「新時代の霊的トレーニング」


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神伝禊法2 



10月末に水波霊魂学を提唱する水波一郎師の著書『神伝禊法』の

第三版が発刊されました。

 

一部修正があり、また、文字が大きくなって読みやすくなりましたし、

表紙に「新時代の霊的トレーニング」という副題が追加されています。

 

改訂版の初版が発刊されたあとに、一度、紹介をしておりますので、今回

は、なぜ、神伝禊法が、「新時代の霊的トレーニング」なのかにポイント

を絞って紹介してみたいと思います。

 

さて、日本には昔からたくさんの宗教的・霊的修行者がいました。皆、神

や仏を信じ、己を少しでも神仏に近づけたいと努力したに違いありません。

有名なところでは、山伏と呼ばれる人たちが山岳修行をしていたし、真言宗

や天台宗の修行者たちは、密教の修行によって仏の道を求めていました。

 

また、神道系と呼ばれる修行者もいて、世間で古神道と呼ばれる系列の人

たちは、水で禊を行っていたし、鎮魂法や振魂法(ふるたまほう)と呼ば

れる修行法を行っていました。

 

しかし、それらは過去の修行法、つまり、昔は大勢いたプロの宗教家向き

の体系であり、現代人には成就するのが大変難しい修行法であると水波師

は述べておられます。

 

山に籠って何年も出てこない、あるいは、一生山に入っても成就できない

人もいる、というような修行法では、家庭を持って、酒やタバコの中で

生きている会社員には、高嶺の花だということです。

 

ただし、古神道系の修行法の場合は、必ずしもそうとは言えないようで、

今も水の禊や鎮魂法など、価値は失われていないが、成果は指導者しだい、

流派しだいであり、良い指導者につかなければ失敗するということです。

 

なお、霊的修行には、一定の危険はついてまわるのであるから、どんな

修行であっても、危険に対する注意は必要であり、指導者の指示を守ら

ない修行者は、修行すべきではないとも述べておられます。

 

さて、さらに現代では、困ったことに、昔の修行者にはなかったような

大きな障害が立ちはだかっているということです。とにかく、霊的環境が

著しく悪化しているようなのです。

 

昔は、大勢の人たちが神や仏を信じており、信仰というものが生活に中に

生きていたため、修行者に対しても、尊敬の目を向ける人が多かったよう

です。そうした時代には、修行を指導しようとする霊魂(霊的存在)との

接点もできやすく、交流も容易であったのです。

 

しかし、現代では神や仏を信じる人はむしろ少なく、修行者は少々変わった

人たちのように見られています。宗教団体は警戒され、真面目な団体がある

にもかかわらず、宗教団体に入会すれば、人は洗脳されて、良いように

使われ、お金をむしり取られると思われてしまうような状況です。

 

このように、宗教を極端に嫌い、宗教的な修行の価値を認めない状態では、

高級な霊魂より不道徳な霊魂の方が、より力を発揮しやすい環境ができて

しまったようなのです。

 

つまり、高級な霊魂は、ちっとも求められなくなるが、彼らは人間の自由

意思を尊重するため、それを無視した指導はできないのに対し、不道徳な

霊魂の方は、人間の意思など尊重しないし、逆に、嫌がれば嫌がるほど

寄ってきて人間を不幸にしようとする。よって、宗教が拒否されるという

ことは、霊的な環境が悪くなるという結果をもたらしたのです。

 

世の中の人たちが警戒心を強めて修行をしないうえに、宗教団体の一部

には、不道徳な霊魂集団がついてしまっては、高級な霊魂たちの居場所

がなくなってしまうのです。

 

「日本においては、歴史上、こうした時代は一度もなかった。今、初めて

起きた不幸な現実なのである」と水波師は述べておられます。

 

昔の修行法は、今ほど霊的な環境が悪くない時代にできていて、不道徳な

霊魂が干渉してくることを、まるで考えていない修行法も多いと思われ、

事態は非常に深刻であるということです。

 

今では、一人で瞑想していても不道徳な霊魂が寄ってくるかもしれない、

滝行に参加したら、不道徳な霊魂に干渉されるかもしれない、という

ような危険な状況になり、加えて、不道徳な霊魂の幽体から出る汚い気

(幽気)が周囲に蔓延していて、修行に対する危険度がさらに増すような

時代になったようなのです。

 

よって、神伝禊法と他の禊法や修行法との違いは、まずは、不道徳な霊魂

に対する対処を考えてあるという点です。神伝禊法は、水波霊魂学の修行

法なので、不道徳な霊魂や、質の低い幽気、といったマイナス要素を排除

することを前提として体系づけられているということです。

 

さて、「神伝禊法」とある、その「神伝」の法には、どういう意味が込め

られているのでしょうか?

 

富士は、今ではそうではなくなってしまったが、かつては、霊山とか、神山

とか呼ばれる信仰の山であった。実際に神霊が降りられる山であった富士は

まるで地上の世界に立った一本のアンテナのようであり、地上の指導者は、

富士の神霊、およびその部下ともいえる高貴な霊魂方から力を受け取り、

それを日本の各地に流すのであったが、水波師は、この神霊と、その部下で

もある高貴な霊魂方の御力によって神伝の法を授かったと述べられています。

 

つまり、神伝の法とは、「神霊のご意思を受け、高貴なる霊魂方が降ろされ

た神秘なる秘術」であり、神伝禊法と神伝鎮魂法(神伝鎮魂法については、

水波師の別著『神伝鎮魂法』に詳しく書かれています)の両体系のことを

指しているとされます。

 

それでは、なぜ、今、高貴な霊魂方は、この世に神伝禊法を降ろされたの

でしょうか?

 

水波師によると、「それは神伝禊法こそが、人々にとって最も大切で、

最も必要な技法だからである」ということです。

 

なぜなら、「人はいつか必ず死ぬ。そうである以上、誰でも地獄のような

世界に落ちたくはない。では、どうすればよいか。それは霊的トレーニ

ングを行う必要がある。なぜならば、人は幽体であの世を生きるからで

ある。幽体というのは、死後の世界で使用する身体であり、この世で生き

る時には、肉体と重なっている霊的な身体の事である。幽体は肉体と同じ

身体である。健全な身体もあれば不健康な身体もある。この幽体が不健康

では、高級な霊魂が住むような世界には生きられない」からだそうです。

 

つまり、現実は、心を清くすれば、あるいは、善いことをすれば天国へ

行けるというような単純なものではない、単に心の性質だけで死後の

世界が決まるのではない、ということです。心の美醜がどうであれ、

たとえ善人であっても、幽体が傷ついてしまうと、それが死後の世界を

暗くしてしまうのです。

 

また、一般にいう「心」とは、いわば「肉体の脳」というパソコンを使用

している意識にすぎず、霊魂の世界での脳ではないのだそうです。脳は

あくまで物質であり、人はそれを利用しているにすぎないのであり、人の

心とはもっと深く、それらすべてが人間の魂であるとされます。

 

心の一面を捉えるのではなく、意識の全体の進歩を考えるのが、神伝禊法

だということです。

 

