「キリスト」とは何か?


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「キリスト」というと、イエス・キリストを思い浮かべますが、果たして

キリストと呼ばれる存在は、イエス・キリストのみなのでしょうか? また、

そもそも、キリストとはどういう存在なのでしょうか? 

 

今回は、「キリスト」とは一体何なのか、について考えてみたいと思います。

 

さて、この「キリスト」という言葉から連想される言葉に「メシア」や、

「救世主」というものもありますから、先にこれらを整理しておきたい

と思います。

 

「メシア」とは、本来、「(油を)塗られた者」を意味する言葉で、後に、

それは理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な

救済者を指すようになったようです。

 

このメシアに対応するギリシャ語がクリストスで、その日本語的表記が

「キリスト」だということです。キリスト教徒とイスラム教徒は、ナザレ

のイエスがそのメシアであると考えていて、イエスをメシアとして認めた

場合の呼称がイエス・キリストだということになります。

 

ただし、メシアの捉え方は両者の間では異なっているようです。イスラム

でもユダヤ教、キリスト教からメシアの概念は継承されているが、イスラム

においてはイエス自身は預言者にして預言者ムハンマドに先行する神の使徒

とされていて、神が派遣したメシアであることも認識されているということ

です。

 

なお、ユダヤ教におけるメシアはダビデの子孫から生まれ、イスラエルを

再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている

が、まだ、到来していないとされます。

 

さて、キリスト教にはキリストの「再臨」、すなわち、天に昇ったとされる

イエス・キリストが世界の終りの日にキリスト教徒を天に導き入れるため、

また、世界を義をもって裁くために、再び地上に降りてくるという信仰が

ありますが、キリスト、あるいはメシアが地上に降りて来られるのは一度

のみとは限らないのです。

 

ゾロアスター教では、ザラスシュトラ(ゾロアスター)の登場から1千年

後に一人目の救世主が現れ、2千年後に二人目に救世主が現れ、3千年後

に最後の救世主が現れるとされます。

 

また、仏教においては、弥勒菩薩について説かれています。弥勒は、現在

仏であるゴーダマ。ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダになることが約束

された菩薩で、ゴーダマ・ブッダの入滅後56億7千万年後の未来にこの

世界に現れ悟りを開き、多くの人を救済するとされます。

 

ところで、ブラバッキーの神智学や、シュタイナーの人智学では、「キリ

スト」というものに対し、これらとは異なる考え方をしています。よって、

ここで神智学、とりわけ、シュタイナーの考え方を少し紹介しておきたい

と思います。

 

まず、その根幹となるのは、救済神と犠牲神(内なる神)という二つの概念

です。救済神とは、人類の前に神人(聖者)として現れ、霊的な教えを説く

神であり、犠牲神というのは、死んで物質の中に飛散し、人間の霊的本質に

なる神々だということです。

 

そして、「キリスト」とは、ロゴス(人智学の主神で、太陽に住む六柱の神々、

父・子・聖霊という三つの測面があるとされる)の「子」に相当する部分の

ことで、救済神と犠牲神が合体した存在とされます。

 

具体的には、ロゴスの一部で救済神として活動している部分が、イエスが

30歳のとき彼に宿った。つまり、十字架にかけられたとき、古い弥勒は

死んで、新しく再生した弥勒は人間の意識を地球意識に結びつけて完成

させるための教師となった。さらに、犠牲神、つまり、ロゴスの一部で、

地球意識の核となった部分(アフラ・マズダー、オシリス、デオニュー

ソス、ヴィシュヴァ・カルマンなどと呼ばれた)も、イエスが30歳の

とき、イエスに宿ったということです。

 

なお、シュタイナーは、ゾロアスター(ザラスシュトラ)について、彼が

パレスチナでイエスの身体に宿ってキリストの受肉を準備し、キリストが

イエスに宿ったときに抜け出て、マイスター・イエスになったとも述べて

います。

 

また、ソロモン系のイエスとナタン系のイエスという二人のイエスが登場

するのも、シュタイナーのイエス=キリスト論の特徴とされます。

 

さて、それでは最後に、水波一郎氏の霊魂学においては、キリストという

存在はどういうものかを紹介しておきたいと思います。

 

水波霊魂学によると、イエス師は、この物質の世界ではキリストと呼ばれ

ているが、霊的世界でもキリストと呼ばれているようです。

 

ただし、物質界ではキリストはイエス師だけであるが、高貴な霊魂の世界

では、キリストは6名おられるということです。つまり、キリストとは

称号であり、霊魂の世界のキリストとは、人類を霊的進歩に導いてくださる

偉大な魂だということです。

 

イエス師のほかは、我々が良く知るシャカ師、クリシュナ師、そして、

ホー師、ヨーイ師、ラ・ムー師と呼ばれる魂がおられるようです。

この6名は特別な魂であり、かつてそれぞれ特別な使命を持って地上に

降り、人として生きたとされます。

 

肉の身体をまとって地上に降りられたが、その正体は他の霊魂と大きく

異なっていたのです。つまり、霊魂としての価値が地上に生まれる前から

とても高かったのであり、そのために、彼らは自然な法則のままでは物質

の世界に誕生することはできず、6名が協力しあって物質の世界に生まれ

られたということです。

 

たとえば、イエス師が地上に降りられたときは、ラ・ムー師が高貴な霊的

世界で中心的な指導霊として活動をされていたようです。

 

この6名の高貴な魂は、実は、すぐにでも幽質の世界を飛び越えて、霊質

の世界へ参入すべき存在であったのであるが、それをされなかった。それは、

人類の霊的救済という、彼らの強い意思があったからだそうです。

 

それだけではなく、霊質の世界で成長したイエス師、そして他のキリスト

は全員、いつでも神霊の世界に住まうことも可能であったのです。しかし、

今でもそれをしておられないのだそうです。

 

なぜなら、霊魂として活動したほうが物質界の人間に関与しやすいからで、

神霊の世界に住むとは、名実ともに神霊になってしまうことであり、物質

の身体をまとった人間との接点をさらに遠くしてしまうからです。

 

霊魂は進歩して上の世界に入るのが自然であるが、彼らはあえてそれを拒否

しておられるのです。それ以外に人類に救いが見えないからだそうです。

 

このように、イエス師、シャカ師、そしてクリシュナ師、さらに、ラ・ムー

師、ホー師、ヨーイ師といった偉大な魂たちが地上を見つめておられるよう

です。しかしならが、彼らの魂は高貴すぎて地上の人間の霊的感知力では

理解し得ないのであり、そのためにこそ、その間をつなぐ霊魂たちが存在

しているとされます。

 

もっとも、人間は高貴な存在にただ依存するばかりではいけないという。

とかく、人間は誰かに助けてもらうことばかり考えているが、自分自身

が努力をせずに、すべてを他に任せるべきではないのです。

 

人間の社会にはそこまで要求しないのに、神や霊魂には過大な要求をする

が、それは明らかに法則の無視であるという。高級な霊魂たちは、人間の

自由意思を守るために、真に求める魂にしか力を流せないのだそうです。

 

人間は、直接、至上の神を求めようとするが、至上の神とは、全く捉えら

れないゆえ、人間には一偶像にすぎない存在であるとも言えるようです。

よって、人間はまずイエスやシャカ、つまり、かつて人間として物質界に

生きた過去のあるキリストをこそ知らねばならないのです。そして、その

ためには、まず自分たちの守護霊や指導霊を知らねばならないのです。

イエスやシャカもやはり遠い存在だからです。

 

そのままでは、人間の霊的身体はキリストの力を受け取ることができない

のです。キリストや高級な霊魂団の上位の方に思いが届くためには、霊的

な身体が相応に成長し、霊的な意識がそれにふさわしいまでに進歩を遂げ

ていなければならないということです。

 

