FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『死後まで続く幸福のために』


にほんブログ村 
死後幸福  
 (水波一郎 著 アマゾン 発売)
 
書の<はじめに>において、水波一郎氏は、次のように述べておられ
ます。

<霊魂の実在や死後の
世界を信じている人たちは、大抵、「悪い霊魂に
憑かれた」という話を
を聞いたことがあると思われる。しかし、「憑か
れた」というような人はごく少数で、
多くの人は自分には関係のない
他人事だと思っておられる節がある。
確かに「憑かれた」という人は、
そう多くはないかもしれないが、霊魂と
「接触している人」、つまり、
不道徳な霊魂の影響を受けている人は、
昔よりずっと増えている。>

 

不道徳な霊魂は穢れた「幽気」、つまり汚い霊的な「気」を放っていて、

人は知らないうちにそれと接触し、人生の様々な面において悪影響を

受けているということです。

 

よって、私たちは何とかしてこの穢れた幽気の悪影響から身を守らなけ

ればならないのであるが、どうしたら不道徳な霊魂や穢れた幽気などの

悪影響から身を守れるのか、について説明したいと述べておられます。

 

この書で記されていることは、それだけではありません。このことがさら

に死後の幸福というものに大きく関わっているということを明らかにし、

警告を発することも本書が意図するところであろうと思います。

 

ところで、ひと昔前までは、死後の世界というと、罪と罰、つまり、地獄

における裁きと刑罰に対する恐怖というものがまずイメージされたように

思いますが、昨今では、様子が大きく異なってきているようです。

 

日頃、死後の世界を信じない人でも、葬儀に際して、死者が「天国へ旅立た

れました」などと言い、「地獄」などは眼中にありません。

 

また、死後の世界があると信じている人も、「スピリチュアル」や「臨死

体験」本の影響もあってか、きわめて楽観的で、死後は明るい世界が

待っていると言い、死後、不幸が、地獄が待っているとは言いません。

 

しかし、事実はどうなのでしょうか? 人は皆、死後、天国のような幸せ

な世界へ行けるのでしょうか?

 

どうも、かつての「地獄の審判」は誤っているとしても、この世が、お花畑

ではないように、死後の世界もそんな生やさしい世界ではないようです。

 

普通の人が普通に生きて、そのまま死後の世界に入ったとしても、苦しみに

満ちた下層の世界に入らざるを得ない時代になったということです。

 

霊的世界の法則、実態は、この世(物質世界)の法則、倫理、道徳や思想、

哲学とは大きく異なっていて、このことへの無知、誤解が死後の世界での

不幸や苦悩を増大させているようなのです。

 

たとえば、死後行く世界は、いかに心を成長させたか、いかに美しい愛の

心を育てたかによってではなく、死後使用する霊的身体である幽体の状態、

つまり、幽体の質とその健全度によって決まるようなのです。(もちろん、

心を成長させることは良いことですが、肉体の心の成長は、幽体と幽体

の意識の進歩向上とは無関係だということです。)

 

また、この世も激しく変化するように霊的世界も刻々と変化をしています。

もう、50年も100年も昔の、古く、そして未熟な「霊界通信」では、

対応できない時代になってきているということです。

 

これらのことを想うと、愛に満ちた美しい花園のイメージに心の安らぎ

や慰めを求めることも時には必要かもしれませんが、それが死後の大き

な苦しみに対して無力だとしたら、そこに安住しているわけにはゆき
ません。

 

現在の状況、つまり、普通に生きた多くの人たちが苦しみに満ちた下層

に入るという現実を見つめ、単なる慰めではなく、不幸や苦しみの根本

原因を取り除くために、今、具体的に何をすればいいのかを考え、それを

実践する時期に来ているのではないかと思います。

 

本書は、最優先課題、つまり、霊的な身体である幽体、そして念、霊的な

気である幽気、間気というものの問題と、その改善法に焦点を絞りながら、

どうすれば死後まで続く真の幸福を得ることができるのかを、初心の方にも

分かるように平易に記されています。また、こうした基本的な事ばかりでは

なく、今まで明らかにされなかった重要な事柄についても触れられています。

 

是非、多くの、一時の慰めに飽き足らない、真実を求めようとする方々に

読んでいただきたいと思います。

 

詳しい内容については、本書を読んでいただくとして、少しでも知って

いただくために目次を紹介しておきたいと思います。

 

 

はじめに

 

第1章 霊的な事で知らないうちに不幸になっている

1 霊的な不幸は誰にでも起きる

2 霊魂だけが問題なのではない

3 念の問題

4 幽気の問題

5 間気の問題

6 不道徳な霊魂との遭遇

 

第2章 不道徳な霊魂の事情

1 霊媒体質とは?

2 この世にいる霊魂の実際

3 霊魂もつらい

4 霊魂に狙われやすい人

5 普通の人の霊的状態

 

第3章  念の悪影響

1 念の力

2 幽体の傷

3 幽体の病院

 

第4章   幽体の状態は死後をも不幸にする

1 苦悩は続く

2 下の世界に入った人

3 中間的な世界に入った人

4 上の世界に入った人

5 更に上に登って行く霊魂

 

第5章   良好な幽気を吸収するために

1 幽体を健全にするためにはどうすれば良いか

2 幽体を健全にする技法

3 低い幽気を取り除くには

4 高級な幽気を浴びる

5 高級な幽気を集める

 

第6章   間気の改善

1 間気の実際

2 間気の性質

3 間気の対策

 

第7章   幽気の改善

1 幽気の流れを良くする

2 幽気の性質を良くする

3 幽気を吸収するには

 

第8章   幽気、間気、幽体改善の為の方法

1 幽気の流動を促進する方法

2 幽気の性質を良くする方法

3 幽気を強くする方法

4 間気の流出防止法

5 間気の流動

6 間気の増加

7 間気の強化

8 幽体の不調の改善法

 

第9章   幽体の霊的調査

1 ある霊的調査

2 別の霊的調査

3 霊的調査の限界

 

第10章  幽体を観察してみると

1 幽体のズレ

2 死の準備

3 幽体と信仰

4 動物の幽体

5 幽体の病気

 

第11章  上の世界の霊魂を想う

1 上の世界の幽気

2 高貴な気

3 日本の現状

4 指導霊の影響

5 指導霊の登場

 

第12章  幽体の嘆きを知る

1 人間の幽体

2 幽体の病気の予防

3 幽体の傷もさまざま

4 人生を好きに生きる

5 最後の時

6 いろいろな生き方

 

おわりに 

 

以上ですが、「おわりに」は、次のように締めくくられています。

 

「どうにもならないほど辛い時、人は信じてもいない神に祈ります。願い

が叶わないと知っていても、それでも神に祈らずにいられないのです。

それは人の本性なのかもしれません。」

 

「人が真剣に涙を流し、神に祈る時、その幽体からは強い念が出ます。

ですが、守護霊、指導霊はその念の意味がわかりません。人の涙がどんな

に重くても、それは決して届かないのです。それでも、必死に祈っている、

という事だけは、守護霊や指導霊に理解できる事があるようです。(どう

しても意味がわからない。…)守護霊、指導霊も、同じように涙を流して

います。」

 



神伝禊法2 
 (水波一郎著 アマゾン発売)


                                                                                     


スポンサーサイト

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「心霊研究から超心理学へ」


にほんブログ村
近代スピリチュアリズムの歴史 


前回、紹介した書『神霊主義』は、<心霊科学からスピリチュアリズムへ>

という副題がついていましたが、今回、取り上げた『近代スピリチュアリズム

の歴史』は、<心霊研究から超心理学へ>という副題がついています。

 

ここから、本書の著者、三浦清宏氏は、心霊研究、あるいは心霊科学の発展

形態は、スピリチュアリズムよりも、超心理学であるというふうに見ている

ように思われます。

 

この違いには、どういう意味があるのでしょうか?

