『大洪水伝説』『ギルガメシュ叙事詩』」-最古の宗教4-


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ギルガメシュ叙事詩 


現在残っているシュメール語版の『大洪水伝説』は、紀元前2千年紀前半

の古バビロニア時代、つまり、シュメール人が古代メソポタミアの歴史で

もはや主役たりえなくなった頃に書かれたとされています。

 

それによると、神々が大洪水を起こすことを決定したのであるが、その目的

は人間を滅ぼすためであったということです。それは神々が決定したこと

であるから、どんな神といえどもそれを止めることができなかったです。

 

しかし、なぜ、神々は労働を肩代わりさせるためにつくった人間を滅ぼさ

なければならなかったのでしょうか?

 

その理由については、『大洪水伝説』では直接語られていないようですが、

ジウスドラ(永遠の生命の意味)王が神々を恐れ敬う慎み深い人間で

あったために大洪水を逃れられたのだとすれば、ジウスドラ以外の人々

は神々を恐れ敬わず、慎み深くなかったから滅ぼされたといえそうです。

 

だが、神々の都合だけで人間が滅ぼされてしまっては救いがありません

から、大洪水に負けずに健気に生きていく人間の支えとして主人公ジウス

ラ王を助けるエンキ神のような神を登場させています。

 

シュメールの最高神であるエンリル神は「神々の会議」で決めたことを

ためらわずに実行するのですが、エンキ神は、よく考えて、人間を絶滅

させることをためらったということです。

 

こうして、エンキ神によってジウスドラ王にだけは大洪水が前もって

告げられる。エンキも大洪水を下す決定に参加していたので、ほかの神々

をはばかって直接ジウスドラに告げたりはせず、壁を通じて間接的に

機密を漏洩したということです。

 

よって、嵐がやってくると、ジウスドラは船に乗って難を逃れます。

粘土版が欠けていて詳細は不明のようですが、『ギルガメシュ叙事詩』に

よると船にはウトナビシュテム=ジウスドラの家族や動物も乗せられて

いたようです。そして、主人公を含めたごくわずかの人間や動物以外は

滅ぼされてしまうことになります。

 

ただし、これで世界は終わりではなかったのです。大洪水が原初時代の

人間たちを滅ぼしたので、世界は浄化され、新しい世の中が訪れたという

のです。

 

このことについて、ミルチア・エリアーデは「多くの異なる伝承において、

洪水は人間の「罪」の結果であるが、ときには、ただ単に人類を滅ぼそうと

する神の欲望の結果であることもある。メソポタミアの伝承のなかに、洪水

の原因を突きとめることはむずかしい。」「しかし、文化において、洪水が

近い将来起きることを予言している神話を検討してみると、洪水の主因は

人間の罪であると同時に世界の老朽化でもあることが確認される。宇宙は、

それが存在する、すなわち生存し、生産するという単なる事実によって、

しだいに退化し、ついに滅亡するのである。これゆえ、宇宙は再創造され

ねばならないのである」と述べています。

 

さて、先に少し触れた大洪水のテーマを含む『ギルガメシュ叙事詩』は、

古代オリエント世界最高の文学作品と評されるものです。

 

ギルガメシュは古代オリエント世界最大の英雄ですが、この作品が単なる

英雄の武勇譚ではなく、「死すべきもの」としての、人間の存在への根本的

な問いかけを含んだものであるとされています。

 

ギルガメシュ神は、本来は、ビルガメシュ神と呼ばれ、シュメールの冥界

神であったようです。ビルガメシュとは、「祖先は英雄」「老人は若者」と

いった意味で、冥界とかかわりのある祖先崇拝を暗示しているとされます。

 

なお、『ギルガメシュ叙事詩』とは近代の学者がつけた書名で古代の書名

は「あらゆることを見た人」といわれています。「あらゆることを見た人」

とはギルガメッシュのことで、シュメール語で書かれた複数のビルガメシュ

を主人公とした物語のなかから取捨選択して、アッカド語の『ギルガメシュ

叙事詩』が編纂されたということです。

 

あらすじは次のようになります。

 

<「あらゆることを見た人」ギルガメシュは、ウルクの王で、洪水前のでき

ごとを人々に知らせ、ウルクの城壁を建てさせたなどの功績があった。

ギルガメシュの父はルガルバンダ神、母はニンスン女神であるが、三分の二

は神、三分の一は人間という存在であった。>

 

<ギルガメシュは暴君であったため、人々の訴えで、アヌ神は彼を懲らしめ

るために野人エンキドゥをつくらせるが、エンキドゥは娼婦シャムハトと

交わることで野人から人間になる。その後、ギルガメシュとエンキドゥは

力比べをするが決着がつかず、やがて二人は友人となり、さまざまな冒険

を繰り広げることとなる。二人はメソポタミアにはない杉を求めて遠征に

出る。「杉の森」はフンババ(フワワ)という森の番人に守られていたが、

二人は神に背いてこれを殺し、杉をウルクに持ち帰った。>

 

<遠征から戻ったギルガメシュの雄々しい姿を見た女神イシュタルは彼に

求婚したが、ギルガメシュは、この女神の愛人であるドムジ神の扱いを

なじり、それを断った。怒った女神は、仕返しに「天の牡牛」を送るが、

ギルガメシュはエンキドゥと力をあわせて雄牛を殺してしまう。>

 

<大いなる神の定めた番人フンババや「天の牡牛」を殺した罰として、

エンキドゥの死が定められ、エンキドゥは死んでしまう。>

 

<ギルガメシュは大いに悲しむが、自分と同等の力を持つエンキドゥすら

死んだことから自分もまた死すべき存在であることを悟り、死の恐怖に怯え

るようになる。そこで、ギルガメシュは永遠の命を求める旅に出て、さま

ざまな冒険を繰り広げるが、最後に神によって引き起こされた大洪水から

逃れることで永遠の命を手に入れたウトナビシュテムに出会う。大洪水に

関する長い説話ののちに、ウトナビシュテムから若返りの草のありかを

聞き出し、これを手に入れるが、水浴びをしている隙に草を蛇に取られて

しまい、ギルガメシュは泣いた。やがてウルクに戻ったギルガメシュは

不死を得られないことを悟り、ウルク市の城壁を建てるなど、王としての

責務を全うした。>

 

先にも触れたように、ビルガメシュ神は、シュメールにおいて低位の冥界

神であると考えられていたが、冥界神は元来豊穣神でもあって、個人の

守護神となるうる神、人間が近寄りやすい神であったためか、ビルガメシュ

のいくつかの英雄譚が生まれ、そのいくつかの英雄譚はシュメール人から

セム人に伝えられ、冥界から飛び出したギルガメシュは天上界へは昇らず、

地上にあって三分の二は神、三分の一は人間の、「不死」を求める英雄と

なり、上記のようなアッカド語版『ギルガメシュ叙事詩』として結実した

ということです。

 