表面の心は意識の一部にすぎず、一部が多少成長しても全体の変化は小さい

のだそうです。よって、人間という大きな意識の進歩には、日々、行いを

正すだけではどうにもならないのであり、高度な霊的トレーニングがどう

しても必要なのです。

 

以上のことを踏まえて、「新時代の霊的トレーニング」、すなわち、神伝

禊法の意義を集約すると、

 

「まず、死後に上の世界に入る為のパスポートという面がある。」

 

「次には、霊的な生命体としての進歩を促進するという面がある。」

 

「しかし、禊はそれだけではないのである。更に大きな力を持っていた

のである。それは二つあった。」

 

「まずは、過去世の意識に変化をもたらすという事の結果、この世を生き

る上での不幸をより小さくできるという面がある。人は何回も過去世が

ある。そのために、辛い心理や激しい怒りの心理などが、意識の奥に隠れ

ているのである。」「そうした過去からの心理をも変化させる。」

 

「もう一つは、高貴な霊的存在との交流である。」「神伝禊法の最大の

魅力はここにある。」「霊魂の世界には法則がある。」「法則に沿って

いなければ、高級な霊魂とは接点が得られないのである。」「その接点を

作り得るのが神伝禊法なのである」と水波一郎師は述べておられます。

 

大きな地震や津波が心配される日本では、いつ、壊滅的な災害が起こる

かもしれません。また、人は誰しも、いつ死ぬかわからないのです。

こうした時代だからこそ、神伝禊法が必要だということです。

 

なお、今回は、神伝禊法の行法面については触れておりません。よって、

「新時代の霊的トレーニング」の内容に関心のある方は、是非、本書を

お読み頂きたいと思います。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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(続)異端・異説批判-歎異抄と現代5-


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歎異抄3


引き続き、『歎異抄』の第十四条以降の異端・異説批判を紹介しておき

たいと思います。

 

(第十四条)

「ただ一声の念仏であっても、八十億劫(こう)という永いあいだ迷いの

世界に苦しみ続けるほどの重い罪が消えるという、念仏の滅罪の異義に

ついて。」

 

「このことについて、『観無量寿経』の中に、十悪や五逆などの重大な罪を

犯し、しかも日頃念仏をとなえることもなく、臨終のときにはじめて

善知識(念仏の教えを説き導く人)の教えをうけた人でも、ただ一声の

念仏によって、八十億劫もの永いあいだ苦しまなければならないほどの

重い罪が消え、十声念仏すればその十倍もの重い罪が消えて、浄土に

往生することができると説いています。」

 

「これは十悪や五逆が、どれほど重大な罪であるかを知らせるために、一声

の念仏で八十億劫、十声の念仏で八百億劫の罪が消えるということを説明

したわけで、念仏することによって、罪を消す利益があることをいったもの

です。しかし、こうした念仏を罪ほろぼしの行にするという「念仏滅罪」

の考え方は、わたしたちの信ずる他力の信心ではありません。」

(千葉乗隆氏 現代語訳)

 

この条について、梅原猛氏は、<功利的な念仏批判である。念仏が多くの

罪を消すとすれば、念仏を重ねれば重ねるほど罪がなくなるというので

ある。法然の弟子の中には、師の教えをそのように解して、一万べんだの

百万べんなどの念仏を奨励する人がいた。これでは、罪深いわが身が、その

罪ゆえに、絶対他力によって救済されるという宗教的パラドックスは、

安っぽいに功利主義におきかえられてしまう。浄土真宗の念仏は違うと唯円

はいう。一度阿弥陀仏に救われたあとは、その仏に対する感謝報恩のため

の念仏であるという。>

 

<功利主義的念仏は、また、罪を犯したら、そのたびごとに罪を消さねば

ならず、したがって、死ぬ前の態度こそが大切であるとして臨終念仏を

命ずるが、親鸞はそのようなものを否定する立場に達した。煩悩多き人間は、

死の前にどうなるかわかったものではない。しかし、それが何であろう。

たとえ死の前にどんなみっともないことをしようが、浄土念仏の徒は間違い

なく極楽往生することができる。自分の信心が定まっていれば極楽往生は

疑いないと、親鸞は断定する>としています。

 

また、滝沢克己氏は、次のように述べています。

 

<よく注意してくりかえし読みますと、ここでもまた唯円にとって唯一大切

なことは、念仏をさえ含めて人間のはたらきとは全然別に、一切の人の思い

に先立って、罪悪深重・煩悩具足の凡夫に懸けられている弥陀本願の事実

そのものにあることは、一点疑いの余地なく領解されます。>

 

<反対に最初で最後の重心が、弥陀選択の本願に懸けられていないばあい、

他のもろもろの善行・工夫はもとより、浄土真宗の念仏さえも、その根本に

おいてすべては虚しい人間のはからいを出ることはできません。>

 

<誤りはかならずしも、いえ、けっして、一生のあいだ思いを尽くし、力を

尽くして、善き行いをしよう、念仏して心安らかに「臨終」の時を迎えうる

人になろうという、人間の努力そのものにあるのではありません。むしろ

ただ、せっかくのその努力が、その人のこととしてまったく根なし草である

こと、肝心かなめの点で、人間的な努力ないしは協力がそれとして意味を

なすための大前提、いいかえると、その真実の基礎、目標もしくは限界の、

明らかな自覚が欠如しているというところにあるのです。>

 

(第十五条)

「さまざまの煩悩をもつ身でありながら、この世でさとりを開くことに

ついて。このことは、とんでもないことで、まったく誤った考えです。」

 

「この身のままで仏になるというのは、弘法大師空海の伝えた真言密教の

教えの根本で、身と口と意をはたらかせて、さまざまの厳しい修行をつみ

かさねて煩悩をとりのぞいた結果に得られるものです。また、心身を浄(

きよ)らかに保つことは、伝教大師最澄が伝えた天台宗の教えで、これ

また『法華経』に説いてある四安楽の行(…)で身・口・意を清浄にたもち、

生きとし生けるものすべてをさとりに導く願いをおこすことを達成して得

られるものです。これらはすべて、たいへん難しい行ですから、能力のある

すぐれた人が、精神を統一して苦行にはげむことによって得られるさとり

です。」

 

「このような、この世でさとりを得ようとする自力聖道門にたいして、来世

でさとりを開くというのが他力浄土門の教えです。阿弥陀さまの救いを信ず

る心がおこったときに浄土に生まれることが定まります。これは能力の劣っ

た人のための修めやすい教えで、善人も悪人もわけへだてなく救われます。」

 

「親鸞聖人が作られた『高僧和讃』に(…)あるように、わたしたちの信心

が定まったそのときに、阿弥陀さまはおさめとってお捨てにならないのです

から、もう迷いの世界を生まれかわり死にかわりして輪廻することはありま

せん。したがって、永遠に迷いの世界とは絶縁したのです。しかし、この

ように承知することがさとりを開くことと同じであると混同して考えるなら

ば、それは大きな誤りで、嘆かわしいことです。「浄土真宗の教えは、この

世において阿弥陀さまの本願を信じて、浄土に生まれてさとりを開くので

あるということを、法然聖人から教えていただきました」と、今は亡き親鸞

聖人は仰せになりました。」(千葉乗隆氏 現代語訳)