 

三浦氏は、「スピリチュアリズムと心霊研究の区別さえ分からずにイギリス

へ行って恥をかいた」と述べているように、どうも、日本特有の現象として、

心霊科学、心霊研究とスピチュアリズムは同じもののように見られており、

その上、近年、「スピリチュアル」という曖昧な言葉が流行して、ゴチャ

混ぜになってわけが分からなくなっているため、心霊研究とスピリチュアリ

ズムは、同じところから生まれながら、はっきり別の道を歩んできたという

ことを示そうという意図があるように思われます。

 

今回は、「スピリチュアリズムか、超心理学か」という問題は少し脇に

おいて、三浦氏の「近代スピリチュアリズムの歴史」に依拠しながら、

心霊研究とスピリチュアリズムの葛藤の歴史に焦点を当て、そこに潜む

問題点を明らかにできたらと思います。

 

さて、本来、欧米では、「スピリチュアリズム」という言葉は、ハイズ

ヴィル事件などに見られるような心霊現象と、それを霊的なものとして

受け入れる思想とを指すようです。一方、「心霊研究」とは心霊現象を

科学的立場から調査、研究することを指すということです。

 

日本では「スピリチュアリズム」を「心霊主義」と訳すため、「神霊研究」

と混同することが多いが、この二つは似て非なるものとされます。

 

よって、スピリチュアリスト(心霊主義者)であって心霊研究家である者

もいる代わりに、心霊研究家は、必ずしもスピリチュアリストではないと

いうことになります。むしろ、そうでない場合が多く、英国の有名な心霊

研究協会(略称「SPR」)などは、代表的なメンバーの多くが非スピリ

チュアリストたちによって占められていたのです。

 

そのため、SPRという組織はその歴史の中で何度も内部対立を引き起こし

てきたということですが、どういうところに問題であったのかを浮かび上が

らせるために、この組織の推移に焦点を当ててみたいと思います。

 

まず、SPRなどの心霊研究が始まった時代背景としては、英国における

科学技術の発達、特に化学、物理学における実験重視の傾向の高まりが

あったとされます。

 

近代科学の揺籃期は、化学や物理学などの区別も明瞭でなかったが、実験に

よってさまざまな研究対象間の関係が明らかになるにつれて各専門分野が

独立し始めるという、野心と希望に満ちた時代であったのです。科学者の

ある者は腕試しのような気持で心霊現象を解明しようと思ったり、その

欺瞞を暴露して世間の目を覚まさせようと意気込んだということです。

 

そんな中、物理学者のウィリアム・バレット教授は、同じ英国科学振興会

のメンバーであったアルフレッド・ウォレスと共に、会員の間に心霊研究

を促進しようとしました。一度は挫折するのですが、著名な学者や社会の

名士を集めて研究会を作れば世間の承認を得ることができるだろうという

新たな考えのもとでなされた彼の提案によって、SPRという世界初の

心霊研究機関が設立されたのです。

 

初代の会長は、ケンブリッジ大学の倫理学教授で哲学者、古典文学者で

あったヘンリー・シジウィックという人ですが、SPRは、このような

学問的分野の人物ばかりではなく、政治的、社会的にも卓越した人物を

擁したということです。

 

なお、注目すべきは、牧師で有名な霊能者であったステイトン・モーゼス

が副会長になっていることです。立場の違う人たちが安心して集まった

のは、科学的であることを標ぼうしたからだといえますが、スピリチュ

アリストのモーゼスが要職にいたことに示されるような混成状態は、

SPRの初期にしか見られないということです。

 

ヘンリー・シジウィックの後、会長職についた知名人には、アメリカの

心理学者ウィリアム・ジェイムズ、フランスの生理学者シャルル・リシュ、

哲学者アンリ・ベルグソン、文化人類学者のアンドリュー・ラングとギル

バート・マレー、天文学者のカミーユ・フラマリオンなどがいたようです。

 

もっとも、実際にSPRにとって重要な仕事をしたのは、有名人ではなく、

会の中核をなした10人足らずの人たちであったようですが。

 

なお、歴代会長の一人に、フレデリック・マイヤーズがいました。彼は、

死後、マイヤーズ霊として霊媒を通して通信を送り、類魂説などをもたら

しましたが、生前は、数多くの催眠実験や降霊会などの体験から「複数潜在

意識」説を唱え、以前に紹介したウィリアム・ジェイムズなどに高く評価

されました。

 

さて、SPRの特徴を一言でいうならば、それは、「誤りに対する仮借の

ない態度」、あるいは「遠慮会釈のない科学的厳正さ」ということになり

ます。多数派を厳正な科学的態度をとろうとする懐疑派が占めたところから、

ある意味、当然の帰結といえますが、それはそれまで、詐欺やスキャンダル

にまみれていたスピリチュアリズムの不正やインチキの撲滅ということに

関しては大きな役割を果たす一方で、霊媒を疑うあまり、厳正さという

ものを通り越して、狭隘さとしか呼べないような側面もあったようです。

 

そのため、その後、副会長を務めたステイトン・モーゼスをはじめとする

脱退者を出すことになるのです。

 

もっとも、シャーロック・ホームズで有名な作家コナン・ドイルや、法学者

のリチャード・ホジソンなど、最初、懐疑派であった人で、スピリチュアリ

ストに転向していった人もいます。ミイラ取りがミイラになったということ

です。

 

また、自分の地位や名誉を守るために、本心では、心霊実験の信憑性を認め

ながら、公的には否定するというようなダブル・スタンダードの科学者も

たくさんいたということです。

 

そして、最初からインチキを見破ってやるという態度で行うその調査は、

霊媒に対して過酷な扱いをし、霊媒の心を傷つけたばかりではなく、

予期せぬ現象を引き起こしたということです。

 

最初、真の霊媒現象を起こしていた霊媒がインチキを行うようになった

というのです。

 

たとえば、イタリアにユーサピア・パラディーノという卓越した女性の物理

霊媒がいて、当初は、専門家の厳しい実験を次々とクリアーしていったにも

かかわらず、だんだん、詐欺的な行為が混ざっていったのです。

 

このことについて、ユーサピアは、次のように答えたということです。

 

「インチキをやっただろうと言われたことはたくさんあります。それは

こういう訳なの。私がきっとインチキをやるだろうと思っている人たちが

いるんです。それを望んでいると言っていいくらい。私が入神状態になる

でしょう。それでも何も起こらない。そうするとみんなイライラしてくる

んです。インチキをやるだろうと思い始め、そのことしか考えなくなる。

そうすると私は自然にそれに応えてしまうの。いつもそうだというわけ

じゃないけどね。みんなの気持がそうさせるの。」

 

霊媒自身の好、不調の影響もあるでしょうが、観察者の猜疑心が実験自体

に大きな影響を及ぼしたのだと思われます。

 

