「生と死の北欧神話」


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生と死の北欧神話   


今回は、オーディン(オージン)、トール、ヴァルキューレ、ロキ、

ヘル、等々、断片的ではあるが、けっこう耳にする神々や巨人族などが

登場する北欧神話とは、一体、どういうものなのか、を追ってみたい

と思います。

 

さて、北欧神話とは、水野知昭氏の『生と死の北欧神話』によると、

870年-930年にノルウェーからの植民者によってアイスランドに

持ち込まれ、彼らの子孫によって口承で伝えられ、その後、古アイス

ランド語(あるいは彼らの故地で運用されていた古ノルド語)で文字

表記されたものを指すようです。

 

もっとも、アイスランドが全島集会においてキリスト教を受け入れたのは、

西暦1000年頃であり、神話的な資料がそのまま古い信仰を映し出して

いるとは言い難く、近年の研究によればラテンや部分的にはギリシャの

古典文芸の影響も無視できないとされているようです。

 

なお、水野氏知昭は、北欧神話のなかに認められる思考パターンや世界観

は、直接的な資料として存在しないゲルマン神話を部分的に反映している

可能性があるが、昨今の我が国における「ゲルマン神話」の概説書にある

ように、決して両者を同一視してはいけないと述べています。

 

 

さて、北欧神話の根幹をなすものとして二つの「エッダ」というものが

あります。

 

一つは、『詩のエッダ』で、13世紀頃の王室写本に保存された29篇、

および他の写本に収められた数篇の詩歌の総称です。いずれも作者不明で、

多くはノルウェーで創作され、詠じられていたとされるが、詩歌の題材

よっては、大陸(ゲルマニア)もしくはデンマークに起源を求めるべき

ものもあり、数百年の口承の伝統を背景にして成立したことをうかがわせる

ということです。

 

基本的には、ノルウェーからの植民によってアイスランドにもたらされたが、

詩歌の伝統が長らく保持されたアイスランドにおいて、なかには独自に創作

された詩歌もあるとされています。扱う題材によって神話詩と英雄詩に

大別されるが、これは便宜的な区分であって、必ずしも区分は明確では

ないようです。

 

『詩のエッダ』のなかでも創作年代が古い(9世紀末~10世紀初め)

される「巫女の予言」においては、巫女は、神々による天地創成をはじめ

として、過去の古きことにさかのぼりながらも、そこから引き出される

未来の、起こるべきことを予見し、光の神バルドル殺害の事件と神々の

没落、そして新世界の再生までを、「幻視の体験」として語りだすのです

が、それは、まさに「創造と破壊」、「生と死と再生」が基本テーマに

なっているということです。

 

もう一つは、『散文のエッダ』と言われるものです。これはアイスランド

の有名な学者であるスノリ・ストルルソンが作者とされ、別称『スノリ

のエッダ』とも呼ばれています。

 

これは、1220年代の前半に書かれたもので、北欧神話を語りながら、

詩語の用法や韻律を解説したもので、若い詩人や詩を習熟したい人の

ための教科書の形態をとっているようです。

 

その構成は、(1)「序言」(2)「ギュルヴィの幻惑」(3)「詩語法」

(4)「韻律一覧」の四部から成り立っていますが、(1)と(2)に

論点をしぼって語りの特徴をいうと次のようになります。

 

まず、(1)「序言」は、全能なる神によって天地が創造され、アダムと

イヴから人類が始まったと説き、ノアの箱舟の記述もあって、キリスト教

の色彩の濃いことから、別の作者によって後代に付加されたとも考えられ

ているが、世界はアフリカとヨーロッパとアジアの三つに領域からなると

され、このうちアジアが世界の中心に位置し、美と光輝と富に満ちあふれ、

そこに住む人々も知恵と強さと美しさとあらゆる技量に恵まれていると

されます。

 

とりわけ、トロイアは、いかなる点においても優れ、ムノンあるいはメン

ノンという王が12の王国を支配したとされるが、そのムノンから数えて

20代目がオーディン(オージン)であり、彼には予言の才があって、その

叡智によって自分の名声が世界の北の地域において確立されることを悟った。

 

そこで、一族郎党を率いて北に向けて移住を開始する。かくして東サク

ソニー、レイズゴタランド(現ユトランド)、デンマークを経て、スヴィー

ショーズ(現スウ―デン)に至ったというのです。

 

そして、スウ―デンの王ギュルヴィは、自分の王国においてオーディン

に望むだけの権限を与えたという。つまり、土着の王が進出者にみずから

進んで統治権を移譲したかのような記述になっているようなのです。

 

また、オーディンはシグト―ナに都を定め、トロイアと同じ方式で12

の統率者を配し、すべてトロイアと同じ法を制定した、と述べられている

ようです。

 

水野知昭氏によると、「序言」には神を神格化された人間とみなす「エウ

ヘメリズム」と外来の王にまつわる「移住神話」、および比較的平和な

「国譲り」という三つの特色が認められるということです。

 

オーディンが古代トロイア王国の出身であるということは、そのまま信じ

る必要はないが、北欧に外来神の信仰があったことは認めることができる

としています。

 

また、「国譲り」というのは、古事記において高天原からタケミカヅチの

神が出雲に降臨したとき、先住のオホクニヌシの神がさしたる抵抗もなく

「葦原の中つ国」を天神に献上したこととの類似性を指すとしています。

 

さて、(2)「ギュルヴィの幻惑」は、ケヴンという名の旅する女性が

ギュルヴィ王を訪れ、ある「娯楽」を提供した報酬として、土地を譲り

受ける約束を得たところから話が始まります。

 

そのとき王は「四頭の牛が一昼夜のうちに牽くことのできる分の耕作地」

をケヴンに与えることを約束したのだが、時を経て、ケヴンは巨人と

の間にもうけた四頭の牛を一つの犂(からすき)につなぎ、さる土地の

一画を猛烈な勢いで深々と牽引させます。

 