 

この条について、梅原猛氏は、<第四条で唯円は、聖道門の慈悲の思想の

批判を書いたが、この条はそれと対応するのであろう。浄土の思想を聖道門

的に解釈する誤りを唯円は指摘する。><聖道門と浄土門との区別は明白で

あり、浄土門を聖道門的に解釈するなどという誤解は起こり得ないのでは

ないかと思われるかもしれないが、私は法然の思想より親鸞の思想に、この

ような誤解が起こる可能性が多かったのではないかと思う。>

 

<なぜなら、親鸞は法然よりはるかにはっきりと、信心の定まったときの

意味を強調する。そのときわれらは阿弥陀のお召しにあずかり、極楽往生

が定まったのである、そのとき以来われらは正定聚(しょうじょうじゅ)の

位に上がると親鸞はいう。(…)また、その人を等正覚という。つまり、

さとりを開いた人に等しいという。(…)しかし、(…)正定聚、等正覚の

位を強調するとき、ややもすればそれは現世肯定、現世成仏の思想と誤解

されるおそれがある。>

 

<空海は、そして親鸞以後日蓮は、(…)現世成仏の救いを強調した。

しかし、それは違うという。浄土教は、浄土教である限り、人間性の自覚

を捨てることはできない。この世においてわれらはいかに仏の光に包まれ

ようとも、われらはあくまで有限にして罪深い身であり、悟りを開くのは

死後、極楽浄土においてだと、唯円は言い放つのである>と述べています。

 

また、千葉乗隆氏は、「この即身成仏の異義が生まれる背景には、つぎの

ようなことが考えられる。それは、善鸞事件のとき、親鸞は手紙の中に、

まことの信心をば、諸仏とひとしと申すなり。また補処(ふしょ)の

弥勒とおなじと申すなり」としるし、信心を得た念仏者は、如来や菩薩と

等しいと説いた。このことを誤解したのであった」と述べています。

 

 

そして、また、滝沢克己氏は、次のように言います。

 

<唯円が、「今生において」「この身をもてさとりをひらく」ということを、

「もてのほか(とんでもないこと)」として斥けるのは、けっして、弥陀

本願の主意を、煩悩具足の「あさましきこの身」において、直接に、確実

かつ明白に、知るということを否定したのではありません。>

 

<それならばいったいなぜ、唯円は「この条もてのほかにさふらふ」とまで

断乎として、「即身成仏」を斥けるのでしょうか。それはいうまでもなく、

彼が親鸞の教えを正しく承けて、人間の信は、たとい本願弥陀から直接に

賜った「金剛の信心・信知」であっても、弥陀の本願そのもののはたらきと、

けっして単に同一のものとはなりえぬこと、ほんの微かな一反映にすぎない

ことを、あまりにもよく知っていたからです。>

 

<むろん、いかに微かな反映であっても、弥陀一仏の親しく賜る信心は、

その人の全人生、いな全世界にとって、果なしの闇を照らす光、物心両面

万事につけて終始一貫して変わらぬ導きの灯として輝きます。しかしそれは、

まさにそのような導きの灯として、それ自身の自己目的化を拒絶します。>

 

<むしろ、「正定聚の位(浄土の民の位)」に堅く定められてその信徒が、

いまもなお真実主体ではない一個有限の主体、しかも虚しきものの誘いに

逃れがたく侵された表現点として、一歩は一歩より精確鮮明に、この穢土の

ただなかに浄土の光を映し出すべく渾身の努力を傾けることを要求します。」

 

(第十六条)

「阿弥陀さまの本願を信じて念仏する人が、たまたま腹をたてたり、悪い

ことをしたりして、念仏者の仲間と口論することがあると、必ずそのたびに

回心(えしん)といって、心を悔い改めなければならないということに

ついて。」

 

「このことは、あやまちを悔い改め、悪を断ち、善を修めて浄土に生まれ

ようという考えなのでしょうか。阿弥陀さまの本願を信じてもっぱら念仏

する人にとって、回心ということは、ただ一度かぎりのことです。それは

日ごろ本願他力の教えを知らない人が、阿弥陀さまの智慧をいただき、これ

までのような心では浄土に生まれることはできないと思って、それまでの

自力の心をすてて、阿弥陀さまの本願をおたのみすること、これを回心と

いうのです。」

 

これについて、梅原猛氏は、次のように述べています。

 

<浄土教、特に親鸞の教えは、仏教の中で最もキリスト教に似ていると

いってよいであろう。しかし、多くの類似とともに多くの相違がこの二つ

の宗教にはある。この条は、われらがこの二つの宗教の違いを考えるに

あたって最も大切な点を示している。>

 

<キリスト教は懺悔を強調するが、日本の宗教の宗祖の中でも、親鸞は最澄

とともに、あるいは最澄以上に懺悔を強調した人であった。><しかし、

キリスト教の懺悔と親鸞の懺悔は違っている。弥陀仏は、一つ一つ罪を犯す

たびに神の前で懺悔しないと罪をゆるさないほど道徳的な神ではないらしい。

ひとたび罪深い人間が念仏をして阿弥陀仏の光に包まれたならもうよいので

ある。徹底的な懺悔回心は一回かぎりである。そして、それ以後彼は、彼の

中に持っている多くの闇にもかかわらず、光りの中に生きる身なのである。

><こざかしい道徳理性のはからいを捨てて自然に生きることこそ他力の

教えだというのである。>

 

<自然法爾(じねんほうじ)の思想は、法然の思想であるより、親鸞の思想

である。(…)この自然という思想において、親鸞の思想はキリスト教と

根本的に異なっている。>

 

一方、滝沢克己氏の論説は次のとおりです。

 

「前にも申しましたように、唯円にとって最後決定的に重大なのは、ただ

一つ、善悪精粗を問わず、人の思いとはまったく別な 一切の人の思い

に先立ってすべての人のもとにすでに来て、各自即刻これを受け入れるのを

待っている 弥陀本願の選択・決定それじたいにあります。したがって

また、弥陀即凡夫という、絶対に不可逆的な区別を含みながら、同時に絶対

に親密・堅固なこの結びつきに目覚めるかどうか、ただこれだけを支えと

して立つかどうか ただこの一点にのみ、ほんとうに浄土真宗の徒である

かどうか、「廻心」ということが起こっているかどうかの、際どい岐(わか)

れめがあるのです。」

 

「「もとのこころ」「日ごろのこころ」が、弥陀の本願そのものの威力に

よって根本的にひるがえされないかぎり、ふとはらをたてたこと、悪しざま

なことを言ったりはたらいたりしたことを深く後悔・反省して、心から相手

に詫びるなどといっても、そのようなことがそこから起こってきたあの根本

的な倒錯・不自然な作為が、それで止むということではありありません。」

 

「「憎しみ・闘い」という形をとるにせよ、「愛と平和」という姿をとるに

せよ、自分(たち)の義(ただ)しさを基準と立てて、他を律してゆこう

とする「自力」の傲慢には、いささかの変わりもないと言わなくてはなり

ません。」

 

