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「生と死の接点」2-イニシエーション、老いの神話-



生と死の接点02 

 
 
ライフサイクルという考えにおいて、そのプロセスのどこかのところで、

今までの段階から異なる段階へと生き切るためには、重要な境界線を

突き切ることが重要である、つまり、イニシエーションということが

極めて重要なこととしています。

 

このイニシエーションには、宗教学者エリアーデによると、未開社会以来、

三つの型があったということです。

 

ひとつは、少年から成人に移行させるものであり、成人式、部族加入礼など

があり、特定社会の全成員に義務づけられていて、集団儀礼として行われた

という。

 

次は、特定の秘儀集団、講集団に加入するためのものであり、もうひとつ

は、神秘的召命によって、呪医やシャーマンになるためのものであったと

いうことです。

 

とにかく、イニシエーションによって、ある個人はまったくの「別人」に

なると考えられていたということです。

 

しかし、この、未開社会において重要視されたイニシエーションという、

ある個人がひとつの段階から他の段階へ移行するとき、それを可能にする

ための集団的な儀式は、近代社会になって消失、あるいは、まったく形骸化

してしまったようです。

 

なぜなら、近代社会は、社会の進歩ということを信じ、しかもそれに価値を

おいているので、既存の固定した伝承の世界へ加入するための儀式など

わざわざ行う必要がないからだというのです。

 

ところが、それでことが済めばいいのですが、そうはいかないところが

大きな問題なのだそうです。

 

近代人は、社会的な儀式としてのイニシエーションを捨て去ったが、その

無意識内には、イニシエーションの元型的なパターンが存在し、われわれに

今なお作用を与えているというのです。

 

著者によると、現代人の夢分析を行うと、そのなかにイニシエーションの

元型パターンが生じ、それはその人に大きな意味を持っているという。

つまり、集団的なイニシエーション儀礼を失った代わりに、個々人が自分

なりのイニシエーションを体験し、それをクリアーしてゆかねければなら

ないということになります。

 

また、多くのイニシエーションの儀礼の研究をおこなったエリアーデは、

そこに「死と再生」のプロセスが象徴的に認められるとしていて、夢など

でイニシエーションの元型が作用するとき、実際、死の原型もそこに作用

していると見なされることが多いという。

 

このとき、夢などによってそれを象徴的に体験してゆける人はいいが、

そうでないときは、イニシエーションの必要な時期に、死の危険がつき

まとい、イニシエーションに伴う死の体験を昇華し切れずに、実際的な

死に身を任せてしまうことがあるということです。

 

また、いわゆる非行少年たちが、バイクで暴走をしたり、流血の闘争を

引き起こしたりすることの背景には、イニシエーション元型が存在して

いると考えられるとしています。

 

かくして、人生へのイニシエーションが、何らかに事故や事件によって

引き起こされることがあるが、さらに、それは未開社会においては集団で

行われていたことをまったく個人の責任において行わなければならないため、

そこには強い孤独感が存在することも忘れてはならないと述べています。

 

いずれにしろ、死の元型がそこにはたらいているのであり、死の孤独に

耐える力をもってこそ、イニシエーションは成功するとしています。

 

ところで、河合隼雄は、近年において、老人と言えば「ぼけ」を連想させる

ような傾向があるとし、このような傾向に対し、根本的に老いの意味を問い

直し、老い=ぼけと対極をなすような老人観を示し、老いの意味を考察

しています。

 

まず、ユングがアメリカへ旅行したとき、プエブロ-インデアンの老人

たちが威厳に満ち、悠然として暮らしている、その秘密について述べて

いる興味深い文章を紹介しています。

 

ヨーロッパの孤独のなかに暮らす老人の姿と比べて、あまりにも異なる

その立派さはどこから来るのか。

 

ユングが彼らと親しくなるなかで、「われらの宗教によって、我々は、

われわれは毎日、われらの父(太陽)が天空を横切る手伝いをしている。

それはわれわれのためばかりでなく、全世界のためなんだ。もしも、

われわれが宗教行事を守らなかったら、十年やそこらで、太陽はもう

昇らなくなるだろう。そうすると、もう永久に夜が続くに違いない。」

と、その威厳の秘密を教えてくれたということです。

 

つまり、輝かしい老いの秘密は、彼らに宗教、あるいはその神話の

中にあったということです。

 

著者は、現在では、神話という言葉は「事実とは異なる馬鹿げた思い込み」

というような否定的な意味で用いられることが多いが、神話というものは

決してそのようなものではないのであり、神話の価値を人間が認めなく

なったことと、老人の評価が下落したことは、案外、軌を一にしている

のではないかと述べています。

 

科学の知の強力さは疑いのないことではあるが、それをそのまま自分の

世界観としてしまうところに問題があるのではないか。科学の知は、自分

以外のものを対象化してみることによって成立しているので、それに

よって他を見るとき、自分と他のつながりは失われがちとなる。自分を

世界のなかに位置づけ、世界と自分とのかかわりのなかで、ものを見る

ためには、我々は神話の知を必要としているのだとしています。

 

ただし、にわかにプエブロ-インデアンのように自分の生が太陽の

運行を支えていると信じることはできません。では、どうすべきか。

 

著者は、老いの神話学のなかで、重要なイメージの一つは、老賢者の

イメージであるとしています。そして、代表的なものとして「老子」の

老賢者像をあげています。

 

つまりは、中間に何も媒介者も必要としない、「個」が直接的に、「普遍」

と結びつく、このようなイメージは、老賢者の知を示すのにぴったりで

あり、科学の知とも共存する、あるいは、科学の知を補償するものとして

必要なもの、というべきではなかろうかと述べています。

 

さらに、著者は、ライフサイクルの考え方として、あるいは、老いの神話学の

延長線にあるものとして、死の向こう側、死後の生命についても触れています。

 

死を絶対的な終りとしてではなく、それに続く異なる生への入口として受け

止める方が、はるかに老いや死を受容しやすく感じられるとしています。

そして、「瀕死体験」について研究を行った精神科医レイモンド・ムーデ

不治の病で死んでゆく人たちを看とる仕事のなかで、死後生の存在を確信

するようになり、「私は、死後生を信じているのではなく、科学者として

わかっているのです」と主張したというホスピス運動の先駆者キュブラー

・ロスなどを紹介し、キワモノとしてではなく、誠実で性格な研究を積み

重ねてゆくことによって、われわれは多くのことを得られるであろうと

述べています。

 

著者自身は、死後生そのものの存在につては判断を留保しているようです

が、死後生について、自分なりの神話の知を持つことは、自分が老いや死を

どう受け入れるか、ということにおいて、有用であることを認めなければ

ならないと主張しています。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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