とにかく、我々一般人は、まず、守護霊や指導霊といった霊魂たちとの

密接な交流を図るべきであり、そして、そのためには、霊的トレーニング

によって一刻も早く自分自身の霊的な状態を良くすることが必要だという

ことです。

 

霊的な身体の健全化と成長、これが、なによりもまず物質界に生きる人たち

が行うべきことであり、人生の目標とも言えることだとされます。

 

そうすれば、やがて、霊的な存在としてのイエス師が、キリスト方が本当

の姿を現すかもしれないのだそうです。

 





 霊魂イエス上

  (水波一郎 著 アマゾン 発売)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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クリシュナの伝説と真実-インド神話3-


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クリシュナ3 
ゴーヴァルダナ山を持ち上げるクリシュナ)


もう10年ほど前になりますか、「アバター」というタイトルの洋画があり

ましたが、その語源となった「アヴァターラ」とは、「降下」という意味で、

神が悪魔などに苦しめられる生類を救済するために、仮に人間や動物の姿を

とって地上に降臨すること、あるいは、こうして現れた化身を指します。

 

シヴァやインドラなども化身をとることがあるようですが、特によく知られ、

また重要なものがヴィシュヌの化身なのです。

 

ヴィシュヌの化身思想は、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』の二大

叙事詩において発展しますが、それが今日一般に知られているような形で

整備されるのは、プラーナ文献(ヒンドゥー教聖典群)においてであると

されます。

 

化身の種類と数については種々の説があり、必ずしも一致しませんが、

特に、猪、人獅子、亀、侏儒(小人)、魚、ラーマ、パラシュラーマ、

クリシュナ、ブッダ、カルキ、の十種の化身が最も一般的であると

言われています。

 

このようなヴィシュヌの化身のうち、ラーマ(英雄ラーマ・チャンドラ)

とともに最もインド国民に愛されているのがクリシュナなのです。

 

ヴィシュヌ神の化身とされるクリシュナは、『マハーバーラタ』に登場し

ます。特にその六巻に収められた、ヒンドゥー教屈指の教典『ヴァガ

ヴァッド・ギーター』において、クリシュナが戦いに疑念を抱いたアル

ジュナ王子を励まして、種々の教えを説いています。

 

この『ヴァガヴァッド・ギーター』については、以前に一度紹介したこと

がありますので、ここでは、まず、「ギーター」とともにヴィシュヌ教徒

(特にヴァーガヴァタ派)の根本教典とされる『ヴァーガヴァタ・プラー

ナ』におけるクリシュナ(ヴィシュヌ)伝説を紹介してみたいと思います。

 

(ヴィシュヌの降臨)

<悪魔どもは暴虐な王の姿をとって地上に出現した。大地の女神は彼らに

苦しめられ、牝牛に姿を変えて梵天(ブラフマー)に救いを求めた。梵天は

シヴァをはじめとする神々を連れて乳海の岸へ行き、瞑想して最高神プル

シャ(ヴィシュヌ神)を崇拝した。>

 

<梵天は瞑想のうちに天の声を聞いて神々に告げた。「最高神はヴァス

デーヴァの家に生まれるであろう。天女たちは彼を楽しませるために、

(牛飼い女として)地上に生まれなさい。ヴィシュヌ神の一部であるアナ

ンタ竜は彼の兄として生まれなさい。聖なるヴィシュヌのマーヤー(幻力)

も、主(ヴィシュヌ)の目的を成就させるために地上に下るであろう。」>

 

<マトラー市にシューラセーナというヤドゥ族(ヤーダヴァ)の王がいた。

その王の息子のヴァスデーヴァは、ウグラセーナ王の娘デーヴァキーと結婚

した。デーヴァキーにはカンサという邪悪な兄がいた。彼に「デーヴァキー

の第八番目の息子が汝を殺す」という声が聞こえたため、妹を殺そうとした

ものの、ある約束によってその時は思いとどまった。>

 

<しかし、やがてカンサは、デーヴァキーとヴァスデーヴァを牢獄に入れ、

生まれてくる息子たちを次々と殺した。さらに、カンサは自分の父や他の

ヤドゥ族の王たちをも退けて、自らシューラセーナ国を統治した。>

 

<デーヴァキーの6人子供が殺された時、ヴィシュヌの一部であるアナンタ

竜は、第7番目の息子としてデーヴァキーの胎内に入った。主はヨーガ・

マーヤー女神(ヴィシュヌの幻力を神格化したもの)に命じて、その胎児を

ヴァスデーヴァの別の妻であるローヒニーの胎内に移してしまった。この

ようにして生まれた子がバララーマである。ローヒニーはナンダの統治する

ゴークラに住んでいた。>

 

<主は、ヨーガ・マーヤー女神にナンダの妻ヤショーダーの胎内に生まれよ

と命じた。主はそのようにはからった後、自ら第8番目の息子としてデー

ヴァキーの胎内に入った。デーヴァキーは異常な光輝を放ったので、カンサ

はいよいよヴィシュヌが自分を殺すべく彼女の胎内に入ったと知った。

しかし、女性、しかも妊娠している妹を殺すことは罪になると考え、子供が

生まれてくるのを待っていた。>

 

(クリシュナの誕生)

<ある夜、ヴィシュヌ神は、東方に昇る満月のように、デーヴァキーの

胎内より出現した。その子はヴィシュヌの特徴をことごとくそなえていた。

ヴァスデーヴァとデーヴァキーは神を讃えたが、カンサを恐れて、姿を

消して下さるようにと嘆願した。>

 

<すると、幼児の姿をとったヴィシュヌは、自分をゴークラへ連れて行き、

自分の身代わりにナンダの妻ヤショーダーの娘として生まれたばかりの

ヨーガ・マーヤー女神を連れて帰るように指示した。>

 

<不思議なことに、守衛は眠りこけ、牢の鍵は自然に開いたので、ヴァス

デーヴァは神聖なる御子を抱いてナンダの牛飼村へ行き、眠っているナンダ

の妻のかたわらにいた女の子と御子をすりかえて、再び牢にもどり、その

女の子を、デーヴァキーの寝台に置いた。>

 

<カンサは子供が生まれたという知らせを聞いて牢にかけつけた。デーヴァ

キーは、「あなたは私の息子たちを皆殺しにしたが、娘は殺さないでくだ

さい」と懇願するが、カンサはそれを無視して、赤児の両足をつかむと、

それに石を投げつけた。その赤児(実は、ヨーガ・マーヤー)は、空に

舞い上がると女神の姿を現した。彼女は8本の腕をそなえ、その1本ごと

に種々の武器を持っていた。>

 

<女神はカンサに「邪悪なものよ、私を殺して何になる。お前の死をもた

らすものは他の場所で生まれている。憐れな人々を苦しめてはならぬ」

と告げた。>

 

<それを聞いてカンサは驚き、罪もない子供たちを殺したことを後悔して

許しを乞うたので、デーヴァキーとヴァスデーヴァは恨みも忘れて、快く

彼を許してやった。>

 

<しかし、夜が明けると、悪魔である大臣たちが、幼児を皆殺しにしな

ければならないと彼に勧め、さらに苦行者、祭祀執行者、牝牛、等々、

ヴィシュヌを体現しているものを滅ぼせば、それによってヴィシュヌを

滅ぼすことができると進言したため、邪悪なカンサはこの提案を受け入れ、

悪魔たちを派遣して敬虔な人々を迫害するのであった。>

 

あとは長くなるので省略しますが、無事に生まれたクリシュナの様々な

エピソードが語られています。たとえば、カンサから派遣された羅刹女が

美女に変身して猛毒を塗った自分の乳首をクリシュナにふくませて殺そう

とするが、逆にものすごい勢いで乳首を吸われ、逆に正体を現して死んで

しまった。腕白さと怪力を発揮し、凝乳の容器を割ったために継母のヤショ

ーダーに臼に縛られた際には、その臼を引きずって2本の大木を倒した。

 

