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月信仰と再生思想


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月信仰と再生思想


前回、紹介した戸矢学氏の『ツクヨミ-秘された神-』によると、

天照大御神を祭神とする神社は、全国で13582社(境内社も含む)、

須佐之男命を祭神とする神社は13542社(境内社を含む)であるの

に対して、月讀命を祭神とする神社は704社(境内社を含む)であり、

そのなかでも、山形の月山神社のように、もともとの祭神が「山神」

であるようなものや、もともと別の主祭神を祀る神社でありながら、

何らかの事情で月讀命を合祀した神社が含まれているものを除くと、

わずかに85社(うち、境内社が25社)であるとされています。

 

今回は、上記のことから伺える太陽神信仰の圧倒的な優位というものが

本来的なものであったのかどうか、月神の信仰というものがどうなって

いたのか、を三浦茂久氏の『古代日本の月信仰と再生思想』に依りながら

考えてみたいと思います。

 

さて、世界的には、月信仰は太陽信仰より古くから盛んであったと言われ

てきました。古代日本においても、月によって生理を支配されていると

見なされていた女性が祭祀に携わることが多く、しかも、我が国は四方を

海に取り囲まれた島国で、古来から海人(あま)族の活躍も盛んであった

とされています。潮汐や潮流は月の運行によって生起するのであり、それ

を無視しては漁業にしろ、舟運にしろ、成り立たないはずなのですが、

『記紀』においては月に関する伝承は散発的で、それほど表面に現れて

いないようなのです。

 

一方、我が国の皇祖神はアマテラスオオカミで、『日本書記』では日神

(ひのかみ)とされているし、『古事記』では神代に日神の語はないが、

「神武記」には神武が日神の子孫とされています。(もっとも、皇統は

太陽神の子孫であるといっても、古代文献に太陽信仰が具体的に多く

記述されてわけではないようですが)

 

このように、『記紀』を見るかぎりは、皇統は日神の子孫であると述べ

られているが、月神に関する伝承は多くないということになります。

 

しかし、三浦茂久氏は、『万葉集』に目を転じると、そうではなく、逆

だといいます。

 

『万葉集』などでは、月は非常に多く詠われているのに、日に対しては

比較的冷淡だというのです。

 

では、『記紀』と『万葉集』との、このような乖離は何なのかということ

になりますが、『万葉集』は『日本書記』の編纂よりはおくれるが、前半

の歌は『日本書記』に記載された時代やその編纂された時代に詠まれて

いるとすると、多数の歌人によって詠われた『万葉集』に問題があるの

ではなく、『記紀』のほうに王権による作為があったのではなかろうか、

と疑われると三浦氏は述べています。

 

さて、三浦氏は、埋没した月信仰を掘り起こすにあたり、直接、月や月

信仰を俎上にのせるに先立ち、古代語の意味の解釈からはじめています。

 

まず、太陰(太陽)暦の日数詞を取り上げその実体を腑分けすると、これ

まで日や日の信仰であると思われていたものが、月や月信仰であったと

いうことがわかってきたといいます。

 

たとえば、二日・三日のカ(日)は月・月夜の意であり、カは日ではない

といいます。コヨミ(暦)のコ、クサカ(日下)のク、「ケ長く」「朝に

ケに」のケも月・月夜であり、カスガ(春日)・アスカ(飛鳥・明日香)

・アサカ(安積・朝香)のカも月・月夜を指していたというのです。

 

カ・ク・ケに当てられた日は便宜的なもので、太陽を意味しなかった

のであり、日は括弧つきの「日」であったし、月・月夜であったと

しています。

 

また、カは、古くはウカで、ワカ(若)に通じるとしています。古代思想

では、月は若返りを永遠に繰り返す理想体であったとして、ウカを月の

若さと同じと解釈し、それが月の満ち欠けによる「日」の数え方に結び

ついたということです。

 

さて、さらに、三浦氏は、古い皇祖神であるタカミムスヒ(高御産巣日)

(別名 高木神)を取り上げ、この神が、一般に生成を司る霊、あるいは

穀霊と考えられていることに加えて、太陽神的性格を持つとされるのに

対して、生産・再生の神であると同時に月神であると論じています。

 

つまり、三浦氏は、高木とはツキ(槻)のことであり、ツキは今のケヤキ

(欅)を指すのであり、高木神は月の神の暗喩であったとし、『日本書記』

の「顕宗紀」にタカミムスヒは月神としてあったことと併せて、タカミ

ムスヒの神は、月神の要素を色濃くもっているとしています。

 

月こそが、永遠に満ち欠けを繰り返す、再生・新生のシンボル的なもの

であるというのです。

 

そして、『日本書記』の皇祖神はアマテラスよりもタカミムスヒに比重が

あったのが、『古事記』になるとタカミムスヒよりもアマテラスに重心が

移るが、これはやがて文武天皇以降に月信仰から太陽信仰へ変わることを

暗示していたと述べています。

 

また、各地にある天照御魂(あまてるみたま)神社は尾張氏の祖神天照

国照彦天火明命(あまてるくにてるひこあめのほのあかりのみこと)を

祭神とするが、このホノアカリは、ある種の太陽神と考えられてきた

のは誤りだとしています。

 

アマテルは、『万葉集』では月の常套的形容句であったのであり、尾張氏

は海部(あまべ)である。潮汐や潮流を支配するのは月であり、月を

読んで舟運や漁業を成り立たせてきた海人族の祖神にはふさわしくない。

火明はホノアカリと読んで、月の明かりを表すのだと述べています。

 

伊勢地方は上記の海人族の卓越した地方で、月神を祀る神社も多いと

いうことです。伊勢の地主神サルタヒコも月神であり、アマテラスの

荒魂(あらみたま)は、内宮別宮の荒祭宮の祭神アマサカルムカツヒメ

で、シナサカル・ヒナサカル・アマサカルヒナなどのように、西へ去る

月と同様の神名を持つことや、内宮所伝の『倭姫命(やまとひめのみこと)

世紀』には、荒祭宮の和魂(にぎみたま)は月天子で、外宮の多賀宮に

移されたとあるところから、和魂や荒魂が月神なら、アマテラスもかつて

は月神であったであろうとしています。

 