こうして、ある海峡で牛が動きを止めたとき、ケヴンはそこに土地を

確定し、名前を与えて、セルンド(現デンマークのシュラン島)と呼び

ならわした。一方、ごっそりと地面が削り取られた跡には、ロクル湖

(現スウ―デンのストックホルム周辺のメーラル湖)ができたという

ことです。

 

しかし、奪われた土地の跡に大きな湖ができ、その北岸を進入者の王に

譲り渡したで語りが終わってしまってはスウ―デン側からすれば収まり

がつかないはずです。

 

よって、失地王となりはてたギュルヴィは、アース神族(ケヴンはアー

ス神族のひとりとされる)の超自然的な力に感服し、こんどはその叡智の

よって来たれる秘密を探るために、老人の姿に身をやつし、ガングレリと

名乗ってアースガルズをめざして旅立ちます。

 

ギュルヴィの旅のことを予見した神々は、彼に「幻惑の魔術」をかけ、

幻の館において王と3人の神々との間で問答が繰り広げられていきます。

ギュルヴィ王を歓待し、彼の質問につぎつぎと解答を与えてゆく3人は、

ハール、ヤヴンハール、そしてスリジという名前であるが、それは

すべてオーディンの別名でもあるのです。

 

その問答のなかでギュルヴィは、原初の混沌から宇宙創成にいたるまでの

プロセス、そして世界を支配した神々など、さまざまな話を聞き出して

いるのですが、その語りのなかには、人間の創成、神界の構成、こびと

族の発生、世界樹と運命の泉、妖精族の特徴、オーディンを主宰神と

する神々の特性、ロキの一族、神界を中心に発生した銘記すべき出来事、

あるいはソール神とロキの旅、ミズガルス蛇を釣り上げる話、そして

バルドル殺害の事件など、その他もろもろの神話的情報が含まれていて、

最後にラグナロクと称する「神々の滅びゆく定め」と世界没落、そして

世界の新生にいたるまでの語りを聞かされるという構成になっていると

いうことです。

 

水野知昭氏は、「古代の叡智ともいうべき神話が、ここではひとりの世俗的

な王の幻術体験という「枠組み」の内部に封入されている。いわば、強大

な一幅の絵画の「額縁」のなかにはめ込まれたものは、神話的な物語の

全体像を示唆しながらも、実はその一部抜粋でしかないのである。この

ような構成は「神話作者」スノリ・ストルルソンにとって、資料を取捨

選択する上できわめて好都合な方式であったと言えるであろう」と述べて

います。

 

かくして、つぎつぎと問答が展開されてゆき、最終的にギュルヴィは、

その「幻惑の詐術」から覚醒し、野原で幻惑のなかで見たり聞いたり

したことを人々に語って聞かせたということです。

 

しかし、これは質問者であるギュルヴィが3人の回答者たちから、まさに

に知恵(神話的情報)を収奪していったことを意味することになり、ギュ

ルヴィが自分に幻術をかけた者たちを結果的には出し抜いたと言えます。

 

さて、こうなると「幻惑の陥穽」にはめたれたのは一体どちらの側なのか

がわからなくなります。

 

結局、双方とも相手を惑わしているのですが、このややこしい幻惑の枠組

み構造について、水野知昭氏は「このように「幻惑とだまし」が交錯した

「枠組みの構造」は、13世紀当時のキリスト教が支配的な社会において、

その外なる世界から異教の信仰を守る難攻不落の要塞の役割を果たしたに

違いない。なぜならば、はるか昔の、アイスランドから遠く離れたスウ

―デンのギュルヴィ王の「幻惑の見聞録」という体裁を取っているかぎり

は、キリスト教の価値観に照らした、いかなる非難、中傷も受ける謂れが

ないはずだからである。」と述べています。

 

なお、詳しく述べませんが、このような『スノリのエッダ』や『詩のエッダ』

とは異なるもう一つの北欧神話を描く体系として『サガ』というものがあり

ます。「サガ」とは「物語、語り」を意味することばですが、大きく分ける

と四つに分類され、北欧神話をより深く読むための資料となっています。

 

以上、北欧神話を理解するためのバックグラウンドをざっと見てきましたが、

次回からは、神々による世界の創成から、神々の戦い、そして神々の没落に

いたる北欧神話の神髄を紹介していきたいと思います。



 
 
 
 
 
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ヨブの問いと神の答え-「ヨブ記」4-


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ヨブは、二回目の独白(29章)で、身の潔白を主張しながら、次の

ように神に訴えます。

 

<どうか、わたしの言うことを聞いてください。

 見よ、わたしはここに署名する。

 全能者[シャッダイ]よ、答えてください。>

 

そして、いよいよ神の弁論が始まるのですが、なぜか、その間にエリフと

いう新しい人物の弁論がはさまっています。エリフは、3人の友人の批判

を生ぬるいと考え、ヨブに対してより厳しい批判を浴びせます。

 

エリフの主張は、基本的に、他の友人と同様の賞罰応報主義であるが、

あえてその特色はというと、神からの霊感による知識、いわゆる霊的直観

を強調していて、まず、「高ぶり」、つまり、高慢への警戒を主張している

こと、そして、苦難は苦難それ自身の中に救済的意義を持つ、つまり、

苦難をもって神が人間を鍛錬し、浄化する方法であると見ていること、

さらに、神とヨブの間の仲立ちについて言及し、両者の間のとりなしを

なす者の必要が語られていること、などがあげられるようです。

 

しかし、浅野順一氏は、著書『ヨブ記』のなかで、苦難に対するこのような

見方はヨブの問題を根本的に解決する力にはならない。なぜなら、鍛錬とは

弱い者を強くすることであり、浄化とは汚れた者を清くすることであって、

人間本質の根本的な改造とは言えない。鍛錬、浄化は厳密にいって倫理問題

であっても、未だ人間の原罪が究極的に突きつめられていないがゆえに宗教

問題ではない、と述べています。

 