ところで、ミルチア・エリアーデは、このように『ギルガメシュ叙事詩』

は、一般的に、死の不可避性によって定義された人間的条件を劇的な仕方

で説明していると考えられてきた。しかし、この世界文学の最初の傑作は、

一連のイニシエーションの試練をうまく切り抜けた者には、不死性が得られ

るという考えをもほのめかしているとも考えられる。この視点からすれば、

ギルガメシュの物語は、むしろ失敗したイニシエーションについての劇的

説明なのだ、と述べています。

 

つまり、ギルガメシュの旅は、イニシエーション型の試練に満ちている。

不死性を獲得した大洪水の生存者ウトナピシュティムによる最後の試練は、

「精神(霊)的」次元のものであり、ウトナピシュティムは、神々がギル

ガメシュに不死性を与えないと知っていながら、彼にイニシエーションを

通じてそれを得るように勧めたと解すべきではないか、と言います。しかし、

ギルガメシュは「知恵」が欠けていたため、イニシエーションによる試練

に失敗した、と。

 

また、エリアーデは、メソポタミアのイニシエーションが存在したと推定は

するがその儀礼的脈絡は不幸にしてわかっていないとしながらも、アッカド

の宗教思想は人間に強調をおくことによって、人間の可能性の限界を浮き

彫りにしたのであり、人間と神々との隔たりは越えがたいものであることが

明らかになった。しかし、人間は独り孤立しているわけではない。第一に、

人間は神的だとみなしうる霊的要素をわけ預かっている。その要素とは

「霊」である。第二に、儀礼や祈りを通じて、人間は神々の祝福を得ること

を期待する。とりわけ、人間は自分が相同性によって統一された宇宙の一部

をなしていることを知っている。

 

すなわち、人間は世界像をなす都市に住み、その神殿やジグラットは「世界

の中心」をあらわし、これによって天や神々との交流を保証している。

バビロンは「神々の門」を意味した。というのも、神々はそこをくぐって

地上へ下降したからである。多くの都市や聖所が「天と地をつなぐもの」

と呼ばれていたのである。さらに、天と地とのあいだの複雑な体系が成立

するゆえに、地上の存在が理解されると同時に、それらがそれぞれ対応する

天上の原型から「影響」を受けるのであると述べています。

 

そして、紀元前千五百年頃には、メソポタミア思想の創造的な時代は完全

に終わったと思われる。しかし、メソポタミア起源の観念、信仰、技術は、

地中海西部からヒンドゥークシ山脈まで広がっている。このように広く

浸透する定めにあったバビロニアの諸発見が、天地あるいは大宇宙・

小宇宙の対応を、多かれ少なかれ直接的に含んでいたということは大変

意義深いと述べています。








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シュメール創世神話-最古の宗教3-


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シュメル神話の世界 



今日、知るかぎりにおいて、古代メソポタミアの識者たちは、少なくとも

文書として保存するもののなかには、彼ら独自の宇宙「体系」に関する

まとまった記述を残すことは一度もなかった。さまざまな時代、場所、

種類の文書のなかに暗示的記述が散見されるのみである、とジャン・

ポテロは述べています。

 

よって、複数の作品によって「天地創造」神話を紹介しておきたいと

思います。

 

まず、『エンキ神とニンマフ女神』には、その前半において、「天地創造」

から「人間創造」に至る神話が語られているが、天と地は「大昔に

つくられた」だけ書かれているのみで、誰が天と地をつくったかは

書かれていないようです。

 

また、別の物語『ビルガメシュ神、エンキドゥと冥界』では、すでに存在

している天と地が分離されたのちで、人間の創造が定められているが、

それ以上のことは語られていないということです。

 

さらに、別の物語『エンリル神と鶴嘴(つるはし)の創造』では、エンリル

神は地から天を分け、「鶴嘴」をつくり出す。そして、人間がつくられるが、

人間には神々に割り当てられ、都市を築き、家を建てる重要な道具である

「鶴嘴」が与えられたとあります。

 

いずれも天地が最初から存在したように語られているゆえ、その前はどう

だったのかという疑問が湧いてきますが、いくつかの物語から推測すると

次のようになるようです。

 

最初に存在したのは「原初の海」ナンム女神である。女神は「海」その

ものであった。この「原初の海」が天と地を一つに結合している宇宙的

山を産んだ。

 

神々は人間と同じ姿をしていて、「天」アンは男神、「地」キは女神で

あった。彼らの結婚が大気を司るエンリル神を産み、エンリルは次に

天から地を分離した。天を運び去ったのは父アンであったが、エンリル

自身が母であるキ、すなわち地を運び去った。そして、エンリルが母なる

大地と結合したことが、宇宙の生成、「人間創造」、そして文明の樹立の

ための舞台を用意することになった。

 

そして、「人間創造」については、『エンキ神とニンマフ女神』では、神々

の労苦を取り除き、身代わりとして働くために創造されたとあります。

 

神々が増えたために、神々のなかでも特に低位の神々はつらい農作業を

しなければならなくなった。よって、身代わりをつくろうとした。そして、

つくる際には知恵の神エンキが人間を産みだすための道筋を考えた。

つまり、エンキは母神ナンムに人間を創造させ、ニンマフ女神や低位の

女神たちに助産婦の役割をさせようと考えたというものです。

 

では、神々が、みずからの代わりに働く存在である人間を何からつくった

のかといえば、土、粘土からであったということですが、これは『旧約

聖書』の「創世記」にも見られる記述です。

 

もっとも、古代メソポタミアでは、人間を創造する際の素材としては、

この粘土以外のものも考えられていたようで、たとえば、『人間の創造』と

呼ばれる作品では、神々の血から人間がつくられたとされているようです。

 

なお、紀元前十二世紀頃にバビロンで編纂されたとされる有名な『エヌマ・

エリシュ』という「創世神話」では、次のような物語になっています。

 

これは、最高神マルドゥクによる「天地創造」と天上の王権確立の次第を

物語ったもので、ストーリーは、「上では天がまだ名づけられず、下では

地が名づけられていなかったときに」というところからはじまります。

続いて、原初の男神アプス(「淡水」の神格化)と女神テアマト(「海水

」の神格化)が現れ、この二神から次々に多くの神々が生まれる。アプス

とテアマトは若い世代の神々の騒々しさに耐えられず、彼らの殺害を

企てるようになる。ところが、アプスは逆にエア神によって殺害され、

アプスの上に建てた住居でエアはダムキナ女神との間にマルドゥク神を

もうける。

 

マルドゥクは復讐を果たそうとするテアマトと彼女がつくりだした「11

の合成獣」の軍団と戦ってこれを打ち破り、「彼は(テアマトの死骸を)

干した魚のように二つに裂いた。彼はその半分を天を覆うように配置した。

彼はもう片方を広げて大地を作った。彼は全てを覆う網を大きく広げて、

天と地を結びつけた」というふうにテアマトの死骸から天地を創造する。

 

また、マルドゥクは、テアマト軍の指揮官キング神から「天命の粘土

版」を奪い、キングゥの血から神々の労役を肩代わりする人間をつくる

ことを考えつく。こうして、天地の秩序を確立したマルドゥクは神々の

王となって、「神々のエンリル神(最高神)」と讃えられる。

 