以上、SPRとはどういうものだったかを見てきました。結局、スピリチュ

アリズムと心霊研究は分裂し、別の道を歩むことになるのですが、当初は、

対立しながらも影響し合い、お互いに切磋琢磨していたことが伺われます。

 

スピリチュアリズムの側にしても、心霊研究と手を携え、新しい時代の科学

たらんとしていた、少なくとも科学の仲間入りをしようとしていたのです。

 

さて、スピリチュアリズムを考えるとき、宗教、特にキリスト教との微妙な

関係を看過することはできません。

 

スウェーデンボルグのようにキリスト教を絶対視する敬虔なキリスト教徒が

スピリチュアリズムの始祖となったように、両者は切っても切れない縁で

結ばれています。スピリチュアリズムは、キリスト教に「科学的」根拠を

与える援軍であると思われていたようなのです。

 

当時、唯物論が盛んになってキリスト教社会を揺るがせ始めました。唯物論

を推進した最大の原動力は、人間と猿とは同じ祖先から進化した動物である

とする進化論でしたが、これに真っ向から立ち向かったのがスピリチュア

リズムだったのです。

 

一方、スピリチュアリズムはキリスト教会に不満を抱く人たちの福音とも

なったとされます。その最大の理由は神が罰を与えることはないという

ことだからです。

 

つまり、「最後の審判」のような神の怒りと罰などはなく、神は常に愛の

心を持って人間を救おうとしているというのがスピリチュアリズムの

霊界であり、死後の世界でも人間はすべて自分に責任を持たねばならない。

神の指図ではなく、自分の考えと行為とが霊界における自己の立場を決める。

その人間の魂の精進によってより高い世界へ行くことができるため、神の

世界に近づこうと永遠に努力を続ける、とするのです。

 

コナン・ドイルは、「スピリチュアリズムは、どの宗教の中にも入って行け

ない者のための宗教である。」という言葉を残していますが、心霊研究と

たもとを分かったスピリチュアリズムは、新しい宗教へ向かって行ったとも

言えるようです。

 

つまり、衰退期に入ったスピリチュアリズムは、それまでに蓄積されてきた

多くの「霊界通信」の中から活用できる部分を抽出して体系化し、過去の

心霊研究の成果をも取り込んで宗教教義化する方向へ向かって行ったのでは

ないかという疑問が湧くのです。

 

もう、さらなる霊的真実を世に示すことができず、結局、本格的な霊的修行

を経ていない未熟な霊媒による未熟な霊魂通信のレベルを越えることができ

なかったのではないかという思いがするのです。

 

そして、心霊研究の方はというと、1930年代以降、『超感覚的知覚

(ESP)』という論文がアメリカのデューク大学の若手教員、ジョゼフ・

バンクス・ラインによって出されたのをきっかけに、「超心理学」という

ものにとって代われて行ったと三浦清宏氏は述べています。

 

「霊媒の時代」は去り、誰もが実験に参加できる「一般能力者」の時代、

暗室の中での「心霊現象」から、明るい部屋でのESPカードやサイコロ

による「サイ(PSY)」の時代へと移ったとしています。

 

この新時代の研究の中には「死後生存」、すなわち臨死体験や生まれ変わり

(再生)の事例採集と統計的処理による研究なども含まれていますが、それ

らの研究は、研究対象と成果の多彩さ、社会的反響の強さの点で、「心霊

研究」の時代にはとても及ばなかったということです。

 

その最大の原因は、なんといっても優れた霊媒の激減であるとされます。

 

とにかく、超心理学は、いろいろな研究分野の領域で、さまざまな結果を

生んだとされるものの、その源流であるところの古典心霊科学の目的とした

「死後も個性は存続するか」という問いに対しては、何ら新しい展望を

もたらしておらず、むしろ、その問題から出来るだけ遠ざかろうとし、ただ

薮の周りを叩いているだけのように見えると、三浦氏は述べています。

 




死後幸福

 (水波一郎 著 アマゾン 発売)

 
 霊魂研究
  (水波一郎 著 アマゾン 発売)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

「神霊主義-心霊科学からスピリチュアリズムへ-」


にほんブログ村
神霊主義 


浅野和三郎氏が、心霊科学研究会を設立したのは、大正12年(1923

年)ですが、その頃、欧米のスピリチュアリズムはというと、そのころ

には、すでに80年ほどの歴史があり、第一次世界大戦をピークに黄金期

を迎えていたようで、その後、衰退期に入っていったようです。

(衰退期ではなく、新たな段階への移行期だとする見方もあります。)

 

浅野和三郎氏は、本書の序で次のように述べています。

 

「この神霊主義は、確かな科学的事実の論理的帰結であります。従って、

それは大自然の法則そのものです。ですから地上の人類の指導原理と

しては、恐らくこれ以外、またこれ以上のものはないと信じます。

少なくともこの神霊主義においては、科学と宗教は完全に握手し、道徳

と哲学とは立派に安住の地を見出しております。」

 

ここからは、時代を反映してか、スピリチュアリズムの前途への希望に

溢れ、大変、楽観的な印象を受けますが、そこには、様々な問題を孕んで

いるように思われますし、果たして、心霊科学からスピリチュアリズム

へという流れは、理想的な発展形態であったのかが問われているように

思います。

 

今回は、そのことについて考えてみたいと思います。

 

まず、浅野氏は、序論で、その心霊研究に対するスタンスとして、「本書

に述べていることはすべて生きた実験、実証の結果から帰納したもので、

ただの一つも一家言な独断はありません。現に私たちは専属霊媒を使い、

いつでも必要な時に各種の実験に応じて、私たちの主張を裏書きする用意

があります」と記しているように、科学的、客観的な姿勢を標榜している

ように思われます。

 

また、異常現象、今でいう超常現象に対する解釈についても、詐術説(いわ

ゆるペテン、インチキ、トリックの類い)や、幻錯覚説(単なる主観や暗示

が生み出したもの)、そして、精神説(人間に具わる不思議な能力の所産と

するもの)について、言及したのち、これらのいずれもが、到底、正しく

説明できない心霊事実があった時、たった一つ残るのが交霊説(霊魂説)

であるが、心霊事実の厳正な批判の結果、どうしてもこの説を肯定しな

ければならない、と非常に慎重な態度を示しています。

 

そして、<私たち心霊学徒の態度は、あくまでも、公平無私であり、断じ

て単なる部分的真理の主張にかたよってはいけません。主義をうちたてる

ことに興味がない訳でもありませんが、真理をあきらかにしてゆくことは、

更に大切です。私たちは、詐術説で砕けるものは詐術説で砕きましょう。

幻錯覚説で破れるものは幻錯覚説で破ってしまいましょう。精神説も使える

だけ使いましょう。それでも、どうあっても間に合わない時に、交霊説を

持ち出すのに、何の遠慮がいりましょうか>と述べています。

 

さて、以上のような態度にもとづき、近代心霊研究の成果を踏まえた時、

どのような教訓を私たちが引き出すのか、それはいかなる指導原理を私たち

に指示するかということですが、浅野氏は、次のように整理しています。

 