そして、浅野氏は、「エルフの説教はヨブ記が一応構成された後にここに

挿入されたという見方が多い。」「その文体においても他の意部分に比して

迫力が足りず、文学としてやや見劣りがするということは認めざるを

得まい。それゆえ31章の末尾からエリフの説教を飛ばして、あらしの

中からのヨブに対する神の激しい呼びかけ(38章以下)を読むことが

妥当であるかとも思われる」としています。

 

また、佐々木勝彦氏は、『理由もなく』のなかで、37章までの語り手は、

もちろんエリフ、そして38章からの語り手はヤハウェであるが、とも

すると「エリフの弁論」のイメージを引きずりながら、「主なる神の言葉」

を読んでしまう危険性がある。よって、読者としては、「エリフの弁論」

は無用のものとさえ思われる。もしかすると、後の人が、31章から

38章へのスムーズな流れを断ち切ろうとして、無理に入れ込んだの

かもしれない、と述べています。

 

それはともかくとして、第二回目のヨブの独白に対して、嵐の中から

「ヤハウェ」が突如として語り始めます。

 

<これは何者か。

 知識もないのに、言葉を重ねて

 神の経綸を暗くするとは。

 男らしく、腰に帯をせよ。

 わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。>

 

3章において「ヨブの独白」が開始されて以来、その後の3人の友人との

対話を経て、第二回目の「ヨブの独白」を通じて、あれほど求めていた

「ヤハウェ」の応答がついに起こったのです。

 

3人の友人たちとあまりかみ合わない議論を繰り返しながら、ヨブの出した

答えは、結局、「彼らはわかっていない」ということでした。何がわかって

いないかというと、ヨブが受けた苦しみの「わけ」です。なぜ、あのように

苦しまなければならないのか、その理由をヨブは教えてほしかったのです。

 

ヨブから見ると、友人たちの答えは、常識的な自業自得の論理でしかなく、

とても受け入れがたいものでした。彼には、自分が受けた苦しみの原因と

なるほどの「罪」が思い当たらなかったからです。

 

しかし、3人の友人たちから見ると、ヨブの態度は人間の限界を忘れた

不遜なものでしかなく、彼らに説明はやがてヨブに対する批判になり、

その鋭さはますますエスカレートしていくのですが、失望したヨブは

その超越的な神ご自身が語ってくださることを待ち望んでいたのです。

 

ところが、待ちに待ってようやく聞いた言葉は、上記の言葉と、それに

続き、この世が造られたとき、お前はどこにいたのか、という問いかけ

でした。しかし、それは神ならぬヨブに答えられるはずもない問いです。

それは、ヨブが提起した「苦難と正義」の問題と一体どういう関係が

あるのでしょうか?

 

その後の話も同様に、宇宙の不思議や動物界の不思議を列挙しているだけ

で、読者は、一体どう理解したらいいのかと困惑してしまいます。

 

佐々木勝彦氏は、ヨブと友人たちの議論がほとんど噛み合っていなかった

ように、ヨブの問いと神の答えも噛み合っていない。『ヨブ記』の作者は

何を期待しているのか。「視点を変えよ」と言っているのか、あるいは

「あとは自分で考えよ」と突き放しているのか、なんともはぐらかされた

ような気分になる、としながら、関根正雄氏の見解(『ヨブ記』註解)を

紹介しています。

 

関根氏は、そこには四つの意味が隠されていると言います。一つは、神の

答えの中心には、創られた世界に対する神の偉大な肯定があり、神の創造

された世界に対する神の喜びが38章以下の答えの中にあふれていて、

創造者たる神のヨブへの深い愛が看取される。ヨブは生きることを許され

たのであり、神はヨブの死を欲しない。彼が悔い改めて新たに生きること

を欲したもう、ということ。

 

二つ目は、ヨブの中心問題を問題にしない所に、かえってヨブの中心問題

への最もよい答えがある。ヨブの苦難は、自己に執着する、否、執着せざる

をえないヨブから見ればこそ問題の中心である。しかし、それは、ヨブが

あくまで自己を中心にするということと不可分離である、ということ。

 

三つ目は、神の自由なる恵みは、神の側から人の方向に向いてくださった

ということにつきる。キリストにあって最後決定的に起こったこの神の

恵みの出来事がヨブ記において、その具体的なヨブの問題の中で、38

章以下で起こっている、ということ。

 

四つ目は、この箇所は神の世界支配の正しい秩序と、それにもかかわらず

それが神の支配であるがゆえに、最後のところ、人間の理解を越えること

の指摘である。このことが間接にヨブの苦難の問題への正しい解決を含む。

われわれを囲む多くの人生の不可解な問題に対する正しい解決も、われわれ

の思いを越える神の世界支配の秩序への信仰による以外にないだろう、と

 

いうこと。

 

また、浅野順一氏は神の呼びかけについて『ヨブ記-その今日への意義-』

の中で、「創世記」3章を引きながら、内的関係が深いとして、次のよう

に述べています。

 

「人間の苦悩ということは人間の責任なのか、或いはまた神の責任なのか」

「アダム、エバは殆ど不可抗力ともいうべき蛇の誘惑に敗れ、そこから

彼らの不幸が生まれた。」「神は何故、蛇をして彼らを誘惑せしめたのか、

もしそうでなければ彼らは堕落せず、エデンにおいてなお幸福な生活を

続け得たであろう。それにもかかわらず、神は彼らに堕落の責任を問うて

いる。」

 

「最初の人間であるアダムとエバが神の命令としての律法を背負った人間

であり、しかもそれを負い切れなかったということに我々の注目が向け

られるべきであろう。」

 

 

「しかしこのような矛盾にこそ人間が人間であり、動物や、機械とは異なる

存在である理由があると思われる。人間が肉であると共に霊であり、否、

霊肉一体の存在であるという意味がそこにあるのではないか。人間の

偉大さはそこにある。」

 

さて、いよいよクライマックスになりますが、ヨブはこの神の言葉に

対してどう答えたのでしょうか?