また、ヤムナー河畔の湖に住むカーリアという竜が悪事をなしたことから

これを追い出した。インドラ神の高慢をくじくために彼を崇拝していた牛飼

村の人々に牡牛とバラモンと山(ゴーヴァルダナ)を祭ることを勧めると、

自分に対する祭りが中止されたことに怒ったインドラが大雨を降らせたが、

クリシュナはゴーヴァルダナ山を引き抜いて、傘のように頭上にさしかけ

人々を守った。成長したクリシュナは牛飼いの女性たちのあこがれの的と

なった。

 

そのあとも、カンサの誅殺、クリシュナの結婚等々、クリシュナの伝説は

なおも延々と続くですが、最後は悲劇的な結末を迎えるようです。

 

ヤドゥ族の人々は強い酒を飲んで正気を失い、お互いに殺し合いを始め、

クリシュナやバララーマにも襲いかかる有様となり、全滅してしまうの

です。そして、クリシュナもこの世を去ります。猟師が獣と思い誤って

射た矢に急所である足の裏を撃たれて非業の最期を遂げるのです。

 

さて、伝説のクリシュナは以上のとおりですが、クリシュナは実在の人物

かどうか?実在の人物ならば、どういう人物であったのかが気になるところ

です。古代インド学者の辻直四郎氏は、実在の人物として次のように推察

されているので、紹介しておきたいと思います。

 

<クリシュナは、なかば遊牧に従事していたヤーダヴァ族の一部ヴリシュニ

族に生まれた。父はヴァスデーヴァ、母はデーヴァキーという名であった。

最古のウパニシャッド(奥義書)の一である『チャーンドーギャ』(西暦前

600年頃)に、デーヴァキーの子であり、ゴーラ・アンギラスという聖仙

の門弟であるクリシュナについて説かれているので、クリシュナの出現は

西暦前7世紀以後に置きえない。>

 

<クリシュナはバラタ(バーラタ)族の大戦争に参加し、パーンダヴァ軍

を助け、アルジュナ王子の御者として決戦に臨んだ。クリシュナはヤーダ

ヴァ族の精神的指導者であり、新宗教の創始者でもあった。それは、その

神をバガヴァットと称し、主としてクシャトリヤ(王族)階級のために

説かれた宗教で、実践的倫理を強調し、神に対する誠信の萌芽をも含んで

いたと想像される。>

 

<クリシュナはその死後、自ら説いた神と同一視されるに至ったようである。

そこの新宗教は次第に勢力を拡張したので、バラモン教の側もそれを吸収

しようとして、ヴァガヴァット(クリシュナ・ヴァースデーヴァ(クリシュ

ナを指す))を太陽神ヴィシュヌの一権化と認めた。やがて、ヴィシュヌが

最高神の位置を確保するにおよび、クリシュナ・ヴァースデーヴァは一種族

の最高神から向上してバラモン教の主神と同化した。>

 

<その後さらにウパニシャッド(奥義書)における最高原理ブラフマンも、

ヴィシュヌ・クリシュナの一面とみなし、バーガヴァタ派のバラモン教は

完成した。クリシュナとヴィシュヌとの一致を示唆する文献の証拠は、

少なくとも紀元前4世紀にさかのぼる。>

 

さて、果たしてこの推理が正しいかどうかは分かりません。そこで、これ

とは異なるクリシュナ像、水波一郎氏の水波霊魂学によるクリシュナ師を

紹介しておきたいと思います。

 

本来、クリシュナ師をテーマとした書ではありませんので、それほど詳細

には述べられてはいるわけではありませんが、『霊魂イエス』(下巻)には、

次のように述べられています。

 

<クリシュナはインドの古代において最も有名な聖者の一人である。彼の

名はインド人でなくても知っている人は多いが、歴史や物語の中で語られ

ているクリシュナと現実のクリシュナがどのくらい一致しているかは別の

問題である。人々の物語は必ずしも真実を語っているものではないからで

ある。>

 

<しかし、霊魂達から「クリシュナ」と呼ばれる高級霊魂が実在している

ことは確かなのである。この有名な神人はインド全体の指導はもちろん、

世界全体を指導すべく、早くから世界各国を指導して回った。アメリカの

人間も指導した。また、時には、アフリカ、アジア、ヨーロッパと、あら

ゆる所でたくさんの人間の霊的指導を行った。>

 

<この高級霊は、当然のことながら、インド人の信仰を集めている。それに

より、彼はいつも呼ばれている。そのためもあってか、彼の率いる霊魂団

の数も多い。クリシュナを信仰して死んだ人間のうち、特に成長した者が、

何百、何千年にわたって選ばれ、クリシュナの霊魂団の一員となっている

のである。>

 

<そんなクリシュナが、その時、目をつけたのが、なんと日本であった。

彼は神霊界にも出入りしていたが、日本の霊山には神霊界から霊的な力を

降ろしうる場所があったのである。よって、日本にいた神人も、何名かは、

このクリシュナの霊魂団の指導を受けていた。インドの信仰は良くない、

と頭から否定する日本の聖人も多いが、クリシュナは、こういう聖人達に、

自らの霊力を振り絞って指導したのである。>

 

そして、霊的存在となったクリシュナがある日本の修行者の指導を行う様

が述べられているのですが、詳しいことは本書を読んでいただくとして、

要点を少し述べると次のようなことになります。

 

<クリシュナはイエスやシャカと同じ霊質界の存在である。霊質界の存在

は普通の人間の霊的視覚には映らないが、それでも、さも幽質の世界の存在

のごとしに仮の姿を現す。それがクリシュナの用いた技であった。>

 

<彼(ある修行者)はこれまで日本の宗教のみを良しとし、キリストや

シャカを相手にしなかった。しかし、「日本のみしか見なければ、日本しか

見えない。これは本当の意味で自分に限界を作ることになる。世界の広さ、

宇宙の広さ、霊魂の世界の広さを知らねばならない。そうして初めて、真

の修行者と言える」ということを知ったのである。>

 

 

そして、この修行者に対する霊的な指導が終了するにあたり、クリシュナ

師は自分が「インドに生まれたことがあるクリシュナという者だ」と

名乗ったあと、次のように述べています。

 

<私は神ではない。神は、もっと、もっと大きい。人々は皆、本質的に

神を求める魂だ。だが、神は目にも見えず、耳にも聞こえない。神とは

何か、それは簡単には分からない。宗教的な成長が低ければ低いほど、

人はどうしても身近な神を欲するのだ。だから、様々な偶像が作られる。

これは、未発達な魂にとって仕方のないことだ。人間の意識は少しずつ

しか成長しない。目に見えるものを欲する人達は、やがて宗教の開祖、

そして聖人達を自らの神として信仰するようになる。これが宗教と

いうものの実態なのである。>

 

<真の宗教とは、目に見えない神を魂の奥底に感じる、そういうもので

なければならない。それにはやはり、霊的な修行がいる。>

 

また、水波一郎氏の今は絶版になっている旧著には、クリシュナ師が

「オーム」という聖なる言葉と関わりがあること、さらに、呼吸法、

瞑想法、すなわちヨーガの法の創始に関わるがあることが示唆されて

います。

 

ただし、そのヨーガとは、後世のただ座って瞑想と思索にふけるような

ヨーガとは異なっていたようです。ただ座っているのではなく、行為に

よる知覚により、自らが神を知り、そして、それに近づこうと努力する、

その方法を指すようです。

 