(1)  心霊現象は科学的事実である

この種の問題は、既成の宗教界では、そのよりどころを過去の経典や祖師

の行った事跡やらにおいてきたが、近代心霊研究のあっては、いつでも

科学的実験をもってすべてに臨む用意がある。久しい間、世界の心霊学会

から取り残された感のあった日本の心霊学会も、今日ではようやくすべて

の準備が整った。

 

(2)  いかなる異常現象も自然の法則の現れである

近代人は、一時自分の頭脳を過信した結果、自分の知恵が解釈できない

異常現象は、必ずうそに違いないと思うようになった。現在の日本には、

この部類に属する人々が、まだかなり多いが、時代はここに大きく変わ

ろうとしている。異常能力の所有者を機関として、実験室の内部で一切の

異常現象を作製し、それによって純学術的にそれのもつ裏面の意義、内容、

性質などを解明しようと全力を傾けるようになった。むろん、まだ、これ

によって一切の疑問が解明されてしまったとは言えないが、これまではただ、

人知でははかり知れない不思議な変化とされ、超自然的とか、超科学的で

あるかのように考えられてきた諸異常現象も、できるようにしてできる一つ

の自然現象であるという事実がつきとめられた。

 

(3)  各自は自我表現の機関として各種の媒体をもっている

人間は肉体の内に、超物質的エーテル体をもっているが、それは、幽体、

霊体、本体の三つに大別できる。この肉体、幽体、霊体、本体の四つは、

互いにに浸透して重なり合っており、各々が層をつくって偏在している

わけではない。この四つの体はいずれも、自我の行使する機関であり、

それぞれ分担がある。エーテル体は、非常に鋭敏に意念の影響を受け、

その形態は肉体のように固定的ではなく、時空の束縛を受けることが

きわめて少ない。エーテル体は、人間の地上生活中にも、しばしば離脱

するが、その場合には必ず白色のひもで肉体と結びついている。死は

そのひもが永遠に断絶した状態である。

 

(4)  各自の個性は死後に存続する

このことは、人生問題の解決の上で、きわめて深刻な影響を及ぼす一大事

であり、近代心霊研究はこの事実の実証に向かって渾身の力を注ぎ、客観

主観両面にわたってあらゆる異常現象をとらえて、綿密な討究を重ねてきた

が、その間、反対論者は激しい攻撃をしかけてきた。しかし、多くのイン

チキ霊術師たちが一掃されることはあっても、ついに厳然たる心霊事実には、

かすり傷一つすら負わせることはできなかった。確証が山積している以上、

私たちが死後個性の存続を認めることは、決して軽はずみでも迷信でもない

はずである。

 

(5)各自は永遠に向上進歩の途をたどる

既成の宗教または学説の中には、人生の目的に関して、ずいぶん不健全

極まるドグマの押し売りをしようとするものがある。キリスト教の教義で

一番問題なのは、贖罪説と最後の審判説であり、仏教では、全部再生説

である。心霊学徒にとって、人生の目的とは、生前死後を通じて、永遠の

向上であり、進歩である。現世生活は人間にとって第一段の道場であり、

やがて、肉体を放棄して、いわゆる死の関門を通過した時に、第二段の

幽界の修行がはじまる。そして、死後数百年ないし数千年を経て第三段階

の霊界生活に進む。さらに、その上は第四段階の神界となるが、地上との

距離は無限に近く、地上人としてはほとんど手のつけようがない。今日まで、

80年の心霊研究で、神界はおろか、霊界との直接交渉さえも、きわめて

まれにしか成立していないというのが公平な観察である。

 

(6)  死後の世界は内面の差別界である

ここ80年間に、各国に排出した霊媒は、優れたものだけでも相当数に

なるが、彼らは皆、各自得意な能力を用いて、超物質的内面世界の探究

調査に努力したので、今日ではある程度まで、その真相をつかむことが

できるようになった。もちろん、各霊媒の能力には限界があり、潜在意識

も混ざることがあるので、細かい点で食い違いはあるが、総合すると、

人間の自我機関が四つに大別されるように、人間の置かれる環境も、

1.物質界 2.幽界 3.霊界 4.神界の四つに大別される。

くれぐれも心にとどめておくべきことは、死後の世界が本質的に段階を

なしていて、決して無差別平等の世界ではないこと、また、それが内面の

世界であって、したがって距離や方角で測定できないこと、同時にそれが

厳然たる実在の世界であって、したがって過去現在の区別に捉えられない

ことである。

 

(7)  各自の背後には守護霊がいる

守護霊とは、先天的にその人を守護する任務をもつ他界の居住者のことで

あり、各人の背後には必ずその人に固有の守護霊がいる。これは、最近

80年間に、世界の各地で行われた心霊実験した結果がそれを示してして

おり、自分が実験した限りにおいても、各人の背後にはその人に固有の

守護霊がいたのである。

 

(8)  守護霊と本人とは不離の関係をもつ

本人と守護霊との問題を解くカギはW・ステッドやカミンズに通信を

送ったマイヤーズ霊の言う部分的再生にある。それは自我のほんの

一部分のみの再生である。本体は依然として他界にとどまるが、そこ

から発射された一念は、地上の物質に宿って新生活を営むことになる。

両者の関係は一にして二、二にして一、ちょうど本店と支店の関係に

似たものがある。離れられない強い因縁のきずなで結ばれているが、

この本店の主人こそ守護霊である。

 

(9)  幽明の交通は念波の感応である

仮説ではあるが、現世と他界の交信は、意念のエーテル光波によるもの

である。

 

(10)超現象の各界には種々の自然霊がいる

自然霊とは、ただ一度も肉体を持って地上に出現したことにない幽界以上

の存在者の総称。上級のもの、下級のものがあるが、さまざまな名称で

呼ばれている。近年の霊界通信はこの自然霊の存在を有力に支持している。

 

(11)高級の自然霊が人類の遠祖である

人類は最初から人類として進化し、猿は最初から猿として発達し、相互の

間には種類の転換は行われなかった。

 

(12)最高級の自然霊が事実上の宇宙神である

(13)宇宙の万有は因果律の支配を受ける

(14)宇宙の内部は一大連動装置をなしている

(15)全宇宙は物心一如の大生命体である

 

以上、浅野和三郎氏の近代心霊研究を踏まえた教訓、あるいは私たちに

示された指導原理なるものを紹介しました。

 

ここからは、欧米において、また日本において、霊魂と死後の世界を確信し、

それを実証しようとする人々の懸命な努力の成果を認めることができます。

 

しかし、そのまま受け入れることができるかというと、そうではありません。

 

浅野氏は、「この神霊主義は確かな科学的事実の論理的帰結であります。」

と述べる一方で、「主義をうちたてることに興味がない訳でもありません」

と言っていますが、(12)~(15)あたりになると、科学的研究という

範疇を越えているように思います。

 

また、全体を個々に見ていくと、疑問点もたくさん浮かびます。しかし、

それらを一つ一つ取り上げると非常に煩雑になりますので、それは別の機会

に譲るとして、特に疑問に思うことを少し述べてみたいと思います。

 

霊媒による心霊現象といっても、物理的な心霊実験と霊言現象や自動書記

などがあるとして、霊言や自動書記を行う場合、通信を送る霊魂の高貴さ

や、それを受け取る霊媒の能力というものが大きく問われてくると思います。

 