 

<わたしは軽々しくものを申しました。

 どうしてあなたに反論などできましょう。

 わたしはこの口に手を置きます。>

 

と第一回目は沈黙を告げるのみですが、第二回目は、

 

<あなたは全能であり

 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、

 自分を退け、悔い改めます。>

 

この箇所について、先述の関根氏は、創造者なる神は全能の神であり、

ヨブもそのような神の全能の愛の対象であることを明らかにした。

その意味での神の全能と愛が自分にも向けられていることをヨブは知って、

神の全能を承認し、告白し、賛美したのが、<あなたは全能であり、

御旨の成就を妨げることはできないと悟りました>の意味であると

述べています。

 

それは教義として知ったのではなく、ヨブが血の出るような苦闘を通して、

ほんとうに自分のこととして知ったのであり、そのことが重要である。

ヨブは自己から解き放たれ、神の救いの中に入れられることによって

始めて真に神の全能と愛を賛美しえたのである、としています。

 

なお、「自分を退け、悔い改めます」と訳されている箇所について、

佐々木氏は、並木浩一氏の「それゆえ、わたしは退けます。また灰塵で

あることについて考え直します」という伝統的な「懺悔路線」ではない

解釈を紹介しています。

 

ヨブは灰塵の身でありながら、その自分に神が語りかけてくれたことに

より、新しい地平の開示を経験し、感謝と信頼のうちに、神の世界統治と

その中における自己の位置に関する認識が足りなかったことを反省して

いるのだそうです。

 

ここにはイメージの転換が見られます。それまでの生き方を「悔い改めて」

静かに生きるヨブというよりも、自らの被造性を意識し、神の前に立ち

つつ、自らの体験を思いのままにぶつけるヨブ、そして、新たな状況に

おいても、決して訴えることをやめないヨブと言うイメージです。

 

もっとも、佐々木氏は、このような「悔い改め」のイメージの打破は高く

評価されるべきとしながらも、読者の一人として、このような異なるヨブ

のイメージを「あれかこれか」ではなく、あえて、「あれもこれも」と

いう仕方で受け止めたいとしています。

 

わたしたちは、「静的」なヨブのイメージに感動するときもあれば、「動的

な」ヨブのイメージに魂をゆさぶられるときもあるのであり、この両者を

自らの可能性として受け止めるとき、わたしたちの生はさらに豊かになる

に違いないと言います。

 

なお、浅野順一氏は、先に紹介した著書で、ヨブの懺悔から何を学ぶのか

という問いに対し、それは、まず、ヨブが神の全知全能を新たに認めた

こと、つまり、神の創造と支配、それは人間として知り得る以上のこと

であり、不思議であり、神秘であり、奇跡であるということ、

 

次に、ヨブが懺悔している罪とは、道徳的、倫理的罪をいうのではなく、

自己の無知を知らない罪、つまり無知の無知、そこから生まれる知的傲慢

こそがそれであること、

 

さらに、これは神の言葉だ、命令だというものを間接に聞き、それをその

まま鵜呑みにしても、それは神の言、命令にならないのであり、直接に神の

命令を聞くことによって始めて神の言になるのだということ、

 

もう一つ、ヨブの懺悔が彼の自発的な意志というよりも、あらしの中から

の神の突如の呼びかけよったということ、であるとしながら、

 

この恵みともいうべき呼びかけによって神とヨブとの間に直接の対話が

始まるに至ったのであるが、そのことによって絶望のヨブに新しい世界が

開かれてきた。今日の時代は神との対話が欠如せる時代であり、それは

「神の蝕」と呼ばれている。この蝕の解消なくして現代文化の混乱は

根本的に救済されないのではないかと主張しています。

 
 
 






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ヨブと友人との対話-「ヨブ記」3-


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ヨブ記3 



3章からは、散文から詩の文体になり、ヨブと3人の友人の対話、という

より論争が始まるのですが、その前に、まずヨブの嘆き(独白)があり

ます。

 

<やがて、ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って言った。

わたしの生まれた日は消えうせよ、

男の子を身ごもったことを告げた夜も。

その日は闇となれ、

神が上から顧みることなく

光もこれを輝かすな。>

 

<なぜ、わたしは母の胎にいるうちに

死んでしまわなかったのか。

せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。>

 

<なぜ、わたしは、葬り去られた流産の子

光を見ない子とならなかったのか。>

 

ここでは、ヨブは、自分は生まれてきたということはそもそも間違いでは

なかったのか、そういう深刻な疑惑が起こり、「なぜ」という疑問が何度

も発せられています。

 

もっとも、このような痛ましい苦悩や疑惑は、それが大きい小さい、深い

浅い、の差はあっても、おそらく人間の一生の間に一度や二度、経験する

ことではあります。

 

前回紹介した『ヨブ記-その今日への意義-』の著者浅野順一氏は、ヨブ

記はただ苦難の歴史を歩んできたへブル人だけの苦しみを記しているので

はなく、人間である以上どこの国の者であっても、またいつの時代であって

も人間が生きていく、そのことに大きな問題があり、しばしば加重な苦難

を背負わねばならぬ、それは何故であるか、ということが普遍的な問題と

して、この書に問われているのだと述べています。

 

しかし、私たちの常識とは異なり、聖書の世界では自分の誕生を否定する

ことは、その創造者の行為を否定することに他ならず、ヨブはその原初

の出来事を否定することによって神の創造行為を否定しようとしている

ということなのです。

 

つまり、すべての生命、ことに人間の生命は神のものであり、神の許し

なくして人間は自己の生命といえどもそれを自由にすることができない

のです。

 

ヨブはその悲惨きわまる毎日の生活において心から死を願ったが、神は

それを許さず、かえって命を与え、光を賜ったのはなぜなのでしょうか?

