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賀古の沙弥 教信―捨聖・念仏聖の先駆者2-


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教信  
(教信寺 沙弥教信上人 頭像 )

<教信入滅後、遺言により、亡骸は野に置かれ、体は鳥獣に食われたが、首から上は
無傷であったという説話をもとに制作されたという>


一遍が尊敬していた念仏聖は、空也のほかに「播磨国の賀古の駅(うまや)

の教信」という人がいます。

 

一遍は非常に教信を尊敬していて、『一遍聖絵』によると、教信寺(教信

を開祖とする寺)を訪れ、懐かしく思いつつも、そのまま去る予定で

あったのが、教信上人がお引き止めになったと、その寺に一晩泊まること

になったという。また、その3年後、病気がちになった一遍は、教信寺の

ある「いなみ野の辺にて臨終」しようと思っていたし、臨終直前に自分の

遺骸は、教信がしたように「野にすててけだものにほどこすべし」と遺言

していたということです。

 

では、教信とはどういう人だったのでしょうか?

 

どうも、前回紹介した空也以上に資料が少ないようですが、南北朝時代の

播磨国の地誌である『峰相記』によると、次のような人だということです。

 

教信は、はじめ奈良・興福寺の碩学で、法相宗のすぐれた学匠であった。

ある時期から回心するところがあって、西方浄土を願うようになり、

興福寺を捨てて西海を志し、播州賀古郡西の野口(兵庫県加古川市)に

草庵をつくって住んだ。この地は西方が遠く晴れて、極楽浄土を願う

ものにふさわしい土地であった。教信は妻帯し子供が一人あった。髪も

剃らず爪も切らず、衣も着ず、袈裟もかけなかった。昼夜に念仏を

おこたらず、夢中で名号をとなえた。村人たちは阿弥陀丸(あみだまろ)

と呼んだ。

 

教信は勧進(布教)もせず、喜捨(お布施)も乞わなかった。農家に

雇われて田を植え畑を耕して工銭をもらい、また、旅人の荷を担ぐ手伝い

をしては食糧をわけてもらって、生活の資に供した。けれども念仏の

ほかすべてのことは忘れているようであった。このようにつづれ(ボロ)

を身にまとい「金ヲ懐ヒテ」一生涯をおくった。

 

そして、『今昔物語集』に、次のような説話があります。

 

昔、摂津の国(大阪府)、島下郡に勝尾寺という寺があった。その寺に

勝如(しょうにょ)上人という僧が住んでいた。道心が深く、別に草庵

を作ってその中にこもり、十余年の間、六道に輪廻する衆生のために無言

の行をして、熱心に勤行に努めていた。だから、弟子たちとも会うことも

まれであり、まして、他の人を見ることなど絶えてなかった。

 

あるときのこと、夜半に庵の柴戸をたたくものがある。勝如はそれを聞いた

が、無言の行の最中なので、要件を問うこともできず、咳ばらいをして戸

を叩いている人に知らせると、「自分は播磨の国賀古郡の賀古の宿駅(兵庫

県加古川市)の北辺に住む沙弥教信というものです。長年、弥陀の念仏を

唱えて極楽に往生しようと念願してきましたが、今日、とうとう極楽往生

することができました。あなたもまた、某年某月某日に極楽からお迎えが

くるでしょう。ですから、そのことをお知らせに参ったのです」といって

そのまま去ってしまった。

 

勝如はこれを聞いて、驚き怪しんで、翌朝すぐに無言の行をやめて、弟子の

勝鑒(しょうかん)を呼んで、昨夜こういうお告げがあったから、賀古の

宿駅あたりに行って教信という僧がいるか尋ねてくるようと命じた。勝鑒

が師のいうとおり播磨国におもむいて、言われたとおりあたりを尋ねてみる

と、賀古の駅宿の北に小さな庵があり、その庵の前に死体がひとつ置いて

あり、犬や鳥が集まって、その死体を争って食っている。庵の内には一人の

老女と一人の子供がいて、一緒にとても激しく泣き悲しんでいる。

 

勝鑒はこれを見て、庵の入り口に立ち寄り、「これはどういう方で、どう

いうことがあって泣いているのですか」と問うと、老女が答えていうには、

「あの死人は私が永年連れ添った夫です。名を教信といいます。一生の間

弥陀の念仏を唱えて、昼夜夢のなかでも怠りませんでした。それで隣近所

の里人は、皆、教信のことを阿弥陀丸と呼びました。ところが昨日死に

ました。私は、老いて永年連れ添った夫に死別して泣き悲しんでいるのです。

ここにいる子は教信の子供です」という。

 

これを聞いた勝鑒は帰ってきて、勝如上人に詳しく話した。覚如上人は

これを聞くと、涙を流して感じ入り、かつ、貴んで、さっそく教信のところ

へ行って、泣く泣く念仏を唱えて庵に帰ってきた。そのあと、勝如は、

いよいよ心を込めて日夜念仏を唱えるようになり、教信が先に予告した年の

その月のその日に、貴い最後を遂げた。

 

また、「一言放談」によれば、教信は、庵の西には垣もせず、西方極楽浄土

と素通しに向きあうようにし、本尊などは安置もせず、経文なども読まず、

「僧にもあらず、俗にもあらぬ形」で、常に西方に向かって念仏していた。

 

大体、以上のようなことで、他の書物に依っても、これ以上のことはわから

ないようですが、晩年の一遍が強く教信にひきつけられたのは、おそらく、

その没後に何も残さない生き方であったのではないかと言われています。

 

ところで、この教信という人を先達として、非常に尊敬していた人がもう

一人いるようなのです。

 

それは、かの親鸞上人なのだそうです。本願寺三世、親鸞の曽孫とされる

覚如が著した「改邪鈔」によると、親鸞が「我は是れ賀古の教信沙弥の

定なり」、つまり、「じぶんはあの賀古に住まれた教信沙弥を心の規範に

している」といつも言いつづけていたというのです。

 

では、なぜ、親鸞は、そのようなことを言ったのか、また、親鸞にそう

言わしめた教信という人の生きざまは、他の念仏聖といわれる人たちと

どう違っていたのかという疑問が湧いてきますが、その答えを、次回に、

吉本隆明氏の『ある親鸞』に依りながら、探ってみたいと思います。










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ジャンル : 心と身体