また、アマテラスの古い名はヒルメであるが、それは糸を延える女、また

は機織女の意であったという。アマテラスのスは尊敬の助動詞であり、

アマテルは『万葉集』では月の常套句、ヒルメは多くの『神楽歌』などの

例でも月神であったのであり、日神ではないということです。

 

つまり、アマテラスも元はアマテルであり、照る月を指していたのが、

月神で機織女(巫女神)であるヒルメとアマテルが複合してアマテル

ヒルメという神名になり、天武の時代、七世紀第三四半期ごろにアマ

テラス(オホ)ヒルメとなり新しい皇祖神となったのだそうです。

 

よって、三浦氏は、アマテラスは天武・持統の御世にタカミムスヒに

代わって新しい皇祖神になったが、まだそのころは月神であっただろう。

それは、仏教が国教となっても、天武天皇の飛鳥浄御原宮(アスカは朝

の月の意)や持統天皇の若きときの名前サララ(繰り返しの意、月を象徴)

から、まだ月信仰が優勢であったと推定できる。アマテラスの和魂は、

おそらく文武朝に、五十鈴の宮から度会宮に遷され、高倉山の麓の多賀宮

に祀られることとなったが、それにつれてアマテラスは、国家仏教で説く

太陽光を発する仏身に倣って、月神から日神になったと考えられると

述べています。

 

月神から日神への変化は、天武・持統朝に始まり、続く文武時代になって

ついに月神アマテラスの日神化が実行されたということです。

 

かくして、三浦氏は、古代では神や精霊や鬼は、夜の闇や薄明りのなかで

活躍し、夜明けとともに、あるいは鶏鳴とともに退場するのであり、古代

の祭は夜であった。昼日中に太陽の下での祭は、後代のものであるはずで

あるが、古代の太陽信仰を強調する識者が多く、アマテラスが鎮座する以前、

伊勢にも太陽信仰があったとする見方が常識化して、月信仰は隠され、次第

に消滅する方向をたどってきた。が、この見直しの結果は意外なことに、

伊勢神宮内部の伝承からも古い月信仰が浮き彫りになったとしており、これ

までの常識はまったく覆ったと結論づけています。

 

 

 

  
 
 
 
 
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ツクヨミ-秘された神-


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ツクヨミ 



古事記には、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が、黄泉(よみ)の国へ

行って嫌な穢いものをつけてしまったとして禊をされるのですが、体に

つけていたものを投げ捨て、身体を洗うことによって様々な神々を生み

出したとあります。

 

そして、一番最後に、伊邪那岐命が左の眼を洗うと天照大神(アマテラス

オオカミ)が出現し、右の眼を洗うと月讀命(ツクヨミノミコト)が出現

し、鼻を洗ったときに須佐之男命(スサノオノミコト)が出現したとされ

ます。

 

この三柱の神が最も貴い神ということで「三貴子」と呼ばれ特別視されて

いるのですが、ひとりツクヨミノミコトだけは、ほんのわずかな記述が

あるのみで、その系譜もほとんど記されていません。

 

また、ツクヨミを主祭神とする神社は決して多くなく、しかも、その過半数

は後世に比定(推定)されたもので、本来はツクヨミとは無関係だという

ことです。

 

重要な位置づけにもかかわらず、正体がまるで不明なツクヨミノミコトとは

いったいどういう神なのでしょうか? この大きな謎を、戸矢学氏の『ツク

ヨミ-秘された神-』に依りながら追ってみたいと思います。

 

まず、歴史的にも、神社神道においても、ツクヨミの存在は忘れ去られて

いると戸矢氏は言います。ツクヨミノミコトを祭神とする神社も少なく、

由来する祭りも特にないため、日本人一般の知識・認識からほとんど欠落

していて、歴史学の対象にならないばかりか、考古学も宗教学もほとんど

その対象とはせず、学問の範疇にも入っていないかのような扱いを受けて

いるというのです。

 

三貴子の一柱であり、三種の神器の一つであるにもかかわらず、まともな

研究書が一冊も出ていないのは驚くべきことだとしています。

 

さて、ツクヨミノミコトそのものの解明に入る前に、古来からの月神信仰

に簡単に触れておきたいと思います。

 

月は昔から命をはぐくむ水や不老不死の力ともかかわりがあると考えられて

きました。満ちては欠け、欠けて満ちるその姿が人間の生と死の繰り返し、

ひいては終わることのない生命力を思わせたようです。

 

そんなところから、月光はときに特別なエネルギーを与えるという伝説が

生まれ、この国には古くから月の神が若返りの水をもたらすという信仰が

あるということです。

 

月の力は新たな生命を誕生させもするし、多くの死をもたらす災害を呼び

起こしもするが、あらかじめ月を読み、月に従えば、生命の源泉となる

のです。

 

かくして、日の「生」に対する月の位置づけは、とかく「死」という終焉を

イメージさせますが、死は次なる生につながるものであり、終焉ではない

のであり、日の与える陽光と、月のもたらす潮汐力は、いずれも不可欠な

要因として地球上の生きとし生けるものをはぐくんできたとして神聖視

され、信仰対象となってきたのです。

 

世界的にも、「月神」は重要な根源神とされてきました。ギリシャ神話では、

太陽神アポロンと月の女神アルテミスは双子の兄妹とされ、中国では、天地

開闢の創世神、盤古(ばんこ)が、卵の中のような混沌から天地を創造し、

死してのちのその遺骸から万物が生まれたとされますが、その左目から

太陽が生まれ、右目から月が生まれたとされます。

 

ところが、日本の古事記に目を移すとどうでしょう? イザナギの左眼を

洗うとアマテラスが、右眼を洗うとツクヨミが誕生し、世界的に共通の

二元的な神話型だと思いきや、鼻を洗うとスサノオが誕生とするという

三元論になっています。

 

それと、アマテラスは天の岩戸開きなど、スサノオはヤマタノオロチ退治

など、豊富で多様な物語がありますが、ツクヨミは、イザナギから「夜が

支配する国を治めよ」と命じられたとのみ記されていて、これ以降、登場

することはありません。

 

このように、記紀においては、ツクヨミの記述があまりにも少ないうえに、

神話の成り立ちにおいて、二元論ではなく、唐突な三元論である三貴子の

構造に対して、誰しも不自然であると感じるのではないかと、戸矢氏は

述べています。

 

では、その理由については、一体どう考えたらいいのでしょうか?