このように、『エンキ神とニンマフ女神』とは違って『エヌマ・エリシュ』

ではテアマトの死骸から天と地がつくられ、キングゥの血から人間をつく

っているが、神々の代わりに働く人間という「人間創造」の理由については

『エヌマ・エリシュ』にも踏襲されているようです。

 

なお、ミルチア・エリアーデは、これらのことについて、「天地創造は、

二群に分かれた神々のあいだの結果であるが、テアマトの陣営は彼女の

創造なる怪物・魔物を含んでいる。言いかえれば、「原初的なるもの」

そのものが、「否定的創造物」の源泉として示されている。」

 

「マルドゥクが天地を形成したのはテアマトの死体からであった。」

「それゆえ、宇宙は二重性をもつことになる。」「世界は、一方の混沌と

して悪魔的な「原初性」と、もう一方の、神の創造性・現前性・知恵との

「混合」の結果であることがわかる。これはメソポタミアの思索が到達

した、もっとも複雑な天地創造の定式であろう」と述べています。

 

また、人間の創造に関しては、「人間はキングの血という悪魔的物資で

創られている。」「人間はその起源において、すでに断罪されていると

思われるので、悲劇的ペシミズムについて語ることが可能である。

人間の唯一の希望は、人間を形づくったのがエアだということである。

それゆえ、人間は大主神によって創られた「形」をもつのである。

この観点からみれば、人間の創造と世界の起源は均衡を保っている。

いずれの場合も、最初の素材は地位を失い、悪魔にされて、勝利した

若い神に殺された原初の神の身体なのである」とも述べています。

 

ところで、このような創造された世界の終り、終末について、メソポタ

ミアの古い識者たちはどのように考えていたのでしょうか?

 

ベロッソスという人が示唆したところの、メソポタミアに古くから伝わる

基準を適用すれば、世界全体の長さは、「12サルの12の倍数」、すな

わち144サル年となり、これは51万8400年に相当するということ

です。そのうち、すでにシュメールの王名表にある大洪水以前の王の統治

期間が43万2000年過ぎ、さらに大洪水以降バビロン第一王朝まで

3万4080年、別に年表をもとにすれば3万3091年が過ぎ、さらに

バビロン第一王朝からベロッソスが生きたアレキサンダー大王の時代まで

1564年過ぎている。よって、残りの存続期間は、12サル、つまり、

4万3200年ということになるようです。

 

さて、ここに出てくる「大洪水」とはどういうものだったのでしょうか?

これは「世界の終末」に相当するものではなかったのでしょうか?また、

死について、彼岸(死後の世界)について古代バビロニアの人々はどの

ように考えていたのでしょう?

 

次回は、それらのことについて追及してみたいと思います。

 










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古代メソポタミアの宗教感情と表現-最古の宗教2-


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世界宗教史1 


前回の最後に、「シュメールの宗教的保守主義は、アッカドの宗教構造の

なかに引き継がれた」というミルチア・エリアーデの言説を紹介しました

が、より具体的には、シュメールの三至高神、アヌ(アン)、エンリル、

エア(エンキ)はそのまま残った。三天体神は、それぞれセム語の神名を

部分的に取り込んでいる。すなわち、月神はスィン(シュメール語のスエン

から派生している)、太陽神はシャマシュ、金星神はイシュタル(イナ

ンナ)である。冥界はエレシュキガルとその夫ネルガルが治め続けた。

 

王国が必要とした数少ない変革、たとえば、宗教的優位のバビロンへの移動

と、マルドゥクによるエンリルとの交代は、実現に数世紀を要したし、神殿

については、建物の規模の大きさや数を除けば、シュメール期以降、全体的

配置に何も本質的な変化はなかった、と述べています。

 

ただし、セム語系民族の宗教的天才による貢献がいくつかつけ加えられたと

いいます。まず、注目されるのは、二柱の「国家」神、バビロンのマルドゥ

クと、のちのアッシリアのアッシュルが普遍神の地位まで昇格したことで

あり、同じように意義深いのは、個人の祈りと悔い改めの詩が祭祀のなかで

もつ重要性であるとしています。

 

アッカド宗教思想のもう一つの創造物は占いである。また、呪術の興隆と

秘術学(とりわけ占星術)の発達が著しく、のちにそれらは、アジア世界

や地中海世界の全体に広まることになるとも述べています。

 

さて、古代メソポタミアにおける宗教感情とはどういったものだったので

しょうか?

 

ジャン・ポテロは、当時の祈祷や詩歌、讃歌、頌歌を見ると、文体がいかに

も形式的、常套句の羅列であるとはいえ、真の宗教心の高揚が見られると

述べています。

 

超自然的な存在は、ここでは冷徹な理性による賞賛の対象にはなっておらず、

超自然が古代の人々のなかに呼び起こした、心からの崇敬の念、深い敬虔な

心、議論の余地のない感動が、これらのなかに認められるというのです。

 

そして、このような宗教感情は、もう少し接近して把握してみると、明ら

かに「遠心的」であり、「畏怖」の型に属するものである。興奮や「ディ

オニソス的陶酔」の要素は全くなく、我々の世界の信仰心とも大きくかけ

離れている。言いかえれば、人間の姿をした多くの格によって具現されて

いる神は、まず、非常に偉大で、近づき難い恐ろしい存在、支配者と感じ

られたということです。

 

つまり、神は決して心はやる熱狂的な探求の対象にはならなかったので

あり、メソポタミアの宗教には、「神秘的様相」は全くなく、神々は非常

に高位にある「権力者」と捉えられ、人々はこの権力者に対して全面的

にへりくだって服従し、奉仕に努めた。神々は遠くにいるあまりに高貴な

主人、君主であり、決して朋友などではなかった。人々は神々に服従し、

神々を畏れ、その前でひたすらへりくだり、震えたのであり、決して神々

を「愛する」ことなどなかったとしています。

 

もっとも、神々に対するより穏やかな気持ちを伝える表現にも、かなり

頻繁に出会うこともあるようです。しかし、それは、より近づいて観察

してみると、常に恐れの感情が優先していることがわかるとしています。

 

なお、神が遠くの隔絶した位置にいる畏れ多い存在であるという感覚は、

セム人の諸宗教のいずれにも認められるものであり、特に旧約聖書の

なかにそのもっとも高揚した姿が見られるが、メソポタミアにおいても、

この感覚は広く人々の心を支配しており、その点に関しては、どのような

形であったにせよ、すでにシュメール人の心の底にも根付いていたのでは

ないかということです。

 

かくして、神に近づき、個人的な幸福と安らぎの対象として追い求めよう

とする、いわゆる「神秘的」態度を伝えるテクストは皆無であるとともに、

神は真の意味で「非物質的ではなく、いかなる文書にも、人間の内部に神

が臨むという理解が存在した痕跡を見せることはないということです。

 

さて、ジャン・ポテロは、メソポタミアにおける宗教感情を比較的短い

表現で示唆するとすれば、それは、是非とも「知る」必要があること、

と言い換えることでできると述べています。

 

太古の時代から古代メソポタミアの人々は、この世についての無数の謎を

解消するために、背後にその謎の数と同じだけの人格を想定することが

妥当であると直観したというのです。

 