(第十八条)

「道場(寺院)や道場主(僧侶)に寄付をする場合、その金額の多少に

よって、たくさん寄付をすれば大きな仏さまになり、少しの寄付だと小さい

仏さまになるということについて。このことは言語道断、とんでもないこと

で、まったく道理に合わないことです。」

 

この最後の条については、梅原猛氏は、次のように述べています。

 

「親鸞は教団というものをつくる意思を持たなかったに違いない。(…)

彼が布教に全情熱を注いだのは、比較的短い期間であったといわねばならぬ。

彼は、おのれの中に確固不動な、一生変わらない信仰をはっきり見出すまで

は、決して他人に教えを説こうとはしなかったし、また、いったん救いを

説いた後も、なおかつおのれの中にある矛盾を絶えず見詰める目を決して

失わなかった。」

 

「唯円は、このような言葉をもって『歎異抄』の最後の言葉とするが、この

『歎異抄』が書かれたのが、覚如による本願寺教団設立の前夜に当たること

を考えると、この言葉はきわめて意味深い言葉であると思われる。」

 

「その後も真宗教団は覚如の方向をとって繁栄したが、はたしてそれが親鸞

の意思であったかどうかは疑問である。唯円のこの言葉は、彼の耳の底に

残っている親鸞の言葉を手かがりとした、すでに動きつつあったそのような

教団の世俗化に対する歎きをあらわしたのではなかろうか。」

 

なお、滝沢克己氏はこの条について、<彼(唯円)がどうして、「師匠へ

のほどこし」、「布施」一般を軽んずるはずがありえましょう。彼が厳しく

斥けるのは、ただこのような「自然のことはり」を欠いた「布施」、親切

・敬虔と見えて、そのじつはただ己が内なる空洞を蔽(おお)う虚飾、「

同朋をいひおどす」「世間の欲心」に堕した「施入物(寄付する物)」です。

(…)「いわれなき条々の仔細」を語る最後の一章が、一見最も卑俗な

「施入物」の問題に当てられているのも、事柄の深さ・際(きわ)どさから

見て、決して偶然ではないと申さなくてはなりますまい」と述べています。

 
 
 
 
 
 
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異端・異説批判-歎異抄と現代4-


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歎異抄の世界 




『歎異抄』の第十一条から第十八条までは、親鸞の教えに対する八つの

異端異説への批判が述べられていますが、今回は、それらを紹介して

おきたいと思います。

 

(第十一条)

「無学な人々が一生懸命に念仏していますと、おまえは阿弥陀さまの誓願

の不思議を信じて念仏をしているのか、名号の不思議を信じて念仏をして

いるのかと、びっくりするようなことをいって、二つの不思議がどういう

ものであるかをはっきり説明せず、人の心をまどわす者がいます。これは

よくよく考えて、その間違いを明確にしておかなければなりません。」

(梅原猛氏 現代語訳)

 

この箇所について、梅原氏は次のように述べています。<浄土往生の教え

の本質は、かの宗教的パラドックスであった。(…)しかし、親鸞が死んで

彼の記憶が薄れるとき、そういう不可思議なるパラドックスは忘れられ、

分別悟性が目覚めるのである。(…)(教団設立後)当然信仰の教学化が

行われ、浄土往生の思想の教義化が行われるが、こうした教学論者は

パラドックスを理解せず、それをこざかしい分別理性でおもちゃに

するのである。>

 

<誓願不思議と名号不思議を分かつのは、そうした分別理性のおもちゃの

一つであろう。しかし、この教団へ入り込んだ似非インテリは、このおも

ちゃでもって、無知で真摯な信者の心を惑わす。こういう異説に対して、

唯円はまじめに答えている。誓願の不思議と名号の不思議は分かつことが

できない。悪人成仏は誓願の不思議である。しかし、そのために唱えやすい

名号を考え出されたのである。名号の不思議は誓願の不思議の中におのず

から含まれている。>

 

また、滝沢克己氏は、これについて、まず問題は、念仏にさいしての、

「誓願不思議」と、「信心」と、名号不思議の関係如何にかかわって

いるとしています。

 

こういう問題が、「人をまどわす」ようになるのも、もとはといえば、

真に実人生の場そのものを決定・制約している弥陀の本願そのものと、

人間の言葉・文字としてのその表現形態との、絶対に不可逆的な区別を

含んだ統一を、ほんとうにわきまえないで、これらの文字を用いて怪し

まないことから来ると言います。

 

「誓願の不思議」において、人間はおのおの一個の客体的主体として、

真実自由自在な不可視の主体を表現すべく定められているから、この根源

的関係そのものに目覚める、すなわち弥陀の本願を信ずるということは、

それじたい必ずその瞬間の躰(からだ)の動き、つまり、南無阿弥陀仏と

名号を唱えることたらざるをえないとしています。

 

よって、人間の善悪賢愚・大小上下とはまったく次元の異なる、端的な

事実としての「誓願不思議」に、ただひたすらに依り頼む信に欠けている

ところには、決して本願自然のことわりにかなう念仏の湧出することがない

のであり、そのような人にとって、念仏は、その人がいかに「名号不思議

を信じて」の念仏だと言い張っても、そのじつはただ、真実の信知の欠落

した自分の、脚もとに口を開く底なしの闇を陰蔽する手だてに転化するの

だとしています。

 

しかし、それは決して「名号の不思議」が、私たちの正しい信に依存して

いるということではないと言います。私たちの信がまずあって、しかるのち

の、それに基づいて、それを一段と確実有効ならしめるために、名号が案出

・設定されたというのではなく、名号の真実の根基・根源は、人間の信心

(信知)のそれと同じ、弥陀の誓願不思議自体にあるというのです。

 

(第十二条)

「経典やその注釈を読んで勉強しない人々は往生することができるかどう

かわからないということ。これは論ずる余地のない説であります。他力

救済の真理を明らかにした多くの聖なる経文は、すべて本願を信じて念仏

をすれば仏になることを明らかにしたものであって、そのほかどういう

学問が往生のために必要でありあましょうか。…」(梅原猛氏 現代語訳)

 

これについて、梅原猛氏は、<これもまた教団に入り込んだ似非インテリ

に対する厳しい批判の言葉であるばかりか、すべてのパリサイ人に対する

容赦ない告発の言葉である。似非インテリはいう、信仰だけではだめだ、

学問をしなかったならば往生はできないと。こういう説に対して唯円は

いう、法然や親鸞は一文不通の者のため他力往生、易行念仏の道を説いた

のではないか、学問をして何になる、学問はしょせん名聞利養の道では

ないかと>。そして、<唯円は、真の念仏易行の徒としての学問の態度を

教える。信仰をいっそう強めるために学問はあるべきである。信仰を妨げ

るような学問、それは法の魔障、仏の怨敵、おのれの迷いを他に及ぼす

もの。唯円のパリサイ人に対する告発は激しい>と述べています。

 

