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「観無量寿経」は瞑想の書?



浄土三部経




「観無量寿経」というと、浄土信仰の根本経典、いわゆる浄土三部経の一つと

して、浄土系の宗派で、仏事などにおいてよく唱えられている経典です。

 

経典を見ても漢文ですので全く意味は分からないのですが、「誰でもわかる

浄土三部経」(加藤智見 著)では、大体、次のような内容であるということ

が書かれています。

 

まず、釈迦が在世の時代に起こったとされる、いわゆる「王舎城の悲劇」が

取り上げられます。悪友にそそのかされた王子が父王を幽閉、さらには母の

王妃も幽閉してしまいます。絶望した王妃は、骨肉の争い、苦悩のない浄土を

求め、極楽浄土に生まれたいと願って、釈迦に救いを求めます。これに答えて、

釈迦は浄土や阿弥陀仏を観る十六の観想法を教えていきますが、最後の念仏

こそが最も大切であると説きます。これを聞いて王妃は回心し念仏の人と

なります。

 

つまり、釈迦が、浄土へ至るため、その浄土や仏を見るための色々な観想法、

つまり瞑想法を示し、最後に念仏が最も大切であるということを説いている

ということです。

 

ところが、ユングが「観無量寿経」について書いた「浄土の瞑想」を読んだ

とき、その読み方が大きく異なっているので驚きました。

 

ユングは、この経典を、瞑想法の経典として見ていたのです。つまり、

観無量寿経の瞑想法を、心中に起こってくる夢や観念などのイメージを

抑圧することなく、自然に、自由にはたらかせながら、具体化してゆく、

いわゆる「能動的想像」の方法と関係づけるなどして、心理学的解説を

加えているのです。そして、最後に念仏を唱える方法については、補論の

部分として位置づけています。

 

さて、このような見方の相違はどこから来るのでしょうか。

 

調べてみると、観無量寿経には、「定善観」、つまり、瞑想の力によって

浄土を見る方法、阿弥陀仏を念じてそのイメージを見ることを説く部分と、

「散善観」、つまり、瞑想によらないで、念仏により浄土に至る方法が

説かれている部分があるのです。

 

そして、十六の観想法のうち、大部分(十三の観想法)は、瞑想の修行

によるもの、「定善観」であり、段階を追って、その瞑想方法が詳しく

示されており、残り三観が瞑想によらない「散善観」なのです。

 

よって、一見すると、「定善観」、つまり、瞑想のほうにウエイトが

置かれているように思えます。

 

日本においても、平安時代は、当時の仏教が最澄と空海によって確立

された修行の伝統から生まれたものであり、この経典が瞑想法を説く

経典で、また、浄土のイメージを具体的に描写していることから、

「定善観」の部分が重要視されていたようです。

 

しかし、中国(南北朝、隋、唐)における浄土信仰の流れの中に、修行

よりも罪の懺悔に重きをおく考え方があり、それを源信が取り入れ、

法然に至って大きな流れとなったということです。

 

そして、さらに、親鸞により、浄土信仰の基本が観無量寿経から、浄土

三部経の一つ、大無量寿経に移り、中世以降、いわゆる「称名の念仏」

が主流を占めていったようなのです。

 

このような展開は、浄土信仰の担い手が、貴族、知識人から民衆層に移って

いったという時代状況の変化に伴って生まれたように思われますが、ユング

の見方、つまり、東洋におけるすぐれた瞑想の書として見ることは、この

経典の本来の内容から逸脱していないのではないかと思います。

 

よって、それがどうして、観法のほうではなくて、念仏がいちばん大切である

という結論につながって行ったのか理解しにくいところであります。

 

したがって、次回は、そのあたりを追ってみたいと思います。

 



 
 
 
 
 
 
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