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空海入唐の謎


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空海2 



空海が入唐の直前まで無名の私度僧か、私度僧に近いような存在であったと

すれば、一体、どのようにして入唐が可能になったのでしょうか?

 

このことについては、今までのところ、皆目わかっていないようで、空海伝

の中の大きな謎の一つとされています。

 

当時、入唐して学ぶ者には、留学生と還学生との二種類があったということ

ですが、前者は長期間にわたって唐にとどまって学ぶものであり、後者は、

すでに学業を修めた者がある一定の期間だけ期限つきでとどまって視察研究

するものです。

 

空海と同じ時に入唐した最澄は、当時、仏教界の第一人者として名声が高

かったのであり、還学生として選ばれたことは当然といえますが、弱冠

31歳の青年仏者空海が入唐僧に抜擢されて勅許を得るというのは容易

ならざることであり、その裏にどのような事情があったのかということ

です。

 

いかに空海が不出世の偉大なる仏者とはいえ、当時まだ、空海の実力を知る

者はほとんどいかなったはずであり、偉大な人材であるという理由だけでは

根拠薄弱といえます。

 

最澄に対して空海の社会的地位は比べものにならないくらい低かったはず

ですが、その、仏教界の大立者であった最澄ですら、桓武天皇、安殿親王

(あでしんのう)、そして和気弘世などのパトロンがいなければ、入唐でき

なかったとすると、歴史は黙して何も語りませんが、空海に対する経済的

支援はともあれ、政治的なバックとなった者がなければならないことに

なります。

 

では、考えられるのは誰かということですが、二人の人物の名前が浮上

するようです。

 

その一人は、桓武天皇の皇子伊予親王の侍講(講師)であった空海の母の

父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)であり、もう一人は、佐伯今毛人

(さえきのいまえみし)という人物です。

 

まず、阿刀大足ですが、その没年は不詳とされるものの、その縁故をたどる

とき、空海と桓武天皇、伊予親王とが結びつくというのです。もう一人の

人物、佐伯今毛人は、東大寺大仏殿建立の総指揮者として名高く、また、

奈良の平城京から長岡京への遷都、長岡京の建設、さらに長岡京より平安京

への遷都にあたって絶大なる功労があり、桓武天皇に仕えて有終の美を飾った

佐伯一族の元老とされますが、その50年の長きにわたる中級官吏としての

生活は、失脚の多かった奈良朝官人の中でも、まことに珍しい例とされ、

佐伯一門の出身である空海の入唐が朝廷に聞き入れられたのは、今は亡き

佐伯今毛人の功に報いる意図があったではないかというものです。

 

このことから、優婆塞(在家の仏教者)空海を律令国家の政権者に推挙した

者は、今毛人一族の中の有力者の誰かであり、また、のちの空海の最も有力

なパトロンになった和気氏および藤原北家の正系葛野麻呂を中心とする藤原

一門に紹介したのも、今毛人の系統の者であったと推察することができる

のではないかとされています。

 

また、そうなると、厖大な渡航費は阿刀大足門下の兄弟弟子にあたる伊予

親王がパトロンになって出資したとみることができるのではないかとして

います。

 

さて、藤原葛野麻呂を大使とする遣唐船は、延暦22年(803)3月に

難波を出帆します。しかし、暴風雨に遭っていったん中止となり、再び、

翌年5月12日にほぼ同じ編成で難波を出発し、九州肥前田浦の港を経由

して唐に向かったということです。

 

遣唐船団は全部で四隻で、第一船には大使藤原葛野麻呂をはじめ、23名が

乗り、空海は第一船に便乗したということです。また、第二船には判官菅原

清公ら27名が乗っていて、最澄もここに乗船していたようです。

 

さて、第一船、第二船、第三船、第四船と順次に船団を整えながら、南方

洋上をめざして航行していったようですが、翌日には早くも暴風雨に遭って

四散したということです。

 

そして第一船、すなわち空海の乗った船は、約1ヵ月海上を漂ったあげく、

8月10日にはるか南の福州長渓県の赤岸鎮に漂着し、第二船は、それより

さらに遅れて9月1日に明州寧波府に漂着したようです。

 

しかし、第三船は、いったん引き返し、また、翌年に出帆したが、今度は

南方の孤島に漂着して、結局、大陸にはたどり着けなかったようであり、

第四船は、消息がわからなくなってしまったということです。

 

このように大陸への渡航は、現代からは思い及びませんが、まさに命がけの

行為であり、空海や、最澄の乗った船だけが無事に大陸へ漂着したことは、

まことに幸運であったということになります。

 