なお、『バガヴァッド・ギーター』に登場するクリシュナも、「行為の

ヨーガ」、そして、最高神に対する「信愛のヨーガ」を説いています。

この神話に登場するクリシュナが実在のクリシュナではないにしても、

クリシュナが示そうとした真実の一端を継承しているように思われます。






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「マハーバーラタ」の神話と神々-インドの神話2-


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インド神話  
 
 
紀元前5、6世紀になると、仏教やジャイナ教が興隆して、バラモン教の

勢力は、それ以前と比較して一時弱くなります。しかし時期は定かでない

ものの、やがてバラモン教は民間信仰を吸収して、いわゆるヒンドゥー教

として華々しく復興します。

 

ヒンドゥー教の主神は、周知のとおり、シヴァとヴィシュヌとブラフマー

(梵天)の三大神とされます。特にシヴァとヴィシュヌの二神は絶大な信仰

の対象となり、それぞれシヴァ教とヴィシュヌ教という二大教派における

最高神となったのです。

 

シヴァは、『リグ・ヴェーダ』におけるルドラと同一視され、ハラ、シャン

カラ、マハーデ-ヴァ、マヘーシュヴァラ(大自在天)などの別名を持つ

とされます。シヴァはまた、かつて世界の滅亡を救うために猛毒を飲み、

青黒い顔をしているので、ニーラカンタ(青頸(しょうきょう))と

呼ばれ、また、世界を破壊する時に恐ろしい黒い姿で現れるので、マハー

カーラ(大黒)とも呼ばれています。そして、舞踏の創始者ということで、

ナタラージャ(「踊りての王」の意)とも呼ばれ、後世、彼の踊る姿を描い

た彫像がさかんに造られたということです。

 

シヴァは天上から降下したガンガー(ガンジス)川を頭頂で支え、またその

頭に新月を戴き、三叉の戟(ほこ)を手にする、彼は山に住み、常にヒマー

ラヤの山中で修行する、そして、額に第三の眼を持ち、そこから発する火焔で

愛神カーマを焼き殺す、また牡牛ナンディンを乗り物とする、といった存在

です。

 

シヴァ神の妃が、パールヴァティー(「山の娘」の意)で、彼女はヒマー

ラヤの娘とされ、ウマー、ガウリー、ドルガーなどと呼ばれます。そして、

彼女が血なまぐさい狂暴な姿を取る時は、カーリーと呼ばれるのです。

また、軍神スカンダ(韋駄天)と象面のガネーシャ(聖天)は、シヴァと

パールヴァティーの息子とされています。

 

一方のヴィシュヌは、すでに『リグ・ヴェーダ』に登場する神ですが、

元来、太陽の光照作用を神格化したものと言われています。シヴァが山岳

と関係があるのに対し、ヴィシュヌは海洋と縁が深く、彼は大蛇(シェー

 

シャ竜)を寝台として水上に眠るのです。ブラフマー(梵天)は、そのへそ

に生えた蓮花から現れたと言われています。後代になると、ヴィシュヌ神話

が整備されて、ヴィシュヌの化身(アヴァターラ)がいくつも出てきて、

クリシュナ、ラーマ、ブッダなどもその化身のうちに数えられるようになり

ます。

 

ヴィシュヌの妃がシュリー・ラクシュミー(吉祥天女)とされます。太古、

ヴィシュヌ神が音頭をとって海底から不死の飲料アムリタ(甘露)を得た

際に、海中から出現したシュリーを妃としたと言われています。

 

また、ブラフマー(梵天)は、ウパニシャッド(奥義書)の最高原理である

ブラフマン(中性原理)を神格化したものとされています。ブラフマンから

の宇宙創造説が有力になるにしたがって、抽象的な思考になじまぬ人のため

に、中性原理を人格神に変える必要が生じたようで、やがて、ブラフマー

(中性原理と区別するために男性形を用いる)は造物主(プラジャーパティ)

とみなされ、仏教の興起した頃には、世界の主宰神、創造神と一般に認めら

れるようになったということです。

 

しかし、その後、シヴァとヴィシュヌの信仰が高まるにつれて、ブラフマー

の地位は下がり、両神のうちのいずれかの影響下で宇宙を創造するにすぎ

ないと考えられるようになり、ブラフマーは両神のように幅広い信仰の対象

になることはなかったようです。ただし、さらに後代になると、宇宙の最高

原理がブラフマーとして世界を創造し、ヴィシュヌとしてそれを維持し、

シヴァとしてそれを破壊するというような、三神一体の説が述べられるよう

になったということです。

 

さて、ヒンドゥー教の代表的な文献は、二大叙事詩、『マハーバーラタ』と

『ラーマーヤナ』とされています。両者とも現在にようにまとまったのは

かなり後代のことで、西暦400年頃であろうと推定されているようですが、

その原形が成立したのは、それよりもはるか以前にさかのぼるようです。

 

『マハーバーラタ』は、十八編十万詩節よりなる大作で、量的にはギリシャ

の二大叙事詩『イーリアス』と『オデッセイア』を合わせたものの七倍も

あるという、世界最大級の叙事詩です。

 

作者は聖仙ヴィヤーサであると伝えられていますが、実際には、仏教が

興る時代よりもはるか以前に行われた大戦争に関する物語が核となり、

それに後代の種々の物語が時代ごとに付加されて、現存の形に編纂され

たものだということです。

 

主な筋はバラタ族のうちのバーンドの五王子とクルの百王子との間の

確執、それに続く大戦争にあります。戦争の結果、五王子側が一応の

勝利をおさめるが、その五王子も最後には死んで天界へ赴くのです。

 

もっとも、この主筋は全巻の五分の一ほどにすぎないようです。なぜなら、

主筋の間には、おびただしい神話・伝説・物語が導入されているからです。

以前、紹介した『バガヴァッド・ギーター』のような哲学的・宗教的な

書が編入されている例もあるところからしても、これは当時の法律・政治

・経済・社会制度・民間信仰・通俗哲学などを伝える百家全書的な資料

だと言えるようです。

 

一方、『ラーマーヤナ』は七編二万四千詩節よりなり、詩聖ヴァールミーキ

の作と伝えられています。ダシャラタ王の息子ラーマが、妻のシーターを

誘拐した羅刹王ラーヴァナを殺すまでの話を主筋とし、それに後編が付け

加えられています。

 

後編はシーターの貞節を疑う民の声があるのを知ったラーマは彼女を棄て、

最後にシーターは母なる大地に抱かれてこの世を去るというものです。

 

後世の詩論家によれば、『マハーバーラタ』はシャーンタ・ラサ(寂静の

情趣)を主題にした作品であり、『ラーマーヤナ』はカルサ・ラサ(悲の

情趣)を主題にしているということです。

 

古来、インドでは、聖仙ヴァールミーキを「最初の詩人」と呼び、彼の作品

とみなされる叙事詩『ラーマーヤナ』を「最初の詩作品(アーディ・カー

ヴィア)」と呼ぶようです。インド最古の文献であるヴェーダ聖典も詩で

あったが、それは永遠の存在である天啓聖典であるとみなされ、人間の

作った文学作品とは考えられなかったということです。

 

それでは『ラーマーヤナ』と並び称せられる『マハーバーラタ』は詩作品

(カーヴィア)ではないのかという疑問が湧いてきますが、従来、『マハー

バーラタ』の形式、文体、詩的技巧などは『ラーマーヤナ』ほど洗練され

ていないから、前者は、全体として見て、「最初の詩作品」である後者より

も古く、詩作品(カーヴィア)であるとはいえないと考える一般的な傾向

があったようです。

 

しかし、ややこしいことに、インドの伝承では、『マハーバーラタ』は

『ラーマーヤナ』よりも後に成立したとみなされていて、それは当然詩

作品(カーヴィア)であると考えられてきたともいえるのです。

 

さて、『マハーバーラタ』の主筋については、各自が読んでいただくとして、

ここでは、そこに含まれている神話をいくつか紹介しておきたいと思います。

 