 

戸矢氏は、まず考えつくのは、「後世の修正削除」であろうとしています。

つまり、国書の改ざんがなされたということですが、それが可能なのは

桓武天皇だろうといいます。

 

その理由として、そもそも記紀の編纂を命じたのは天武天皇あり、ツクヨミ

をおとしめようとするのは、壬申の乱で敗れた天智天皇の系統である桓武

天皇以外にはないとしています。

 

そして、三貴子の構造については、本来、日本の神は、天津神と国津神、

イザナギとイザナミ等、二神で一対であり、二元論が基本になっているが、

突然、「三貴子」が誕生するのは、もともとのストーリーにはなかった

ものが、あとからつけ足されたものではないかとしています。

 

二神が左右の目を洗ったときに生まれるのに、一神だけは鼻を洗ったとき

に生まれる。二神は日と月、昼と夜を象徴するのに、残りの一神は海を、

海原を象徴するというのは、不自然であり、奇妙な論理ではないかと

いうのです。

 

それでは、三番手のスサノオがつけ足しということになるのでしょうか?

 

戸矢氏は、必ずしもそうだとは思えないとしています。日本書紀の一書

(異伝、異説)では、ツクヨミに「海原」の統治を指示しているものも

あり、また、スサノオは高天原(たかまがはら)から追放され、最終的

には、夜の食(お)す国、黄泉の国の統治者となるなど、当初は、アマ

テラスが日で、スサノオが月という位置づけであったのではないかと

思える点が多々あるとしています。

 

アマテラスとスサノオの間において、陽と陰、天と地などの対比がいくつ

もあって、そこから自然な成り行きで浮かび上がってくる結論は、当初は、

ツクヨミは存在しなかったのではないかということではないかと述べて

います。

 

そもそも、「月讀(ツクヨミ)」の意味とは何かというと、月を読む、

つまり、日月星辰を観察することだということですが、この神名は、天照

のような直接的なものではなく、なにものか「他者」の存在を示唆して

いるというのです。

 

では、いったい月を読むのは誰なのかということになりますが、戸矢氏は、

それは「ツクヨミの発案者」、つまり、『古事記』、『日本書紀』の編纂を

指示した天武天皇その人であると考えていると述べています。

 

「月讀命」という神名によって、天照大御神、武速須佐之男命とともに

三貴子と位置づけられるのは、「国家の神」国家の神話」が記紀によって

体系化されたときからであり、天皇家を取り巻く有力氏族の合意のもとに、

それぞれの氏族神を体系化し、皇祖神が最上位に君臨するという構造の

確立は、記紀編纂の意志であるだろうとしています。

 

なお、天武天皇は、この記紀の編纂のほかに、天皇という尊号の創始を

はじめ、政治・宗教・文化・法規等々、あらゆる「日本国家」「日本文化」

というもののコンセプトを築いたとされますが、その背景には、『日本

書記』に天武天皇は「天文遁甲を能くした」とあるように、道教・陰陽道

が深く関係しているということです。

 

「天文遁甲」とは、天の相、地の相を有機的関連のもとに観ることによって、

王者がいるべき場所や、戦いに向かうべき方向や、決断すべき時などを判断

するもので、古代においては道教の方術として発展してきたもので、天武

天皇は、これに古神道を融合して、「陰陽道」を創始したとされています。

 

かくして、天文遁甲とは、「月を読む」ことであり、「月を読む」ことの

できる能力こそが政(まつりごと)、すなわち国と民を統べる能力であった

のであり、ツクヨミとは天武天皇自身のことだというのです。つまり、

月讀命という神をつり出し、それにみずからをなぞらえることによって、

天武天皇は生きながらにして神となったということである、と戸矢氏は

結論づけています。

 

そして、この観念・概念は、道教にも儒教にもなかったもので、天武天皇

は物理的な統治システをつくり上げるのと同時に、世界史上きわめて

稀有な精神的統治システをも創造したのだとしています。

 

ところで、ツクヨミとは天武天皇だということだとしても、月神信仰その

ものは、世界的なものであり、太陽信仰よりも古いものであるとも言われ

ていますから、それ以前からあったものだろうと思われます。

 

次回は、このツクヨミの背景となる月神信仰というものを追ってみたいと

思います。









霊的技術
(水波一郎 著 アマゾン 発売)










 

 
 

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『霊的技術-傷ついた幽体を救え-』


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霊的技術 
(水波一郎 著 アマゾン 発売)


今までに紹介してきた水波一郎氏の著作は相当な数にのぼりますが、

テーマを霊的な技術に絞った著書はなかったように思います。

 

本来、技術というものは、本を読んだだけで身につくものではなく、正式

な指導を受け、きちんと実習しなければ力が生じないものと思われますが、

それでも霊的技術に関する本を出版された理由はなぜなのでしょうか?

 

水波一郎氏は、「はじめに」において、次のように述べられています。

 

「霊的な主張は多数ある。しかし、その多くは霊魂の世界の様子や仕組み、

そして人生論である。それは、それで、大事である。しかしながら、それ

だけではいけない。私達は物質の世界に生きているが、実在の霊魂や霊的

な気とも関わって生きているからである。実際に、そうした悪影響を受け

ている人も大勢いる。実は、ほとんどの人達に何かしら影響が出ている

のである。」

 

「日本では昔から神社などでお祓いを行ってきた。霊的な意味での穢れを

祓う為である。」「しかし、現代は違っている。そうした事を信じている

人は少ない。単なる慣習で祓いを受けるという人が増えてしまった。」

「それでは、残念ながら、祓いに本当の意味での霊的な力は生じない。」

 

「現代は無神論者が多い時代である。神も、霊魂も、拒絶されてしまう。

むしろ、嫌がられている。そうした時代では、人々を霊的な意味で導いて

くださるような霊魂よりも、不道徳な霊魂の方が活躍しやすいに違いない。

人々が求めていないのだから、人々は更に霊的に穢れやすくなってしまう。」

 

「霊的な意味での環境を改善しないと、霊的な面で成長しにくいばかりでは

なく、不幸な人が増えてしまうかもしれない。やはり、真に力のある霊的

技術が必要である。現代に相応しい、新しい形態での霊的技術が必要だと

思われる。」

 

「これからの人達は霊能力を目指すべきではない。」「本書では、霊能力者

にならなくても、霊的な障害を改善し得る霊的技術について論じている。

もちろん、霊的な技術は本だけを読んで身に付くものではない。きちんと

習わないと力が生じない。」「よって、具体的な方法については記して

いない。」

 

「しかし、本を読む事で、霊的技術についての理解が深まれば、霊的な

障害の改善を依頼するにしても理解が早いし、将来、霊的技術を行使

したい人にとっては、教科書にもなり得る。」

 

「更には、人間という霊的な生命体を知る、という面でも役立つと信じ

ている。霊的な技術について研究すると、人間の霊的身体や霊的な気に

ついても知る事になり、人間という不可思議なものの本質に迫る事にも

繋がるからである。本書でぜひ、霊的な分野の幅広さを知っていただき

たい。」

 

さて、それでは、霊的技術とは具体的にはどういうものなのでしょうか?