つまり、人々はこの世界を、超自然的な人格が対応するもう一つの世界と

二重写しに見ていたのであり、それぞれの超自然的な人格の名は、その

役割によって規定されたということです。アンは天であり、また天の神

でもあった、ウト/シャマシュは太陽であり、また太陽の神でもあった

というように。

 

さて、このように、人類を含むすべてに対し超自然の人格が付与されて

いくことによって、多数の超自然の人格の集合体が誕生することになる

のですが、この「神々」の想像上の共同体は「パンテオン」と呼ばれて

います。

 

「神」はシュメール語でディンギル、アッカド語でイルとされますが、

パンテオンを構成しているその「神」の数は膨大なもので、その一覧に

は二千~三千の名前が列挙されているということです。

 

ともかく、新しい文書が発見されるたびに、それまで知られていなかった

新しい神々の名が現れるのであり、神々のリストは、決して締め切られる

ことはなかったし、これからもないだろうということです。

 

しかし、メソポタミアにおいて、これほど多くの超自然的存在が果たして

どのような形で崇拝されていたのでしょうか?

 

アッカド人たちは、基本的には、シュメール人が「発明」した数多くの

神々を受け入れたようですが、その過程で神々の「組織化」が行われて

いったようです。

 

つまり、これまでそれぞれ無秩序に独立していた多数の神々は、各々大小

の集団に分かれ、各集団は中心となる一人の神格に帰属し、全体としては

秩序に従った一つの体系、すなわち「権力のピラミッド」を形成すること

になったということです。

 

そして、マルドゥクのような頂点に立つ「神々のなかの神」が出現するの

ですが、それは単一神観という言葉で説明されています。それは唯一神観

の場合とは異なり、神々の複数制を認めているのであるが、今この場に

おいては、ただ一つの存在のみに関心を寄せ、それのみにみずからを結ぶ

もので、ある意味で、多神観よりも一段進んだ形態であると言われます。

 

さて、それでは、メソポタミアの人々は神というものをどのように考えて

いたのでしょうか?つまり、どのような姿をし、どのような振る舞いを

すると考えていたのでしょうか?

 

基本的には、神人同形観という概念に集約されるようです。人々は神々

が人間と同様に本物の肉体を持つと確信していたようなのです。

 

つまり、メソポタミアの人々は神を「人間」をもとに、その特段に高邁

で優越的な姿とともに思い描いていたということです。よって、メソ

ポタミアの人々が「神性」の概念を規定したことはなく、場合に応じて、

神々の特別の能力や権限を適宜に表現するだけであったのです。

 

よって、神々の像を描くにあたっては、人間の姿がもっぱら用いられたが、

人々は神像について、非常に現実的な概念を抱いていたようです。つまり、

神像は漠然としてではあるが、神そのものであった、あるいは神という

存在を内包していたのです。

 

そうなると、神々の振る舞いは、当然のことながら、人間のそれに倣った

ものになりますが、宗教祭儀さえも神々が人間と同様のものを必要とする

ことを前提に成立していたようです。

 

すなわち、飲むこと、食べること、衣装と装身具を身につけ、広大で

ぜいたくな「住居」で、にぎやかな宴の席を囲みながら、豊かで憂いの

ない生活を送りたいという望みを満たすこと、等々です。

 

とにかく、神々は非常に人間的で、ビールを飲みすぎて気が大きくなり

失敗してしまったり、自由恋愛の結果、肉体に溺れたりと、ときには

人間が持つ弱点のみならず、人間の欠点さえも持ち合わせることが

あったのです。

 

しかし、一方で、少なくとも、バビロニアの紀元前二千年紀以降の「神学

者たち」が、神々の間の存在の優劣、言いかえれば、それぞれの「神と

しての本質」の力量を、もっとも非物質的で「抽象的な概念」である

数字や数量を、各々の表象として割り当てることによって明示しようと

した(アンは数字60、エンリルは50、エアは40というふうに)

ことを我々は認めざるをえないとジャン・ポテロは述べています。

 

そして、星を使ったシンボルの適用、そし数字による抽象化は、超自然界

の超越性と神秘性を強調するための一つの試みと捉える必要があるとして

います。

 

なお、神々のほかに、古代のメソポタミアの人たちが思い描いた超自然的

存在として、天体(月、太陽等)や、そびえる山々、水流などの具体的な

「事象」、そして、「デモンたち」と呼ばれる有害で危険な存在あるいは

「力」などがあったようですが、それらは人間よりは上位であるが神々

よりは劣るものであったようです。

 

さて、それでは、メソポタミアの神々の起源、宇宙(世界)の始まり、宇宙

(世界)の構造、そして、人類の誕生と死後の行方などはどのように考え

られていたのでしょうか?

 

次回は、それらのことについて触れてみたいと思います。







 
 
 
 
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最古の宗教-古代メソポタミア-


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最古の宗教 



その範囲がだいたい今日のイラクの領有域に重なり合うメソポタミアは、

地質学的にはそんなに古い土地ではないようです。

 

メソポタミアは、ヨーロッパを襲った最後の氷河期が終わってしばらく

たったのち、おそらく今から一万二千年ほど前に、その姿を現したと

いうことです。

 

いたるところで大気中の湿度と降水量が減少する現象が起こり、その影響

は近東全域にも波及しました。北にコーカサスの山地がそびえ、東はイラン

高原に阻まれ、南はペルシャ湾に面し、西は荒涼としたシリア・アラビア

砂漠に接する、泥から形成された土地は、その時点までは一本の巨大な川

の河床であったが、この川はのちに規模を縮小して、ずっと細い二本の流れ

に姿を変えます。すなわち、ティグリス川とユーフラテス川の誕生です。

 

遅くとも、紀元前六千年頃から徐々に日の目を見るようになったこの土地

の最初の住人は、おそらくは北西、北、そして東に隣接する高地から来た人

であろうとされるが、彼らは、いくつかの異なった民族系統と文化圏とに

属していたと思われるものの、彼らに関しては、若干の考古遺跡が発掘

されているほかは、詳しいことはわかっていないということです。

 

何世紀にもわたる停滞期が過ぎたのち、紀元前四千年紀以降か、あるいは、

それより少しさかのぼる頃から、事態は徐々に動き出したようです。

 

この頃、結果的にこの地に固有の歴史を始動させることとなった二つの事柄

が起こったとされます。

 

第一にあげられる事柄は、人工的な灌漑の発明です。この地味豊かな土地は、

ヒツジ等の動物の飼育と穀物栽培に適していた。しかし、降水はわずかで、

しかも冬季に集中していたため、ある日、人々は運河を掘って川から水を

導くことによって土地の灌漑が可能になり、生産の増加が実現することに

気づいたという。

 

こうした企ては、必然的に少数の村人たちのグループよりはずっと規模が

大きい集団を動かすことが必要となり、それぞれ孤立したささやかな集落

が次第に連合し、一人の指導者のもとで大きい政治共同体を形成していった

が、のちの都市国家と文明の形成も、またメソポタミアにおける堅固な君主

体制の伝統も、ここを出発点としているということです。

 

