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「鬼神新論」-平田篤胤2-


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平田篤胤2 




『鬼神新論』は、篤胤が江戸に出て私塾を開き、思想家としての第一歩を

あゆみ始めたときの著述ですが、彼が、最初に「鬼神論」を取り上げたと

いうことは、自身の思想を構築するために、まず、突破しなければなら

なかった議論が「鬼神」に関わる問題であったということを伺わせます。

 

「鬼神論」とは、「鬼神とは何か」、「鬼神は存在するか否か」、「鬼神の

祭祀はどうあるべきか」といったことについて、これまで多くの儒家の

間で交わされてきた議論でしたが、儒教では、いわゆる「鬼神(広義の

神と霊の意)」の捉え方やその有無さえもが、学派や個人によって様々で

一様ではなかったのです。

 

『鬼神新論』という書のタイトルは、従来の儒家の「鬼神論」に対して、

篤胤みずからが打ち立てた新説という意味を持つのですが、一門を立ち

上げた篤胤は、まず、このような儒学者たちの歴史ある土俵に立ち入って、

日本の神こそが儒教でいうところの「鬼神」であること、そして、「鬼神」

であるところの日本の神は、間違いなくこの世に実在し、今なお世界を

包み込んでいる、ということをはっきり主張しようとしたということです。

 

自身の信じる宗教・思想を正しいと言うために、他の宗教・思想を外側

から全否定するのではなく、わざわざその諸説の内側に分け入ってゆき、

同じ儒教の中でも、この説は間違っているが、この説はここまで正しい、

と逐一、批評を加えるという方法をとったのです。

 

ここでは、古来の儒者が鬼神に対して抱いてきたであろう霊的な感覚に

ついては正しいとしながら、その正しい感受性の先に、篤胤の考える

「日本の神」の世界が広がっているという風に、自説を展開していった

ということです。

 

儒教であろうと、仏教であろうと、キリスト教であろうと、おそらく世界

中のすべての宗教感覚そのものは否定しないし、彼らが何らかの霊的な

ものを感じ取ったこと自体は、決して間違いではないと考えているのです。

ただし、それをどう解釈するのか、あるいは、その感覚を突き詰めたところ

にある真実は何なのか、という点については、唯一、日本においてのみ、

正しい伝えが残されている、と考えるのであり、それが『古事記』、『日本

書紀』といった神話であり、祝詞(のりと)であり、各地に伝わる風土記

や伝承だというのです。

 

吉田麻子氏は、『平田篤胤』のなかで、「世界中で唯一、日本にだけ、霊

的存在についての決定的事実を知りうる材料が残されている。このこと

こそが、平田篤胤が本居宣長に出会うことで自ら手にした、宇宙全体を

知るための、大きな手掛かりであり、土台となるものであったのだ」と

述べています。

 

しかし、そうはいっても、儒教や仏教は、日本において長い精神的な歴史

がある。特に儒教については、篤胤も故郷において初めて学んだのは儒教

であったし、知識人の社会は儒学を中心に展開している。よって、儒学は、

篤胤自身にとっても他の学者たちにとっても、その内面からは完全に取り

除くことのできない素地のごときものとしてあった。だからこそ、篤胤は、

その中に含まれている優れた側面と誤った側面を自分の力で分析し、真っ

向からきちんと見据えることなしに、学者としての第一歩を踏み出すこと

ができなかったということです。

 

篤胤のよると、儒者が行った様々な「鬼神」の捉え方で、最も間違って

いるのは朱子学のそれであると言います。

 

古代の中国人は大いなる神の存在をちゃんと意識していたというのです。

神とは、人間がその中で社会を作って生活している天地の一切合切を動か

しつかさどる、恐るべき意志を持った存在のはずであったのだと。

 

ところが、とりわけ、朱子をはじめとする宋の時代以降の儒者たちは、

古来、語られてきたそのような神(天神)の行いを、宇宙全体を動か自然

のエネルギーや秩序(陰陽二気・理)のありようとして捉えた。よって、

朱子たちの捉える「天」や「鬼神」は意志や人格を持たないというのです。

 

ではなぜ「鬼神」などという言葉があるのかといえば、「気」や「理」と

いった合理的な言葉を持たなかった時代のなごりであり、分かりやすい

説明の手段として、「鬼神」などという言葉を用いただけであると。

 

このように、朱子学の言説を人格神や霊魂の否定と捉えた篤胤にとっては、

朱子学的合理主義こそが、人間が拙い頭で考えた狭く小さな理屈であり、

愚かな知ったかぶりにすぎないというわけです。

 

では、近年になって、後世の儒学である朱子学を批判し、古代に立ち返って

儒学の祖である孔子のいわんとするところをもう一度捉え直そうとする

伊藤仁斎や荻生徂徠らの古学派については、どのように考えていたので

しょうか?

 

篤胤は、古学派の頂点に立つ荻生徂徠について、心が広く才能が秀でて

いて、普通の漢学者と比較できないほどだと絶賛するのですが、そんな

優れた儒学者であっても、鬼神については、やはり、朱子学の唱える域を

出ることができず、「古学」といいながら、鬼神の実在を信じていた古代人

の正しい感覚や意識をくみ取れていないと批判しているのです。

 

このように、間違った鬼神論が日本の学者に間に浸透しきっていて、その

根はとても深いという状況のなかで、篤胤は、「孔子の霊」は幽界にある。

つまり、孔子は死後の世界は間違いなく存在し、しかも神や霊魂が実有で

あることを分かっていない何世代も後の弟子たちを情けなく思っていると

いうのです。

 

そして、さらに篤胤は、あたかも古学派の儒者の不足を補うかのように、

孔子は確かに天の神や鬼神の実在を信じていたはずであると、『論語』と

『中庸』を引用しながらそれを論証しようとしています。

 

さて、篤胤にとって孔子は大変非凡で優れた人物だと映ったようです。

なぜなら、正しいいにしえの伝説がなく、さかしら(かしこぶること)

ばかりはびこっている中国に生まれたにもかかわらず、自分の存在が

天地の畏(おそ)るべき鬼神に包まれて成立していることを感じ取り、

悟ることができた、大変珍しい人物であると考えたからです。

 