一方、滝沢克己氏は、<うっかり読むと、問題は、往生のために、信心と

学問とどちらが大事かという点にのみ、あるかのように見えるけれども、

決定的に重大なのは、たといそれが最も正しい信心、ひたむきな念仏で

あっても、決して人間主体の働きであるかぎりの行ではなく、それは

むしろ、弥陀自然の選択本願そのもの、言いかえると、絶対無条件に

真実浄土が実在すること、しかも穢土即浄土、罪悪深重・煩悩の具足即

無量寿命・無量光明仏なる、絶対に不可分・不可同・不可逆的な根源的

関係において実在するという、驚くべき事実だけだ>と言います。

 

つまり、私たちの信心や念仏の力によって、弥陀と凡夫の、絶対に堅く

親しい縁が結ばれるのではないし、肉の耳に聞こえる名号の「媒介」に

よって始めて、浄土と穢土が関係づけられるのでさえないということです。

 

逆に、永劫の過去から未来にわたって弥陀即凡夫、浄土即穢土という独一

無比の関係が成就しているから、そののち誰かが単純素朴に「本願を信じ、

念仏して仏になる」ということが起こりえたし、今日も起こりうるのだと

言うのです。

 

よって、決定的にこのことが起こるために、何か「学問」が絶対に不可欠

だとなどということはあり得ないのだとしています。

 

しかし一方で、人によっては、長くたゆまぬ学問の努力の果てに、ようやく

その機が熟して,真実他力の信に入るということも十分あり得ることです。

 

それゆえ、この条で唯円が厳しくしりぞける異端は、決して単に中性的な

「学問」一般ではなく、ただ、事実すでに来ている凡夫の救い=真にそれ

自体で実在する人間自立の拠点を見いだし、証することはおろか、真剣に

尋ね求めることをさえせず、己の立てる学説ないし主義をもってこれに

代えようと腐心してやまない学生(がくしょう)たちの「学問」である

としています。

 

(第十三条)

「阿弥陀さまの本願が不思議きわまるものであり、どのような悪人をも

救ってくださると申しましても、悪をおそれないのは“本願ぼこり”と

いって往生することができないということ。このことは、本願を疑い、

善悪が、人間がおのれの過去に持っている暗い業によって左右されている

のを理解しない見解であります。」(梅原猛氏 現代語訳)

 

これについて、滝沢克己氏は、これも、うっかり読むと「本願ぼこり」と

してそこで非難されているものを、ただ単純に弁護しようとしているかの

ように見えるが、必ずしもそうとばかりは言えないとしています。

 

「本願ぼこり」という語が、真実他力の信心からいうと、本来は決して

そうあってはならない態度、というより、自然に消えてゆくはずの姿勢を

指しているとしか読みようがないとすると、その重心が、「本願ぼこり」

そのものにではなく、むしろまず、「阿弥陀さまの本願が不思議きわまる

ものであり、どのような悪人をも救ってくださると申しましても、悪を
おそれないのは」
といわれる、そこのところにあることが明らかだという

のです。

 

すなわち、唯円によると、親鸞は、「本願ぼこり」といわれるものをも

含めて、人間の仕出かす悪が、弥陀の本願そのものの威力よりも強いか

のごとく、ただ単純にこれを信じて念仏申すことを妨げる力あるものの

ごとく思い過ごす、そういう考えを、真実他力の念仏・至心信楽の道から

逸(そ)れるものとして諭されたということです。

 

なお、第十三条における「宿善・宿業」についての滝沢克己氏の言説は

前回すでに紹介したとおりです。

 

さて、さらに第十三条には、次のような衝撃的な言葉があります。

 

「また、あるとき聖人が、「唯円坊よ、おまえは私のいうことを信じるか」

とおっしゃいましたので、「もちろんでございます」とお答え申し上げた

ところが、「そうか、それじゃ私のこれからいうことに決してそむかない

か」重ねて仰せられたので、つつしんでご承知いたしましたところ、「じゃ、

どうか、千人殺してくれ。そうしたらおまえは必ず往生することができる」

とおっしゃったのであります。そのとき私が、「聖人の仰せですが、私の

ような人間には、千人はおろか一人だって殺すことができません」とお答え

したところ、「それではどうしてさき、親鸞のいうことには決してそむか

ないといったのか」とおっしゃいました。そして、「これでおまえもわかる

はずである。人間が心にまかせて善でも悪でもできるならば、往生のため

に千人殺せといったら、おまえは直ちに千人殺すことができるはずである。

しかし、おまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺す

べき因縁が備わっていないからである。自分のこころがよくて殺さないので

はない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるであろ

う」とおっしゃいましたのは、われわれの心が、よいのをよいと思い、悪い

のを悪いと思って、善悪の判断にとらわれて、本願の不思議さに助けたまわ

るということを知らないことを仰せられたのであります。」

 

この言葉について、梅原猛氏は、次のように述べています。

 

「この条を読みながら私は戦慄を感じた。」「この言葉は、唯円の心を

ためすために親鸞がいった言葉と解されるかもしれない。あるいはそれ

は一つの比喩であるとも解されるかもしれない。しかし、それがためしと

いえ比喩といえ、とても聖者の語る言葉であるとは思われない。聖者では

なく、悪魔の語る言葉であるようにすら見える。」

 

「この言葉を語るとき、親鸞はどんな顔をしていたのであろうか。私は、

それはおそろしいばかりの緊張に満ちた顔ではないかと思う。信仰以外の

あらゆるものが無価値といえ、信仰のためにすべてを捧げようとする顔で

ある。私はその顔に、尊敬と同時に恐怖を感じざるを得ないが、唯円が、

私は一人も殺すことができないといったとき、すべての悪業は人間の業、

わが心によって殺さないわけではないといった親鸞には親しみを感じる

のである。」

 

「そのとき親鸞は、じっとおのれの心を自省する人であった。わが心に

ある煩悩、殺人まで犯しかねない情欲や、我欲や、憎悪の心を自省し、

悪業に満ちた人間というものを深い慈悲の心でながめる人であった。」






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「悪人正機説」-歎異抄と現代3-


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歎異抄(2) 




「善人ですら極楽浄土へ行くことができる、まして悪人は、極楽浄土へ

行くのは当然ではないか、私はそう思いますが、世間の人は常にその反対

をいいます。悪人ですら極楽へ行くことができる、まして善人は、極楽へ

行くのは当然でないかと。」

 

「世間の人のいうほうが一応理屈が通っているように見えますが、この説

は、本願他力の教えの趣旨に反しています。と申しますのは、みずから

善を励み、自分のつくった善によって極楽往生しようとする人は、おのれ

の善に誇って、阿弥陀さまにひたすらおすがりしようとする心が欠けて

いますので、そういう自力の心がある間は、自分の心を捨ててただ阿弥陀

さまの名を呼べば救ってやろうとおっしゃった、阿弥陀さまの救済の本来

の対象ではないのであります。」

 

「われらのごとき心の中にさまざまなドス黒い欲望をいっぱい持つ者が、

どういう行によってもこの苦悩の世界を逃れることができないでいるの

を阿弥陀さまはあわれんで、あの不可思議な思いを起こされたわけです

から、もともと阿弥陀さまの願いを起こされる本当の意思は、この悪人

を成仏させようとするためでありましょうから、自分の中に何らの善も

見出さない、ひたすら他力をおたのみするわれらのごとき悪人のほうが、

かえってこの救済にあずかるのに最もふさわしい人間なのです。

(『歎異抄』第三条 梅原猛氏 現代語訳)