 

一般的によく知られている霊的な技、いわゆる「霊術」というと、お祓い

であり、除霊や浄霊ですが、ここでいう霊的な技術は、それだけではなく、

他にも様々な技術があると述べられています。霊的な意味での障害は、

何も霊魂に憑かれるといったことだけではないからだそうです。

 

水波氏が提唱される霊魂学では、人は、生前は肉体と重なっていて、死後も

存続する『幽体』という霊的な身体を持って生きているとされていますが、

霊的技術の重要な役割は、その霊的身体の不健康、不調を改善し、霊的な

身体を健全にすることにより、霊的な生命体としての成長に寄与すること

であると述べられています。

 

そして、霊的身体と関わりのある幽気や間気という霊的な気の不足や停滞

などの改善も霊的技術の対象とされています。(水波霊魂学でいう幽気とは

幽体の中を流れている血液のようなもの、栄養のようなもので、間気とは、

肉体と幽体を接着する接着剤のようなもの。)

 

その他、霊的な技術は多岐に渡っていますので、詳細は本書をご覧いただき

たいと思います。

 

なお、霊的な技術は、本書で『霊術』と呼ばれていますが、それは、明治の

頃から、霊術家と呼ばれる人達がいて、彼らが行う霊的な手法による肉体の

病気の治療などを霊術と称されてきたものとは目的も方法も異なるという

ことです。

 

水波霊魂学において、霊的技術の土台となるのは霊能力とは異なる霊力で

あり、真の霊力を生むのは、真の意味での信仰心であるとも述べられて

います。

 

ともかく、水波霊魂学でいう『霊術』の主たる目的は、霊的に良好な状態を

作ることであるとされます。もっとも、それには、霊的修行を行うこと、

神伝の法を実習することが最善なのであるが、それが難しい人、たとえば、

子供であったり、病気であったりして修行できない人は、霊術しか対処

方法がない。よって、不可欠な技術であると主張されています。

 

さて、本書では、次のようなことが論じられています。

 

第一章     霊的な技術

1.霊的な技術とは

2.霊的な技術を活用する

3.幽気と間気

4.幽体の不調が不幸を呼ぶこともある

5.水波霊魂学の霊術

第二章     霊的な祓い

1.霊的な祓いをおこなう資格

2.霊的な祓いの原理

3.物品の祓い

4.家の祓い

5.土地の祓い

第三章 霊的身体等に対する霊術

1.幽体に対する祓い

2.間気に対する霊術

3.幽体の損傷に対する霊術

4.霊術の成果を出す為には

5.霊体に対する霊術

第四章 除霊

1.除霊と浄霊

2.霊魂にイタズラされない為に

3.大勢の人達が不道徳な霊魂の影響を受けている

4.不道徳な霊魂に対する救い

5.不道徳な霊魂に対する霊術

第五章 霊力の強化

1.霊力の強化の為の訓練

2.未熟な霊力

3.難行苦行と霊力

4・心と霊力

6.霊力の低下

第六章 幽気、間気を扱う

1.幽気の技

2.幽気の操作

3.間気の操作

4.指導霊の協力

5.信仰による妨害

第七章 霊術者に必要な心得

1.霊術時に愛の思いは不要

2.遠隔霊術は可能か

3.遠隔霊術の弱点

4.霊術者の素質

5.動物に対する霊術

第八章 霊術者がおこなう判断

1.対象者の霊的身体

2.信仰心のない人に対する霊術

3.死者に対する霊術

4.念に対する霊術

5.妨害者

第九章 誤った霊術

1.逆の発想

2.邪霊の霊術

3.危険な霊術

第十章 高度な霊術

1.霊術と霊力、そして儀式

2.神霊に関しての霊術

3.神霊の御心と霊術

4.霊術の成果を左右する要因

5.霊術の時代

 

そして、「おわりに」で、次のように締めくくられています。

 

「霊的な技術は高度であるが、定められた次第のとおりにきちんと行えば、

相応の成果が得られるものである。それ以前に、霊的な身体を成長させて

おく必要があるが、これも、定まったとおりに霊的トレーニングをこなして

いればうまく行く。つまり、余分な事を考えて迷ったり、道を間違えたり

させしなければ、普通の人であれば誰にでも可能な技術である。」

 

 

以上、本書は、世にいう通常の「霊術」とは異なる、神伝による霊的技術

というものの理論的側面について書かれた貴重な書ですので、是非、多く

の方に読んでいただきたいと思います。

 

 












 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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太陽神から先祖神へ-アマテラスの誕生2-


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朝日


前回、伊勢皇大神宮の神、アマテラスは、もとは、天つカミ、つまり、

日のカミであり、風のカミであり、雷のカミであったということ、そして、

天つ神が地上に降りるときは、まず、山の頂上に来たりて、樹木(御陰木)

を経て、いったん、川の流れの中に潜り、巫女により流れの中からすくい

あげられ、地上に御生(みあれ)、つまり、再生するというプロセスを

たどるということ、などを見てきました。

 

今回は、では、いつアマテラスという自然神からアマテラスオオカミ

という天皇家の祖先神が形成されたのか、また、いつ、そのような

天皇家のアマテラスオオカミがまつられはじめたのか、という疑問に

ついて考えていきたいと思います。

 

さて、『アマテラスの誕生』の著者、筑紫申真氏は、まず、この問題を

論ずるためには、どうしても壬申の乱という七世紀半ばの内乱と、天武・

持統という二人の天皇の活躍を中心にすえなければ、本当のことは

わかってこないのではないかと述べています。

 

それまで、まだ地盤の固まっていなかった天皇政権を絶対的なものに築き

あげたのは、天武・持統両帝の七世紀後半における活躍によるが、その

政権を永遠のものにするために、自分たちの権力の美化に熱心であった

のは当然であった、よって、アマテラスオオカミは、天武・持統両帝が

つくったカミであり、皇大神宮は、天武・持統両帝が築きあげた神社

だというのです。

 

そうすると、天皇家の祖先神としてのアマテラスオオカミが、天武の即位

以前にはなかったということになりますが、どうして、そう言えるので

しょうか?