高級な霊媒現象というものは非常に難しいもので、たとえ、生前、著名な

学者や宗教家、あるいは文化人であったという人が、死後、理論的精緻で

高度に見える通信を送ってきたとしても、それが信憑性の高いものである

か、本当に高級なものであるかは分からないようなのです。

 

たとえば、時代が遡るほど、仏教やキリスト教の哲人だった霊魂でも、

その教義を地上の人間ほどには記憶していないようなのです。地上時代

に宗教家や哲学者として有名だった霊魂に、その方の説いた宗教理念や

思想についての質問をしてすら、正確な答が返らないということです。

正確に答えるのはむしろ、長年地上にいて人間に干渉している、あまり

高級でない霊魂の場合が多いのだそうです。

 

水波一郎氏監修のHP「霊をさぐる」の「霊魂と交信する技術」の中で、

次のように述べておられます。

 

<東洋のような修行の伝統のない西洋では、良い通信は送りにくい。>

<高級と言われる霊魂の思想を表現することは普通の霊媒ではまず無理なの

です。それが可能なのは、長い間に渡り、不可能を可能にするための訓練を

した霊媒だけなのです。><したがいまして、西洋の霊界通信のように、

訓練のない霊媒を使っても、通信を送りうる霊魂は、それほど意識の高い

方の霊魂ではなく、真実が表現されていることは少ないのです。むしろ、

こうした霊魂からの通信は、いずれ、本物が出るための過渡期に出現

する役割があると言えましょう。>

 

実際、上記の(5)のように、<今日まで、80年の心霊研究で、神界は

おろか、霊界との直接交渉さえも、きわめてまれにしか成立していない>

と述べられているように、真に高貴な霊魂との通信はほとんど不可能だった

のではないかと思われます。

 

 

また、今から30年ほど前に出された水波氏の旧著『霊魂学を知るために』

には、次のように記されています。

 

通信を送る<どの霊魂も、神でなく、神霊でもない。それは、交信に使う

霊媒の霊的身体が幽体だからである。幽体では高い通信は得られない。

西洋の心霊研究は、ここに限界を迎えた。>

 

<心霊実験は、価値のある仕事であった。多くの人の目を見開かせた。

インチキ霊媒師は別とし、何人かの高級霊媒は、まさに貴重な宝であった。

彼らに通信を試みた霊魂たちは、いうまでもなく優秀であり、高級であった。

そして、人類最高のランクの霊魂たちも、背後で指導したのである。>

 

<それでも、結局は、真理のほんの一部しか、つまり、ほんの初級しか

示せなかったといえる。西洋には、イエス、シャカ、日本古代の神人と

いった超高級霊魂が通信できるほどに高級な霊的身体がなかったからで

ある。>

 

しかし、<その歴史を無駄にしてはいけない。本書は、そのような人たち

の努力の上に立って記すものである。多くの人たちがここまで霊魂を信じる

に至ったのは、東西を問わず、名霊媒と名研究者たちの真剣な戦いがあった

からである。>

 

<しかし、本当の霊魂については、いまだに何も知られていない。世間で

いう死後の生命体としての霊魂は、その存在を信じることができるかも

しれないが、それはほんの入口であるにすぎない。>

 

よって、厳密な心霊実験を重ね、霊魂の存在を証明しようとした心霊研究

の功績を正当に評価しながらも、幽質の世界を越える高貴な霊的世界の

真実をこの世にもたらすことのできる高級な霊魂通信には到底至らなか

ったということを認めなければならないように思います。

 

そして、高級な霊魂通信の信憑性は科学的な視点で語ることは困難であり、

霊的な感性、つまり、主観的な判断しかできないということになり、結局、

宗教の範疇に入れざるを得ないことになるのではないかと思います。

その場合、深遠な宗教的領域であることに無自覚なまま、短絡的に教条化
してしまってはいけないのであり、一歩、一歩、さらなる真実の探究へと
邁進して行かなければならないと思います。

なお、宗教への信仰そのものが決して悪いのではなく、宗教を批判し、
客観的、科学的を標榜しながら、なし崩し的にスピリチュアリズム教の
信仰者になってしまうことが問題なのだと思います。







死後幸福 
(水波一郎 著 アマゾン 発売)

霊的技術 
(水波一郎 著 アマゾン 発売)








テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

宗教と霊魂学


にほんブログ村
たましいの救い 
  (水波一郎 著 アマゾン 発売)


これまで、三回にわたってウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』

を取り上げ、彼の宗教に対する見解を紹介してきました。

 

ジェイムズによれば、宗教とは、次のような信念を含んでいると言います。

 

1.目に見える世界は、より霊的な宇宙の部分であって、この宇宙から世界

はその主要な意義を得る。

 

2.このより高い宇宙との合一あるいは調和的関係が私たちの真の目的で

ある。

 

3.祈り、あるいは、より高い宇宙の霊―それが「神」であろうと「法則」

であろうと―との内的な交わりは、現実的に業(わざ)が行われる方法で

あり、それによって霊的エネルギーが現象の世界へ流れ込み、現象世界に

心理的あるいは物質的な効果が生み出される。

 

このように<私たちの知る唯一の絶対的実在と常に接触している宗教は、

必然的に人間の歴史のなかで永久的な役割を演ぜざるをえないということ

に同意しなければならない。>

 

<宗教は単なる時代錯誤や遺物でありえず、むしろ、知的内容をもって

いるといないとにかかわりなく、またそれをもっているなら、その内容が

真であろうと偽であろうと、永久に重要な役割を果たすものでなければなら

ないように思われる。>

 

<およそ一個の人間の宗教は、その人間の生命にもっとも深く、もっとも

叡智的なものである>ということです。

 

今回は、宗教というものを水波霊魂学はどう見ているか、そして、それが

意義や価値、また逆に、限界や問題点をはらんでいるとしたら、それは

どういうものか、を記してみたいと思います。

 

水波一郎氏の旧著、『霊魂学を知るために』においては、次のように述べ

られています。

 

「神は、ある巨大な意識体であるが、完全とも限らず、無限とも限らない。

そして、絶対とも限らない。善かもしれないし、悪かもしれなない。」

 

しかし、「私はやはり、読者に、神を知るべし、と呼び掛ける。地上の人間

よりもはるかに巨大な意識としての神霊、そして、その意見を伝える上級

霊魂が、それを真理というからである。これは一種の信仰である。つまり、

心の中で確信するものではあっても、それを証明できないからである。」

 

「人は、信仰ぬきには生きてない。神や仏でなくても、人は何かを信じて

生きている。…人は錯覚の上に立って、実は何かを、事実上信仰して生き

ている。それに気づかない人たちが、宗教者を笑うのである。」

 

「私の霊魂学も、とうてい全ての真理たりえない。神霊から見れば、それ

は子どもにサンタクロースの物語を教えているようなものに違いないから

である。」

 

「私の霊魂学は、宗教こそが最高の道である、と宣言する。宗教はアヘン

以上の麻薬である。人々の理性を神に従属させる。しかし、それが、理性

では得られない真実を知る第一歩なのである。」

 

「理性は、もとより大切である。しかし、それ以上に人間を向上させる

のは、巨大な力と愛と個性への憧れ、つまり、神または神霊に対する

信仰である。」

 

また、『霊魂に聞くⅡ』の第一章で、「高級霊魂にとっての宗教とは何で

すか?」という問いに対して、「この世の人達を真の意味で救う為の道標

です。宗教の分野しか、神霊や霊魂を示してくれるものがないからです」

と記されています。

 