 

梅原猛氏は、ここで親鸞が語っているのは「信仰のパラドックス」である

として次のように述べています。

 

<この世に秩序を与えるのは道徳であるが、道徳の立場に立つかぎり、善

は悪より価値が上である。したがって、善人が悪人より極楽へ行く可能性

が多いと思うのは常識である。しかし、親鸞はそういう常識を否定する。

悪人のほうが善人よりはるかに救済の可能性が高いという。これまさに逆説

中の逆説、パラドックス中のパラドックス中のパラドックスである。しかし、

この逆説中の逆説、パラドックス中のパラドックスに元来信仰というもの

の秘密があることは確かであろう」。

 

また、金子大栄氏は、『歎異抄』第三条の解釈として「善事をなすものは

善人、悪業を離れることのできぬものは悪人である。しかしまた悪人には

悪行を離れることのできぬ悲しみがあり、善人には善事を頼むということ

もあるであろう。そこに善人には自力の限界を知らざる限り、本願他力に

帰するということがないという迂遠(うえん)さがある。けれども悪人は

大悲の願心をきいて直下に心身に応(こた)えるものがあるであろう。

まことに深重の本願である」と述べています。

 

さて、では、前回紹介した『「歎異抄」と現代』の著者、滝沢克己氏はどの

ように見ているのでしょうか?

 

滝沢氏は、親鸞の場合、絶対他力の信心は、すなわち念仏の行であり、念仏

の行はまた、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫をして、凡夫のままに、真実人と

して充実した生活と思考、平和で新鮮な社会へ至る道であったがゆえに、

「念仏には無義をもて義とす(念仏というものは、分別でもって理解し

えないというのが正しい理解である)」といい、「念仏は行者の為に非行

非善なり(念仏は、これを唱える行者のためには、善でも悪でもない)」

といっても、それは決して人が人である限りでの自立、その限りで正邪

善悪、賢愚美醜を尊ばないということではありえない。しかるに、一方で、

第三条で「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とはっきり

言っているのであるが、こうした際どい言葉を理解するためには、どう

しても、危険を恐れず、『歎異抄』十三条でいう「宿業」とか「宿善」

とかいう語が、厳密に何を指しているのかにまで立ち入って、よく考えて

みなければならないと述べています。

 

この第三条は読めば読むほど疑問が出てくるとしながら、まず、「悪人」

とは、世間の善人に対してその逆の「悪人」のことを指していること、

そして、その「悪人」ということが、もう一つ深い奥底に次元で言われ

ている、つまり、それは、普通にいう「善人」・「悪人」をひっくるめて、

実存の人のだれひとり免れない「宿命(さだめ)」としての「生死」の

なかなる人、「煩悩具足のわれら」すべて・各自を指して言っていると

いうことを認めることができるとしています。

 

しかし、それだけにとどまらず、留意点は、「阿弥陀さまの願いを起こされ

るほんとうの意思は、この悪人を成仏させようとするためでありましょう

から、ひたすら他力をお頼みするわれらのごとき悪人のほうが、かえって

この救済にあずかるのに最もふさわしい人間なのであります」という

ところにあると述べています。

 

親鸞にあっては、弥陀の本願・本願の弥陀=真仏即凡夫という根源的・

事実的な関係を離れて、仏について、人について語ったり論じたりする

ということは、すべて「そらごと、たわごと」であった。久しい修行と

迷いの果てに、法然の教えに導かれて、すでに永劫の過去から決定せら

れて、彼自身に懸けられていた弥陀の本願=この唯一絶対の根本的関係

に突如として眼が開かれた、と同時にこれまでいくら熱心に聞いても

唱えてもどこか他人事のようだった念仏が、まったく何の無理もなく、

彼自身の腹の底から湧き起こった、その至心の信楽(しんぎょう)・

念仏のなかで、彼はまた生まれて始めて、自分が生死無常、罪悪深重・

煩悩具足の凡夫だということが、実際はどういうことだったのか、

今もまたあるのかを、えもいえぬ歓びと血の滴る痛苦をもって、

はっきりと見てとることができたのだというのです。

 

しかし、それに対して、私たちは、この弥陀の本願、大いなる慈悲の決定

に背いて立とう、伸びようともがいている。だが、私たちがそれに背いた

まま、それに打ち勝とう、それを滅ぼそうと努めれば努めるほど、ますます

深く果てしなく、恐ろしい闇の空洞の中へと迷い入らざるをえない不幸の

源、私たち人間の「罪そのもの」が潜んでいる。私たちがこの迷いから

さめるということ、迷いを迷いとほんとうに知って人間本来の道を行くと

いうことは、ただこの道がそこに発する弥陀即凡夫の根源的決定の力、

そこにおいて自己の計らいの全く断たれている「他力」の廻向(根本的に

その方向を翻(ひるがえ)すはたらき)に乗ってのみ可能であり、現実

に生起することができるとしています。

 

よって、「他力をたのみたてまつる」ということは、同時に必然的に、自己

が生来、そして今もなお、根源的な意味において「悪人」であることの

告白・懺悔を伴うものである、が、このような「他力をたのみたてまつる

悪人」のほかに、救いにあずかるに最もふさわしい人間はいない、弥陀

決定の本願浄土(全人類の本来の故郷)に至る道はどこにもない、と

親鸞は言いたかったのだというのです。

 

さて、そうすると、「悪人」という語には次のような二重に意味があり、

それをはっきりと区別しなければならないと滝沢克己氏は述べています。

 

(1)  いかなる「善人」も、「信心の行者」をさえ含めていかに正しい人も、

現在その根柢においてそれであることを免れない「罪業深重・煩悩

具足の凡夫」(罪人)。

(2)  (1)の意味で「悪人」たることにおいては、他の人と全く同じで

あるが、それにもかかわらず、自己がそのような「悪人」である

ままで、すでに無量寿命・無量光明なる真仏と絶対に離れえぬよう

に一であるという、この不可称・不可説・不可思議の決定=大い

なる慈悲そのものの「廻向」に乗って、これまでの己が心をその

本来の根源へ「廻心」するかぎりの「悪人」。

 

しかるに、「もと往生の正因なり(極楽浄土に生まれるのに最もふさわしい

人)」いわれる「悪人」は、厳密には(2)の意味の、本願弥陀の廻向に

よってひるがえされ、みずから自然にひるがえった、歴史的・現実的存在

形態としての、「悪人」を指すものと言わなければならないとしています。

 

そして、もしも、人が「他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因

なり(ひたすら他力をおたのみするわれらのごとき悪人のほうが、かえって

この救済にあずかるのに最もふさわしい人間なのです)」という親鸞の言葉

から、「悪人正機」の説を導き出すにしても、ゆめゆめ、私たち人間に巣

食う罪や人間の行う悪が「往生の正因、正機」、いいかえると積極的な役割

を果たす動因であるかのように、思い誤ってはならないとも言います。

 