同じ頃に起きたと思われるもう一つの重要な出来事は、シュメール人の到来

です。『最古の宗教』の著者ジャン・ボテロは、この出自不明の人々を、

何らかの人種的、文化的、言語学的系統に結びつけ、その正体を見極める

には未だ至っていないとしながらも、有名な伝説、あるいは神話が語る伝承、

すなわち、『七人の賢者』が一つの仮説を提供してくれるように思われる

と述べています。

 

それは、まだ未開で粗野な状態にあったメソポタミア南部の人々が、文明

生活を成立させるすべてのことを外来の「海から来た存在」に教えられた

というものです。神話というものは、しばしば古い記憶をわずかに手を加え

ただけで伝えるものであるが、この話がある移民のことを問題にしていて、

移住がおそらくは平和裡に進行したこと、高度な文化を身につけた人々が

到来したことによって、この地の生活水準が向上したことを物語っている

と理解したいとしています。

 

それゆえ、シュメール人たちが海岸地域から、あるいは海岸を通過して、

おそらくはイランのペルシャ湾沿の地域を通って到来したのではないかと

想像されるが、彼らはメソポタミア南部の沼沢地域に住み着いたと思われ、

のちになってこの地域は、「シュメールの地」と呼ばれるようになり、

シュメール人の呼称となったということです。

 

ところで、より北方のもう一方の地、ジェベル・ハムリーンを北限とする

地域は、古い文書が「アッカドの地」と呼んでいる土地があります。

「アッカド人」とはセム系の一部族の呼称で、おそらく知られているセム

人の中では、もっとも古い部類に属するが、彼らはこの「アッカドの地」

にやって来て居住したようです。

 

セムの人々の古い歴史がどのようなものであったのかは、知る術がないと

しながらも、ジャン・テロは、その源は、たぶん、遅く見積もっても紀元

前四千年紀以降に進行したと推測されるアラビア半島の砂漠化にさかのぼる

ことになるだろうと言います。彼らのうちの有力な一群は、今日のシリア、

ちょうど広大なシリア・アラビア砂漠の北の縁にあたる地域に出没するよう

になった。彼らは小型の家畜を飼育しており、放牧に適した土地を求めな

がら、半遊牧生活を送っていたが、歴史時代に入り紀元前三千年紀以降に

なると、メソポタミアの地の人々の豊かで進んだ生活に引きつけられた彼ら

の集団が、大小のグループを作ってこの地に浸透し始める。彼らはユーフ

ラテス川の流れに沿って移動し、この豊かな文明に多少とも征服されたり、

呑み込まれたりしながら、やがて定住するようになったと述べています。

 

なお、これらの人々が、我々が「アッカド人」と呼んでいる人々であるが、

『七人の賢者』の神話が示唆しているように、のちになってシュメール人

に学び、文明化したのだとしても、シュメール人の到来以前に、彼らが

この地に居住していた可能性さえ否定できないとも述べています。

 

そして、シュメール人とアッカド人は、おそらくは相互に、そして先着、

あるいは後着のほかの民族や文化とも混じり合いながら、この地において

敵対することなく共存した。我々の目から見て、シュメール人とアッカド

人の邂逅、接近、そして、ある程度の期間の共生状態こそが、独創的で

複合的な混合文化を誕生させた。それはまさに、この時期のものとしては

例外的ながら、文明という肩書を付すにふさわしい高い水準に達したもの

であり、こののち、およそ三千年にわたってメソポタミアの地で成長し

大きな力を発揮することになるものであったということです。

 

ただし、シュメール人は、メソポタミアに現れて以来、その先住の地に

残してきたはずの同族から新しい血族を迎え入れることがないまま、

次第に姿を隠し始め、ますます増えるセム系の人たちの中に否応なく

吸収されていったようです。

 

紀元前三千年紀以降、シュメール語が原則的に書き言葉として保持される

一方で、日用ではアッカド語が次第に取って代わり、やがて唯一通用する

話し言葉の地位を獲得することになります。しかしながら、その草創期から

シュメール人がメソポタミア文明のいたる所に残してきた消しようのない

刻印のなによりの証拠として、文人たちは常にシュメール語に忠実であり、

彼らはメソポタミア文化が終焉を迎えるおよそキリスト紀元年あたりまで

の間、日用では死語になっていたシュメール語を、古い時期の姿にある

程度準じた形で、神聖な文化手段として使用したということです。

 

このことから、まず我々の目につくことは、シュメール人の明らかな文化

的優位性であり、それは宗教の諸側面にも現れている。また、先にも触れた

『七人の賢者』の神話が、「海から来た人々」が「文明生活を構成するすべ

ての事柄を教えた」と述べていることは、彼らがまだ多少とも遊牧状態に

ととどまっていた粗野なアッカド人に何を教えたのかを実によく説明して

いるし、また、『ギルガメッシュ叙事詩』が語る当初「野生」の状態で

あったエンキドの文明化にしても、同様のことを示唆しているとジャン・

ボテロは述べています。

 

ミルチア・エリアーデも、『世界宗教史Ⅰ』所収の「メソポタミアの宗教」

の中で、シュメール語が紀元前二千年ころには話されなくなったのに、

以後十五世紀間、典礼言語と知識言語としては機能していたという事実に

注意を促すことは重要であるとしながら、シュメールの宗教的保守主義は、

アッカドの宗教的構造のなかに引き継がれたと述べています。

 

さて、シュメール、アッカドのあと、古代メソポタミアは、古バビロニア、

ヒッタイト、ミタンニ、カッシート、アッシリア、新バビロニア等と、国家

・民族の興亡が繰り返されますが、これらの諸民族はそれぞれ独自の神話

体系を持っており、実の三千を超える神々の名前が楔形文字によって残され

ていると言われています。

 

次回は、以上のような背景を踏まえながら、古代メソポタミアの宗教その

ものについて迫ってみたいと思います。


 
 
 
 
 
 
 
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真実の仏陀


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仏教下 



前回は、聖典における伝説の仏陀と歴史上の仏陀とのからみ合いを解き

ほぐしながら、仏陀とは本当はいかなる存在であったかについて見て

きましたが、今回は、より深く真実の仏陀というものに接近して
みたいと思います。

 

まず、仏陀の人格というものは、どういうものだったのでしょうか?

