簡単に触れると、その後、空也は、その念仏聖

としての活動が当時の社会に広く認知された結果からか、46歳のとき、

推されて、比叡山延暦寺に登り、得度・授戒の儀を受け、光勝という僧名を

与えられたようですが、この頃から、彼の活動の拠点はそれまでの東市から、

鴨川を渡った東山の地に移り、教化活動にも造仏・写経・造寺等、市中遊行

から一段と組織的な活動が目立つようになったようです。

 

その象徴的なものが金字大般若経600巻の書写事業完成を記念する大般若

経供養会とされますが、この盛大な儀を頂点として、60代に入った晩年の

空也は、平穏な念仏行道の日常に入り、70歳で没したということです。

 

ところで、二期と三期以降を比べると、空也の考え方が後退しているのでは

ないかという疑問が湧いてくるかもしれません。

 

つまり、市門に掲げられた空也の和歌では、囚獄の罪人を下品下生として、

結果として、一切衆生の一念往生の確信が説かれるという革新性が備わって

わっているのに対して、後年の供養会は、一切衆生の往生を祈願するとして

いるにもかかわらず、上善の凡夫に可能とされる上品上生の往生を願うという

狭義の念仏になっているのではないかということです。

 

これに対して、石井義長氏は、その批判は正しくないとしています。それは

空也が生きた時代の限界であり、その後の時代の発展のみが彼の庶民社会に

植えつけた浄土教を成立させたというのです。

 

むしろ、平安前期の空也の時代には、写経・造像・説経・菩薩戒等は、仏教

の功徳を人々に廻向し、実感させる有効な「有縁の行」であり、これらを

伴ったからこそ、空也の仏事に社会の関心も集中され、「世を挙げて念仏を

事と」する勧化の効果が現実化したのだと述べています。

 

また、空也の信仰には、易行の念仏のほかに十一面観音の信仰、そして、

法華経持経等が混在していたのも確かなようです。

 

しかしながら、古代平安京の市中で、阿弥陀仏の名号を一度でも口に称える

者は、善人でも悪人でも、知恵者でも愚者でも、誰でも平等に、必ず極楽

往生できるという空也の念仏は、専修念仏を始めた法然よりも230年も

先立つ、驚嘆すべき先導性を持つものであったと述べています。







 

 
 
  龍
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「捨聖 一遍」


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捨聖一遍



「衣食足って礼節を知る」という言葉があります。

 

その意味は、ご承知のとおり、人は生活に余裕ができて、初めて、心にも

余裕ができ、礼儀や節度をわきまえられるようになる、そして、理想という

ものを実現しようとする気持ちにもなる、ということですが、一遍という

人は、鎌倉時代、すべてを、衣食住、そして家族をも捨てて、ひたすら

念仏を唱え、全国をめぐって人にも勧め、捨聖(すてひじり)と呼ばれた

と伝えられています。

 

一遍は、念仏こそ人生でもっとも大切なことであり、その他衣食住のすべて

の欲望は捨てよ、すべてを捨て、心から阿弥陀仏を頼らなければ救われない

と説いたということです。

 

一遍が活躍したのは鎌倉時代の半ばから後半にかけてですが、この時代は

仏教の改革者が多く出現した時代です。仏教は日本に六世紀に入ってきたと

言われていますが、その仏教は天皇や貴族のもので、庶民の救済にはなら

なかったが、時代が奈良・平安から鎌倉へと移り、武士をはじめとする庶民

が社会的に進出するようになって、仏教の世界においても、彼らの希望に

答えるような改革が進められました。

 

このような時代、仏教の改革者として現れたのが、法然・親鸞、日蓮、道元

たちでしたが、これらの高名な僧たちの活躍から少し遅れて世に現れたのが

一遍だということです。

 

さて、一遍は、捨聖と呼ばれたということですが、「聖(ひじり)」とは何な

のでしょうか?

