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空也-捨聖・念仏聖の先駆者-


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空也  



前回、衣食住のすべてを捨てて各地を遊行するという一遍がとった活動形態

の原型として、「法華の持経者」と呼ばれた人たちがいたこと、そして、

その持経者の一人である行空のという人物について触れました。

 

しかし、それよりも、実際、一遍自身が先達として慕っていたのは、平安

時代、すべてを捨てて、山野に遊行し、念仏を勧めて歩いて、阿弥陀聖、

あるいは市聖と呼ばれた空也という人で、彼の言葉に感動したからである

と言われています。

 

では、その空也とはどういう人だったのでしょうか?

 

空也が市中に「南無阿弥陀仏」と称えて、当時の人々が多くこれに従った

ということまでは、六波羅蜜寺の空也上人像とともにかなり多くの人に

知られていますが、それ以上の彼の実像は、残された資料が乏しく、あまり

にも現代の人々に知られていないというのが実情のようです。

 

しかし、『阿弥陀聖 空也』の著者石井義長氏は、その「謎に包まれた空也

の生涯と思想の実像を探ってみると、日本人が仏教を魂の糧として吸収

してきた長い歴史の中で、彼は到底見過ごすことのできない大きな足跡を

残し、それは仏教を離れた一箇の人間の生き方としても、まことに注目

すべき意義を備えたものといわなければならない」と述べています。

 

つまり、空也は、わが国の念仏の祖師と称することができるというのです。

なぜなら、7世紀に浄土教が日本に伝えられて以来、平安末の12世紀に

法然が専修念仏を唱えるまでの5百余年のほぼ中間の10世紀前半に、都市

の庶民生活が育ちつつあった平安京の市中に現れて、称名念仏を始め、法然

と同時代に鴨長明から「わが国の念仏の祖師」と称され、また、当時の仏教

史書において、その位置を中国浄土教の大成者善導のごとしと明確に記録

されているからだとしています。

 

ところが、従来の空也研究をみると、その念仏について、民間呪術的宗教の

性格を示す「狂躁的エクスタシア(恍惚)」というべきものにされたり、

「呪験者的性格」が強調され、さらには、空也の念仏は、「踊る宗教」に

類するものにされているということです。

 

そこには、空也の念仏のもつ大乗仏教的性格が顧慮されておらず、仏教者と

しての空也の真実の人間像を見出すことは不可能であるが、そうなった理由

として、空也の著した書物が何も伝わらず、第一資料である『空也上人誄』

という伝本も多くの欠落があり、彼に関する確実な史料が極めて乏しいと

いう事情があるようです。

 

さて、空也が生まれたのは、10世紀の初めで、平安京では盗賊の横行、

疫病の流行やさまざまな災害の頻発で社会不安が続き、悪神(巷の神)や

御霊(怨霊)に対する俗信も盛んにおこなわれていた時代、人々が生きる

ことの苦しみを痛感し、死後の安心に望みを託そうとする願いを強めて

いた時代であったとされます。

 

そのような時代を生きた空也の生涯については、生誕から修行・地方巡歴

の時代を経て、36歳で平安京に帰るまでを第一期とし、阿弥陀聖として

平安京の市(いち)を中心に念仏布教を進めた第二期、比叡山の大乗戒を

受戒してから東山の六波羅の地に道場を設けて造像・写経等の仏事を行う

第三期、入滅とそれ以後の第四期に大別できるとされています。

 

まず、第一期を概説すると、空也の出自も不明、生国も不明であり、幼少期

の生育状況については全くわかりませんが、少壮の日には、在家の仏教信者

である優婆塞(うばそく)として各地の名山・霊窟を遊行し、その間に、

道路を補修し、井戸を掘り、荒野に捨てられた遺骸を集めては焼き、阿弥陀

仏の名を唱えたといわれています。

 

もっとも、若き空也が遺骸に向かって唱えた阿弥陀仏名は、当時一般で

あった陀羅尼等の死霊を鎮め送る呪術性の強い念仏であったようです。

 

20歳をすぎて、尾張(愛知県)の国分寺で出家して沙弥(完全な戒を受け

て比丘、比丘尼となる以前の者)となり、自ら「空也」の名を称しました。

彼が20歳をすぎた年齢で自ら志して沙弥となったのは、優婆塞として各地

に庶民のための福祉事業を行った中で、人々の悩みを救うためには、仏教に

よる魂の救済が最も重要であると悟ったからであろうといわれています。

 