もっとも、それほど優れた孔子であっても、やはり、古伝説(神話)の

ない状態では、神々のことを具体的に知るには限界があった。篤胤は、

神がどのようにこの世の中を取り巻いているのかまでは、孔子は理解する

ことができなったとして、神の実在そのものから、神と人との関係性に

ついての議論へと進めてゆきます。

 

孔子は、この世をつかさどる超越的で人格を備えた存在を「天」と呼んで

いたが、それが後代になると、人が良いことをすれば天から幸福が与え

られ、悪いことをすれば禍(わざわい)が下されるといった「人の行い」

と「天から与えられる禍福吉凶」との対応関係が語られるようになって

いった。しかし、篤胤が実感している「天」とは、孔子や儒教のそれとは

違う、もっと計り知れない複雑さを孕んだものであったのです。「天」は、

いわば、様々な役割を負った神たちがいる尊い場所であるというのです。

 

また、篤胤にとっての神は、天だけでなく、夜見(よみ)の国や幽冥界、

地上のいたるところにもいて、私たちを取り囲んでいる。そして、人に

禍が起きたり、幸福が与えられたりするのは、そのようなたくさんの神

たちの中でも、とりわけ、「善悪の神」である大禍津日神(オオマガツヒ

ノカミ)・大直毘神(オオナオビノカミ)・枉神(マガカミ)の所業による

ところが大きいというのです。

 

通常、人間に起こる禍事(まがごと)というのは、大禍津日神や枉神の仕業

によって人の世に降り注いでくるのであり、幸福は、善神である大直毘神に

よって与えられるとされるのですが、そうとばかりは言えないようなのです。

一応、荒っぽいとか、おだやかといった特徴的な傾向はあるものの、その

性質はもっと多様な側面を備えているというのです。

 

よって、善神の機嫌が悪くて禍が降ってくることもあれば、何らかの理由

で悪神が幸福をもたらすこともあるのであり、人に幸・不幸が起こる理由は、

機嫌がよかったり、荒ぶったりする神々の、その時々の事情によって容易に

計り知れないものだとしています。

 

このように、篤胤は、神々は人間の善悪の行動に直接に反応して幸福や禍

を下すわけではないというのですが、だからといって、神と人とは断絶

していると主張しているわけでは決してなく、また、人間の行いと、神

から下される禍福吉凶には関係がないから、それぞれが好き勝手に生き

ればよいということではないのです。

 

のちにこの問題は、『古史伝』という篤胤の主著の中で深められ、独自の

理論として形成されてゆくようですが、『鬼神新論』を著したこの時点

では、ただ、人間の行為が倫理に適っているかどうかだけで、飢饉や

災害が起きたり、幸せが降ってくるわけではない、ということを論じる

にとどまったということです。

 

ともかく、この頃の篤胤が、まず主張したかったのは、あくまでも宇宙を

つかさどる神々の多様性と不可思議な霊異の力であったのです。

 

さて、神々の意志や行いは計り知れないとすると、人間はどうやって神の

もとで生きればいいのだろうということになりますが、篤胤は、天神地祇

や死者の霊を含む鬼神全般に向かって人間ができる唯一のこと、それは

「祭祀」だというのです。

 

そして、篤胤にとっての祭祀は、基本的に、神が荒ぶったり怒ったり機嫌

を損ねないように慰めるものであったようです。つまり、神々に向けて

美味しいものをたくさん献上し、人々が親しく集い、歌い舞い、色々と

楽しいことのかぎりをなすことであったのです。

 

よって、そこには祭祀としての形式や礼式、それゆえの荘厳さ、難しさは

いっさい語られていないのです。神というものは幼児のような素直な存在

としてイメージされていて、それは、成熟した社会の中での人と人との

関係性や規範性、その中で育まれる理性や教養などから最も遠いところに

あるものと考えられていたようです。

 

とにかく、神とは、善にも悪にも転びうる強い生命力そのもので、善い神

であっても、いったん荒ぶれば、誰にも止められないような強烈なエネル

ギーを発揮するという、社会が成熟発展する以前の原始根源的なイメージが

込められているようです。

 

なお、天神・地祇とともに鬼神に含まれる死者の霊についても、篤胤は

基本的に同じような捉え方をしていて、突然、祟りや幸福という大きな

霊威をあらわす存在であり、不可測な両義性をはらむ一方で、大変素直な

心情を持っているとしています。

 

ところで、本来、「鬼神」という語は、吉田真樹氏の『平田篤胤』による

と、広義の意味としては、「天地の神」を指すが、狭義では、死者の霊魂、

つまり人鬼を意味する語であったということであり、天神(てんじん)・

地祇(ちぎ)と人鬼(じんき)とは区別されていたようです。

 

しかし、篤胤によって、天神・地祇、特に天神・地祇と人鬼とが連続する

ものとして結び合わされ、天神・地祇を含みながらも、死者の霊魂を中心

とする神についての方法概念が形成されることになったとしています。

 

よって、篤胤の『新鬼神論』の核心は、<人は神から御霊(みたま)を

賜って生まれる存在である> それゆえに <人は神を祀るべき存在で

ある> また <人は死ねば肉体を離れ御霊そのもの、すなわち「神」と

なる> それゆえ <死後の霊魂は「神」として人に祀られるべき存在で

ある>というふうに図式化できるのではないかと述べています。

 

かくして、近世の知識人の世界において、『鬼神』、すなわち神という

ものが観念化、抽象化してゆく方向にあったなかで、死後の世界は間違い

なくあるとし、人格(神格)をもった生々しい存在であるところの実有の
神を再び甦らせようとしたところに、篤胤の類いまれな知識人としての
存在
価値があるのではないかと思います。






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「交響する死者・生者・神々」-平田篤胤1-


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平田篤胤1 



『平田篤胤-交響する死者・生者・神々-』の著者吉田麻子氏は、

平田篤胤というと、戦後においては皇国史観の元祖であり、国粋主義の

思想家であるとして、否定的に評されてきたが、平田家に伝わる未公開

資料の整理・研究にたずさわるなかで、残された膨大な書簡や草稿類が、

このような単純な裁断を許さない迫力を有していることを発見したと

述べています。よって、篤胤の戦前の「国家主義」や「国粋主義」と

いった言葉には到底収まりきれない、豊かな感性と思想を知らしめたい

としています。

 