<大洋の攪拌と甘露>

太古、主だった神々は、メール山(須弥山)に集まって、いかにしたら不死

の飲料である甘露(アムリタ)を得ることができるかと相談した。そのうち、

ナーラーヤナ(ヴィシュヌ神)が梵天に、「神々とアスラ(阿修羅)の群と

の両者で大海を攪拌すれば、一切の薬草、一切の宝石を得た後、甘露を得る

であろう」と言った。

 

そこで神々はヴィシュヌ神と梵天の援助により、マンダラ山を攪拌棒として

用い、大海を攪拌し始めた。マンダラ山がまわされている間に、多くの海中

の生物が死に絶え、山火事によって多くの獣が死んだ。神々の王インドラ

(帝釈天)が雨を降らせて火を消した。

 

すると、種々の大木の樹液や薬草の汁が大量に海中に流れ出た。甘露にも

似たこれらの乳状の汁と、融けた黄金の流出とによって、神々は不死と

なり、大洋の水は乳に変じた。

 

しかし、甘露はまだ現れなかったので、神々はさらにヴィシュヌの力を得て

乳海を攪拌したところ、大海から太陽と月が出現した。それから、シュリー

女神(吉祥天女)が白衣をまとって出現した。それから、酒の女神(スラ―

・デーヴィー)、白馬、ヴィシュヌの胸に懸かる宝珠(カウストバ)が次々

と現れ、最後に、甘露を入れた白壺を持つダヌヴァンタリ神(神々の医師)

が出現した。

 

この奇蹟を見て悪魔たちは甘露をひとりじめにしようと企て、神々に襲い

かかった。ラーフという悪魔が神に変装して甘露を飲み始めたとき、ヴィ

シュヌ神はこの悪魔の巨大な頭を円盤で切り落とした。このことがあって

以来、不死となったラーフの頭は太陽と月とを恨み、今日にいたるまで、

日蝕と月蝕を引き起こすのである。

 

神々と悪魔との激しい戦闘はなおも続いたが、ヴィシュヌ等の働きで神群

は勝利を収め、マンダラ山をもとの位置にもどし、甘露を安全な貯蔵庫に

隠して、その守護をインドラ神の手にゆだねたのである。

 

この神話は、一種の創造神話ですが、主題はむしろ不死の飲料アムリタの

出現とそれをめぐる神々とアスラたちの争いにあるようです。それに日蝕

・月蝕の起源を述べる説明神話が付け加えられているのです。

 

<金剛杵(ヴァジュラ)の由来>

黄金時代(クリタ・ユガ)においても獰猛(ねいもう)な悪魔たちが

跳梁していた。彼らはヴリトラを首領として、いたるところでインドラ

(帝釈天)に率いられた神々に襲いかかった。そこで神々はヴリトラを

殺そうと計画し、梵天(ブラフマー)のところへ行って相談した。

 

梵天は、「ダディ―チャという偉大な聖仙がいる。皆で彼のもとに行き、

三界の安寧のために骨をくださいと頼みなさい。彼は命を捨てて自分

の骨をくれるであろう。その骨でこのうえなく恐ろしくて堅箇な

ヴァジュラ(金剛杵)を造れ。インドラはその武器でヴリトラを殺す

であろう」と告げた。

 

梵天の言葉を聞いて神々はサラスヴァティー川の向こう岸にあるダディ

―チャの隠棲処へ行き、その足下にひれ伏して望みをかなえてくれる

よう頼んだ。するとダディ―チャは非常に喜んで、「私は今日、あなた方

のお役に立ちましょう。あなた方のために身を捨てます」と答えた。

そして、その偉大な聖者は突然息をひきとったのです。

 

そこで神々は教えられたとおりに彼の骨をとり出して、トゥバァシュトリ

(工巧神)を呼んで目的を告げたところ、トゥバァシュトリは彼らの頼み

を聞いて勇み立ち、一心不乱に仕事に励み、こよなく恐ろしい形をした

ヴァジュラを造り上げ、シャクラ(インドラ)に「このヴァジュラの打撃

により、今日、獰猛な神の敵を粉砕しなさい」と告げた。都市の破壊者

(インドラ)は、喜んでそのヴァジュラをつかんだ。

 

インドラの武器であるヴァジュラがトゥバァシュトリ(工巧神)によって

造られたこと、そして、その材料がダディヤッチ(ダディ―チャ)の骨

であるということは、いずれも『リグ・ヴェーダ』に見え、インドラは

ダディヤッチの骨により多数のヴリドラを殺したと説かれています。

 

<海水を飲みほしたアガスティア仙>

インドラはダディ―チャ仙の骨から造られた武器ヴァジュラを持ち、強力

なる神々に守られて、天地をおおっているヴリドラを攻撃したが、ヴリ

トラは巨体を持つ悪魔たちにとり囲まれていた。神軍と魔軍との熾烈な

戦闘が始まり、悪魔たちが神々を襲ったため、神々はたまらず退却した。

 

神々が恐怖にかられ、ヴリトラがますます勢いづくのを見て、インドラは

非常に意気沮喪した。それを知って、ヴィシュヌ神は自己の威光をインドラ

に注入して彼の力を増大させ、他の神々や聖仙たちもそれにならって彼を

力づけた。

 

神の王が力を得たことを知ると、ヴリトラ大きな雄叫びをあげ、それに

よって全天地は振動した。それを聞いたインドラは恐怖にかられ、あわてて

ヴァジュラを放つと、巨大なアスラ(ヴリトラ)はヴァジュラに撃たれて

大山のように倒れた。しかし、インドラはヴリトラが死んだにもかかわらず、

恐怖にかられて湖水に飛び込もうとして走った。恐ろしさのあまり、彼は

ヴァジュラが自分の手を離れたことも、ヴリトラが死んだことも知らな

かったのである。

 

神々はみな喜んでインドラを讃え、ヴリトラの死にうちひしがれた悪魔たち

を殺したが、命からがら海に逃げこんだ悪魔たちは、海底で三界(全世界)

を滅ぼすために恐ろしい計画をたてた。「全世界は苦行によって維持されて

いるから、修行者たちを殺せば、世界は全滅するのだ」として、猛り狂った

悪魔たちは、夜な夜な隠者たちを食べ続け、隠棲処に押し入っては人に見ら

れることもなく多数のバラモンを殺害した。

 

そのため、ヴェーダの学習や祈祷は絶え、祭式も行われなくなり、世界は

活気を失ってしまった。こうして祭式が実行されなくなり、世界が滅びそう

になった時、神々は非常に悲しみ、相談した結果、ナーラーヤナ(ヴィ

シュヌ)神のところへ庇護を求めた。

 

ヴィシュヌは「それは悪魔どものしわざだ。彼らは世界を滅ぼそうとして

いるのだが、彼らを殺すことはできぬ。海中にひそんでいるのだから。

そこでまず海をなくさねばなるまい。あのアガスティア仙を除いて、他の

誰が海を干上がらせることができよう」と告げた。

 

それを聞いて、神々はアガスティアの隠棲処へ行き、この偉大な聖仙を

讃えてから願いを聞いてくれるように頼んだところ、アガスティアは同意

して、神々や聖仙たちとともに海へ行った。半神たちも彼の行う奇蹟を

見ようとして、その後についていった。

 

大仙アガスティアは、「世界の安寧のために、私は海を飲みほす」と

言って、一気に海水を飲みほした。インドラをはじめとする神々はそれを

見てすっかり驚き、そして彼をほめ讃えた。それから神々は勇みたち、

武器をとって悪魔たちを殺した。しかし、若干の悪魔たちはかろうじて

生き残り、大地を裂いて地底界へ逃げ込んだ。

 