 

ヘルマン・ベックは、気品をそなえた柔和と慈愛こそは、この類いなき人物

のもっとも著しい特徴をなしている。もう一つの仏陀の本質的な特色は、

一種の冷静な自制心であって、これが仏教全体の特質である非人間的な感じ

を仏陀に与えていると述べています。

 

また、仏陀の人柄について、また仏陀に関係のある事柄についてのあらゆる

記事から見ると、仏陀はじつに、あらゆる俗世間の関心事や、あらゆる感覚

世界や、あらゆる低級な人間的な営みをまったく超越して、ひたすら霊的な

ものにおいて生活した人である、と見なければならないとしています。

 

そして、この霊的なもののみに集中された仏陀の強烈な内面生活から流れ

出たものが言葉の威力、無比の威力である、このような威力は、弟子たち

のこしらえごとにすぎないというようなものではなくて、仏陀の生涯の

事業の成果全体から見て、実際に仏陀にそなわっていたに違いないと

述べています。

 

たとえば、「不思議である、驚くべきことである。あたかも、曲がった

ものをまっすぐにするように、または、おおわれたものを開いてみせる

ように、または、迷っているものに道を示すように、または、闇の中に

灯明をともして眼のあるものにものを見せるように、まさにそのように、

聖者はさまざまの見地から真理を啓示してくださった。私は聖者と、教え

と、教団に帰依いたします」という、聖典にきまって記されている回心の

結び文句は、教化を受けたものが、師の言葉の威力による感銘を言いあら

わしたものであるが、この文句の意味は、さまざまの点からみて示唆する

ところが大きいと言います。

 

まず、第一に、その示すところは、仏陀の威力を催眠術のように濫用する

ことなどは決してせず、教化の相手に智慧の光明をあらわしてやり、智慧

によって感化することを欲したこと。第二に、この「智慧」は普通の認識

ではなくて、いっそう高く、いっそう内面的な智慧であり、この智慧は

あらゆる普通の思考と対立するものであって、通常意識のあらゆる表象

や先入見をほろぼすもの、であるとしています。

 

しかし、仏陀は何か理論とか、何か宗教的な、または哲学的な教理を聞き

手に教え込もうとしたのではなく、むしろ完全は回心、思考と感情との

全体の完全な一新を聞き手の心に引き起こそうとしたのであって、こう

いう方向において仏陀の言葉にそなわっていた独自の威力が、同時代の

人々には奇跡のように感じられたのだと言います。

 

たとえば、仏陀は、その認識と教説とを概念的=理論的=論理的形式に

当てはめた(十二因縁など)が、それは当時のインドの精神的発展のあり

方全体を考慮したものであり、「真理」とは、こまごました理屈にかかり

合う悟性とか、ただの哲学的思弁とかいうもので把握できるようなもの

ではないのであり、このことを仏陀はきわめてはっきりと、繰り返し明言

しているとしています。

 

つまり、仏陀は、教説や抽象的概念を教え込もうとしたのではなく、内面

的な心霊の変化をもたらし、思考と感情と意欲との全体を一新することを

めざしたということです。

 

仏陀が出現し活動した時期は、ヴェーダにはまだ多く残っているような

原初時代の形象的な思考と表象との様式が衰えて、概念的、抽象的、哲学

的思考がそれに代わった時代であって、仏教もまたその「真理」を新しい

思考形式にふさわしく表現しようと努めたといえます。しかし、仏陀は

そういう概念的な要素を説法の方法に採用したとはいえ、ただの物知り

ぶりを求めたのではなく、バラモンたちのやり方とは反対に、言葉を民衆

的に表現し、一般の人々が理解できるように語ることに意を用いたのです。

 

さて、ここまで仏陀が同時代の人々に与えた影響をその語った言葉に焦点

を当てて見てきましたが、ベックは、ただ仏陀の言葉の威力にのみ着目する

のでは一面的であるとして、もう一つ別の威力、つまり、沈黙の意義を

正しく把握することは、仏教全体を把握するためにきわめて重要だと

述べています。

 

仏陀の考えとしては、沈黙というものは、人間が所有し、または習得する

ことができる特質の中で、もっともすぐれたものの一つであり、仏陀自身

はこの技術の達人であったということです。仏陀は、沈黙は貴重で高尚な

ことである、それは積極的な意義を持っているというのです。

 

よって、仏教の概念や述語には、他のインドの諸学派、ことにサーンキャ派

やヨーガ派と共通するものも多いが、仏教とそれらの諸学派との相違点は、

仏陀が説いたことよりも、むしろ沈黙したことがらのほうが多いといいます。

 

仏陀が口を開くは、理論的欲求を満たすためでもなく、好奇心や知識欲を

満足させるためでない。仏陀はただ相手の内面的変化を起こさせることを

めざすのだということです。

 

かくして、仏陀を正しく理解するためにどうしても考えなければならない

ことは、現代人が考えるような動機ではないこと、かつまた、仏陀が見出

した智は、今日、「知識」とか「認識」とかという名で理解されている

あらゆるものとは、まったく質のことなるものであることなのだといい

ます。仏陀がその「教義」を説いたのは、一つの学派の賛同者をかり集め

るためではなくて、霊的な世界から授けられた超験的な義務であると信じた

一つの使命を人類のために果たすためであったというのです。

 

なお、仏陀の沈黙というと、看過できないものに、宇宙が永遠か非永遠か、

無限か有限か、というような超験的諸問題の質問、または、肉体と心霊と

の関係や死後の生命のようにいつの時代でも宗教的要求に密接な関係の

ある質問を受けたときの沈黙がありますが、これらは何を意味するので

しょうか?

 

これらの問いをしりぞけた仏陀は形而上学の問題に対してただ冷淡であった

にすぎないと推測し、こういう問題は仏陀にとって問題にならなかったと

推定するとすれば、この場合に理解が十分ではないとベックはいいます。

そして、仏陀が何を意図したかということについて、『中部経典』の

『マールンキャ小経』の比喩を引用しています。

 

あるとき、マールンキャプッタという僧が仏陀のところへ来た。彼は宇宙

が永遠か永遠でないか、無限か無限でないか、心霊が肉体と異なるか、

死後に存在するか、ということについて聖者が説明してくれないのを不満

に思っていた。彼は仏陀にせまって、これらの問いに肯定か否定かの答え

をしてくれるよう、もしくは「私は知らない」と答えてくれ、答えてさえ

くれれば、今までどおりに仏陀の弟子になっているが、もし答えられなけ

れば還俗するつもりであると言った。

 

これに対して、仏陀は、毒矢に当たった男の比喩で答えるのですが、その

答えは、俗世間の生活にとらわれ、俗的な苦悩や生存欲から抜け出すこと

のできない人間は、毒矢に当たった男と同じで、何をおいてもまず矢を

抜いてやらなければならない。そして、矢を抜いて傷の手当てをすると

いう実際の行動が大切なのであって、矢のありさまや出所、または射た者

の名や種族や素性の詮索などはどうでもよいというのです。

 

つまり、仏陀が出現したのは、理論的、哲学的な問いに答えるためでは

なく、傷つき苦悩している人類を救うためであるということです。

 

よって、「神」、または、形態や名称はどうであれ、最高原理についても

仏陀は沈黙を守ったのです。

 

仏陀は、最高の神的なもの、または霊的なものをあからさまに否定は

しなかった。それを否定することも、それを積極的に肯定することと

同じく、仏陀の意志ではなかったのであり、他の宗教では、最高の神的

=霊的なものについてさまざまに説かれるが、それは仏陀にあっては

沈黙なのであったということです。

 

ところで、仏陀の真実を知るヒントとして、水波一郎氏の著書「神体

-偉大なる魂の生涯-」の中では、次のように述べられています。

 

<歴史はインドに、あるキリスト(固有名詞ではなく、偉大な神人の称号)