ここに霊魂学における宗教というものの位置づけが端的に述べられている

と思いますが、これだけでは、抽象的で、誤解を生む可能性がありますので、

個別のテーマに沿って説明してみたいと思います。

 

そこで、まず、キリスト教をはじめ多くの宗教において重要視されている

と思われる「祈り」というものを取り上げます。

 

以下、水波氏の近著『たましいの救い』に主に依拠しながら紹介してみたい

と思います。

 

上記のウィリアム・ジェイムズの主張の中にも取り上げられているのですが、

水波霊魂学においても、真剣な「祈り」は、大切な(宗教的)行為だとされ

ます。

 

しかし、真剣に祈ればそれでよいというわけには行かないようなのです。

祈りで大切なことは、それが対象者に届くということですが、問題は、祈り

が届かない、或いは、届くべきところに届いていないということなのです。

 

人が、人生の重大な局面や、遭遇する困難や苦悩に際して、真剣な祈りを

発することはもっともなことなのですが、現代のよう霊的環境が著しく

悪化した状況では、神はおろか高級な霊魂(霊的存在)に届く祈りはほと

んどないようなのです。

 

そして、届かないだけならまだしも、逆に、高級でない霊的存在、未発達

な霊魂や邪霊と呼ばれるような霊魂に届いてしまい、一時、祈りが成就した

ように見えても、後に、様々な障害や不幸をもたらすことが起こり得るのだ

そうです。

 

つまり、祈りを発する人の想念に近い性質の幽体(死後も使用する霊的

身体)を持つ霊魂にしか届かないということです。

 

さて、このように、普通の人の祈りは高級な霊魂には届かず、祈りが良い

結果をもたらすことがほとんどないとすると、祈りという行為は、全く無

意味な行為になってしまったのでしょうか?

 

決してそうではないのです。真面目で真剣な祈りは大きな意味があると

されるのです。

 

確かに、祈りが高級な霊魂に届くことはありませんが、その霊魂に仕えて

いる補助的な霊魂には届き得るようなのです。

 

補助的な霊魂というのは、人間の幽体により近い存在で、霊的な進歩と

いう面では未熟でも、本気で神に仕えたいと思っている霊魂、あるいは

人間を助けたいという霊魂だということですが、そうした霊魂には届き

得るということです。

 

そして、何よりも価値があるのは、その行為が霊的に高級な存在に対して、

自分の意思を明確に伝えることになるということなのだそうです。

 

高級な霊魂は人間の意思を尊重するために、まず、求めるということが

大事であり、神、仏、その祈りの対象の名称がどうであれ、単なる目先

の利益ではなく、高級な霊的存在の指導を賜りたいという祈りが必要だ

ということです。

 

ただし、その祈りの場というものも無視できない状況になってきており、

邪霊が多数いるようなところではリスクが伴うようです。

 

ともかく、祈りの価値とは、高級霊魂に仕える霊的存在との接点を増大

させることであるが、祈りのときとは、肉体(と重なっている幽体)が

動いていない、つまり、自由な意思が高貴な霊魂に向かっていて、なお

かつ、動きが制止している交流しやすい瞬間であるのです。

 

なお、そうなると、瞑想も同じような意味があるように見えますが、そこ

に祈りが伴わないと成果は小さいようです。瞑想の心理的な効果は別にして、

霊的な効果だけを言うと、宗教的な祈りが伴わないものは、成果がほとんど

ないということです。

 

もっとも、祈りと瞑想が組み合わされていると、霊魂にとってはより交流

しやすくなるようですが、瞑想は祈りよりもさらに霊的な危険が高くなる

ため、その危険性を考えた指導システムのもとで行う必要があるようです。

 

ところで、祈りとは、様々な願いを発することですが、一言でいうと、

「救い」を得るためということであり、それは宗教の主要な目的であろう

かと思います。

 

そこで、次に、この「救い」というものを取り上げてみたいと思います。

 

一般的に「救い」というと、現世的な救い、つまり、貧困や病気からの救い

を思い浮かべますし、また、人生における様々な心の悩み苦しみからの救い、

癒しや安らぎを得ることなどが想起されます。

 

しかし、貧困や病気といったものは、政治的手段や医学の発達といったもの

にとって代わられ得るため、宗教固有の領域としては、「心の救い」という

ことになろうかと思われます。

 

もっとも、心の問題の解決も、心理カウンセリングや、精神医療といった

ものが、それに代替してきており、宗教教義、つまり、「教え」による

「心の救い」は、心の修養あるいは成長、癒し、安らぎといったものに

狭められつつあります。

 

(なお、キリスト教などにおける原罪、つまり、宗教的な罪からの救いの

問題は、大変重要なことですが、長くなりますので、別途、取り上げたい

と思います。)

 

とにかく、宗教の果たす役割は、「心の救い」、とりわけ「心の修養」だ

ということになりそうですが、そこに大きな問題があるようなのです。

今まで宗教の重要性を言いつつも、ここに至って宗教の持つ弱点に目を

向けなければならないことになります。

 

心の修養、成長だけでは、あまり価値がないようなのです。表面の心は、

人という巨大な魂のほんの一部に過ぎないからです。(先述のウィリアム

・ジェイムズも表層の意識のみならず、深層意識というものに着目して

いたように思います。)

 

宗教の教えによって表面の心がどれだけ立派になったとしても、癒された

としても、魂全体としての進歩ではないため、死後、上層の世界に入れる

わけではなく、長い目で見れば、真の幸福には至れないし、苦悩から救わ

れないようなのです。

 

さて、以上のことから、祈りや宗教の価値とその問題点を認識したとして、

それでは、本当の「救い」とはなんでしょうか? どうすればそれが得ら

れるのでしょうか?

 

この問いに対して霊魂学は、「たましいの救い」を主張しています。

 

人とは、魂という巨大な意識体で、肉体とその心(意識)、幽体とその心

(意識)、そして、霊体とその心(意識)があり、それら全体の進歩、

向上を図ることが、たましいの救いにつながるとされます。

 

人は、肉体の心のほか、幽体や霊体の心の影響をも受けて生きており、

また、霊魂の影響を受け、幽気という霊的な気の影響も受けているので

あり、霊的な生命体としての救いを求めないと真の幸せは得られない

ということです。

 

とりわけ、死後、行くこととなる世界との関係で、幽体の不調の改善、

強化は喫緊の課題となります。

 

どうも、死後の世界の下層は、言語を絶するほどの恐ろしい世界のよう

で、一度落ちたら容易に抜け出せないところなのだそうです。

 

よって、とにかく、死後、苦しみに満ちた下層の世界に入らないことが最

優先だということです。そのために、生前、肉体と重なっていて、死後、

使用する幽体という霊的身体の健全化と幽体の意識の成長を図っておく

ことが大切であり、それが何よりの救いとなるのだということです。

 

(なお、霊的身体の健全化、幽体等の意識の成長のためのトレーニング法

については、少し前、「神伝の法と信仰」の中で紹介したところです。)

 

最後に、『霊魂学を知るために』の一節を紹介しておきたいと思います。

 

「心の修養は、高級霊魂にいわせると、無価値である。何も変わらない

からである。人間は幽体の未熟さに気がつかない。そして、下層に落ち

てゆく。」

 