 

筑紫氏は、天武天皇即位の前年の壬申の乱のさなかに、陣中で天武天皇が

「天照大神を望拝みたまう」と『日本書記』にあるのが誤って理解されて

いたのだといいます。

 

つまり、そのころは、皇大神宮はなく、仮にあったとしても、天照大神を

拝んだまでであって、皇大神宮を遥拝したとは書いていないというのです。

 

この場合の天照大神は、天皇家の祖先神アマテラスオオカミではなくて、

天つカミの一表現としてのアマテルオオカミであったと見なければなら

ないとしています。

 

よって、望拝の動機は、雷雨に悩まされたからで、天空気象の害をまぬがれ

るために太陽を拝礼して、その霊に祈ったにすぎないと理解すべきであった

ということです。

 

もう一つの根拠として、今谷文雄氏によって、『日本書記』の敏達(びたつ)

天皇六年(577)に「詔して日祀部(ひまつりべ)を置いた」とある、

その記事の意味が明らかにされた、つまり、従来、天皇家は太陽そのもの

を礼拝し、日まつりを行っていたという重大な事実が明らかにされた、言い

かえると、まだ、天皇家の祖先神としてのアマテラスオオカミはできて

いなかったということが明らかにされた、と筑紫氏は述べています。

 

とにかく、天照大神の読み方には、アマテラスオオカミとアマテルオオカミ

の両方があって、皇祖神以外のアマテラスは、アマテルと呼ばれていたよう

で、太陽神=自然神のままであったということです。

 

そのほか、オオヒルメノムチとか、アマテラスオオヒルメノミコトという

呼び名もあったようですが、それらは太陽を人格化し、そして、祖先神に

進化させる途中の段階を示すカミの名です。

 

よって、その後も、天皇家は、大化の改新に至るまで、アマテラスを

いっこうにまつった形跡がなく、大化の改新後も、孝徳・斉明・天智と

続く天皇家は、そのあいだ、ただの一度もアマテラスをまつったり、

伊勢神宮をまつったりしたという事実が、『日本書記』の記事のなかには

出てこないとしています。

 

しかし、天武・持統両帝以降、アマテラスや伊勢神宮に対して異常なまで

の関心の高まりが天皇家に見られて、その結果として、それらの記事が

『日本書記』や『続日本記』にさかんに出てくるようになるというのです。

 

では、先の紹介したように、即位前の壬申の乱における天武天皇の祈りは、

日のカミ=太陽神であったということになるが、祖先神としてのアマテラス

への変化の兆しは、いつ、どのようなかたちで起こったのでしょうか?

 

それは、『扶桑略記』の天武天皇二年(673)の条に「大来皇子(おお

くにひめみこ)を以て、伊勢神宮に献じ、始めて斎王(いつきのみこ)と

なす。合戦の願に依てなり」とあるが、この文章こそが、その<とき>と

<わけ>をはっきり物語っていると筑紫氏は述べています。

 

つまり、このとき、天武天皇が、壬申の乱のときに必死の思いで通過した

思い出ふかい伊勢地方の、目立ったカミであるイセの大神に敬意を表して

令嬢を差し上げた、言いかえると、初瀬=長谷で天皇家の氏神(その氏を

特別に守ってくれる守護神で、まだ、祖先神である氏神ではない)である

アマテルをまつっていた大来皇子を、伊勢の漁民(海人(あま))の信仰

するイセの大神に乗り換えさせたとしています。

 

なお、これだけでは動機が単純すぎるということで天武天皇が幼少のころ、

摂津(兵庫県)の大海人(おおあま)氏に養い育てられたというところ

から、天武天皇の身についている摂津の海部(あまべ)の持つ信仰に、伊勢

の海部(磯部)たちの信仰を結びつけることができ、天武天皇が伊勢に

おいて太陽神から受けた恩恵への報謝は、イセの国の有力な海部の信ずる

太陽神への報謝へと固定されていったのだという説を付加しています。

 

これがアマテラスの「懐胎」の時期ということになるようですが、アマテ

ラスの「誕生」までには、もう少し時間を要することになります。

 

大来皇子が初代の伊勢神宮の初代の斎王(いつきのみこ)として南伊勢に

在住するようになったあとも、イセのカミは、しばらくは、地方神のまま、

川のカミのままであったとされます。

 

つまり、天智天皇以後、持統天皇の治世になっても、朝廷の支配に服属

しながらも、神国、神郡と呼ばれ、独立国のごとしであったイセの国に

対して、内政干渉めいたことはしていなかったということです。

 

神宮司がつくられて、神郡の民政や徴税を直接に天皇政府が現地に特設

した役所で行うようになるのは、これよりもおそらく後のことであろうと

されています。

 

また、持統天皇は、持統六年(692)に伊勢・志摩を訪れていますが、

伊勢参宮をした形跡がないようなのです。確かにイセの大神はいたはず

ですが、特設の社殿もなく、カミは常住しているわけでもなくて、名山

大川に時を定めて天降ってくるようなイセの大神であっては、持統天皇も

参詣のしようもなかったということでしょうか?