 

ヨブは神に対して激しい抗議をしているのですが、浅野順一氏は、神への

真正面からの抗議なくしては、ヨブは最後において真の解決が与えられ

なかったと思われる、ヨブが生きる意義をまったく失ってしまったとき

にも、なお生きよ、という神の命令に従い、生の戦いを通して最後的な

解決を与えられたということは、はなはだ注目すべきことであると述べ

ています。

 

なお、佐々木勝彦氏は、「理由もなく-ヨブ記を問う-」のなかで、創造者

なる神は「語る」神である。聖書の信仰に生きる人間にとって、この応答

関係が破れてしまうこと、対話がなり立たないこと、これ以上恐ろしいこと

はない。現実の苦しみ中でこの問題にぶつかったのがヨブである。ヨブの

苦しみは二重になっていて、一つは、サタンによって仕組まれた数々の災い

であり、そして、もう一つの苦しみは、この苦しみと痛みを訴えるべき真の

相手、つまり、彼の創造者なる神が彼の問いに答えてくれないという体験だ

と述べています。

 

また、佐々木氏は、それにしても、ここに登場するヨブと前章までのヨブ

のギャップは大きすぎるとして、読者の驚きと混乱こそが作者の狙いであり、

作者は、明らかに私たちを非日常の世界へと誘おうとしているのだと言い

ます。

 

さて、四章に入ると、ヨブの激しい苦悩を見てじっと黙っていた3人の友人

たちが年長者から語り出します。彼らはいずれも、善には善、悪には悪と

いう賞罰応報主義に立って、ヨブの現状はヨブ自身の生き方の招いた

「結果」であり、これを受け入れ、悔い改めよ、と迫ります。

 

これに対しヨブは、それは事実無根だと反論し、彼らの対話、論争は延々

27章まで続くのですが、その対話、論争は大きく三つに分かれ、3人

(三回目は2人)の友人の弁論と、それぞれに対するヨブの弁論という形

でまとめられています。

 

とにかく、ヨブの立場と友人の立場はことごとく食い違うのです。それは

あたかも病人と健康者のごとしで、健康者には病についての理論はわかって

も、病人の感情を理解することは不可能であり、ヨブは友人に対し不平を

並べ、様々な抗議を申し立てるのです。

 

なお、佐々木氏は、そこでの対話、論争のテーマとして、「避けがたい現実

の苦しみを、どう受け止めればいいのか」、「人間の行為とその結果の間に

どのような関係があるのか」、「神は驚くべき仕方で世界を統治しておら

れるというが、そのことと私の痛みの間に、どのような関係があるのか」、

また、「人は神の前では清浄ではありえないというが、そのことと私の

苦しみの間に、どのような関係があるのか」といったものを挙げることが

できるとしています。

 

さて、ヨブが友人の言葉を拒否し、それに対して辛辣な反駁を加えるため、

次第に両者は論争的になっていきます。

 

先述の浅野順一氏は、ヨブ記にはいくつかの山もしくは峯があると思われる

が、その意味で、13章は一つの大きな峯であると思われるとしています。

 

<あなたがたの知っていることはわたしも知っている。

わたしはあなた方に劣らない。

しかし、わたしは全能者にものを言おう、

わたしは神と論ずることを望む。>

 

<今わたしの論ずることを聞くがよい。

わたしの口で言い争うことに耳を傾けるがよい。

あなたがたは神のために不義を言おうとするのか、

また彼のために偽りを述べるのか、>

 

<あなたがたがもしひそかにひいきするならば、

 彼(神)は必ずあなたがたを責められる。>

 

上記のように、この章には「論ずる」とか、「言い争う」とかという言葉

が出てくるが、これは、ヨブとその友人、ヨブと神との間に法廷論争が

戦わされていると見ることができると浅野氏はいいます。つまり、ヨブ

は神の不当な彼への処置について訴えており、友人は神を弁護している。

それゆえ、ヨブは原告、神は被告、友人は弁護者の関係になるというの

です。

 

しかし、彼の友人たちがいかに熱心に神を弁護しても、それは本当の弁護

になっているのでしょうか?

 

友人たちは善意であり、善意のかぎりを尽くして神を弁護しようとして

いるが、ヨブからすると真の弁護になっておらず、結局、彼らの言う

ところは不義であり、偽りだというのです。

 

また、「ひいきする」という言葉があるが、神においては人間からその

ようにされる必要はいささかもない。それはかえって神の神聖を汚し、

その威厳を傷つけることになるのではないかというのです。

 

以上のことは、人間が神に対し善意のかぎり、誠意のかぎりを尽くしつつ、

かえってそれが虚偽となり、偽善となる恐るべき場合のあることを示して

いるのだと浅野氏は述べています。

 

さて、浅野氏は、19章にもう一つの大きな峯があると言います。

 

<わたしを知る人々は全くわたしに疎遠になった。

わたしの親類および親しい友はわたしを見捨て、

わたしの家に宿る者はわたしを忘れ、

わたしのはしためはわたしを他人のように思い、

わたしは彼らの目に他国人となった。>

 

<わたしの息はわが妻にいとわれ、

わたしは同じ腹の子たちにきらわれる。>

 

<わが友よ、わたしを憐れめ、わたしを憐れめ

 神のみ手がわたしを打ったからである。>

 

以上のような弱気な言葉は、13章のように友人を厳しく批判し、また

激しく罵倒している彼の言葉とは到底思われないし、矛盾しているように

も見えます。しかし、そこにヨブの人間らしさ、彼のむき出しの人間が

よく表現されているのではないかと浅野氏は述べています。

 

そしてヨブは、この19章の後半において、二つのことを願っています。

 

<どうか、わたしの言葉が書きとめられるように、

どうか、わたしの言葉が書物に記されるように、

鉄の筆と鉛とをもって、

長く岩に刻みつけられるように。>

 

もう一つは、

<わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる。

後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、

わたしは肉を離れて神を見るであろう。

しかもわたしの味方として見るであろう。

わたしの見る者はこれ以外ものではない。

わたしの心はこれを望んでこがれる。>

 

さて、この二つ目の願いにおいて述べられている「贖(あがな)う者」と

は誰なのでしょうか?