今回は、この吉田麻子氏の『平田篤胤-交響する死者・生者・神々-』と、

吉田真樹氏の『平田篤胤-霊魂のゆくえ-』をベースにしながら、平田

篤胤の思想の根柢にあるものを追ってみたと思います。

 

さて、平田篤胤は、安永五年(1776)、秋田藩士大和田清兵衛の四男

として秋田城下に生を受けたとされます。二十歳で脱藩し江戸に出るの

ですが、篤胤の秋田における幼少期は決して穏やかとは言えないもので

あったようです。

 

自身の覚書には、里子にやられ、貧乏足軽の家で六歳まで養われたこと、

さらに、八歳から十一歳までは金持ちの鍼医のところへ養子に出され、

その家に実子ができると、また、実家に帰されたが、そこには、それまで

とは劣らぬ、大変厳しい状況が待っていたということが記されています。

 

特に、生家に戻ったときには、使用人のように「憎み使われ」、他人に

可愛がられればいっそう憎まれ、顔のあざを「兄弟を殺して家をうばふ

相」として嫌がられるなどの虐待を受けたということですが、吉田正樹氏

は、<これらの言語同断の苦しみは、生涯にわたって続いてゆく篤胤の

苦難の原イメージを形作るものとなり、重要である。なぜなら、「この私

はなぜ生まれてきたのか」という問いが、ここではっきりとした輪郭を

もって現れてきたからである>と述べています。

 

そして、<篤胤の原初の問いは、近代の言葉でいえば、「宗教」的な問い、

すなわち、超越者との関わりにおける自己を問う問いであった。因果

(仏教)や天命(儒学)という既成の超越的存在との関わりにおいて

自己を捉えることを避けつつ、なお、既成の問いの構造を継承し、因果・

天命に代わる超越者(神)を追い求めることになる>としています。

 

さて、篤胤は、このような決して居心地のいいとはいえぬ生育環境の中で、

書物を読むことを覚え、八歳から儒者中山青莪(せいが)について漢学を、

また十一歳にして叔父で大和田柳元のもとで医術を学び、二十歳になる

頃、学問への志を胸に故郷を出奔し江戸に向かいます。

 

学問に大志を抱き故郷を捨てさせたものとして、先に触れたように、暗く

奥深い生命への根源的な問いがあったほか、篤胤の中には、天地への問い

が芽生えていたであろうことは、『荘子』天地を読み、自身の号を「大壑

(だいかく)」(広大な海の意)としていることからも窺い知れます。

 

なお、篤胤の中には、これらとともに、おそらくかなり早い段階から、

「この世ならぬ霊妙なもの」に対する非凡で鋭敏な感性が備わっていた

と言われています。

 

たとえば、篤胤が江戸に向かうときも、霊妙不可思議なる体験をしている

のです。その日に国を出た者は決して帰れないと言い伝えられる1月8日

を選んで江戸に向かったとき、大雪の院内峠で遭難し、茫然と途方に

暮れるなかで、神と出会い、助けられたというのです。

 

このことについて、吉田真樹氏は、次のように述べています。

 

<篤胤のここでの「茫然」は、並大抵のものではなく、二十年の人生に

おける苦難・不遇の経験、そしてすべてを捨てての出奔、その果てに、

人生で初めて、自分の力ではどうしようもない窮地に陥ったのである。

このまま死ねば人生は無意味に終わる。「この私はなぜ生まれてきたのか」

という問いは、吹雪のなかで立ちすくむ間にこそ鋭く、問われ続けていた

に違いない。ところが、次の瞬間に、篤胤はすんなりと神に助けられ守ら

れているのである。祈るよりも前に助けられたとみるべきだろう。篤胤

における神は、助ける神として現われてきたのである。このことは、篤胤

の神観念にきわめて深い影響を及ぼしていると考えられ、重要である。>

 

<しかし、そもそも、日本における神は、その意思の捉え難いものであり、

容易に人を助けるものではない。この場面でいえば、大雪を降らせ、命を

奪おうとする恐るべき山の神こそが、通常の意味での神、つまり、祀りに

おいて接する神であると考えられる。祀りを経てなだめられてこそ力を分け

与えてくれることもあるというのが神による加護の本来のあり方である。>

 

<だが、ここでは、篤胤は無条件に助け守られていると考えるほかない。

無条件に助ける神とは、助け守られる側の存在とすでに何らかの意味で

近しい、あるいは親しい関係であるのでなければならない。この「助け守る

神」とは何者だろうか。少なくとも、助けたのは神以外の何ものでもなく、

「助け守る神」こそが神の本来の姿であるとする、篤胤の神観念の原イメ

ージが、ここに獲得されていることは疑えない。後に定式化される篤胤の

神は常に感謝の対象となる。篤胤の、感謝しつつ「助け守られる私」に

よって「助け守る神」のイメージが構築されてゆくのである。>

 

吉田真樹氏は、こうした神体験を経て、最初の問いの問われ方が大きく

変化してゆく、つまり、「この私がなぜ生まれてきたのか」という問いが、

「私はなぜこのように神に助け守られる私として生まれてきたのか」に

変換され、そこでの問いは、新たな神に向かう問いとして明確化された、

としています。そして、問いの変換に伴って、その答えも予想されるもの、

すなわち、「私の生は神によって根拠づけられている」という方向に導か

れていったとしています。

 

さて、このような篤胤の、霊妙不可思議な天地への問いと、そこに連なる

卑近で漠然とした霊的感覚は、のちに篤胤独自の大きな世界像となって

姿を現すことになるのですが、その基礎を形づくったのが、さまざまな

人々との新しい出会い、とりわけ、次の三人の人たちとの出会いであった

のです。

 

まず第一は、国学の師である本居宣長との出会いです。ただし、「宣長に

出会った」というのは正確な表現ではなく、宣長が死んでのち、生前に

会うことの叶わなかった篤胤は、夢の中で宣長に対面し、入門を許され

たというのです。

 