 

ともかく、斎宮(いつきのみや)とは、我々が考えるような、大きな建物

である皇大神宮を意味するものではなく、斎王、つまり、巫女がカミがかり

してカミをまつるために臨時に特設した家屋であるということであり、カミ

のための豪華な常住家屋などはなかったということです。

 

そうすると、天武天皇が没し、持統天皇の治世なっても、まだ、イセの大神

=地方神のままであり、皇大神宮は成立していなかった、アマテラスは誕生

していなかったということになります。

 

しかし、文武二年(692)十二月に多気大神宮を度会郡に移したとき、

つまり、皇大神宮の成立のときですが、事情が一変したということです。

それ以後は、それまでと違って、『続日本記』には、伊勢神宮を、はっきり

と他の神社と違った特別の祖廟であると意識して書かれているということ

です。

 

よって、筑紫氏は、文武二年には、天皇家の祖先神、天照大神はすでに

誕生していたとみなければならいと述べています。

 

そして、多気大神宮は、多分に皇大神宮的であり、おそらく天皇家の氏の

カミまたは祖先神の意識をもってまつられていたと考えられることから、

多気大神宮の設立の時期を考慮すると、アマテラスの誕生は、そこから

さらに数年はさかのぼる頃になるだろうとしています。

 

以上のことから、女性神としてのアマテラスオオカミが出現するまでには、

アマテル(日神)→オオヒルメムチ→アマテラスヒルメノミコト→アマ

テラスオオヒルメノミコト→アマテラスオオカミという成長の順序を

踏んできたことがわかりますが、筑紫氏は、アマテラスオオカミは、

アマテルが成長・発展せしめられた最終段階で創出された非常に特殊な

宮廷神であると述べています。










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アマテラスの誕生


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アマテラスの誕生2 


天照大神というと、現在では天皇家の祖先神であり、それも女性的な

神格であるとされていますが、驚いたことに、かつては、男性神で、

それも蛇であるとされていた時代があったということです。

 

今回は、筑紫申真氏の著書『アマテラスの誕生』によりながら、その

神格の変遷をたどってみたいと思います。

 

さて、伊勢神宮には古来より、皇大神宮の神様、つまりアマテラスは蛇で、

毎晩、その后である斎宮(いつきのみや)のところへ通ってくるという

言い伝えがあり、本書の著者の筑紫申真氏も、皇大神宮の別宮である伊雑宮

(いざわぐう)を訪れたときに、この宮の神官の子孫にあたる人から、村の

人などは、伊雑宮のカミは蛇だったといっている、ということを聞いて大変

驚いたと述べています。

 

また、一方で、アマテラスは、織姫だったとも言われています。つまり、

アマテラスは、七夕まつりの織姫=棚機つ女(たなばたつめ)だという

のです。

 

七夕まつりは、一年に一度だけ男女がゆきあうことや、機女=棚機つ女と

いう名前が似かよっていることなどが、中国から伝えられた星祭りの風俗

をわが国固有のカミまつりの風俗に結びつけて同化させたもののようです

が、このカミの着物を織るひとがカミまつりをする巫女(みこ)、つまり、

女司祭者であり、アマテラスの本当の姿であったとするのです。

 

『日本書紀』によると、アマテラスが神衣(かんみそ)を服殿(はたとの)

で織っているとき、スサノオが馬の皮をはいで服殿のなかに投げ込んだ

ので、驚いたアマテラスは杼(ひ)でけがをしてしまい、そこで怒って

天の岩戸にかくれたとされていますが、この話は、アマテラスがもともと

本当は、迎えられる貴いカミでではなくて、過去には迎える側の女司祭者

であったことを示しているのではないかといわれています。

 

このように、天照大神は、そのカミの観念を変化させていくのですが、

それは『日本書記』によってもわかるように三回に及んでいるのです。

 

はじめは、″太陽そのもの″であり、次に″太陽神をまつる女″であり、

それから″天皇家の祖先神″へと転変して完成していくのですが、『日本

書記』には、日神→オオヒルメノムチ→アタテラスという、三つの段階

のカミの名がごっちゃにされて区別のつかない一つの神格のように表現

されています。

 

日の神とは、太陽神、つまり、一種の自然神であり、オオヒルメとは太陽神

をまつる女、つまり、棚機つ女であり、天照大神になってはじめて、天皇家

の祖先神としての人格が完成するのであり、人格神としての固有名詞ができ

あがったということです。

 

かくして、アマテラスは男の蛇であったし、織姫でもあったわけですが、

筑紫氏は、それは、「特定のひとりの人間をモデルにして創作したとか、

太陽を女とみなしたとかという単純なものではなく、少しばかり混乱した、

信仰の移り変わりの合成品」なのだと述べています。

 

さて、では、いつ頃、どのようにしてアマテラスという神がつくりあげられ

たのかについて、もう少し詳しく見ていく必要がありますが、その前に、

筑紫氏は、その前提となる伊勢神宮の誕生について触れていますので、

それをまず紹介しておきたいと思います。

 

伊勢神宮は、皇大神宮を内宮と呼んでアマテラスをまつっており、三重県

伊勢市の宇治というところにありますが(なお、外宮は同市の山田にあり、

豊受神(とようけのかみ)をまつっています)、もとは多気(たけの)大

神宮と呼ばれ、今の三重県度会郡大宮町の滝原というところにあったと

いうことです。

 

現在は、皇大神宮の別宮の滝原宮が置かれていますが、この滝原宮が伊勢市

の宇治に引っ越していった多気大神宮のなごりであると見なされています。

 

この滝原宮のカミは、正式にはアマテラスだとされていますが、このカミは、

水戸(みなと)神、つまり、雨水をつかさどる川のカミであるという古く

からの伝えがあるということです。

 

それでは、多気大神宮がなぜ五十鈴川の川上の宇治に引っ越して皇大神宮に

ならねばならなかったのかということですが、それは、大和朝廷の政策で

あったという理由と共に、宇治という場所が、多気大神宮の引っ越して

くるのに大変ふさわしい場所であったからだと筑紫氏は述べています。

 

つまり、宇治は、もともと川のカミをまつる祭場だったところで、

そこでは、土地の豪族が、毎年、定期的に川のカミまつり、滝祭を

やっていたのだそうです。

 

滝原宮のカミも川のカミであり、どちらも川のカミをまつる聖地だった

だったということにより、同じ神の性格ということで、滝原の神を宇治に

移して、両方のカミを合併させることができたということです。          

 

よって、皇大神宮は、五十鈴川の川のカミと、多気大神宮という宮川の川

のカミとが一緒にされてできあがったものだということになります。

 

ところで、五十鈴川の川のカミは、滝祭りのカミと呼ばれて、昔は

もちろんのこと、現在でも皇大神宮では大変丁寧なまつりがされている

ということですが、このような大事な滝祭のカミであるにもかかわらず、

このカミには社殿もなければ、ほかに特別な施設もなかったというのです。

もともとは、姿なき神社であり、あるのはただまつりの場所だけだった

のです。

 

つまり、滝祭りのカミは竜、すなわち蛇の姿であらわれるカミと考えられ、

五十鈴川の流れの中にいて、川そのものが礼拝対象であったということです。

 

では、そのような川のカミがなぜ皇大神宮のもとの姿で、アマテラスだと

いうことになるのでしょうか?