を誕生させた。その魂は今、高級霊界で『シャカ』と呼ばれる仏陀である。

シャカは真理を説くために自らを犠牲にした。自己を落とすことにより

世界を照らそうとしたのである。それは仏教ではなく真実の道であった。

 

シャカが十五歳の時、一人の女性が彼を見て言った。「私が前に信じた先生

に似ている。」そして、彼が三十歳になった時、その女性はこう言った。

「貴方はなぜ神を知らないと言うのです。貴方の教えは間違っています。

貴方は嘘をついています。私は貴方を知っています。ある時、貴方が私の

夢の中で確かにおっしゃいました。『私は神である。』と。

 

そして、こうも言われました。『私はあなた方に本当の神を教えるために

降りて来た。しかし、人々は受け入れない。私は真実を説くことはない

だろう。しかし、貴方にだけは教える。別の神が地上に降りた時、私は

別の世界から人々を導こうとするだろう。』こう言われて貴方は消えました。

私にだけは話してください。貴方の本当の教えを。」

 

その時、シャカは答えた。「それは私ではない。私は人間だ。私は人間と

して真実の道を説いている。私は神を知らない。私は人間であるから

奇跡を知らない。神を求めるなら自分で見つけなさい。私は神を示すため

ではなく、人間を示すために来たのである。

 

この国は貧しい人が多い。飢えた人達にとって、本当の道は神を知ること

ではない。それはただ依存者を増やすだけである。およそ人間は神を

知ることなどできない。至上の存在は、魂にとって、法則そのものとも

言い得るからだ。人間は神より先に法則を知らねばならない。より大切で、

より身近な法則、それを知ることがこの国における人間の道である。私は

神を知らない。だから神を説かない。そして神に祈らない。私は人間を語る

のみである。貴方に伝える。人間にとって神は私ではなく、『法』である。

 

彼女は不満げに立ち去った。しかし、シャカは彼女に満足であった。彼女が

シャカに神を見たからである。>

 

ここからも、仏陀は真実を語ることができず、多くは沈黙守らざるを得な

かったこと、そして、語るにしても、その時代の差し迫った課題のみに

限らざるをえなかったということが伺われるように思います。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
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伝説の仏陀・歴史上の仏陀


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仏教上



今回は、ヘルマン・ベックの『仏教』(上)に依拠しながら、西洋の仏教

学者から見て仏陀とはいかなる存在であったかを考えてみたいと思います。

 

訳者の渡辺照宏氏によると、19世紀末ごろのヨーロッパでは、相反する

二つの観点から仏教が注目されたということです。

 

その一つは、実証主義的な解釈で、仏教は奇跡や超自然を含まぬ合理的な

無神論であるから、近代にふさわしい代用宗教になると考えられたのです。

 

しかし、仏教はキリスト教とは異なり、たしかに天地の創造主としての神

の存在を認めず、処女懐胎やキリスト復活ごとき奇跡を必要としないの

ですが、いわゆる無神論や唯物論などと同列に立つものでもなく、合理主義

や実証主義で満足するものではありません。

 

仏教の近代的解釈のもう一つの方向は、神智学によって代表されるものです。

この語は、もともと神性を人間において実現することを目的とする宗教活動

を指し、古くは、新プラトン学派、のちにはヤコブ・ベーメなどもその範疇

に入ると言われているようですが、ここで問題とされるのは1875年に

ブラヴァッキー夫人たちが創設した「神智学協会」を指します。これは、

瞑想などの霊的体験に心霊研究を加味し、古くからの秘教的伝統を根拠と

するものですが、インド的な輪廻やカルマの思想を説き、バラモン教や

仏教における瞑想方法を採用し、知識人の間で大きな反響を呼んだという

ものです。

 

渡辺氏は、これらの動きはインドの宗教への関心を呼び起こしたという点で

無意味ではなかったが、ややもすれば常道を逸し、仏教を誤って紹介したと

いうそしりは免れないとしています。

 

これらに対してベックは、本書で、「仏教は西洋でいうような無神論でも

なく、また、ただの哲学的合理主義でもない。仏教はその本質において

哲学とはまったく異なったものであって、近代の唯物論とはまったく関係

のないものである」と断定すると同時に「ほんとうの仏教は近代の神智学

とは同じでもない。いくらか接触する点があるとしても本質上べつのもの

である」と言ってこの運動に対しても一線を画しています。(なお、神智学

協会から脱退したシュタイナーが人智学協会を設立しますが、ベックは、

のちに、リッテルマイヤーによって、シュタイナーの思想をキリスト者

として実践する目的をもって結成された「キリスト者共同体」という宗教

団体の聖職者になっています。)

 

ベックは、このように、仏教の合理主義的解釈に組みせず、かつ神智学と

も一線を画したが、そうかといって仏教を客観的に冷静に分析し解説する

ことに満足したわけではないようです。

 

さて、それでは、伝説上の仏陀、歴史上の仏陀について具体的にどう述べ

ているかを見てきたいと思います。

 

まず、ベックは『ラリタ・ヴィストラ』、『マハーパリニッパーナ・スッタ

(涅槃経)などの経典に依拠して仏陀の生涯の物語について述べたあと、

これらは、現代、歴史的記述と言われるものとはわけが違うということは

わかりきっていることだとしながら、それらには歴史らしいものが、いつも

伝説的なものとからみあっているが、学的研究はさまざまな誤りを犯して

きたと述べています。

 

その中で、フランスの仏教学者スナールは、仏陀の物語は、「実在の人物

では無く太陽を神格化したものであり、太陽信仰の象徴である」という

太陽説を唱えたが、ベックは、伝説がわれわれの直観に訴えるものは、

雰囲気的または天文的な出来事ではなく、霊的な出来事なのであって、

伝説は、仏陀の内面的霊的発展過程を、それが形象として仏教の賢者の

霊眼に映ずるままに物語るのであるとしています。

 

しかし、これらの形象が色々な点で太陽神話の考えと関係があり、かつ

また、古くヴェーダ時代から、さらにそれ以前の本源的時代にまでもさか

のぼる宇宙的=神話的、および宇宙的=神秘的な考えとも関係があること

は否定できないのであり、これらの学説の誤りは、霊的に理解すべきもの

を唯物主義的に外面化したことであると述べています。

 

また、伝説書には、仏陀が実在の人物であり、シャーキャ族の人であると

述べられているが、それが事実であることが後の出土品によって明らかに

されことからしても、上記の『ラリタ・ヴィストラ』、『マハーパリニッパ

ーナ・スッタ』などの経典は、いずれも単なる空想や単なる神秘のみを

内容とするのではなく、常に外面の事実と結びついているのであって、

物語作者が霊的な出来事を形象として述べる場合にも同じことが言える

としています。

 

しかし、一々の点になると、神話的=神秘的=伝説的なものと歴史的な

ものとを区別することは困難でもあり、不可能でもあることが多いと

言います。が、証明されないからというだけで、否定されたとみなす

ことは、証明されないことを軽々しく承認することと同様に非学術的で

あろうと述べています。

 

さて、仏陀がシャーキャ族の出身であることは確かであるとして、その

誕生の年代は有力な説にしたがって紀元前6世紀の中頃であるとして、

生まれ故郷の名はカピラヴァストであったのでしょうか?