つまり、篤胤は、今は亡き宣長の霊魂と出会い、弟子として認められた

という夢を見るほどに、宣長の思想と自分の抱える実感との間に強く

共振するものを感じ取ったということです。

 

宣長は、この世界は、人知では計り知れない尊い日本古来の神々に包まれ

ていると主張し、人、鳥獣、木草、海山そのほか霊妙不可思議なものを

すべて「迦微(かみ)」として定義づけています。カミは神話に登場する

ような尊い神々から、怪事を起こす狐や狛(こま)などの卑しい獣まで

千差万別である。そのように大きく下方から「不思議」をすくい上げ、

天地の大きな営みの中に包摂するような宣長の古道説は、それまで篤胤が

漠然と、しかし、強烈に得ていた卑近な場面での霊的な感覚と、天地自然

への根源的な疑問を架橋し、その道を拓きうる唯一の学問として彼の目に

映ったのではないかとされます。

 

ただし、吉田真樹氏は、篤胤の最初の著書である『呵妄書(かもうしょ)』

においても、宣長の思想をそのまま踏襲しているわけではなく、「篤胤節」、

つまり、篤胤の独自性の萌芽が見られるとしています。

 

たとえば、「神」の定義にあたって、篤胤は、宣長の著作において、「道」

という概念が重視されていないと考えていて、「道」については、むしろ

宣長の著作を参照すべきでないと考えていたのではないかとされます。

 

つまり、篤胤の学問にとっては、「道」の存在を大前提としたうえで、

「道」を制作した「神」について宣長の著作を参照し学んでゆくことが

重要であったということです。篤胤の最重要の問いはどこまでも自己

にあり、自己を問うためには、自己と神とを包含する「道」が必要で

ある。だが、宣長は自己を問う姿勢が弱く、他者たる「神」の方に重点

が偏ってしまっている。そこが宣長の不足な点である、と篤胤は捉えて

いたのではないかということです。

 

それはともかく、その後、篤胤は、宣長の「古道学」に学びながら、

日本の神を中心とした独自の世界観を築き上げてゆくこととなるのです。

 

人との出会いに話を戻すと、第二の出会いは、備中松山藩士平田藤兵衛

との出会いで、第三の出会いは、妻・織瀬との出会いであるとされます。

篤胤は藤兵衛の養子となることにより、腰を据えて学問に打ち込むこと

ができるようになったのであり、また、織瀬との結婚により、妻子を持ち、

家庭生活を営むようになったことは、平田国学の思想構築には欠かせない

出来事であったとされます。

 

とりわけ、篤胤が得た実生活での出来事、すなわち、子供が生まれてくる

という尊くも不可思議な「生命」のありよう、また、彼らとともに生きる

日常としての「生」、さらに早くして妻と息子が亡くなってしまうという

切実な「死」の実体験は、篤胤の世界像の中核をなす、「幽冥界」や「産霊

(むすび)」といった観念を大きく支えるものとなったということです。

 

なお、次回からは、いよいよ篤胤の幽冥観、霊魂観に入って行きたいと

思います。







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アポロンとディオニュソス(下)-ギリシャ神話4-


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ディオニュソス2



オニュソスは、ギリシャ神話における豊穣とブドウ酒と酩酊の神です

が、他の神々と比べると大変風変わりな神です。

 

語源的には、「ニューサのゼウス(若い神の意)」であり、伝説や機能に

いくつかの類似があるところから、ヴェーダの神ソーマのギリシャ化

した姿ではないかと言われています。

 

このデオニュソスに対する信仰が発生したところは、トラキア(バル

カン半島南東部)であったとされますが、その後、ギリシャ全土で崇拝

されるようになったようです。原始のデオニュソスの姿は、外国の神、

特に、クレタ島の神ザグレウス、ブルュギア(アナトリア半島(小アジア

))の神サバジオス、さらにリュディア(アナトリア半島(小アジア))

の神バッサレウスなどから借用した諸特徴によって複雑になっていった

ようです。

 

それゆえ、彼に性格が新たにいくつかの要素が加わって豊かになるにつれ、

彼に影響力の及ぶ範囲も広がっていったということです。最初は単なる

ブドウの神であったのが、のちに植物と暖かい水分の神となり、さらに

楽しみの神、文明の神に、そして最後に、オルぺウス(オルフェウス)

教の考えでは、一種の最高神となったのです。

 

さて、デオニュソスの誕生については、通説では次のように言われて

います。

 

<テーバイの王カドモスの娘セメレは、ゼウスに見染められ、その意に

従った。ゼウスは、彼女を訪ねて父の宮殿へやってきたのであった。

ある日、セメレは、自分の乳母に化けたヘラにすすめられ、ゼウスに、

オリュンポスの神のままの姿を見せてほしい、とたのんだ。すると、

彼女は愛する神の目もくらむ輝きに耐えられず、ゼウスの身体から発した

炎で焼き尽くされてしまった。彼女の胎内にいた子供も、もし茂った

ツタの若枝が突然宮殿の列柱にからみつき、その胎児と天の炎との間を

緑の幕で遮らなかったなら、ともに死んでしまっていたことだろう。

ゼウスは子供を拾いあげ、まだ誕生には間があったので、自分の太股に

封じ込めた。月満ちてゼウスは、イリテュイアの助けにより、この子供を

再び取り出した。デオニュソスにディテ ラムボス(二度外に出るの

意)という添え名がつくのは、この二度にわたる誕生のためである。>

 

その後、成長したデオニュソスは、ブドウ栽培の技を身につけて、長い

遠征の旅に出ます。旅はギリシャにとどまらず、今のトルコ、シリア、

エジプトなどを放浪しながら、自らの神性を認めさせるために、信者の

獲得に勤しんだという。そして、自分の神性を認めない人々を狂わせたり、

動物に変えるなどの力を示し、神として畏怖される存在となったという。

彼には踊り狂う信者や、サテュロス(半人半獣の精霊)たちが付き従い、

その宗教的権威と魔術や呪術により、遂にはインドに至るまでその支配

を及ぼしたということです。

 