当時、唐朝は内乱があったあとで、すでに政権は傾きかけていたようですが、

文化および思想の方面では爛熟期に入っていました。仏教は十三宗の中でも、

特に三論・法相・華厳・直言・天台・律・禅などが盛んであったが、中国

固有の儒教および道教はもとより、キリスト教の一派である景教(キリスト

教ネストリウス派)、拝火教、マニ教などの異国の宗教も行われていたと

いうことです。

 

世界文化の中心地である、あこがれの都長安に入った空海は、仏教を中心に

して、道観あるいは景教の寺院、回教の寺院などを見学したり、あるいは

文学、詩、書道など、魅力あふれるこの大都の文化に、はたまた唐朝の招待

などに酔いしれたであろうと思われます。

 

なお、葛野麻呂一行は、翌年(805年)には帰朝します。これには還学生

として任務を果たした最澄も行動を共にしますが、留学生としての空海は、

橘逸勢と一緒に残留し、大使の宿舎であった宣陽坊より留学生の溜まり場の

ような、同じ長安にある西明寺に移ったようです。

 

さて、空海が求める、この頃の長安における密教の事情とはどのようなもの

であったのでしょうか?

 

唐の密教は、玄宗皇帝の開元年間にインドからヴァジラボーディ(金剛智)、

シュバカラシンハ(善無畏)、アモーガヴァジラ(不空金剛)といった巨匠

たちがつぎつぎとやってきて、流伝されたということです。

 

すでに中国には法相・三論・華厳・天台や、浄土・禅・律などが行われて

おり、密教は新来の仏教であったのですが、皇帝の庇護を受け、唐王朝の

宮廷宗教としての確固たる地位を築いていったとされます。

 

特に、不空は玄宗、粛宗、代宗の三朝に仕え、また、大部の密教経典の翻訳

にも従事して、中国密教の基礎を築いたといわれています。

 

その不空の弟子には青龍寺の恵果以下6人の弟子がいて、不空なきあと、

恵果は正嫡の弟子として、代宗、徳宗、順宗の三代の皇帝に仕えて「三朝

の国師」と仰がれるのですが、空海は、この恵果から伝法灌頂等を受ける

ことになります。

 

なお、金剛智とその弟子不空とは南インドの金剛頂経系の密教を伝え、一方、

善無畏は大日経系の密教を伝えたとされますが、恵果は両方の密教を学んで

いるのであり、空海が伝来した密教の中には金剛智系と善無畏系との両方の

密教、すなわちインド正純密教のすべてが含まれているということです。

 

さて、いよいよ恵果との出会いとなります。長安に滞在中の空海は、名師を

訪ね歩いていたが、青龍寺の恵果の名声を伝え聞き、西明寺の数名の法師

たちとともに恵果のもとを訪問したという。しかし、その出会いはまことに

劇的であって、恵果はあたかも空海の来訪を待ちあぐねていたかのようで

あったということです。

 

恵果はそのとき、60歳、入滅を予期しながらも、まだ、この期に臨んで

まだ大法を伝授する正嫡の弟子がいなかったのです。

 

ともかく、驚くべきことに、貞元21年の5月末か6月初めに出会って、

6月13日には、学法灌頂檀に入って胎蔵の灌頂を受け、7月上旬には

金剛界の灌頂を、8月10日には阿闍梨位の伝法灌頂を受け、この

わずか2ヵ月間に密教の大法をことごとく授かったのです。

 

また、密教の伝授とともに、その指示によって経典類から仏像、仏画、法具

に至るまで完全にそろえて日本に持ち帰ったということですが、それは、

不空から恵果へ、そして恵果から空海へという流れのなかで、空海がいわば

インド伝来の密教の正系を受け継いだということになります。

 

さらに、空海に予期せぬ出来事が起こります。その年の末に使命を果たし

終えたかのように恵果は入滅しますが、恵果が入滅してから間もなく、

奇しくも、遣唐判官高階遠成一行が長安へやって来たのです。

 

この思いがけない遣唐使の来唐は、最初、20年に及ぶ滞在を覚悟していた

空海に、わずか足掛け3年で帰国する決意を固めさせたようです。

 

もっとも、そこには、半年足らずで恵果から正純密教を残らず伝授された

ことや、早く帰国して国家に奉り、天下に流布して蒼生(民)の福を増やせ

という師恵果の遺言があったことなどが影響を及ぼしていると思われます。

 

また、そのほかに、資金が乏しくなってきたということや、すでに、33歳

を迎えた空海が日本に密教および唐文化を伝えようとするとき、自分の人生は

すでに半ばを過ぎているということも帰国の一因ではないかとされています。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
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