神々は悪魔を殺してから、アガスティアに感謝し、海を再び水で満たして

くれるように頼むが、アガスティアに水は消化してしまったので、それは

できないと言われ、仕方なく梵天に頼むが、梵天は、バギーラタ王が天上の

ガンガー(ガンジス)川を地上に導いた時に、海は再び水をたたえるで

あろうと予言するのであった。

 

アガスティア仙とは、『リグ・ヴェーダ』詩人の一人とみなされている存在

で、彼のインドラとの対話も伝えられているようです。『リグ・ヴェーダ』

の偉大な戦士インドラもここでは喜劇的な英雄として描かれています。

 

かくして、『リグ・ヴェーダ』においては、最大、最強で最も人気のあった

インドラの地位は、『マハーバーラタ』、つまり、初期ヒンドゥー教において

は明らかに低下していることが伺えます。神々の王とされるインドラでさえ、

バラモン殺しの罪を犯したら、長年の間、力を失って身を隠さなければなら

なかったという神話があるように、そこには司祭階級であるバラモンと戦士

階級であるクシャトリヤ(インドラ)との闘争が暗示されており、クシャト

リヤ(俗)に対するバラモン(聖)の優位性を訴えているように思われます。

 

時代は、インドラからシヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマー(梵天)の三大神の

時代に移っていたのですが、現実の社会は戦乱が絶えず、武力を持たない

バラモンたちは、クシャトリヤ階級に依存しなければならない反面、その

専横を抑えなければならないという苦渋の様が見てとれます。

 

 



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「リグ・ヴェーダ」の神々と神話-インド神話1-


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世界宗教史2 



インドの神話というと、大叙事詩『マハーバーラタ』が有名であり、以前

に紹介したことのある『バガヴァッド・ギーター』は、そのなかに編入

されているものでした。

 

今回は、『マハーバーラタ』以前の古い神話、いわゆる「ヴェーダの神話」

と呼ばれるものについて、紹介してみたいと思います。

 

さて、アーリア民族が西北インドに侵入した時期は、一般に紀元前1500

頃とされています。そして、紀元前1200年前後には、インド・アーリア

人の有する最古の文献である『リグ・ヴェーダ』が成立したと言われて

います。

 

「ヴェーダ」とは、元来、知識、特に宗教的知識を意味し、のちにその

知識を説くバラモン教の聖典の総称となったもので、詩的霊感をそなえた

聖仙(リシ)たちが超越的な意識状態のうちに、いわば啓示を受けて表現化

したものとされます。

 

なかでも『リグ・ヴェーダ』(神々に対する讃歌の集成の意味)は、ヴェ

ーダ文献の中でも最古のものであり、おそらく紀元前1500年から900

年の間に成立したとされ、それは最初期のインド・アーリア人の宗教・神話

・生活を伝える最も基本的な資料であるとされています。

 

『リグ・ヴェーダ』の宗教は多神教であり、神々は「デーヴァ」と呼ばれ

ています。そして、神々に敵対する悪魔はアスラ(阿修羅)と呼ばれて

います。ただし、最初期においては、アスラは必ずしも悪い意味で用い

られてはおらず、デーヴァと異なる性格を有する特殊な神格を指して

いたようです。

 

なお、ペルシャ(イラン)のゾロアスター教において、アスラに対応する

アフラが最高神アフラ・マズダーとなり、デーヴァに対応するダエーウ

が悪魔の地位に落ちたのは、後代のインドにおける経過とは逆になって

います。

 

さて、諸民族の宗教において、天空がまず最高神と仰がれたように、原始

インド・ヨーロッパ人たちも、天神ディアウス、つまり、父なる天を至高

の神としたようです。『リグ・ヴェーダ』においても、デーヴァと同じく、

「父なる天」と尊敬をこめて呼びかけられています。

 

しかし、『リグ・ヴェーダ』には、独立のディアウス讃歌はなく、すでに

祭祀から姿を消してしまっていたようです。天神ディアウスも、「彼ら

(天神)は他の神々の伸長の前にその影が薄くなり、暇な神となる。

至上神として崇拝されるかぎりにおいてのみ、天空神は原初の威光を

保つことに成功するのである。」とM・エリアーデが『世界宗教史』の

なかで述べているような段階にすでに入っていたのです。

 

ともかく、きわめて早い時期に、ディアウスの地位は至上神であるヴァルナ

にとって代わられるのです。ヴァルナは、インドとイランに分化する以前の

頃のインド・イラン人の最高神となったようです。

 

ヴェーダにおいても、このヴァルナが至上神として描かれているようです。

<彼は世界、神々(デーヴァたち)、人間たちを支配する。人間はこの神

の前に出ると、みずからを奴隷のように感じる。また、恐るべき絶対者で

あり、索縛の主である彼は、遠く隔たっていても罪人を縛り上げる呪術的

な力をもつが、また、同時に、彼らを解放する力を持っている>といった

存在なのです。

 

ただし、ヴァルナに奉げられた讃歌の数は他の神々と比べても多くはなく、

上記のような目ざましい威光を達成したにもかかわらず、ヴァルナも

ヴェーダ時代には衰退しつつあったのです。

 

なお、インドラが代表的なデーヴァであるのに対し、ヴァルナは典型的な

アスラであるとされますが、これは何を意味するのでしょうか?

 

M・エリアーデは、どのようにしてヴァルナが世界の王の地位に上昇する

に至ったかは、ほとんど知られていないとしながら、インドラに率いられ

た「若い神々」とアスラの称号をもつ一団の原初的神格との神話上の戦い

に着目し、アスラという言葉は原初的な状態、わけても世界が現在のよう

な組織だてられる以前から存在していた、状況に特有の聖なる力に関係

しているとしています。つまり、「アスラ」の時代が、デーヴァの支配

する今の時代に先行するということを強調する必要があると述べています。

 

ところで、ヴァルナは、宇宙の秩序と人倫の道を支配する司法神であり、

天則リタの守護者であるとされるのですが、一方で、マーヤー(変容)

と緊密なつながりを持つという二面性があるようです。

 

これは、一見、逆説的であると思われるかもしれないが、<ヴァルナの

宇宙的創造性が「呪術的」側面をも持つという事実を考慮するなら、

この関連も理解できる>とエリアーデは述べています。

 

つまり、マーヤーというものには、二種類、善いマーヤーと悪いマーヤー

とがあって、前者は、形状や存在を創造する宇宙論的マーヤーで、後者は、

呪術的、悪魔的なマーヤーを指すということです。

 

なお、このような両価性と相反するものの結合は、ヴァルナだけに固有の

ものではなく、インドの宗教的思考を特徴づけるものの一つであると

されています。

 

ヴァルナと不可分な関係にあるミトラについてエリアーデは次のように

述べています。

 

<ヴェーダではただひとつの讃歌しか彼(ミトラ)には奉げられていない。

しかし、彼は平和を好み、情け深く、法を司り、聖職者の側面を具現する

ことで、ヴァルナと主権のもつ属性を共有しているのである。その名が示す

ように、彼は人格化された「契約」なのである。彼は人間同士のあいだの

契約を容易にし、彼らにその約束を守らせる。太陽は彼の目である。彼は

すべてを見るので、何ものも彼の目を逃れることができない。>

 

<宗教的な活動や思考における彼(ミトラ)の重要性は、それとは正反対

のものであると同時にそれを補完するヴァルナとともに、彼が祈願される

ときにとりわけ明らかになる。ミトラ-ヴァルナという二項式は、神の至上

性のこのうえない表現として、すでに最古の時代に重要な役割を演じていた

が、もっとあとには、あらゆる種類の敵対的一対や補完的対立の範例的定型

として用いられたのである。>

 

さて、『リグ・ヴェーダ』で一番人気のある神はというとインドラです。

実に全讃歌の四分の一が彼に奉げられています。

 