さて、この旅の過程で多くの伝説が生まれたとされるのですが、デ

ニュソス伝説が豊富であるのは、彼が広く人気があったばかりでなく、

その性格が、いくつかの他の国の神々、とりわけ先に触れたブルギュア

のサバジオス、リュディアのバッサレウス、クレタ島のザクレウスなど

の性格を吸収したからだと言われています。

 

サバジオスは、トラキアで最高神として崇拝されていたが、もとはブル

ギュア起源で太陽神だと言われています。彼に関する伝承は様々あって、

ある場合はクロノスの息子であり、またキュベレの息子であって、しか

もその仲間ということになっていたということです。サバジオスには

角が生えており、その象徴は蛇であった。サバジア祭は、躁宴的性格を

もった夜の祭りであったが、このサバジオスを祀って行われたという。

 

サバジオスが後にデオニュソスと同化したとき、彼らの伝説もまた融合

したようです。デオニュソスがニムフ(精霊)たちに託される前、

サバジオスがその太股に封入していた、という説もあり、また、反対に、

サバジオスはデオニュソスの息子だと主張するものもいたということ

です。そして、こうした混乱の結果、デオニュソスをトラキア起源だと

考えるまでに至ったようです。

 

なお、リュディアにおいても、ブルギュアのサバジオスに類似した神が

祀られていて、その名はバッサレウスであったろうと推定されています。

彼が征服する神であったのは確かなようであり、デオニュソスの遠征

の由来は彼に起こったものではないかと言われています。

 

また、デオニュソスと、起源においては、ギリシャのゼウスに等しい

クレタ島のザグレウスとの同化は、オルぺウス教の影響のもとで、

この神の伝説の中に、新しい要素、デオニュソスの受難の伝説を

持ち込んだようです。

 

オニュソス=ザクレウスの伝承は、次のようなものです。

 

<彼は、ゼウスとデメテル、あるいはコレ(ペルセポネ)との間の息子で

あった。他の神々は、彼を嫉妬し虐殺することにした。ティタンたちは、

彼を八つ裂きにし、遺体を大釜の中に投げ入れた。しかし、アテナは、

この神の心臓だけを救い出すことができた。彼女がすぐそれをゼウスに

届けると、ゼウスは、ティタンたちを雷で打ち、まだ脈打っている心臓

からデオニュソスを創造した。ザグレウスの遺体は、パルナッソス山の

麓に埋められたが、彼は冥界の神となり、ハデスで死者の霊を迎え、

それを清める手伝いをすることになった。>

 

<ティタンたちは、ゼウスの雷によって焼き払われ、その灰が今の人類に

なった。この灰にはティタンの肉とザグレウスの肉が混ざり合っており、

そのため、デオニュソス的要素から発する霊魂が神性を有するにもかか

わらず、ティタン的素質から発した肉体が霊魂を拘束することとなった。

よって、人間の霊魂は再生の輪廻に縛られた人生へと繰り返し引き戻され

るのである。この輪を脱するには、デオニュソス的な神性を高める必要が

ある。>

 

こうした受難と復活に対して、オルペウス教の奥儀を極めた者たちは神秘

的な意味を与え、そして、デオニュソスの性格は根本的な修正を加えられ

たのです。彼は、もはやブドウ酒と乱痴気騒ぎの田舎の神ではなくなった。

彼は、もはやオリエントからやってきた躁宴と錯乱の神でもなかった。

それ以後、デオニュソスは、亡ぼされ、生命を失い、再び甦った神、

すなわち、永遠の生命の象徴になったのです。

 

さて、W・F・オットーは、『神話と宗教』のなかで、デオニュソスの

ような異色の神がギリシャ宗教において存在することについて、<オリュ

ンポスの宗教のもつもっとも驚嘆すべき点で、その精神的偉大さの証とも

なるのは、この宗教が回帰する原始世界の神をもその全き栄光のままに

認めえたことである>と述べています。

 

また、この神は、<ひょっと姿を現し、人を錯乱させる不気味な眼差しを

もった神であり、あらゆる民族の間で不気味な霊の直接的顕現と見なされ

ている仮面が彼の象徴である。彼の眼差しに出会うと、人は息もつまり、

落ち着きを失い、秩序だった現存在のあらゆる枠を踏み外す。彼とその

狂乱の群れが現れるところ、そこは太古の世界が再現する。そこでは、

あらゆる拘束と掟が無視される。なぜなら、この世界は一切の拘束や掟

よりも古いのだから。また、この世界は秩序も性の秩序も認めない。

なぜなら、この世界は死ともつれあった生命として、一切の事物を等しく

包括し、統合しているのだから。デオニュソスが意味するもの、それは

根源的に女性的なまったくの驚異の世界であり、あらゆる生育物の溢れる

ばかりの豊饒さであり、人間の心そのものを驚異に化して無限なるものに

合一せしめるぶどうの不思議な魔力である>としています。

 

ところで、前回、紹介したアポロンは浄化する者であり、秩序の確立者で

した。しかし、デオニュソスのもたらすものは陶酔であり、無秩序です。

 

オットーは、このまったく相容れないように見えるデオニュソスとアポ

ロンの提携によりギリシャの宗教はその頂点に達したと述べています。

 

そして、<アポロンとデオニュソスとが互いに歩み寄ったことは単なる

偶然では決してない。両者の世界はいとも厳しく対立しながらも、根本

においては永遠の絆で結び合わされているがゆえに、両者は互いに引き

つけ合い、求めあう>としています。

 

なぜならば、<オリュンポスの神族そのものが、デオニュソスがわが家

ともしている大地の底知れぬ深淵から生まれてものであって、その暗い

素性を否定することができない。上なる光と精神とは幽暗なるものと

母性的な深淵とを絶えず自己の足下に保っていなくてはならない。

そこにこそ一切に存在の基礎がある。オリュンポスの天界の輝きはすべて

がアポロンに結集して、際限ない生成流転の世界に対峙している。アポ

ロンに地上における円舞の酔いしれた先導者デオニュソスが加わって、

あまねく世界を網羅する>ことができるのだと述べています。

 

かくして、<服従と貧しき心の宗教ではなく、明敏な精神の宗教たるべき

オリュンポスの宗教にしてはじめて、他の諸宗教が切り離し、呪詛を

もって対処したそのところに、弓と竪琴とに見られるような互いに

張り合う統合を認め、讃えることができたのである>としています。

 