 

皇大神宮のカミは、もともとは単に″天つカミ″と呼ばれる神であったと

されます。天つカミといっても、特別なカミではなく、昔から、日本中、

どこの村でもそれぞれにまつっていたありふれたカミであり、それを五十鈴

川の川上の宇治においてもまつっていたということです

 

天つカミは、天空に住んでいると信じられていたカミで、大空の自然現象

そのもののたましいですから、日のカミとも、月のカミとも、風のカミ

とも、雷のカミとも、雲のカミなどとも考えられていたようです。

 

よって、皇大神宮は、天つカミ、つまり、日のカミでもあり、風のカミでも

あり、雷のカミでもあったのが、日だけを取り上げて人格化していく、つまり、

アマテラスとして完成していくなかで、その他の側面がかなぐり捨てられ、

忘れられていったということになります。

 

さて、天つカミが天から地上に降りてくると、滝祭のカミになるということ

ですが、その順序、つまり、天つカミが地上に天降(あまくだ)ってくる

順序と手続きというものは、なかなか面倒なことであったということです。

 

一般論として、天つカミの天降(あも)りの仕方を述べると次のようになる

ようです。

 

まず、カミは大空を船に乗って駆け降りて、目立った山の頂上に到達します。

それから山頂を出発して、中腹をへて山麓に降りてきます。そこで、人々が

前もって用意しておいた樹木(御陰木(みあれぎ))に、天つカミの霊魂が

よりつきます(憑依)。

 

人々は天つカミのよりついたその常緑樹を、川のそばまで引っ張っていき

ます(御陰引き)。川のほとりに御陰木が到着すると、カミは木から離れ

て川の流れの中にもぐり、姿を現します(幽現)が、これがカミの誕生

とされます。このようにして、カミは地上に再生するのですが、この

ような状態を、カミの御陰(御生(みあれ))と呼んだということです。

 

そして、カミが河中に出現するとき、カミをまつる巫女(みこ)、すなわち

棚機つ女(たなばたつめ)は、川の流れの中に身を潜らせ、御生(みあ)

れするカミを流れの中からすくい上げます。そして、そのカミの一夜妻と

なるというのです。

 

以上が、昔、日本の各地で、毎年一度ずつ定期的に、もっとも普通に行われ

ていたカミの出現の手続きであり、このやり方が、伊鈴川の滝祭りの場合

においてもとられていたということです。

 

これで、最初に出てきた戸惑いを感じさせるような表現、つまり、アマ

テラスは、もとは、男のカミで蛇の姿をしている川のカミであったと

いうことの意味が理解できるのではないかと思います。

 

しかし、人格神としてのアマテラス、天皇家の祖先神としてのアマテラス

の完成に至るには、もう少しプロセスを辿らなければなりません。よって、

それは次回としたいと思います。










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いけにえの祭り-アステカの人身供犠2―


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アステカ2  



アステカ文明は、16世紀にスペイン人によって滅ぼされました。

 

しかし、被征服民の文化として蔑視されていたマヤ、アステカといった

古代も文明も、20世紀に入ってから、その偉大さや重要性が徐々に

認識されて、現在ではメキシコ人にとり、それが誇りと自信の源泉に

なっているとさえ言われています。

 

ただし、人身供犠に関しては、祖先が行った信じられない風習として、

素直の受け入れ難いようであり、エウラリア・グスマンという歴史家の

ように、人身供犠そのものを否定するナショナリストの学者もいると

いうことです。

 

しかしながら、アステカの宗教や世界観を冷静に観察すれば、ベルナル

ディーノ・デ・サアグンなどのスペイン人記録者の記述には誇張もある

かもしれないが、生贄が行われていたという事実は否定することはでき

ないとされています。

 

さて、前回、アステカの人身供犠の動機は、そこに伝わる神話、それも、

従来から言われるような、「太陽や大地の神々に血液を捧げる」という

主題の神話ではなく、「太陽や大地の神々から血液を頂く」という主題

の神話にあるのではないか、という主張を紹介してきましたが、それと

は異なる見解を紹介してみたいと思います。

 

たしかに、メソアメリカでは、いや、それこそ世界各地で生贄、人身供犠

というものが行われてきたようですが、アステカの場合は、規模や恒常性

において極めて突出しているように思われます。

 

よって、そこには神話以外のモジベーションがあったのではないかという

疑問が湧いてくるのですが、それを考えるべく、今回は、別府大学アジア

歴史文化研究所報第16号所収の佐藤孝裕氏の論文『アステカの人身供犠

への一試論』を取り上げてみたいと思います。

 

まず、佐藤氏は、兵士および彼らに伴って布教活動のために新大陸を訪れた

宣教師たちの報告に見られる人身供犠の描写は極めて生々しく、その報告の

すべてが単なる捏造だとは考えられないし、人身供犠が実際に行われたこと

を示す図像や彫像の資料も多いため、かつて、彼らが人身供犠を行っていた

ことはほぼ間違いないだろうと述べています。

 

そして、従来、創造神話に由来する彼らに独自の世界観の中に人身供犠を

位置づけ、必然性・必要性に基づいて長年に渡って人身供犠が行われ続けた、

と解釈されてきたが、その儀式は、その大規模さと組織性の点で他を圧倒

しており、単に宗教的必然性を理由にするだけでは、到底、説明が困難で

あるとしています。

 

さて、メソアメリカにおける人身供犠の起源は、少なくとも、古典期

(紀元後から紀元1000年頃まで)にさかのぼるとされます。そして、

マヤ地域などでも、数々の図像学的証拠から見て、古典期には行われて

いた可能性が高いと考えられています。

 

しかしながら、古典期マヤの人身供犠の性格は、都市国家の王が自分の

王としての正統性を神々に認めてもらうために戦争で捕らえた捕虜などを

人身供犠に供し、神々の好む血を捧げたものだろうと考えられており、

それは個人的で、アステカ人が行ったような大々的なものではなかった

ということです。

 

一方、アステカでは、1年間で18回の宗教行事や周期や時節とは関わり

ない特別な行事において、ことごとく多くの生贄が捧げられたようであり、

とりわけ、1487年における首都テノチティトランのテンプロ・マヨール

神殿の落成式において数千人の生贄が捧げられたとされています。

 

では、なぜ、このような極端な状況を生んだのでしょうか?