元来、ギリシャ神話のゼウスや北欧神話のソールに比較される雷神の性格を

もっていたようですが、『リグ・ヴェーダ』においては、暴風神マルト神群

を従えて「ダスユ」、あるいは「ダーサ」といったアーリア人の敵を征服

する、英雄、理想的なアーリア戦士として描かれています。

 

インドラの中心的な神話は、『リグ・ヴェーダ』のなかで最も重要な神話

とされていて、工巧神トヴァシュトリの造った武器ヴァジラ(金剛杵)

を投じて、水をせき止める悪竜ブリトラを殺すインドラの武勲は、繰り

返し讃えられているのです。

 

なお、この神話は、多価的、多義的で、宇宙創造的な意味のほかに自然

主義的、かつ歴史的な価値が含まれているとエリアーデは言います。

 

つまり、インドラは、造物主あり、生命の横溢や宇宙的・生物学的エネ

ルギーの顕現、擬人化であるとされる一方で、嵐によって引き起こされた

雨として、あるいは山岳からの水の解放として解釈されたり、アーリア人

がダスユたちに対して持続しなければならなかった戦闘の反映であると

されるのです。

 

ともかく、インドラの悪竜退治は、一回きりの出来事ではなく、周期的に

繰り返さるもので、この神話の根柢をなすものは、周期的に繰り返される

天地創造神話であるということです。

 

なお、『リグ・ヴェーダ』において最高神であったインドラの地位は、

後代になるにつれて下落してゆきます。名目上は、以前として神々の

王とみなされますが、悪魔によって打ちのめされ、修行者の苦行に怯え

てその妨害をするというような、相対的に弱い神になってゆくのです。

 

のちに世界守護神の一つとして東方を守護するとみなされるようになった

り、仏法の守護神の一つとされ、帝釈天と漢訳されます。

 

さて、先に、インドラの悪竜退治の神話における宇宙創造論的な側面に

ついて触れましたが、『リグ・ヴェーダ』の主要部分には、明瞭な創造神

による宇宙創造は説かれていないようなのです。

 

宇宙創造神話は、あらゆる民族の神話において最も基本的なものとされて

いますが、ここでは、インドラあるいはヴァルナが創造神的な役割を果たし

たことが推測されるのみだということです。

 

それでも、『リグ・ヴェーダ』のうちで比較的後期に成立したとみられる

若干の讃歌において宇宙創造に関する見解が説かれているようですので、

紹介しておきたいと思います。

 

 

まず、祈祷主神ブラフマナスパティを創造者とする説があります。ブラフ

マンは後のウパニシャッド(秘教、秘説を意味する)思想においては、

宇宙の根本原理とみなされるが、『リグ・ヴェーダ』においては、聖なる

祈祷の語、讃歌を意味するものと解されています。このブラフマンを司る

神がブラフマナスパティであると思われ、ブラフマナスパティは、鍛冶工

のように万物を鍛えて造ったと讃えられているのです。そこでは、「有は

無より生じた」と述べられているようです。

 

次に、ヴィシュヴァカルマン(「一切を造った者」の意)を創造者とする

説があるようです。聖仙である彼は、あらゆる方角に目を持ち、あらゆる

方向に腕を持ち、あらゆる方向に足を持つという。彼は天地を創造した

とき、翼であおいでそれを鍛接(たんせつ)したということです。創造を

鍛治にたとえる点では、ブラフマナスパティと同じです。

 

なお、後のブラーフマナ文献(祭儀書)によると、ヴィシュヴァカルマン

は宇宙の祭式を行い、全生類を犠牲として供えた後で、彼自身を供えたと

いうような、創造と祭式の密接な関係を示す説もあるようです。ここに、

定期的な祭式は永遠に回帰する宇宙の帰滅と再生の模倣であるという

考え方が認められるとされます。

 

また、創造神が黄金の胎児として太古の原水の中に孕まれてしたという説

もあるようです。

 

以上の創造説は、いずれも一神教的なものですが、これらとは性格を異に

する「原人讃歌」という汎神論的な讃歌もあります。

 

これによれば、原人プルシャは、千頭・千眼・千足を有し、大地よりも

広くそれをおおっているとされます。彼は過去と未来にわたって存するこの

一切であり、万有そのものなのです。ところが、この一切の存在は実は彼の

四分の一にすぎず、彼の四分の三は天界にある不死者であるという。

 

つまり、四分の一が現象界にあたり、四分の三は本源的実在と考えられて

いて、彼からヴィラージュ(遍照者)が生まれ、ヴィラージュからプルシャ

が生まれた、という循環説が説かれるのです。

 

神々がプルシャを犠牲獣として祭祀を実行したとき、(祭祀そのもので

ある)プルシャから馬、牛、山羊、羊などが生まれた。そしてプルシャを

分割したとき、彼の口はバラモン(祭官)となり、両腕は王族となり、両腿

はヴァイシャ(実業者)となり、両足からシュードラ(従僕)が生じたと

いう。さらに、意から月が、眼より太陽が、口からインドラとアグニ(火

の神)が、気息より風が生じ、また、臍(へそ)から空界が、頭から天界

が、両足から大地が、耳から方位が生じたという。このようにして神々は

もろもろの世界を形成したとされます。

 

ここでは祭主であるプルシャ(のちに造物主プラジャーパティと同一視

される)が神々を祭官とし、自分自身を祭供として最初の祭祀を行うので

すが、この原初の祭祀による宇宙創造が、その後のすべての祭祀の原型と

なったということを意味するようです。

 

因みに、このような「原人讃歌」は、世界が巨人の身体から創造されたと

いう巨人解体神話の一例であると思われます。

 

なお、『リグ・ヴェーダ』の後期に現れた一元論的帰一思想は、『アタル

ヴァ・ヴェーダ』(呪句の集成)に継承されたということです。

 

そこでは、呼吸(プラーナ)、時間(カーラ)、万有の支柱(スカンバ)、

意欲(カーマ)などが根本原理とされ、それらの諸原理はしばしば

ブラフマンや造物主プラジャーパティと関連づけられているようです。

 

時間がこの万有を出現させたと説かれていて、時間のうちにブラフマンが

含まれ、それはまたプラジャーパティの父とも呼ばれているのです。

そして、このプラジャーパティ(「子孫の主」という意)は、ブラーフマナ

文献(祭儀書)にいたって最高の創造神となり、神々の父、万物の創造者、

全世界の主宰者と呼ばれるようになるのです。

 

しかし、のちに、プラジャーパティの創造物の一つと考えられていたブラ

フマンの重要性が増すにつれて、プラジャーパティはブラフマンに依存

するものとみなされ、ブラーフマナ文献の新層では、ブラフマンによる

宇宙創造が説かれるに至り、さらに、ウパニシャッド時代になり、アート

マンがブラフマンと並ぶ最高原理の地位につくと、アートマンからの世界

創造が説かれるようになったということです。

 






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霊的カルマ-「罪とカルマ」2-


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 前回は、キリスト教における「原罪」を取り上げ、仏教等における「罪」

については触れませんでした。

 

仏教における「罪」を語るとき、その根柢には、カルマ(業)、すなわち、

善または悪の業を作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の

報いが生じるとされる考え方があり、まず、このカルマとは何か、から

始めなければならないということでした。

 

今回は、この仏教をはじめとするインド宗教の思想に特有なカルマ(業)

という考え方を紹介しながら、併せて、水波霊魂学における「霊的カルマ」

と対比させてみたいと思います。

 

さて、カルマ(業)とは、本来、単に行為、所作、心身の活動を意味する

言葉であったようですが、それが仏教やジャイナ教など、インドの宗教に

おいて、過去(世)での行為は、善い行為であれ、悪い行為であれ、

いずれその報いが自分に返ってくるという因果の法則として体系化された

ようです。

 