 
 
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アポロンとディオニュソス(上)-ギリシャ神話3-


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アポロン像  
 
 
 

アポロンとは、オリンポス12神の一柱で、ゼウスに特に愛された息子と

される男神ですが、その起源、性格、機能は、とても複雑です。

 

アポロンという語の語源は、「追い払う」、そしてまた「破壊する」という

ことを意味する古いギリシャ語と関係がありそうだと言われています。

 

アポロンの起源もまた不確かなようです。ある学者は、アポロンはアジア

にその起源を持ち、ヒッタイト(小アジアの古代民族)の神か、アラブの

神ホバルのギリシャ化したもの、あるいはリュキア(小アジア南岸に国)

の神であったと信じているが、一方で、アポロンがヒュペリボレオス人

(極北に住んだという伝説的種族)と密接な関係があったところから、

ギリシャ人が民族移動の過程で、北方から持ち込んだ北欧の神だと考える

学派もあるようです。

 

しかし、いずれの説もその明白な証拠を示すことができないため、白黒を

つけることができないのが現状のようです。

 

さて、アポロンの機能についても、これまた、きわめて多様で複雑である

ようです。

 

アポロンは、まず、第一に、光りの神、太陽神であった。けれども、太陽

そのものではなく、太陽は、別な神ヘリオスによって象徴されていました。

太陽神としてのアポロンは、大地に果実を実らせたので、デロスやデルポイ

では初穂が奉献されたということです。そして、彼は田畑を荒らすネズミを

退治し、イナゴを追い払うような、作物を保護する神でもあったのです。

 

また、太陽は、投矢のように突き刺す光でもあるゆえ、残忍であり、同時

に病気を予防する力をもつゆえ情け深くもあるので、アポロンは、突然の

死をもたらす神として、遠くから矢を射かける射手の神ヘカデボロスで

あり、しかしまた、病気を追い払う医者の神アレクシカコスとも考えられ

たようです。

 

そしてまた、アポロンは、古い予言の神でもあったのです。彼は小アジア

に早くから神託所をもっていたばかりではなく、ギリシャ全土に神域が

あって、そこへ人々が伺いをたてるために訪れると、アポロンは女神官

シビュレを介して判断を下したということです。

 

このアポロンのすべての神域のうち、最も有名なものは、深い洞窟の中に

あるデルポイの神域です。洞窟の戸口の三脚台の上に座っていた女神官

ピュテアは、神懸かりによって恍惚となり、託宣を伝える錯乱状態に陥り、

片言の句や曖昧な言葉を吐き出し始める。すると、それらの言葉は、デルポ

イの神官や神聖協議会のメンバーたちによって解釈されたということです。

 

なお、フェリックス・ギランは、『ギリシャ神話』の中で、<太陽神にこう

いう予言の役割が与えられていたということは、ギリシャでは占いは冥界

の神だけの仕事であったという事実を考え合わせるなら驚くべきことである。

アポロンがギリシャへ渡ったとき、すでにこの機能(占い)を具えていたと

考えるべきであろう。この点で、彼がアッシリア=バビロニアの太陽神シャ

マシュに類似していることに注目しなければならない。シャマシュもまた、

予言力があったのである>と述べています。

 

そのほか、アポロンは、羊飼の神でもあり、田園の神でもあり、また、音楽

の神、歌と竪琴の神でもあったとされますが、フェリックス・ギランは、

<アポロンはこのような多様な機能を持つため、彼の中には多くの人格が

浮かび、それゆえ、彼の起源の問題は、彼をギリシャ北部由来の田園神で

あるドリア人の主神と融合した、アジア起源の太陽神だ、と考えれば、

すっきりするであろう>と述べています。

 

ところで、W・F・オットーは、『神話と宗教』の中でアポロンについて

次のような見解を述べているので、紹介しておきたいと思います。

 

<最近の学者はアポロンをオリエントからやってきた神と見なしているが、

彼がもともとギリシャ前の文化に属する神であったことは疑いないとして

も、彼の形相にはオリエント的な特徴はまったく見られない。彼に神聖な

七の数をもって、彼のオリエント的な特徴を主張するようなことは論外で

ある。アポロンがホメロスにおいてさえ、不吉な死をもたらす神、つまり、

<アジア的な>神として現われている、という主張もまったくの誤解に

基づくものである。もし我々がオリエントを含めたギリシャ前の文化圏に

おいて彼が何者であったかを問うならば、その答えは太陽神だったという

ほかない。>

 

よって、アポロンの太陽神としての意味は、ホメロスのおいては背後に

退いていただけであり、のちに不吉な神から太陽神へと転じたものでは

ない。彼の本質の根本特徴を取り集めてみるならば、それらすべては古い

太陽神のよく知られた姿にまとめあげられることが直ちにわかるはずで

ある、としています。

 

さて、アポロンの誕生について少し触れておきますと、アポロンの母は、

古い伝承によるとトと言い、コイオスとポイベの娘で、ゼウスがヘラと

結婚する以前、ゼウスの妻であったとされます。彼女がゼウスとの間に

できた双子(アポロンとアルテミス)を身籠ったときに、ヘラの嫉妬に

追われ、逃げまどい、オルテュギア島(デロス島)で大変な苦難の末、

出産したということです。

 

そして、アポロンが生まれてからも、レトの苦しみは終わらなかった。

アポロンが生まれるとすぐに、ヘラは、恋敵を滅ぼしてしまおうとして

大蛇ピュトンを差し向けます。ピュトンとは、大地が生んだ牝の竜で、

ポンの乳母をつとめていたとされます。

 

しかし、アポロンは、ヘバイストスが鍛えてくれた矢でもって、ピュトン

を打ち倒し、この獲物を足蹴にして「さあ、お前は倒れたままに朽ち果て

るがよい」と言ったという。かくして、この恐ろしい戦いの場所は、ギリ

シャ語の「腐る」に由来するピュートーと呼ばれるようになり、のちの

デルポイとなったということです。

 