 

聖とは、一般的には徳の高い人、あるいは僧のことをいうようですが、一方

で、組織的な教団を離れた民間の僧をさすということです。

 

奈良時代や平安時代においては、「僧尼令」によって、僧尼は寺院に定住する

ように定められており、僧尼が一般に俗人のもとを訪れて仏教の教えを説いた

となれば、その俗人もろとも厳罰に処せられたようです。

 

なぜなら、僧尼の果たす役割は、一般の俗人の救済にあるのではなく、天皇

や貴族をひたすら護ることであったからです。

 

しかし、それでも、網の目をくぐるように、民間に布教する僧、つまり、

聖はあとを絶たなかったようであり、その代表的な僧が、奈良時代の行基

であり、平安時代の空也だといわれています。

 

聖は既成の教団組織に縛られず自由に生きていて、森の中や険しい山の上で

激しい修行を積んで呪力を身につけ、戒律を厳しく守り、貧しい者や病気の

者の救済にも努力したということです。

 

とりわけ、平安時代中期以降になると、朝廷の統制力が著しくゆるんでくる

なかで、民間に流れる僧の数は次第に多くなっていき、比叡山や奈良の仏教

教団の腐敗ぶりが噂されるようになると、聖たちこそ尊敬すべき宗教者で

あるとの見方がいっそう広まったようです。

 

こうして、各地を巡り歩く聖たちが多く見られるようになったのですが、

彼らは阿弥陀仏信仰を持って念仏に生きるという者ばかりではなく、釈迦、

薬師、大日、観音、虚空蔵、また法華経など、さまざまな信仰を持って

いたということです。

 

そのうち、阿弥陀仏信仰と法華経信仰とが平安・鎌倉時代を通じての日本

の二大仏教信仰ということができるようです。

 

そのなかで、「法華の持経者」と呼ばれる人たちがいたということですが、

彼らは、法華経の教えを身をもって体得しようとする者たちのことで、

法華経だけを手に山林に籠って修行したということです。

 

その持経者の一人、行空という人の行動が、衣食住すべてを捨てて游行する

という原型をなすものと考えられています。

 

行空はもとは天台宗の僧であったが、住む家を持つことはもちろん、一ヵ所

に二晩とまることはなかったといい、世間の人から「一宿の聖」と言われて

いたということです。法華経を念仏に置き換えれば、まさに一遍の行動と

そっくりであり、一遍に活動の原型とされる所以です。

 

ところで、一遍が領地を捨て、家屋敷を他人に与えて布教の旅に出たのは

三十三歳のときだとされていますが、まず、それまでの一遍の人生を振り

返っておきたいと思います。

 

一遍は、伊予(愛媛県)の豪族河野氏の出身といわれています。一時は

有力な豪族であったが、承久の変で上皇側についたために没落したとされ、

一遍は、十一、二歳のころに、出家者であった父親の命で出家しています。

 

ところが、父親が亡くなると、帰国し、いったん俗人としての生活に戻って

いきます。俗生活に戻り、妻子をもうけ、十年近くの日々を過ごします。

 

しかし、そのまま人生を終えることができなかったようで、転機が訪れます。

再出家を決意するのです。

 

再出家の原因については、伝記では、子供たちのまわす輪鼓(りゅうご)

[こまの一種]が地に落ちてまわり終わったのを見て、人はみな輪鼓のように、

自分のはからいによって、生まれては死に、また生まれ変わっては死んで

いく、つまり、輪廻転生していると悟り、ここで再び出家して、六道輪廻

から逃れ、生活の悪循環を一挙に断ち切ろうと決心し、極楽往生への願い

が生まれたとされますが、もう一つ、現実的な要因として、親類間のいざ

こざがもとで、一遍が殺されそうになった事件が起きて、これがもとで、

今までの生活を突然やめ、家族を捨てて再び出家し、仏道一筋の生活に入る

決心をしたという側面もあるようです。

 