なお、さらに、「善人」・「悪人」というのには、どうもそれだけではない

意味が込められているのではないかとして次のように述べています。

 

<世の富者・権力者からいつも礼儀知らずの危険な「悪人」と目されて

いる、これら(農民・漁民・狩人など)の縁(よ)る辺(べ)ない「賎民」

たちが、かの「賢人・善人」らに比べて、事実はいかに、弥陀本願の浄土

に近く立っているか、かれらの苦悩が、その苛立ちや酷薄さすらもが、その

場面こそ異なれ、幸い法然聖人に巡り合うまでの自分の思いと、いかに深く

つながっているか、すべてこのような歴史的・相対的なことであってもきわ

めて切実かつ重大な事実が親鸞をして、そのように言わせたのでしょう。>

 

さて、以上のことを踏まえると、十三条の「宿善・宿業のはからい」、すな

わち「わが心にたまたまよい心が起こるのは、遠い遠い過去からの積もり

積もった業の働きでありますし、また、悪いことをしたいと思うのも、

やはり前世からの業ゆえでありましょう」という、現代人には不思議に

思える親鸞の断言も、ほぼ精確に領解することができると滝沢克己氏

は述べています。

 

親鸞は、人間の「善きこころ」・「悪しき思い」、一般に善悪・賢愚等々の

人間的な価値と反価値の対立を、決してただそれだけで立てて見ること、

あげつらうことをしないのであり、彼の心眼は、まず第一に、一切の

人の思いに先立って、永遠に決定されている・日々新しく彼自身のもと

に来ている・阿弥陀=如来の本願(宿善)そのものに置かれていると

いうのです。

 

と同時に他方、それ自身は積極的に存在する何ものでもないもの、たん

なる虚無にすぎないにもかかわらず、「宿善のもよおし」に背いてみず

から真実の主体であるかのごとく思い、かつ振る舞うような「宿業」の、

測りがたく抗しがたい力が、事々に支配しつつあるような場所に生まれ

てきて、死に至る一日一日を過ごすように定められているともいうのです。

 

 

しかし、親鸞が「宿善のもよおし」・「宿業(悪業)のはからい」について

語るのは、ゲーテのファウストの中に出てくるような、自己の魂が避け

がたく、善悪・浄穢の両方へと引き裂かれることに対する嘆きではない、

芥川龍之介のいう一人の人間、ないし人々の間の分裂のことでさえない、

と滝沢氏は言います。

 

親鸞の眼は、人間の生と社会の内部の出来事としてそれとは次元を異に

する人間(自己)の根柢に向けられているのです。「ひとえに親鸞一人」

に懸けられている弥陀の本願決定=宿善の発見が、他面、同時に生死

無常の人生の真実相への開眼、ひいて、彼自身が生まれるから死ぬまで

のなかに全身染みている宿業の告白=懺悔である、このようなものが

親鸞における「至心の大信」・「念仏の大行」であったとしています。

 

そして、<ウサギの毛や羊の毛の先についている塵のような目に見える

か見えないような小さな罪でも、前世からの因縁によらないものはない>

という親鸞のこの一見奇怪な言葉を一点一劃も変えることなくうなずく

者のみが、人間の自由・責任というものの事実何であるか、それがいかに

貴重な、世の権力はおろか、悪魔もこれを奪うべからざる賜物であるか、

いかに慎みをもって、この賜物を行施すべきかを、今日のわが身のこと、

その「時代」と「社会」を問わず、全人類のこととして、はっきり知る

のであると述べています。










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「絶対他力」と主体的・能動的決定-歎異抄と現代2-


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歎異抄


 
「私が念仏以外に何か別の極楽往生の方法を知っていて、またその方法が

説かれている秘密の経典を知っていながら、わざとそれを隠しているので、

その奥にあるものを知りたいとおっしゃってここまで訪ねてこられたと

すれば、大変な間違いであります。」

 

「私は、ただ念仏すれば、阿弥陀さまにたすけられて必ず極楽往生ができる

という、あの法然聖人がおっしゃいましたお言葉を、ばか正直に信じている

以外に、別の理由は何もないのであります。」

 

「たとえ法然聖人がおっしゃったことがでたらめであり、私は法然聖人に

だまされて念仏をしたため地獄におちたとしても、ちっとも後悔はいたし

ません。私は(…)念仏の行によらなかったら、永遠に地獄にいるより

仕方がない身なのであります。」

 

「もしも阿弥陀さまの衆生救済の願いが真実であるとすれば、そのことを

あの『三部経』という経典で説いたお釈迦さまの説法が間違っているはず

がありません。(…)もし法然聖人の教えが正しかったならば、私があなた

方に申しました念仏往生の教えもどうして間違っていましょうか。私の信心

はそれだけ、そのほかにないのであります。」

 

「だから皆さん、以上の言葉をとっくりお考えの上、念仏を信じなさるも

よろしいし、念仏を捨てなさるもよろしい。全く皆さま方の自由勝手、皆

さま方が自分でおきめになることです」(歎異抄第二条 梅原猛氏 現代語

訳)

 

さて、前回は、主に「弥陀の本願」とは何か、親鸞にとって何であったか

について、いわば、「存在論・認識論」的な観点から見てきました。

 

そこでは、親鸞の全人生の根柢に直接かかわる、「色も形もましまさぬ」

真仏の絶対無条件の決定と、この決定自体の威力による、この決定への

親鸞に目覚め=信受が主題であり、親鸞という人間主体は、徹頭徹尾

受動的でありました。

 

そうすると、今度は、親鸞自身の能動的主体的な活動が主題ということに

なりますが、その場合、通俗的な誤解に陥らないために注意しなければなら

ないことが一つあると滝沢克己氏は言います。親鸞という人間主体は徹頭

徹尾受動的だというものの、厳密に区別しなければならない二つの意味が

含まれているというのです。

 

つまり、弥陀本願の選択=決定そのものに関しては、親鸞の人間的主体性・

選択の自由は、完全にただ単純にゼロということです。そこでは、親鸞が

これを受けるも受けないもない、「受動」ということさえ全然問題になり

えない絶対的な受動、ただ端的に事実している絶対的被決定であるが、

これに反して、この絶対的な決定(親鸞に即していうと被決定)の受容、

信受ということは、受動的な「他力の信心」だといっても、「絶対的

被決定」そのものではない、それとの関わりにおいて生起する親鸞自身の

自己決定の仕方だと言わなければならないとしています。

 

では、この場合の「自己決定」というのは、どういう性格のものなので

しょうか?