「私に言わせれば、心を修養すれば、天国とか、仏のそばとかへ行ける

と考える人は偽善者である。…それはご利益以外の何物でもない。」

 

「真理を目指し、たとえ地獄へ落ちても、仏を信じるというなら、それは

強い信仰である。それで、彼はやはり下層に落ちるかもしれない。しかし、

それが彼の信じる道であるならば、彼はやがて上層へ登ってゆく。幽体の

不健全を解消すれば、必然的に上に登るからである。そして、魂を進化

させ、いつか霊界(幽質界の最上級)の人となる。それが、真の信仰者で

あり、真の修養者である。」

 

以上のことから、我々は、宗教の持つその大きな価値と共に問題点、限界

を明確に見極めることが大切ではないかと思います。









霊魂に聞くⅡ 
 (水波一郎 著 アマゾン 発売)










テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

神秘体験・神秘主義-「宗教的経験の諸相」3-


にほんブログ村
ウィリアムジェイムズ1 
 (ウィリアム・ジェイムズ)



ウィリアム・ジェイムズは、宗教的生活というものは、見えない秩序が

存在しているという信仰、および、私たちの最高善はこの秩序に私たちが

調和し順応することにあるという信仰から成り立つといえるとし、そして、

個人的な宗教経験というものは、意識の神秘的状態にその根をもっている

と考えられると述べています。

 

前回、紹介した回心、とりわけ、瞬間的な回心というものは、一つの神秘

体験、見神体験という側面がありました。

 

今回は、神秘体験および神秘主義に焦点を当て、ジェイムズがこのことに

ついてどのように考えているかを見てみたいと思います。

 

彼は、まず、「意識の神秘状態」という表現は何を意味するのか?私たち

は、神秘的状態をほかの状態からどう区別するのか?を問わねばならない

としています。

 

その際、「神秘主義」および「神秘的」という語は、しばしば、私たちが

はっきりしない、茫漠とした、感傷的な、事実的にも論理的にも根拠が

ない、というような考えに投げかけられる非難のための用語として使われ

たりするため、この語に制限を加える必要があるとして、神秘的状態と

いうものの四つの標識を掲げています。

 

1.言い表しようがないこと

この状態を経験した人は、すぐに、それは表現できない、その内容にふさ

わしい報告を言葉であらわすことはできないとされる。そうすると、当然、

その性質がどんなものであるかは直接経験しなければわからないことに

なる。それは他人に伝えたり感応させたりできないということになる。

この特性から見ると、神秘的状態は知的な状態よりもむしろ感情の状態に

似ている。

 

2.認識的性質

神秘的状態は、感情の状態に大変よく似ているけれども、それを経験した

人にとっては、また、知識の状態でもあるように思われる。神秘的な状態

は比量的な知性では量り知ることのできない真理の深みを洞察する状態で

ある。それは照明であり、啓示であり、どこまでも明瞭に言い表され得ない

ながらも、意義と重要さに満ちている。

 

3.暫時性

神秘的状態は長い時間続くことはできない。まれな例は別として、半時間、

あるいはせいぜい一時間か二時間が限度であるらしく、それ以上になると、

その状態は薄れて、日常の状態に帰してしまう。消えてしまえば、その状態

は、たいてい不完全にしか記憶によびもどすことができない。しかし、その

状態が再び起これば、それと認められる。そして、再発また再発と、絶えず

発展してゆくことがあるが、その再発のたびごとに、内面的な豊かさと重大

さとがますます強く感じられてくる。

 

4.受動性

神秘的な状態の出現は、たとえば、意識を集中するとか、何らかの肉体的な

動作をおこなうとか、その他、神秘主義の手引きなどに定めてあるいろいろ

な方法とか、そういう自発的な準備操作によって容易にすることができるが、

この特殊な性質の意識状態が一度あらわれると、その神秘家は、まるで自分

自身の意志が働くことをやめてしまったかのように、ときにはまた、まるで

自分が、ある高い力によって掴まれ、担われているように感じる。

 

以上の四つの特徴は、特別の名称を付して慎重な研究を要求するに足るほど

特殊な一群の意識状態をなしているとして、ジェイムズは、これを神秘的な

群と呼んでいます。

 

さて、次に、ジェイムズは、偶発的、散発的に現れる神秘的意識について、

いくつかの例を掲げています。それも、神秘的経験の範囲は極めて広いため、

限られた時間内で結論を出すためには、同類のものを並べて研究する必要が

あるとして、特別に宗教的意義を要求しない現象から、極端に宗教的である

と見られる現象へと考察を進めています。

 

ある格言とか文章とかのもっている深い意味が、何かのはずみでいっそう

深い意味を帯びて突然にパッとひらめく、といった、もっとも単純な神秘的

経験の階梯、また、いつか、遠い、遠い昔、ちょうどこの同じ場所で、この

同じ人々と一緒に、まったく同じことを話したことがあるというような、階

梯がもう少し進んだ段階、さらに、アルコールによる酩酊時や、麻酔時の

啓示的体験を紹介してゆきます。

 

そして、次に、宗教的生活の一要素としての宇宙的、神秘的意識が方法的に

養成される場合について論究しています。

 

ヒンズー教徒、仏教徒、イスラム教徒、キリスト教徒と、これらすべてが

方法的に養成をしているというのです。

 

もっとも、ジェイムズは、インドにおけるヒンズー教、とりわけ、ヨーガの

修練、そして、仏教の禅における修行について手短に触れたあと、あまり

なじみのないイスラム世界におけるスーフィ教派、そして、どちらかという

と内部から猜疑の目で見られているキリスト教の神秘家の告白の例示に多く

を費やしています。

 

ペルシャの哲学者で神学者であるアル・ガザリーの告白とは次のようなもの

です。

 

「スーフィ教徒たるための第一の条件は、神ならざる一切のものを心から

追放することである。観想的生活のための第二の鍵は、燃えるような魂から

発する謙虚な祈りであり、神の瞑想に心をまったく呑まれてしまうことで

ある。しかし実はこれはスーフィ教的生活の初歩に過ぎないのであって、

スーフィ教の究極は神のなかにまったく吸収されてしまうことである。」

 

「初歩からして、スーフィ教の啓示は、目醒めたままで天使たちや預言者の

魂を目の前に見るほど鮮やかな形をとってあらわれる。…それから法悦は

形や姿の知覚から、あらゆる表現を絶する程度にまで上昇し、それを説明

しようとすると、その説明の言葉が罪を含まざるをえないまでに至る。」

 

「この法悦の状態を経験したことのない者は、預言という名を知っている

だけで、預言の真の本質について何も知らない。」

 

よって、<法悦状態が伝達できないということが、すべての神秘主義の

基調である、神秘的真理は法悦の経験をもつ者に対してのみ存在し、それ

以外の者に対して存在しない>とジェイムズは述べています。

 

さて、キリスト教会に目を移と、多くは猜疑の目で見られたが、そこにも

神秘主義者は存在したということです。これらの人々の経験が先例となり、

主にカトリックにおいて、それを土台としてその上に神秘神学の体系が

集成されたようですが、この体系の基礎をなしているのは「祈り」

もしくは瞑想です。

 

聖テレサは、神秘的経験における最高のものと見なされる「合一の祈り」

について次のように述べています。

 