 

浅野氏は、ここにいわれているあがなう者とは、ヨブの立場に立って彼の

義、その潔白を弁護する者の意であり、「仲裁者」、「証人」、「保証者」に

通ずると言います。よって、それは神であることを暗示しているとして

います。

 

しかし、ヨブの義の保証者となるべき神はさまざまな災いをもって彼を

激しく打つ神、すなわち怒りに神ではなく、ヨブの側に立って彼のために

とりなしをなすところの和らぎの神、彼を癒す神でなければならない。

ただし、それは複数の神々を指しているわけではなく、一人の神の二面の

働きと解することが妥当であろうと述べています。

 

なお、「肉を離れて神を見るであろう」という箇所は、伝統的に、来世に

おいて神を見る、ひいてはヨブの復活の生命を約束している言葉だと

されるが、浅野氏は、そうではないだろうと言います。

 

ヨブは、要するに、あがなう者は最後において必ずこの地上に立つときが

ある。そのとき、彼の義が明らかにされ、その義しさが証されるといって

いるのである。それはヨブがその病のためどんなに痩せさらばえ、骨と皮

の状態になり、死の一歩手前ということになっても、彼は必ず、彼自身の

目をもってあがないの神を見ることができるに違いない、しかも、それは

漠然とした期待ではなしに、あがなう者は必ず来るという確信をもって彼

の心はそれを望んで焦がれるのだ、としています。

 

さて、28章に入るそれまでのとげとげしい雰囲気とは打って変わって、

静かな世界が展開され、「知恵」を歌った詩が登場します。これはヨブ記が

一応構成されたのち、あるいは、後から挿入されたものではないかと疑われ

ていますが、一方、友人との激しい討論の後に、ヨブが一歩引いて自己批判

した結果ではないかと考える人もいるようです。

 

とにかく、「知恵の行方」を論ずる28章は、ヨブの苦難の隠された意味を

「知恵」によいって探ろうとするあらゆる試みに休止符を打つ役目を果たし

ていると佐々木勝彦氏は述べています。

 

つまり、わたしたちの思いを、被造物の世界から創造者の世界へ、いや、

創造者自身へと向ける重要な転換点になっているというのです。

 

さて、このあと、ヨブの独白、そしてエリフの演説(モノローグ)ののち、

いよいよ神との直接の対話、対決が始まるのですが、長くなりますので、

次回としたいと思います。

 


 

 

 
 
 
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ヨブの試練-「ヨブ記」2-


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理由もなく  
 
 
 今回以降は、ヨブが苦悩し、苦悩の果てに、どのようにして結論に至るか

を少し詳しく辿っていきたいと思いますが、まず、プロローグの部分

(1章、2章)に触れて、ヨブが遭う試練の厳しい内実とそれに対する

彼の立ち振る舞いを見ておきたいと思います。

 

ヨブは、最初に「ウヅの地にヨブという名の人があった」とあるように、

セム族ではあるがへブル人でも、ユダヤ人でもなかったのであるが、信仰

的にも道徳的にも非の打ち所のない人物であった。

 

ヨブは、男の子7人、女の子3人、彼と彼の妻を加えれば12人の、大変

幸福な家庭の父であった。また、彼は、とても裕福であり、多くの家畜を

有する遊牧者の首長であり、それはアブラハムのごとき存在であった。

 

とにかく、ヨブの一家は非常に裕福であったというばかりではなく、親子、

兄弟が仲良く、親密に暮らしていたということがイメージされるのです。

 

一方、天上では、神の子(天使)がヤーウェ(ヤハウェ、主)の前に

集まり、天上の会議が始められるのですが、そこにはサタンが加わって

いたとあります。

 

ただし、サタンとは、旧約においては悪魔と同一視されるものではなく、

それはあたかも検察官のごとく人間の弱点、欠陥、失敗に目をつけ、それ

を摘発し、暴露することをもって任務とするような、皮肉(シニカル)な

性質を持つ天使であるようです。

 

さて、ヤーウェは、天上の会議においてサタンに対し、「お前は、わが僕

ヨブのように全くかつ正しく神を恐れ、悪に遠ざかる者はこの地上にいない

ということに気がついたか」とヨブについて誇るのですが、サタンは「ヨブ

はいたずらに(いわれなくして)神を恐れましょうか」、つまり、神に求め

るところがあればこそ、敬虔な生活また道徳的な行為をするのではないで

しょうか、と答えます。

 

そして、サタンは「あなたがそんなにヨブをお賞めになるなら、一度あなた

の手を延ばし、彼の財産を撃って(触れて)ごらんなさい、そうすればヨブ

は必ずあなたに向かってあなたを呪うでしょう」、つまり、ヨブは神と

訣別するに違いない、と言います。

 

さて、ヤーウェがヨブの財産と家庭をサタンの手に渡すと第一、第二の

試練が襲います。砂漠の民シバ人、カルデア人が襲ってきてヨブの家畜を

奪い、また、僕たちを殺してしまいました。そしてさらに、大嵐がにわか

に吹き来たり、ヨブの子供たちの家は倒れ、彼らはその下敷きとなって

皆死んでしまいます。

 

残されたのはヨブとその妻のみとなりますが、そのとき、ヨブはいう、

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこ(母なる大地)に帰ろう。

主(ヤーウェ)が与え、主が取られたのだ。主のみ名をほむべきかな」と。

 

これが突如として襲いかかってきた厳しい試練に対するヨブの答えですが、

彼はこのとき、罪を犯さなかった。愚かなこと、味のない、深さのない、

不愉快なことを一切言わなかったのです。

 

浅野順一氏は、その著書「ヨブ記」では、ヨブは大きな不幸に出会い、

彼が幸福なときには見ることができなかったものを鮮やかに見た。ヨブが

厳しい試練の後に神を賛美した言葉は、宗教が地上の幸、不幸に逆比例

する、否、それを超越したところにあることを意味する非常に深い言葉で

あるといわなければならない、と述べています。

 

このように、財産を失い、家族を失うという第一、第二の試練に遭遇した

ヨブは、それに打ち勝ち、サタンに勝利したことになります。それは神の

勝利でもありました。

 

しかし、試練はそれだけでは終わりませんでした。再び神の子たちが

ヤーウェのもとに集まり、第二回の会議が開かれます。

 