さて、アポロンは、大蛇ピュトンに打ち勝ったのち、荒涼としたピュートー

の聖なる森の中央に祭壇を建てたという。しかし、この場所は、住む人も

ないため、アポロンは、彼の新しい信仰に必要な神官たちをどこから見つけ

てきたらよかろうかと思案していたところ、航海中のクレタ人たちの船を

見つけ、己をイルカの姿に変え、不可思議な現象を起こして驚かせ、上陸

させて神官の任につかせたということです。

 

これがデルポイの神殿の起源とされ、また、アポロンが航海や海洋遠征、特

に植民地獲得の神の役割を持つことの説明にもなっているということです。

 

以上のことから、アポロンという神は、とても複雑な性格と機能を持つ神

ということが分かりますが、そのほかにも、彼は、射程の長い必殺の矢を

射る天界の射手であったがゆえに、幾多の戦いのなかで多くの手柄をたてた

ことで有名であり、その時の彼は、恐ろしいほど断固たる措置を下す情け

容赦のない神でもあったのです。

 

しかし、アポロンは、オリンポスの神々の間でも特に尊敬される神であった

ことは間違いなく、一方で、彼は音楽の神々のうちでも最も重要な存在で

あったとされるのです。

 

なお、これに対し、先にも紹介したW・F・オットーは、次のように述べて

います。

 

<アポロンについて、「遠矢を射る者」、浄化する者、分別・節度を命令し

秩序を確立する者、蒙をひらき救いをもたらす者、等々、様々に述べられる

のであるが、それらの一切がひとつの本質的根柢に統一されている。その

本質的根柢は、崇高な意味での「清浄さ」と呼ぶことができる。だが、もう

一段掘り下げてみるならば、この本質的根柢は音楽として現われる。言葉と

認識とが生まれ出るもととなる根源的音楽である。というのも、一切の事物

の根源には、旋律と音楽があるからである。>

 

<アポロンもしたがってまた一個の完全な世界である。彼の精神は植物界

から動物界、さらには人間に至るまでおよそ存在するもののすべての領域と

段階とに現れる。植物界では天に向かって燃えさかる炎のような月桂樹が

いちばんよく彼の証となろう。動物界では野生のもののうちで最も覚め

切った動物、オオカミが彼の神聖な獣である。むしろ、彼の化身そのもの

である。人間はほかならぬ彼の似姿である。そして、全宇宙が彼の栄光を

告げていることは、すでにわれわれが見たように、この上なく明敏な精神

の持ち主たちの証言にあるとおりである。>

 

次回は、このアポロンと対極にあり、激しく対立しあっているように見え

るディオニュソスについて触れてみたいと思います。

 






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人類の起源とプロメテウス-ギリシャ神話3-


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ギリシャ神話入門



母なる女神、万物の神ガイアは、宇宙を創造し、最初の神族を生んだ

ばかりでなく、人類をも生んだとされます。ギリシャの抒情詩人ピンダ

ロスも「人間と神とは同族である。われわれは、生命の息吹きを同一の

母に負うている」と述べています。

 

今回は、ギリシャ神話における人類の誕生、そして、神と人類の関係に

ついて記してみたいと思います。さらには、ギリシャ神話における人類の

起源を語るときに欠かすことのできないプロメテウスというティタン

(巨人)族の神についても触れてみたいと思います。

 

さて、ヘシオドスによると、人類には四つの時代があるとされます。最初

が黄金時代で、人類はクロノスと同世代に属し、全くの幸福であった。

彼らは、悩みも疲れも知らず、神のように暮らした。老いに苦しむことも

なかった。彼らは、いつも祭りを催して楽しんでいた。彼らは、不死では

なかったが、少なくとも、心地よい眠りにつくかのように死んだ。この世

の恵みはすべて彼らのものであった。豊穣な大地は求められずとも、その

宝を与えた。この黄金時代の人々は、死後、慈悲深い守り神、生ある者の

保護者、守護神になり、地上からいなくなった。

 

黄金時代の次に、銀の時代がやってきたが、そこには、生涯母親の言葉に

従う弱々しく愚かしい種族がいた(即ち、女家長時代があった)という。

彼らは、成長の速度が非常に遅かったうえ、敬虔ではなく、神々を祀り

敬うことを全くしなかったため滅ぼされてしまった。

 

そして、青銅時代になると、人々は、とねりこの木のようにたくましく、

悪口を言い合い、戦いで手柄をたてては喜んでいた。彼らの情けを知らぬ

心は、鋼(はがね)のように堅かった。彼らの力は御しがたく、腕は無敵

であったが、戦うこと以外、何の興味も持たず、彼らはお互いに喉を切り

合って亡びた。或いは、洪水のよって滅ぼされた。

 

このことから、人類の起源は古く、最初は黄金の種族と呼ばれる高貴な

存在であったことが伺われます。(もっとも、神々は不死で天に住み、

人間は可死で地上に住むという相違はあったようですが。)銀の種族も

青銅の種族も、どちらも現在の人間とはまだ非常に異なっていて、人間

なのか神なのかはっきりしないところがあったということです。

 

さて、このように、まだ曖昧なところがあった神と人間との違いをゼウス

は明確にしようとします。それがゼウスを騙そうとしたプロメテウスの神話

として我々もよく知るところのものですが、それは、通常、次のような

ストーリーとして流布されています。

 

<ゼウスは、人間に対し神と人との明確な区別、神聖な主権を主張した。

そこで、供犠として供えられた犠牲牛のどの部分を神々が取るかを決める

ため会合が行われた。プロメテウスは分配する役目を申し出て、巨大な

牡牛を解体し刻んで並べた。奸智に長けた彼は、肉と内臓と汁気の多い

部分を取り合わせ、皮に包んで一方に置き、他方に、こっそりと肉の

ついていない骨を厚い脂で包んで並べた。ゼウスは先に選ぶようにすすめ

られ、脂で包んだ骨の方を選んだ。>

 

<しかし、彼は白いギラギラする脂を取り除き、骨しかないこと知ると

激怒した。怒りのあまり、彼は地上に住む人間から、火を取り上げ、天上

へ持ち去ってしまった。抜け目のないプロメテウスは、ヘバイストスが

鍛冶場を作ってあったレムノス島という島にでかけ、そこで聖なる火の

燃えさしを盗み、うつろな木の中へ納めて人間のところへ持ち帰った。

ゼウスは、この盗みに大変腹をたて、人間にまた別の災厄を下すと

ともに、プロメテウスに対し残酷な罰を与えた。・・・>

 