 

佐藤氏は、その要因を創造神話にもとづく宇宙観による解釈のほかに、

いくつかの解釈を紹介しています。

 

一つは、強化儀礼としての解釈です。

 

それによると、創造神話では、毎月の祭祀と供犠の意味を説明することが

できない。しかし、月毎に行われた祭祀を見ると、それらは、雨の神、水

の神、風の神等々、多くは農耕にかかわる神々のためのものである。した

がって、人身供犠を含む儀礼は、豊穣を願う農耕儀礼的な性格をもつ強化

儀礼の一種であるということになる。すなわち、人身供犠を行うことに

よって、規則的に雨が降り、作物が実り、土地の生産性が保たれることを

願ったというものです。

 

次は、人口統計学的解釈というものです。

 

これは、アステカ人による統一以前は、メキシコ中央高原一帯は慢性的

な戦争状態にあった。そして、戦争が「花戦争」という形で恒久的な

制度になると共に、それにつきものの人身供犠を価値づけ、イデオロ

ギー的に正当化する手段になったというものです。

 

また、即位儀礼としての解釈というものもあります。

 

これによると、どんな王でも即位するためには、どこかの地方を攻略し、

生贄にするための多数の捕虜を捕えねばならなかった。よって、そう

することにより、王がこの世界を維持し、治めるだけの力を持っている

こと、すなわち、自分が正統な王位の継承者であることを顕示するため

ではなかったかというものです。

 

さらに、佐藤氏は、政治・経済・軍事的解釈というものを掲げています。

そして、それは佐藤氏自身の主張でもあります。

 

彼は、人身供犠を大々的に行ったアステカ人の意図の解明には、アステカ人

の国が膨張していく中での政治的意図が込められた宗教改革が鍵であると

して、次のように述べています。

 

<第四代イツコアトル王は、1428年にアスカポツルコのテパネカ人を

壊滅させ、アステカ王国はメキシコ中央高原最大の国家にのし上がるが、

この当時、実質的にアステカを支え、大きな権力を握っていたのが、王の

最高顧問トラカエレルであった。彼は、シワコアトルという特別な称号を

与えられ、イツコアトル王とその後の二代の王に仕え、死ぬまで改革を

実行し続けた。>

 

<トラカエレルの業績の一つに歴史の改竄がある。彼は、アステカ人のこと

が重視されていなかった被征服民の絵文字をすべて焼き捨てさせたという。

そして、絵文字に書かれていた内容を書き換え、アステカこそかつて中央

高原に覇を唱えたトルテカの伝統の承継者だとした。>

 

<これにより、彼はアステカ人に誇りを持たせるような意識改革を行い、

新たな征服活動を容易ならしめようとしたのであり、こうしてアステカ人

は近隣諸国を手始めに遠隔地への征服活動に乗り出していったのである。>

 

<そして、トラカエレルが行った業績にはもう一つある。それは「花戦争」

の導入である。「花戦争」とは、生贄に捧げるための捕虜を手に入れるため

にのみ始められた戦争である。つまり、常に太陽神ウロポチトリに

心臓と血を捧げるための生贄に事欠かないようにし、そうすることで現世

である第5番目の太陽が滅びないようにするためにトラカエレルはこの

ような制度を考え出したのである。>

 

<なお、このアステカ人独自の宇宙観に背後にも戦略的な意図が潜んでいる

と思われる。つまり、アステカ人がウロポチトリ神に仕える使徒と

しての使命を果たす特別な部族であり、ウロポチトリ神に捧げる生贄

を求めるために戦争を行うということは、彼らの征服活動を正当化すること

につながる。独自の宗教軍事観を導入したトラカエレルの本当の意図は、

まさにこの点にあったと考えられる。>

 

<いずれにせよ、アステカ人は、トラカエレルによって持ち込まれた宗教

軍事観を受け入れるなかで、アスカポツルコの属国的存在から抜け出し、

それを滅ぼし、それ以後、スペイン人が現れて彼らに滅ぼされるまで、

ほとんどの征服戦争に勝利し、勢力を拡大していったのである。>

 

以上が、佐藤孝裕氏の主張の要旨ですが、たしかに15、6世紀というと、

神政的な古代文明が滅び、後古典期文化と呼ばれる、戦国の世、軍事的な

社会の、そのまた末期ということになり、人身供犠の根拠を神話の共認

のみとすることは難しいようにも思われます。

 

また、<アステカ人にとって、最もふさわしく、羨望に値する運命とは

戦死、ないしは人身供犠に供されることであったとされるが、事実、その

とおりであったのだろうか。生贄に捧げられる捕虜は喜んでわが身を捧げた

と言われるが、逆に力づくで運ばれ、死とその苦しみを強烈に味わされた

という報告も少なくないのである。そのために麻薬が用いられもした。>

と佐藤氏がいうような側面もあったかもしれません。

 

しかしながら、現実的な策略ばかりが強調されると違和感が残ります。

たとえば、アステカの文明がスペインによって壊滅させられたとき、

アステカの主だった者たちは、フランシスコ会の修道士たちに対して

次のように語ったと言われています。

 

<あなた方は、我らの神は真実のものでないとおっしゃいました。だが、

あなた方が語るのは、異様なことであります。それで我々は混乱して

います。なぜならば、我らの父、我らの祖父、かつてこの地上に生きた者

たちは、決してそういわなかったからです。彼らは我々に生活の規範を

与えました。彼らは、それを真実なものと見なして信じ、神々を敬い

ました。彼らは我々にすべての形の信仰と、神々を崇めるすべての方法を

教えてくれました。・・・だが、もし我々の神々がもう死んでしまったの

なら、我々も死なせてください。我々は滅びます。なぜなら、我らの神々

がすでに死んでしまったのだから・・・>

 

ここからは、アステカの人々が、我々、現代人が推し量ることができない、

というか、我々が失ってしまったような、神話と信仰の世界に生きる、

ピュアな心性を抱いていた人々であったことが伺われるように思います。

 

残虐性と神聖さの併存という、この絶対的な矛盾に前にして、そう簡単に

結論は出せないように思われます。










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