かくして、再出家した一遍の布教の旅が始まりますが、それから16年間、

51歳で亡くなるまで遊行(ゆぎょう)の旅は続けられたということです。

最初の数年は、たった一人の孤独な遊行であり、残りは、時衆を引き連れて

の集団の遊行であったと言われています。

 

なお、時衆とは、一遍が弟子のことをそう呼んだということですが、なぜ、

そのように呼んだかは、一遍自身は何も語っていないようです。たたし、

「時衆」とは、一日の六時(一日中)に念仏を唱える僧を呼ぶ名であった

ということで、そのままの意味であろうということです。

 

さて、一遍の信仰の特色は、このようなすべてを捨てての遊行のほか、その

念仏観にもあるようです。

 

悟りをひらいた仏と、我執の心をつのらせる自己とを対立する立場におき、

その自己が仏の力によって往生する、というのが従来の浄土教の考え方です

が、一遍は、これは浄土教の入口だとして、この状態にとどまっていては

いけないと言います。仏と我とが名号を媒体として一つになる、つまり、

仏も南無阿弥陀仏、我も南無阿弥陀仏になりきって、もはやそこには仏も

我もなく南無阿弥陀仏の中に包まれ、ただ南無阿弥陀仏が存在するだけで

あると言う。そして、仏もなく我もなく、念仏が念仏を申す、これが真の

他力であると説くのです。これが唯一念仏、あるいは独一念仏とも言われる

ものです。

 

一遍の名の起こりとなった彼の「一遍の念仏」とは、この自力他力を絶した

唯一念仏の意味なのだそうです。

 

そのほかの特色として、「賦算」と「踊り念仏」というものがあります。

賦算といういのは、「南無阿弥陀仏」と印字された10センチたらずの紙の

札を布教のために配ることであり、踊り念仏とは、すべてを捨てて、ひた

すら念仏を唱えていると、しだいに興奮して体が動き出し、踊り出すように

なるというもので、最初は、意図して始められたのではなく、時衆を中心に

自然発生的に始まったようですが、極めて有効な布教方法として位置づけ

られていったようです。

 

かくして、踊り念仏と時衆は後発のものであり、必ずしも本質的なこととは

言えず、一遍にとって本質的なことは全国を游行して、賦算、つまり、南無

阿弥陀仏の名号札を配ることによって布教すること(鎌倉時代の人たちは

文字に対して信仰に近い感情を持っていたという)であったようですが、

その理想世界実現のためにはきわめて有効であったため、游行・賦算と

ともに踊り念仏と時衆は一遍の宗教にとって必要不可欠なものになった

ということです。

 

このように、一遍は、すべてを捨てて、布教の旅を続けたのち、51歳で

亡くなったということですが、彼のなかでは、それまで重視された臨終正念

の意識が変化していったようです。臨終正念とは、臨終のときのみが救済の

瞬間であるという考えですが、一遍は、南無阿弥陀仏と唱えて、自分の心

を捨てきったときが救いのとき、すなわち、臨終正念だというのです。

 

ところで、一遍は、物を捨て、身を捨て、さらに心を捨てたとき、念仏を唱える

ことだけが残ったと言っています。つまり、何もかも思い切って捨ててみたら、

実は、ほんとうに大切なものは捨てていなかったということがわかってきた

というのです。

 

食べること、生きることが精一杯であった一遍の時代にすべてを捨てるという

ことは、すなわち、絶えず死と隣り合わせであることを意味したと思われます

が、現代人が捨てるというとき、それは、多くは、さらに欲しいもの、新しい

ものが手に入ることを前提としていたり、溢れるばかりになって邪魔なもの、

無駄なものを廃棄することを意味します。

 

この落差の大きさを思うとき、一遍の信仰に対する思いの深さに心打たれると

ともに、欲望の虜になり、完全に物に呪縛されてしまった現代人の哀れさ

を感じざるを得ません。







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