「合一の祈りにおいて、魂は神に関しては十分に醒めているが、この世の

事物と魂自身とに関してはまったく眠っている。合一の続く時間は短いが、

その間、魂はまるで一切の感覚を失ってしまったかのようである。そして

何か一つの事を考えようと思っても、考えることはできないだろう。…

要するに、魂はこの世の事物に対してまったく死んだも同然、ただ神の

なかでのみ生きているのである。」

 

「魂がわれに帰ったとき、自分が神の中にあり神が自分のなかにいました

ことを疑うことがまったく不可能なようなふうに、神は魂の奥深くに身を

置き給うのである。」

 

「しかし、見えないものに関してどうしてそのような確信をもつことが

できるのか、と反問されるであろう。この質問に対して私は答える資格が

ない。それは神の全能の秘密であって、私が立ち入るべき筋合いのものでは

ない。私が知っているすべては、私が真理を語っているということだけで

ある。そして、この確信をもっていない魂が真に神と合一したことがあろう

とは、私は決して信じないであろう。」

 

しかしながら、以上のような恍惚状態は、医学的な見地から見ると、迷信と

いう知的な基盤と、変質およびヒステリーという肉体的な基盤の上に立つ

暗示的、模倣的な催眠状態以外の何ものでもないとされます。

 

ジエイムズは、それが事実であるにしても、こういう状態が惹起する意識に

ついての価値に関しては、何一つ私たちには語ってくれないのであるから、

この状態について精神的な判断を下すには、表面的な医学談で満足しない

で、その状態が生活に対していかなる果実を結ぶかを検討しなければ

ならないとしています。

 

そして、<生まれつき受動的な性格で知性の弱い神秘家たちは、実際生活

からの過剰な脱俗に陥りやすいが、生まれつき精神と性格の強い人々の

場合は、それとは正反対の果実が見出される。恍惚状態の習慣をしばしば

極度にまで押し進めたスペインの偉大な神秘家たちは、その大部分が、

明らかに不屈の精神とエネルギーを示したが、それはかえって彼らが恍惚

の状態に耽ったればこそのことであった>と述べています。

 

また、神秘状態においては、個は絶対者と一つになり、同時にまた一体で

あることを意識するというが、このように、個人と絶対者との間にある一切

の障壁を克服することは、神秘主義の最大の功績であるとも述べています。

 

ともかく、神秘的な状態は、その状態の霊感が促す方向に向かって、魂を

ますます精力的にすることができるが、もし霊感が間違ったものであったら、

それに注がれるエネルギーがいっそう間違ったもの、不正なものになると

いうことです。

 

これらのことから、神秘的な意識の一般的な特徴としては、「それは全体的

に見て汎神論的で、楽観的である。あるいは悲観論の反対である。それは

反自然主義的であり、二度生まれ、あるいは、いわゆる別世界的な精神状態

ともっともよく調和する」とジェイムズは述べています。

 

さらに、神秘主義は二度生まれと超自然性と汎神論にくみするとして、何ら

か、それが真理であるという保証を提供するのかという疑問に対して、次の

ように論述しています。

 

1.神秘状態は、十分に発達した場合には、普通、その状態になった個人に

対しては絶対的な権威をもち、そして権威をもつ権利がある。(私たちの感覚

は事実の或る状態を私たちに確信させるが、神秘的体験をした人々にとって、

それがある事実の直接知覚であるのは、私たちにとって感覚がつねに事実の

直接知覚であったのと同じことなのである。…要するに神秘家は不死身なの

であって、私たちが好もうと好むまいと、そっとその信条を享受させておく

ほかない。)

 

2.神秘的状態の啓示を、その局外者に対して、無批判的に受け容れること

を義務づけるような権威は、そこからは決して出てこない。(神秘家たちに

しても、私たちが局外者であって個人的にその召命を感じないかぎり、彼ら

がその独特な経験について伝えるところを受け容れよと私たちに要求する

権利などもっていないということを付言する。)

 

3.神秘状態は、悟性と感覚とだけに立脚する非神秘的あるいは合理主義的

な意識の権威を打破する。神秘状態は、そのような意識が意識の一種類に

すぎないことを証明している。神秘的状態は、私たちのうちにそれに活発に

呼応するものがあるかぎり、私たちが安んじて信じ続けていい別の秩序の

真理が可能であることを教える。

 

ところで、ここに至って、ジェイムズは、先に紹介したような神秘的な状態

の特徴について、つまり、汎神論的、楽観論的などとしたことに対して、

真理を単純化しすぎたのではないか、と恐れると述べています。

 

というのも、説明上の理由から、神秘主義の古典的伝統に依拠したからだと

しています。そういう古典的な宗教的神秘主義は一つの「特権的な場合」に

しか過ぎず、それは一つの抜粋であって、もっとも適した標本を選び出し、

これを「学派」として保存することによって、類型に固定されたものであり、

厳密に取り上げるならば、一致と見なされているものは、大部分、そうで

なくなってしまうと述べています。

 

つまり、深く掘り下げると、ジェームズが先に論述したほどの一致を示して

いないのであり、汎神論や楽観論でひとくくりにできないということです。

 

それと、宗教的神秘主義というものは、神秘主義の半分にすぎないと言い

ます。あとの半分には、積み重ねられた伝承というものをもっていない、

妄想的な精神病状態をも含む、低い神秘主義、あるいは倒錯的、悪魔的な

神秘主義が含まれている領域というものがある。いずれも、「天使と蛇」が

併存していると言える潜在意識、超意識の広大な領域から生ずるものである

が、それには、絶対に確実な信任状はなく、そこから出て来るものも、外に

感覚世界から来るものとまったく同じように、ふるい分けられ、吟味され、

経験全体との対決をいう試練を経なければならない、と述べています。

そして、「私たち自身が神秘家でないかぎり、神秘主義の価値は、経験的

方法によって確かめなければならないのである。それゆえ、私はもう一度

くり返して言う。非神秘主義者が、神秘的状態を、優越した権威を本質的に

授与されていると認めるべき義務はないのである」と言明しています。

 

しかし、そう言いつつも、ジェイムズは、「かかる神秘的状態が現に存在

しているという事実は、非神秘的状態こそ私たちが信ずることができる唯一

にして究極的な指令者であるとする非神秘的状態の主張を、絶対的に打破

するものである」と繰り返し言います。

 

一般に、神秘的状態は、普通の外的な意識事実に、超感覚的な意味を付与

するにすぎないとしても、神秘的な状態は恋愛や野心の感情のように、興奮

であり、私たちの霊に与えられた賜物であって、この賜物によって、すでに

客観的な私たちの目の前にある事実が、新しい表現を与えられ、私たちの

活動的生活との新しい関係を作り出すというのです。

 

高級な神秘的状態は至上の理想を、広大さを、合一を、安全を、そして至上

の休息を教えている。その状態は私たちに仮説を与えてくれる。その仮説を

私たちが無視するのは自由であるが、思考者としての私たちにはそれを覆す

ことはできない。それが私たちに信じさせようとする超自然主義の楽観論

とは、どう解釈されるにせよ、結局、この人生の意味をもっとも真実に

洞察したものであろう、というのです。


 






霊魂研究
 (水波一郎 著 アマゾン 発売)

龍
 (水波一郎 著 アマゾン 発売)

 







テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。