ヤーウェは、サタンに「お前は、わたしを勧めて、ゆえなく(いたずらに)

彼(ヨブ)を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保っておのれを全うした」

と言いますが、サタンはそれに反論して、「皮には皮をもってします。人は

自分の命にためにその持っているすべてのものを与えます」「今あなたの

手を伸べてヨブの骨と肉を打って(触れて)ごらんなさい」と答えます。

 

ヨブの骨と肉を打つとは、彼の苦痛きわまる重病をさすのですが、神が

そのような苦痛を彼に与えるならば、彼はそれに耐え得ず、今度こそは

神を「呪う」すなわち、神に背を向け、訣別するであろうとサタンは

いうのです。

 

自己自身のためには他の一切を犠牲にすることを厭わないというような、

人間は骨の髄から自己本位、エゴイスティックな存在であるというのが

サタンの人間観であるということです。

 

さて、サタンは神からヨブを委せられ、そこから第三の試練が始まります。

サタンはヨブの生命にだけは触れぬようにと保留をつけられているのです

が、ヤーウェの前から出ていって、ヨブの足の裏から頭のてっぺんまで

ひどい皮膚病に罹らせたため、昼夜を分かたず苦しめられねばなりません

でした。「ヨブは陶器の破片を取り、それで身を掻き・・・」とあり、

その痒さや痛みのために肉体的にはもとより、精神的にもまったく疲れ

果ててしまったのでしょう。それを見て、彼の妻は「あなたは、なおも

堅く保って自分を全うするのですか。神を呪って死になさい」と言います。

 

この妻の言葉に対して、浅野順一氏は、それは直接にはヨブの妻の言葉と

して言われているが、我々は彼女の背後にサタンの影を見る。また、

「呪う」も前述せるごとく直訳的には「祝福する」(皮肉?)であって、

神への決別を意味している、と述べています。

 

つまり、この妻の立場というのは、浅野氏によれば、財産を失い、ことに

愛する子供たちを奪われ、そのうえ、一人頼りにする夫は、今、瀕死の

重病に苦しんでいるが、信仰とはこれほどまでに大きな犠牲を強いるもの

であろうか。もしそうならば、信仰など持たぬほうが人間は幸福なのでは

ないか。宗教とは果たして命がけで信ずる価値のあるものか。もしその

ようなものであれば、信仰は人間を不幸にするばかりである。それゆえ、

宗教とか信仰とかは、たかだか教養程度にとどめるべきではないのか、

という懐疑を表しているが、このような妻の言い分は妻の仮面をかぶった

サタンの言葉と称してもよいとしています。

 

しかし、これに対し、並木浩一氏は、妻の言葉を「あなたは以前、自分の

高潔さを固持されます。それなら、神を讃えて死になされ」と翻訳すること

を提案しているようです。

 

なぜなら、ヨブの妻は夫が誰よりも高潔で、それを放棄しないことを知って

いるが、夫がこれ以上苦しむのを見てはいられない。夫が神を呪って処罰を

受けてでも、早く世を去ってほしいと思うが、彼が神を呪うわけがない。

そこで、彼女は、「神を讃え抜いて死んだらいい」と夫に語るが、これを聞い

たヨブは、妻の言葉の裏に込められた気持ちを察知するのだというのです。

 

ともかく、以上のような妻の嘆きに対してヨブは、「あなたの語ることは

愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸を受けるのだから災をも

受けるべきではないか、と答えます。

 

このヨブの妻に対する答えはサタンに対する勝利宣言となりますが、この

ように神とサタンとの賭けは、第一、第二の試練に続き、第三の試練に

おいても神の勝利に終わったということになります。

 

そして、ここで物語の場面は一転して三人の友人が登場します。彼らは、

「たがいに約束して」遠方からはるばる慰めるために旅してきたのだが、

「彼らは目をあげて遠方から見たが、彼がヨブであることを認めがたいほど

であったので、声をあげて泣き、めいめいの上着を裂き、天に向かって塵を

あげ、自分たち頭の上にまき散らした」とあるように、ヨブの心労と病苦の

ために別人のごとく変わり果てた姿を見て、慰めと励ましの言葉を見失って

しまったのでした。

 

さて、これでプロローグは終わり、いよいよ3章以下の詩文による展開部

が始まるわけですが、ここからがらりと雰囲気が変わります。

 

ヨブはそれまでの敬虔な態度をすっかり忘れてしまったかのように、自分

が生まれてきたことを呪い始めるのです。

 

なお、3章以下については、長くなりますので、次回に紹介してみたいと

思います。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「ヨブ記」1


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ヨブ記 



ヨブ記は、旧約聖書において、創世記などと共に最もよく知られて書物

ですが、それはユダヤ教、キリスト教の信仰や神学と関係が深いのみ

ならず、ヨーロッパの文学や哲学ともかかわることが大きいとされて

います。

 

ヨブ記は、旧約聖書が、1.モーゼ五書、2.歴史および物語、3.詩歌

と教訓、4.予言の四つの部門から成り立っているなかで、第3の部門の

冒頭に置かれていて、内容的には詩歌であり、またある意味では教訓でも

あります。

 

なお、旧約聖書の原典では、第一は、「律法」、第二は「予言者」、第三は

「諸書」もしくは「雑書」となり、ヨブ記はこの「諸書」のなかに編入され

ているということです。

 

さて、ヨブ記は、通常「知恵文学」の名称で呼ばれていますが、それはどう

いう意味を持つのでしょうか? 浅野順一氏は次のように述べています。

 

まず、第一に考えられることは個人的だということである。つまり、聖書の

宗教は、契約の宗教であり、旧約では、神と民族との特殊な関係であるため、

「律法」、「歴史」、「予言」は民族的な性格が強いが、「知恵」においては、

それが背景になっているものの、他の部分と比較すると個人的な傾向が

著しい。

 

第二に、人間の経験ということが重要な要素になっている。つまり、律法や

予言に示されているものが原理的なものとすれば知恵はもっと経験的なもの

である。ヨブのような切実な苦しい体験を通して、信仰とは何かということ

が追究されている。

 