 

それは、普通にいう「意識的」決定・「自由な選択」と違って、ただ弥陀

本願の廻向によって、親鸞自身にもまったく思いがけなく、突然に起こった

目覚め、いや、目覚めというよりも、生まれながら盲目だった眼が開いた、

これまでなかった眼が始めてできた、とでも言わなくてはならない出来事だ

ということです。

 

ただし、それだけで終わってしまうと、弥陀の決定と自己の決定との混同・

同一視が起こると滝沢克己氏は言います。「絶対他力」の名において、自分

の「信心」に、今度は意識的に固執するようになると言うのです。

 

この恐るべきトリックをはっきり見破るためには、私たちは、まず、さし

あたって、普通の意味での「意識的」な「はからい」とか「決意」とか

「選択」といったものではない働き、それとは全く次元の異なる作用は、

必ずしも親鸞の信心決定の瞬間のような特別な時だけ、私たちに生起する

のではないという、ごく身近な事実に注意しなければならないと言います。

私たち各自の人生の深部・生命の芯に起こること、その人の生全体に基調

にかかわることには例外なく生起すると言うのです。

 

私たちは誰も、目の前に並べられている色々なものを選ぶように、自己自身

の全人生の基調を選ぶということはできない。なぜなら、そのようには

できていない、造られていないからだと言います。そうではなく、私たち

人間の自由は、それが成り立つと同時に、この一つの根本的な問いに対して、

何か特定の一つの答えを提出するよう、みずから一つの特定の形の答えと

なるよう、有無を言わさぬ厳しさが要求されるとしています。

 

ところが、私たち生まれながら人間には、この問いに正しく答えることが

ほとんど不可能なまでに難しいと滝沢氏は言います。

 

普通はこの問題を問題として意識することさえなく、生まれ育った宗教的・

社会的習慣にしたがって生きがいや人生の目的を持ち、それを前提にして

生きていますが、普通に「計画する」とか「選ぶ」とかいうのは、それ自身

は疑いのない確かなものとして知らず知らずのうちに立てられている大前提

の上に立って行われているにすぎない、いわば、人生の根本前提にかかわる

「無意識」の自己決定を背に負うて、その表層に起こっている「意識的」な

決定にすぎないというのです。

 

よって、親鸞の「自己決定」は、現代社会における「思想・心情の自由」と

は異なります。実際に存在する人生の根本前提は、私たち人間が選択する前、

あれこれ考える前に、すでに置かれている、どう改変しようもなく決定され

ているからです。

 

「親鸞は法然の教えに導かれて、自己成立の根柢に臨在する唯一絶対のこの

決定に開眼した、そうして、法然に倣い、経釈の伝えるところにしたがって、

この決定を、「弥陀本願の選択・摂取不捨の大悲」として、はっきりと言い

表しました。かれにとって、全人生の根本前提にかんするかぎり、この

「自然」の決定に対してただ単純に然りを言い、これに感謝し、これを称

(たた)えて念仏するほか、いかなる道も、「選択に可能性」も残されて

いませんでした。かれの「自由」を奪いつくすこの決定、極度に狭いこの門

を通じて始めて、天地の何ものもこれを奪いえぬ人間本来の自由、すべての

ものに開きつくされたかれ自身の心が生まれてきたのです」と、滝沢克己氏

は述べています。

 

そして、この根源的な決定を受け容れても受け容れなくても、それは「人間

各自の自由」だと主張する「自由主義者」は、彼がいかに自信をもって己の「

文明開化」を誇り、「国家権力」の弾劾と「人民大衆」の啓蒙に挺身(てい

しん)しても、事実は彼のそうした自信とは全然逆に、実際に存在する自由

の根拠・根源に背いて、不明にも、単なる根なし草的生活を、本当に自由な

生活だと思い違えているのだ。この根本的な思い違い=「無意識」の錯覚に

彼自身それと気づかぬかぎり、それは結局のところ、生活の実際から遊離し

た「通人」の煩瑣な趣味を出ることはできない、としています。

 

親鸞は、もとよりこのような「自由主義」、「思想・信教の自由」について

一言も語っていないというのです。もっとも、それは親鸞が住んでいた社会

が自由主義経済を土台とする市民社会でなかったことと深く関係している

ことは否定できません。しかし、「思想・信教の問題」を経済・社会的な

ものに還元することはできないというのです。

 

滝沢克己氏は、「弥陀選択の本願に帰依するかぎり、かりに現代の社会の

ただなかに住んでいるとしても、かれ(親鸞)はただちに、「思想・信教

の自由」という「現代の良識」のなかに潜んでいる根本的な自己欺瞞・

無意識の偽善を看破したことでしょう。かれのばあい、弥陀選択の本願に

帰依するということ、摂取不捨の決定を信ずるということは、それじたい、

すなわち、自己そのもの=人間の自由そのものが事実上どこからどこへ

向かって成り立ってきているかを、はっきり知るということであったから

です」と述べています。

 

以上のことから、大きな回り道をしましたが、親鸞のいう「他力の信」と

いうものは、弥陀の選択本願、親鸞という人間主体の成立の根柢にすでに

来ている絶対無条件の決定に基づいて、ひとえにその「もようし」のおかげ

で彼自身に生起することではあるが、同時に他面、どこまでも親鸞自身の

責任において彼みずから行うところの、主体的・能動的な決定であること、

よって、それは現代人が想起する「思想・信教の自由」とそれに基づく選択

といったものとは全く異なったものであることをいくらか理解することが

できました。

 

とはいっても、弥陀本願の決定力(のはたらき)と親鸞の信心としての自己

決定の区別・関係・順序のありようを、どう言葉を尽くして説き明かして

みても、その説き明かしを本当に理解するということは、ただこれを聞く

人自身が弥陀の「もようし」によって直接に「信心を賜る」ということに

おいてしか起こりようがないことである、と滝沢氏は言います。

 

私たち人間の言葉・論理は、たとえどんなに正しく力あるものであっても、

それは要するに、一つの反響・映しであって、真にそれ自身で語る言

(ことば)・照らす事実の理(ことわり)ではありえないというのです。

 

しかし、それでもなお、親鸞の信心・念仏は絶対他力の決定・「もようし」

によるものだということと、それが徹頭徹尾、親鸞自身の自発的な決定・

選択だということとは、一見全く矛盾するように見えて、事実は決して

そうではないこと、むしろ、徹頭徹尾「自分の」ではない、それ自体で実在

=支配しつつある決定を、有無を言わさず受けるということがなければ、

人としての親鸞の自由・自発的決定ということは、絶対に成り立ちよう

も働きようもないこと、それだけはいくぶん明らかになったといえるの

ではないかとしています。

 

よって、このような他力の信心・念仏の行者であった親鸞にとって学問の

探究などは問題にもなりえなかったのであり、「彼の関心はただ一つ、人生

の事実そのものにありました。この人生に本当に確かな支えはあるの

かないのか、あるとすればどこに、どのように在り、どうこの自分自身に、

すべての人に関わっているのか、ただそれだけが彼の関心事でした。途中

でやめること、自分で打ち切ることを決してしない、長い、苦しい旅路の

すえ、彼はさいわいに縁あって法然聖人に遭い、その人と教えを通して、

弥陀の本願に帰した、人間共通の、本来の故郷に帰り着いた、するとそこ

には、それまで夢にも思わなかった 世の常の観念では「宗教」とも、

「哲学」とも、「論理」とも、「倫理」とも、どうにも名づけようもないと

同時に、それらすべての位相・役割がそこから始めて本当に照らし出されて

くる 一筋の道があざやかな形を成して、彼自身の躰(からだ)の芯に

吹き上げてきた」のだと滝沢氏克己は述べています。

 

 
 
 
 
 
  
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