 

上記のストーリーの展開を見ると、ゼウスはプロメテウスにまんまと騙

されたように受け取れますが、吉田敦彦氏は、『ギリシャ神話入門』に

おいて、ヘシオドスの『神統記』をよく吟味すると、ゼウスはプロメテ

ウスの奸計を完全に見破っていたにもかかわらず、騙されたふりをして

いたのだということが分かるとしています。

 

つまり、当初から、ゼウスの心中には、神々の至福とははっきり区別され

るためには、どのような災いが人間のモイラ(取り分、運命)にならねば

ならぬかという計画がすっかりでき上がっていたというのです。

 

どういうことかというと、プロメテウスがゼウスを騙して選ばせようと

した牛の骨の部分は、実はゼウスがもともと神々に割り当てようと計画

していた部分であり、胃袋と皮に包まれた肉と内臓は、これもプロメテウス

の思惑と違って、ゼウスが死すべき人間に与えようと当初から意図していた

通りの災いの取り分を表すのにふさわしい部分だったということです。

 

よって、供犠式において、人間は牛の役に立つ良い部分をすっかり自分たち

が取り、神々にただ無用の屑の部分だけを供えているように見えますが、

それは人間が自分で勝手に考案したことではないということになります。

 

実は、神々のために燃やされる骨は、それだけは腐って朽ちることのない

不滅の部分なので、不死の神々の運命を表すのに真にふさわしく、人間が

食べて胃の腑に入れる肉と内臓は、牛が死ねば真っ先に腐敗して悪臭を発し

朽ちてしまう部分なので、汚れた肉体を持って必ず死を迎えねばならない

人間の惨めなモイラ(運命)を表すのにふさわしいということになるのです。

 

かくして、供犠式は、人間が神々と同じ牛を分け合い、それぞれに賞味

して一緒に満足を得ることで、神々と人間を牛を媒介にして結びつける

意味を持った儀礼となったようです。

 

つまり、この儀式を行うことで神々は天上にいる不死で清浄な霊的存在で

あり、人間は地上に住む可死で汚れた肉的存在であるという、神と人との

区別を、それぞれの取り分となる牛の部分の違いにより、その都度はっきり

確認させられるとともに、越えてはならぬはずの隔たりを、儀礼によって

束の間だけは克服して、神々と触れ合いを持ち、交流を果たすことができた

ということです。

 

ところで、先にも紹介したように、プロメテウスの悪巧みに対する報復と

してゼウスは人間から火を取り上げるのですが、プロメテウスは、それを

再び天から盗んできて人間に与えます。そのおかげで人間たちはゼウスに

よって隠されて使えなくされた火をまた手に入れ、それを利用して生きて

ゆけることになったとされています。

 

しかし、これも、吉田敦彦氏は、プロメテウスの奸計によってゼウスが

そもそも初めから人間に定めると予定していたのと異なる良いモイラ

(取り分)を人間に与えることに成功したことを意味するものではない

と述べています。

 

なぜなら、ゼウスが怒って取り上げたのは、不滅の神性を有する「疲れを

知らぬ火」と無尽蔵の「生命の糧」であったが、プロメテウスが盗み出し

たのは、それを使う人間が可死であるとのと同様に、火勢がいつまでも

続かず衰えて消える可死の火だったからです。また、無尽蔵の「生命の糧」

ではなく、辛く苦しい労働によってしか得られない「生命の糧」だった

からです。

 

よって、プロメテウスは、ゼウスの不滅の計画を寸分も狂わせたわけでは

なかったのであり、結局、彼は、人間のモイラ(取り分)となることが

ゼウスによって予定されていた通りの火を、人間のために苦労して地上

までもたらし、そのことによってゼウスの計画の成就に不可欠だった寄与

をさせられてしまったということになります。

 

こうして、ゼウスは彼が統治する世界に秩序(コスモス)をもたらし、

神々と人間にそれぞれのモイラ(運命)の違いを定め、両者の区別を明確

にしたということです。

 

なお、ヘシオドスは、青銅時代の次に英雄時代、つまり、テーバイの門前

やトロイアの障壁の下で戦った勇敢な戦士がいた時代があると言います。

この英雄の種族は、鉄の種族と呼ばれる五番目の種族である現在の人間

たちと血がつながっている直接の種族だとされますが、それにもかかわらず、

英雄の種族は、現在の人間とは別の種族だとはっきりわかるほど優れた人

たちであったようです。

 

かくして、ともかく、英雄の時代には、神々と人間との間に、現在あるの

と同じ区別がつけられていたということです。

 

 

しかし、なぜ、何度も、そこまでして、プロメテウスは人間に味方をしよう

としたのでしょうか?

 

通常、ティタン族とゼウスが率いるオリンポスの新しい神々との戦いの中

でも、ティタン族でありながら、中立を守り、ゼウスの側が優勢になると

ゼウスと交渉を始めた知恵者プロメテウスは、オリンポスに入ることを

認められた。しかし、彼は自分の一族を滅ぼした者たちに心中で恨みを抱き、

人間に味方して神々に損害を与え、仇を討とうとしたのだとされます。

 

が、ことによると、プロメテウスは別な理由で人間に関心を持ったのかも

しれません。ある伝承によると、プロメテウスこそが人類の創造者だと

述べられているそうです。土と水で最初の人間の体を造ったのは彼であり、

そこへアテナが魂と生命を吹き込んだのだというのです。ただし、この

人類創造は、前に存在した人類が大洪水で滅亡してしまったのちに

起こったことのようです。

 

そうなると、そもそもプロメテウスという存在とは何なのでしょうか?

 

人間の味方などではなくて、ただゼウスの不滅の計画を確実に実行する

役割を担う神々の一柱にすぎなかったのでしょうか? それとも、人間

の創造と進歩に関わる神であって、恐ろしい罰とそれに伴うとてつもない

苦しみを受けるのを厭わず、己を犠牲にしてまで人間を導こうとされた

貴き神であったのでしょうか?

 

 




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