第三に、知恵の性格が前述のごとく個人的であるために、それは民族を超え

ている。ヨブ記においてもヨブを始め、彼の三人の友人はセム人であるが、

へブル人そのものではない。そこに、この書の超民族的、国際的、普遍的

性格がある。

 

第四に、ヨブ記を始め他の知恵文学においては信仰の在り方が、神から

人間へという方向と同時に人間から神へという逆な方向が示されている。

もちろん、聖書の宗教は啓示ということを基本にしていて、知恵文学に

おいても神から人間への方向が太く一貫されているが、それと共に人間

から神への方向がまた重要になっている。つまり、神の啓示を人間がどう

受け止めるかということに重点がおかれている。

 

このことから、この書は昔からユダヤ教徒、キリスト教徒によって重く

見られているばかりではなく、もっと広く一般の文学者、思想家によって

しばしば問題とされてきたのです。

 

さて、本書の名称は、その主人公であるヨブから来ていますが、この書の

著者は誰であり、その年代はいつ頃なのでしょうか? 

 

著者についてはまったく不明で、相当に学識もあり、文学的な才能にも恵

まれ、しかも敬虔な一ユダヤ人ということ以上のことはわかっていない

ようです。ヨブという人物が実在したかどうかは判然としないが、作者は

ヨブのごとき深刻な苦悩を体験した人ではなかろうかと言われています。

 

また、この書の書かれた年代もまた明らかではなく、諸説あるが、旧約

文学史の初期ではなく後期、知恵文学においても比較的おそい時代の作で

あるようです。もっとも、ヨブ記の物語の原型となるものは古くから伝え

られていたと考えられるが、現在の形のヨブ記としてまとめられたのは

ずっと後世のことだということです。

 

なお、年代がギリシャ文化のパレスチナに次第に浸透してきた時代と近か

ったため、ギリシャ文学の影響をそこに見る研究者もいるようですが、

浅野順一氏は、一方が他方に影響したとか、されたとかいうことよりも、

当時の文化が一様にかかる問題と取り組まざるを得なかった時代的背景が

あったためではないかと述べています。

 

そして、その問題とは、人間は何故、苦しまねばならないのか。しかも、

ある者は自分の責任でないにもかかわらず苦しまなければならない。一言

にしていえば、義人の苦難は何故かということであるとしています。

 

さて、では、この書の文学としての構造、組み立てはどのようになって

いるのでしょうか?

 

まず、ヨブ記の1章、2章はプロローク(序曲)であり、そこではヨブが

財産を失い、家族を奪われ、自分自身も重病に侵されという三つの大きな

試練に出会う様が散文の形で描かれています。

 

そして、3章以下は詩の形式となりますが、その内容は、3章-31章は、

不幸なヨブをはるばる遠くから訪ねた彼の3人の友人、エリパズ、ビルダデ、

ゾパルと主人公ヨブとの対話となります。ただし、それはヨブを慰め励ます

ような穏やかな対話であるよりは互いに批判し合う激しい論争となります。

 

もっとも、彼らは最初、ヨブを慰めるためにおだやかに話かけたわけですが、

ヨブは彼らの言い分を聞き容れず、むしろ、彼らを反駁したというところ

から、次第にお互いに攻撃し合う論争となるのです。

 

32章-37章は、もう一人の若い人物エリフが登場してきますが、彼は

ヨブと論争するのではなく、それは演説、説教というべきものです。この

説教は基本的に先の三人の友人たちと変わらないものですが、それは対話

(ダイヤローグ)ではなしに独白(モノローグ)と言えるものです。

 

38章-41章では、神がヨブに対し大嵐の中から突然語りかけ、呼びかけ

ます。また、そのほかに天地、自然、動物、とくにワニ、カバのようなグロ

テスクな動物が登場します。ここでは神の自然創造または自然支配といった

問題が語られています。

 

42章はエピローグで、今まで友人を論駁し、神にまで抵抗してきたヨブが、

ついに自己の誤りに気づき、神の前に懺悔し、新しい出発をします。なお、

ここではプロロークと同じく散文の形式になっています。

 

以上のような組み立てになっているのですが、この散文と詩文とはいかなる

関係にあるのかという疑問が湧いてきます。

 

浅野順一氏は、いろいろな議論があるとしながらも、分かりやすくいえば、

ここに一つの額縁があるとして、散文はその額縁に相当し、詩はその中に

はめ込まれた絵画だということができると述べています。

 

聖書の大方の読者は、額縁すなわちプロロークとエピローグだけを読み、

ヨブ記を大体理解したと考えるであろうが、しかし、ダイアローグ(対話)

その他の部分を注意深く読むのでなければこの書を正しく理解したとは

いえないとしています。

 

浅野順一氏は、額縁もそこに非常に大きな問題が語られているから重要で

あるが、ある意味において、そこにはめ込まれている絵のほうが一層大切

だと言います。

 

たしかに、ヨブの三つの試練の叙述の終わりに、ヨブの言葉として「主が

与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」、「われわれは神から

幸をうけるのだから、災をも、受けるべきではないか」とあり、一応の

結論が出ていることは出ている、試練に対するヨブの信仰の告白が立派に

表現されているというのです。

 

しかし、ヨブはその痛ましい試練から一直線にそのような結論に到達する

ことができたのではなく、ヨブは義人の苦難という問題を与えられて、

その解答に至るまで大いなる苦悩を経験しなければならなかった。その

苦悩が三章以下のヨブと三人の友人たちとの対話(論争)の中で繰り返し

述べられているが、その経過は直線的ではなく、ジグザグ・コースを

たどっていて、何度も同じ主題をめぐりながらようやく結論に到達して

いるのです。

 

よって、そのジグザグのプロセス、すなわち絵画そのものをよく見な

ければヨブ記というものが真に理解できたとはいえないとしています。

 

よって、次回は、少し詳しくその苦悩のプロセスを追ってみたいと

思います。









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