また、インドでは、カルマの思想は輪廻転生とセットとして展開しました。

 

行為が行われたのち、何らかの結果がもたらされる。この結果は、行為の

終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果として

もまた現れる。行為は、行われたのちに、何らかの余力を残し、それが次の

生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の

行為に原因があり、行為(カルマ)は輪廻の原因とされるのです。

 

また、行為(カルマ)を超越する段階に達しないかぎり、永遠に生まれ

変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定され、天国で

の永遠の恩寵や地獄での永劫の懲罰といったこの世以外の世界は、輪廻の

サイクルに不均衡が生じるため、ありえないことと考えられたのです。

 

以上が、カルマ(行為)に基づく因果応報の法則であり、輪廻の思想と

結びついて高度に理論化されて、インド人の宗教観、世界観を形成して

きたということです。

 

なお、この輪廻転生と密着するカルマの思想は、決定論や宿命論として

理解されたため、人々の反発を招いたということですが、それが釈迦と

同時代の哲学者として知られた六師外道と仏教側に呼ばれた人々だった

のです。

 

さて、インド、あるいは東洋のみならず、近代における西洋のスピリチュ

アリズムにおいても、この「カルマ」の思想が取り入れられています。

 

スピリチュアリズムの興隆期においては、転生(再生、生まれ変わり)を

認めないという人たちがいる一方で、フランスのアラン・カルデックの

ように、転生(再生)を重要視する人たちがいました。

 

彼は、人は生まれ変わるとし、神から与えられた自由意思によって、転生

する間に過ちを犯してカルマを形成し、この負債であるカルマによって、

その人に災いが起こるとした。人間の苦しみの原因は自らが過去生で蓄積

した負債であり、地上の生は、この負債の返済のためにある。また、苦し

みは神の恩寵でもあり、苦しみを通じて負債が軽減されることは神の期待

に沿うことであり、苦しみを乗り越えることは大きな栄光であると主張

したということです。

 

とにかく、アラン・カルデックにおいては、自由意思は負債の原因である

と同時に、救いを可能にするものであり、個人が救済されるか否かは、

すべて個人の自由意思次第とされたようです

 

また、シルバー・バーチの場合もカルマと再生を重要視しています。

ただし、「カルマ」とは、行為とその結果という意味合いではなく、神の

摂理に違反することであり、再生とは償いや罰が問題ではなく、進化の

ためにあり、カルマという借金は教訓を学ぶための大切な手段であると

されます。

 

このようにスピリチュアリズムの場合、「カルマ」には懲罰的な意味合い

がほぼなくなっていますが、観念論的な側面が残っているように思われ

ます。

 

さて、では、水波霊魂学ではどのように「カルマ」というものが捉えられ

ているのでしょうか?

 

前回、紹介した水波一郎氏の『神体』によると、人という霊的生命体が

地上(物質界)に降りて肉の身体をまとったため、食べなければ生きられ

ない存在となったのであり、そこからあらゆる不幸が始まったということ

でした。

 

そして、人間というものが地上に誕生するとき、それは新しい生命の誕生

のように見えるが、それは厳密にいうと正しくなく、人間の地上での生命

のもとは幽質界にあったでした。

 

つまり、人間は初めて地上に降りて以来、死亡しては故郷に帰り、非常に

複雑な原理によって何度もの過去世を背負っているということになります。

 

このように人間は、過去世からのカルマを背負ってきているということに

はなるのですが、それははなはだ複雑で、過去世で人を殺したから、現世

で自分が殺されるという単純なものではないようなのです

 

水波氏の旧著『霊魂学を知るために』では、次のように述べられています。

 

<それ(カルマ)が、今回の人生における幸、不幸作っている。しかし、

カルマとは、明確な因果律であるが、決して定められた運命といったもの

ではない。>

 

過去世で人を殺したから、今度は必ず殺されるとは限らないのであり、実際

のカルマはもっと流動的で複雑だということです。つまり、何回もの過去世

で一度も人を殺していないのに、今回の人生で人に殺される人もいるのです。

 

そして、<行為の結果は、新しい現象を起こす。しかし、カルマはそれのみ

で決まるのではない。カルマとは、幽体の個我だからである>とも述べられ

ています。

 

<この幽体の個我が今回の人生で修正され、あるいは教育され、それまでの

人生と違う判断を持つに至った場合、そのカルマはかなり解消されている

といえる。逆に、今回の人生で幽体を甘やかしてしまった結果、過去世に

ない不幸を作ることもある>ということです。

 

具体的な例として、たとえば、飛行機事故、列車事故等の場合、なかには

虫の知らせで、その飛行機に乗らなかった人もいます。これは、指導霊団

が働いた場合が多いようですが、厳密には、とても複雑な理由が絡んで

いるようで、逆に、己の意思で死んでゆく人もいるようです。

 

幽体の個我は、過去の罪を悔いて、事故の起きる飛行機にわざわざ乗せよう

とすることもあれば、逆に、死ぬのを嫌がって乗せないことのこともある

ようなのです。カルマの正体とは、かくも複雑だということです。

 

ともかく、事実はあまりにも複雑であるということですが、カルマは過去

世からの行為の集積であり、人間はいつも、過去の好みや経験による失敗を

無意識の衝動として浮かび上がらせて、それが新しい環境においての選択や、

判断の基準になってゆくようです。

 

しかし、過去世のカルマといっても、表面意識と、霊体の意識、そして、

守護霊、指導霊によって、相当に変化しうるのであり、単純に、人を殺せ

ば殺される的な因果律がめぐるとは限らないのです。

 

また、水波氏は、「大きな事故があると、因果(律)論者はよく、事故に

遭った人は全員、過去世でそれ相応の罪を犯しているため、その事故は

まさに必然的なものだと言う。しかし、それは間違いである」と述べて

おられます。事実は、そのうち何割かがそのような過去をもち、それを

知らなかった幽体の個我と指導霊団がその事故に巻き込まれたという

ことだそうです。

 

通常のカルマとは無関係な高貴な魂さえも、事故に遭うし、病気にかかる

こともあるが、それは、過去の罪なのではなく、肉体を持ち、カルマの

深い人と交わるからだそうです。

 

「カルマを知れば、未来はわかる。しかし、それは確定ではない。予定と

考えれば、より近い。過去世、それを知ることは大切である。それは幽体

の個我の本性だからである」ということだそうです。

 

なお、「霊魂学は人間の罪を霊的カルマで説明する」として、次のように

述べられています。

 

<人間は、憎しみを自分自身の本質としてもっている。それが、人間の

最初の不幸を作ったのである。それはもちろん、創世記にさかのぼる。

人間の歴史は罪の歴史であり、怒りと憎しみ、そして不幸と苦悩の歴史

である。地上の幸福は、かりそめの、非実質である。それは自己満足に

すぎない。しかし、苦しみはそうではない。それは人間のもつ、幽体の罪

だからである。過去の罪の集積である。人間はどこかでその罪を終わりに

しなければならない。>

 

<死後の世界では罪の清算は終わっていない。多くの「霊界もの」が過去

世を語っている。人間は、過去からのカルマにより、今病気であるとか、

不幸であるとか、明示した人もいる。もう一方では、人間は地上の行いに

より、死後の世界で罰を受けるという説がある。いくつもの「霊界本」が

地獄の光景を語っている。たしかに、地獄はあるし、下層幽界以下では

苦しみの連続である。しかし、それは罪の清算ではなく、その幽体が住む

にふさわしい世界というにすぎないのである。>

 

<つまり、罪で落ちるのではなく、意識の質と幽体の不健全さで落ちるの

である。それは法則であって、神の意志ではない。人は自分の犯した罪で

不幸になる。>

 

 
 
 
 
  
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