 

ベックは、歴史的事実と見てよいと言います。なぜなら、仏陀の教義には

サーンキャ哲学の述語と似た点があるから、後世になってサーンキャ哲学

の開祖と言われるカピラにちなんで仏陀の故郷の都の名をこしらえたのだ、

などと言うべきではなく、むしろ、カピラヴァストゥという名が示すよう

に、仏陀の故郷の都にサーンキャ哲学が行われていたからこそ、仏陀はこの

学派の述語を自分の教えの中に取り入れたのである、と言ったほうがよい

だろうと述べています。

 

また、仏陀の父の名がシュッドーダナ(浄飯王)であるという言い伝えに

ついて、さまざまな異論があるが、仏陀の父の名を言えば、いつもラージ

ャーという称号が結びついているのであるから、やはり、小さい、国土の

富んだ君主と考えなければなるまいとしています。

 

むしろ、批判的研究であまり問題にされていない母である妃マーヤーの名の

ほうに問題があるのではなかろうかと言います。ただし、われわれには確か

なことはわからないのであるから、マーヤーという名であったかも知れない

し、かつまた、実際に、意味深長な名が都合よい場合に出てくるのかも知れ

ない、と言わねばなるまいと述べています。(マーヤーとは、幻術、幻影を

意味し、また、神秘的で女性的な創造原理とも考えられた)

 

なお、その子を生んでから間もなく母が逝去したという記述は、伝説の中で

確実と思われることの一つであるとしています。仏教ではこの話を一般化し、

すべての仏陀の母は誕生後七日に逝去して天界に昇るというが、むしろ、

実際の出来事が契機となって、こういう教理ができたのだというのです。

 

さて、ベックは、仏陀の青年時代の物語は、大体において伝説的な特徴が

著しいが、物語作者が特に幼年時代の体験に超感覚的なものを強く打ち

出している点には深い意味があるに違いないと言います。

 

たとえば、ジャンブ樹の下の体験、自然の静寂の中に幼児が瞑想している、

そこへ空中を飛んできた仙人たちが瞑想の力のために釘づけになる、神々

の声が聞こえる等、これらによって示されるものは、外界の出来事とは

まったく別の領域、すなわち、超感覚的なもの、瞑想、ヨーガの領域で

あって、ここに仏教を理解するために大変重要な鍵があると述べています。

 

まさに青春時代よりも前から瞑想の素質があらわれているのであって、

この素質は仏陀の生涯に重要な役割をもったとしています。

 

このことは、このような外面的な歴史の領域から遠く隔たっているところ

にこそ、内面的な真実が含まれているのであって、「伝説」とは本来どう

いうものであるか、どのように読み、どのように理解しなければならない

か、ということを学ぶために恰好の例であると述べています。

 

もっとも、結婚に先立つゴーパーとの最初の対面や、それに続く競技の物語

の全体は、詩としては伝説のうちの一つの最高潮であるが、歴史的事実から

は特に遠いとしています。

 

また、仏陀の結婚については、ラーフラという息子が歴史上の人物として

存在することからも、肯定的にとらえるとしながら、物語に登場する妃の

存在については、経典によって名前が異なることから、本来の歴史的な事実

からは遠いことは明らかであると述べています。

 

ともかく、仏陀が遁世する前に俗世の幸福を味わい、何不自由なく生活して

いたということは事実であると思われるとしています。

 

さて、それでは、出家し、そして厳しい苦行(厳しい修行)を行ったという

物語はどうでしょうか?

 

まず、出家については、細かい点を別にして、宗教のために家を出ること

は、インドとしては珍しい生き方ではなく、当時、多くの人がしたことで

あり、そして、苦行をしたこともインドのような霊的修行者の社会では普通

なことで、ありそうなことであったということです。

 

なお、仏陀は一面的で外面的な苦行を不十分なものと考え、これをやめたと

いうことも、これは後に仏陀が説いた教えと一致し、この点において、他の

インド諸派の思想や低級なヨーガと異なるとしています。

 

その後、伝説は最高潮に達し、菩薩がナイランジャナー河のほとり、ウル

ビルヴァーで、聖なる夜に、聖なる無花果樹の下で悟りを開き、仏陀に

なったという有名な物語が登場しますが、これについては、歴史的に確証

はされないにしても、内面的根拠から見て、この物語の根底には一種の

事実が存在するといわなければならないとベックは述べています。

 

この最高潮の一章で伝説が物語る内容は、怪奇的=戦慄的に描かれている

マーラとの闘いをはじめ、超感覚的で霊的な出来事にのみに関係している

のであって、外面的概念では表現できず瞑想によってのみとらえることが

できる仏教の本来の秘教を一種の偉大な象徴の形で示してくれるとして

います。

 

なお、仏陀が、その見出した智慧を世に広めると決心するまでに、苦慮

しなければならなかったということは、西洋人には理解しがたいかも

しれないが、「仏陀の智慧」というものは、内面的な性質を持つもので

あるから、この問題がいささかでもわかる者から見れば、新たに見出し

た霊的な智慧を公衆に伝えて誤解や曲解の危険を犯し、それを冒涜する

ことを願うよりも、沈黙する意志を選ぶ法が、心理的に当然のことと

いえるに違いないと述べています。

 

ところで、ベックは、事実か、物語・伝説か、という問題よりも、われ

われにとってもっと重要なのは、その説法そのものが、今日まで伝えら

れているような言葉で、仏陀の口から述べられたのかどうか、という問題

であるとして、そのことに言及しています。

 

言うまでもなく、仏陀の言葉のうえに、多くのことが数世紀の間に付け加え

られたとしています。失われたものもたいそう多かったが、拡大され、変形

され、歪められることも多かったし、さまざまな誤った資料が伝承の中に

入り込んだ。しかし、そうかといって、これらの聖典において仏陀自身の

言葉としてあるものがすべて、後世の発明にすぎない、と見なすことも

また無理であろうと言います。

 

伝承の中には、さまざまな源泉からきたいろいろなものが合流しているに

は違いないが、しかし、この多様性の中にも一つの核心が目だっているの

であって、この核心がひとりの、一定の統一がある、すぐれた人物の面影

を伝えていることは明らかであるというのです。

 

つまり、仏教の文献、ことにパーリ語聖典にはそのすぐれた人物の息吹き

というようなものが到るところに感ぜられるが、それは、ただ一般的に思想

が偉大であるというだけでなく、そこにはあるものが存していて、それが

一々の言葉のひびきにはっきり認められる、そのなかでも特に著しいのは、

きわめて独特な韻律の流れであるとしています。

 

かくして、パーリ語聖典などに対してこのような生命を吹き込むような影響

を与えたのは、キリスト教のパウロのような弟子や後継者は、仏教では想定

できないとすると、その人物とはまさに仏陀その人であったと考えるほかは

ないと述べています。

 

さて、では、仏陀とは人間としていかなる存在であったか、宗教的指導者

としてはどうであったかということですが、それは次回に考えてみたいと

思います。

 









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