次いで、自ら求める庶民のための仏教の教えを見出すために、国分寺を

出て、一切経(仏の教えが説かれた経と、戒律を定める律、経律について

論議を述べた論の三部(三蔵)の仏籍を集成した大蔵経)を学ぶことを

志し、播磨の国(兵庫県)の峯合寺に籠ったということです。

 

そこでの閲読、研学のなかで、空也が選択したのは、戒律を守り、修行を

積み、深遠な真理を悟るという伝統的な聖道門ではなく、阿弥陀仏に祈って

極楽に往生し、その仏国土で悟りを開いて成仏しようという浄土教であり、

中でも、誰にでもたやすく唱えられる、当時の我が国としては前人未踏の

究極的な易行の称名念仏であったのです。

 

その後、彼は峯合寺を出て阿波の国(徳島県)の湯島へおもむき、数ヵ月

参篭し、観音菩薩に祈り続け、伝道者としての確信を得たあと、仏教が

あまり普及していないと考えられた陸奥・出羽(東北地方)を巡回する、

念仏布教の旅に出たとされています。

 

そこでの活動の記録は何も残されていませんが、現在も空也念仏踊りを

伝えている福島県の会津地方や長野市の信濃善光寺等は、空也の巡回の

地と考えられています。

 

さて、第二期の市(いち)を中心とする念仏唱道の時代は、空也が36歳

のときから始まるとされています。

 

この時代の前後は、東国に平将門の乱、西国には藤原純友の乱が相次いで

起こり、各地に群盗が横行したのに加え、平安京では疫病の流行、火災・

水害・地震等が頻発して、都と地方を問わず、大きな動乱の渦中にあった

ということです。

 

そのような平安京に帰ってきた空也は、市民の往来が最も激しい市(いち)

の中に乞食して、得るものがあればそれで仏事を行い、また、貧者や病人に

与えたため、市聖と呼ばれ、また、常に念仏を唱え続けたため、阿弥陀聖

とも称されたとされます。

 

なお、前回紹介した一遍が、「そもそも踊り念仏は、空也上人が市屋とか、

四条の辻ではじめて行われたものである」と記しているようですが、空也

みずから踊り念仏を行ったということは確認ができないようです。

 

あと、第三期、第四期をごく簡単に触れると、その後、空也は、その念仏聖

としての活動が当時の社会に広く認知された結果からか、46歳のとき、

推されて、比叡山延暦寺に登り、得度・授戒の儀を受け、光勝という僧名を

与えられたようですが、この頃から、彼の活動の拠点はそれまでの東市から、

鴨川を渡った東山の地に移り、教化活動にも造仏・写経・造寺等、市中遊行

から一段と組織的な活動が目立つようになったようです。

 

その象徴的なものが金字大般若経600巻の書写事業完成を記念する大般若

経供養会とされますが、この盛大な儀を頂点として、60代に入った晩年の

空也は、平穏な念仏行道の日常に入り、70歳で没したということです。

 

ところで、二期と三期以降を比べると、空也の考え方が後退しているのでは

ないかという疑問が湧いてくるかもしれません。

 

つまり、市門に掲げられた空也の和歌では、囚獄の罪人を下品下生として、

結果として、一切衆生の一念往生の確信が説かれるという革新性が備わって

わっているのに対して、後年の供養会は、一切衆生の往生を祈願するとして

いるにもかかわらず、上善の凡夫に可能とされる上品上生の往生を願うという

狭義の念仏になっているのではないかということです。

 

これに対して、石井義長氏は、その批判は正しくないとしています。それは

空也が生きた時代の限界であり、その後の時代の発展のみが彼の庶民社会に

植えつけた浄土教を成立させたというのです。

 

むしろ、平安前期の空也の時代には、写経・造像・説経・菩薩戒等は、仏教

の功徳を人々に廻向し、実感させる有効な「有縁の行」であり、これらを

伴ったからこそ、空也の仏事に社会の関心も集中され、「世を挙げて念仏を

事と」する勧化の効果が現実化したのだと述べています。

 

また、空也の信仰には、易行の念仏のほかに十一面観音の信仰、そして、

法華経持経等が混在していたのも確かなようです。

 

しかしながら、古代平安京の市中で、阿弥陀仏の名号を一度でも口に称える

者は、善人でも悪人でも、知恵者でも愚者でも、誰でも平等に、必ず極楽

往生できるという空也の念仏は、専修念仏を始めた法然よりも230年も

先立つ、驚嘆すべき先導性を持つものであったと述べています。







 

 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
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